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2008年2月

教師のイメージング その2

 「自分が抱いているセルフイメージ以上の自分にはなれない」という、カウンセラー・ジョイ石井の言いたいことは、「なりたい自分の具体的な姿がわからなければその姿にはなれない」という当然のことです。
 教師のコンピテンシーモデルでは、「あるべき教師の姿」を分析的に描こうとしていますが、そういう姿を提示されても、教師はその姿に「なろうと思えるか」。
 「こんなたいへんなことはしたくない」「それは私にはできない」「方法を教えてくれ」「時間の制約があるから無理だろう」と反応してしまう。自分の仕事は「ここまでの範囲」と決めてしまう。
 これはまさに逆コンピテンシーの典型です。
 ただし、「子どもや親の要求をいちいち聞いていたらきりがない」という現状から、このような防衛本能は自然のなりゆきで生まれてしまいます。そこに「戦略」が必要になる。人は、すぐそれを聞きたがる。でも人から教えてもらったアドバイス、戦略が、自分にぴったりあっているかどうかはわからない。
 ジョイ石井は他の成功哲学書との違いを明確に述べてくれています。
 ジョイ石井は、夢への入り口は、とにかく「なりたい姿をしっかりイメージすることであって、「どうやって?とは考えない」の章で、「~だからできないだろう」という発想にならないようなアドバイスをしています。
 ・・・カウンセラーのところに行けるのはある程度お金に余裕があって、傍目には成功しているように見える人が多いでしょうから、この本の趣旨で多くの人が夢を実現できるようになるかどうかはわかりませんが・・・。
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教師のイメージング その1

 「読むだけで夢がかなう!」というコピーは目をひかれるものの、「そんな簡単にいくか!」と冷静に考えればわかるもの。だからそういう冠がついている本はあてにできないと思っていましたが、ジョイ石井著「読むだけで夢がかなう!イメージング・ブック」(王様文庫)は、子どもに読ませてあげてもよい本かなと思いました。
 冒頭の方に、「私たちは、自分が抱いているセルフイメージ以上の自分にはなれない」という核心的な言葉が登場しています。
 教師にとって、自分に抱くセルフイメージとはどんなものでしょうか。
 生徒にこわがられている?生徒になめられている?
 生徒に信頼されている?生徒に信頼されていない?
 生徒に嫌われている?生徒に好かれている?
 苦しんでいる教師は多く、だから精神疾患による休職が後をたたない。
 日本でも「カウンセリング」がはやってきています。カウンセラーは「聞く専門家」で、問題の解決に責任をもつ人ではありません。ある人は「どうして友達に相談せずに、お金をはらってまで愚痴を聞いてもらう必要があるのか?」と揶揄していました。
 スクールカウンセラーは、子どもより教師のため、また、子どもより親のためというニーズが高いのでは?
 ただ、教師は実力はなくてもプライドだけは高い人が多いので、やはり最後は自己対話が成立する人間になれるかどうかにかかっています。
 どういう自分、どういう教師になりたいのか。
 「生徒に信頼される教師になりたい」と若い人は言うかもしれませんが、子どもは「信頼できる教師」に何を期待しているのでしょうか。カウンセラーとしての役割でしょうか。学力を身に付けさせてくれることでしょうか。校則違反を見逃してくれることでしょうか。
 「生徒に嫌われたくない」という心理はわかりますが、そのために大切な指導を行わないできた教師がどれだけいることか。
 何度も紹介していますが、荒れた学校で、「にこにこしていれば生徒は反抗しないよ」と若い人にアドバイスしていた教師がいました。エスケイプしようが、煙草を吸おうが、人のものを盗もうが、「決して怒らない。」「笑顔をたやさず指導する。」「逃げるが勝ち。」結局自分のことしか考えていない。
 教師にとってイメージングが役に立つものかどうか、考えていきたいと思います。
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子どもたちの悲鳴?

 ある教育関係の雑誌の、新学習指導要領批判の記事を読みました。
 いくつかの記事を読みましたが、この雑誌の執筆者は文科省・学習指導要領批判という右へならえ(左へならえ?)が徹底しているらしく、わざとらしい曲解が多いことが特徴でした。
 これだけ批判を書けるのに、それに変わるものが提案できないのはなぜか。それは、批判する方が楽だからであり、自分が責任を負わないですむからです。
 ある部分を引用すると、「小学校では低学年で週二時間増、高学年で週一時間増になる。このことを話すと、子どもたちは悲鳴を上げる。こんな時間増で学力が上がらないことは子どもたちが一番分かっている。こんな学習指導要領に振り回されてはいけない。・・・」
 この教師は、子どもたちの悲鳴の意味がわかっていないのではないか。
 小学校のある教科で有名な先生は、「子どもはもともと勉強が大嫌いなものだ」とおっしゃっていました。それでもおれの授業にはよくくいつくんだから、おれの授業はすばらしい。という意味だったようです。
 「これから、新学習指導要領の実施までに現場の英知で、それぞれの子どもたちの最善の利益のためにつくりかえなければならない。」
 なお、読んでいてわかったのですが、この人は、「教育課程」と「総合的な学習の時間の指導計画」の違いがよくわかっていなかったようです。
 そもそも一部の関係者しか読まない教育雑誌だから許されるのかもしれませんが・・・。
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「子どもは公立に預けるな!」最終回

 和田秀樹のこの本は、最後は「お受験の心得」講座になっています。
 その中で、「学校の特色をしっかり理解しよう、学校説明会で聞くべきことは聞いておこう」とアドバイスしています。当たり前のことなんですが、ネームバリューだけで選んで進学してくる子どもとその親に、勘違いによるトラブルが多いのは進学校にとってつきものです。
 私は私立のことはあまり詳しくないのですが、著書の中でも「塾に通うことを禁止している学校」が紹介されています。これは、学校の自信の現れであるとともに、相当たくさんの宿題が出ることを覚悟しなければなりません。
 今後、公立学校でも問題になるかもしれませんが、宿題が短期間に集中すると、本当に子どもは寝る時間がなくなります。教科間で宿題量の調整(夏休みなどはあるかもしれませんが)を日常的にやっている学校は少ないでしょう。
 授業はいい加減でも、いい問題集を買わせている教科の場合には、宿題だけでも学力は十分につくことが考えられます。私立でも国立でも、子どもが優秀なところは、教師はだれであっても勉強しますから、特別に優秀は人材は必要ありません。問題さえ起こさなければ、若いのでもどんどん雇える。
 「同一労働同一賃金」の原則が守れるのが私立の特徴です。公立は「同一労働差別賃金制」である上に、ちょっとでも給与をいじられると大騒ぎする。効率が悪い上に志の低い若い教師のモチベーションが低い。「私はそこまでの仕事に見合った給料はもらってません」となってしまう。そこまで言い切れる若い教師はさすがにいないでしょうが、「あなた、給料分はたらいてよ!」と言いたくて我慢している教師はものすごくたくさんいるはずです。
 とんでもない脱線をしました。
 学校説明会は、けっこう多くの教師の姿を見ることができるチャンスですが、私の親はある学校の説明会で教師の姿を見て、「ここには子どもを入れさせたくないな」と思って受験をさせなかった、ということがありました。
 学校選択制がない公立中には、「どうせ入ることになってるんだから、入った後に説明すりゃいいじゃないか、異動もたくさんあるし、自分に関係ない子どもに何で説明してやる必要があるんだ」という会話が成立してしまいます。地元の中学校はいかがですか。
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小学校での定期考査

 小学校でスパンの長いテストをしない最大の理由は、おそらく「クラスの成績にばらつきがでることがまずい」ということではないでしょうか。
 学年に3クラスあったとして、1組は中堅で研究主任を務め、毎年研究授業を実施している教師。2組は新規採用2年目で、1年目は学級崩壊で他の学年からとばされてきた教師。3組は、指導力不足判定すれすれの定年間近の教師。結果を出してしまうと、非常に厳しいことになりそうです。
 短いスパンのテストでも差が開くようでは、子どもが気の毒で目も当てられませんが、長いスパンというのは学習内容がどれだけ定着していたか、子どもが根っこのところからしっかり理解できていたかが問われます。
 もしテストの平均点を公表しようものなら、それこそたいへんな騒ぎになるでしょう。
 小学校では、教師ごとの指導力格差が明るみに出たら大問題なのです。
 みんなすごく優秀か、みんな頼りないとかなら問題ない?のですが、偏ると親としては「当たりはずれ」「運のよい悪い」の問題になってくる。しかし、それで済ませられた時代はもう終わってしまった。
 学校はその防衛策として、成績が取れそうな子どもを2組や3組に集めておくという方法をとることが考えられます。
 逆にそのことへの防衛策としては、プレテストを実施し、あとでどのくらいその集団の能力が高まったのかを検証できるようにする手段が効果を発揮します。
 和田秀樹の著書は、中学受験を薦める本ですから、こんな小学校の問題を言っても仕方がないのでしょうが、公立は教科担任制で、以上の問題が表面化しにくい仕組みになっているということです。しかも、塾に通っている子どもが多いところは、教科担任のおかげで習得できたのか、塾で習っていたおかげかがわからない。もし教科指導の能力をきちんと測定しようとしたら、子どもへのアンケート調査が欠かせないわけですが、・・・ちょっと横道にそれてしまいました。
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テスト問題をつくれなくなったときが教師をやめるときか・・・

 定期考査の問題づくりには平均で何時間くらいかけられているのでしょうか。
 私の学校の場合は、過去問題が塾で売られているような現状があり、毎年違った骨のある問題を作り続けなければなりません。内容が限られている分、新しい素材づくりはけっこうきついものです。
 さらにたいへんなのは、採点です。
 角度を変えて出題するため、さまざまな正解も出てきます。
 授業の何倍も密度の濃い発表が解答用紙に刻み込まれています。
 その対話にも相当の時間を費やし、途中で基準が変わるケースもありますから、また全員のを読み返し、点数を変える・・・。
 しかしこれは楽しみでもあるわけです。
 特に学年末の考査は、自分の指導の集大成とも位置づけられるため、論述の問題が多く、思考力・判断力・表現力がどのくらい伸びたかを調べる機会になっています。
 私が教師をやめるとしたら、採点がたいへんというよりも、問題づくりができなくなったときでしょうか。
 ところで、公立高校の入試ですが、たとえば社会科の場合、一部の県では記述が多いですが、ほとんどの県は選択式ですよね。これは学習指導要領の趣旨と合いませんから、いずれ見直されると思いますが、やはり「採点がたいへん」「正解のパターンが増える」という理由から、表現力を問う出題は難しいでしょう。
 しかしこの程度の問題が公立中学校の定期考査で実施されているとすれば、習得したことの数少ない活用の場としては、不十分だと言わざるを得ません。
 いろいろな意味で、学力問題というのは、入試の課題に直結しているわけですね。
 中学受験の裾野が広がり続けると、小学校でも今のままではいけなくなると思われます。
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小学校の評定について

 中学校では、定期考査の結果を子どもに示すときに、自分が全体でどのような位置にいるかを「偏差値」や「順位」で示している学校が多いのではないでしょうか。
 それが好ましくないという学校でも、「平均点」くらいは公表しているでしょう。
 集団全体としてどの程度の達成度だったのかがわかることや、学習が苦手な子どもにとっては、まずはみんなと同じくらいの点(平均点)をとりたい、という努力目標になると考えていることが、「平均点」を出す意義でしょう。
 問題と平均点を分析すれば、その教師の指導力、生徒の学力をある程度、管理職が把握することもできます。
 小学校ではどうでしょうか。
 小学校では、差がつくようなテストはあまり行われないため、もともと大きな点数の差がつきません。
 短いスパンで業者のプリントをやっていると、まるでみんなマスターしてしまったかのように錯覚してしまう。
 しかし、時間がたったら忘れている。
 私が小学校でも定期考査を設けるべきだと主張しているのは、そのためです。
 定期考査をやらないなら、せめて全国学力調査はしっかり取り組ませてほしい。
 特定の課題に関する調査のように、抽出ではいけません。全員が受けることが学力の保障になります。
 しかし、そういう調査を実施すると、こんなことが明らかになります。
 抽出の調査ですが、 3+2×4= という問題を小学生はどのくらい解けると思われますか。
 国立教育政策研究所の調査では、小4で74%小5は66%小6は58%の正解率でした。
 どんどん計算の仕方を忘れている。
 これは日本での2006年の調査結果です。
 もし小学校が、短いスパンだけの、覚え立てのほやほやのときだけのテストをもとに評価を出しているのであれば、即刻見直すべきです。
 学習内容を習得したかどうかを活用できるのがテストだけだという批判があって、指導の見直しが図られていますが、そのテストすらないとなると問題でしょう。
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「子どもは公立に預けるな!」その5

 小泉首相のストレートな自由主義を受け入れる人は、「競争社会」という言葉をプラスのイメージで、小泉改革を批判し「負け組」ができるのを不当だと訴える人は、それに対して負のイメージを持っている。
 競争社会を負のイメージでとらえるのか、それとも前向きなイメージでとらえるかによって、公立学校のあり方の議論も全然違ったものになります。 
 和田秀樹の主張は、子どもたちは将来、みんな競争社会に旅立とうとしているのに、それに対する耐性が学校で育っていない。公立学校はその意味で子どもを学ばせるのに最も向かない環境である、という主張です。
 そもそも公立学校には、学校の自由選択制などが始まるまで、「競争」というものがなかった。
 自分の教え子がどんなに成績が悪くても、基本的生活習慣に問題があっても、「自己責任」だと言って、教師は何の責任もとらされることもなかった。
 学校自体も子どもや保護者に選択肢を与えなかった。
 地域の学校が荒れていてこんな学校には通えない、と保護者が判断し、受験させられた子どもは30年以上前からたくさんいたでしょう(今は保護者に感謝していることと思いますが、そういう人が今、保護者になって、自分の子どもに同じことをしてあげているのでしょう)。
 それが学校を「選ぶ自由」が認められるようになると、大あわてで取り乱す。
  「競争はいけない」と叫ぶ。
 自己申告を課せられると、「結果が出ないのは私のせいではない。学校は組織で仕事をしているんだから、組織が悪い。管理職が悪い」と反発する。
 そういう声を上げて、ますます公立学校への不信感を強めてしまった。
 ・・・競争とは、公立学校の教師にとって、「のぞましくない」問題というより、「ふれてほしくない」問題なのです。
 公立学校では全国大会を頂点とした部活動での競い合いがあるのはもちろんですが、和田の話は「いい勉強」「いい大学」「いい会社」をあくまで理想としているので、もともとカリキュラムとは関係がない部活動は関心外のことのようです。
 小学校での評価の問題点についても、通知表の「よくできる」「できる」「もうすこし」などという3段階評価に苦言を呈しています。小学校では、できるだけ「あなたはできない」というメッセージを子どもに伝えたくない。それを隠すために、一番下の評価に「もうすこし」という表現を使う。しかしこれでは、本当に「もう少しでできるようになる」のか、実は本当にできないのか、ということがわからない。
 小学校の評価の問題を読むと、私は一連の食品関係の偽装表示が頭に浮かびます。
 小学校の評定はまったくあてにならないので、公立の中高一貫校以外は受験のときにこの数字を使うことはまずないのではないでしょうか。
 公立中学校の場合は、高校入試のときに、成績一覧表というものを提出することになっていて、照合作業がある。小学校にはそれがない。受験ではそういう問題もあります。担任が勝手に上げ下げしても、それが本物であるかをいちいち確認することができません。だから最初から信じていない。
 通知表というものですが、これは学校が出さなければならないという法的根拠はなく、慣習として続いているものですので、「うちの学校には通知表がない」というのもあり得るわけです。
 しかし、通知表を出す学校でも出さない学校でも、問題なのは、今、学習していることが理解できているのか、できていないのか。できていないなら、どうすればよいのか、ということが家庭に知らされることがほとんどないということです。年に4回とか5回ではスパンが長すぎる。
 ところで、最近の子どもは、通知表を互いに見せ合う子どもたちが多いのはご存じでしょうか。これは、目標準拠評価になってから、評定の妥当性に疑問をもつ子どもが増え、複数の生徒同士でそれを確かめ合うというねらいも隠れているわけです。ですから中学校では、定期考査の得点と評定が逆転している場合、保護者を使って子どもが苦情を訴える場合があります。
 目標準拠評価になってから、「客観的で信頼できる評価」が求められているのですが、「嫌われたら評定が危なくなる」という疑念を子どもが少しでも持つようになったらよくないですね。しかしこれは子どもが保護者に成績が悪い言い訳として役に立つ場合もあるようです。
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優越願望のジレンマの克服

 ヘーゲルの言葉かどうか忘れてしまいましたが、人間は、優越感を持ちたがる動物です。
 このことが成長の原動力であるとともに、競い、争い、ときには戦う動機にもなる。
 他人より優れていたいのに、自分より優れた他人はたくさんいる。
 ここからは私の勝手な解釈ですが、そのジレンマから救われる道は、相手も、自分も、「共に生きている」「共に学んでいる」と思うことです。
 そうすると、人の成長が自分の喜びになり、自分も成長しやすくなる。教師は、そのことを感じさせつつ、でもやっぱり重要なのは、成長させてあげること、本当に自分なりの優越感が持てるようにさせてあげることです。
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英語活動→問題行動の増加?

 “しょう”さん、“まずろ”さん、共感&応援コメントありがとうございます。

<「子どもたちが成長できる」環境を創っていくためにも、教師を育てることや学校づくりは重要ですよね。
 小学校の先生は、字が丁寧で上手なのが最大の魅力です。
 ???の発音の英語は聞きたくありません。
<私自身は小学校で英語をさせるのもひとつの考え方ではあれど、もっと母国語を楽しませることが出来たらと思います。

 ピーターフランクルさんの話は以前も引用したことがありますが、ハンガリーにノーベル賞受賞者が多いのは、「ハンガリー語が難しい言語である」からだそうです。天声人語か何かで使われていましたね。
 日本語も、そうとう難しい。だから、日本語を母国語とすること、日常的に「脳トレ」していることに感謝したいと思います。
 小学校英語は、学校で取り組む必然性に乏しい。塾や習い事でやった方が、はるかに高い効果が得られる。
 何でも直接投資して得たものは身に付けやすく、いつでもやめることができる。教室や先生が選べる。
 望んでなくても与えられて、しかもそこから逃げ出すことはできない。
 小学校の問題行動はこれからもっと増えるんじゃないか。・・・・そんなことまで言っている人がいました。
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【危険!】小学校の悲惨な英語指導

 知人が最近、小学校の悲惨な英語指導の実態を見てきて報告してくれました。
 小学校教師は教科の専門性がないですが、どうせ「コミュニケーション活動」くらいなのだから問題ないだろう、というのは大きな間違いです。
 小学校の教員養成系の大学に優秀な英語の教師がいるとは思えませんし、英語活動に慣れ親しんでいる小学校教師はまず想定できません。指導能力に全く保障がなく、検証もされないシステムは即刻中止すべき。
 「相手は子どもだから」という安易な発想が指導者にあるのが許せません。
 授業は、教師と、習い事で英語をやっている子どもとだけで進行したそうです。
 他の子は傍観者。
 知人の子は、すっかり英語嫌いになってしまったそうです。
 中学校の先生はこの子を救えるでしょうか?
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「子どもは公立に預けるな!」その4

 和田秀樹著「子どもは公立に預けるな!」(ソフトバンク新書)の内容について、「学歴社会」「学習環境」「公立中高一貫校」の面から考えてきましたが、今日は「内申書」についてです。
 著者は「内申書が子どもの心を歪めている」ことを指摘し、その背景に「関心・意欲・態度」の評価の問題を上げています。これはもう十数年前の議論ですから、さすがに今は「手を挙げる」「気に入っている」だけで評価を高くする教師はいないはずです(心配な保護者の方は、授業参観や保護者会などで「評価基準」を見せてもらうか、直接質問していただくといいと思います)。
 この観点は授業への姿勢ではなく、その教材になっている事象についてのことですから、課題解決などの姿勢によって評価するものです。モーションだけで上げられるものではありません。
 ただ、データとして提示されている、この評価が始まってからの校内暴力の増加との因果関係は「全くない」とは言えないかもしれません。
 「指導より支援」などいう言葉がはやって、習得をおろそかにしてしまったため、「もっとしっかり教えてほしい」「もっと厳しくしかってほしい」「もっと指導してほしい」という子どもの声がとどかなくなったことが原因かもしれないからです。今の子どもたちは、昔よりもずっと教師の指導力を見極めるゆとりがありますから、「小言」ではなく「指導」になっていれば応えてくれるはずです。
 公立学校の問題点があるとすれば、評価資料の収集におわれて指導がおろそかになっている教師がいることと、「目標」が達成できないでいるたくさんの子どもたちが、さまざまなデータに基づいて「あなたはできません」ということを証明され、自信をなくしてしまっていることです。
 よく、教師の評価も「自信をなくさせるからよくない」といって、研究協議会などでは甘くなりがちですが、公務員と子どもは違います。公務員の評価はもっと厳しく、子どもの評価はもっとおおらかに。習得を通して「できたような気」ではなく「できる」自信がもてるレベルに引き上げてあげることです。
 教師は「教えたつもり」になっていて、成果が上がっていない子どもの「できない証拠」をせっせと集めている。
 優先順位をしっかりしてほしいものです。
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教育の第一義的責任と「保護者教育」

 改正教育基本法では、「家庭教育」に関する条文があることをご存じでしょうか。
 第10条に、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」
 第2項には、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」とあります。
 保護者が子どもの心身を傷つけ、命まで奪うことがある昨今、「保護者教育」というジャンルが誕生しようとしているのは、このような法的根拠があります。昔から育児雑誌や進学情報誌はありますが、国や地方公共団体ができる施策とは何でしょうか。
 このことは、先日もふれた第2条(教育の目標)の三、「・・・公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」と、第13条(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)「学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする」ことをあわせて考えると、保護者がすべきことはもっとたくさんあること、それはときには学校を動かすほどのものである必要があることがわかります。
 よく親は学校に「子どもを人質にとられている」という言い方をすることがありますが、地域の学校として「教師を人質にとる」方法もあります。
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強制的に時間を奪い、何を与えているか

 たびたびの応援メッセージをいただいてありがとうございます。
<kurazohさんと同じような考え方をしている教員が多いのが本当であれば、それは非常に心強く感じます。
<また、記事にもあるように自己保身ばかりが前面に出された教員を見ると、それ以上に悲しくもあり情けなくもあります。
<指導者は大きな役割を与えられていますし、それは「負担」ではなく「やりがい」として受け止めるべきだと思っています。
<自分の頑張りが子ども達の成長につながる実感を持てておれば、結果として彼らからエネルギーをもらうことになり、いったいどっちがエネルギーを与えているのかと感じることもしばしばです。
 教師は、後輩ができると(学年主任、分掌の主任、管理職、指導主事の立場だと年上の先生も含まれますが)、子どもだけでなく教師も育てる必要があります。私の場合は本当にたくさんの先生に育てられたので、その「やりがい」のために言うべきことを言い、成果(手柄)を教師につかんでもらう努力をしてきました(しています)。
 人から感謝されることの少ない教師ですが、50分という時間を強制的に子どもから借り、時間のかわりの「大切なもの」を与え続けることができる教育の仕事はけっして手放したくないものです。
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管理を嫌う教師たちができない管理

 教育の世界では、「自由」「実践の自主性」「自主的な創造の道」をはばむものとして学習指導要領などを批判している人がいます。評論家も大学の先生も学校現場をやめて言論活動をしている人は、ニーズはそういう教員くらいしかないのですが同じような主張をします。
 せっかく時数を減らして「自由」「実践の自主性」「自主的な創造の道」を開いたのに、総合的な学習を充実させられず、「学力低下」批判に何の抵抗も子どもや保護者へのアピールもできなかった現場は、その責任をまた行政に向けるのです。
 こういう人たちに共通するのは、「管理」を「悪」と決めつける態度で、その語句を使う場合には必ず負のニュアンスの語句とセットにします。
 「国家の統制や管理」
 「行動を縛る管理システム」など。
 しかし、管理が行き届いていないために、世の中にどれほどの問題、不祥事が噴出していることか。
 個人情報の紛失や守秘義務など、教員には個人としての「管理能力」がないことも大問題ですが、教育管理職は教員が処分され職を失うのを防ぐためにその本来の職務をどれだけ全うできているか。
 自分に都合が悪い、気に入らないことがおこるときだけ、行政に管理や統制を要求する教師たち。
 行政の期待に応えられず、子どもや保護者の期待に応えられない現場は、もちろん過度な期待、困難な状況の中で仕事をしているわけですが、それへの対応としては、逆ギレして行政や子ども、保護者を攻撃するのではなく、現場で結果を出していくしかないことは言うまでもありません。
 もちろん不満を表現するなとは言いませんし、「世論」を形成できないような弱い政党はなくていいとは言いません。しかし、言えば言うほど信頼をなくしていくことに気付く必要はあります。
 本多勝一と佐高信の違いは、毒舌でやっつける相手に隠された愛情・期待をもっているかどうかです。
 同じ批判なら、佐高のようなスタンスで語ってもらえると、理想の改革が見えてくるかもしれません。
 以前にもふれましたが、完全に制御不能に陥るまで「この学校(学年)は大丈夫です」と保護者に訴えていたのが、授業が成立しなくなってはじめて保護者会を開き、「家庭でも何とか言ってくれ」というのは間違いです。子どもは早い時期から不満を漏らし、親は「いつかは何とかしてくれるだろう」という期待で見守ってくれていたはずなのです。取り返しのつかない状況になるまで情報開示をしない体質のある学校は、一連の偽装企業を笑うことはできません。
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改正学校教育法をご存じですか?

 改正された教育基本法については、教育の目標が5つ示され、その中に「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」が含まれていることなどをご存じの方も多いと思いますが、学校教育法についてはいかがでしょう。
 改正学校教育法では、第21条に義務教育の目標が9つ、そしてそれらの目標を達成するために「特に意を用いなければならない」こととして、第30条の2に次のような内容が示されています。
 生涯にわたり学習する基盤が培われるよう、基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、主体的に学習に取り組む態度を養うこと
 ・・・このように示されて初めて気付く人もいるかもしれません。
 「主体的に学習に取り組む態度」とは、まず「基礎的な知識及び技能が習得され」なければならないこと、そしてこれらを活用して課題を解決する能力をはぐくむことで養われるものだということです。
 学習指導要領の改訂でも、ここが強調されています。
 今までは、何も教えず、習得させず、「活用してみろ」と言って、子どもがやったことは、本やインターネットに示されたものを写して読むことでした。「主体的な学習」とは自分で課題を見つけ、解決するようなもので、学校で言われなくてもやることです。それが「生涯にわたって学習する基盤」になるのです。
 ゆとりの中で育成しようとしたのは、こういう「生きる力」のことでした。
 しかし、ゆとりの方に比重がかかり、分量を減らしたのにできない、教えないからできない、習得させないからできない、という状況が生まれ、非難の対象になっていました。
 次の学習指導要領の完全実施は少し先ですが、移行期間に前倒しで実施できることも多く、来年度からの教育も大きく変わるでしょう。
 各学校は来年度の教育課程届けを教育委員会に受理してもらうため、審議する時期ですから、今、教務や管理職は時数の調整におわれていることでしょう。
 教育委員会から指示が出ていると思いますが、改正教育基本法、学校教育法をどれだけふまえた目標づくりができているか、授業時数はどうなるかがポイントになりそうです。
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「子どもは公立に預けるな!」その3

 公立をひとくくりにすると、どんどん新設されている中高一貫校はどうか。
 以前にふれたとおり、公立の中高一貫校は「ゆとり教育」の充実とセットで設置が構想されたものですから、和田秀樹の主張にしたがうと「薦められない」学校に含まれることになります。
 TVで放映されたインタビューでも、「進学のため」というよりは、「高校のときに受験がなくてすむから選んだ」という子どもの素直な動機が報道されていました。
 こういう学校の場合、塾に通い、高校段階で進学実績のより私立高校に受験したくなる生徒が出てくるかもしれません。それについてはここでは触れませんが、学校側にとっては定員管理の難しい問題です。
 著書で和田秀樹は、「進学実績のデータがないから態度は保留」としています。
 国立はどうか。
 国立の中には地方だと附属高校がなかったり、都内だと小学校から上がってくる生徒が多くて定員が少ないために難関だったり、小学校からは学力が高くない生徒が多く進学するので大学進学実績はたいしてよくないなどの理由があって、和田の理念から言うと薦められなくなるようです。
 なぜ「学歴」が必要になるかについて和田は、前回紹介したように、「これから学歴社会になること」「より厳しい競争社会になること」が根拠のようです。
 和田は教員批判をしていませんが、「競争原理の排除」を訴える教師がいる公立学校には絶望しています。
 子どもにどこまで「競争力」を求めるか。議論が必要なところです。
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「子どもは公立に預けるな!」その2

 和田秀樹が私立の中高一貫校を薦める理由の一つに、「周囲による動機づけ」がはたらくというものがあります。
 一部の人はこれを競争をあおるものとして受け止められるかもしれません。
 ただ、「周りが勉強している環境であれば子どもも勉強する」が、「周りが勉強していない環境だと子どもは勉強しない」というのはある程度の一般性がありそうです。
 そう考えると公立学校で勉強している子どもというのは、もしかするとすごい能力の持ち主かもしれない。
 しかし、公立学校では、勉強していない環境の中で勉強をしている(これはもちろん普通の定期考査でいい点をとるという意味での勉強ではありませんが)子どもがさらに力を伸ばせる機会がない。
 和田秀樹の場合には、それを学習指導要領のせいだと主張します。
 だから、それを逸脱している私立の中高一貫校がお薦めだという考えです。
 私立の方がまともに勉強している子どもが多いから、そういう環境だけでもお薦めできる、ということ。
 学ぶ環境の面で公立は私立に負けている。これに反論できる方はいらっしゃいますか。
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「子どもは公立に預けるな!」その1

 和田秀樹著「子どもは公立に預けるな!」(ソフトバンク新書)は、その内容がほとんど想像どおりだったのと、独自の取材内容が目につかなかったので買ってちょっと損した気分になりましたが、「これからが本当の学歴社会」という「受験宣伝文句」は実感がよく伝わってきました。
 今までは本当の学歴社会ではなかった。
 東大出身だからといって、入社していきなり高給とりになるわけではなく、スタートはどこの大学を出ていようが、みんな一緒。ただ、大学全入時代になると、出身大学ごとに異なる給料で人材を集めようとする企業が増えてくる。
 どんな大学出身だろうと、学力がついているかどうかが判断基準であることも、もちろん間違いない。
 だから、有名大学附属のエスカレータで手を抜いていた人は、当然、採用されない。
 「学歴」プラス「学力」がセットで求められる時代が来るというのです。
 受験産業をバックアップするコピーとしては優秀なものです。
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学力観の誤解が諸悪の根元か

 Psycheさんからいただいた、~宿題を「やらない」権利は子どもにあるか~の記事に対するコメントをご紹介します。

<仰るとおりだと思います。
<どうも公教員のブログなどを見ていると違和感を感じることは多いのですが
<kurazohさんの意見は共感できるものが多いです。
<内発的動機付けが大切なのはいうまでもありませんが
<弱いからこそ流されがちな子どもに対して向き合える
<指導者としての毅然とした姿勢は必要でしょう。
<子ども達が自分で学ぶことが大切ということに終始する指導者には
<だったら指導者の存在意義は何かといつも問いたい気持ちになります。

 ブログをつくったり読んだりしない、普通の忙しい公務員や教師は私と同じような意見の人が多いと思いますので、あまり悲観的になられることはないと思いますが、ご自分やご子息が困った教師の影響を受ける当事者になったら、「教師はみんなこんなものか!」と憤りになることは間違いないでしょう。
 ブログを読むと、学習指導要領の「最低基準化」の意味を誤解している人がいるようです。
 「最低基準化」とは、「これだけはみんなに身に付けさせて!」というもので、それが定着できたら、どんなに発展的な学習をやってもよいわけです。
 これに対して、「最高限度化」は、「これ以上は学習してはダメ」と制限をかけるもので、入試の出題範囲の原則に役立つようなものです。
 ゆとり教育は、ゆとりのなかで「基礎・基本」だけでなく「課題解決能力」を育成することが使命だったのに、基礎・基本が不十分な上に、総合とのリンクがうまくいかなった学校は、思考力・判断力・表現力も育っていない。
 そういう判断力が身に付いた保護者が、子どもを受験に向かわせたわけです。
 さて、前回の記事の補足ですが、「宿題をやらない権利は子どもにあるのか」という問いに対して、二つのケースについて、「ある」と回答する用意があります。
 ひとつは、学校で完全に習得させてもらっている場合。
 もうひとつは、宿題よりも優先して学びたいものを子どもがもっている場合。
 後者の場合は、小学生では難しいかもしれませんが、中学生は読書、塾、本人の趣味や研究のために、カリキュラムで定められた以上の時間を強制的に特定の教科のために振り分けられるのは、免除してあげてもいいかなと思います。
 かつてもふれたことですが、「関心・意欲・態度」の評価はさまざまな矛盾を生むものです。
 他の内容の関心が高まってしまうと、学校の学習単元の意欲が低下してしまう。
 教師の授業中の話に触発されて、私はよく学校の帰りに岩波新書やブルーバックスを買って読んでいました。単元の学習とは関係のない高度な内容の本ですが、読みたい衝動にかられ、時間がたつのを忘れてしまいました。ここで障害になるのが、英語の宿題です。
 英語という教科は、机やラジオの前に強制的に向かせるもので、「学習習慣」「言語的な諸能力」をつけるという意味では最適な教科です(それ以上は言わないことにします)。しかし、最低30分か1時間か家で勉強しなければいけないのは、他にやりたいことがある自分にとってはマイナスでした。
 小学校の場合は、塾に通っていない場合、「宿題がなければ家でまったく机に向かわないので困る」という親が強いプレッシャーをかける以上、担任は出さざるを得ません。
 内容がやさしくなった分、学校での理解で十分だと思う子どもが多くなり、家で勉強しなくなりました。これは調査の結果、明らかになっています。
 宿題の目的を学校、保護者、子どもが共有化できているかが課題だと言いたかったわけです。
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宿題を「やらない」権利は子どもにあるか

 子どもには、学力が不振でも、教師から特別な課題を与えられたり、補習を受けさせられたり「しない権利」はあると言えるでしょうか。
 その子どもが道徳的価値をしっかりもっていて、生活態度もよく、健康であれば、教師は「人間の個性はいろいろだから」と学力面を何としても上げなければ・・・と思わない傾向があるのではないでしょうか。
 一方で、道徳的実践ができておらず、基本的生活習慣に課題があり、学力が不振である生徒にも、まずは勉強よりも生活の建て直しを、と教師は考えるのでは。
 子どもと教師の希望が一致することで、学校でその子どもの学力が上がる保障はなくなると考えてよいでしょう。
 「規範意識がもてて、共同生活がきちんと送れてさえいれば、低学力でも問題ない」という考えを、すべての公立の教師が思っているわけではないと思いますが、そうわりきっている教師は多いのではないかと思います。
 教育心理学の教科書を読まなくても、「内発的動機付け」が大切なことはわかりきったことなのですが、教科指導の専門家である中高の教員が、「やる気」のない、しかし「よい子」である子どもには、勉強の負担をかける必要はないだろうという立場をとることのは、保護者から見ればどうなのでしょう。
 子どもの立場から、「勉強ができなくても、提出物が出せなくても、そっとしておいてくれる先生が好き」という要望があるとして、学校はどのような姿勢であるべきなのでしょうか。
 そういう子どもに優しい公立学校というのは、長所なのか問題なのか。
 学校はこれまで自己責任回避能力では際だった面を見せていましたが、その責任はだれが問うものなのでしょうか。
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子どもも飽きる報道番組

 テレビのニュースを見るたびに、マスコミは子どもたちをよく教育しているのだと感じます。
 「責任をとって辞任しろ」
 「**が悪い」
 同じような態度を子どもは学校でよくとっています。
 自分は当事者ではない。安全圏から好き勝手に文句を言う。
 そういう思いこみをなくすために、
 NHKなどは、「人のことは言えませんが」などとニュースの後にいちいち付け加えておくと、道徳的価値が高まるというか、信頼感が増すのですが。
 問題がおこると、すぐにその監督責任が話題になります。
 米軍の問題については、問題を追及する政府の姿勢をニュースにします。(アメリカによく行き届いた配慮のようです。)
 マスコミの報道パターンはいつも同じなので、子どもですらコメンテーターが何を言うかが予想できるようになってきました。
 新聞記事でも、記者に書く力がない場合は、ここではこういう事例、あそこではこう、有名なだれだれはこう言っている、という紹介で終わり。教育に関する記事はほとんど参考になりません。
 新聞は情報リテラシーを育てる教材としての適性が高いのですが、本当に参考になる記事が少ないのが気がかりです。
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読むスピードを上げるための指導

 「アメリカ式読書法」では、「読むスピードを上げるために」という項目で、次の点を薦めています。
 それはそのとおりだろう、と教師や親も思ってしまう内容ですが、こういうことを学校できちんと指導しているか、指導されてきたか、と聞かれたら、いかがでしょう。
注意力と集中力を発揮する
気が散るものを徹底的に排除する
整頓された居心地よい環境を整える
個々の単語や文に拘泥しない。しかし、文の要旨をつかむカギとなる言葉は必ず辞書で調べる
細部にこだわらず、全体の要旨を把握する
 読む目的が変われば、読む方が変わるのは言うまでもありませんが、学校や家庭ではこの環境はどうでしょう。
 小学校に行くと、「壁面構成」などといってやたらと子どもの作品やら九九表やらを貼りまくっているのに気付きます(中学校でもこれに凝っている教師はいるでしょう)が、「学ぶ環境」として、そういうものはプラスの効果だけでなく、マイナスの効果ももっていることに気付かされます。
 子どもへの励ましを増やしたり、クラスへの所属意識を高めたりする指導なのでしょうが、一歩間違えると担任の自己満足になってしまいます。
 数学の問題を解いているとき、掃除当番の表がいつも目に入ったら集中できなくはならないか。
 常にクラスの団結を促す標語を視界に入れながら勉強しなければならないのか。
 ちょっとしたことですが、「殺風景な教室」のプラスの面も捨てがたいのです。
 たとえば、私の勤務校では側面黒板というのがあるのですが、これは一面では書ききれない教科で活用するためのものです。ただ、子どもが掲示板代わりに使って、書くスペースがないクラスが出てきてしまいます。
 担任も連絡板として使う場合があり、ときどき注意を受けているようです。
 子ども部屋の机に座って、集中できそうな場所かどうかは親ならすぐ判断できますね。 
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読書技術の習得をめざす総合的な学習

 東郷雄二著「打たれ強くなるための読書術」(ちくま新書)には、アメリカの高校生(とその親)を対象に書かれた「アメリカ式読書法」(ロン・フライ著)の目次が紹介されています。技術論として書かれている本というのは、その目次だけ読んでも参考になります。
はじめに あなたがこの本を手にするまでの話
序論 読書・・・それはあらゆる学習技術の基盤
第1章 読書は仕事にあらず
第2章 目的を持って読む
第3章 メイン・アイデアをつかむ
第4章 事実を収集する
第5章 理科系のテキストを読む
第6章 批評読みのできる読者になる
第7章 文学作品を読む
第8章 集中力を高めるために
第9章 読んだ内容を記憶する
第10章 ADD(注意力欠如障害)への理解を深めよう
第11章 自分だけの図書館を作り上げる
第12章 読書、それは人生の宝
 新学習指導要領の改訂の基本的な考え方に、言語の能力を高めていくことがあるので、いわゆる「教養主義的な読書のすすめ」ではなく、「読書技術の習得」をめざした読書指導が必要になるかもしれません。
 これを総合的な学習の核にすることもできそうですね。
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打たれ弱い症候群

 東郷雄二著「打たれ強くなるための読書術」(ちくま新書)では、読書論の分類と批判から入って、「知的に打たれ強くなる」ための読書のあり方が述べていますが、著書によると「知的に打たれ弱い症候群」とは、
すぐに解答を欲しがる
どこかに正解がひとつあると信じている
解答に至る道をひとつ見つけたらそれで満足してしまう
問題を解くのは得意でも、問題を発見するのが不得手である
自分の考えを人に論理的に述べる言語能力が不足している
 というもので、「個人生活における読書という行為の衰退」が症状の要因の一つになっているということです。
 ここで、「打たれ強い教師」「打たれ弱い教師」がどんなイメージかも想像することができます。
 また、「打たれないようにする教師」「他人を打つ教師」という存在も無視できなくなります。
 たとえば、学力格差や学力低下の問題。
 これを「学力は低下していない」として向き合わないという選択肢もあるわけですが、「低学力の何がどう問題なのか」「格差が広がることの問題は何か」を校内できちんと議論できているでしょうか。
 「学力とは何か」をきちんと教員間で議論しあえる土壌はあるのでしょうか。
 行政が悪い、文科省が悪い、教育委員会が悪い、校長が悪いと言うことで、どんな問題がどのように解決するのでしょうか。
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自学自習7カ条

 小学館の雑誌に「小学生ママの子育て応援マガジン edu[エデュー]」というものがあります。
 特集がおもしろそうなときと、けっこうしっかりした付録がついているときに購入しています。
 2月号は、学力世界一「フィンランドのヒミツ」、学力日本一「秋田県のヒミツ」のほか、メインの特集に「塾に行かないという選択 第2弾 学力格差を家庭で解消する 自学自習のルール」が紹介されていました。
 「小学生の先生に聞いたものの共通項」ということでしたが、次の7つ、[ ]に入るキーワードに学校でしっかり教育してほしいポイントがありました。
子どもが[  ]を得られる工夫をする・・・進歩を目に見えるかたちに
予習復習は決まった時間に、[  ]集中でやらせる・・・子どもの集中力は続かない?
プリント学習の[  ]を自覚させる
[  ]を見やすく書けるようにする・・・学校で指導してほしい!
[  ]の枠に縛られずに勉強する・・・学校でこれをやると「差別」になるからしかたないか・・・。
[  ]の上だけの勉強にこだわらない・・・生活の中で学べる工夫と言っても・・・。
親も[  ]に目を通す・・・共通の話題をもつためですね・・・。
 これ、教師に研修させるときも同じようなポイントがあることに気付きました。
 ちなみに私が重視したいルールは、親もテレビをみるのを我慢する・・・です。 
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日経新聞 学校だけでは力不足

 本日付の日経新聞「学校は変わるか③」のテーマは、また「現場の負担」「現場とのすれ違い」。
 授業時数の増加で、「行事を削らなければならず、たいへんだ」という一方、「学校の個性化(特色ある学校づくりのことか?)を求めているのに自由に使える時間を減らすのは矛盾」という声があることを紹介しています。
 記者が取材してつかんだ実感でしょう・・・「学校だけでは力不足」・・・結局この一語に尽きるということでしょうか。
 宿題が多い「クラス」があります(不思議なことに同じ学年で他のクラスは出なかったりする)。
 放課後に30分残れば終わってしまうような課題を、わざわざもって帰らせてやらせる。
 学校の授業中は、授業をすればいいのに、プリントをやらせておいてその宿題のチェックで忙しくなる。
 最近、小学校では業者のテストとか違法コピーのプリントとか、やたらと問題をやらせていますが、その採点だけだけで時間がなくなってしまうのでは?と心配になります。
 小学校の授業の実態を密かにレポートしてくれる小学生はいないでしょうか。
 家庭生活点検表を配る。
 特に小学校では、家庭に「学力向上」の責任を負わせようとしています。
 仕事などの関係でそれが難しいところは、塾にその責任を負わせる。
 これで向上する学力はごくごく限られた範囲の力であることは言うまでもありません。 
 いろんなことが大事だと言おうとすると、現場からは「時間がない」「負担が重い」と反発を受ける。
 それはよくわかりますが、何だか教師がつくっているような記事ですね。
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日経新聞 「総合の敗因」?

 総合的な学習の時間が削減されることを、多くの教師はのぞんでいる。これは理解できます。
 特に中学校では、教科の専門性で食べてきた人々が、「課題解決力の育成」という新たな課題をせまられ、自分自身が特に高い関心をもっているわけではない人権、環境、国際理解、福祉などに指導者やコーディネーターとしてかかわらなければならないのは、負担感だけが重くのしかかってくる。だからその負担を少しでも減らしてほしいというのが、多くの教師の本音でしょう。
 ですが残念なのは、専門教科のない小学校教師の多くもそれを望んでいるということです。
 「創造的な仕事」ができる機会を奪われても、負担が減るのだから反対しない、という感覚。
 たとえ仕事に負担感があっても、それを打ち消してくれるのが「創造」「自発」「創意工夫」の取り組みではないかと思うのですが、能力も体力もないのが、現場の実状だということです。
 これを総合が「敗れた」、文科省と現場との間で学力観の共有が不十分だったと表現する記者の言わんとするところが、結局は現行の指導要領が悪かったとしか読み取れないことが問題なわけです。
 文科省と現場もそうですが、文科省と新聞社の学力観の共有がほしいところです。
 そうしないと、いつまでたっても新聞から正しい情報が入手できません。
 昨日の記事で紹介されている総合の先進校、研究推進校の取り組みを見て、「うちの学校の子どもにはできない」と感想をもつ教師はいないのです。ただ、うちの学校の教師には指導できない、ということです。
 公立学校で、学校間格差をなくそうとしたら、先進校の取り組みをやめさせなければならない。
 総合で成果を上げた学校と、上げていない学校の学力の格差はどれだけ開いたのか、それとも開いていないのか。総合の時間に、計算や漢字の練習をしていた学校がどのくらいあるのか。
 そういうことの検証が必要なのでは。
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新しい評価システムの提言

 このブログでは何度かふれていた内容ですが、新学習指導要領案へのパブリックコメントが募集されている時期なので、まとめて掲載しておきたいと思います。
 今回の学習指導要領の改訂の基本的考え方に、「知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視」があり、小中学校段階では「知識・技能を活用して課題を解決するための思考力、判断力、表現力等の育成」が重視されています。
 私は、このことをもとに、評価観も変え、現行の「観点別評価」からもっとシンプルでかつ信頼性、妥当性が高い「段階別評価」に改めることを提言いたします。
 現行の観点別評価は、学習指導の過程で行い、個別指導や授業の改善に活用するのなら問題はありませんが、この形成的評価に適したものを、総括的評価である「評定」の根拠として使うのは問題(合成の簿謬等)があります。
 国立教育政策研究所でも、観点別評価の客観性、信頼性などの問題点は十分に把握しているようですが、私はこの評価が「学力向上」の達成への非常に大きなネックになっていると現場では実感しております(最大の原因は評価に時間がかかる上に有意なデータになっていないこと、観点別評価に値する学習活動が行われていないこと)。 
 私が提言したい「段階別評価」とは、学習のステップを「習得」「活用」「探究」のレベルに分け、習得レベルのABC評価をまず実施し、次に習得レベルがB評価以上(AかB)については「活用」レベルのABC評価を実施する。「活用」レベルがB評価以上(AかB)になったら「探究」レベルのABC評価を実施する。
 「習得」レベルの評価対象になるのは、知識・技能面です。このレベルは、ペーパーテストで容易に測定することが可能で、評価の信頼性が最も高いものです。ですからCの場合には先に進めませんから特別な支援が必要になります。全員を「習得」レベルでB以上にすることが義務教育の「義務」です。
  「活用」レベルの評価対象になるのは、習得したことを活用して思考・判断し、表現したもので、授業での発表(説明)、論述の課題(レポート)、討論活動などが評価材料になります。
 習得レベルがAでも、活用レベルではCの評価になる場合があります。これは、「暗記したことをそのまま再現することはできても、その知識を活用して有意な形に再構成する能力がない」ということで、「生きる力」としてはまだ不十分な状態にあり、やはり「活用」レベルがCなら特別な支援が必要となります。ただし、私の経験では、(カッティングポイントにもよりますが)習得レベルがAであれば、活用レベルはほとんどの場合はBになると思われます。
 最後の「探究」レベルは、現在では「発展的な学習」に当たるもので、これはたとえば「総合的な学習の時間」とリンクした学習活動を行い、教科をまたいだ評価も可能になるものです。
 「改訂の基本的考え方」では、「知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視」とありますが、これは学習活動としては車の両輪のようで、大事なことです。
 しかし、評価対象となると、知識・技能が習得されていないのに思考力や判断力はあるという状況は考えられないので、ここは「育成のバランス」の重視であって、実際に思考力・判断力・表現力を使う場面で活用されるのが習得した知識や技能であることを強調すべきです。
 実践では、さあ「習得が大事だ、知識を詰め込め、そこがスタートだ」ではなく、観察や実験、調査活動を実施して、「課題が何かをつかみ、追究しようとする思考活動、学習意欲を高める活動」が先にあるべきなので、指導過程としては「思考力、判断力」が問われる場面、「知識・技能」を習得させる場面、それらを生かして「思考力、判断力、表現力」を使う場面という順になります。
 この考え方は、社会科歴史的分野の内容(1)「歴史のとらえ方」のウの「内容の取扱い」などで反映されているので、事例としてわかりやすい参考になります。
 このように観点別評価を段階別評価に改めると、以下のような効果が期待できます。
 まず、中学校では「定期考査」の見直しが進みます。
 中学校の定期考査は、どの教科も最大50分の試験時間で出題されるので、ほとんどが「習得」レベルの評価で終わってしまいます。しかも、「思考・判断」や「資料活用の技能」といってもほんの部分的なもので、ほとんどが「知識・理解」のみの内容です。
 基本的には評定はこの点数が目安になるので、そもそも現在の観点別評価は総括的評価としては機能していません。ほとんどの教師が実感できていることだと考えられます。
 定期考査はどう見直されるかというと、極端な場合は、それが廃止できます。
 習得レベルの評価は、活用レベルの評価のための学習活動を行う前に各教科で実施すべきであって、テスト前一週間で詰め込んで後はすぐ忘れるなんてことを繰り返さないですみます。
 そして、本当の評価材料は、授業の発表やレポート、討論活動で行うべきことが教師に実感させることができます。「生きる力」の重要な箇所が評価対象になってきます。
 「学習習慣」の定着にも結びつきます。
 教師の学力観、評価観の転換が期待できるのです。
 学年等の「習得」の総括的評価は、文科省の全国学力調査をもってかえることも可能です。「活用」レベルの評価は時間がかかるので、学校ごとに実施します。
 定期考査のような「詰め込み」学習がなくなると、入試のシステムの改善にも役立ちますが、この具体案はここでは省略します。  以上
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日経新聞 授業時間増「どう生かす」

 日経の社会面では、今日から「学校は変わるか 新学習指導要領」の特集が組まれています。
 記事の取材は現行のもとでの学校の工夫を紹介していますが、1回目のコンセプトは「授業の時間が増えればそれだけ子どもの集中力の持続が難しくなる」というもので、朝の運動や昼の瞑想の時間、45分授業の実施が紹介されていました。
 相変わらず新聞では問題の本質を直視せずに表面的な「だれでもわかる」ことしか記事にしないようなので、学校の方からは「これからどう変えるか」を発信しなければなりません。これを「どう変えるのか、文科省、教育委員会は教えてくれ」という姿勢ではなく、どれだけ「自分たちのアタマで考えられるか」が課題になりそうです。
 「どう生かすか」は「改訂の基本的考え方」に示されています。
 記事では「学習指導要領」を「教えの手引書」と表現しているので、比較的高齢の記者が担当していることが予想されます。この「手引書」という用語ですが、多くの小学校教師が「手引書」として使えているのは教科書会社が作成している「教師用指導書」くらいで、年度末に出される指導要領の「解説」ですら読まない教師がいるくらいですから、ねらいから見ても実態から見ても適切な表現方法ではないことがわかります。 
 現在ですら「集中力が持続しない」子どもの実態、教師の指導の実態をふまえないと、不登校やいじめ等が増かしたとき、この新学習指導要領の「詰め込み」がよくなかったという結論ですまされてしまいそうです。
 増えた時間にドリルをたくさんやらせる教師が増えそうなことを予測して、「新しい評価観」を提言することが「変わる学校」の役割です。
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定期考査の廃止が教育を変え、入試を変える?

 小学生が中学校に進学した後、まず最初の試練にあたるのは「定期考査」でしょうか。
 2~3日間を使って、テストだけの日になります。
 テスト1週間前は部活動等が禁止になり、「テスト勉強期間」となる。
 980時間の確保のために、テストを2日にするとか、3日目の午後は授業をするとか、2期制にするとか、3学期制の学校は1学期中間考査をなくすとか、学校ごとに工夫はされていると思います。
 ただし、「定期考査」を廃止している学校はほとんどないでしょう。
 新しい指導要領で「詰め込み」教育が復活すると危惧している方がいらっしゃったとします。
 その方は、「定期考査」ほど「詰め込み」教育の象徴的なものはないと理解していらっしゃるでしょうか。
 「ゆとり教育」を推奨していた方。「定期考査」の廃止を校内で訴えたことはあるでしょうか。
 「定期考査」をなくしたら、「子どもが勉強しなくなり、学力低下に拍車がかかる」と思われる方。
 評価の場面、子どもが勉強する場面がなくなるわけではありません。いつ生徒たちは勉強し、教師はいつ評価したらいいのでしょうか。
 「定期考査」前の一週間だけ、勉強すればいいのですか。それで学力は向上しましたか。
 「定期考査」を廃止する意義。それは何でしょうか。
 学習指導要領改訂の時期は、大きな改革を実施する最高のタイミングです。
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もうひとつ、改訂が必要なもの。

 今回の指導要領改訂では、知識・技能を活用して課題を解決するための思考力、判断力、表現力等の育成が大きなポイントとなります。
 ここで忘れてはいけないのが「観点別学習状況の評価」です。
 知識・理解と資料活用の技能をベースに、思考・判断をして表現することで課題解決力を証明する。
 4つの分析的観点は並列ではなく、層をなしている学習成果を評価することになります。
 家庭学習のレベルでも学力をつけることが可能な知識・理解と資料活用の技能を「習得レベル」。これがCなら思考・判断して表現するレベルには達しないので先の評価は不能。
 習得の次のレベルは思考・判断して表現できる「活用レベル」。習得レベルの評価を活用レベルが上回ることはない。ただし、活用の場面を増やすことで、習得レベルはアップさせることが可能になります。
 最後は「探究のレベル」。これは自分で課題を見つけ、調べて価値のある発表ができるレベル。従来の「関心・意欲・態度」で評価する意味があるのはこのレベルです。
 授業の記録、内容の説明、課題の論述、討論活動である程度客観的(これはどの教師がどの学校で実践しても同じような評価基準がつくれるということ)な評価が可能になります。
 学習過程のバラバラな観点別評価は、指導の改善、個別指導に役立てて終わり。総括には使わない。
 評定という総括は、やはり「総括」にあたる場面の学習成果をもとに評価します。
 このようにすれば、中学校の教育は具体的に何が変わるでしょうか。
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国語科の授業でお薦めの「記録ノート」

 言語の能力の重視は、単に「知的活動」「測定可能な学力」の面だけでなく、コミュニケーションや感性・情緒の基盤づくりとして特に欠かせない指導のポイントです。
 私の勤務校には、授業で「記録ノート」をつけるという伝統が何十年も受け継がれています。
 これは、授業中の教師の指導のポイント、生徒の発言をくまなく記録し、最後に自分の考えや感想を書いて次の時間までに提出する(それを受けて教師もコメントする)というもので、書く本人の言語能力の向上はもちろん、欠席者の補助、教師が自身の授業評価や生徒の評価をするための材料になります。
 まさにWinーWinーWinの関係になる典型的な教育活動です。
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改訂のポイントと教育内容の改善事項

 新しい指導要領の改訂案等のポイントで、「今回の改訂の基本的考え方」とは以下の3点です。
教育基本法改正等で明確となった教育の理念を踏まえ「生きる力」を育成
 キーワードは、「知識基盤社会」、「生きる力」を支える「確かな学力」、「豊かな心」、「健やかな体」の調和、「公共の精神」、「伝統や文化の尊重」。
知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視
 キーワードは、「観察・実験」、「レポートの作成」、「論述」=「知識・技能の活用」。「言語の能力」の育成(あらゆる教科で)。(いわゆる5教科=「主要科目」の)授業時数の増加。「キャリア教育」。「学習習慣」の確立。
道徳教育や体育などの充実により、豊かな心や健やかな体を育成
 キーワードは、「体験活動」、「安全指導」、「食育」。

 「教育内容の主な改善事項」は以下の6点。
言語活動の充実 
 キーワードは、「記録、説明、論述、討論」といった学習活動の充実。
理数教育の充実
 キーワードは、「国際的な通用性」、「内容の系統性」、小・中学校での学習の「円滑な接続」
伝統や文化に関する教育の充実
 具体的には、古典(国語科)、歴史学習(社会科)、唱歌・和楽器(音楽科)、我が国の美術文化(美術科)、武道(保健体育科)の指導の充実。
道徳教育の充実
 キーワードは、「道徳教育推進教師」を中心とした道徳教育の展開。「感動を覚える教材」。
体験活動の充実
 具体的には、小学校での集団宿泊活動、自然体験活動、中学校での職場体験活動。
外国語教育の充実
 具体的には、小学校高学年に「外国語活動」を導入。
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学習指導要領案へのリンク

 新しい学習指導要領の改定案本文などを公開した文科省のHPはこちらです。→リンク
 本文のPDFファイルはこちら。
 新しい学習指導要領案の改定のポイント
 中学校学習指導要領案
 小学校学習指導要領案
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数学の教師への感謝

 文科省の指導要領案「理数系、最大3割授業増」のニュースに関連して。
数学や理科は、テスト問題などでは「まぎれのない正解」が必ずあるために、学力の一部を測定しやすい教科で、かつ内容が万国共通のものでは学力の国際比較ができることに特徴があります。
 今、多くの子どもたちは「ものごとには常にひとつの正解があると信じる(信じたがる)」「少しでも効率よく正解にたどりつく方法を知りたい」「正解と信じたものを発見すると、それで終わり。判断や思考が停止する」傾向が強くなっているように思います。
 ややもすると数学や理科の教師は「解き方」を解説することに終始し、本来の「おもしろさ」を十分に伝えていないことが、全国の質問紙調査でも明らかにされています。
 私が恩師である数学の教師に感謝しているのは、「さまざまな解法」を追求する楽しさを味わわせてくれたことで、裏返せば「正解を求めて終わり」の数学観・学習観を持たせなかったことです。
 理科でも、惑星の定義などかつての常識が書き換えられている内容が多くあるようです。
 「追求する姿勢」を鍛えるのに、数学や理科のような自然科学の分野の学習は「証明」や「実験」ができるので適していると考えられます。
 社会科学には本来「正解至上主義」はなかったはずですが、たとえば社会科で、目先の得点力、特に安易な形で出題できてしまうような問題ばかり重視していると、「正解信仰」に陥らせるばかりの授業になってしまいます。
 神奈川県の公立高校では日本史が必修とされるようですが、そこで鍛えるべき「連続する思考」のかたちをしっかり周知すべきだと考えます。
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「言葉」による指導

 “しょう”さんに取り上げていただいたコメントの一部を改変してご紹介します。
 私が困難校で経験したことは、中学生の場合ですが、自分の感情や考えを言葉で表現することが苦手な子どもが非常に多いということです。人をけなす単語は次々に飛び出すのですが、まとまった意味のあるフレーズを語ることができませんでした。
 私が「問題」としたことは、荒廃した家庭でも教室でも、「言葉」を使った課題の整理や解決が行われていないこと自分に対して本気で向き合うための「道徳」の時間が、全くいい加減であること。
 教員間では、たったこれだけの「課題認識」を共有化するだけで、「何を指導すべきか」はわかるのですが、経験不足のために「どう指導すべきか」がなかなかついてきませんでした。
 数々のステップを経て、「本来すべきである教師の役割」に気付いた教師が口にするのは、結局、学習指導要領やその解説に書いてあることをする、あるいはしようとすることが大事だ、ということでした。

「夜スペ」問題リンク集

 最近トラックバックをいただいた記事の中に、「夜スペ」についての最新ブログのリンク集というのがあります。
 反対派の記事を中心に集めたものなので、興味のある方はどうぞ。

学力向上にもポイント制

 ポイント制は大阪の人に特に人気があるようですが、その交換比率が下がっているなどの異変がおこっているようです。
 学校が集中する駅近くで、多いときには6人くらいの学生アルバイトが予備校などの勧誘資料を配っています。ほとんどの子どもがなかなか受け取らないので、クリアファイル入りにしたり、消しゴムを入れたりして数がはける工夫をしているのですが、先日は新たに、チョコレート入りという作戦に出たようです。
 これを受け取って校内で食べていた子どもが生活指導の対象になってしまいました。
 「ものでつる。」
 近隣の塾では、週末のテストでとった点に応じてポイントがつき、集めると賞品と交換できるようです。
 ただ、友達を紹介すると、何十回分のポイントが一気につくという話でした。
 塾業界の営業努力、外発的動機付けというのはすさまじいものですね。
 ブログランキングもポイント制ですが・・・。これも動機付けになっているのでしょうか。
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行政の締め付けを期待する「市民」

 夜スペ問題への反対派の意見には、行政の介入(教育委員会の指導)を望む声が含まれていたように思います。
 日本人がヨーロッパ風のシティズンシップを持てない最大の原因は、何かあると「お上だのみ」の本性が現れることに端的に示されていると言われます。
 テレビで偽装ややらせがあると、「行政はしっかり指導しろ!」「テレビ局は責任をとれ!」と怒る人は想定できますが、「しっかりした賢い情報の受け手になろう」と自覚し直せる人はどれだけいるでしょうか。
 なぜヨーロッパの観光地に、落下防止の柵や手すりが設けられていないのか。
 日本では「危険防止」の責任は、行政にあるというのが一般的な通念ではないでしょうか。
 これではいつまでたっても「賢い市民」が日本に生まれることはないかもしれません。
 「賢い市民」を育てる学校教育とはどのようなものでしょうか。
 中学校の社会科公民的分野の資料集などには、1962年にケネディ大統領が述べた「消費者の四つの権利」が載せられています。
 「安全を求める権利」
 「知らされる権利」
 「選択できる権利」
 「意見を反映される権利」
 公立学校の実態はどうでしょう。
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20年後の教室と教師

 携帯電話、パソコンを使うようになって、その分、減ることになった時間は何か?という新聞の世論調査で最も多かったのは「読書」の時間だそうです。ある大学の先生は、携帯の普及率の上昇とともに大学生の学力低下が顕著になったと語っていますが、そこに因果関係はあるのでしょうか。
 小中学生、高校生、そして大学生は、それぞれの環境の中で本当に多忙な時間を過ごしているようですが、携帯電話やゲームをいじる時間が、テレビを見る時間より長くなったとき、世の中はどのように変わるでしょうか。
 子どもにとって昔はテレビ、今は携帯とゲーム(今はテレビとゲームと携帯という複合型ももちろん)が学力向上を蝕む最大の敵と認識されていますが、携帯電話や通信機能をもっているゲームは、そのコンパクトなサイズと長時間の使用が可能なことから、教育への利用が進むのは時間の問題だと考えられます。
 そういう時代でも「黒板とチョーク」の授業の意義、「読書」の効果を教師は子どもに伝え続けることができるでしょうか。単純に知識や技能だけの能力をつけさせるのに、教師の力はコンピュータの力を上回り続けることができるでしょうか。
 家庭でゲーム機に何時間も向かった経験がない世代の教師は実感をもてないかもしれませんが、そういう経験のある20代、30代の教師は、漠然と「自分が教えるよりソフトで学習させた方が効果が高いのでは?」という危機感をもっているかもしれません。
 まだ50分の授業で使える実用的なソフトや便利なインターフェイスが開発されていませんが、それが可能になったとき、教師の役割とは何か。その専門性とは何かが問われてくると思います。
 昔、授業で使うソフトの開発に何年かかけて取り組んだことがありますが、10分の学習用のソフトをつくるのに10時間以上かかるのは毎度のことでした。今は、その開発中に取り組んだ授業分析、「わかる」までの思考の流れの整理など、学習者の立場にたって授業を考えていたことは役に立ったかと思います。
 20年後、「ふつうの教室」「ふつうの教師」はどんな姿になっているでしょう。
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教師が「生きがいを追求できる」学校とは?

ハイ・コンセプト「モノ」よりも「生きがい」
 「もの」より「思い出」というCMのコピーがありました。
 教師にとって大切なのは、「残業手当」より仕事の「やりがい」でしょうか。
 学校が、一人一人の教師にとって「生きがいを追求できる場」になるためには、どういう条件が必要なのでしょうか。また、どういう制約が不必要なのでしょうか。
 私の場合は、保護者たちが参加する地域のスポーツチームにさそってもらい、その一員として体を動かしていたことが、生きがいの一部になっていました。今は子どもが在学している学校のPTAチームが優先ですが。
 私は社会科の教員ですが、2校目の学校の1年目に、夏休みの20日間、数学と英語の補習を実施しました。みなさん寛大によくやらせてもらったなという実感です。参加してくれた生徒も、よくついてきてくれました。
 大学時代に塾講師や家庭教師のバイトをやってから教師を本気で志望した経緯がある自分は、原点の一つに受験指導というのがあり、ボランティアで実施してかつ成績が上がった生徒には賞品もプレゼントするなど、今から考えればとんでもないことをしたものです。「機会均等」に反する、「塾」の営業妨害だ、と袋だたきでしょう・・・。
中には塾に通いながら学校の補習に出てきた生徒もいました(塾のテキストの質問にも丁寧に答えてあげました・・・)。この活動で成績上位の子どもたちから認められたことが、その後、学校を建て直すのに役立ったのを覚えています。他教科の指導も夏休みという時間ですが現場でやった経験が、総合の構想などで生きました。
 社会科教師としての生きがいには、徹底した現地調査を通した教材づくりというのがあります。特に教育実習の教材を1年間かけてつくった経験も教師としての原点になっているため、現在も長期休業中に休暇をとって学校の外に出るのも抵抗がありません。大学時代は交通費が安く済みましたが、今はきつい。できれば旅費がほしいものです。
 最近特に残念だと思うのは、教師が高齢化しているためか、校内の教師たちと一緒にスポーツレクで汗を流すことが全くなくなってしまったことです。企画をたのまれているのですが、すぐだれか大けがをしそうなので、躊躇しています。
 90歳になったら何をしているか・・・。私は母校で教員をしているので死ぬまでちょっかいを出していたいですね。
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文科省「ネット上のいじめ問題」に対する4つの呼びかけ

 文部科学省は12日、「ネット上のいじめ問題」に対する4つのよびかけという保護者向けのリーフレットを作成し、各学校に配付することを発表しました。
 4つの呼びかけとは、
「利用の実態」に目を向けよう!
「情報モラル」についてしっかり学ぼう!
「チェック体制」を強化しよう!
「いじめられた子ども」を守り通そう!
 というもので、子どもが利用できる内容やその危険性の理解、してはいけないこととチェック体制の確認、いじめにあったときにすべきことを学校と相談しているかを訴えています。
 しかし、いつの間にか「いじめ」が示す行動の範囲はずい分広がったものです。
 学校だから「いじめ」という用語を使うという安直な注意喚起ではなくて、この際、名誉毀損や誹謗中傷という言葉を使って理解させてもよいのかもしれません。「犯人」は特定が可能だということも。
 また、「情報モラル」という特化した問題ではなくて、「そもそも」というレベルで社会のルールやマナーを学ばせるきっかけにしてほしいものです。
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最も印象の薄い時代とは?

 義務教育の歴史の学習で、最も印象の薄い時代というのはいつでしょうか。
 それぞれの時代には特に印象的な人物や事件があるので、時代ごとのだいたいのイメージは浮かべられるかもしれませんが、少し時期が限定されるだけで「ほとんど知らない」空白の時間があることに気づきます。
 小学校も中学校も、簡単な戦後史にふれることになっていますが、授業がそこまで「進んだ」人の割合はどのくらいでしょう。「三丁目の夕日」の時代も教科書には載っていますが、20代までの人で当時の生活がイメージできる人はいるでしょうか。
 また、戦時下の生活はくわしく学ぶとしても、1920年代から40年代の日本はどうなっていたか、説明することは難しいのでは。戦後の占領期、日本にいた米兵に「ギブ・ミー・チョコレート」とせがんでいる子どもたちをビデオで見たことがある人は多いかもしれませんが、子どもたちはそのとき初めてチョコにふれたわけではなく、戦前にも森永と明治製菓のチョコが売られていたんですね。
 中学校程度の「薄さ」で歴史を学ぶと、暗いの時代の前にあった繁栄がイメージできません。明治の前の江戸のイメージさえ、まだ「暗黒性」で彩られている印象があります。
 歴史学習では「どういう経緯でそうなった」「なぜそうなった」かを考えるトレーニングをしますが、そういう材料が十分に与えられないで学んでしまうと、非常に一面的な歴史認識・時代のイメージが生まれてしまいます。
 時間の制約という縛りが結果として「多面的・多角的なものの見方や考え方を養う」基盤を奪ってしまっている好例です。
 教師は「受験にでないからいいや」という安易な発想ではなく、授業のどこに「本物の重点」をおくか、指導計画とにらめっこしながら練り上げなければいけません。
 「ここ大事ですよ・・・」は子どもに気づかせることであって、教師が言うせりふではありません。
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ゲームの効用を教育で利用できるか

ハイ・コンセプト「まじめ」だけでなく「遊び心」
 右脳活性化の必要性を訴えている著書であるためか、テレビゲームの効用がいくつかの視点から説かれています。
 ゲームについては「ゲーム脳」や「1日何時間以上ゲームをやる子の学力は保障しない」など、学校からは否定的な注文が家庭に投げかけられています。
 授業では考えられないほどの高度な集中力・リラグぜーションをもたらしてくれるゲームは、携帯によるコミュニケーションや情報収集とともに、娯楽として多くの子どもにとって「なくてはならないもの」でしょう。
 一部の学校では、単純なドリル的な学習についてゲーム機の活用を実践しているようですが、「右脳開発」という観点で教育に活用されるところまではいっていないようです。
 授業の中での「遊び心」は、特に内容の理解で苦しんでいる子どもの学習への動機付けにはかかせませんが、自分からのはたらきかけが苦手な教師は多いと思います。
 「ユーモア度をはかるテスト」を開発している研究者がアメリカにいるそうですが、日本ではどうでしょうか。
 教材では、マンガの「吹き出し」のせりふを考えさせるなど、右脳を刺激しながら左脳的な論理を鍛える工夫が考えられます。
 ただ、吹き出し入りのマンガが濫用されている小学校の教科書には閉口させられます・・・。
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教師も「派遣」の時代へ・・・?

 たとえば、正規の教員を1人増やすかわりに、補習・夜間学習専門の講師(塾からの派遣も含めて)を雇うことにしたら、何人くらい集めることができるのでしょうか。年間200日程度で、数百万円分使えるわけですから・・・。
 小規模校で授業時間数の少ない中学校教師は、「本籍」は特定の学校にあっても、近隣の他校の授業を受け持つべきだという考え方があります。また、そういう教科は講師を雇えばかまわないという声も。
 教育予算というものは、大部分が人件費ですから、このような議論になります。
 「教師を増やせ!」という声がある一方で、子どもや学校数は減っているわけですから、実際には子ども一人当たりの学校数や教師の数は増えているわけです。だから教師が増えれば問題は解決するわけではないことは、現在進行形で証明されています。
 大量採用時代の教師が今後十数年かけて退職していき、その数が多いだけに再び教師の大量採用世代が生まれてくるわけですが、さらにプラスαの人材は、どのように確保されていくのでしょうか。
 卒業式で起立しなかった退職教師がそれを理由に再雇用されなかったことは不当であるという判決がでたようですが、東京都の場合は人材が確保できているということがわかって少し安心しました。
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現場力の要・学校の下士官はだれか?

 日下公人著「現場指揮官の教訓~強い現場リーダーとは何か」(PHP研究所)という本があります。著者は、「教育崩壊、司法荒廃、厚生行政の破綻、官僚の怠慢、国会議員のお粗末、マスコミの堕落、家庭の分解など実例はつきないが、それらの建て直しについて良い参考になるのではないかと思って、本書では、日本がもっている現場力と現場指揮官の優秀さについて、日本軍の下士官を例にとって書いてみた」とまえがきで述べています。
 リーダー論、組織論を学んでいる人でも、戦時中の「日本軍からなど学ぶことはないんじゃないか」「学ぶべきことがあっても軍隊の組織から今に生かせるような教訓などないのではないか」と思ってしまう人が多いのではないでしょうか。 そもそも、日本軍、軍隊、上官や下士官などという言葉を聞いただけで読む気がなくなる人もいるかもしれません。
 多面的・多角的にものごとを考える必要はわかっていても、どこか自分の中で避ける部分があるという人は、本書を手にとることによってその「抵抗感」が払拭され、ある意味で日本人であることに自信がもてるようになるかもしれません。
 私の場合は、戦史・戦記物を読んできましたが、それらが出版された時期や作者の立場による問題の捉え方、結論の大きな違いについて具体的に知ることができたのは本書のおかげです。
 著者の本は優れたエピソード自体に魅力があるだけでなく、そこから現代に生かせる有効的なメッセージを読み取れることが読み手に損をさせない長所です。
 本書では、「職場の中間管理職」にあたる日本軍の「下士官」が以下のような題材で評価されています。
「敵の本質」を素早く見抜いた歴戦の下士官
戦闘が厳しければ厳しいほど、部下は下士官の顔をみる
職務範囲が「タテ一戦」のアメリカ企業、縦横無尽な日本企業
上位代行、下位代行・・・日本の下士官の得意技
賢い手抜き力・・・上司の立身出世主義にいかに対抗するか
ある軍曹の機転・・・ときには組織のために「悪者」になる
制度・法律よりスキンシップで問題解決
 教育現場は、「下士官」からどのようなことが学べるのでしょうか。
 学校における中間管理職を、「校長」と考えるのか、「副校長」と考えるのか、また、新しい職である「主幹」を想定するのか。学校における優れた「下士官」はだれか。
 いろいろな角度から考えていけそうです。
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格差と成長、教師はどこを見るべきか

  改めて“しょう”さんからご回答をいただき、ありがとうございました。
 共感していただける部分があってほっとしております。
 従来より、IQよりもEQという考え方や、「フラット化する世界」ではCQ(好奇心指数)やPQ(熱意指数)が大きな意味を持つという言われ方がしています。
 昔、「受験戦争」が流行した時代に、競争の部分が批判対象になって「ゆとり」という甘い言葉につられてしまったのですが、今の全国学力調査程度のやさしい問題で当時もそのレベルを測っていれば、「競争」より「個々の学力水準」に関心がいったはずなのですが。
 特に小学校レベルの全国学力調査は、他県や他地域との競争うんぬんより、「今そこにある危機」に早く目を向けるべきであり、50年後の中国やインドからは今の日本の教育改革やそれに対する反発は、「日本の敗因」の一つに挙げられている問題になっているかもしれません。
 「生きる力」の「確かな学力」以外の部分というのは、同年齢集団の活動より、異なる年齢集団や実社会に近い集団、地域社会の中で学ぶ方が効果が高いのです。学校には、そういう場での学習の必要もせまられているわけですが、これには地域の助けが必要です。
 同年齢学習集団を生活の基礎にしている学校という場は、やはり学力をつけるのが主目的です。
 「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」については、「学び合い」をスローガンに指導を展開していくことくらいしかできません。学校教育の主眼を間違ったレベルにおいてしまうと、おそらく教育問題の矛盾はいつになっても解決しないでしょう。学校だけでできないことは、学校教育の主目的にしてはいけません。
 勤務していた学校や地域が特定されてしまうので詳細は語れませんが、あらゆる成績の層のメンバーが協力して追究し、地域に情報を発信したことがありました。大人たちに「この中学校、中学生たちはなかなかやるな」という実感をもたせ、子どもたちには自分自身や学校に対する自信や誇りをもたせるような活動が、総合的な学習の時間の導入によって確保できるようになりました。
 格差という結果ばかりに目がいってしまうのか、学力向上など子ども一人一人の変化や成長に目がいくのか。評論活動中心の教師にはなりたくないものです。
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教師にとっての共感力

ハイ・コンセプト「論理」ではなく「共感」
 役者が「医者じゃないが、テレビじゃ医者になっている」のに対し、今では医者が「役者」になるため、演技のレッスンを受けているといいます。
 「共感力」が医療でも新しいコンセプトになっているようですが、日本でも「町医者」とよばれる人はそういう能力をもっていたのかもしれません。
 「町の先生」はどうでしょう。先生はそもそもそのような呼ばれ方をしてきたのでしょうか。
 「地域のための学校づくりが大事」「学校選択制は地域を破壊する」と主張しながら、「地域の先生」とよばれるような行動をとっている人はたくさんいるのでしょうか。自分が住んでいる地域だけでなく、通勤している学校の地域のボランティアをしたことはあるのでしょうか。
 教師に共感力が大切なのは言うまでもありません。
 50分区切りで次々に進行していく授業の内容がほとんど理解できない生徒への共感。
 塾で学習し終えていて、わかりきったことの繰り返しのためだけに50分を過ごす生徒への共感。
 学校で6時間学んだ後、帰宅してからさらに3時間も塾で学び、宿題に2時間をかける生徒への共感。
 指導力不足で生徒から信頼されていないため、悩んでいる教師への共感。
 そうした相手に対して何かをしてあげようとする気持ち。
 治してあげたい、悩みを理解してあげたい、力をつけてあげたい、そういう感情を持たずに演技ですまそうとしている教師はいないと思いますが、相手に伝わらないもどかしさを感じている教師は多いでしょう。
 ただ「聞き役に徹すればいい」というマニュアルに従うのもいいのでしょうが、教師にはカウンセラーと異なる決定的なバリアがあるものです。
 子どもも大人も、ほめられること、甘やかされることばかりに慣れているので難しい。
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教師「が」いても、子は育つ

 成績上位層の存在意義に関する文書の中で、「義務教育段階なら、子どもの学力はやる気と密接な関係がある。やる気を育てる教師の能力はもちろん大事だが、子ども同士でもやる気は高め合うことができる。その条件を作り出すのは教師の役割であり、公立学校にもぜひとも必要なもの。進学校では、このような条件が整っており、子どもや保護者はそこに大きな意義を感じることができる」と述べました。
 学力を伸ばすのは進学校の仕事であり、公立学校の仕事ではないという人がいますが、この「仕事」を教師が行うべきこと、と言ったら、それはその通りかもしれません。ただ、そのような環境をつくってあげるのは教師の役割ではないでしょうか。
 進学校では、「教師はなくとも子は育つ」かつ、「教師がいても子は育つ」環境があります。それは、ときに「子ども」が教師の果たすべきことをやってくれるという意味です。
 しかし、公立学校では、成績上位層もおらず、いい教師がいなければ子どもは育たないし、指導力不足の教師がいても、やはり子どもは育たない。
 公立学校では「学力」なんてどうでもいい。どうせみんな進級はできて卒業するんだから。とまで開き直っている教員がいますが、こういう学校から成績下位層だけがほとんど全入でやってくる公立高校というのは本当に厳しいと思います。
 進学校は(すべてかどうかわかりませんが)「リーダー教育」にも力を入れています。リーダーを養成しようとする教員の気風があり、生徒たちの自治意識が高い学校というのは、本当の「学び合い」が可能です。もちろんリーダーは特定の生徒に固定するわけではなく、多くの生徒にチャンスを与えます。
 公立学校でこれをやると、「差別」につながるとかいって批判する教員がでてくる。本当はリーダーを育てる能力がないだけなのかもしれませんが、結局はどんな集団づくりを目指しているのでしょう。
 自分たちがフラット型で好きなような行動をとっているので、子どもには言えないのか。それともその組織が本当にいいと思っているのか。
 能力が高い子どものパフォーマンスをさらに高めようとする欲求が、どうして公立学校の教師にはおこりにくいのか。それに値する子どもはもともといないと判断しているのでしょうか。
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残業なしの4%調整額は不正受給?

 教員に残業手当がつくようになったら、私は家で仕事をすることにします。だれにも気兼ねなく仕事がしたいから・・・。
 4%の調整額がつかなくなるとすると痛いですが、好きな仕事をいっぱいやってやればやるほど給料が増えるというのは、ちょっと贅沢すぎる気がします。もちろん学校ごとに厳しい上限が決められ、サービス残業だらけになることは目に見えていますが。
 だらだら残って会議ばかりする光景が目に浮かびますし、本務ではない部活動を延々とやってこれにお金がついたとしたら、目も当てられない状況になるでしょう。まずは部活動の指導をどう位置づけるかです。
 また、いつも定時で帰っているのに4%の調整額をもらっている教員がいることが、給与の課題になっているのは確かです。
 「税金泥棒」という風当たりがますます厳しくなりそうです。
 というか管理職は少しでも早く教員を帰宅させるようにがんばることになります。
 そもそも学校は、命令されてやっているわけではない仕事が多いため、残業するときは目的、時間、残業せざるを得なくなった理由などを報告する書類づくりで忙しくなりそうです。
 その議論を始める前に、時間効率があがらない理由をきちんと検証するとか、経営の合理化を研究するとかして、とにかくムダを省く努力を進めることが必要です。
 現実的には、定期考査のときの「評価事務手当」、宿泊行事のときの手当、家庭訪問など緊急の生活指導のときの「惨業」手当など、個別的ですが一律支給が中心のものを導入していくことになるのでしょう。
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学力別クラス編成は問題外

 橋下新知事の「学力別クラス編成」は、従来の習熟度別クラスをさらに日常の生活空間にも適用しようとするものでしょうか?これには「入れ替え戦」もあるのでしょうか。1部昇格、2部降格という用語も登場?
 これは問題外として、私が習熟度別学級集団で授業を実施することに反対している理由については、これまで、「教師の質の問題」と「学び合い」における成績上位者の存在意義をとおしてふれています。
 橋下知事には、公立中学校でクラス替えのときに使っているさまざまな記号や短冊についてだれか説明してあげるといいですね。クラス替えを通してどのくらい生徒(や場合によっては保護者)への細かな配慮を行っていることか。
 習熟度別クラスの学習は、たとえば英検や漢検の実施やその準備のときとか、選択教科とか、放課後の補習(または進学塾による指導)などで対応するならわかります。
 少人数指導では効果がない授業も、習熟度別だと教材が変わるため、効果が期待できるかもしれませんが、「学力を何段階に分けるのか」「段階を分ける基準は何か」「それぞれの段階に最適な教材とは何か」などの研究をしっかり行うことが必要だと思います。ですから、研究授業でやってみることには賛成します。
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せめて学校では受験学力だけでも

“しょう”さん、ご丁寧なコメントありがとうございます。
 前回の記事、「成績上位者」について、若干の補足をしたいと思います。
 基本的には、義務教育の現場を想定しています。
 公立中学校の成績上位者は、小学校の上位者に比べると、国立・私立・公立中高一貫校への受験で抜けてしまっているために、それほど学力が高くないのが現状です。
 中学校の5段階評定の感覚で言えば、公立では「5」に育ちそうな子どもが抜けてしまっている。
 ですからもし本当に「5」をつけたいのであれば、もっと学力を高める必要があるのに、絶対評価(目標に準拠した評価)の評定はインフレ傾向にあって、「5」が実態より多くつけられてしまっているのが現状です。
 ちょっと脇にそれますが、これは観点別学習状況の評価を総合化して評定をつけるときの誤解、つまり、観点別学習状況評価で「AAAA(Aとは十分満足のレベル)」の生徒の標準的な評価は「4(十分満足)」なのに、それを「5(十分満足な中でも特に優れている)」にあてようとする感覚が現場に多いのが原因です。
 さて、小学校には本来の成績上位者があまり抜けないでいるわけですが、受験レベルの問題と現場の教育内容のレベルが違いすぎて、学校の成績が上位というだけでは受験には対応しにくい問題があり、次元の異なる話題になるので置いておこうと思います。
 中学校では、小学校とは比較にならないくらい学力の格差が広がります(国立では全入でないところがありますが基本的に多くがエスカレーターで進学するので、中学でも高校でも学力の高低差があります。公立高校はかなり輪切りになっていて、ある程度、習熟度別になっている)。しかし、公立の中で高い方が絶対評価でも高いかというと、そうとは限りません。相対評価時代の評価観が染みついている人は、本当の(絶対評価の)「5」のレベルがそもそも実感できないのかもしれません。
 ふつう教師は、学力の低い層が「おおむね満足=3」のレベルになれば大満足でしょうが、学力が高い層も3のレベルでよいかというと、保護者はそれでは納得いかないものです。
 「受験学力」とは何か。これも定義が難しい(どこを受験するかにもよるので)。
 たとえば大学入試の場合、東大と早慶では、問題の質の高さが違うので単純な比較ができない。
 ただ、私のイメージとしては、ただひたすら授業をしっかり受ければ、つまり努力すれば、身に付いてしまうような学力のことを受験学力といいます。問題を作るのにたいした能力を要求されずに、しかも採点に手間がかからないタイプの問題を解く能力のことです。
 中学生にとっての受験学力では、とりあえず公立高校の入試で高得点がとれる実力がほしい(そうでないと希望の高校に入れない)。ただ、それは「3」を増やすことに注力している中学校では十分に対応できない。
 本当は、4や5の生徒も増える授業をしたいのに、なかなかできないので、外部に委託するしか選択肢がなくなってしまう。
 現行の学習指導要領は、従来それでもOKだった受験学力に加えて、「いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」も求めている。そこに「自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」と「たくましく生きるための健康や体力など」を加えたものが「生きる力」です。「生きる力」のうちでも特に、「自ら課題を見つけ・・・問題を解決する」力は、そう簡単に身に付けられるものではありません。
 受験学力がなくて「生きる力」だけつくということはあり得ません・・・とは、そういう意味です。
 今はひきこもりをしても家で餓死する心配がないほど豊かな国になっている日本ですが、さすがに社会に出たら、「変化への対応」を目の前の切実な課題として立ち向かうでしょう。「生きる力」指導が難しい最大の原因は、それだけの切実性が身近にない生徒(教師はさらに切実性を感じていない)に取り組ませようとすることにあります。
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公立学校における成績上位層の存在意義

 公立学校の中で、「成績上位層」の生徒たちに私が期待する存在意義・役割とは何でしょうか。
 塾とは異なり、「有名校への進学実績づくり」とは関係がありません(それが励みになって目標をもって入学してくる生徒が増えるかもしれませんが)。
 その役割を果たしてもらうためにも、公立学校は「成績上位層」の学力(ここでは「確かな学力」より「生きる力」に近いイメージ)をさらに伸ばす努力をすべきだと考えています。「成績下位層」への学力向上の手立ても行っていないのに「成績上位層」への配慮を批判する資格はないと思いますが、もしそういう人がいるとしたら、おそらくその授業は学習指導要領無視か何の工夫もないものなのでしょう。
 成績上位者に伸ばしてもらう力には、テストの点が取れるようにする力も含みます。よく、「受験学力」のことを非難?する人がいますが、受験学力がなくて「生きる力」だけつくということはあり得ません。
 公立学校のこうしたはたらきは、「成績下位層を見捨てる」などということではなく、逆に「成績下位層」をも救う効果も期待できるのです。ただし、それは授業の中で「成績上位層」が重要な役割を果たせることが条件です。
 この教育観の重要なキーワードは、「学び合い」です。
 授業に「学び合い」の空気がある環境では、子どもに「○○さんのようになりたい」という希望を抱かせます。「○○さんはすごい」という敬意を抱かせます。「○○さんに教えてもらおう」という意欲を抱かせます。
 授業参観で、保護者に「こんなにすごい生徒がいるんですね」と気づかせることができるかどうか。
 成績上位者に、「先生のおかげでこんな問題まで解けるようになった」と感謝されるかどうか。
 成績上位者が育たない、または死んでいる学校の授業、成績上位者を育てない、または殺している教師の授業では、こんな場面は見られないはずです。
 どちらかのブログで、教師は、運動の得意な生徒、明るくユーモアのある生徒はどの子も高く評価するが、成績がよい生徒の場合は、何だか白い目で見ているような印象がある、と表現されているのを読みました。
 もしそれが事実なら不当な扱いですが、でもそういう教師の内面はだれでも想像できてしまうでしょう。
 義務教育段階なら、子どもの学力は「やる気」と密接な関係があります。教師の「やる気」を育てる能力はもちろん大事ですが、子ども同士でも「やる気」は高め合うことができます。その条件を作り出すのは教師の役割であり、公立学校にもぜひとも必要なものです。
 進学校では、このような条件が整っており、子どもや保護者はそこに大きな意義を感じることができるのです。
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指導力格差に目を向けようとしない教師たち

 この話は、夜スペの和田中の先生に関して述べるものではないことを最初におことわりしておきます。
 子どもたちにとって、教師の指導力不足、指導力格差、指導意欲格差によってもたらされる損失は、一生ものになる可能性もあるだけに重要な問題です。
 大学を卒業し、免許をもち、経験を重ね、日々実践に取り組んでいるのに、学力向上は宿題だのみ、家庭や塾への学習のおしつけで、あげくの果てには「本人の努力」の不足にせいにする教師がいる。
 ここに、「学校は学力を伸ばす場所ではない」と公言して教育をしている学校があったとします。
 教師たちは、「成績が1でも5でも、進級して卒業するんだから同じことだ」「成績が向上しなかったことに対して教師には何の責任もない」と言っている。
 一方で、「学校は、学力を伸ばすため、こんな工夫をしています。こんなことを選択できます。こんな機会も提供します。こんな協力や応援を求めています。卒業生は、こんな声を残して卒業しています。1年次と2年次の学力調査の比較で、これだけ考える力がついたことが証明されています。・・・」などとPRしてくれる学校があるとします。
 もし学校が選択できるとしたら、自分の子どもを通わせたいのはどちらでしょう。
 公立学校の場合、教師自身が、指導力不足や指導力格差、指導意欲格差というものに正対しない限り、「安かろう悪かろう」の目は変えることができません。学力調査の結果がよくなっても、「どうせインチキしたんだろう」としか思われなくなったらおしまいです。
 和田中(の地域)の「成績上位者」への配慮が特に公立学校で必要な理由を、次回述べたいと思います。
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本当に重要な問題か、単に不快なだけか?

ハイ・コンセプト「個別」よりも「全体の調和」 
 教師にとって、「全体像を見る力」はとりわけ重要なものだと考えられます。
 近視眼的な思考で指導を誤ったり、特定部分の評価で全体像を歪めて把握してしまう例がたくさんあります。
 子どもたちの全体像とは何か。教師の全体像、学校の全体像、教育の全体像とは何か。
 「統合医療」では、科学にありがちな、患部だけを治そうとする左脳的アプローチだけに頼らず、身体・環境・心・感情・精神・社会にまで目を向けて、患者を全体的に治療することを目的としています。
 視野がない教師は問題外として、多くの教師の欠点は、視野を広く持っているところまではいいのですが、批判に終始して「治療」に踏み出さないこと。
 時間に追われ、情報に惑わされ、選択肢があまりに多いために感覚が麻痺している現代病に対する最良の処方箋は、文脈や全体像の中で生活をとらえ、本当に重要な問題と、単に不快なこととを見極めることかもしれないとダイエル・ピンクは述べています。
 今、教師たちが批判していることは、本当に重要な問題なのか。単に不快なだけなのではないか。
 夜スペは、一見すると、「患部だけを治そうとしている」取り組みのように感じられるかもしれませんが、「先生に相手にされない生徒」を救うことは、非常に重要なことだと思われます。教師の多くは責任回避論に偏るでしょうが。
 自分はどうか。
 自分自身の問題を棚上げして「自分に何が求められているのか」ということに正対しない人が、単に不快なだけかもしれません。
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同僚の力量不足を指摘できるか?

 外山滋比古著「ユーモアのレッスン」(中公新書)に、次のような小話が紹介されています。
 

バーナード・ショウの劇評を読んだある人が、
 「あの評はあまりにもひどいものです。血も涙もない冷たい方ですね、あなたという方は」と責めた。
 ショウはおもむろに口をひらいた。
 「わかっていないんですね。わたしがはじめ、いったんは原稿に書いて、そのあと清書するときに消したところをご覧になれば、わたしが、いかに、心あたたかき人間か、おわかりになるはずです」

 なかなか教育現場、教師の本当の実態は描きにくいものです。
 学校で、互いの教育力を磨き合う環境が整っているところというのは、本当に数えるほどしかないかもしれません。教科の指導のあり方について、真剣な議論ができる場を現場の教師は持てているのでしょうか。
 本音を言い合える関係を校内で築いているでしょうか。
 この有無が公立学校と進学塾との決定的な違いかもしれません。 
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論理では人は動かない

 ハイ・コンセプト「議論」よりは「物語」 
 優秀な管理職というのは、この「物語力」があるのだと思います。
 「物語には、形式的な意思決定の方法では忘れられがちな要素を的確に拾い上げる巧みな力がある。論理は、ものごとを一般論としてとらえ、意思決定の際に特定の文脈や主観的な感情を排除する。一方、物語は文脈をとらえ、感情をくみ取る。情報、知識、文脈、そして感情を小さなまとまりに要約してくれるという点で、物語は重要な認知事象なのである。」
 教員の能力や成果というのは、コンピテンシーモデルとの対応など分析的な視点で見ることが可能ですが、これを管理職と教員が共有するためには、「物語」が欠かせません。どれだけ教師の「物語」に耳を傾けることができるか。管理職として、どれだけ魅力のある「物語」ができるか。
 新しい成果のイメージ、将来的展望は、物語によって共感を得ることができます。
 著書では、治療に大きな成果を上げている「物語医学」というものの存在を知ることもできました。
 生徒が50分の授業で「英雄の旅物語」の主人公として活躍できるようなデザインを考えたいものです。
 私たち教師は、自らが自分自身の物語の作者であることを自覚できているでしょうか。
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手ぶら通勤で頭の体操

 ハイ・コンセプト 「機能」だけでなく「デザイン」
 デザインとは、「単なる装飾」や「ありきたりの場所や物を良く見せるための飾り」ではなく、その本質だけを見れば、「ニーズを満たし、生活に意味を与えるために、先例のない新しいやり方で自分たちをとりまく環境を形作る人間の本性」と定義している例が紹介されています。
 このように考えると、デザインは、オートメーション化やアウトソージングが難しいハイ・コンセプトな能力であることがわかります。
 「実用的なものが美しいというのは間違っている。美しいものこそ実用的なのだ。」
 いろんな教師の板書を比較してみましょう。
 教師の机を一つ一つ眺めてみましょう。
 ハードのデザインは均一ですが、使い方のデザインはどうでしょう。
 書類の整理の仕方。並べる位置。収納の使い方。
 「佐藤可士和の超整理術」(日本経済新聞出版社)に紹介されている「空間の整理」「情報の整理」「思考の整理」は参考になります。「手ぶらで通勤、帰宅するときの開放感(解放感?)」が格別であることは、ときどき体験できます。人間、書類や本をたくさん抱えて歩くときより、手ぶらで手帳も持っていないときの方が、いろんなアイデアが浮かびやすいのではないでしょうか。メモを忘れて思考のお蔵入りということも多いのですが。
 アメリカの学校では、教室等のデザインを工夫しただけで、学力が向上したという研究成果があるようです。
 日本では教室の壁がないオープンスペースがはやった時期がありましたが、授業に集中できず、生徒は気の毒です。
 機能を優先するとどうしても美しくないものができあがりそうです。美しさを優先すると何だかムダなものに見えてしまう。「有意性」をもつデザインというのは訓練しないと身に付きそうもありません。 
 間もなく次の指導要領が告示されますが、解説がでるときは、もう少しデザインに気をつかってほしいと願っています。100円に満たない出血覚悟の出版物ですが、見た目を変えるだけでも「読まれる」本になります。
 いかに教師が学習指導要領を読まないで仕事しているかは、総合や生活科の記事を拝見すると、とてもよくわかります。
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「今、職員室にはだれもいません」

 「『教育改革』はなぜ失敗するのか」(PHP研究所)の著者は大阪府の方のようですが、大阪ではもう30年も40年も管理職と組合の関係は変わっていないようですね。養護学校に限ったことでしょうか。それとも、他の道府県でも同じような状況にあるのでしょうか。
 ゆとりを求める組合の要求がかなっていく経緯や、当時の文部省との見解の一致点なども著書では紹介されています。「ゆとり教育」の推進という形で、組合が果たしてきた大きな役割を確認することができました。
 現在の組合の活動については詳しくないのですが、上層部?の人を除いて、管理職・教育委員会の動向や変化が分かっていない人もブログを読む限りでは非常に多いようです。人事関係の会議録は都道府県教育委員会のHPを見れば、教員の処分などプライバシーにかかわるもの以外は公開されているので、パブリックコメントを発信することもできます。
 通学区域という「地域」のことについて、昔やっていた家庭訪問のことを思い出しました。
 最近は、家庭のプライバシーの侵害にあたるのではないかとして(最も大きいのは授業カットができない状況になることか?)家庭訪問を取りやめ、三者面談にしている学校もあるかもしれません。(ただ、三者面談を組むと、休んだ分の仕事の金をよこせという保護者がいます。有給休暇がとれる仕事についていない人もいるので、三者面談すら今は難しいのでしょうか。)
 家庭訪問を取りやめた場合も、「地域を知る」という名目で、巡回を計画したこともありました。
 学校選択制に対して「地域の破壊につながる」という理由で反対している人のうち、通学区域という地域のことを本当によくわかっている人はどのくらいいるのでしょうか。
 たまり場になる公園。高校生から恐喝を受けた事件の場所。自転車の事故の危険がある場所。万引で生徒がつかまったことがある店。パンポンダッシュで迷惑をかけたことがある民家。運動会のときに、必ず騒音の苦情を伝えてくる家。両親が共働きで、夜に生徒が集まって遊ぶおそれがある家。・・・
 「地域の学校」と銘打つならば、すべての教員が地図を持たずに歩き回る「土地勘」をもっている必要があります。自治会長の家がどこで、PTA会長はどこ。商店会の会長は。・・・校長や副校長なら、異動してくると必ず「挨拶まわり」というのをしますが、私はここに教員も必ず同行すべきだと考えています。
 他校との抗争が多い地区では、当然相手校の学区域の地理も頭に入れておく必要があります。
 このような仕事を「生活指導部がやること」などと言って避けていると、生活指導部の教員が全員授業中で職員室に残っているとき、「先生、すぐ来てください」という生徒の声に「今、だれもいません」と答えてしまう教員になってしまいます。
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格差を隠したがる教員の主張

 以倉孝憲著「『教育改革』はなぜ失敗するのか」(PHP研究所)では、公立学校の現場からの問題提起と真の改革プランと称して、「競争と共生」や「バウチャー制度」で教師を変えることなどが提言されています。
 組合敵視が露骨ですので、組合活動を愛している人にはお薦めできない本ですが・・・。
 内容にはあまりふれませんが、同じような体験をした教員として、共感できる部分が多かったように思います。
 たとえば、学校選択制ですが、組合は「地域の格差拡大」「地域の破壊」などを理由に反対しています。
 組合というのは思考が同じというより同じ利益を追求する集団と考えれば、反対する理由というのがよくわかったりしますが、ここではそういう問題は置いておいて、「地域」の捉え方の問題と、「破壊される心配はない」という実感についてふれます。
 まず、通学区域という「地域」ですが、たとえば学校選択制を実施している東京都の場合、この「地域」はもともと非常に狭いのが特徴です。同心円状や碁盤目状の形でないので、近い学校に行けないとか、生活圏と全然違うところに行かされるとか、物理的におかしい状況というのがありました。こんな狭い地域のことをさして「地域の格差」うんぬんと言う意味があるのか。江戸時代のムラの五人組じゃあるまいし、もっと広く「地域」を考え、別にその「地域」が他の学校の「地域」とダブっていたってかまわないのではないか。一つの行政区の中で、どっちの地域がどうとか言っている場合なのか。素直にそう思います。私の家からは自転車で15分以内で行ける中学校が8校もあります。全体として一つの地域といってもおかしくありません。その中で、学校がそれぞれの特色をもち、それにひかれた子どもが通う。何も考えないで通知の届いた学校に通っても全くかまわないのですが、たとえば大規模校より小規模校、少人数になっている学校が向いているとか、子どもに合った学校が選べる可能性が増えます。地域の人々も、学校を見る視野が広がり、教育への関心も高まっていきます。
 次に、地域が破壊される・・・という主張がありますが、地域にとっては、いろいろな意味で学校選択制はいい刺激になります。一番は教師の側への刺激なのですが、多くの生徒が他へ流出し、「地域が破壊される」という危機感を教師がもてるだけで、地域とのつながりは深くなります。「学校が統廃合されるかもしれない」という危機感が現実のものになっても、教師も地域も何ら手を打つ気がないのであれば、統廃合して何も問題もないはずです(母校がなくなる子どもは気の毒ですが)。逆に「多くの人から選ばれた学校」になれば、それだけ地域からの期待というプレッシャーが強くなり、その期待に応えようと努力することになります。
 青少年委員や保護司を長くつとめた人は、冷静な目で学校の変化を見ています。
 学校選択制が始まって、「先生がようやく地域に目を向けだしてくれた」と語っている人もいました。
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学校選択制の最大のネック

 先日、前任校の教師と会って話をしたときに、学校選択制の最大のネックを改めて感じました。
 それは、異動してくる教師の問題です。
 他の通学区域から多くの生徒を集める学校は、その教育内容に特色があったり、部活動がさかんだったり、生徒たちが落ち着いていたりと、性質はさまざまなですが、すべてに共通しているのは「教師と生徒ががんばっていること」です。
 そこに、「何でこんなことを私がしなくてはいけないの?(荒れていた)前任校ではこんなことしたことないのに(・・・だから荒れていたのでは?)」という教師が異動してくる。
 公立学校は、「平等」の原則があるので、優秀な教師、やる気に満ちた教師ばかりを特定の学校に集めることができません。
 指導力がなかったり、協調性がなかったり、子供が嫌いだったりする教師が異動してくるリスクが必ずあります。
 こういう教師が、「人気のある学校」に転任してくると、俄然「足を引っ張る」ことに精を出し始める(場合がある)。
 そしていつの間にか、「底辺に合わせる形の平等」が実現する。
 底辺からよじ登っていくのも難しい。
 公立学校の場合、教育熱心な教師にとっては、非常に居心地が悪い空間になりやすいのです。
 「あなたがそんなことをすると、やってない私に苦情がくるからやめてくれ」
 「あなたがそんなことをすると、異動した後、同じことをやらされる人間がでるからやめろ」
 そういうプレッシャーがかかります。
 競争原理は絶対反対!という教師の論理は非常にわかりやすいですね。
 生徒を多く集める学校で問われるのは、管理職のリーダーシップですが、「競争原理反対派」の教員が管理職の言うことを素直に聞くはずがありません。ですからこのような教員の教育は「学校のよさを守ろう」という強い意志のある5~6年選手の肩にかかっているわけです。しかしそれでも前任校より仕事が増えることを嫌がる教員の指導は難しい。
 「どうせあと3年たったら異動してやるから」という投げやり系のオーラを放つ教員のために、1年でも異動が可能になったと聞いています。やはり早く出て行ってもらうしかないのでしょうか・・・。
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教師にとっての「ハイ・コンセプト」の時代

 ダニエル・ピンク著・大前研一訳「ハイコンセプト『新しいこと』を考え出す人の時代」(三笠書房)では、「フラット化する世界」と同様、代行可能になってしまう仕事では生き残れなくなる時代に求められる力を紹介しています。
 これから求められる「六つの感性(センス)」として著者が挙げているものを見て、これらは本来、日本人が持っていたコンピテンシーではないのか?と感じたのは私だけでしょうか。二年前に出版された本ですが、「新しさ」と「なつかしさ」が同居している感覚があります。
 「機能」だけでなく「デザイン」
 「議論」よりは「物語」
 「個別」よりも「全体の調和」
 「論理」ではなく「共感」
 「まじめ」だけでなく「遊び心」
 「モノ」よりも「生きがい」
 教師にとっては得意分野に入る能力が多いのではないでしょうか。
 「はじめに」で著書は、新しい時代を動かしていく力として「ハイ・コンセプト」「ハイ・タッチ」を挙げ、前者を「パターンやチャンスを見出す能力、芸術的で感情面に訴える美を生み出す能力、人を納得させる話のできる能力、一見ばらばらな概念を組み合わせて何か新しい構想や概念を生み出す能力など」とし、後者を「他人と共感する能力、人間関係の機微を感じ取る能力、自らに喜びを見出し、また、他の人々が喜びを見つける手助けをする能力、そしてごく日常的な出来事についてもその目的や意義を追求する能力など」としています。
 これらのうち、教師に求められていないものはないと言ってよいでしょう。また、多くの教師が教育に「やりがい」を感じたとき、実践していたことを指していると考えることができます。
 著書の言う「新しい全体思考」とやらを教師の立場として検証してみたいと思います。
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学校の業務改善方法は?

 4日にご紹介した三木雄信著「A4一枚仕事術」(東洋経済新報社)の構成は以下のとおりになっています。
第1章 時間&仕事管理術→ビジネスライフの充実
第2章 思考力強化法→考える力をつける
第3章 企画力強化法→アイデアを生み出す
第4章 文章力・話術&勉強術→書く・しゃべる力、勉強法を身につける
第5章 会議術→会議を取り仕切る
第6章 リーダーシップ強化術→人の心を動かす
第7章 ビジネスライフ計画術→人生の波を乗り切る
 ここに紹介されている43枚のシートを見ると、企業というのは非常に組織的に管理・運営されている(特にコスト意識が高い)ことがよくわかります。効率的に業務遂行するための個人の能力を高めることが期待できます。
 一方、学校という教師にとっての職場が、いかに組織的でないかもわかります。 
 職員会議のように、伝達事項中心であれば全く必要がない時間が延々と受け継がれていたり、分掌や学年という会議で無駄なダブりを繰り返していたりと、教師は忙しい忙しいと言いながら、時間についてのコスト意識がないのです。教員が会議で寝ている時間の給料も税金でまかなわれています。 
 業務のスリム化のデザインは管理職が進んで示し、教員が勉強に向ける時間を増やせるようにしなければなりません。
 部活のない日は早く帰宅するが仕事は完璧という教師のロールモデル化など、教師同士では気づきにくいコンピテンシーを「見える化」するのも管理職の仕事です。
 ただ、学校は外に対しても閉鎖的であり、かつ教員間の関係もオープンでないことが、「ロールモデルシート」の作成に取り組むと明らかになってしまうかもしれません。
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ロールモデルシートの活用を

 三木雄信著「A4一枚仕事術」(東洋経済新報社)には、教師も活用できそうなアイテムがたくさん紹介されています。
 まず、成果主義が導入されつつある(学校の場合、ほとんどの「普通(=当たり前のことが当たり前にできること)」の教員には、給与に反映しないシステムです)中、私がブログのタイトルにしているように、教師のコンピテンシーというのを明らかにしなければなりません。
 ただ、これを上からおろすと教員の反発を招いて、やる気のない人がますますやる気をなくしますから、教師が発信する形のコンピテンシーディクショナリーを学校ごとにつくっていけばよいわけです。
 ここで使えるのが「ロールモデルシート」。
 一番上に、見本(手本?)としたい人の名前を書く。(これを同僚にすれば360度評価にも使えます。)
 次に、見本にしたい点を書く。(これがコンピテンシー。場合によっては単なるスキルかもしれませんが)
 さらに、見本にしたい人がもっている知識や能力を書く。(コンピテンシーの基礎になっているもの) 
 最後に、見本にしたい人が積んできた経験。(学歴は避けてもいいのでしょうが、研究歴、研修歴、資格等)
 どういう教師がその学校の教師が見る「理想の教師」なのか。
 外部から見たらその理想像はどう評価できるのか。
 生徒から見てどうなのか。
 実践してみると、たとえば中学校・高等学校の場合は、教科が違うと互いのことを何も知らない人の集まりだったりして・・・。それで「チームワークが大事」とか言っている学校は多いかもしれません。
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2020年からの教育

 10年経験者研修を担当した方が、教師の力量の違いがここまで大きいとは・・・と実感した経験をある雑誌で記事にしていました。
 「あなたの学校の長所は何か」「あなたが校長になったら、どのような学校経営がしたいか」という質問に、教師はどう答えられるのか。レポートの中身の話はここでは述べません。普通の教師には、なぜ成果主義が学校に求められているのか、その背景をまともに説明する能力を期待するのは難しいのかもしれませんが、10年たっても初任者当時のレベルでしか学校を語れないのは悲しいことです。
 ですから、教師の職責・職能に応じた新しい職層を導入し、複線型のキャリアアップの必要性が将来的に高まる可能性が高いと考えられます。
 団塊世代と新人世代が総入れ替えになる2020年頃からの学校制度のあり方を考えています。
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「ゆとり教育」完全実施世代の初受験

 3日に入学試験があった受験生は雪でたいへんでしたね。
 今年の大学入試、中学入試というのは、平成14年度に現行の学習指導要領が完全実施されたときの中学校1年生、小学校1年生が受験するものです。
 つまり完全「ゆとり教育」・・・いえ、「生きる力教育」世代のお受験です。
 もしいわゆる「学力低下」が本物ならば、受験問題のレベルと得点で証明されるかもしれません。
 公立の中高一貫校は、学力検査ができないために「問題解決型」の適性検査を実施していますが、この結果を分析すれば、「生きる力教育」が軌道に乗っているかどうかわかります。
 ・・・ただ、もし「格差が拡大」しているだけで、上位層のレベルが維持されているとしたら、受験の結果だけではわかりません。塾が学力をキープさせる機能を果たしているかもしれないからです。
 学校・塾の反応はいかがでしょう?
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アメリカと同じ危機感をもてるか

 「フラット化する世界」の著書トーマス・フリードマンの「家庭における子育て」に関する著述を読むと、日本とアメリカのどちらの親が先を進むことができるのか、不安になってきます。
 

学校でつらいこと、がっかりすること、ストレスを感じることがないように、子供たちを真綿でくるんでおかなければならないという意識は、ひとことでいえば、アメリカ社会にひろがる癌だ。そういう考えをあらためないかぎり、われわれの子孫は、フラットな世界の社会を揺るがす大きなショックをまともに受けることになる。

 子供が「it」の国ですから危機感を本当にもてたときは立て直しも早いかもしれません。
 日本は逆に、みんながそういうムードを高めれば一気に進みますが、ずいぶん慎重なところがあります。少子化がここでは大きなネックになります。
 中国や韓国では、逆にその少子化が最大の武器になっている。
 「いいものは必ず外国からやってくる信仰」の日本では、やはり教育改革の先陣をきってくれる国がでてくるのを待つしかないのでしょう。
 日本では「個人」と「平等」があまりに強く全面に出てきすぎです。「国」や「自由」がもう少し重視される素地はできないものでしょうか。
 「国」というと「滅私奉公」という単純思考をもつ人を減らすことはできないものでしょうか。
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教育省を新設すると・・・

 公立学校にかかわりが深いアメリカの下院議員の話。
 

教育は場所ではない、プロセスだ。・・・教育はいつでもどこでもできるし、できなければならない・・・学校、職場、家庭、オンライン、教室、iPod・・・そこには教師もいれば、独習の手順もあり、オンライン・ゲームもある。なんでも役に立つ。手をゆるめてはならない。手をゆるめない競争相手がどこかにいるのだから・・・
 和田中の「夜スペ」の教師バージョンだってあっていいわけです。大学院の出張授業。「勉強時間」は、教師より子どもの方が圧倒的に多いわけですが、教師にも勉強する機会が与えられていてもおかしくない。
 また、部活動の試合で子どもが行き来しているように、和田中の子だけでなく、近隣の他校生も受講できるようなしくみもあっておかしくないのでは。広域学校評議員会のようなものが、時間外学習コアスクールをつくったり、スポーツ・文化活動クラブを運営し、民間の力を活用する。
 公立学校という場が、税金で生活している一部の人間たちのものではなく、市場主義の中で実績と成果で生きている人たちにとっても活躍・活動の場になり、子どもがあらゆる機会を通じて教育を受けられるようにすること。
 その場は、いまのところありあまるほどあるわけです。空き教室だらけの学校もある。
 子どもたちにその施設の利用の仕方を考えさせてみたらいかがでしょう。学校という公共施設は、本当に子どものために有効に使われていると思えるか。
 公立学校とその教師の醜い閉鎖性を破るために、たとえば図書館と併設型の学校、美術館・博物館が校舎内にある学校、保育所や高齢者福祉施設があり職場体験をしながら学べる学校、スポーツクラブがある学校、・・・そして塾が併設されている学校など、実験的な取り組みをはじめるのはいかがでしょう。どこに行ってもまったく個性のない、共産主義の典型のようなハコをどうにか転換できないものでしょうか。ショッピングモールのようなイメージの公共施設の集合体が、学校を開くきっかけにはならないでしょうか。そのためには、「教育」を文部科学省が担当するのをやめ、「教育省」を設置することが行政組織上、必要になります。 
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地球で最高の学校?

 日本は、いいものはすべて外国からやってくるという信仰?をもっているために、なかなか自力で改革しようとしても、うまくいかない、そういう主張をしている人がいます。
 ネット網が世界をおおうようになったため、入国させなくても、外国にいる外国人を雇い、仕事をさせることが可能になったアメリカの話。武器は外国人が「英語」を使えること。欧米各国の植民地支配の遺産は絶大な威力をもっています。
 これも「フラット化する世界(下)」に紹介された話です。
 アメリカでは、ある仕事を海外に移転すると、賃金を75%節約できるだけでなく、生産性が100%向上する。
 アメリカ国内では低賃金で社会的地位が低いコールセンターのオペレーターのような仕事も、インドでは高賃金で社会的地位の高い仕事になり、より安い賃金で高い意欲の労働者を雇用できる。しかも、安くて効率的なだけでなく、品質と生産性が格段に向上する、というものです。
 アメリカは自国民の教育について、具体的な危機感を現実的にもっています。
 では、多民族国家アメリカは他人の話かというと、読者の私立校教師からの手紙が紹介されており、保護者面談で経験したこととして、次のような内容が紹介されています。
 自信のない親は、子どもが問題をおこさず、楽しそうにしていれば、万事順調だと考え、いい教育を受けていると思っている。周辺の公立・教会系・私立学校よりも本校の方が優れていると保護者が考えれば、学校の上層部もそれで満足。しかし、学校も隣や町や州とだけ競争しているわけではないと気づきました。
 我々教師は、いろいろな面で自分を騙している。学問の面で言えば、ハングリー精神を失っている。・・・フラットな地球に耳を押し当ててみれば、海外から押し寄せる競争の足音が聞こえるはずです。教育者として小生は、地元や地域で最高の学校になるという目標は捨て、地球で最高の学校を目指したいと存じます。
 著者の次の言葉も、印象に残りました。
 「世界がフラット化しはじめる前、アメリカは本質的に島国だった・・・」
 日本での教育の議論は、非常に抽象的だったり、まことに瑣末な施策の是非で賛成だ反対だと言っています。
 細部にこだわることも日本の長所かもしれませんが、「地球で最高の学校」をつくる気概がある教師はどれくらいいるのでしょうか。そのためには、「求める人材」「理想の才能」は本来多様なものであって、その根底にある、学問や社会への興味・関心や学び続けるための学び方を身に付けさせること、成功願望をもたせることが重視されなければならないことは、言うまでもありません。
 この成功願望をくだらない理由をつけてつぶそうとする教師たちが果たしている役割は何か。それは「格差拡大」を悪として、「格差縮小」のために「成長」を抑制することにあります。
 日本の最後の砦になっているのは、アメリカと異なる条件、「日本語」です。日本が英語圏に入っているものと仮定したときの社会像を考えるとぞっとします。
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未成年保護のためのアクセス規制~携帯官製不況?~

 2月4日発行の日経ビジネスに、「携帯官製不況」と題した記事が掲載されています。
 これは、総務省が青少年の保護を目的に「有害サイトアクセス制限」を義務づけたため、災害情報やいじめ相談など、多くの有益なサイトにもアクセスできなくなる問題を取り上げたものです。
 コンテンツ事業者は、管理コスト増(サイト内書き込みの24時間監視の人員を増やすなど)と広告収入減というダブルデメリットに見舞われ、「ケータイ不況」とも呼べる状況が訪れかねないとしています。
 「たかが未成年への制限なのに・・・」と思って記事を読み進めていくと、3000円以上のパケット代を払っているのは年代別で19歳以下が最も多い(割合が約50%。30歳代は30%に満たない。)ということでした。携帯コンテンツ市場は、未成年が牽引しているわけです。
 教師や保護者の立場としては、総務省の決断によって、出会い系サイトを介した売春や、ブログサイトでの誹謗中傷、いじめなどから子どもを守ることができると評価したくなるような感覚でいましたが、健全なサイトまで閲覧ができなくなると、「携帯の便利さ」が失われ、子どもにとって「意味がない」道具になってしまうおそれもあるということです。
 「そこまでやってくれるなら子どもに買ってあげてもよい」という認識の親は少数派で、ほとんどの親は携帯を使って1日何時間くらい何をしているか、把握していないのではないかと思うことがあります。
 赤ん坊へのおもちゃと同じで、携帯を与えればおとなしく邪魔もしなくなるメリットはありますが、学習時間の減少など、勉強嫌いの子どもにはますます勉強から遠ざけてしまうデメリットをもつのが携帯です。
 本来は契約者である親が責任をもつべきことを、総務省は規制の義務化という「戒厳令」によって保護する手段に出ました。これでますます親の責任回避性向が高まるかもしれません。
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次の学習指導要領のねらい

 「ゆとり教育」が目指したものは、ただの時間と内容の削減ではなくて、ゆとりの中で「・・・という力をつけること」でした。・・・にあてはまる言葉を無視して現行の指導要領を語る人が多すぎますね。
 残念ながら教師にも多かった。
 研究推進校の発表を見ても、「これはおかしい」という取り組みが多かったのです。
 結局、教師や学校の力量がこれほど露呈する指導時間というのはかつてないものでした。
 次の学習指導要領のねらいは、・・・の力の育成を教科に移行させることで、この問題(子どもにとっては被害)を教科内に限定することにあるようです。
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小学校時代の恩師に授かった財産

 授業の開始前に教科書やノートを準備し、短時間で前回の授業の復習をしておく。 
 小学校で身に付けたこのような習慣を、中学校・高等学校でも続けられたことが、たいした才能もない自分の学力の向上を支えていたことと常々思っています。
 小学校時代にこのような財産を授けてくださった先生は、まさに「恩師」です。
 私の授業参観をするとき、最初の方のチェック項目がこれです。
 学習習慣というのは、極論すると学習内容に勝る財産になりうるのです。
 「学び方」「学ぶ姿勢」を学んだことは、社会に出ても、教師になっても、行政の世界に入っても、さまざまな効果・成果を生み出してくれました。
 プリントを配布されたら、さっと目を通し、すぐに必要な情報なのか、生徒向けなのか家庭向けなのか、提出物なら期限はいつなのか、確認する。たったこれだけを習慣化させるだけでも、プリントの「忘れ物」「親への渡し忘れ」「鞄の中での冬眠」を避けることにつながります。
 このような「恩師」に授けられた財産を教師はどのように伝えていっているのでしょうか。
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より