ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 消費期限切れを隠そうとする「公」の論理 | トップページ | 「書く」ことの効用 »

「公」「私」「公共」プラス「私共」

 稲垣久和著「国家・個人・宗教」(講談社現代新書)は、「公共哲学」の入門書のような内容ですが、「公」のマイナス面ばかりを強調しようとする偏った論調が気にかかります。

 「国家を超える市民的公共性」を具体化したいという願望を述べるのはよいのですが、「市民」の姿が理想主義的なので、「結局は理想の実現は難しそうだな」という印象を与えるだけの本になってしまっています。

 「公共の福祉」の実現には、「滅私奉公」(戦前・戦時の知識が全くないならこの語でもかまわない気がしますが)あるいは「滅私奉『公共』」の精神が必要です。別に命を差し出せと要求しているわけではなく、「みんなのためにがまんしたり、みんなのために自分の力を発揮せよ。そうすれば自分のためにもなる。環境問題の解決には、絶対に必要な精神だ・・・」程度の意味でとりあえずは認識していればいいわけです。

 「公」に国、官、政府、お上、天皇といったイメージを肥大化させて保持している人々と、素直に「国民の税でまかなわれているもの」というイメージでとらえている人とでは、なかなか議論がかみ合いません。

 現実の「市民」「国民」「民衆」「庶民」「人々」の中には、「公共の利益」よりも「私の利益」を優先したい人が非常に多い(その根拠を「日本国憲法」に求めることもあります)。

 ですから現実の社会を考えていくには、公・私・公共の三元論ではなく、「私共(わたくしども・・・『私共空間』という私の造語の一部ですが)」という立場も加える必要があります。「公」にも「私」にも「公共」を実現する能力はあるし、逆に「私共(わたくしども)」のために行動していまう危険もある。

 「公」=政府と考え、批判ばかりしたがる人は、「公」がもっている「私共」精神の部分(とたえば、汚職など)だけを見ているわけで、自由主義の「私」については、その結果の不平等、格差の出現ばかりを批判して、「利潤を目的としているといっても、市場の原理に基づいて基本的には消費者を満足させるお金とサービスの交換を成立させる、人間の幸福追求には欠かせない存在(たとえば、テレビ局がNHKだけだったら・・)」として見ていない傾向があります。

 もちろん「私」は「私共」精神を生みやすいものだし、消費者の「私共」精神を利用して不正をはたらけるもの(たとえば高額の配当をうたった投資の詐欺など)なので、これを規制・監督しなければなりません(「私」の能力に限界があれば、「公」の役割。たとえば公教育での金融教育など)。

 そこで、今、公教育に求められているものは何かと目を向けると、多額の税金を使っているのに「学力をつける」機能が十分にはたらいていない。その一つの問題として、より高い学力をつけたい子どもは、みんな高額な費用をはたいて塾にいかななければならない。経済上の理由から塾に行けない子どもが、高い学力をつける保障が日本の教育にはない。これでよいのか。・・・もちろん、「最低の学力の保障」だけが公教育の役割ならば、全員を一定レベルに上げればそれ以上の仕事はしないでよろしい。こういう主張はあってよいわけです。だから、「補習」なら塾との提携も認められる。しかし、これではすべての「市民」のニーズに合わない。とはいえ、学校にはそのニーズにこたえる能力がない。ではどうするか。「塾に行けない子どもは、家で勉強しろ。高い学力がつかないのは、家庭学習ができていないからだ。責任は子どもにある。」と開き直れるかどうか。共産党や教職員の組合などは、開き直っていいと答え、「市民」と対立している。朝日新聞は、開き直ることはできない立場を「天声人語」で表明しました。

 公立学校と進学塾の提携が、「公共」の精神に基づくものなのか、「私共」精神によるものなのか。「開かれた学校」とは何か。

« 消費期限切れを隠そうとする「公」の論理 | トップページ | 「書く」ことの効用 »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

公共空間と私共空間」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「公」「私」「公共」プラス「私共」:

« 消費期限切れを隠そうとする「公」の論理 | トップページ | 「書く」ことの効用 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より