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2008年1月

学校と進学塾の違い

 学校と地域と生徒、そして民間企業である進学塾が一体となって実現した「夜スペ」ですが、生徒にとって気の毒なことに、「反対論」という逆風が吹いています。
 現時点ではマスコミはおおむね賛成論・応援論によっているようで、もう少しインパクトのある反対論を待っている感じがします。
 地方の方にはよく実感がわかないかもしれませんが、都内だと、複数の塾から勧誘がかかったり、パンフレットをもらったりして、実際に通おうとするときも、いくつかの塾の中から選ぶことが一般的です。
 同じ進学塾でも、西日暮里は先生と生徒の質が高いとか、御茶ノ水がいいとか、教室を選ぶ保護者すらいます。
 「夜スペ」を生徒が希望し、学校が施設を提供(そもそも施設は住民・子どものためのもの)し、保護者がお金を支払って実現させたのは、「サピックス」という塾の看板があったからかもしれないのは確かです。
 大学生のアルバイトだとか、先生のボランティアだからではなく、サピックスだから受ける。
 学校と進学塾の最大の違いは、能力とニーズに応じた教育を徹底できるかどうかと、その成果に対して責任をもつかもたないですむかです。塾は実績で経営が左右される。だから通いたくもない学校の入試まで受けさせられる、という弊害もよく知られていますが。
 サピックスは、宣伝効果をねらったのはわかりますが、結果が伴わなければ経営にとって逆効果になりかねません。私などは学校より塾の校舎の方が勉強に集中できて効果も高いのでは?と思ってしまいますが、生徒にとっては、全国ニュースで流れて注目される的になっているので、嫌なプレッシャーがかかっているのではないかと心配になります。
 普通の教師の横並び最重視主義もわかりますが、同級生や学校の生徒はどのような目で「夜スペ」参加者を見ているのか。教師からはどのような扱いを受けているのか。
 部活動でいい成績を上げると全校生徒から注目されるように、成績上位者がしている努力も同じように応援されるような雰囲気というのが学校には必要だと思います。ただ、横並び全体主義の教師の影響を強く受けている学級などでは、肩身の狭い思いをしている生徒が少なくないかもしれません。
 夜スペ参加の生徒にとって、一番応援してほしいと思っている相手はだれだと思われますか?
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理想の才能を育てる教師とは

 「フラット化する世界」(日本経済新聞社)の著者トーマス・フリードマンからの投げかけに、ビル・ゲイツが答えた言葉は、日本人としてどう受け止めたらよいのでしょう。
 ビル・ゲイツは、中国や日本の丸暗記中心(?)の学習からは、アメリカと競争できるような革新者がおおぜい生まれることはないという考えを、嘆かわしい間違いと言っています。
 

掛け算ができなくてソフトウェアが作れるなどという人間に会ったことはない・・・・世界一創造的なテレビゲームはどこのものか?日本だ!丸暗記人間なんてどこにいるのかね・・・わが社の優秀なソフトウェア制作者の何人かは日本人だ。秩序立てて物事を理解していないと、それより進んだ物事を作ることはできない。

 では、詰め込み教育がやっぱり必要なのか?
 トーマス・フリードマンは、「理想の才能を求めて」の章で、最も重要なのは「学ぶ方法を学ぶ」能力だと言っています。日本の文科省用語では「生きる力」です。
 「それはどう学べばいいのか」という問いに対しては、好きな先生、理想的な先生から学ぶことだと答えています。
 変化が激しく、常にデジタル化、オートメーション化、アウトソージングされる可能性がある時代では、古い物事をやる新しい方法や、新しい物事をやる新しい方法をたえず吸収し、独習する必要がある。いっぱい勉強するためには、独学するためのやる気が欠かせない。学ぶことが好きにならなければならない。
 教師の最大の仕事は、自分が教える教科の学習を好きにさせることだと言えます。 
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学力については格差拡大を否定できない

 学校の教師なら塾の講師以上に実感できることとして、「学力格差の拡大」という問題があります。
 公立中は小学校での上位層が進学校に抜けてしまっているので、相対的な意味での上位層ですが、全体として、学力はきれいな正規分布になりにくくなっています。二極化まではいかなくても、上と下がはっきりしている。
 学力上位層というのは、やればやるほど実力が身につくので、塾での学習などは能力向上の対時間効率がよく、それだけ学力下位層との格差が広がっていくわけです。
 この「格差拡大」を嫌がる教師の心理は、塾などに通って学力を向上させるような方法に忌避感をもつことにつながっていきます。
 夜スペに反対する人の中には、教育の機会均等とかそういう問題以前に、学力差が広がることが嫌な人がいるはずです。
 しかし、教師はこのような上位層の学力向上に歯止めをかけることができないので、「格差拡大」を食い止めるには、学力下位層の指導に力を入れるしかありません。ただ教師の最大の悩みは、「勉強の強は強制の強」と言って机に向かうのが嫌いな子どもに、学習習慣をつけることが困難なことと、学力向上の対時間効率もあまりよくないことがあげられます。
 よく下位層への指導の手立てとして少人数指導が実施されることがありますが、その場では理解できても、次の日には忘れているとか、そもそも家庭学習などの習慣の改善までいかないとか、決して高い効果は得にくいのが現状です。(ですから5人にしても難しいので、30人学級にしたから学力が上がるという保障はありません。もともと少人数である学校について調べてみても、成績が特に優れているというデータはないのです。)
 私が考える公立学校の手立てとしては、勉強が得意な生徒も、苦手な生徒も、「ともに生き生きと学び合う場」をつくるという姿勢を教師が絶対にくずさないということです。学力上位層の生徒をないがしろにすると、「学び合い」の空気が崩れます。授業の場でさまざまな生徒の「生かし方」を工夫することが教師にとっての責務になります。
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部活でなく学習の夜スペはなぜできない?

 夜スペについては朝日新聞や石原都知事など擁護論・賛成論・応援論が目立っており、反対派にとっては公立学校の教育課程の枠外での活動のため、「教育の機会均等」という論理が通用せず、あせっている人が多いかもしれません。法的な問題では議論にならないため、あとは公立学校が学力上位層への手立てをあくまでも拒否する態度に出るかどうかという選択の問題になります。
 一部の教師が抱いているような、公立学校は「最低学力を保障する場」であって、「学力を伸ばす場ではない」という定義をしてしまうと、公立学校は学力上位層が学ぶ場ではなくなってしまいます。しかし、和田中でさえ、学校の教育課程の中では「上位層の学力を伸ばすことは不可能」と判断しているのですから、公立学校には最低限の学力を保障することに注力しなければならないのは言うまでもありません。
 人事考課など自分向けの行政の管理は批判する一方で、一部とはいえ生徒のための援助には行政に管理を求めることは、逆コンピテンシーのうちでも最も評価しやすい行動基準となっています。
 学校によっては、すでにPTAや学校評議員から「うちの学校ではできないのか」とプレッシャーをかけられているかもしれませんが、教員にコントロールされているふつうの学校の校長に期待するのは酷というものです。
 地域主導で塾等と提携し、学校の施設利用を願い出るスタイルが現実的かと思われます。
 ・・・しかし、教育課程外の部活の夜スペは毎日でもできるのに、勉強はできないのはなぜでしょうか?
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見るべきものはいつ見えるか

 王選手は現役の頃、インタビューで、「ホームランは打とうとして打てるのか、それとも自然に打てるのか」と聞かれて、「打とうと思うと、ボールが見えなくなる」と答えたそうです。
 教師が子どもをわかろうとするときも、理解しようとすればするほど、見えなくなることが多いものです。
 見たくないと思える姿の中に、本当は見るべきものが多い。
 夜スペで学習する子どもの顔を教師たちは見てみたらいかがでしょうか。
 その表情から、何かを学ぶことができるかもしれません。
 中学校では、他教科の授業を参観する機会はめったにないですが、担任なら、ときどき参観をお願いすることをお薦めします。自分の教科では出会うことがない子どもの姿に出くわすことが多いと思います。また、教師の授業力について考えさせられる材料に出会うかもしれません。
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自分の子どもを教師として働かせたいか?

 武田晴人著「仕事と日本人」(ちくま新書)に、自動車総連が行ったアンケート調査の結果が紹介されています。
 自動車産業についている人々の多くが「働きがいのある職場だ」と答えているにもかかわらず、「自分の子どもを自動車産業に働かせることについて」は、「働かせたい」が3.7%、「どちらともいえない」が51.3%、「働かせたいと思わない」が43.3%という結果でした。
 働かせたくない理由(複数回答)として、回答者の3分の1以上が選んだものは、「仕事の割に収入が低い」「休日出勤・残業が多い」「作業量、密度、ノルマの面がきつい」「人の扱い方に温かさが感じられない」の4つでした。
 もし教員がこのようなアンケートに回答していたら、どのような結果になったでしょう。
 斜に構えてみれば、「若い頃は、仕事の割に収入が低いが、公務員の強みはある。年をとって、手抜きをしても給料は自動的に上がっていく」「熱心な人は休日出勤・サービス残業が多いが、意志が強ければ断固として拒否できる」「何%以上の生徒の成績を何以上にするなどというノルマはない」「空き時間がやたらと多い教科がある」「用がなければ管理職と会話しなくても日常の業務はできる」など、自動車産業にあるデメリットはほとんど相殺できそうですが・・・。
 若い教師たちには、基本的に、1校目は生活指導が行き届き、部活動がさかんな学校に赴任し、2校目は生活指導困難校に赴任して立て直しに貢献し、3校目で研究がさかんな学校にいって、興味があれば管理職試験を受ける。そんなサイクルがお薦めかなと思います。
 校種の中でも特に中学校は、悲惨な目を見ることもあるし、とてつもない感動を味わえることもある。本音と本能でぶつかってくる人間に出会える。生活指導困難校で味わう「悲惨な経験」を教育の原点とか財産とか言える人間に「自分の子どももなってほしい」と言えるかどうか・・・。
 教育に「働きがい」をもっている教師かどうかを子どもは瞬時に見破ります。少なくとも、自分の子どもにはそう思ってもらえるように努力して、それがきっかけで教師を志望してくれたら・・・うれしいかもしれませんが・・・。
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脳の不活性領域

 新しい製品のデザインを、専門家に考えてもらった場合と、そのような経験のない人に考えてもらった場合について、それぞれの脳の活動を比較すると、専門家は脳の一部しか使われていないのに対し、デザインづくりが新しい体験になる人は脳全体が活動していることがわかっているそうです。
 このことは、脳全体を活性化するには「新しいことへのチャレンジ」が最適であることがわかります。
 脳の一部しか使わないのであれば、効率的なのかもしれませんが、その人の才能が全部生かされているとは限らない。
 「発想法」の工夫などにはこのような科学的な裏付けがあるのですね。
 さて、「楽しい」学習をどのように展開してあげられるか。
 学校と塾と、どちらの方が勉強が楽しいか。
 「楽しさ」の意味は、「できるようになる」「笑えておもしろい」「緊張しないですむ」「知的な興味が高まる」など、さまざまあります。
 学校は「知的な興味を高める」点では塾よりめぐまれた環境にあるはずで、そのメリットを生かす必要があります。学校は塾と異なり、多くの「ムダ」ができる。時間と手間をかけて、みんなで何かをつくっていくという、非常に効率は悪いけれど、大事なことに気付く体験をさせてあげることができる。
 そのアイデアづくりが大切です。塾の教師のように、入試問題にあるパターンの問題を大量に練習させ、予想があたったどうしたと気にする必要がない。では、どんな「ムダ」をさせてあげられるか。
 脳を活性化し新しい発想を促すため、公立学校の教員も、新しい経験(たとえば他の学校に行って出前授業をしてみる。企業研修で生徒の興味の傾向を話してみる。行政で保護者や教師の苦情の対応をしてみる。・・・)ができる機会がもっとあっていいかもしれませんね。
 教師の脳の不活性領域には、何が眠っているのでしょうか。
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総合的な学習の時間の将来展望

 東京都教育庁のまとめによる平成19年度の教育課程の編成・実施状況の調査結果によると、中学校の総合的な学習の時間の内容は、1位・職場体験(92.9%)、2位・歴史・文化・伝統(71.8%)、3位・福祉・ボランティア(71.1%)、4位・情報(64.5%)、5位・環境(63.9%)、6位・国際理解(59.5%)、7位・健康(48.7%)、8位・心の教育(44.5%)、9位・生命(42.7%)、10位・自然(37.7%)、11位・安全・治安・防災(36.8%)、12位・人権(35.2%)、13位・食文化(27.4%)などとなっています。
 各学校の創意工夫によって「特色ある教育活動」の一環として指導しやすい総合の時間ですが、内容としては結局、例示された内容に偏っていることがわかります。
 喜んでいる教師が多いかもしれない、次の学習指導要領での総合の削減。
 スリム化したときに、内容や活動が「ダイジェスト化」されるのか、選択され限定されるのか。
 私の構想は、これらすべてに共通するテーマを包括する新しい教科づくりです。
 「総合的な学習の時間」は、学校外の活動とし、「総合的な学習」を学校別(自治体別)に創設する教科化し、目標を具体化する。
 広範な意味を持ちすぎている文部科学省用語の「生きる力」を、「●●に生きる力」と明確化する。
 次世代を生きる子どもたちにも大切だし、一緒に学ぶ教師にとっても大切な学習。
 キーワードは、「リスクコントロール」「リスクマネジメント」です。
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東京都教育ビジョン(第2次)の中間まとめ

 東京都教育委員会HPに、東京都教育ビジョン(第2次)の中間まとめが公表されています。
 教員の資質・能力の向上については、3つの重点施策として、「教員養成段階における実践的な指導力の育成」、「現職教員の指導力向上」、「職責・能力・業績を重視した新たな人事・給与制度の構築」があげられています。
 今後10年間の最大の課題は、「新人教員」の質の確保にあります。さらにその後は管理職不足が待っています。
 今後10年間に、都内の公立学校の教員全体の3分の1に当たる約2万人が退職します。
 現在の、50代から40代後半までは多いのですが、40代前半から30代後半までにかけてが非常に少なく、とんでもないアンバランスな年齢構成になっています。
 校長・副校長・主幹は、40代後半以降は4人に1人の割合を占めていますが、15年後に同じ人数を確保しようとすると、2人に1人の割合になります。
 狭き門をくぐって教員になった世代とはいえ、2人に1人の主幹と管理職を確保できるか。
 そして、新人教員は「ゆとり教育」世代となりますが、広き門に今後大量に流れ込んでくる人材をどう育成していくか。
 今はベテラン主体の組織が、そっくり若手主体の組織になっていきます。
 部活動の活性化など、明るい展望も見えてくるかもしれません。「指導力不足」が常態化するというマイナスの予想がはずれることを祈りたいですが、行政が打てる手がほかにないか、現場でできることは何か、考えてみたいと思います。
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うちの学校では「夜スペ」はできないんですか?

 和田中「夜スペ」について、ブログ等では、マスコミの報道に対する批判も発表されているようです。
 進学塾との提携による夜スペは、「学校が」行うものではなく、「学校で」行われるもの。
 「が」と「で」は大きな違いであり、実施主体に注目した報道をしていない。
 あまりにも多くの課題を抱えている公立学校は、本来の教育の成果を出すために、さまざまな機能を外部に委託する必要があることは明白なことです。
 これを「人員が足りないからだ」とか、「教育委員会の管理が厳しいからだ」とか、「家庭の教育力が低下しているからだ」など、「できない理由」を並べ立てているだけで、自分たちが子どものために今すぐ何ができるかを一切語れない愚痴専門業者がいます。
 教員の人材育成や能力開発で解決できる課題ももちろん多いとは思いますが、教員がすべてを抱えると、教員はもちろん、最大の犠牲者は子どもたちになります。保護者に負担を強いている学校も出始めていますが、これもきつい。
 公立だから「みんな同じように沈んでいい」という論理は教員だからできることで、子どもや保護者は納得できるはずがありません。 
 お金、人、場所などが許されれば、不登校が増えれば臨床心理士をスクールカウンセラーに、犯罪が増えれば警察との連携を、というように、安易な導入はもちろんいけませんが、必要なところに必要な手だてをする。
 「格差はいけない」などといって、必要もないところに同じように資源を配分するという発想を捨てなければ、財政赤字はいつまでたっても解消しません。
 いずれにせよ、「夜スペ」をつぶそうとする論理もわからないではありません。
 「なぜうちの学校ではできないんですか?」という質問に、管理職は答えられない。まさか、「教員が反対するから」とは言えない。
 こういうとき、「すでに選択教科などでこのような教育はカリキュラムのもとで実現しております」と胸を張っていえるのが、本来の姿かもしれませんが。
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和田中「夜スペ」2日後スタート

 26日の土曜日から始まることになった杉並区立和田中の「夜スペ」。
 賛否両論があり、教育関係では特筆すべき報道ネタですね。
 テレビカメラも入るのでしょうか。
 多くの方が進学塾SAPIXのねらいとしての宣伝効果を批判されていますが、私としてはこの塾の運営主体である地域の組織、夜スペ実行委員会の存在をぜひとも取り上げてほしいと思います。
 保護者や地域の方々が教育への参画を図ろうとするとき、やはり活動の場としては学校を使うことになりますが、人材として「勤務時間外」の教師を使うことが困難なため、ボランティアの保護者自身とか、塾講師という学習指導の専門家を配置することになる。「保護者や地域の願い」が反映される学校づくりのモデルとして扱ってほしいと思います。提案者が進学塾だろうと、その情報を入手した校長だろうと、関係はありません。実施者を紹介してほしい。
 映像的には、塾講師だけでなくボランティア?の学校の教員が授業の中で「先生らしさ」を演じることができれば、「公教育の破壊」などという批判はクリアできるでしょう。
 「公教育の格差の拡大」を問題にしている人がいますが、カリキュラム外のことで、かつ、別に下位の生徒をよりできなくさせるわけではなく、上位の生徒をより高いレベルに上げるのを悪とするなら、それこそ「公教育の信頼崩壊」につながります。格差を生まないことが公教育の最大の使命なら、勉強が苦手な子どもを無理矢理机に向かわせる必要と、上位の生徒になるべく勉強をわからなくさせないように努力する必要があります。
 教育関係者として私が最も高い関心を持っている対象は、「教材」です。
 藤原校長や教員も教材作成にかかわっているということは、塾で使用している通常のテキストとは異なるものなのでしょう。
 多くの進学塾でやっているような、いわゆる「先取り」型のカリキュラムではなくて、授業の進度に合わせた発展的学習ができる教材なのでしょうか。
 公教育に私企業の参入は気にくわない!といっている教師がいますが、その先生の学校では教材会社がつくっている「副教材」をいっさい生徒に買わせていないのでしょうか?
 そういう教材の費用を家庭に負担させて、子どもには宿題で「家でここまでやっとけ」という負担を課したりしてないでしょうか?
 そういう教材に、教師や子どもは満足しているでしょうか。
 家庭学習用の教材を教材会社から買うのと、塾と連携して学校や生徒のレベルに合ったものをつくって買わせるのとでは、何が違うのでしょうか。
 土曜日以降の報道を楽しみにしています。
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赤ん坊=itのヨーロッパ

 ときどき、ペットや子どものしつけに悩んでいる家族のところに専門家が訪問して矯正する海外の番組が紹介されています。ペットの矯正はわかりますが、日本には子どものしつけの専門家というのはいるのでしょうか。
 子どもはペットと同じという発想はあまりしたくないのですが、自分が群れの主人にならざるを得ずに威張っている犬が、しつけでようやくペットらしくなるのを見ると、わがまま放題の小学生中学生にもこうならなくて済んだ機会があったはずなのに・・・と思ってしまいます。
 デュラン・れい子著「一度も植民地になったことがない日本」(講談社+α新書)では、「日本人は子どものしつけを知らない」という話題が紹介されていました。ヨーロッパでのペットのしつけの厳しい話やその背景は読んだことがありますが、子どもが「動物なみに」しつけられているという話、英語で赤ん坊のことはshe、heではなくitと呼ばれることは知りませんでした。子どもが犬猫、ものと同類とは・・・。
 日本では、大人たちは子どものことをit扱いすることはなくても、子ども同士ではあり得るのでしょうか。
 いじめとit。援助交際とit。自称行為とit。 
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一度も植民地になったことがない日本

 デュラン・れい子著「一度も植民地になったことがない日本」(講談社+α新書)は、ヨーロッパから見た日本の姿を生活の実体験を通して記した本で、類書も多くありますがMANGAやKAMIKAZEの話など、興味深い内容が豊富でした。
 著書の中で、労働に対する日欧の価値観の違いが紹介されている箇所がありました。
 日本にもそういう会社があるかもしれませんが、上司はいつも残業し、若い社員はすぐに帰宅する。
 ヨーロッパの感覚としては、「若いうちは給料が安いんだから、それだけ責任もない。つまり権限がないから責任もない。だから残業する必要もない」ということです。しかし、「日本はうらやましい」という。若いうちはたくさん働かされても、年をとっていくとラクができる。
 著者は、これも日本のよさとして紹介しています。
 日本では、上司が残っているのに先に帰るのが気まずいとか、本当に仕事が好きで残っている(学校はこのパターンか。)とか、理由はともなく、若くて部活動ももたずに5時過ぎに生徒と一緒に帰宅する教師はまず少数派でしょう。初任者研修で学校を出ることすら嫌な目で見られるところもあります。
 ヨーロッパ式のロジカルな思考では説明がつかない日本の習慣ですが、それでもうまくいっている職場のよさというのは何でしょうか。仕事に対する愛情でしょうか。こだわりでしょうか。使命感でしょうか。年配の教師の「ゆとり」の大切さでしょうか。
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「野蛮人!」は死語?

 私が小中学生のころは、いらずらをする男子に女子から「野蛮人!やめて!」という言葉が投げつけられることがあったと記憶していますが、今、「野蛮人」は死語になってしまっているのでしょうか。
 「未開」とか「南蛮人」のような語句を説明するために、「野蛮」という言葉のニュアンスを理解してもらうことが必要かと思うのですが、今はそのような差別用語は意味すら想像できないのかもしれません。
 ヨーロッパ人が有色人種を「野蛮」「未開」の人間と決めつけ、自分の利権を拡大しつつ価値観を押しつけてきた歴史がありますが、部屋で靴を脱がないとか、風呂に入らなくてくさいとか、価値観としては逆転する話題がたくさんあり、異文化理解の意味を考えるヒントになります。しかし、本当に異文化理解を徹底するとその価値の逆転というのもあり得なくなるのでしょうか。「異文化無知」がいい効果を発揮しているだけでしょうか。
 学校と行政・企業では価値観が逆転する話題がたくさんあります。
 学校は、20代も50代もフラットでやっています。しかしなぜか給与だけはものすごい格差がある。
 行政では、昇進・昇格試験を受けないと、より高い給与はのぞめません。
 企業では、実績を上げないとだめです。
 給与が高い人というのは、それだけたくさんの責任を負っているというのが、世の中の常識でしょう。
 学校では、20代の教員が50代の教員にパソコンの使い方を教えていたりする。
 30代で学年主任になって担任もつとめ、50代の副担任の教員にお手伝いをお願いしたりしている。
 私はけっして給与面でも能力主義を導入すべきと主張したいわけではありませんが、他の世界からは「あり得ない」としか考えられないだろうなと思います。若い教師の中には、年配の教師に「お願いですから給料分は働いてください。」と訴えたい人が多いかもしれません。
 しかし、教育はやはり経験がものを言う世界であるべきだと思います。行政系の人に、「おかしいんじゃないの」と思わせないですむように。
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文書で動く人と金・教育政策

 指導主事というのは、その仕事が現場からなかなか理解されない地味なもので、「めんどうなことをもちこんでくる」疫病神みたいに思われたりするものですが、学校に足を運ぶ回数が増えると、先生方にも免疫(?)ができてくるものです。これは前回の話でした。
 行政の仕事というのは、事務的なこと、つまり書類上で完結するものが多い。
 お金は、文書をもとにして動きます。人も、文書で動かします。これが、教員だけをやっていると、(年金を「納入していない」ことにされた人も現役にはいないでしょうから)全く異次元の世界の出来事としか考えられません。
 給料が毎月、機械的に銀行に振り込まれ続けると、もらって当然のことに思えてしまうのでしょうが、崩壊した学級を抜け出て給料を事務室に取りに行って書類に判子を押していた時代の先生は、何か感じるものがあったのではないでしょうか。 
 教育管理職になる人が、企業で研修を受けたりしていますが、こういう「異次元体験」は少なくとも管理職には絶対に必要なものです。人やお金は、自動的に動くものではないのです。
 文科省も財務省を相手に相当がんばっているようですが、税金をもらうにはその根拠が必要なのです。
 もらったら、その結果(成果を強要するつもりはありませんが、給料日の事例のような気持ちは大事)を示さなければなりません。
 しかし、文書づくりを「雑用」としか見ていないため、 「研究奨励事業」をいやがる学校の中に、わずかなお金しかもらえないのに、報告書をたくさん書かされるがいや、という理屈のところが生まれてきます。
 多くの教師が「雑用」と思ってつくっている書類の中の数字や文字には、税金の負担者、行政マンが直接現場でふれ合うことのできない子どもたちの姿がうつしだされており、生きた子どもの化身として扱いたいものです。
 ただの文字・数字として見たら、教育の仕事にはなりません。ただ、一言一句、一ケタでもミスが許されませんから、文字や数字には相当に神経をすり減らして格闘することにはなります。それだけ神経を使っても、現場から理解を得ることが少ないのは悲しいものです。
 常に改善・改革が必要とされる背景には、現場から上がってくる数字の「悪化」「問題点」があります。
 そういう問題点が多いほど予算がたくさんとれるというのが皮肉なところです。
 
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勉強や仕事のコツ・こだわりとは?

 料理のコツといったものは、だれもが共有していい情報かもしれませんが、勉強とか、仕事のコツといったとき、それを相手に伝えるのが果たして適切か?と考えてしまうことがあります。
 勉強のコツは?と子どもに聞かれたら、「コツがわかるまでがんばること」と答えています。
 なぜそのようないじわるな答えをしてしまうかというと、コツを知りたいと聞いてくる人の中に、「自分は苦労や努力はしたくない。最短ルートでゴールにつきたい。早く成功したい。とりあえずいい点だけとりたい。」というような安易な気持ちが見え隠れするのが嫌なのです。
 仕事上のコツを聞かれることも何度かありました。
 机上整理とか書類の整理は、聞かれなくても教えたことはありましたが、授業のコツ、教え方のコツは?という質問が一番困ります。
 そういう技術を教えて食べている人もいるようなので失礼のないように申し上げれば、簡単にまねができる「コツ」も確かにあるかもしれませんが、それが「こだわり」になっていくかどうかは、やはり努力量・経験量によって左右されると思います。自分が自信をもって「コツ」だと言えることというのは、スキルとは次元が異なります。
 多くの教師は子どもが「楽しく学ぶコツ」を求めます。しかし、子どもが「学ぶ楽しさ」を味わえる授業も大切ですが、「学ぶ喜び」を味わうレベルまで達することができるか。
 覚え方をコツを教えてあげると生徒は喜びますが、それはもちろん「学ぶ喜び」ではありません。
 そんなものにこだわっていても、おそらく本人がかかえている大きな問題の解決にはならない気がします。
 
 行政で仕事をしていたころは、あまり人には言わない「仕事の流儀」ですが、私が唯一大きなこだわりとしてもっていたのは、「頼まれたもの、依頼するものは物理的に可能な限り、郵送ではなく必ず手渡す」ということでした。
 同じような主義に「電話ですませようとしない」ということもありました。
 どんなに忙しくても、「そんなに暇なのかしら」と思われても、「face to face」をくずさない。
 最もめんどうくさく、楽ではなさそうな流儀ですが、私の場合は現場と信頼関係をつくるための最大のコツでした。そして、直接校長先生や副校長先生、初任者の先生や研究主任の先生に会って話をすることが、楽しみになってくる。これは現場の教師をやっているときには得にくかった感覚です。100人以上の大人といつもつながりを持っていること。一人一人が、何に喜んでくれて、何を不満に思っているのか、何が不安なのか、きっと会わなければわからなかっただろうな・・という経験を積んで、相手の望んでいる情報を出すようにしていく。
 後任の方はこのような姿を見ているので同じようにしてくれたかもしれませんが、「仕事はこうするものだ」と指示しようとは思いませんでした。やってみてどうだった?と聞きたい気にはなりますが、仕事のこだわりというのは、どんなに時間がない中でもやることなので、無理をさせるわけにはいきません。
 「教材研究の時間がない」という先生がいますが、教材研究がその先生の「仕事のこだわり」でないことは残念なことです。
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学習指導要領の理念の誤解を解く その5

 学校教育では、学力より豊かな心や健やかな体(知育より徳育や体育)の育成が望まれる声も大きくなっています。勉強どころではない生活を送っている子どもたちも確かに多い。その子どもたちのための高校すら生まれ、高い倍率の入学選抜をくぐらないと入れないほどになっています。  教育課程部会の審議のまとめでは、これを「家庭や地域の教育力が低下していることを踏まえていなかったことが問題」としていますが、本当でしょうか。たとえば今から10年前、20年前の家庭や地域の教育力は、今よりずっと高かったのでしょうか。  学校の教育力に問題はなかったのでしょうか。  この審議のまとめには、理念の底が浅く、根拠が甘い記述が散見されます。  道徳の時間や体育の授業の充実が欠かせないのは言うまでもありませんが、そこに注力すれば「豊かな心」と「健やかな体」ができあがるようなものではありません。道徳と体育の時間をすべて部活動にあてた方が効果が高くなる場合があるかもしれません。  「子どもと向き合うための時間の確保」も、どう向き合うのかではなく、物理的な時間にのみ目が向いている。  「時間に余裕がある教師」が、他のどの教師より「生徒に向き合っている」と言えるかどうか、現場を見れば???の状況はすぐに見つかるはずです。長い時間「生徒に向き合っている」ために、肝心の学習指導の充実が図れていないケースもあります。「忙しい」「時間がない」ことを理由に教材研究をしない教師は、自宅学習をしない子どもと同じです。  質を高める努力をせずに、時間だけ増やすと、まずそれまでより質が低下することが予想されます。  家庭教育や地域社会の問題点を列挙するのはいいのですが、それを学校で解決するために、学校ができなかったこと、学校にはできないこと、これからの学校ができることを具体的に例示する必要があります。  学校の失敗は限りないほど蓄積されているはずなので、それを二度と繰り返すことのないよう、失敗例や、どん底から信頼を回復した事例などを共有し、本当の「改革」のための財産にしなければなりません。  にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ

学習指導要領の理念の誤解を解く その4

 前回のその3の問題を解決するため、「必修教科の時数増加」「総合的な学習の時間」の削減が対策として取られるようです。
 教育課程部会の審議のまとめでは、この件にちょっと気がかりな記述があります。思考力・判断力・表現力をはぐくむため、観察・実験やレポートの作成、論述といった知識・技能を活用する学習活動が必要と書かれているのですが、問題解決的な能力はこのような学習活動をすれば必ず身に付くものではありません。また、これをしないと身に付かないものでもありません。
 レポートや論述は、評価に最適なので、長期休業中の宿題や定期考査で課せばよいものです。
 「問題解決的な学習」の実践には教材開発の時間はかかるものですが、その指導自体に時間がかかる(たとえば課題を設定させたり、調べたり、発表させたりする活動)からできないという論理が、指導力不足の教員の理屈になってしまっているのに、それを認めてしまうような文言になっている。これが問題です。
 誤解その4 問題解決的な学習の指導には、時間がかかる
 もちろん、時間がかかる学習もありますが、レポートや論述、調べ学習や発表活動が問題解決的な学習のすべてではありません。
 ここが「観点別学習状況の評価」の導入が生んでしまったおかしな学習観、学力観の弊害の一つです。
 たとえ授業で生徒がだれ一人発言しない学習でも、ノートに思考の道筋が書かれ、うまく図などで表現され、基礎的な知識を獲得する活動というのはいくらでもできるのです。そうでないと、放送大学の授業を聞いているだけでは、だれも思考力が身に付かないことになります。
 評価のためにもレポートや論述は必要だし力がつきますから当然課すとしても、毎日の授業の中で、思考力・判断力・表現力をはぐくんでいかなければなりません。
 たとえば、ある用語・概念・内容を30秒バージョンと1分間バーション、3分間バージョンで解説仕分ける学習。どんな力が身に付くと思われますか。
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学習指導要領の理念の誤解を解く その3

 その3 問題解決的な学習は総合的な学習の時間でのみ行うものではない
 教科が基礎的・基本的な知識・技能の習得の場で、総合は体験的な学習や問題解決的な学習を行う時間、そのような誤解をしてしまった学校はないでしょうか。教科ごとの学習指導要領解説を読めばわかることなのですが。
 総合の導入によって、教育界には珍しく学校ごとに教師たちの創意工夫によるカリキュラムづくりが可能になりました。そして総合的な学習の時間の全体計画・指導と評価計画などを作成し、他教科との関連もしっかり図って学力向上につとめてきたはずでした。
 学力調査によって明らかになるのは、教科の指導でも体験的な学習や問題解決的な学習の指導をしている教師に教わった生徒の方が、それを指導されていない生徒よりも基礎基本も含めて学力が高い。基礎・基本の指導だけしか行わないと、基礎・基本も問題解決能力もともに身に付かないことがデータで示されています。
 基礎的・基本的な知識とは、「知っているだけで楽しい」ようなクイズ向けの、特殊な内容の知識とは異なり、それを身に付けるプロセスが大切なものであるはずです。定理や法則を暗記させて効率的に問題を解かせるような指導ではなく、どのようにその定理や法則が導かれたり発見されたりしたのかを考えさせる。そのような指導を通して、思考力だけでなく、知識や技能も育てる。それが指導要領の趣旨でした。
 しかし、問題解決的な学習は教師の教材準備が不可欠で、かつ学習過程における個別指導も重要なので、「やりたがらない」教師が多く、「忙しい」「時間がない」ことを大義名分に掲げて「いっさいやらない」教師もいます。
 次の段階として、問題解決的な能力を測定するテストの開発力を伸ばすことです。東京都が実施している学力向上のための調査の、このタイプの問題は、非常にやさしいのですが、問題作成のヒントになるかもしれません。

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結果の平等ではなく「成長」の平等を

 プライドが高い教員の中には、生徒の成長のすべてに責任をもちたがる人がいます。
 しかし、特に学力向上については、学校の仕事であることは確かですが、「学校だけ」の仕事ではありません。
 和田中の夜スペに反対する人には、公立学校の教員としての使命感が強すぎる人がいます。
 「自分が最後の砦」という覚悟をもつことは必要かもしれませんが、子どもたちが「本当の信頼を寄せる対象」というのは、決して教師とは限らないのです。
 そういう意味で、私は教育という仕事の中に、「コーディネーター」としての教師の役割を重視したいと考えています。総合的な学習の時間に、「理想的なまちづくり」をテーマに地域の方々が子どもたちとともに議論をする場を設定したとき、その役割の重要性を自覚しました。それ以後、よい「出会い」の演出をしてきましたが、これは藤原校長が和田中でやってきたことと同じです。大人に対して、あこがれや尊敬、(苦労したことへの)共感、同情、そういう感情を子どもがもてる機会を増やす。どうしても同年齢集団の活動が中心の学校で、「大人」との接触が少ない子どもたちは、いい教師に恵まれないと、家庭も含めて「大人」不信、「社会」不信に陥っていきます。
 先生ではない「大人」との触れあいを通して、子どもはよく成長していきます。大人っぽい子は、そういう出会いの機会を作ってくれた教師に感謝してくれます(別にその感謝を求めているわけではないのですが)。
 「特色ある学校づくり」については批判のコメントを載せたことがありましたが、こういう教育活動を特色と位置づけると、けっこう教育的価値が高い特色になります。
 A校でやっていてB校ではやっていないのはおかしい、という論理の教員がいますが、共産主義は完全なるトップダウンなのでそれは可能でも、自由主義・民主主義の学校では校長のアイデアはもちろん、教員のアイデア、生徒や保護者の要望を踏まえて、どんどんその学校らしい取り組みをして、「学校間の差」が生まれるのは当然のことです。それは「差」を生むためにやるということ(これが私の批判の焦点)ではなく、自然と「差」になってくるという話です。
 機会の均等だけでなく、結果の平等も求めたがる教師たちの問題は、結果の不平等に責任をもたないことでした。管理職批判や行政批判をすること自体はまったく自由ですが、自分は何をできるのか、何がしたいのか、何に責任をもつのか、それを明らかにしなければなりません。結果の平等を絶対視したら共産主義国家になってしまいますが、当たり前のこととして、結果は平等にはなりません。
 しかし、「成長」を平等に近づける発想がほしいのです。
 和田中では、成績上位者が成長する機会を保障するために、夜スペを実践しようとしました。
 学校の教師は、こういう学力向上の機会づくりに、コーディネーターとしてかかわる。
 徳育や体育の面と同様に、知育の面でのコーディネーター機能を学校は開発していく必要があります。

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なぜ公務員の自覚が足りない教員が多いのか

 和田中の夜スペに関して、地域的な諸条件が異なる地方の方からは、心情的な面を中心として多くの反対意見が寄せられているようです。
 また、公立学校の関係者の意見を読むと、公立校自体に信頼が寄せられない理由がよくわかります。
 「開かれた学校づくり」を進めることが学流指導要領によって規定されていますが、学校が閉ざされていた一番大きな理由は、教員の考えが公開されればされるほど、学校の実態がわかればわかるほど、公立離れが進んでしまうという問題があります。
 私が勤務していた学校の中で、自治体内でもワースト3に入る荒れた学校という評判があり、入ってみたらその通りだったところがありました。勤めはじめて愕然としたことは、そのことを保護者たちが長い間ほとんど知らなかった(知らされていなかった)らしい。
 教員からは、「みんないい生徒たちばかりです」「うまくいっています」などといい話ばかりしか聞かされず、学校で何かおこっているかを保護者は何も聞かされなかった。家庭内の子どもとの会話のなかで、もちろん「たいへんな子どももいるんだな」ということに気付いてはいても、「学校崩壊」しているとは夢にも思わない。
 もうどうにもならなくなった段階で、学校が保護者会を開き、事実を示し、協力(?)を求めたら、保護者は激怒(当たり前です)。学校への信頼が崩壊したどころか、教員に対する不信感がピークに達してしまいました。
 その直後に赴任してきた私にPTAの役員から懇願されたのは、「とにかく学校は悪いことを隠すのをやめてくれ」ということでした。
 別に強烈な愛国心を持っていなくても国旗や国家に敬意を払おうとする保護者や地域の方々が多い中で、うちの学校には自分が公務員でかつ公の場の儀式的行事なのに「歌・旗絶対反対」の主張をくずさない教師がかたまっているなど、とても公開することはできませんが、「学校の恥になることは外にもらすな」という教員の圧力に負けていた管理職は、公立学校の信頼を完全に失わせた責任を追及され、・・・ここが公立のよさでもあり弱点でもあるのですが・・・他の学校に移っていく。
 教師が高いプライドをもつことは私も絶対に必要なことだと思います。そして、国旗・国家に敬意を払いたくない人がいることも、個人の見解としては全く問題がありません。しかし、自由を完全にすべての個人に認めてしまうと、「公務員」が「全体の奉仕者」になれなくなる。だから、憲法は、公務員に対する憲法擁護義務を課しているわけです。
 私立学校ではなく、公立学校に勤めている教員に、「公務員」であることの自覚が足りない原因は、高いプライドが必要な職務の性格上、「人に命令されたくない」「規則に拘束されたくない」タイプが多いことです。そしてそれを生徒に要求するのが好きなタイプと、要求するのが嫌いなタイプがいることです。

中高一貫校の理念の原型は「旧型」

 中高一貫教育の意義と導入については、10年以上前の中教審第二次答申(1997年6月)で示されていたことをご存じでしょうか。
 以後、各自治体が実状に応じて計画し、長期の準備期間を経て、開校され始めました。
 第一次答申の「ゆとり」の重要性を強力に引き継いだため、意義(メリット)の第一には高校入試がないことによるゆとりがあげられています。
 デメリットとして、受験準備の低年齢化や受験のための教育に偏るおそれが指摘されていますが、これを受けて、中高一貫校では「学力検査」が実施できないことになりました。実質は学力検査ですが、教科の色を混合させ、「適性検査」という名で実施されています。
 中高一貫校からは、「優秀な生徒は集めたのはいいが、教師がその能力を伸ばしきることができるか」が課題であるという話を聞いたことがあります。
 もちろん大学進学だけで実績をはかるのは問題はありますが、中高一貫校への信頼度が左右される数字であることは間違いありません。
 東京都の場合、千代田区の中高一貫校と、都立の中高一貫校がありますが、中教審の答申の理念であるだけでなく、生徒や保護者のニーズに合った公立学校として、人気があります。
 公立中の先生が、成績上位の生徒をとられて「嘆き専門業者」になってしまうことを危惧する方もいらっしゃるようです。でも、中高一貫校の先生のつらさは想像できますでしょうか。生徒や保護者の期待に応える学校にならなければ、「何のためにつくったんだ」という批判を浴びることになります。
 中高一貫校の最大の理念は「ゆとり」だったのですが、10年たって、「指導を躊躇する状況」の打破が保証されたので、思う存分「指導」していただきたいと思います。

学習指導要領の理念の誤解を解く その2

 一時期、教師がほとんど指導らしい指導をせずに、生徒が発表するだけしておしまい、という研究授業がはやりました。
 その2 教師が指導しない授業
 「自ら学び自ら考える力を育成する」という理念の誤解です。
 これを教師はあまり教えてはならない。子どもの自主性を尊重しなくてはならない。・・・このようなスタンスは、小学校ではまだ残っているのではないでしょうか。
 若い頃に「指導してはだめ。教師は支援に徹すること!」などと研修でたたきこまれてしまった中堅の教師が、基礎的・基本的な知識・技能の習得が図れずに苦しんでいました。この呪縛から解放される趣旨が、次の指導要領では盛り込まれるようです。
 「生きる力」の重要なキーワードである、基礎的・基本的な知識・技能の習得と、これらを活用する思考力・判断力・表現力等を相互に関連させながら伸ばしていくことが、前述の理念を具現化するためにも重要な要素であることは明らかです。
 新しい指導案では、発問=問いも重要ですが、「考えることを促す指導言」の質とその効果・成果が問えるような記述をする必要が出てきそうです。

学習指導要領の理念の誤解を解く その1

 教育課程部会で審議されていた課題として、「学習指導要領の理念を実現するための具体的な手立てが十分ではなかったこと」が5つ挙げられています。教師の側の問題に照らして一つずつ考えていきます。
 その1 「生きる力」の理解不足
 生徒に求めようとしている「生きる力」について、教師一人一人が、生徒や保護者に対して説明する能力をもっているでしょうか。
 ある学校の研修に参加したときに、長時間かけて、「子どもに身に付けさせたい生きる力とは何か」についておしゃべりしている場面に出会いました。学習指導要領が示している内容を理解した上で議論しているのかと思いきや、子どもや親への不平不満のオンパレードで、決して外部にもらせないような愚痴の言い合いで終わってしまいました。そもそもマスコミが誤用している教育用語を同じレベルでしか教師が理解していない状況があることがわかります。
 多くの教師は子どもに「生きる力」が身に付いていないことを十分に理解しているつもりでも、その力を身に付けさせるために「自分は何かできるか」を考えることに正対できないこと、この態度がすなわち「生きる力」を身に付けさせる指導ができない根本原因であることに気付いていません。
 指導主事の研修への参加の仕方は、多くは終了間際に講評をするパターンなのですが、「今回の研修では効果が期待できませんね」とは言えないので、失敗例を参考にして、以後、研修に参加するときは、事前に当日の目標や進行について相談させてもらって、テーマの設定の仕方などをアドバイスするスタンスを取りました。
 小学校は時間に余裕がありますから毎週のように開かれる研修も、部活動や生徒会活動がさかんな中学校では、「校内研修の日」を設定すること自体がそもそも難しく、その研修も時間の無駄になるようなものが多くなりがちです。ですから研修では「べからず集」を紹介したり、発言のルールを示したりする必要がありました。
 たとえば、「ゆとり」か「詰め込み」かという二項対立で教育を考えるようなレベルでは何も先は見えてきません。
 しかしなぜか、そこにだけこだわって延々と自分の考えを述べたがる教師が多い。学校で言えない教師はブログで愚痴を書く。たいていは「制度が悪い」と上のせいにして「自分に足りないもの」を考えようとしない。
 偏った知識でワンパターンの思考経路しかとれない教師、異論を認めないような反対専門家の教師、何でも人のせいにしたがる教師に、「生きる力」をつけさせることが研修のねらいの一つとなります。
 「今の制度を変えない限りだめだ」と言う教師を研修に参加させても、何の意味もありません。
 学習指導要領に示されていることがらは、教師にとっては基礎的・基本的な知識です。なぜそのような内容が示されているのかについては、教育課程部会の審議をふまえて理解する必要があるかもしれません。

石川遼くんのお父さんの教育論2

 文藝春秋の特集で石川遼くんのお父さんは、ゴルフというスポーツの特性を述べています。
 「ゴルフは型が重要なスポーツです。理にかなった安定したフォームで、どんな状況になってもきちんとボールが打てることが重要で、瞬間的な反射神経などはほとんど必要ではない。・・・中略・・・型が身についたら、むしろ、それ以外の型はできないほうがよいのです。・・・中略・・・わき身をせずに、自分の型をしっかり作っていく能力さえあれば、運動神経などむしろないほうがよいのです。」(遼くんはサッカーなども得意のようですが)
 小中学校の学習や生活で、このような「型」にあてはまるものが何なのか、考えてみようと思いました。
 教育で型に「はめる」という言い方だと、個性を殺すような、ネガティブなニュアンスがあります。
 校則や規則でがんじがらめにする抑圧的な教育だと。
 ただ、これまでの教育が「型にはめる」ことを極端に避けていて、必要な「型」を教えなかったために、「本当に力がない」と実感させられる現実に直面することになったのではないでしょうか。
 教室掃除で中央から最初に掃いている子ども、四角い部屋を丸く掃く子どもを中学校ではよく見かけます。「小学校で何を習ってきたんだ」と昔はよく怒ったものですが、なぜそれでいけないのか説明を詳しくすると、「なるほど」という顔をするので、本当に知らなかったことがわかります。
 「人の話を聞く姿勢をもつ」という習慣など、教育で「型」として身に付けさせなければならないことを厳選していくると、何がエッセンスになるでしょうか。

石川遼くんのお父さんの教育論

 文藝春秋の二月号で、石川遼くんのお父さんの記事を読みました。(父が語るハニカミ王子教育論)
 とても自然体で、専門家やプロに指導を任せなかった理由もよくわかりました。「未成年のうちは父親として責任をもっていたい」という姿勢にも感動しました。礼儀正しさ、しつこいマスコミなど周囲への配慮の裏側には、テレビには(今のところ)あまり露出していない父親の教育があったのですね。
 お父さんはゴルフのプロではなくても、じっと遼くんのゴルフを見ていて、いつもと微妙に違う部分をアドバイスできるようになったといいます。
 私は大学まであるスポーツをやっていて、その部活の顧問をしているのですが、練習に参加していても、じっと1人を見続けているわけではないので、「この癖にもっと早く気づき、直してあげればよかった」と後悔することがよくあります。じっくりと観察しているより、常に自分も動いていたり、ちょっとしたことをすぐ指導したがるので、気づきが遅れるのかもしれません。
 学習指導でも、こんな反省は生かせるかもしれないなと思いました。

「書く」ことの効用

 自己啓発関係の本で、文章を読むだけでなく、自分の目標などを本やノートに書き込むことを著者が求めているものがいくつかあります。ビジネスマンを対象にしたものですが、弘中勝著『会社の絞め殺し学~ダメな組織を救う本~』(祥伝社黄金文庫)もその一つです。動機は一般の企業や教育産業だけでなく、公教育にも求められるべき「組織改革」のエッセンスがつまっていたことにありました。(・・・しかし、「会社の絞め殺し学」のGoegle検索でこのブログがひっかかってくるとは思いませんでした。・・・)
 1ヶ月に10冊とか30冊とか冊数をノルマにして読書している人がいるかもしれませんが、何か問題を解決したいと思って読書する場合は、「読書ノート」への記録を1月1冊のように決めて、何が目標で何をすべきで実際に何をして、何が改善すべき点なのか、しっかり「書く」ことが大事だというのは経験をもって理解することができています。ただ、なかなか実践し続けられない。佐藤優は監獄が最高の読書とその記録のできる空間だったことを著書で述べていますが、そんな場は普通の人は持てません。
 塾でいうと、考えることより、ほとんど書く量を重視しているのが公文式でしょうか。進学塾でもテキストを事前に解いておき、塾では問題演習をする形式が最も実力がつくやり方です。「どれくらいの時間、考えて書いているか。」これが結果を大きく左右する評価基準になってきそうです。しかし、親という障害を除けば娯楽の誘惑がたくさんつまっている家庭では、なかなか学習時間が確保できず、「家では勉強しないから」という理由だけで塾通いさせられる子どももたくさんいると思われます。通信添削だけで実力が伸ばせる子どもは、うらやましい。
 同じことが大人にも言えるかもしれません。優れた本に出会って自己改善の習慣がつけばそれでよいのに、続かないからまた新しい本にたよっていく。よい本に出会って、自分なりの学習空間をつくっていきたいものです。
 なぜ「書く」ことの大切さを思いついたかというと、漢字を覚えるコツというのを雑誌で読んだからで、当たり前のことですが、「何度も書いて覚えるのが基本」「覚えた漢字を使って文章を書く」などがポイントだということです。
 自分の年間の職務目標を毎週の予定表に書いたりしたことがありましたが、それだけでもそれなりに効果があったものです。
 学年主任をしていたときは、毎週の学年会の資料に、いつも「学年目標」をその最初に示しておきました。教員が意識していれば、それが生徒に伝わり、だれもが共有している目標になるものです。
 「書く」ことの効用を子どもに実感をもたせ、習慣になるまで指導を続けていきたいと思います。

「公」「私」「公共」プラス「私共」

 稲垣久和著「国家・個人・宗教」(講談社現代新書)は、「公共哲学」の入門書のような内容ですが、「公」のマイナス面ばかりを強調しようとする偏った論調が気にかかります。

 「国家を超える市民的公共性」を具体化したいという願望を述べるのはよいのですが、「市民」の姿が理想主義的なので、「結局は理想の実現は難しそうだな」という印象を与えるだけの本になってしまっています。

 「公共の福祉」の実現には、「滅私奉公」(戦前・戦時の知識が全くないならこの語でもかまわない気がしますが)あるいは「滅私奉『公共』」の精神が必要です。別に命を差し出せと要求しているわけではなく、「みんなのためにがまんしたり、みんなのために自分の力を発揮せよ。そうすれば自分のためにもなる。環境問題の解決には、絶対に必要な精神だ・・・」程度の意味でとりあえずは認識していればいいわけです。

 「公」に国、官、政府、お上、天皇といったイメージを肥大化させて保持している人々と、素直に「国民の税でまかなわれているもの」というイメージでとらえている人とでは、なかなか議論がかみ合いません。

 現実の「市民」「国民」「民衆」「庶民」「人々」の中には、「公共の利益」よりも「私の利益」を優先したい人が非常に多い(その根拠を「日本国憲法」に求めることもあります)。

 ですから現実の社会を考えていくには、公・私・公共の三元論ではなく、「私共(わたくしども・・・『私共空間』という私の造語の一部ですが)」という立場も加える必要があります。「公」にも「私」にも「公共」を実現する能力はあるし、逆に「私共(わたくしども)」のために行動していまう危険もある。

 「公」=政府と考え、批判ばかりしたがる人は、「公」がもっている「私共」精神の部分(とたえば、汚職など)だけを見ているわけで、自由主義の「私」については、その結果の不平等、格差の出現ばかりを批判して、「利潤を目的としているといっても、市場の原理に基づいて基本的には消費者を満足させるお金とサービスの交換を成立させる、人間の幸福追求には欠かせない存在(たとえば、テレビ局がNHKだけだったら・・)」として見ていない傾向があります。

 もちろん「私」は「私共」精神を生みやすいものだし、消費者の「私共」精神を利用して不正をはたらけるもの(たとえば高額の配当をうたった投資の詐欺など)なので、これを規制・監督しなければなりません(「私」の能力に限界があれば、「公」の役割。たとえば公教育での金融教育など)。

 そこで、今、公教育に求められているものは何かと目を向けると、多額の税金を使っているのに「学力をつける」機能が十分にはたらいていない。その一つの問題として、より高い学力をつけたい子どもは、みんな高額な費用をはたいて塾にいかななければならない。経済上の理由から塾に行けない子どもが、高い学力をつける保障が日本の教育にはない。これでよいのか。・・・もちろん、「最低の学力の保障」だけが公教育の役割ならば、全員を一定レベルに上げればそれ以上の仕事はしないでよろしい。こういう主張はあってよいわけです。だから、「補習」なら塾との提携も認められる。しかし、これではすべての「市民」のニーズに合わない。とはいえ、学校にはそのニーズにこたえる能力がない。ではどうするか。「塾に行けない子どもは、家で勉強しろ。高い学力がつかないのは、家庭学習ができていないからだ。責任は子どもにある。」と開き直れるかどうか。共産党や教職員の組合などは、開き直っていいと答え、「市民」と対立している。朝日新聞は、開き直ることはできない立場を「天声人語」で表明しました。

 公立学校と進学塾の提携が、「公共」の精神に基づくものなのか、「私共」精神によるものなのか。「開かれた学校」とは何か。

消費期限切れを隠そうとする「公」の論理

 学習指導要領の総則に、「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」というものが中学校では12項目あります。そのうちの1つが、「各教科等の指導に当たっては、生徒が学習内容を確実に身に付けることができるよう、学校や生徒の実態に応じ、個別指導やグループ別指導、学習内容の習熟の程度に応じた指導、教師の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善し、個に応じた指導の充実を図ること。」になっています。
 個人差が非常に大きい公立学校で、「個に応じた指導の充実」が図りきれないために、和田中がとろうとしている手段が「進学塾との連携」です。
 配慮事項には、「開かれた学校づくりを進めるため、地域や学校の実態等に応じ、家庭や地域の人々の協力を得るなど家庭や地域社会との連携を深めること。」もあります。多くの子どもが塾に通っている都市部では、地域社会に「塾」が含まれると考えることもできます。
 和田中の進学塾との連携に反対する意見の中に、「塾の先生の方がわかりやすい、ということが子どもに伝われば、学校の教師の立場がなくなる」というものがあります。
 しかし、このことはすでに塾に通っている子どもの実感であるかもしれず、教師以外のすべての人々は「子どもにわかりやすく、楽しく、実力をつけられる授業」を望んでいるわけで、明らかに「消費期限切れ」の知識を注入しているような教師には、塾の講師からでもよいから新しい知識、よりよい教材、確かな学力がつく学ばせ方を学んでほしいと願っています。実際に授業をしていますから「偽装」するわけにもいかない教師が、「公」を守るという名目で「消費期限切れ」を隠そうとする論理はみじめに見えるだけです。
 いずれにせよ、公立学校も「生徒全員に一斉指導をして理解度を図れば終わり」というわけにはいかないので、学校がどこまで「個に応じた指導の充実」を図ることができるかが問われなければなりません。

失敗作?の天声人語

 和田中での「夜スぺ」について、「都教委批判」だけを目的としたために、問題の所在をよく理解しないまま執筆したことがわかってしまった天声人語(1月9日)がいくつかのブログで批判の対象になっています。確かに、珍しい(?)失敗作コラムです。
 石原都知事と同じ意見になってしまったことを苦々しく思う人も多いようですね。
 すでに述べたように、「夜スペ」実施は公立中の問題ですから、これは杉並区の教育長が責任をとればよいことであって、都教委の指導というのは、「共産党議員の抗議に適切な対応ができるよう、藤原校長と杉並区教育委員会は用意をしておけ」と助言したという図式で考えればよいわけです。
 夜スペ実施に反対の人の意見を読んでみると、いろいろな考えのベースがあることがわかって参考になります。
 意見は大いに出されるべきであって、議論しあうことで学校教育のあり方が改善される方向に進めばOKです。
 塾生ならよくわかっているSAPIXの経営方針・教室経営の本質が明らかになってくると、教育の問題がより浮き彫りになって議論が深まるかもしれませんね。

指導主事任用制度の大失敗

 指導主事の資質低下の問題は、自分自身に照らしてもよく理解していましたが、東京都の場合、それが危機的状況にあることを人事部が公表しています。
 任用制度の大失敗は人事部も早い時期に自覚していたはずですが、「失敗学」で失敗のメカニズムが解明されているように、壊滅状況が現実味を帯びるまで、路線を変更しないことはよくあることです。
 指導主事任用試験の合格倍率は、A・B選考が始まった平成12年度で7.8倍あったのが、平成19年度は1.4倍に低下しています。「指導主事の質が落ちた」ことは以前から批判されていましたが、それを如実に示すデータが公表される中、批判にさらされつつ仕事もよくわからないまま任務を遂行している方たちには、気の毒な思いもあります。しかし、指導主事が「結果」を出さない限り、今後の受験者の減少に拍車をかける要因にもなるため、がんばってもらうしかありません。
 32歳の若者から、子どもとぶつかり合う権利?を奪って行政職に任用するわけですから、人事部には、そういう人材を殺さないように活かす使命を果たしてほしかったのですが、公表された選考・任用制度の変更では結局問題の改善を期待することはできません。
 教育委員会についてほとんどの教員は知識を持っていないので誤解のないように解説しておくと、人事の施策を考えるのは、教員出身の指導主事ではなくて、教育については素人であるプロの行政マンです。
 教育委員会の中で、指導主事や校長から任用された指導室長の意見がしっかり取り入れられる素地があれば、今回のような任用制度の失敗は防げたはずです。
 昔は、教科の専門性が高い優秀な指導主事がたくさんいましたが、研修・研究機能の規模を縮小したり、人事部が任用制度を変更したため、指導主事を尊敬の対象とするような教員が生まれる学校の文化は失われてしまいました。学校に出向いても「コケ」にされるのがオチです。これをバネにして指導力を高めた指導主事も昔はいたようですが、5年たったら副校長、校長というレールを進むようになるわけで、指導主事としてのノウハウを伝達する場もなくなりつつあります。
 指導主事の職務には、教育施策の立案・調整、学校経営の支援、学習指導・生活指導に関する指導助言などがあるため、非常に高度な能力が求められます。この能力を育成するシステムが、現行の任用制度では根本的に欠けているわけです。しかし、「現行制度の理念の継承」をうたっている以上、この世界に希望のもてる未来はありません。
 この問題は、和田中の夜スぺが実施されようとしていた教育の状況とよく似ています。

学校と塾の望ましい連携とは?

 難関校に進学する生徒の多くは進学塾に通っています。しかし、それらの生徒の中には進学後、実力?が発揮できず、「本当にこの子の学力は高いと言えるの?」と思われてしまうことがあります。
 大学でも同じ実感をもっている教師が多いようです。
 知識量の差で合否が決まるような入試問題を出している学校への対策として、進学塾は網羅的に知識を注入させつつ、効率よく点がとれるように指導しています。
 PISA型に対応した学力が日本の高校生に育っていない背景に、こうした入試問題やそれに対応した塾の教育?があることは明白です。
 そういう塾の教育の問題点をふまえると、塾が学校と連携し、「暗記重視の入試対策ではない、学ぶ楽しさが味わえる本物の学力を育成できる教材づくり」に取り組んでくれるとしたら、評価すべきことかもしれません。
 学校ではできない成績上位者の「能力向上策」と、進学実績・営利至上主義の塾ではできない「本物の教材開発」が合体して、よい成果が出せるのであれば、評価できる取り組みになるのですが。

学校の機能拡大は可能か?

 多くの学校の教育課程に、「個に応じた指導の充実」という項目はないでしょうか。
 具体的に実践できて、確かな成果を出しているのでしょうか。
 和田中の進学塾導入は、「中学校の教育課程では成績上位者の能力をより高める指導は不可能である」ことを証明したもので、たいへん正直な方策だったわけです。
 「和田中の成績下位者への手だては十分なのか」という批判をしている人もいるようですが、土曜日にちょっと補講をした程度で、成績が簡単に上がるわけではありません。成績上位者の個人差は中学校では大差がないのですが、下位者の個人差は計り知れないものがあります。どこでつまづくのかが予測できません。ですから下位者の場合は塾に通えば必ず成績が上昇するというわけでもないでしょう。塾が成功報酬制だったら本当に本気で宿題もやらせるでしょうが・・・。
 入塾にあたって試験をするような進学塾は、教材をたくさん与えて宿題を課しているのが普通なので、結局は本人が自分で机に座って目の前の教材に取り組めるかどうかが大切なわけです。本人と親のモチベーションは、「大金を払っている」という事実によっても大きく高められている。「やらなければ(成績を上げなければ)損」。
 和田中の場合は、「全国でここしかやってない授業、テレビの取材が入る授業、有名人が校長」ということをモチベーションの要因にしているため、授業料が半額になるというマイナス要素?があっても成果が期待できたわけです。
 都教委からストップがかけられましたが対策は簡単なもので、学校外でやればよいだけです。もともと主催者は学校ではないわけですから。余計なお世話ですが、「和田中の生徒だけが得をする」というひがみは避けられませんが、実施者(塾)が半額でもやるというのなら別にだれも文句は言えないわけです。
 学校というのは不便なところで、体育館やグラウンドの開放というのはやっていますが、法令で施設の目的外使用を禁じられているので、PTA活動ではなく、企業が主体になって「エアロビ教室」とか「生け花教室」とか、そういう営利活動をしてはいけないことになっています。放課後に学校で「学童保育」ができないのはどうして?と思われる方がいるかもしれませんが、法令上できないわけです。
 しかし、おそらく将来的には住民が安い料金で近所の学校を舞台に開かれる「何とか教室」を利用できるようになるのではないかと思われます。子どもがいない住民も学校の運営費にあてられる税金を払っているわけですから、PTAでなければ参加できないしくみはおかしいし、やはりプロが運営してくれればPTA役員に負担がかかることもありません。料理教室でも何でも、生涯学習の拠点の「場」としての役割を学校が果たすようになる日は近いはず。
 ここに塾が参入する場合は、やはり最小の予算で最大の効果を発揮させるために、「能力に応じた等しい」指導ができる体制をつくって授業を実施することになるでしょう。
 藤原校長は、このような「場」の提供機関としての学校像もイメージしているのではないでしょうか。
 定時制のある高校や、夜間中学のある学校のように、生徒が入れ替わるイメージで、公務員としての勤務時間内は法令どおりに学校施設を使い、土日や平日の夜、長期休業中などは校長裁量で希望する団体、企業に「場」を提供するようなしくみになれば、学校が地域のコミュニティーセンターになり、教育への予算配分の増額が世論の支持を得るようになるのではないでしょうか。

格差が生まれないことをみんな求めているの?

 和田中での進学塾開講への都教委指導に関して、共産党の区議など憲法擁護・教育基本法改正反対の立場の人たちは「適切だった」と判断しているようです。
 公立中学校で「格差」を生む自由主義的な行動には反対という意見ですね。
 学校選択自由化や学校間競争に反対する論理と一緒のようですが、この議論には「機会均等」だけでなく「結果の平等の保証」までが入り乱れていて「現実として何を求めているのか」分からない主張の人たちがいます。
 和田中では、すでに藤原校長の後任の内定をもらった民間の人の「次期校長としての意気込み」が公開されているのも知りました。
 このような常識では考えられないことを次々に実現してくれた藤原校長には頭が下がる思いです。
 藤原校長でなければできなかった学校運営なのか、だれでもできるのかが来年度以降、わかることになります。
 日本人は「テレビに出ている人」というだけで神様扱いする傾向があるので、地域の人材や保護者たちへのボランティア活動を維持していくためには、そういう露出度は継続していくべきかもしれませんね。藤原校長のねらいはそこにもあったのかもしれません。

和田中での進学塾開講

 和田中での進学塾開講に都教委から指導が入ったという報道がありました。
 塾の件は周知されてからずいぶん時間がたってからのことだったので、おそらく都議か都民からのクレームが原因でしょう。
 よく行政や教育委員会のことをご存じない方が批判の対象にされている記事ですが、基本的には藤原校長の上司である区の教育長の責任で実施できるものなので、「やめさせるという圧力」と感じ取られてしまうようなことを言う必要はなかったのですが、都議や都民の圧力に都教委は勝てませんから。
 おそらく進学塾の通常の教材・講義ではなくて、「学力向上」の一環として、今までやってきたような土曜補講の「補習」ではなく「発展学習」バージョンをやろうとしたのだと思われます。校長が教材作成にかかわるというのはそういう意味でしょう。
 そのように説明すれば全く問題はなさそうですが、「半額でも授業料をとる」ところあたりは批判の対象になりそうです。
 藤原校長もそういう批判への準備はできていると思うので、どんな対応をされるか楽しみにしています。

今年こそ改めたいこと

 これもNIKKEIプラス1(昨年の12月29日号)で紹介されていた「来年こそ改めたいこと」のランキングを教育現場風に示してみると・・・
1位 職員室や印刷室などの整理整頓ができない
 方策→生徒の美化委員(美化係)に評価をさせてみては?
2位 運動などが飽きっぽくて長続きしない
 方策→スポーツクラブなんかに通わずに、部活で子どもと汗を流してみたら?
3位 やるべきことを先送りする
 方策→職員室に進行管理表を掲示してみては?
4位 一日の時間の使い方が下手
 方策→会議の進め方など、無駄を削る努力を全員でしてみたら?
5位 物が捨てられない
 方策→職員室の大掃除を夏休みや春休みに全員で実行してみたら?
6位 自分に甘く、まあいいやと思ってしまう
 方策→それが許されるくらい、PTAと仲良くしてみたら?
6位 過ぎたことをくよくよと気にし続ける
 方策→ブログで公表してストレス発散してみては?
8位 短気ですぐにかっとしてしまう・怒鳴る
 方策→同僚にその場面をビデオ撮影してもらって、みんなで鑑賞してみては?
9位 心配性、小心者
 方策→心構えはそれで結構。ただし必ず行動をおこすこと。
10位 衝動買いや浪費癖
 方策→予算の執行はなるべく早く。年度末直前の購入は禁止。
11位 感情が顔に出てしまう
 方策→鏡を見る。
以下、省略しますが、多くに共通する解決策は、「優先順位を定める」ことでしょうか。
 今年1年も何とか乗り切りたいものです。 

漢字1文字で教育界を表すと?

 NIKKEIプラス1で「今年と来年、漢字1文字で表すと?」の特集で、2007年の上位は「忙」「疲」「変」「忍」「苦」「耐」で、2008年の上位は「楽」がダントツ1位、続いて「笑」「健」「幸」「明」「実」でした。
 漢字は1文字にもいろいろな意味があるので、「楽しい1年にしたい」のか「仕事の荷をおろして楽になりたい」のかわかりませんが、上昇志向、プラス思考をもちたいという願望はよくわかります。
 もし「学校の1年はどうだったか」「今年はどういう年にしたいか」と教師にアンケートをとったら、どういう結果になるでしょうか。
 今年は新しい学習指導要領の告示がありますので「変」の年か。相変わらず「忙」「疲」は変わらないのか。
 学力調査の不正や進学実績で「偽」が発覚しましたが、このほかに、学校には「偽」はないのか。
 この2007年の「偽」を受けて、私が2008年に選びたい1文字は「真」です。
 蛇足ながら、この「真」の本来の意味は、不慮の事故で行き倒れになり死んだ人を示す文字だそうです。死んだ人はもうそれ以上変化しないから、永遠の存在、まことの存在となる。旧字体の「眞」は、死者(転倒した人)と「首」の転倒形である「県」から成り立っていることは、小山鉄郎著「白川静さんに学ぶ漢字は楽しい」(共同通信社)を読んで知りました。「白川静さんに学ぶ漢字は怖い」もおもしろい本です。

女高男低の裾野

 Yahoo!検索によると,「女高男低」というキーワードで目立つ内容は,内閣支持率,プロゴルフの賞金,男性の結婚難,生活の満足度,ドラマのキャストなどでした。
 中には,「社団法人全国有料老人ホーム協会」というところがあって,

夫の定年を境に逆転する夫婦の立場、妻の外向化と夫の内向化、年齢とともにたくましく活発になる女性と悲哀さえ漂わせる男性
という中高年層の問題も紹介されていました。
 先日,スーパーで小学校低学年くらいの児童が父親に「お前,ふざけんじゃねー」と真顔で指図されているようすを目撃しました。
 「女高男低」あるいは「女尊男卑」は「母高父低」「母尊父卑」などという形でも現われているようです。
 企業のマーケティングがこういうところをターゲットにして利益を出し,その成功が現象に拍車をかけているという現実があるかもしれません。コマーシャルをそういう視点で見ると,社会がどう変化しているのか(どう変化させられようとしているのか)がわかります。
 教育現場では「男女平等」が重要課題としてあって,混合名簿などもずいぶん普及してきました。
 高校で男女別定員のない人気校で女子の生徒数が多くなること。これに批判的な意見は少ないかもしれません。
 高校が男女別定員枠の緩和を要求してくること。これは,不合格者の上位の女子が合格者の下位の男子より得点が高い問題が背景にあり,優秀な生徒を合格させたいという願いからですが,これをすべて認めると,志望校に入れない男子が増えてきます。これはどう考えるか。 
 話はそれますが,小学校はさておき,中学校・高等学校で女性の管理職が少ないのはなぜでしょうか。指導主事も同じです(行政の達成目標実現のため,女性の方が合格しやすくなっているのに)。これは単純に受験する人(志望する人)が少ないからだと思いますが,女性教員の立場からすると,この原因は何なのでしょうか。企業と同じ論理なのでしょうか。

「女高男低」の時代の教育

 メールマガジン「ビジネス発想源」に,男子より女子が優秀で男子の採用数が少なくなってしまうという企業の話,叱ると立ち直れなくなる男が増えているという映画監督の話が紹介されていました。
 これは教員採用でも全く同じで,もう10年以上前から(使えそうな)男は貴重な戦力という話が,学校だけでなく教育委員会のレベルでかわされていました。こういう時代,女性中心の職場である小学校で指導力のない男性というのは本当にきついかもしれませんね。
 私立の女子高は,同年齢の男子はレベルが低くてカリキュラム運営ができないという理由で共学にしないところもありますから,「女高男低」時代は本格化しようとしているのでしょうか。
 生活指導でも,女子は叱られたことをバネにして伸びていくタイプが多いですが,男子はすぐ「ママ」に泣きついて逆ギレしてもらうという関係の母子が増えてきました。
 ここ十数年の男子の成長の遅れ,これは学力だけでなく体力,精神力,すべてにおいてかもしれませんが,この原因を的確に分析している人はいるでしょうか。
 母子の関係が非常に強く影響していることは,実例からたくさん言えることですが,それだけでしょうか。
 日本の場合,家庭では女性が財務大臣であるような「女尊男卑」の歴史は長いのですが,「女高男低」時代の社会はどうなっていくのでしょうか。
 政治家や管理職に女性が少ないことが日本の特徴になっていましたが,これは女性が優秀だったからにすぎないような気もしてきました。
 教育の現場レベルでは,いじめによる不登校,怠学,非行の男女格差の原因究明から,もしかしたら大きな改革のヒントが得られるかもしれません。

ホスピタリティ

 エドナイゼーションの検索で,柿澤弘治氏が講演等でこの用語を使用していることを知りました。「東京ビッグバン」という著書や,都知事選に出馬したことがある程度の知識でしたが,日本ホスピタリティ推進協会という団体の理事長をつとめていることがわかりました。
 協会のHPのあいさつ文では,~「江戸っ子の精神」を思い起こし,「江戸の心を今に活かす」をキーワードに「エドナイゼーション」を提唱~というくだりで紹介されています。
 協会には,街づくり・観光・ホテル・レストラン・医療・介護・美容・生産・流通・教育・環境等の分野の企業が加入しているようですが,「ホスピタリティ」はどのように定義されているのでしょうか。
 カタカナ語辞典では「厚遇,もてなし,温かくもてなす誠意」などと説明されていますが,協会のHPから引用させていただくと,ホスピタリティとは・・・
 

生あるもの、特に人間の尊厳と社会的公正をもって,互いに存在意義と価値を理解し、認めあい、信頼し、助け合う相互感謝の精神をいいます。伝統や習慣の違いをのり超えて、時代の科学の進歩とともに新しい生きる喜びの共通意識としての価値を創造するものです。人が日常生活におけるホスピタリティマインドには宇宙(時間と空間の無限の広がり)の自然と思いやりある調和(ハーモライズ)の実在を第一歩と考えます。

 学校でのホスピタリティとは・・・?

エドナイゼーション

 まだ「エドナイゼーション」は認知度の高い用語ではないかもしれませんが,海外からの日本文化への関心をより高める上でのキーワードになっていきそうです。
 日本人は内から(歴史から)よりも外(欧米)からの刺激を求めてやまない性質がありますが,普通の選手が大リーガーになるのが当たり前の世の中になってきて,さすがに足元を見る余裕ができてきたのかもしれません。
 日下公人著「あと3年で,世界は江戸になる!」(ビジネス社)は,エドナイゼーションの入門書といっていい良書です。帯には「日下「日本学」の集大成,ココにあり。平和で豊かな世界の未来は「江戸」にあった!」とあります。
 江戸時代=百姓一揆の時代,代官が農民を苦しめた時代という固定観念しかない人にはピンとこないかもしれません。しかし,江戸時代の研究は海外でも進んでいて,歴史教科書でも文化をはじめリサイクル社会やファストフード,インフラ整備や高度な教育の内容などについての記述が見られるようになりました。
 今までニートを「風流人」とよんだ人がいたでしょうか。1500兆円の個人貯蓄がある日本で働かない若者が増えているという情報は,借金や援助でやりくりしている国の人々から見ればどうなのでしょうか。
 教育のヒントになる情報がないかと探しながら読んでいるところです。
 

教師の「引き継ぐ力」とは?

 「『捨てる力』がストレスに勝つ」(集英社文庫)の著者である斎藤茂太さんの家系は,日露戦争時から4代続けて精神科の病院を経営しているそうです。
 ノウハウや経営資源などすべて引き継いでいらっしゃるのかと思いきや,火災や戦災,移転などを代替わりごとに経験し,実質的にはそれぞれが創業者だったということです。
 「ゼロからの出発」が成功の秘訣になっているという趣旨ですが,学校も,荒れた状態を建て直すという「後がない状況」というのは,教員もわがままを言いにくいしまとまりやすい。苦労も多いが,得るものも多いという「やりがい」を感じられます。
 しかし,軌道に乗っている学校を「引き継ぐ」ことは容易なことではありません。
 再建に成功した学校で,再建当初の中心メンバーが抜けるとき,「落ち着いて楽になった学校なのだから余計な仕事を引き受けたくない」教員が大勢異動してくると,学校は簡単に逆戻りしてしまいます。
 コンピテンシーでは簡単に説明がついてしまいますが,「前の学校ではうまくいっていた」経験から抜け出せない教師の場合,力が発揮できないでまた去っていく。
 「荷物を捨てて出直す」発想が大事だということですが,現場ではどうでしょうか。
 どこどこの中学校では,これが常識だったとつい口に出したりしていないでしょうか。

教師の「捨てる力」

 2010年という区切りの年に向けて、今年は「捨てる」ことをキーワードに行動していきたいと考えています。
 斎藤茂太著「『捨てる力』がストレスに勝つ」(集英社文庫)をヒントに、捨てることが苦手で困っている自分を救おうとしたのですが、なかなか実現できそうにありません。
 教師には、意外と「自分を捨てられない人」が多いのではないでしょうか。
○「過去の栄光」を自慢する人。人をほめることを知らない人。
○がんこ一徹な人。考え方を変えない人。自分のやり方に固執する人。
○頭を下げて謝ることのできない人。言い訳がましい人。
○人のアラ探しばかりしている人。人の誤りを徹底的に非難する人。
○攻撃的な人。一方的に、しゃべる人。相手に口を開かせない人。
○自分のことを棚に上げて、平気でいられる人。反省しない人。
 思い当たる教師が多いですね。
 これらの逆コンピテンシーはさらに逆に読めば、
○過去に実績を残した人。ほめることが必要ないほど子どもが自分の成長に満足できる環境をつくった人。
○自分のやり方を周囲に認めさせ、集団として高い成果を発揮することに成功した人。
○失敗を犯したことも責任を追及されてこともない人。
○失敗の原因をつきとめ、その改善方法について適切な内容のアドバイスができる人。
○一方的な説諭でも子どもが納得し、自己反省を促す指導ができる人。
○小さな失敗にこだわらず、常に行動をおこし、また失敗を繰り返しながらも生徒とともに歩み続ける人。
 成功があれば、自信になり、その自信が教育を支えていると考えれば、「自分を捨てられない人」には「自分を捨てることもできない」のではないかとも思ってしまいます。
 プライドがなければつとまらない教師でも、プライドにしがみつけば失敗する・・・。
 最大のキーワードは「謙虚さ」ということなのですが、教員にとってみれば、指導してくれた先輩教師が、後輩から何かを学ぼうとする姿勢を見せてくれたかどうか、強い指導力をもっている教師が、ワンパターンのやり方でうまくいかなくなったとき、新しいやり方を追求することができたかどうか、そういう環境がはぐくむ資質なのかもしれません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より