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『学校の絞め殺し学』第4回~直面問題近視眼症候群~

 第4回は,前回と共通性のある,「目の前の問題だけしか問題視できない」問題です。
 「目の前の問題」へのとりあえずの対応が,新たな「問題」を生み,事態が改善する兆しもなくさらに泥沼にはまっていた学校がありました。
 たとえば,荒れた学校を建て直すためには,どこから手をつけたらよいのでしょうか。
 管理職の立場なら,運動部を全国大会に導けるようなスーパー顧問をよぶのか。指導力不足の教師をすべて転任させるのか。特別に予算を増やしてもらうのか。過員を割り当ててもらうのか。PTAおやじの会を結成するなど,地域力を生かすのか。成功例はたくさん知られています。
 ある高校の校長は,コネを使って有名人を講師に招いたり,マスコミで学校を紹介して知名度を上げたり,高校とは思えないカリキュラムを導入したりして,「全入」状態から脱出し,建て直しに成功しました。
 ある教育委員会では,1年生の1学期に数十人が退学する(この後は落ち着いた学校になるのですが・・・)高校をなくすために,新しい単位制や総合学科やテストがなく授業時間が短いカリキュラムの学校をつくったりしました。驚くほど高い倍率の学校に生まれ変わりました。
 直面する問題に正対し,解決してきたように見えるこれらの事例をどう解釈したらよいのでしょう。
 絞め殺されようとしているのはだれでしょう。

 教員の立場からは,荒れた学校の再建と聞いて,どういう発想が浮かんでくるのでしょう。管理職からの指示が嫌いな人たちは,対策を練ろうと,(職員会議ではなく)教員会議でものごとを決めようとします。
 当然,目の前の現象への対応から議論が始まります。遅刻を減らすには。エスケープした生徒をどう教室に連れ戻すか。ガムやタバコの始末をどうするか。欠席が多い教師の授業の補強をどうするか。頭髪指導,服装指導をどうするか。教材費や給食費の取り立てをどうするか。テストの監督は何人で行うのか。公園の見回りはどうするか。深夜徘徊で騒音やゴミの散らかしの苦情が出ているが,今夜はだれが対応するのか。連絡のつかない保護者をどう探すか。数日間,居場所がわからない子どもをどうするか。(今は携帯があるおかげで少し対応がしやすくなっているかもしれませんが・・・)
 優先順位としては最後の方に,学力の定着が困難な子どもの進路をどうするか・・・。
 対象の生徒が2割を超えれば,さすがにこれらの対応だけですべての時間がふさがってしまうような気になります。
 しかし,私は「まじめにやろうとしている7~8割の子どもの期待に沿う教育実践を優先的に行う」「問題行動を繰り返す生徒のご機嫌とりをいっさいなくす」ことを宣言し,問題行動や対応が困難な非行はすべて学年だよりで公表することによって,家庭や地域,教育委員会,警察の力を借りることにしました。
 日本の場合,「世間の目」というのは恐ろしく威力があるものです。学校が外に向かって情報を発信するようになると,今まで不信の塊で教師を見ていた親や(生徒が最も不信感を持っていたのかもしれませんが)地域の目が変わってきたことを,生徒が感じるようになります。
 非行に走った生徒の中には,「進路のことがあるから本当はまじめにやりたいが,あのグループからいじめられたくないから非行に加わる」ようなタイプが1人か2人,必ずいるものです。この足抜けを成功させ,いじめを封じ,保護者から感謝された話をPRすると,次第に包囲網ができ,非行の核となる生徒が絞られてきます。最後の仕上げは・・・内緒にしますが,「荒れた学校を建て直す」ための秘訣として言えることは,教師が「荒れ」にすべての視点を向けてしまうのではなく,「よさ」を伸ばすことにも注力することです。
 この前にもふれた,劇薬を使って「荒れた」部分を治療して,正常な部分をおかしくしてしまうようなことは,絶対にしてはいけません。
 7~8割の子どもが授業を抜け出し,校内でタバコを吸い,万引きしたお菓子を食べ,帰ったら盗んだバイクで暴走している,そういう事態なら学校を閉鎖してでも残された子どもを守るべきでしょうが,十数人程度の非行で,その他の大部分の生徒が期待しているおもしろい授業,楽しい行事,委員会活動を台無しにしてはいけません。
 行事で生徒は盛り上がるとは言え,本当に求めているのは学力の保障です。荒れた学校では,(補強に入る教師はよほど厳しい状況に追い込まれ,いやがるからか,空き時間の教師がいるのに)当然のように「自習」の時間を作ってしまう。「自習」と聞いて,喜んでしまう生徒も多いでしょうが,表面的な「喜び」ではなく,奥底の「不満」を感じ取らないといけません。「荒れた学校」「評判の悪い学校」の復活力・潜在力は,相手がまだ成熟していない子どもであるだけに非常に高いものであること,「授業の本物の品質を追究しようとする」ごく当たり前の発想が,生徒を救うものであることを私は学びました。保護者から信頼を得るには,深夜に補導するのも大事かもしれませんが,「授業がおもしろい。勉強が少し楽しくなった。○○高校に行きたい」と子どもに言わせなければなりません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より