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悩みのない指導はない

 指導に悩みはつきものです。
  「教え込み」というとマイナスのイメージが強い言葉です。
 自分もその担い手ではないかと悩む教師がいるかもしれません。
 話術のない教師の一方的な情報伝達だけの授業は、「教え込み」ではなく、私は「教え流し」と呼んでいます。授業で伝えたいことが生徒に理解され、行動の変容に結びつくような「教え込み」は決して悪ではありません。テレビの報道も、大手の予備校の授業、放送大学、テレビやラジオ講座も、すべて教え込みか教え流しです。
 「教え込み」だけだと、テストが終わったらまた全くの白紙に戻るとか、学ぶことに意欲をもつことが難しく(バラエティならともかく能力に負荷をかけて向上させるタイプの学校教育などは特に)、自ら学ぶ方法や能力を高める必要も大切なことから、研究授業などでは特にこちらの授業・教育技術向上が求められ、教師は悩むようになります。
 このような学習指導の場合にはむしろ両方大切なことが分かっているわけですから、二者択一で悩む必要はなく、両立は難しくても両方にチャレンジしていけばよいわけです。
 しかし、生活指導ということになると、単純ではありません。
 Aという生徒には強い指導が生きて伸びていっても、Bという生徒はそれでつぶれて立ち直れなくなることもあります。ではAとBに別々の指導が簡単にできるかというと、個性だけでなくそれに応じた指導法の見極めも難しいし、周囲のC、D、・・・が「Bを先生はひいきしている」などと指導の同一性、平等性に疑問を投げかけます。公平性を重視しても、指導される生徒の方には不公平にしか見えないこともある。
 学級委員のような代表者にきつくあたると、資質や責任感に乏しい委員は「なんでおれだけ」とふくれるように。これで親にも苦情の電話をもらったことがありましたが、いい意味での「特別扱い」を感じとってくれると、最後は感謝してもらって対応を終えることができます。これが親が子どもレベルかそれ以下だと、不平等を盾に引き下がりません。子どもの機嫌を損ねたことが絶対悪なのです。
 指導の結果の成否は成否として、先行きが怖い教師は「指導をしない」という選択肢をとりますが、成否の可能性を視野に入れ、最悪、「見守る」という選択も視野に入れながら、あくまでも子どもに向き合う姿勢を持続したいものです。(この結果、多くの教師のフォローをあおぐことになる場合もあります。だれのためのフォローかを納得してもらえる教師集団の一員かどうかということも大きな問題ではありますが・・・。)
 中西輝政著『本質を見抜く「考え方」』(サンマーク出版)から、氏の体験部分を省略してエッセンスを引用させていただきます。
 

そもそも人間は、自分の中に二つの「相反するもの」を持ち、つねに自分に問いかける部分を持っていないといけません。
 たとえば、二つの相反するものがあったとき、どちらかをスパッと切り捨てて、すっきりしていたい・・・・・・
 しかし、ものの考え方とか、一つの国や企業の命運がかかっているような状況、また個人でも人生の大きな節目における判断では、つねに「二つのもの」を持っていないといけないと思うのです。行動に移るまでは、絶えず自分に「そうじゃないのでは?」と問いかけるもう一人の自分がいないと、大切なものを全部失ってしまう危険があります。
 ・・・・つねに迷い悩みながら歩んできたことによって、ものの持っている多面性、一面だけではわからない、いろいろな面からの見方に気づいたということがあります。
 人間の本性として、相反するものを持っていたら、統一したいと思うものです。一方をスパッと切り捨てれば統一できますが、単に切り捨てたのでは、それは「浅い統一」になります。二つのものを持ったまま、試行錯誤しながらもどうにか統一しようともがくとき、人は、両方をつなぐ深いもの、より大きなものを探求する思考や知性がそこから生まれてきます。
 ・・・・もう一方にある自分自身をどこまで大切にするか、どこまで意識して持っていられるか。その「もう一つの自分自身」を、つねに意識して磨いていくことで、どんな状況にあっても簡単には切り捨てられない大切なものになっていきます。
 迷っている状態というのは、「将来への投資」です。あるときには二つに切り裂かれても、悩んだことは、必ず自分の財産になります。精神の財産になって、蓄積されます。
 迷いは、本当の学びであり、自分を豊かにするものです。迷ったときこそ大事なとき。迷ったときこそ収穫のとき。

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bfont size=5font color=red落ちこぼれの「救済」が「学力向上」に繋がる/font/font font size=3font color=navyできるヤツの苦情なんて知ったことではない。 オレは、一流を目指す連中よりも、一流になれない連中を応援する。 高いレベルを目指したいのなら、勝手に目指せばいいじゃないか。 教師の指導力不足を棚に上げて、でき..... [続きを読む]

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より