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2007年12月

『学校の絞め殺し学』最終回~通いたい学校像のギャップをどうするか~

 弘中勝著『会社の絞め殺し学~ダメな組織を救う本~』(祥伝社黄金文庫)風に,学校を絞め殺す問題の数々を考えてきましたが,残るは「本物の品質を目指そうとしない」問題,「安易な集客(生徒集め)に走ってしまう」問題,「教育の成果に理念を持たない」問題,「お願いの時だけしか擦り寄らない」問題,「おすすめ力」を持たない問題などです。
 これらは「どういう学校をつくるか」という教師の考えと,「どういう学校に通いたいか」という子どもや親の考えの間の距離を理解する上で参考になります。
 安易な集客のための努力をせざるを得ない学校がいかに多いか。
 中学校・高校にはわずかな部費で入れる「スポーツクラブ」があり,それで大会まで開かれるので,学業とそっちと,どっちが大事なの?と問いたくなる生徒と教員,保護者がたくさんいます。私企業である学校は昔から堂々とやっていますが,希望者がみんな私立に入れるわけではありません。
 公立学校では教育課程の編成でどんなに頭をしぼっても,その枠の中にない部活動というものが,子どもからも親からも非常に強く期待されるものになっているにもかかわらず,いつまでたっても制度的にその要請に応える準備ができていません。
 理念と現実のギャップは教育現場では数限りなくおこっていますが,部活動に関していうと,そこにトラブルという第三の難題もかぶってきて,終わりのない頭痛の種です。
 ただ,教員が高齢化していること,指導者がいないこともありますが,生徒の方もスポーツより遊びを優先して活動に参加しない,・・・こういう循環で公立学校の部活動が不活発になっていくのは,良い結果なのでしょうか。都合がいいことだと割り切ることができるでしょうか。荒れている学校の現場に行くと,○○大会ベスト4!など,部活動の成績を玄関などに大きく掲げ,生徒の健闘をたたえていることが多いのですが,徐々に垂れ幕の数が減っていき,気が付いたらその部はもうなくなっていた,ということもある。
 部活動は,教育課程の弾力化だけでは対処のしようがない中学校・高等学校特有の問題です。学力向上課題の影に隠れてしまいますが,相乗効果がねらえる改善策を提言していきたいものです。

教師・管理職にとっての「胆力」

 教師は何に怒りを感じているか。
 子ども、保護者、管理職、社会、マスコミ、教育委員会、文部科学省、官僚、・・・不満の行き場はたくさん用意されています。教育ブログを分析するとどこの人気?が最も高いでしょう?
 会社員の不満と同様に、上司である管理職への不満というのが最も気楽に出せるものです。
 昔、親への不満をタクシーの中でもらしていた教員が、運転手(地元の保護者だった)からクレームをつけられた案件、子どもへの不満や愚痴を職員室で大きな声で話していた教員が、廊下で聞いていたPTAに不信感をもたれてしまった案件など、子どもや親の悪口で学校の信用を失ったケースがありました。
 管理職の資質としては、このような負の情報をたれながす能力ではなく、たとえばこのようなケースのクレームに適切に対応する能力が求められます。
 管理職試験の面接では、わざと感情を逆撫でするような質問を次々に繰り出し、常に冷静な受け答えができるかを試しますが、多くの管理職候補者はここがクリアできません。
 部下の失敗やミスを自分のせいにされて愉快に思わないのが普通ですし、教師はもともと子どもに謝罪をさせるのは得意でも、自分が謝罪することには慣れていないので、こういう場面で「机上の試験勉強」では絶対に身につかないような人格、性格、資質があらわになってしまうのです。
 厳しい追及を受けて逆ギレする人はさすがに少ないでしょうが、無責任そうな態度、めんどうくさそうな態度、たよりなさそうな態度、自信がなさそうな態度、不愉快そうな態度、わざとらしい態度、型どおりの態度・・・多くの反応が想像されます。
 こういうときに求められる管理職の最大の資質は、「胆力」です。
 藤原校長のような企業人が校長で実績を残すには、実務能力だけではきっと不十分だったと考えられます。
 校長が教育長や文科省の官僚と比べて恵まれているのは、現場の教師に「胆力」を見せつけられる距離に立っていることです。小規模校というメリットも大きいのですが、藤原校長は本の出版という形で胆力を発揮しました。
 常に外部の参観者がいて、公開性が高い中では教師も子どもも手が抜けないものです。教師と子どもにも「胆力」をはぐくむ環境を藤原校長は用意しました。
 「胆力」を磨くには、失敗に正対して問題解決を積み重ねていくしかありません。
 「ごくせん」の最大の武器は「胆力」ですが、特殊な生育環境に教師は頼るわけにはいきませんから。
 

『学校の絞め殺し学』第10回~管理職候補者をどう育てるか~

教育長という校長の上司の立場から言うと,優秀な教育管理職とは何でしょうか。
 教師の立場から言うとどうでしょう。 
 両方に共通して言えるのは,「人材を育てる」管理職のことでしょうか。優秀な生徒を育てたのは親や教師の成果であって,直接的には校長の成果には見えませんが,経営上の判断,教師の能力UPがその成果を生む背景になった可能性はあります。指導力不足教員を異動させること,辞めさせることも重要な仕事ですが,「人を育てる」学校の最高責任者としては後ろ向きで表に出にくい仕事だけでなく,前向きで周囲から認められるような仕事を残してほしいものです。
 しかし,「問題をおこさない」管理職がいかに有難がられるかを想像するのは難しいことではありません。これは,いつの間にか「問題を報告しない」管理職を生んでしまいました。
 教育委員会の立場から言うと,教職員がおこす問題は,市町村レベルならまだしも都道府県レベルになると数人の出来事ではなくなります。議会からは説明を求められたり,責任を追及されたりしますが,「ひとごと」ですませられる?教師と違って,教育委員会のレベルになると,たまったものではありません。「問題をおこさせるんじゃない」というオーラを教育長が会議で発揮して,力のない管理職が問題を報告しない事態が次々に発生します。教員の不祥事は,管理職の責任逃れという問題を生み,教育委員会の無知,文部科学省の見当違いの施策という悪循環に結びついていきます。
 第10回は,「上司たる者の重責が分からない人間がいる」問題の教師編です。
 大量採用の世代の教師の大多数は管理職になりません(なれません)。なりたい人は目指せばいいし,なる気のない人には縁のないこと。「私は接客が好きなのでこのバイトに入った」といって,60歳になってもレジの前に立ち続ける大人はいませんが,「私は授業をするために生きている」「子ども前に立つのが仕事」の教師ならば,それを続けるのは本人の意思次第です。
 しかし困ったことに,採用数が少ない世代が40代になってきており,管理職候補者が足りなくなるおそれが目前にせまってきています。管理職にすすめられて(求められて)管理職試験を受ける人が増えてきました(昔から自分で言い出す人は少数派かもしれませんが)。小学校では再び大量採用が始まろうとしていますが,中学校や高校ではまだ簡単には教師になれません。こういう世代の教師の多くは,自分が将来,管理職になることを想定したキャリアプランを求められます。もちろん授業のスペシャリストを目指すのもいいのですが,授業だけのスペシャリストに陥る危険があり,「優秀な教師」というより「優秀な講師」や「アルバイトでがんばる教師」になるおそれもあります。
 さまざまな分掌を経験して,教務,生活指導,進路,研修のどれについても後輩の指導ができる教師を育てないと,異動がある公立学校は力のある教師が出ていくごとに新しい苦労を背負うか実践が後ろ向きになる連鎖から抜けられません。
 多くの現場では育成よりもどうしたら1年を乗り切れるのかで汲々としているため,「この人には管理職になってほしくない」という言葉が,2つの意味を持つようになっています。1つは,現場から抜けてほしくない,もう1つは,この人には経営を任せられない。
 逆に,「あの人なら管理職を任せられる」という教員は,どのくらいいるのでしょうか。
 多くの教員は,実務者としてではなく(藤原校長のような実務者になると,いろいろな仕事をもちこんでくるので嫌だという反発を受けてしまいます),人格者としての管理職を求めています。これは,職務内容を知らないので仕方がないのかもしれません。人格者かどうかの判断は難しいので,管理職も実務的な能力主義で選ぶしかありません。
 私の考えるこの関係の問題の改革策は,職層の多元化です。
 主幹職は将来の管理職候補なので,生活指導だけ,教務だけのエキスパートで選ぶのは誤りで,さまざまな分野を担当させ,実績で実力を証明すれば昇格できるようにします。
 その他の教師は,異動のタイミングで実績をきちんと査定できるような仕組みをつくります。異動をしないのは教師にとっては楽でいいことかもしれませんが,普通の教師の能力開発には絶対に欠かせません。実績に応じた新たな職層をつくり,給料表を変えます。基本的には年功序列です。年序列ではなくて年功序列。ジョブローテーションは年数をかけないとできませんから,単なる功績主義ではありません。
 普通に仕事をしていれば,徐々に主幹職の職層に近づき,その後の選択は本人次第。
 今までは,普通の教員と管理職,主幹の距離が離れすぎていました。
 主幹職や管理職のことを無知でありすぎた教員に,職層の階段を上がるごとにその意味を身近に感じられるようにすること。見当はずれの批判にこたえる時間の手間も省かれます。

『学校の絞め殺し学』第9回~上に立てない管理職~

 第9回と次回の第10回は,「上司たる者の重責が分からない人間がいる」問題です。
 今回は,管理職自身の問題です。
 管理職ならでは使命はたくさんありますが,カネやモノが限られている学校では,ヒトという資源を最大限に活用して目標の達成を図る姿勢が求められます。
 ただ,子どもの教育と同じで,教師の能力開発や指導力向上というのは,そう簡単にはいきません。勉強する子は放っておいても勉強するし,新しい仕事への挑戦を厭わない教師は自分で勉強をして勝手に伸びていきますが,自ら机に向かおうとしない子ども,研究授業をやりたがらない教師,問題行動を目の前にしても「勤務時間は終わりましたから帰ります」と子どもに背を向けられる教師にやる気を持たせるのは至難の技です。
 子どもには「志望校に入りたい」という動機が最後の救いになる場合がありますが,管理職試験を受けるわけでもなく,研究推進校への異動を希望するわけでもない,授業改善にも興味がない教師をどうやって指導すればよいのでしょうか,・・・ということになってしまう。最後の手段?として導入されようとしているのが成果主義であるわけです。学校全体での評価を重視して,学校単位で教師全員の給与に反映させるような仕組みをとると多少の効果があるかもしれませんが,校内の相対評価では制度の成果は期待できないでしょう。
 しかし,営業が苦手な営業マン,計算が不得意な経理マンは会社にいられなくなりますが,授業ができない教師は学校に残れる。日本一有名な民間人校長の藤原和博著「校長先生になろう!」(日経BP社)でも,「そういう教師は辞めるべき」と言っているだけで,本の中身は「子どもにどんな教育をするか」が中心で,「教師にどういう教育をするか」は書いていません。「早く異動させる」策しか出てこない。
 子どもの話を聞く,生徒の面倒見のいい校長はたくさんいるかもしれませんが,校長にはどのくらい教師の話を聞けるか,問題をおこした教師のフォローをどれだけ熱心にできるかという資質も問われてきます。藤原校長もそういう経験をたくさんされてきたのでしょうが,公表できる内容ではないので,外部の者は知るすべがありません。
 世間一般に,校長には,教師の能力を発揮させることより,問題をおこさせないように(おこした問題を隠すように)努力する人が多いという認識があります。子どもからも,自校の校長には「賞状や卒業証書をくれる人,朝礼で長い話をする人」という認識があるかもしれませんが,一般的には「記者会見で謝っている人」くらいのイメージでしょうか。
 上に立つ管理職とは,どういう人なのでしょう。
 「優秀な管理職」とは,どういうことをしてきた人のことなのでしょう。
 まったく管理職の職務を知らない人がそういう課題を投げかけられて,「あなたが管理職ならどうしますか」と問われたら,どう答えられるでしょう。
 次回は,管理職になる気のない教員の問題です。

「朝型人間」とは何か?

 朝も夜もフル回転という人からみれば,「朝型」「夜型」という区別は何の意味もないのでしょうが,一般的には,テレビばかり見ていてだらだらと生活していれば自然と夜更かしばかりし,朝を生き生き過ごせなくなった人が,「どうにか改善しないといけない」と思い立ったとき,「朝型人間」「朝型の生活」という言葉を頭に思い浮かべるのではないでしょうか。
 「朝型」「夜型」というと,健康的なイメージが強いのは「朝型」,価値観的にプラスの印象があるのも「朝型」,勉強しないでゲームばかりしている子どもを嘆く親が口にするのが「子どもは夜型で・・・」。夜も塾で勉強をしている子どもは,休息時間が非常に減ってきています。娯楽を深夜にまわすと,午前中はぼーっと過ごすことになる。
 「朝型人間」「夜型人間」は,どのように定義したらよいのでしょうか。
 多くの人は,朝から夕方まで仕事をし,夜は休息をとります。
 仕事に楽しさを感じている人で,出勤前にも仕事の準備ができるような,「仕事=生きがい(そこに娯楽性も感じて生活する)」人間は,基本的に「朝型人間」。おそらく仕事を引退して悠々自適になると,自動的に早起きになり,「朝型人間」。
 「仕事=生活や娯楽のための金をかせぐ手段」「勉強=そういう仕事につくための手段」と考えている人間のうち,娯楽で楽しむタイプは「夜型人間」。
 不登校で家に閉じこもっている生徒のうち,朝や夜という時間の区別の意味を感じなくなってしまった子どもには,朝や昼,夜や睡眠時に意味を与えるスケジュール表をつくらせて,生活をコントロールする意識をもたせる指導をしたことがありました。
 朝や昼,夜の時間の使い方は子どもの性格と保護者が在宅かどうかで変わってきますからここでは省略しますが,大切なのは睡眠時間の使い方です。
 睡眠時間は,スケジュール表の一番上から始まります。一日の活動のスタートは,睡眠時間にあり。これが,「朝型」生活の固定観念をくつがえします。「朝」は普通,一日の始まりの時間ですが,もう4分の1か3分の1は過ぎてしまっています。なんだか損した気分になりそうですが,睡眠時間もただ寝るのではなくて,本人に計画を立てさせます。
 この睡眠時間に何をするか。これは前日の就寝前に決めるのですが,「こうなりたい自分」のイメージを,2~3個ノートに書きます。
 「最終回に3点差を逆転する満塁ホームランを打ってヒーローになる」「1000万円の宝くじを当てる」「がんを完治させるウイルスを発見させ,ノーベル賞を受賞する」・・・馬鹿らしくて最初から取りくまない子どももいますが,これに取り組めると,一日の二番目の時間帯である「朝」が変わってきます。
 目的は自己肯定感や自己管理意識の涵養であるわけですが,「惰性の不登校」と,「惰性の登校」の共通点と相違点,「惰性の不登校」と「生活に自分の力がはたらく不登校」の相違点を考えさせるきっかけになる場合があります。
 「不登校」は大きな悩みですが,それはあくまでも表面的な問題であることに教師や保護者が気付いたとき,また新しい指導が始まります。
 
 

教師は「朝型人間」?

 朝の8時すぎには打ち合わせ、遅くとも8時半ごろには授業が始まっている教師は、間違いなく「朝型人間」でないとやっていけない職業です。
 しかし、学生時代から夜型の生活しかしてこなかった私は、自宅から最初の勤務校までの距離が近かったこともあり、なかなか朝型に切りかえることができませんでした。大学時代、体育会の現役の頃は、練習の後の4人一組のメニューがあり、帰りは終電、塾や家庭教師のバイトをしていたころも、帰宅が翌日近くになっていました。
初任のころは朝練があったので出勤が早かったこともありましたが、1時間くらいは体は動いていても頭は睡眠状態でした。
 学年主任になるとさすがに打ち合わせでぼーっとしているわけにいかないので、出勤時間を早くしましたが、やはり階段の上り下りをしているうちにようやく頭がさえてくるような感じでした。行政では、始発の通勤も多かったため、平日は朝型でも、日曜日の「寝だめ」の習慣がついてしまいました。
 「朝型人間」に無理なく切り替えるコツは、睡眠時間をできるだけ固定(6時間程度)し、午前4時に起きるなら午後10時に就寝するなど、前の日の努力と次の日は早く起きるという強い意思をもつことが必要だと言われています。ところが、教材研究や原稿などに追いまくられている日常では、仕事が終わらずに早く寝るのは度胸がいるので、どうしても早起きより徹夜を選択してしまいます。
 40代になってようやく朝型が定着したのは、緊急の仕事がない日の夜、自然と眠くなるようになったおかげです。そういう就寝の仕方をした翌朝は早い時間に自然と目が覚めるので助かります。
 早朝の職場は生徒も同僚もいないので仕事に集中でき、能率よく事務処理などの時間を過ごすことができるようになりました。
 ただ、効率の悪い会議が開かれる時間帯はもっとも眠くなるころで、厳しいものがありました。教師は、子どもの前に立っていないときは、どうしても気がゆるむものです。会議は、5分程度の休憩を2回くらい入れると、なぜが眠っていた人も目が覚め、効率よく進行するような気がします。休憩なしで2時間かかる会議が、合計10分程度の休憩で1時間30分以内で終われるかもしれません。
 さて、職場のストレスなどで朝型の生活リズムが調整できず、睡眠障害に悩まされている教師もいるようです。最近は中学生の中にもこのような悩みを抱えている生徒がいます。
 「無理のない方法」「意志を強く」「目的を持って」という朝型人間になるコツは、このような悩みの相談としてはあまり役に立たないのかもしれませんが、「年をとって体力が低下する」ことと、「環境が変化する」ことで多くの場合は改善されることになるのは確かです。
 生活が完全に「夜型」になってしまった不登校の生徒に、「朝型」人間に変身するプログラムを実行してもらいました。この方法を紹介する前に、「朝型人間」「夜型人間」の定義をしておきたいと思います。(続く)
 

困った上司との付き合い方

 教員にさまざまなタイプの人がいるように,学年主任,分掌の主任(主幹),副校長,校長にも,さまざまな人がいて,職について人格が変わる人もいます。
 教師のとっての上司は主幹,副校長,校長が身近にいますが,自治体なら教育長がトップです。
 異動先が気に入らず,教育長に直訴するような教員が出てきた(昔は議員のコネを使ったのかもしれませんが,最近は堂々と直行!)だけでなく,それを真に受ける教育長まで出てきてしまって,何時代の世界なのかよくわかりません。個人の尊重をすると,こうも無秩序な状態になるのでしょうか。
 現場の教員にとって,不満の身近なぶつけどころは管理職なので,悪態の数々は多くのブログでもご披露されているようです。
 企業の世界には,「過干渉型(仕事に口を挟まずにはいられない)」「赤ちゃん型(すぐに怒ったり,機嫌がよくなったりする)」「ぼんやり型(仕事は丸投げ。トラブルが起こると頼りにならない)」「流行追随型」「思いつき型」「だるまさん型(IT化についていけず,手も足も出ない)」の上司がいるようで,新聞記事では,それぞれへの対応のこつが紹介されていました。学校ではいかかでしょうか。最近は「ぼんやり型」より「過干渉型」が増えていますか?
 教育の世界でいうと,校長がダメだと思ったら,次のように考えて行動すべきだということです。
1 無能なのは校長ではなくて自分ではないかと省みる
2 同僚に意見を聞く。同意が得られなければ自分の問題かもしれない。
3 感情的にならず,どこがダメか,具体的に検討する。
4 相手に合った対策をとる。干渉型の校長には,ホウレンソウの機会を増やし,安心させる。
5 人材を見る目を養う機会だと考え,よく観察する。
 教師の中には,管理職を目の前にして嫌悪や軽蔑,憎悪の感情を露骨に表す人がいますが,教育の現場で,管理職だけでもまともな存在であってほしいという願望が強いのが原因でしょうか。しかし,どこの世界にも,完璧な上司はいません。星野監督についていきたい選手も多いかもしれませんが,星野監督だけは勘弁という選手もいるかもしれません。
 上司を見ずに仕事を見る。成果主義の企業でも教訓とされている言葉です。

教師の「後輩の育て方」とは?

 引っ越してからたまっていた新聞のスクラップを始めました。
 行き詰まる教育改革,問題のある学校経営を立て直すために,行政が市場主義・成果主義をはじめとした企業の論理を導入し始めたころ,私は危機管理や経営管理の知識をもっぱら日本経済新聞から得ていました。
 NIKKEIプラス1には,企業への採用後まもない読者を対象としたコーナーがあり,「後輩指導,きちんとできる?」の記事に目をとめました。
 教師は退職まで,何人くらいの後輩を育てているのでしょうか。10年間の教職経験で何人,20年なら何人が標準なのでしょうか。
 教科の先輩,担任の先輩,主任,分掌の前任者,・・・さまざまな立場で後輩を育てる機会があるのですが,教師生活をしていて,「このように子どもは育てるものだ」ということに関心はあっても,「このように後輩を育てる」という話を私自身は聞いたことがありませんでした。
 記事を読んでいると,子どもを育てることと後輩教師を育てることは,共通点が多いことに気付きました。
 教師の失敗例でもふれたことですが,「今の説明,わかった?」という指導役の問いはおおむね愚問。
 この質問に「よくわかりません」と答えることができるのはよほど腰のすわった教師で,ほとんどは先輩に遠慮して「わかりました」と答えてしまう。やらせてみると,わかっていなかったことを指導役は思い知る。
 ・・・授業でもよくある失敗です。
 記事に示された「指導役の注意点」は,次の7つです。
1 ホウ・レン・ソウを習慣づけ・・・仕事ができるようになっても聞く。
2 「これは常識」はタブー・・・学校の常識は世間の非常識。まだ経験の浅い教師は非常識に慣れていないことに注意?
3 同僚の手助けを活用・・・常に1対1ではなく,学校全体で育てているという雰囲気にする。ときに,「囲い込み」をして自分色に染めたがる(後輩だけでなく,担任をしている学級の生徒すらも)教師がいるので注意。
4 適性を見て教え方工夫・・・仕事の進め方,癖を見抜いて,的確なアドバイスを。
5 プライドをくすぐる・・・自信をもっている点を見つけてほめる。先輩が教わる分野もつくる。
6 教え役の仲間と連携・・・後輩指導でたまったストレスを発散。
7 後輩の成長をよろこぶ・・・生徒が教師を認める場面を楽しみに。後輩の成長を長い目で見守る。
 互いを認め合うような言葉であふれている職場というのは,企業でも学校でも働き甲斐があるでしょうね。

『学校の絞め殺し学』第8回~研究会マニアの問題~

第8回は,「教育論に深く酔いしれてしまう」問題です。
 企業社会には,「セミナーマニア」「自己啓発」マニアと呼ばれる人が急増しているそうです。知識だけ増やしていて,実践はしてない。教育の世界では,「詰め込み教育」が生んだタイプの典型ということでしょうか。
 「自己投資」を惜しむな,と主張する教師のグループがあります。これを,「自分のため」と誤解して,使いもしない本を積み上げている教師はいないでしょうか。全国の研究会をただ漫然と行脚しているような教師はいないでしょうか。
 私はある研究会の代表の方に,「この研究会には多くの先生方が参加されているようです。毎年(毎回)参加されている先生もいらっしゃるようですが,その先生方の力量が向上したかどうか(研究会に参加した成果があったかどうか)はどのように把握されているのですか」と質問したことがありましたが,「何のこと?」というような反応をされてしまいました。参加費もとっているし,「指導力をつける講座」などと銘打って募集しているので,興味があったのですが,ただやりっぱなし,アンケートもとっていませんでした。
 官制の研修も私的な研究会も,受け身の参加では時間の無駄です。「自己投資」を「自分のための投資」ではなく,「子どもにより質の高い教育を行うための投資」「他人のための投資」という意味で捉えないと,ただの自己満足で終わってしまいます。
 自己満足タイプの教師の多くは,有名校やカリスマ教師の教育を崇めたて,輝く目をして研究授業にのぞんでいるのですが,どこを見ているのかというと,子どもではなく授業者を見ているのです。ああいう授業ができたらいいなあ・・・という感覚でしょうか。また,自分が子ども役になってしまっているのです。
 しかし,優秀な教師を研究授業の場で観察していると,教師ではなく,子どもの表情・反応を見ています。ですから,子どもの顔が見えない位置で研究授業の場に参加している教師は,自分の授業でも,子どもの方を向いていても,おそらく子どもを見てない授業者になってしまっています。
 研修熱心だし,本もよく読み,研究会によく参加しているまじめなのに,パッとしない教師というのがいます。自分自身が授業研究を行って,しっかり分析し,批判してもらうこと。これが何よりの研修であり,10年経験者研修では,この時間がかなり設定されているはずです。

『学校の絞め殺し学』第7回~教師の忙しさとは何か~

第7回は,「忙しさをやたらとアピールしたがる」問題です。
 急な生徒指導が入ったふりをして,「忙しいんだから遅れるのは当然だ」という態度で会議に遅刻してくる教員がいます(何事もなかったかのように,悠々と遅れる教師もいますが)。
 教科の質問にきた生徒に,「忙しいから後で」という教員がいます。
 教務部や研究部が出した調査を期限になっても出さない教員がいます。
「忙しいんだから,こんな調査をまわさないでよ。」というオーラを発している教員がいます。
 今週は何日間徹夜をしたとか,何時間サービス残業をしたとか,自慢したがる教師もいます。 
 一方で,大量の校務をこなして忙しそうなのに,苛立ちのオーラが全く出ていない教師もいます。物事の優先順位が決まっていて,仕事の段取りがきちんと把握できている教師です。
 教師の多忙感というのは,何に由来しているのでしょうか。
 多忙感は,ある意味では教師の生きがい,やりがいに直結する面もあります。
 授業が終わると,非常にたくさんの生徒が質問攻めにしてくることがありますが,これはうれしい悲鳴です。自由課題を出すと,内容によっては多くの生徒が提出し,添削にたいへん苦労します。しかし,これもやりがいになります。
 やりたい仕事とやりたくない仕事,これはどんな職業にもあるもので,教師の場合は,問題行動への指導など,やりたくない仕事の方が多いかもしれません。
 ただ,「やりたい」「やりたくない」「これは私の仕事」「これは私の仕事ではない」で多忙感にプラスとマイナスの評価をつけるのは問題がありそうです。
 昔,教育委員会から学校に連絡を入れることがたびたびありましたが,教師の電話の応対の仕方を比べると,残念ながら学校格差,管理職と教員の格差が非常に歴然としていました。多くの学校では,代表番号の電話の前に座っている副校長が応対するケースが多いのですが,会議中などは,職員室にいる教員が出てきます。初任者研修か何かで,一度これを録音して印象を討議しあう機会をもとうとしたことがあるほど,問題になる電話対応があります。「校長はいらっしゃいません」「校長?知りません」など,敬語の学習や応対のマナーの学習が必要な教師もいます。そういう教師が発しているオーラは,「私は忙しいんだから,取り次ぎに使うな」という類のものです。
 「忙しいから後にしろ」
 「忙しいから遅れる」
 「忙しいから我慢しろ」
 多忙だからできないのか,多忙感ができなくさせているのか,じっくり検討してほしいものです。
 授業中に内職中の生徒に注意したら,「今,忙しいんだから邪魔しないで下さい。」と逆ギレされたことがありましたが,担任の口調とそっくりだったので怒る気がしませんでした。

いじめと親の虐待の共通点

 橋本治著「日本の行く道」(集英社新書)は,教育問題からの切り込みが入った本なので読んでみました。
 いじめの問題については,「親からの虐待に似ている」こと,「昔のいじめっ子は友達ではなかったが,今は友達がいじめっ子になっており,学校はいじめられた子が消えなければならない空間になってしまった」など,新たな視点が提起されています。いじめも,親の虐待も,その存在を認めてしまうと,自分の居場所がなくなってしまう。だから認めたくないが,現実の問題として目の前にある。葛藤の結果・・・。
 「いじめ」という用語が,行う側,される対象を含まずに使われている(○○いじめなど)ことにも著者は注意を向けています。
 たまたま私の学級で議題になったことがある「自立」とは何かについてもふれられていました。
 著書の内容を読んで,なかなか中学生も捨てたもんじゃない議論をしていたことに気付きました。
 自立とは何か。自律とどう違うのか。「自分で」というのはどういう意味か。「自分だけで」か。「他人の意見も尊重して行うことが大事ではないか」・・・などという話し合いがあったのを記憶しています。
 著書では,自立という言葉には,それを口にした途端,自分の自立は実現されたと思い込んでしまう錯覚がある。
 自分にとって「自立」とは,どういうことなのか。社会人としての自立。中学生の自立。教師の自立。公務員としての自立。親の自立。・・・また,それぞれの立場の人間が,ある対象に向かって「自立しなさい」と言ったとき,それはどういう意味になるのか。「自立=自己責任=こっちは関係ない」という図式にはなっていないか。
 自立した自分と他人との関係はどうなるのか。これをおろそかにすると,「自分は自分なりにちゃんとしているつもりだが,人間関係が不得意」などという人が増える。
 教育関係の用語というのはたくさんありますが,大人の議論の前に,少し児童生徒の目の高さから,考えてみる必要があるのかもしれません。
 ゆとり教育の意味は?詰め込み教育の意味は?「生きる力」とは?
 学校と塾の勉強のこと?

『学校の絞め殺し学』第6回~時間の浪費の原因は何か~

 第6回は,「浪費時間がやたらと多い」問題です。「浪費時間を減らそうとする努力を一人一人がしない」ことも問題です。
 多くの教員は,学校の「浪費時間」と聞くと,職員会議とか,成績処理,報告書作成などの時間が思い浮かぶのではないでしょうか。
 中学校なら,持ち時間数の少ない教科の教員が,空き時間に職員室で油を売っているとか,担任以外の教員が授業準備をするわけでもなく暇そうにしているとか,そういう光景を想像するかもしれません。中学校では,昼休みに職場を離れるような休憩時間が確保できないかわりに,空き時間を休息ではなく休憩にしてしまうことが可能です。職員室ならまだしも,教科の準備室があるような学校で,そういう場所に一人こもっているような教師は,いつ学校に来て,何をしているのか,ほかの誰も知らないということが起こります。タイムカードが導入されるようになったのもうなずける話です。
 さて,浪費される時間というのをどう定義するかは難しいですが,半分以上が眠っている会議などは,間違いなく浪費時間にあたります。勤務時間が終わるころ,いきなり目を覚まして,「早く会議を終われ!」などというオーラを出す人がいると思ったら,勤務時間が過ぎていきなり帰ってしまう教員がいたりと,「現場」というのはすごいところだ!と思いました。
 職員会議の短縮のコツは以前に述べたのでここではふれませんが,何人もの教師が遅刻し,始まる時間が予定より遅れるという最悪なケースだけは何としても防がなければなりません。弘中勝著『会社の絞め殺し学~ダメな組織を救う本~』(祥伝社黄金文庫)では,「相手の時間を奪う意識がない」ことも問題として取り上げています。
 遅刻する教師に時間を奪われ,議題の整理をしていない議長(副校長や教務主任など)に時間を奪われ,毎年同じことしか言わない組合の関係者に時間を奪われ,同じ対応をする管理職に時間を奪われ,学年会や分掌部会で話し合ったことを聞いていなかった教師や内職中だった教師に間抜けな質問をされて時間を奪われ,大事な審議事項の議論がろくにできず,疲労感ばかりをお土産に会議を終える・・・早くこんな習慣から脱却したいものです。
 管理職か教務主任がしっかりしている学校は,年間の議題表と提案関係の書類の提出期限一覧を掲げておいて,会議がスムーズに進行していることと思います。忙しい教師どうしで,人の時間を奪わないこと。こういう倫理観を共有したいものです。

教育の「待つ」かたちとは?

 臨床哲学を専門とする鷲田清一の著書「『待つ』ということ」(角川選書)は,著者がケアについて考えた「『聴く』ことの力」の続編としての位置づけがあったようです。
 全19章にわたって,さまざまな「待つ」かたちについて語られています。
 「待ち」にも短期的,中長期的なかたちがあり,教育失敗学あるいは逆コンピテンシーの観点からは,教師の「待ち」の姿勢にどういう問題があるのかを明らかにしてみようと考え,読んでみました。
 「待たなくてよい学校」とは,どういう学校か。
 「待つことができない教師」とは,どういう教師か。
1 焦れ
 「待たない」「待てない」という意思の表れは,短期的なケースでは「催促」というかたちをとります。
 自分は,どういう催促を学校でしてきたでしょう。計画書,報告書を期限までに出さない教師へ。宿題を出さない子どもと同じ。発問になかなか答えない生徒,生徒指導で真実をなかなか話さない生徒へ。集会でなかなか整列しない集団へ。会議に集まってこない教師へ。給食費を納めない保護者へ。
 催促を必要としないようにするための方法は,いろいろ考えられそうです。
 中長期的なケースでは,「改善」ということが求められます。
 学力低下問題。学習指導要領の見直し。授業改善。・・・これらは国や世論の「焦れ」が背景にあります。おそらく,教師は生徒の学力が向上しないことに,「焦れ」てはいません。ただし,進路を直前にしてあわてる保護者や担任はいるかもしれません。
 「待つ」ことができなくなったとき,何かできるか。これは難しい問題です。
 著書は,「焦れ」に続き,「2予期」「3兆候」「4自壊」「5冷却」「6是正」「7省略」「8待機」「9遮断」「10膠着」「11退却」「12放棄」「13希い」「14閉鎖」「15酸欠」「16倦怠」「17空転」「18粥状」「19開け」をテーマとしています。すべて教育現場の問題におきかえることは難しいかもしれませんが,少しずつ考えてみたいと思います。

教師の「非属の才能」は?

 タイトルを見て,「教師に多そうなタイプの人のことが書かれている本かな?」などと思い,読んでみた,山田玲司著『非属の才能』(光文社新書)。
 パラパラとめくったとたん,ずいぶん太文字の文が目につく本だなと感じました。著書が言いたいことは,「非属のすすめ」なのかもしれませんが,「非属の才能」の事例のレベルが高すぎるので,こういう本を手に取る「非属」に同調したくなるような私としては,どういうメッセージを受け取ればよいのかと考えながら,ブログを読むような感覚で読みすすめました。
 自信を失ったときに,自分をなぐさめられる題材というのを著者は集めてくれたようです。創造性が求められる漫画家は,アイデアがつきないように,いろんな努力をしているのがよくわかりました。こういう本を書いた時点でもうなぐさめが必要になっているとも考えられますが・・・。
 著者は親切に,「非属」への誤ったアプローチを「個人主義の病」として紹介してくれていて,ここが特に参考になりました。
「私は変わってるんです」病,
「自分はいつも正しい」病,
「メジャーだからダメ」病,
「俺は偉い」病,・・・
 教師がかかりがちな病気がこんなところに書かれていました。
 このような失敗例を描き出す著書自身も「偉そうに言うな!」と見られてしまう傾向があるのがつらいところですね。教育失敗学も同じです。

『学校の絞め殺し学』第5回~観点別評価から達成度別評価へ~

第5回は,「自分の仕事に疑問を持たない」問題です。
 この問題は,「なぜこんなことをやらなければならないんだ」というレベルの疑問ではなくて,「なぜこの仕事が必要とされているのか」「自分がこの仕事をやることに,どんな意義があるのか」「この仕事の今のやり方に問題はないのか」という疑問を教師がもてていないというものです。
 観点別学習状況の評価が導入されてからかなりたちます。目標に準拠した評価(絶対評価)の導入で,観点別評価の地位もすたれることなく,一気に主役に踊りでました。
 しかし,当ブログの中では,「小学校ならかまわないが教科担任制の中・高では問題が多すぎる評価であること」を繰り返し指摘してきた評価です。
 現在検討中の学習指導要領改訂では,文科省もそこまで手がまわらないというか,改訂する気がないようです。
 この評価については研究に時間をかけた人ほど問題点が多いことに気付いているはずなのに,「決まっているから」という理由だけで疑問を持たず間違った方法を続けている教師が多い。適当な基準でいい加減な評価を続けるか,大量のデータを集積して誤った評価をしているか,全くの後付けで観点別評価を実施し続けている教師がたくさんいるでしょう。
 「何のための」観点別評価かと言えば,これは指導の改善,個に応じた指導の材料として,形成的評価の機能に本来は重点がおかれているべきものであって,とても総括としての評価,入学選抜の材料としての評価としては「合成の誤謬」「誤差の蓄積」の可能性が高く,個々の指導者が別々に実施していては信頼性を持たないものです。
 マスコミなどは,「これは適切でない」と思われる制度なり政策が目の前にあったとき,ただ批判すれば仕事になるのでしょうが,実践者や研究者としては「批判すれば自分は正しいことをしている」と思い込むのは大間違いで,必ず「ではどうすればよいか」を提言するなり実践するなりしなければなりません。
 では代案,対案はないのか。
 文部科学省も,学力の現状分析を進めるため,これまでとは異なるタイプの調査を実施するようになりました。いわゆるA問題・B問題というもので,A問題は単純な知識や理解を問うもの,それに対してB問題は,問題活用能力,資料を読み取って問題を見つけ,自分の考えや提言を述べるようなものです。これを「特定の課題」と読んでいますが,調査の結論は容易に予想がつきます。
 A問題ができないと,B問題もできない。では,A問題はできて,B問題ができないタイプはどう生まれるかというと,B問題のような授業が行われていないこと。つまり,単なる暗記ではなくて,教材に工夫をこらした授業を受けている生徒は,A問題だけでなく,B問題もできる(生徒が多くなる)。
 これを受けて,知識・理解に重点をおくA問題の達成度をまず評価し,その次の段階として,資料活用の技能とか思考力・判断力を評価するという,二階建ての評価規準をつくる。ちょうど,「習得」と「活用・探究」というキーワードも教育課程部会で出ていましたから,変更するチャンスは今だと思うのですが。

『学校の絞め殺し学』第4回~直面問題近視眼症候群~

 第4回は,前回と共通性のある,「目の前の問題だけしか問題視できない」問題です。
 「目の前の問題」へのとりあえずの対応が,新たな「問題」を生み,事態が改善する兆しもなくさらに泥沼にはまっていた学校がありました。
 たとえば,荒れた学校を建て直すためには,どこから手をつけたらよいのでしょうか。
 管理職の立場なら,運動部を全国大会に導けるようなスーパー顧問をよぶのか。指導力不足の教師をすべて転任させるのか。特別に予算を増やしてもらうのか。過員を割り当ててもらうのか。PTAおやじの会を結成するなど,地域力を生かすのか。成功例はたくさん知られています。
 ある高校の校長は,コネを使って有名人を講師に招いたり,マスコミで学校を紹介して知名度を上げたり,高校とは思えないカリキュラムを導入したりして,「全入」状態から脱出し,建て直しに成功しました。
 ある教育委員会では,1年生の1学期に数十人が退学する(この後は落ち着いた学校になるのですが・・・)高校をなくすために,新しい単位制や総合学科やテストがなく授業時間が短いカリキュラムの学校をつくったりしました。驚くほど高い倍率の学校に生まれ変わりました。
 直面する問題に正対し,解決してきたように見えるこれらの事例をどう解釈したらよいのでしょう。
 絞め殺されようとしているのはだれでしょう。

 教員の立場からは,荒れた学校の再建と聞いて,どういう発想が浮かんでくるのでしょう。管理職からの指示が嫌いな人たちは,対策を練ろうと,(職員会議ではなく)教員会議でものごとを決めようとします。
 当然,目の前の現象への対応から議論が始まります。遅刻を減らすには。エスケープした生徒をどう教室に連れ戻すか。ガムやタバコの始末をどうするか。欠席が多い教師の授業の補強をどうするか。頭髪指導,服装指導をどうするか。教材費や給食費の取り立てをどうするか。テストの監督は何人で行うのか。公園の見回りはどうするか。深夜徘徊で騒音やゴミの散らかしの苦情が出ているが,今夜はだれが対応するのか。連絡のつかない保護者をどう探すか。数日間,居場所がわからない子どもをどうするか。(今は携帯があるおかげで少し対応がしやすくなっているかもしれませんが・・・)
 優先順位としては最後の方に,学力の定着が困難な子どもの進路をどうするか・・・。
 対象の生徒が2割を超えれば,さすがにこれらの対応だけですべての時間がふさがってしまうような気になります。
 しかし,私は「まじめにやろうとしている7~8割の子どもの期待に沿う教育実践を優先的に行う」「問題行動を繰り返す生徒のご機嫌とりをいっさいなくす」ことを宣言し,問題行動や対応が困難な非行はすべて学年だよりで公表することによって,家庭や地域,教育委員会,警察の力を借りることにしました。
 日本の場合,「世間の目」というのは恐ろしく威力があるものです。学校が外に向かって情報を発信するようになると,今まで不信の塊で教師を見ていた親や(生徒が最も不信感を持っていたのかもしれませんが)地域の目が変わってきたことを,生徒が感じるようになります。
 非行に走った生徒の中には,「進路のことがあるから本当はまじめにやりたいが,あのグループからいじめられたくないから非行に加わる」ようなタイプが1人か2人,必ずいるものです。この足抜けを成功させ,いじめを封じ,保護者から感謝された話をPRすると,次第に包囲網ができ,非行の核となる生徒が絞られてきます。最後の仕上げは・・・内緒にしますが,「荒れた学校を建て直す」ための秘訣として言えることは,教師が「荒れ」にすべての視点を向けてしまうのではなく,「よさ」を伸ばすことにも注力することです。
 この前にもふれた,劇薬を使って「荒れた」部分を治療して,正常な部分をおかしくしてしまうようなことは,絶対にしてはいけません。
 7~8割の子どもが授業を抜け出し,校内でタバコを吸い,万引きしたお菓子を食べ,帰ったら盗んだバイクで暴走している,そういう事態なら学校を閉鎖してでも残された子どもを守るべきでしょうが,十数人程度の非行で,その他の大部分の生徒が期待しているおもしろい授業,楽しい行事,委員会活動を台無しにしてはいけません。
 行事で生徒は盛り上がるとは言え,本当に求めているのは学力の保障です。荒れた学校では,(補強に入る教師はよほど厳しい状況に追い込まれ,いやがるからか,空き時間の教師がいるのに)当然のように「自習」の時間を作ってしまう。「自習」と聞いて,喜んでしまう生徒も多いでしょうが,表面的な「喜び」ではなく,奥底の「不満」を感じ取らないといけません。「荒れた学校」「評判の悪い学校」の復活力・潜在力は,相手がまだ成熟していない子どもであるだけに非常に高いものであること,「授業の本物の品質を追究しようとする」ごく当たり前の発想が,生徒を救うものであることを私は学びました。保護者から信頼を得るには,深夜に補導するのも大事かもしれませんが,「授業がおもしろい。勉強が少し楽しくなった。○○高校に行きたい」と子どもに言わせなければなりません。

『学校の絞め殺し学』第3回~口約束空手形症候群~

 第3回は,「とりあえずの対応でしのごうとする」問題です。
 タイトルからは,毎年ほとんど見直されることもなく,どれだけ実現されたかどうかの具体的な検証もない各学校の「教育課程」の問題が思い浮かびますが,何度もふれてきたことなので,ここでは省略します。
 著書には,学校の問題点もいくつか紹介されていました。光化学スモッグ注意報が発令され,教育委員会の指導により運動会を中断した学校が,その後,運動場で遊びまわる子どもたちを放っておいた話。「教育委員会から運動会の中断を指示された。中断した。終わり。」
 生徒で言えば,授業中,漫画を読むのを注意された後,おとなしく指導に従ったと思いきや,次は小説本を読み出す・・・。
 生徒会選挙の公約,生活指導の指導方針(申し合わせ事項),月や週の生活目標・・・ほとんど,それを決めた時点で終わった気分になってしまうのか,何も実現されないまま,また新しい代になっていく。
 勉強をしなさい,と家庭で子どもに言っても,「後でやるよ」という返事を聞いただけで放置しておくと何もしないまま次の日になってしまう。
 課題の提出日になって呼び出すと,「明日は必ず出します」といって,さらに催促しないと何週間も出さない生徒。
 教育の世界も,「とりあえずの対応」だらけです。
 教師が忙しい。学力が低下しているようだ。だから,教員を増やそう。これもとりあえずの対応。
 行政にも企業にも学校にも,「苦情処理」「批判への対応」という言葉で対応している意識が強い部分があります。「はい,それでは,○○さんからいただいた今回の苦情は,次のように処理させていただきます」などと相手に言えないのは当然ですが,実際に対応してみると,何とかまず怒りをしずめなければならない,自分の仕事時間を確保するために,早く電話をきらせなければならない・・・というプレッシャーを感じるのは確かです。
 教育委員会の中には,これを内容によって「要望の実現プラン策定」に置き換え,事後の対応とその結果を報告しますという宣言を行うところもありますが,相手に返答のための住所と電話番号を聞くと,おとなしくなって名前を語らず電話を切ってくれることが多い。
 とりあえずの対応ですまそうとする態度でなく,要望や願望をしっかり受け止めて,それを改善に生かすという姿勢を見せれば,結果を出すことが難しいのは相手もわかっている場合が多いので,納得してくれるケースが多いと思います。

『学校の絞め殺し学』第2回~「安易な差別化」教師編~

 第2回は,安易に差別化に逃げようとする問題の,教師編です。
 教師の場合,「逃げの差別化」とは何でしょうか。
 小学校の教師で,特定の教科の勉強ばかり頑張っている人が一部にいます。研究熱心なのはいいのですが,専門性や熱意の濃淡が子どもに与える影響の大きさは,中学校の教師ならよく理解できる問題(被害)です。規範意識だけでなく,学びのバランス感覚もない新入生を送り出すとき,小学校の教師や保護者は「個性を尊重して」と言い訳を披露します。しかし,「授業では気の向いたときだけ起きている」「好きな教科の宿題だけやる」のを個性と言われてしまっては,個性を育てるための学校というもの存在自体,意義がなくなってしまいます。個性に乏しい教師の方が,個性的な生徒をたくさん育てているという場合もありますが,これは後の課題とします。
 指導力不足・学級崩壊という批判をかわすため,最近は教科担任制が広がりを見せようとしていますが,一時的に問題は解決するように見えても,長期的な展望を考えると経営上の大失敗につながりかねません。専門的な技能が高い人に指導をまかせてしまうと,その人がいるから他の教師が勉強しないという問題がおこってくるからです。
 毎週か隔週の校内研修でこういう優秀な教師の技能を学び合う習慣がある学校では,全体の教育力が向上して問題はありません。しかし,人任せで「安心」している教師ばかりだと,歯の抜けた後の悲惨な結果が目に見えています。
 異動のサイクルが短いので,失敗の責任をだれも負わずにすんでしまうことや,「代わりを入れる」という安易な発想と対策が可能であることが背景にあることも問題です。
 差別化より総合力の底上げが必要です。
 中学校の場合は,部活一辺倒とか,生活指導専門とか,教科教育以外の偏った部分に能力を集中し,指導力不足のレッテルをどうにか防ごうとする(レッテルがはられてしまったので,存在価値をマイナスにしないための努力をする)教師がいます。体育の先生が自分の専門の運動部の指導に力を入れるのは分かりますが,ダンスや柔道の指導はできない,では困ります。(私見では,専門の講師やインストラクターをその都度雇った方が教育効果は高いと思います。「総合的な学習の時間」は小学校で卒業して,中・高では,教師より高い専門性をもつ講師を招いて学習させる「専門的な学習の時間」を立ち上げるべきだというのが,私の考えです。「総合的な学習の時間」は,夏休みの体験学習やレポートで十分でしょう。生徒によって問題解決に必要な時間の格差が大きい学習ですから。)
 人事考課が導入されたり,キャリアプランを作成させられたりして,教師の中には「他の人と違うことをしないと評価されない」プレッシャーを感じる人がいるようですが,その発想自体がすでに自分で指導力不足を認めているようなもので,「優秀な教師と同じことをすること」に集中すればよいのです。教材開発に力を入れるとか,計画を入念に練るとか,指導法に工夫をこらすとか,さまざまなコンピテンシーのうち,できることから実践すること,これが「攻めの差別化」への道になります。

『学校の絞め殺し学』第1回~「安易な差別化」学校編~

 弘中勝著『会社の絞め殺し学~ダメな組織を救う本~』(祥伝社黄金文庫)には,こんな話が紹介されています。
 「国を治める者は田を伐るがごとし」・・・国家の経営は田んぼの雑草をコツコツと取り除くようにすべきだという意味。つまり,何か薬を投入したり無理な拡大をしたりするのではなく,成長に害のあるものだけを取り除いていって,あとは自然に実るに任せる。
 企業で言えば,経営が苦しいときに必要なものは,画期的な新規事業や革新的な手法の投入ではなく,その悪い原因をひとつひとつ取っていくこと。(要約)
 これを学校にあてはめれば,生徒自身や家庭に由来する悪い原因はさておき,教員の側,管理職の側にあるどのような原因をどれだけ取り除くことができるかが課題です。
 日本の学校の場合は,教育の素人が権限をもっている教育委員会という根っこの原因が取り除きにくい問題がありますが,まずは一人一人の教師と一つ一つの学校が自分と子どもの首を絞め上げている縄を除去していく必要があります。
 著書では,16項目にわたって「~ような人間は,やがて会社をじわじわと絞め殺す」というように失敗(病気)の原因と,その症状につける薬(治療法)が紹介されています。
 この内容は,教育における逆コンピテンシーと重なる点が非常に多いので,検討させていただくことにしました。PRマーケティングを指導される著者の現場のお話も興味深いのですが,当ブログでは教育現場・教師の話に置き換えて考えたいと思います。

 第1回は,安易に差別化に逃げようとする問題の,学校編です。
 教育の失敗の典型は,「特色ある学校づくり」への注力です。
長年の努力の結果,特色が出たのであれば,それをありのままPRすればよいのですが,
「特色」を追い求めているうちに,「基本がなっていないのが特色」という学校になってしまいます。
 いい学校は,「特色などと語る必要がないのが特色」と開き直って,生徒はどんどん集まります。
 差別化によって現状を打開しようとする学校は,「一時的な達成感」が得られるだけの意味のない苦労を重ねているにすぎません。
 研究授業の研究協議のあり方を見れば,学校のレベルがわかります。授業者に対して遠慮して,仲間内でほめ合っているような研究授業は,「一時的な達成感」のための時間で,中長期的には何ら生徒のためにはならないでしょう。積極的な批評・議論があって,授業の問題,生徒の学習実態の課題が浮き彫りにされて,はじめて研究の対象となる授業となります。講師はさすがに批判ばかりできませんが,お世辞だけでなく,荒れた場を戻し,議論を整理して,授業者への適切な助言を行うのが仕事です。
 「逃げの差別化」に逃げないことこそが最良の差別化になるということです。
 最悪の失敗は,「新しい特色をつくるため」「新しい学校づくりのため」,個性が大事だといって,問題行動をよくおこす生徒が髪を染めるようなことに着手し,昔ながらの良さを犠牲にし,手間隙かけて地道に指導する姿勢を失い,結果,「一時的な達成感」だけで大局的には損失を拡大するようなケースです。教育委員会に3月に届出される教育課程は,学校の次年度のプランですが,とってつけたような「特色ある学校づくり」の項目を読んでは,その戦略を確認したものです。願望や掛け声だけで終わる方が,まだましという場合もあります。
 「逃げの差別化」に逃げない差別化の方法は何でしょうか。その答えを,多くの失敗から検討してみたいと思います。
 次回は,差別化で逃げようとする教師の問題です。

『学校の絞め殺し学』~ダメな教師集団を救う~序

 人間は、あるいは企業は、失敗していること、誤っていることを自覚したがらないものです。よかれと思って行動することが(あるいは行動しないことが)、失敗に結びついていることを自覚させられることは、現場の意欲を失わせることになるかもしれません。しかし、失敗が自覚できたとき、初めて成功への道筋が見えてくるという信念のもと、教育にのぞむんだという人が、少なくとも管理職にはほしいものです。
 失敗の内容はわかった。では、どうしたら成功するのか。
 学会でも、そういう趣旨の質問をした人がいました。
 そういう態度が失敗を招くんだという本質が、15分では伝わりきらなかったのが残念です。 
 成功を保証するような助言ではなく、適切な成功へのルートの展望をもてるようにすることが、教育失敗学の使命だと考えています。
 ネガティブな内容への興味というのはわきにくいかもしれませんし、経験が浅い教師には、自分が通過しなければならない失敗の山を見るのがつらい、そういう意味で敬遠されるかもしれません。
 それでも、同じ倒れるにしても、受身が取れる倒れ方と、骨折する倒れ方では、立ち直りの早さが違います。
 弘中勝著『会社の絞め殺し学』(祥伝社黄金文庫)という本に出会いました。
 後天性常道失調症候群、過剰性煽動症候群、捕獲願望症候群、緊迫性多忙依存症候群、過剰性弁明症候群、直面問題近視眼症候群、推奨力不全症候群・・・
 本書は、企業の病気の症例とその治療法を紹介しており、その治療法を提示してくれています。他力本願でなく、自力救済の道しかないという、まっとうな主張です。
 驚くほど、教育失敗学の内容と重なっており、この本の学校版、教育版を考えてみようと思いました。

子ども相手にパッシング・ケアで通用するか?

 指導に対する子どもと親の過剰反応を恐れ、高齢者介護の、とりわけ「痴呆」ケアの現場で行われている、問題行動への「とりあえずかわす」「やり過ごす」「気持ちを傷つけないように発言や行動を別のところにそらせる」「はぐらかす」という一時しのぎの対応(パッシング・ケア)を「逃げ」の指導としてとっている教師はいないでしょうか。
 問題行動への対応には、強くかつ持続するエネルギーを要するため、指導の回避、事態の隠蔽、子どもが事実と向き合うプロセスを奪うようなことをしてしまいがちです。特に、これは個人の力ではどうにもならないもので、チームで対応するわけですが、チーム内でのホウレンソウは時間的にも情報量的にも大きな負担になることも背景にあります。自分だけでなく、人の仕事も増やしてしまうと遠慮してしまう教師は、指導に本腰が入りません。
 ただ、指導しないからといって問題が深刻化するわけでもなく、「時間が解決してくれた」かのような結果になることもしばしばです。
 長く経験しないと実感しにくいことかもしれませんが、学校によっては、具体的な指導よりも、チーム内での情報交換を重視し、外部からは何もしていないように見られますが、実際には積極的な「待つ」指導を行っているところもあります。これは、決して「逃げ」の指導ではなく、立派な「攻め」の姿勢です。
 長期戦の中で、絶対的な好機をまつ。孫子の兵法では、「兵は拙速を貴ぶ」としていますが、「風林火山」のたとえも述べています。
 

変わることと元の自分に戻ること

 不登校生徒の対応の経験が多い先生は、問題への対処に泰然としたところがあって、あせりばかりが全面に出る親や若い教師からみると、何とも頼りなく思えてしまうかもしれません。
 指導経験を積んでくると、「待つ」ことができる教師のタイプと、それができないタイプに分かれていることがよくわかります。後者の方が、生徒の信頼を得やすい面もあり、指導熱心と言われる教師の多くはこのタイプなのかもしれません。前者のタイプには、半ばあきらめている、指導を放棄しているように見える(実際にそうしている場合も・・・)教師もおり、誤解されたくないという気持ちが指導に向かわせる力となることもあります。
 「待つ」ことができる教師をよく観察していると、不登校生徒が「変わる」ことより、「元に戻る」ことに主眼を置いていることがわかります。生徒に変化を要求するのではなく、「変わらない本来の自分」を発見させる有効な指導法というのはあるのでしょうか。
 次々に手を打って、それが傷を広げ、深めてしまう場合があり、そんな経験を通して、積極的な指導から遠ざかる教師も少なくありません。
 学力向上もそうですが、それに力を入れすぎたために増えたと考えられた不登校の問題も、決して短時間で解決できることではないことは、だれもが重々承知のはずなのに、どうして急いでしまうのでしょう。
 ドラマなら、「待つ」主役では映像になりませんから、50分でどうにか解決させてしまう。12回のドラマで、難関を突破できる学力が身についてしまう。「待つ」ことでは食べていけない世界に、子どもたちも大人も、あまりに慣れすぎてしまっているのでしょうか。
 「放置」しているようには思われない「待つ」姿勢とは、結局は継続的なコミュニケーションしかないのかもしれません。学力向上も、継続的な学習が目標達成への近道のはずです。
 学力が向上しないというのはその理由がわからなくもないですが、子どもの学習意欲が向上しないのは、「待つ」ことを忘れた大人たちのせいでしょうか。
 私の母は、「勉強しなさい」と言ったことがありませんでした。しかし、後になって、こういう話を聞かされました。「何度も口に出してしまいそうになった。本当に数え切れないほどだが、決して言ってはいけない言葉だと信じていた。勉強しなさいと言われて、勉強したくなる子どもは一人もいない。」

考え方のスキルは磨けるか?

 中西輝政著『本質を見抜く「考え方」』(サンマーク出版)には、次のような公開レビューを作成しました。

 国際政治学や文明史を専門としている著書は、「美しい日本とその文明」への思い入れが強いため、ややもすると特定のカテゴリーに著者を分類し、敬遠している読者もいるかもしれない。しかし、正しい「ものの見方、考え方」という学問や著作活動の根幹になる言説を「色眼鏡」なく読むことで、あるいはそういう著書に対する誤解はなくなるはずである。
 「考え方」「考える力」という表題の本は多数出ていて、どれも大差ないか、みんなどこかの焼き直しではないかと思われてしまうが、著者のようにイギリスで日本の価値を再認識した学者の一人で、国際関係や国際政治を語る上で歴史認識を重視する立場の人は、どのような視点をもっているのか。
 一言で表現すれば、著者は長いスパンで見ること、複眼的な思考の意義を経験をもとに説いている。
 「迷い」は将来への投資ととらえることを述べている章などは、ビジネスマンにも参考になる。
 読み方としては、53の「考え方」の内容と、一つ一つについている「考えるポイント」を見てから、自分に役立ちそうな項目を読むことができる。
 どのような内容の本かわかるように、章立てと、考え方の内容の例をいくつか紹介する。
 第1章 考え始める技術
  考え方3  「宙ぶらりん」に耐えること
  考え方7  最初に得た「直観」を思い返す
 第2章 考えを深める技術
  考え方15 自分の頭の「ルーツ」を知る
  考え方22 「粘り」と「潔さ」の両面を持つ
 第3章 間違いを減らす技術
  考え方26 「正しいこと」と「効率のよさ」を混同しない
 第4章 世の中を考える技術
  考え方38 「政府」と「国民」の違いを知る
 第5章 疑問を抱く技術
  考え方40 誰も疑わない「美しい言葉」こそ疑ってみる
  考え方42 「先に結論ありき」の議論に注意する
  考え方43 「早く」見つけ、「遅く」行動する
 第6章 情報を考える技術
  考え方49 チェックには「別の頭」を使う

 次はどのテーマについて考えようか・・・。

不安定な状況での忍耐力

 ゲームでの「リセット」感覚のような投げやりな放り出し方を、子どもだけでなく、大人もしている様子を目にすることが多くなりました。自己抑制力の決定的な欠如場面は、衝動殺人でしょうか。
 日常的な小さな場面でも、人と話をしているところに割り込んで質問してきて、相手にしないとむくれて悪態をついて去っていく子ども、対話中に挨拶をしてきて、こたえないと「無視した」とへそを曲げる子ども、・・・常に自分が最優先されなければならない「私優先の私共空間」がそこにあります。「先生はうちの子どもを無視した。人権侵害だ」と訴えてくる親。相手の状況や論理が入り込む余地のない頭を持っている人間が増えています。
 中西輝政著「本質を見抜く『考え方』」では、「宙ぶらりん」に耐えることを重視し、他の章では、「早く」見つけ、「遅く」行動するという内容も述べています。
 

人は答えが出ないことに耐えられず、早まって誤った判断を下すことが多い。正しい判断のためには、しばらく答えが出ない「宙ぶらりん」の状態に耐える習慣づけが必要である。

 行政にいたときは、即断的な回答が求められる問い合わせと、組織の見解として答えなければならないために上司に判断を仰いでからでないと答えられない問い合わせとが入り乱れて舞い込んできました。たいてい、後者の方はいらいらして答えを早く求めようとする相手が多く、困りました。
 「忍耐力」の育成は、どのような教育によって可能になるのでしょうか。忍耐力をつけさせようとした教育が失敗し、最悪の結果を招く事例もあります。
 しかし、カウンセラーとの相談も拒否する、不登校の子どもをもつ保護者に忍耐を説くのはなかなか難しい面もあります。
 そんなことを考えているうちに、鷲田清一著「『待つ』ということ」(角川選書)という本を見つけました。帯には、「待たない社会」そして「待てない社会」・・・いつしか失った「待つ」ことの意味を問う・・・とあります。
 どんな内容でしょうか・・・。
 

悩みのない指導はない

 指導に悩みはつきものです。
  「教え込み」というとマイナスのイメージが強い言葉です。
 自分もその担い手ではないかと悩む教師がいるかもしれません。
 話術のない教師の一方的な情報伝達だけの授業は、「教え込み」ではなく、私は「教え流し」と呼んでいます。授業で伝えたいことが生徒に理解され、行動の変容に結びつくような「教え込み」は決して悪ではありません。テレビの報道も、大手の予備校の授業、放送大学、テレビやラジオ講座も、すべて教え込みか教え流しです。
 「教え込み」だけだと、テストが終わったらまた全くの白紙に戻るとか、学ぶことに意欲をもつことが難しく(バラエティならともかく能力に負荷をかけて向上させるタイプの学校教育などは特に)、自ら学ぶ方法や能力を高める必要も大切なことから、研究授業などでは特にこちらの授業・教育技術向上が求められ、教師は悩むようになります。
 このような学習指導の場合にはむしろ両方大切なことが分かっているわけですから、二者択一で悩む必要はなく、両立は難しくても両方にチャレンジしていけばよいわけです。
 しかし、生活指導ということになると、単純ではありません。
 Aという生徒には強い指導が生きて伸びていっても、Bという生徒はそれでつぶれて立ち直れなくなることもあります。ではAとBに別々の指導が簡単にできるかというと、個性だけでなくそれに応じた指導法の見極めも難しいし、周囲のC、D、・・・が「Bを先生はひいきしている」などと指導の同一性、平等性に疑問を投げかけます。公平性を重視しても、指導される生徒の方には不公平にしか見えないこともある。
 学級委員のような代表者にきつくあたると、資質や責任感に乏しい委員は「なんでおれだけ」とふくれるように。これで親にも苦情の電話をもらったことがありましたが、いい意味での「特別扱い」を感じとってくれると、最後は感謝してもらって対応を終えることができます。これが親が子どもレベルかそれ以下だと、不平等を盾に引き下がりません。子どもの機嫌を損ねたことが絶対悪なのです。
 指導の結果の成否は成否として、先行きが怖い教師は「指導をしない」という選択肢をとりますが、成否の可能性を視野に入れ、最悪、「見守る」という選択も視野に入れながら、あくまでも子どもに向き合う姿勢を持続したいものです。(この結果、多くの教師のフォローをあおぐことになる場合もあります。だれのためのフォローかを納得してもらえる教師集団の一員かどうかということも大きな問題ではありますが・・・。)
 中西輝政著『本質を見抜く「考え方」』(サンマーク出版)から、氏の体験部分を省略してエッセンスを引用させていただきます。
 

そもそも人間は、自分の中に二つの「相反するもの」を持ち、つねに自分に問いかける部分を持っていないといけません。
 たとえば、二つの相反するものがあったとき、どちらかをスパッと切り捨てて、すっきりしていたい・・・・・・
 しかし、ものの考え方とか、一つの国や企業の命運がかかっているような状況、また個人でも人生の大きな節目における判断では、つねに「二つのもの」を持っていないといけないと思うのです。行動に移るまでは、絶えず自分に「そうじゃないのでは?」と問いかけるもう一人の自分がいないと、大切なものを全部失ってしまう危険があります。
 ・・・・つねに迷い悩みながら歩んできたことによって、ものの持っている多面性、一面だけではわからない、いろいろな面からの見方に気づいたということがあります。
 人間の本性として、相反するものを持っていたら、統一したいと思うものです。一方をスパッと切り捨てれば統一できますが、単に切り捨てたのでは、それは「浅い統一」になります。二つのものを持ったまま、試行錯誤しながらもどうにか統一しようともがくとき、人は、両方をつなぐ深いもの、より大きなものを探求する思考や知性がそこから生まれてきます。
 ・・・・もう一方にある自分自身をどこまで大切にするか、どこまで意識して持っていられるか。その「もう一つの自分自身」を、つねに意識して磨いていくことで、どんな状況にあっても簡単には切り捨てられない大切なものになっていきます。
 迷っている状態というのは、「将来への投資」です。あるときには二つに切り裂かれても、悩んだことは、必ず自分の財産になります。精神の財産になって、蓄積されます。
 迷いは、本当の学びであり、自分を豊かにするものです。迷ったときこそ大事なとき。迷ったときこそ収穫のとき。

指導意欲を減退させないために

 指導意欲の減退は、指導の効果が期待できなかったり、問題行動への指導については親の反発(子どもへの同調)が予想されたりすることが背景にあるかもしれません。
 しかし、教育的指導というのは特効薬のように聞くわけではないし、ヨットスクールのように劇薬で治すことができるかもしれませんが副作用がでないとも限らない行為です。
 だからといって意欲はわかなくても指導を実際にしなければ、講師ならまだしも公務員の教師としての職務を果たしていないことになります。
 あくまでも正しいことをやっていくというのは、自己犠牲を強いられたり、禁欲的に何かを我慢したりとマイナスな面ばかりをとらえがちですが、長期的に見ればずっと効率がよく、最終的には自分にもプラスになります。
 新学習指導要領も、長期的な学力の向上をめざしていたはずなのに、短期的に負の指標が出てきただけで、1年や2年で交代する大臣、何年かおきに選挙がある議員、入省の年次ごとに上司のイス取りゲームをしている官僚、くだらないことで、他社と横並びになってもつねに新しいニュースで食べているマスコミ・・・などの総力で10年もたたないうちに根幹から見直しされてしまいました。
 文部科学省は「理念は変わっていない、方策を変更する」という苦し紛れの説明をしていますが、中学生でも理念が変わったことに気づくことができます。というより、学力調査を実施させられてから「ペーパーテストの点を上げることが絶対に必要なことだ」「自分の自治体のレベルがわかる」「自分の学校のレベルがわかる」ことに気づかされています。当事者感覚としては、「今までの教育課程の見直しでもそうだったが、教師のやる方策というのはほとんど変わらない。4観点の評価が不可能な授業しかもともとやっていない」ことも明らかです。
 理念がかわらないというなら、A問題ではなく、B問題という、問題解決能力を問う調査を全員に実施しなければなりません。逆にA問題の実施は、抽出で十分です。ふだんから学校でテストしているわけですから。しかし、B問題のような授業、テストをしている教員が少ないから、理念として掲げた学力が向上しないわけで、方策ははじめから正しくなく、変えていこうとしている方策も誤っている。そういう状況ですね。
 このように、教育政策には長期戦略は存在しないのですが、教師の40年弱の生活の中で、正しい指導を求める姿勢というのは、減退させたくありません。
 教育における指導・・・学習指導、進路指導、生活指導、大きく分ければこの3つでしょうが、広くくくれば「生き方指導」・・・についての「考え方」を、中西輝政著『本質を見抜く「考え方」』(サンマーク出版)からの引用を含めて述べていきたいと思います。

ネット社会で可能になった透明人間

 うらサイト(けいじばん)での誹謗中傷の書き込みが原因の一つになっている不登校、自殺は日本だけでなく、アメリカでも問題になっているようです。
 小さいときに、「もし透明人間になれたら」と仮想したことがある人は多いと思います。
 異性のプライバシーをのぞき見するとか、憎たらしい人間を傷つけるとか。
 のびたくんがドラえもんの道具を使ってそういうことをするのは罪なことではないように見えますが、あのマンガはよく読んでみると人権侵害の種がたくさんばらまかれています。
 今は、マンガの世界ではなく、現実のネット空間でそれが可能になってしまいました。
 堂々たる私共空間です。
 いじめてくる相手が誰だかわからない恐怖心、不安感は、悩む子どもにとってみれば壮絶なものだと予想されます。たいして本気でない、悪ふざけ程度の書き込みでも、顔が見えない文字のやりとりというのは、負のイメージを膨張させる力をもっています。
 ただ、攻撃が安全圏にあるかというと、こういう掲示板はおとり捜査にも利用でき、管理人情報をふせたまま、他人の誹謗中傷でストレスを解消する人間を摘発するか、別の意味で悪意のある人間がそれをえさに恐喝の材料にすることもできます。中学生なら被害者の状況に応じて非行事実をもとに加害者を家庭裁判所に送致することができます。
 対策は常に後手後手ですが、学校は「寝た子をおこす」指導を嫌うので、最後の砦は保護者です。
 携帯をせがまれて買い与え、言うことを聞くと思ったら出会い系サイトで知り合った相手のところへ家出。よくあるケースです。(○○を買ってあげるから、○○をしなさい、というレベルの親が、どれだけたくさんいるでしょうか。それで勉強をするようになった子どもはいますか?遊び道具を買い与えたということは、これで思う存分遊べと言っているのと同じです)
 通信会社には、子どもがやりとりした相手の情報を保護者に知らせる義務を課すとか、法的な予防措置をとらないと、新しいタイプのいじめや非行がますます横行しそうな感じがします。・・・しかし、もう「親もやっていた」という世代の子どもが中学生になってしまいました。

事務の量より質を自問すべき

 教師は「事務=雑用」と考える傾向があります。「授業=本務」なのはわかりますが、その式しか頭にない「実質講師、給与のみ教師待遇」という人が、校内に何人かいることによって、多くの教師が多忙になっています。
 人によって、「事務」ととらえる内容は違うかもしれません。「事務量を減らせば子どもに向き合う時間が増える」と考えてしまった人がいたようで、学校への調査の削減が検討されているようです。
 この調査、教育委員会時代は、副校長先生にいつもお世話になっていました。これに時間を奪われているのは教員でしょうか?
 調査をされるからまとめる、調査の提出日に近くなったから集計する、そんな体質がある学校には、調査による多忙感というのがあるでしょうが、普通の学校には無縁の話でしょう。
 調査の内容とその提出時期は決まっていますから、用紙はなくてもかなり前から準備することができます。
 学校が今、どうなっているのか。不登校は何人いるのか。いじめはどれだけ・・・。「知る権利」を盾にされれば、すべて答えなければならない情報です。請求する相手が文科省だから、教育委員会だから「不満」という形になるだけで、これが保護者や学校評議委員からの求めだったらどうでしょう。「めんどうくさいからそんな質問しないでください」「調べてからでないと答えられない」と言うのでしょうか。
 ところで、「子どもと向き合う時間」とはどんな時間のことを言うのでしょう。
 私の場合、テストの採点に、1クラス2時間以上かかります。10クラス分の採点は、1日では終わりません。採点と同時に、観点別の学習状況の評価もします。1人4観点ずつありますが、これを400人分やらなければなりません。・・・・これは、「子どもと向き合う時間」に含めるのか、含めないのか。これは「事務」にあたるのか、あたらないのか。私にとってみれば、テストの採点というのは、最も高い密度で子どもと向き合う時間の一つです。
 「子どもと向き合う」以前に、「自分自身と向き合う」時間をしっかり確保すべきだ・・・という立場であるとすれば、こんなブログに時間を費やしていることも許されるでしょうか・・・。
 事務量のことを言えば、常に調査ものの提出が早い副校長先生がいらっしゃいました。短時間で、大量の事務がこなせるのが、教師の資質でもあります。それは、仕事の整理、進行管理がきちんとできているということです。こういう人の机の上はたいていきれいです。教師の世界は、たとえばファイリング一つとっても、人によってバラバラ、まちまちで、いまだに文書サイズのB4とB5とA4の統一を実現していないところもあるようです。
 事務量の見直しより、方法や質の見直しを現場では先にはかっておくべきでしょう。
 文科省の動きを誤解して、「だから事務仕事をさせるな」「事務は雑用だ」などという主張をする教師が出現しそうで気がかりです。

教師になってほしい人

 3ヶ月ぶりに時間の余裕ができました。
 このブログの内容については、ある学会で発表することができました。もう行政も離れてしばらくたちましたし、学会の発表で一区切りにしようかなとも考えたのですが、最近、自分自身に対する厳しい目が弱くなっているような気がしてきましたので、鞭を入れる意味でも、改めて教育失敗学に正面から向かい合うようにしました。
 各所からメール等でお問い合わせいただくようになっていますが、目的に応じてお会いできたりしていますので、管理者は非公開のまま、続けさせていただきます。
 学会では、教員養成に携わっている大学の先生方から、教師を目指す学生の低学力問題が話題になっていました。大学生に対して低学力というのも失礼な話かもしれませんが、大学の先生にとっては切実な問題のようです。教育実習生を受け入れる中学校や高校の先生の話も聞けましたが、3週間、まともに授業が任せられる学生が来るのはまれで、3週間分、また教えなおさなければならないという先生もいました。
 大学の先生が困るのは、「こんな学生をよこした大学はどういうつもりだ」という目で見られてしまうことでしょうか。実習生の研究授業に大学の先生が参観に見えて、授業が失敗したときは、微妙な空気が流れます。
 大学の先生は、「実習先の教師は、学生にどんな指導をしてくれたのか・・・。」
 受け入れた教師は、「まともに指導案も書けない、知識も指導力もない学生をどうしてよこしたのか・・・。」
 私は授業ごとに新しいダメ出しを用意して、授業や教育という営みの奥深さを身に染みて帰ってもらうよう、心がけていますが(いまのところ毎年それで喜ばれて?いますが)、学会では、指導力不足の実態を逆コンピテンシーモデルとして示したところ、絶望感の方が勝ってしまったようで、これはさすがに現場の教師には自信をなくさせることにつながると感じ取られたようです。
 今は子ども以上に親が手強い時代ですから、多世代モンスター相手の教育の仕事に絶対の自信をもっている教師というのはまずいないと思います。スーパー教師らしい人物が出版物やマスコミなどを通して現れると、競ってそのまわりに群がっていったり、まねし出すのが、非常に日本人らしいというか、ちょっと情けない教師の現実かもしれません。信念をもって教育に臨む姿勢は学ぶべきですが、たとえば自分が抱えている最大の問題、不登校でも、学力不振でも、犯罪や非行でもいいのですが、それをその「偉い先生」ならすぐに解決してくれるのか?不登校や学力不振を未然に防止できるのか?ちょっと考えればわかることです。
 教師の世界というのは本当に不思議なところで、どうみてもたいしたことない、明らかに根本から多くの失敗をはらんでいる授業でも、ありがたく感心してほめたり、納得したりする一方で、自分の気に入らない相手から正しい指摘をされても、全く耳を貸さないということが平気でできてしまうところです。
 本音は言葉にしないのが日本の美徳なのかもしれませんが、教師になってほしい人とは、自分でも他人でも失敗を失敗としてまずは認識できる人。それがなければ、問題の解決というステップには進めないはずなのです。
 失敗を失敗として認識できる目をかなりの教師はもっていても、自分がそれを指摘されたくないし、指摘されていやな気持ちにさせるのを遠慮して、つまり、教師の側にとって不都合なことを避けることを優先して、あまりにも多くの子どもを犠牲にしてこなかったか。そのことを今、自分自身に問いかけています。
 現場で一番気になっていることは、指導力不足ではなく、指導意欲不足です。
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より