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2007年9月

習慣に支配される3年目クライシス

 久しぶりに仕事以外の目的でパソコンを立ち上げることができました。
 秋は行事ラッシュです。
 ここ2週間ほどで、人事異動で必要な条件を再認識させられました。
 管理職の1校当たりの在任期間は、3年程度が平均的かと思われます。
 この妥当性を、教諭の立場の自分でも、3年目クライシスを強く実感することで納得できました。
 管理職の在任期間が短いことに批判的な教師も多いと思いますが、その批判の理由をきちんと整理しないと、本来の異動の目的が理解されないままになってしまいます。
 自分の強く実感できたことは、「学校の欠陥には3年で慣れてしまう」ということです。
 教師の指導力の逆コンピテンシーというのは、たいてい一点集中型よりも、複合的に力がないのが普通で、そのために学校運営には修復困難な課題が山積することになります。
 このことに、異動したての(特に学校運営を立て直した後の)学校では1、2年で容易に気づき、そのときが改善可能な重要局面なのですが、普通の教師の場合は「異動してきたばかりなのに何がわかる」と発言力を封殺されてしまうのが学校の慣例で、3年目くらいでやっと物が言えるようになる。しかし、3年目になると、いままですごく大きな問題に見えていたことが当たり前のように思えてきて、改善不能のまま、その学校での教師の一生が終わる。
 人間は習慣に支配される動物であるというのは、だれが言ったというわけでもなく、だれもがその通りだと思う法則のようなものでしょう。
 指導力のない教師でも、3年も見てきてしまうとそれが何でもないことに思えてしまう。
 ですから管理職の力が発揮できるのは、早ければ異動1年目、遅くとも2年目が勝負になります。校長と副校長の着任年をずらすのは当たり前のことで、とぎれなく改善できるサイクルを保障することが行政のつとめになります。
 現在の異動の有様をみると、指導力のない教師が長くて3年でいなくなる。指導力のある教師は、頼りにされてしまって、在任期間が長くなる。これは致し方ないことかもしれませんので、やはり学校運営の改善の起点は管理職でなければなりません。
 それにしても、3年目で欠陥に慣れてしまった自分が情けない。

宿題=「家庭カリキュラム」?

 ユウ先生、コメントありがとうございます。
 「宿題」はヒデゥン・カリキュラムのひとつです。どの学校種でも宿題は出されていると思いますが、それに費やされる時間は、年間ではかなりの量になると思われます。「総授業時数」は少なくとも、「総学習時間数」は宿題が増えれば増えるほど長くなります。
 生徒によっては宿題とは関係なく予習・復習をすることもありますから、これも含めればさらに時間が延びてきます。
 学校は、宿題で何をねらうのか。
 できない子の補充でしょうか。できる子を伸ばすことでしょうか。単に学習の習慣づけのためでしょうか。
 反復が必要な教科だけならともかく、「学校でやってくれよ」というタイプのもの、「そんなこと調べさせたらプライバシーの侵害になるでしょ」というものまで、宿題はさまざまですね。
 学校は、教育課程の中に、「宿題」のねらい、内容、量、戦略、のぞむ効果を具体的に示してほしいですね。
 その都度いきなり「スーパーで買った物調べ」とか指示しないで、「家庭カリキュラム」というのを明示してほしい。
 これが小学校なら担任の裁量で、やりたい放題。中学校なら教科担任ごとの思いつきや都合で、出され放題。
 大学では、レポート(=宿題)だけで単位がとれる科目があるから、代行産業が成立してしまう。
 amazonで書名に「宿題」という言葉が入っているものを検索してみたら、・・・・
 「新版 宿題ひきうけ株式会社」
 「コピーしてすぐ使えるまるごと宿題○年・・・」
 安易なものですね・・・。
 ウィキペディアの「宿題」の説明もなかなか興味深かったです・・・。
 でも、なぜ「宿」なんでしょう?

宿題代行サービス ~宿題と学力の関係~

 読書感想文の自由課題化賛成意見を述べたばかりですが、YAHOO!ニュースで見かけた産経新聞の記事では、有料の宿題(自由研究や読書感想文など)代行サービスがはやっていることが紹介されています。
 宿題は必ず学校で終わらせてきた(小学校時代ですが)経験をもつ身や、その指導のためにやりきれない思いをしている保護者の立場からすると、家庭学習というのを当たり前に要求する風潮があるが、学校にはそれを強制する権限をもっているのか、と問いたくなってきます。
 授業時数が決まっていて、その時間内では実力が定着しないのでプラスαの時間を確保しないといけないという理屈はわかるが、それを家でやらせるのではなくて、学校でやらせるという選択肢はないのか。
 勤務時間との関係というなら、夏休みの課題は家ではなく、学校でやらせるという選択肢はないのか。
 夏休みは学校が子どもの学習指導にいっさい責任を負わない期間なのか。
 学校によっては、中学校でも宿題の山によって学力を確保し、それについていかせるための塾までが近くに立地している学校もあるようです。
 塾に通う余裕はあるの?といいたくなるほどの宿題というのも考えられます。
 HPのコピー・ペースト自由研究というのもありますが、作者が第三者によって特定できないものに賞を出すのは問題ですし、宿題代行サービスというのが(夏休みは際物でしょうが)はやっている現状をふまえて、何か対策を考える必要がありそうですね。
 宿題が間に合わず、留年させられると言われた大学生の自殺の記事もありました。
 宿題と学力の関係。何か情報があるでしょうか。
 通信添削の問題を親といっしょに解いていつも満点みたいなのはご愛嬌でしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より