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コミュニタリアリズムと教師集団

 平等重視の共産主義に対して、自由重視の考え方がありますが、そのバリエーションはさまざまです。
 自由を守る介入を重視するリベラリズム、自由に対するいかなる介入も排除するリバタリアニズム、集団指向のコミュニタリアリズム(コミュニズムとは異なる。共同体主義。)などがあり、それぞれに長所・短所があります。
 学校教育、特に義務教育で重視されているのは、コミュニタリアリズムでしょう。
 コミュニタリアリズムは、個人が自由に考えるなどといっても限界があり、物事のよしあしの判断も、他者の判断、共同体の判断をベースとして形成されると捉えます。そもそも、人間の思想・信条は、周囲から独立して形成されるものではなく、自分がやったこと・言ったことが、周囲から「いいね」と承認されてはじめて「いいこと」として意識される。
 個人が自由を感じるのは、むしろ集団や共同体の基準と調和できたときで、一人だけ自由を主張していても仲間が承認してくれなければ自由とは感じられない。
 そういう考え方のコミュニタリアリズムは、公共空間の中での人間というのを意識しています。
 一方、個人の自由を絶対化するリバタリアニズムには、努力して得たものは自分のもので、税金は国家による窃盗だと主張する感覚が強く、結果として、「みんなのために行動する」という発想がおこりにくい。
 教師の仕事は、ときにこのリバタリアリズムに傾斜していきます。「子どものため」という名の自分主義が、「学校のために」「教師集団のために」「地域社会のために」という集団指向とマッチしないのです。自分の研究のため、自分が本を出すため、などという論理で、公共空間から利益を得ておきながら、それを還元する発想がないこの自由主義は、私共空間の人間の典型です。
 私共空間は、集団化することもありますが、駅前の放置自転車のように、それは複数のバラバラな個人の行動の結果そうなるケースが多く、「みんなのための行動」という観念に乏しい。
 子どものように、人に迷惑をかける個人を矯正していくためには、集団指向のコミュニタリア二ズムが優位なように見えます。(私有財産の否定などの話はおいておきます)
 学校に不適応をおこす子どもやその保護者の感覚を体験の範囲内でいうと、一般的には教師の集団指向の姿勢に抵抗を感じるように思われるかもしれませんが、実際には教師自身の個人主義的・自由主義的な面に反発している場合も少なくありません。不登校になってから急に態度が変わる教師というのも子どもには人間不信になる原因になるようです。
 自由や公平をめぐる論議は堂々巡りで面倒くさいものだとして、最近はとりあえず自由や公平とは言わず、勝手にやってくれ、しかし何か問題がおこったらその後、処理する・・・などというネオ・リベラリズムというものも登場しているそうです。教師の中には、けっこうそのタイプの指導で子どもから反発を買う人も多い。
 「自由にやらしてくれる」と言ったのに、やってみたらあとで怒られた、と子どもが反発する。
 教師集団がまとまっていると子どもが落ち着く、と言う当たり前の法則?が学校にはありますが、子どもは大人が言っていることとやっていることのギャップには非常に敏感です。そこに不信感をもつ。人に要求したいことは、自分もやる・・・ところが、教師の中には、自分もできないから子どもにも要求しないという自己防衛力がはたらいてる人も多い・・・。自分が知っている教師集団の作り方の基礎基本は、初任のときの学年主任から吸収したことがすべてですが、結局、そういう力のある学年主任にめぐまれるかどうかにかかっているのでしょうか・・・。
 
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より