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教育の不満の連鎖はどこで断ち切れるか

 会話中での「うぜー」、「KY(空気読めない)」の含有率が高い中高生が身近に増えてきました。
 「KY」は新しい人間排除のかたちとして、子どもたちに広がっている用語です。
 社会学者、歴史学者、心理学者などが日本における「空気」の意味を研究し、発表しているようですが、「わたくしども空間」の人間が他者を「空間外人間」と認定し、圧力をかける姿勢は、実は大人社会でも、昔から存在していました。その現象に命名を果たしたのはだれなのでしょうか。KY、CKYはギャル語に分類されているようですが。
 私は恥ずかしながら、組合活動などを知らずに教育現場に入ったため、管理職と教員の間の空気が全く読めず、「おまえはだれなんだ」という扱いを受けたことがありました。
 小さい頃から人の悪口、陰口は言うなとしつけられてきたためか、たいした理由もないのに管理職の文句ばかり言っている教師に相づちを打てず、ついつい嫌悪感を抱いてしまったのです。
 驚いたのは、子どもの前で管理職や行政の批判をする教師もいたことです。同僚への不満をもらす教師もいました。給料が少ないと嘆く教師もいました。すべて子どもが教えてくれることなのですが、やはり子どもたちもいい思いを抱くことはないようです。私の実家は自営業だったので、おそらく教師の給料の方がはるかに上だったでしょうに・・・。
 行政の現場に入って気づいたことは、悪口ばかりを言われているその管理職が、教員と同じレベルになって今度は行政に不満をもらし、批判をしてくる。では行政は・・・・。ここが表向きには、不満の行き止まりのところです。
 議員とやりとりする上司との間で資料づくりをしたことがありました。この議員は何もわかっていないな・・・。不満の行き先があるとすると議員でしょうか。その議員も、有力な支援者の子どもが学校で問題をおこしたり、いじめられたりしてプレッシャーをかけられている・・・・。めぐりめぐると不満は学校に戻ってくる。「現場」だから仕方ありませんね。そこに指導力不足の教師がいる場合もあれば、教師は全力でがんばっている場合もある。
 自分の場合は、正直なところ、不満をもらす暇がなかっただけだったのかもしれません。「現場」にいながら、「現場」感覚がなかったのかもしれません。
 不満の連鎖はどこで断ち切れるのか。
 教員の評価というのは、大きなチャンスなのかもしれないというのが、私の考えです。
 これだけのコンピテンシーを持っていて、やることをやっている人間に、これ以上、何を望むのか?
 もっといい教育の実践です。評価をさせてもらいます。
 これだけのコンピテンシーを持っていて、やることをやった。これ以上、何を望むのか?
 わたしとあなた、みんなが考える、もっといい教育の実践です。評価をしましょう。
 「もっといい教育」をみんなで考え、それを共感し合い、みんなで実践する、そういう職場はどうしたらできるのでしょう。
 
 
 

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教育」カテゴリの記事

コメント

考えさせられる記事ありがとうございました。
本当に管理職の不満をいう現場教師は多いです。
自分のせいにしないで、とにかく人のせいにする!
そのスタンスが、きっと少なからず教え子たちにうつっているのでしょう。
困った世の中になってきました。
打開策は何なのか・・・考えていきたいと思います。

行政と現場の感覚のずれは、不登校生徒の増加の問題のように、現場の状況が悪い調査結果がでるほど予算がとりやすい、という例からもわかります。
成果が上がった学校に多くの予算を、というのは反発を受けても、困難校には予算的に支援を、人的に補充を、というのは理解を受けます。
ですから、現場サイドとしては、問題性を浮き彫りにし続けることが予算を獲得する条件になりますが、逆に教師への信頼性はますます薄れていく。
訓告等、諭旨免職まで含めた懲戒処分等を受けた教育職員の数は、平成17年度は4086人いました。病気休職が7017人、このうち精神性疾患によるものが4178人。文部科学省が増員を求めた数は、初年度で7000人。
一般の人がこういう数字だけを見ると、どういう感想を抱くか、想像つきますよね。

私も教育行政に関して、少なからず不満を持っていますが、子どもの前で不満をもらすのは言語道断ですね。
こうしてくれたらもっとよくなるのになぁとか、もっと人手があれば、低学力の子にもかなりの対応ができるのになぁとか、不満から来る要望をあげたらキリがないかもしれません。
今ある現状で、最善を尽くすしかないと思います。
不満の連鎖を断ち切る・・・難しいですね。
ただ、言えるのは、保護者も学校も行政側も目的は一つ、「もっといい教育を子どもたちにしていきたい」だと思います。ですが、保護者は自分の子どものみ、学校は通ってくる児童生徒のみ、行政はその地域の子どもたちと見るべき視点が違っていることによって生まれてくる問題なのではないかと感じています。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より