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2007年8月

「主要科目」の授業時数の増加へ

 小学校に続き、中学校の授業時数の変更について、文科省から見通しが発表されました。
 久しぶりにマスコミと現場の意見が賛成で一致しそうなムードです。
 まだテレビでは「分数ができない大学生」を引き合いに出したコメントが使われています。
 総合的な学習の時間、選択教科の時間のカットで多くの中学校教員はバンザイ状態ではないでしょうか。
 これで負担の軽減になるだろうと・・・(とっくにインチキ総合で楽してきた学校も多いでしょうが)。
 逆に言うと、「主要科目」とよばれる教科の重要性が際だってくるわけで、「中学校教育で大切な教科」について国民的一致が図られようとしています。
 一部の教師にとっては、何としても反対しなければならない状況なのでしょうが、今回この提案に反対するのは勇気がいることでしょうね。
 まあ、「時計の逆回転運動」「振り子現象」なのですから、おそらくまた10年ごとにいったりきたりすることになるのでしょう。
 「学力調査」は今後も継続して行われ、改訂後はさすがに平均点も上がっていくのでしょうが、子どもを宿題付けにして親が家庭教師状態にならないといけない小学校は、親としてはきついものです。
 「総合的な学習の時間」の理念や「平成10年版学力観」は、成果が検証される前に闇へと葬り去られようとしていますね。
 こういうタイミングでは、実際に次の指導要領が実施になるまでの期間の「総合」への力の入り方が、学校によってはただでさえダメダメなのに、ますますやる気がなくなって「無駄な時間」になるおそれがありますね。

晴れ晴れとした9月

 いよいよ9月です。
 不思議なことに、読書嫌いだった子どもが本にはまり始めました。
 今年は、「読書感想文」が自由課題だったことが、子どもを読書好きに変えたのかもしれません。
 もちろん子どもは自由研究を選択し、読書感想文は書きませんでした。
 読書感想文ではありませんが、他の作文の審査員をやっていたときに、「これは子どもの作文ではないだろう」というのがたくさん混じっていました。でも一応子どもが書いたと信頼して賞を認定します。
 環境のポスターコンクールの審査員もやったことがありますが、これも首をかしげながら点数をつけさせていただきました。
 「賞」を競う系の取り組みは、行政が後援になっているものもありますが、最近はNPOが中心のものも増えてきました。「賞」でつる啓発活動も大事なのかもしれませんが、それを根拠に子どもを励ます親というのは情けないものです。今年はなぜか晴れ晴れとした9月を迎えられそうです。

教育の不満の連鎖はどこで断ち切れるか

 会話中での「うぜー」、「KY(空気読めない)」の含有率が高い中高生が身近に増えてきました。
 「KY」は新しい人間排除のかたちとして、子どもたちに広がっている用語です。
 社会学者、歴史学者、心理学者などが日本における「空気」の意味を研究し、発表しているようですが、「わたくしども空間」の人間が他者を「空間外人間」と認定し、圧力をかける姿勢は、実は大人社会でも、昔から存在していました。その現象に命名を果たしたのはだれなのでしょうか。KY、CKYはギャル語に分類されているようですが。
 私は恥ずかしながら、組合活動などを知らずに教育現場に入ったため、管理職と教員の間の空気が全く読めず、「おまえはだれなんだ」という扱いを受けたことがありました。
 小さい頃から人の悪口、陰口は言うなとしつけられてきたためか、たいした理由もないのに管理職の文句ばかり言っている教師に相づちを打てず、ついつい嫌悪感を抱いてしまったのです。
 驚いたのは、子どもの前で管理職や行政の批判をする教師もいたことです。同僚への不満をもらす教師もいました。給料が少ないと嘆く教師もいました。すべて子どもが教えてくれることなのですが、やはり子どもたちもいい思いを抱くことはないようです。私の実家は自営業だったので、おそらく教師の給料の方がはるかに上だったでしょうに・・・。
 行政の現場に入って気づいたことは、悪口ばかりを言われているその管理職が、教員と同じレベルになって今度は行政に不満をもらし、批判をしてくる。では行政は・・・・。ここが表向きには、不満の行き止まりのところです。
 議員とやりとりする上司との間で資料づくりをしたことがありました。この議員は何もわかっていないな・・・。不満の行き先があるとすると議員でしょうか。その議員も、有力な支援者の子どもが学校で問題をおこしたり、いじめられたりしてプレッシャーをかけられている・・・・。めぐりめぐると不満は学校に戻ってくる。「現場」だから仕方ありませんね。そこに指導力不足の教師がいる場合もあれば、教師は全力でがんばっている場合もある。
 自分の場合は、正直なところ、不満をもらす暇がなかっただけだったのかもしれません。「現場」にいながら、「現場」感覚がなかったのかもしれません。
 不満の連鎖はどこで断ち切れるのか。
 教員の評価というのは、大きなチャンスなのかもしれないというのが、私の考えです。
 これだけのコンピテンシーを持っていて、やることをやっている人間に、これ以上、何を望むのか?
 もっといい教育の実践です。評価をさせてもらいます。
 これだけのコンピテンシーを持っていて、やることをやった。これ以上、何を望むのか?
 わたしとあなた、みんなが考える、もっといい教育の実践です。評価をしましょう。
 「もっといい教育」をみんなで考え、それを共感し合い、みんなで実践する、そういう職場はどうしたらできるのでしょう。
 
 
 

学力低下ではなく低学力を問題意識にもって

 学力テストでの不正は、学校の中でおこる不正のうちの氷山の一角にすぎないと思われます。
 こういう学校から報告される公文書は、ほとんど信頼できません。市町村教育委員会が扱う調査は膨大な量なので、ほとんどうそだとわかっていても検証はせずに都道府県教育委員会へ、そして文科省へと上げてしまいます。教育課程の編成状況はある程度信頼できるとして、その実施状況の報告はいい加減なものです。
 学力低下問題以上に問題なのは低学力問題ですが、それをごまかすのに教育現場はどういう努力をしているか。なぜごまかさないといけないのか。
 経験のない一般の人が「学力調査」「学力テスト」と聞くと、定期テストや入試の問題などを想定してしまうかもしれません。これらは、大人になってから見ても、難しいなと思えるものが多い。
 しかし、実際の「学力調査」「学力テスト」の問題というのは、今見てみると、「どうしてこんなやさしい問題ができない生徒がいるのか」と思えるようなものが並んでいます。なぜこんな調査を一斉にやるのか。それは、そんな問題すらできない現状を理解し、対策を講じるためです。
 PISAの調査は義務教育を終了した高校生がやるものなのでやや高度なものもありますが、学力調査はかなりの正答率が要求されてよいものです。それでも得点が低い。
 学力低下という漠然とした問題の捉え方ではなく、「低学力」問題としてきちんと対応していく必要があります。
 課題は、「学力向上」ではなく、「低学力解消」です。
 

「2ちゃんねる」による教員評価

 ふと、あることを想像して、寒々とした思いをしました。悪夢のような話です。
 各学校では、教員評価のための掲示板を開設する。成果主義の評価をする場合には、360度評価が欠かせない。生徒による評価も導入する。教師ごとに、日々の授業に関して、匿名で感想や意見を自由に書き込む。ただし、授業の内容、他のクラスでも使いそうな駄洒落はふせておく。校長は、それを読んで、人事考課の資料とする・・・・。もちろん第三者や教師自身が書き込めないような工夫はします。・・・ということは「2ちゃんねる」ではないということ?
 地域の人にも掲示板は開放され、学校選択の資料とされる・・・・。
 「開かれた学校」の究極のかたちでしょうか。
 「自由」を徹底して追究するとこういうのもありになるのでしょうか。
 それでも「私はやってもらってかまいません」と言える教師はどれくらいいるでしょうか。

 佐藤優氏は、対談本の中で、こう言っています。
 インターネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」の書き込みを、現在の日本におけるナショナリズム形成との関連で注視しておくべきだと思っています。匿名性が担保されていますから、より過激な言説がより優位に立つ。言説がどんどん先鋭化していくという、ナショナリズムの病理が最も高まりやすい状況が形成されています。
 ・・・いみじくも、テレビの影響力を熟知している田原総一朗さんがこう発言しています・・・ある事件や出来事に対して世論がどういった流れになるのかを知りたいときには「2ちゃんねる」の書き込みを読むのだと。
 (「ナショナリズムという迷宮」朝日新聞社、117頁)
 
 教育に関する世論とブログの関係はどんなものでしょう。
 「教師がつくっているブログの紹介」なんて番組があったら、「ああ、今の教師はこんなところに不満をもっているんだな」とか一般の人が知るきっかけになるかもしれませんね。 

文書作成と管理の技能を磨く

  「行政」なるものがひとくくりで語れないのは、「教師」について語れないのと同様です。
 さまざまなブログを拝見させていただくと、小・中・高、そして養護学校、ほとんど異業種に近いくらい環境が異なっているようです。同じなのは、管理職や行政に対する不満と愚痴だけ。あと社会への不満。「教師ナショナリズム」は、こういう共感が連帯意識を生み、ますます他の対象が見えなくなり、他者理解から遠ざかり、自己犠牲だけが増えていく結果を招いています。
 他者理解の精神を高めるためには、「自分がいっているこの文句を、役所で電話をとった自分が対応するとして、どんなふうに伝えたらいいだろう」とシミュレーション、自問自答してみればよいのです。
 しかし、管理職になることに興味がないほとんどの教師たちは、当たり前のように、「行政」のことがほとんどわかっていません。すぐ近くに座っている管理職のこともほとんど知らないに等しい。
 私もそうでしたし、私の周囲の先生たちもほとんど一緒でした。
 教育委員会にいると、事務方の会議、校長会、教頭会、指導室課長会、マスコミへのプレス発表、さまざまな場面を経験することができますが、それぞれに性格がみんな異なっている一方、共通していることもありました。
 それは、「文書主義」であること。
 文書づくり、それを公にするまでのプロセス、公にされた文字や数字の重さ、そういう経験や価値観はふつうの教師は体験できません。
 私は、教師になる人がまず最初に経験すべきことは、「公文書」というものをつくり、いろいろな人のチェックを受け、印をもらい(その時点でどんどん責任の所在が移っていく)、周知すること、これをお薦めします。
 このプロセスを経験することで、教師に欠如しがちな問題がわかり、それをコントロールしようとする姿勢が身につきます。同時に、文書を管理する技能も身につきます。
 多くの教師たちが、「こんなプリントいつ配られたの?」「なんで今頃これが配布されるの?」「だれが決めたの?」「どうして私はこの文書を見ていないの?」という経験をしていませんか。
 バラバラな担当から五月雨式に出されてくる、しかもB5だのA4だのB4だのサイズがまちまちのプリントの整理ができず、休み時間にごそごそと文書を探している人は見かけませんか。すぐ捨てればいいのに、隣どおしで座っている人が同じプリントのファイルをそれぞれに持っているというは普通ではありませんか。
 これは、資源や時間、情報の整理や効率に関心がないからおこる問題です。
 あとは提言を政策の実現にうつせるよう戦略をねり、それを企画書にまとめてプレゼンする、行政では当たり前のことが、学校ではどれだけできているでしょうか。
 予算の獲得。特に増額を議会に承認してもらうために、どれだけの裏づけが必要でしょう。
 そんな資料を作っている時間が教師にあるわけないでしょう、というなら、総合的な学習の時間に、生徒に体験させればよいのです。そして教師も同時に学ぶ。総合的な学習の時間の充実は、教師自身がやらされてみて楽しいかどうか、役に立ちそうかどうかを考えればわかりやすいと思います。
 行政のしくみとはたらきを役所とタイアップして学ぶという実践をしている学校もありました。

言語力に偏らない学び方

 マルティプル・インテリジェンス理論では、これまでの学習を「言語に偏った、しかも低いレベルの思考力しか使っていなかった」とし、子どもたちの「生きる力」につながるより幅広い、高いレベルの思考力を身に付ける学び方への転換をめざしているようです。
 そういう意味では、PISAの結果から「言語力」育成が大切だと読み取り、それを重視するというときに、「総合的な学習の時間」の趣旨をしっかり捉え直さずにやると、提言で自滅するおそれがあるので気をつけたいものです。
 ブルームの6段階の思考力・・・
1.知識をもつこと・・・事実、ことば、やり方、分類の方法などを記憶できる能力
2.理解すること・・・内容を解釈したり、言い換えたり、説明したり、推し量ったりする能力
3.応用すること・・・知識を一つの状況から別の状況に移し変えることができる能力
4.分析すること・・・全体の中から部分を見つけたり、区分けしたりできる能力
5.統合すること・・・部分を組み合わせて統合された全体をつくり出せる能力
6.評価すること・・・ある基準を使って情報の価値や使い道を判断できる能力
 これらに対応する「言語能力」の例を、「地域にある木を通して行う環境学習」から抜粋すると、
知識→木の名前を覚える
理解→木がどのように栄養分を得ているか説明する
応用→木の病気について学んでから、その原因について思ったことを言う
分析→木のそれぞれの部分と全体とが、どのような機能を果たしているか説明する
統合→種を植える前から新しい種をつけるまでの木の一生を、作文に書く
評価→木の成長に必要なさまざまな条件が、木にどんな影響を与えているか比べる
 これらについて、他の7つの能力がどのようにからんでくるか、これがマルチ能力のすごさです。
 マトリックスというのは、全部埋めようとすると一つくらい無理がある項目ができたりするものですが、なかなか考えられています。
 音感能力の「応用」では、「今、木が直面している問題を踏まえて、昔からある木の歌の歌詞を変える」という学習が紹介されています。
 すぐに思い浮かべられるのは、「この木何の木、気になる木・・・」ですかね。
 人間関係形成能力では、同じ好きな木を持つ者同士でグループをつくったり、他の人々の木の好みを知るために最も良い方法を選んだりします。エンカウンターか何かの本に紹介されていたのを、学活か道徳で実践した記憶があります。
 木を通して、国語、社会、理科、数学、音楽、体育(木登り!)、技術・家庭、美術、特別活動・・・何でも学べるんですね。総合的な学習がめざしているのは、そういう学習で、そこではもちろん「言語力」も育ってくるはずなのです。なぜ育っていないかといえば、指導をしていないからですね。

教師の「言語能力」診断チェックリスト

 教師のコンピテンシーをマルティプル・インテリジェンスで見ようとすると、高得点をとるのはけっこうきついようです。
 言語能力のカテゴリーに入る診断項目は・・・
・自分にとって、本はとても大切である。
・読んだり、話したり、書いたりする前に、ことばが頭の中で聞こえてくる。
・テレビや映画を見るよりも、ラジオやテープを聞いたほうがより情報が得られると思う。
・クロスワードパズルなどのことばを使うゲームが好きだ。
・早口ことばや語呂合わせなどで自分が楽しんだり、他人を楽しませるのが好きだ。
・自分が書いたり話したりしているときに、他人からその意味を確かめられることがある。
・英語や社会や歴史のほうが、数学や理科よりもやさしいと思った。
・外国語を学ぶことは割合簡単だった。
・自分の会話には、その以前に読んだことや聞いたことがしばしば登場する。
・最近、自分の満足にいく文章を書いたり、人から文章をほめられたことがある。

 理系の方は、論理的-数学的能力や空間能力で挽回しなければいけないほどきつい項目かもしれませんが、どうでしょうか。
 教師は、評価とかプリントづくりのような事務処理系ではなく、一日にどのくらいの量、文章というものを書いているでしょうか。

 自己観察・管理能力とか、人間関係形成能力はコンピテンシーと重なり、参考になります。ただ、この内容も非常に具体的なもので、「やれていないこと」「できないこと」がけっこう多く、ショックを受けかねません。

「言語能力」育成の教室環境チェックリスト

 話ことば、書きことば、プリント教材について、こんなチェック項目が紹介されています。
・教室の中で「話しことば」はどのように使われているか?
・教師が使っていることばは子どもたちにとってむずかしすぎないか?
・あるいはやさしすぎないか?
 (現場観)初任者のときの研修では、小学校の先生といっしょだったので、よく「話のスピードが速い」と注意されたことがありました。その指導どおり実践している小学校の先生の「話していることば」が全く理解できない。昔は、「遅すぎて前後の脈絡がつながってこない」のが原因と思っていましたが、もともと論理的なことを話していなかったからだったことがわかりました。スピードの問題ではなくて、中身の問題。もちろん抑揚とか強調とかジェスチャーとか、技術的な面もあるでしょうが、言いたいことがちゃんとまとまっているかどうか。これが大切です。
・教室で使われる「書きことば」はどんなものか?
・壁にはポスターや詩など、ことばが書かれたものが貼られているか?
・教室に存在する「書きことば」は小説や新聞、歴史資料からのものか、あるいは教科書やワークブックからのものか?
 (現場観)「壁面構成」という用語が小学校にはあるんですね。とても手がこんだ掲示をしています。何と言っても、小学校の先生は字がきれい。(でも子どもはいっこうにうまくならないのが不思議。中学校になると字がうまくなるが、今度は黒板の字が達筆すぎて読めないこともある。)
 中学校では、学級目標や個人目標を掲げることはありますが、あとは連絡関係のプリントなどで埋まってしまいます。教室内だけで必要なものと、学年全体で必要なものを分け、廊下の掲示を整理する一方、教室の掲示を充実させる余地がありそうです。
・教室で教師がつくったプリントが乱用されていないか?
・自分たちのことばを使うことを奨励されているか?
 (現場観)プリントでは、小学校では市販の教材のコピーが気になります。中学校では、自己流のプリントの山が気になります。中学校では、子どもが机に乗せるものが多すぎる。教科書、ノート、資料集、先生のプリント。あの面積におききれるわけがありません。これを少し整理する発想が必要ですね。
 このようなチェックリストですが、あと7つの能力の分野についてもそれぞれあります。教室環境ひとつとっても、評価項目は数十あるんですね。

マルティプル・インテリジェンスの一つ 「言語力」

 ハーバード大学の研究者であったハワード・ガードナーの「マルチ能力」理論を実践する内容をまとめた、トーマス・アームストロングの著書(翻訳)「マルチ能力が育む子どもの生きる力」(小学館、2002年)という本があります。総合的な学習の時間の構想を練っていた学校に、参考図書として薦めたこともある本ですが、なぜこの本のことを思い出したかというと、「言語力」の育成に関する文科省の有識者会議が、中教審に「言語力の育成を目指す」趣旨での学習指導要領改訂を求めるという新聞記事を目にしたからです。
 今までの「表現力」とどう違うのかというと、それは「言語」によるものに重点を置く・・・早い話が、国際調査で測定可能な学力の一面に注力するというような趣旨でしょう。
 それだけを伸ばすことができないことは言うまでもないことですが、これを契機に観点別学習状況の評価の改善に取り組めるのなら、万々歳です。
 マルチ能力とは、①言語能力、②論理的-数学的能力、③空間能力、④身体-運動能力、⑤音感能力、⑥人間関係形成能力、⑦自己観察・管理能力、⑧自然との共生能力の8つの能力のことで、これに私が注目したのは、マルチ能力の理論が「学習障害」や「注意欠陥障害」をもつ子どもの能力開発のヒントになると著者が巻頭でことわっているのを読んだからです。
 本には、さまざまなマトリックスで能力の機能やシンボル、発達の過程、文化の中での貢献など、心理学的な裏付けがなされていたり、指導内容の具体例が示されていて参考になります。
 特に小学校の先生にはお薦めの本です。
 「言語力」という能力を引き出す教え方としては、次のようなものが紹介されています。
 講義をする、クラス全体や小グループで話し合いをする、本を読む、ブレーンストーミングをする、テープレコーダーを活用する、ものを書く、ことばゲームをする、準備をしてからスピーチをする、即興スピーチをする、朗読された本をテープで聞く、語り/読み聞かせをする、ディベートをする、日誌を書く、群読する、個別に読む、クラス全員に向かって読む、文法を覚える、クラスの新聞をつくる、作文を印刷して配布する・・・・
 なんだ、みんなやってるよ・・というものかもしれませんが、実際には他の能力を引き出す教え方とミックスしてやっています。
 しばらくは「言語力」が教育界の話題になりそうです。

奇跡を起こす7つの信念(⑥、⑦)

⑥仕事を楽しんでやる力 ~仕事など退屈でつらいだけで、給料さえもらえればいいと思っているかぎりは、現状を打破することは難しい~
 (現場観)小中学校では、いわゆる「担任を持たせられない」レベルの教師がいます。授業がとてもうまいからいいじゃないかという声もあるかもしれませんが、それなら非常勤講師で複数の学校に貢献した方がよい。しかし、現状は、異動のサイクルが短くなり、多くの学校に迷惑をかけている。私も「授業はうまい」と評判の「困った」先生を拝見させていただいたことがありますが、その学校の「授業」の定義を確認する必要が生じてしまいました。
 教師集団には、やはり「やさしさ」「包容力」がある。確かに目の前の人が明日から職を失うという決定を下すことに関与するのはつらい。「思いやり」が大切。・・・最低限、「楽しいと思える仕事」をさせてあげるのが「思いやり」という強い信念がないと、行政も、管理職も犠牲者としての子どもを増やすだけになってしまいます。
⑦骨身を惜しまぬ努力ができる ~努力の差こそ結果の差~
 (現場観)授業がうまくできない教育実習生をフォローする最後の手段は、「昨日も寝ないで研究したそうだ」とかばうこと。生徒も「下手で当たり前」と思ってくれているからまだ救いようがあるのですが、指導力不足教員の場合は、生徒が真実を見抜いている以上、普通のフォローは効き目がありません。行事では、「ただよりそっているだけ」でも生徒から認められるチャンスがあるのに、「話かけられたらどうしよう」「相談されてうまくこたえられなかったらどうしよう」と不安に思って、職員室にこもってしまう。失敗イメージが常に目前にあるタイプの教師は、周囲から見て決して「楽しんで仕事をしている」ようには見えませんし、きっと生徒も相談しようと思うこともないでしょう。余裕があった時代には、とにかく先輩教師が後輩に任せて失敗させていました。経験を積んで実力を上げさせようと。それが、すぐに異動させられてしまったり、同じ学校の中でも学年をたらい回しにされてしまう。他の教師も余裕がないからです。人材の争奪戦がおこる。「評判のよい」学校はなおさらです。
 学力低下、人間力低下、人材不足の次にくるのは、もしかしたら「スタンダードの切り下げ」かもしれません。

奇跡を起こす7つの信念(③~⑤)

③どんな結果でも潔く責任をとる ~責任をとる者は力を持つが、責任を逃れようとする者は力を失う~
 (現場観)言うまでもないこと。ですが、教育の失敗がおこると、外部からこういう圧力が非常に高くかかります。わけがわかっていない校長がマスコミにつるし上げられ、わかってないからますます混乱に拍車がかかる。こんな構造があります。受験に成功すると塾が感謝され、失敗すると学校が非難される。あくまでも学校は、責任をとり続ける機関なのでしょうか。
④細かいことよりも「本質」をつかむ力 成功をおさめた人物より、圧倒的に多くの知識をもっている人間がいる。その人間はなぜ成功できないのか。それは、持てる知識を効果的に使う能力に欠けているからである。
 (現場観)PISA型学力でいう「読解力」が、果たして「本質的」なものなのか。私の職場には、こういう流行を追いかけるような人間や学校を軽蔑する空気がありますが、研究をリードする立場として、個人的にかかわっている教師が多くいます。おそらく、「本質」を見失わないように、適切な助言をしているのだろうと想像しています。
 現実問題に近い事例をもとに、問題を出題する。これは文句ありませんが、その先が・・・。結局4択問題ですから。「本質的」な学力を測っているとは言い切れないでしょう。フィンランドの人々のテスト以外の成功に注目したいところです。
⑤他人に対して敬意と感謝の気持ちを示せる力 ~人材こそが最大の資源である~
 (現場観)生徒理解を深めること、コミュニケーション力をつける大原則でもあります。教師集団を動かす管理職の資質の中心でもあります。外部から見ると「子どものような大人が職員室にたくさんいる」と感じられる職場があります。机の上が汚い。ものをなくす。提出期限を守らない。挨拶をしない。だだをこねる。お菓子を食べる。・・・生徒もこういう人たちから敬意を示されてもうれしくないでしょうね。

奇跡を起こす7つの信念(①、②)

①「可能性」に気持ちをフォーカスする力 常に「今できること」に集中できるかどうかが鍵。
 (現場観)現場では、予想通りに?期待していないことが次々とおこります。叱ること、注意すること、気づかせることが「今できること」なのでしょうが、そこにどんな「可能性」を見いだせるか。
 気になる生徒が問題を起こせば、たしかにそこが対話をするチャンスになり、今家で起こっている問題とか、「非行の本質的背景」がわかったりすることがあります。問題行動をおこしてくれなければ気づけないまま終わることがたくさんあるのが現場ですね。ただ、せっかく部活動の指導や教材研究に気持ちが乗っているときなどは、問題行動への指導から逃げたくなる気持ちもわかります。
②「失敗」の概念すら認めず、あるのは「当然の結果」のみと捉える力 「若い悲観主義者ほど見ていて嘆かわしいものはない」
 (現場観)失敗から学ぶ姿勢。これを教えてくれる余裕が現場にはあるでしょうか。若い教師の失敗に、子どもがまったくついて行けなくなる。たとえば学級崩壊、授業崩壊です。・・・ただ、落ち込みが激しい人ほど、成功すると喜んでくれたりする。子どももそうですが、教師も同じ。
 教育失敗学は、エジソンのこんな言葉に励まされます。
 ある人がエジソンに「一万回も失敗すればたくさんだろう」と言うと、エジソンは、
 「失敗だって。僕はうまくいかない方法を一万通り発見したところさ」
 今子どもたちは、たった一度の手違いや勘違い、間違いを「失敗」だと思いこみ、その恐怖にたえきれなくなっています。
 「絶対に失敗しないとわかっていたら、何をするか」
 これを常に意識付けられる教師が求められています。

教師集団とナショナリズム

 複数作品の平積みの本が一時期に並ぶ著者はめったにいませんが、佐藤優はそのうちの一人です。
 魚住昭との対談本「ナショナリズムという迷宮」(朝日新聞社、2006年)で、佐藤優が紹介しているハーバーマス「公共性の構造転換」(未来社、第二版1994年)の一節に、教師集団にぴったりの表現がありましたので抜粋します。
 

そもそも社会的地位を度外視するような社交様式が要求される。位階の儀礼に反対して、傾向的には対等性の作法が貫かれる。この対等性を地盤にするときにのみ、論理の権威がヒエラルヒーの権威に対抗して主張され、やがては貫徹される・・・
 これは、喫茶店という水平的な議論の場が「市民の誕生」を生み、普通選挙制を志向する、そういうことを説明するために佐藤優が引用した部分です。水平的同胞意識の誕生は、ナショナリズムの芽生えでもある、と言っています。
 教師集団にとって管理職はまさに異質の存在であり、私の経験の範囲内でいうと、たとえば教頭(副校長)などは、本来教師や校長がやる仕事まで肩代わりし、教師のご機嫌をとりつつ指導をしながら、ときには校長の盾になって・・・ということは行政の盾になって、組織を動かしていました。ですから管理職試験を受けるということは、市民からの脱却、ムラからの足抜けを意味することになり、世界観を変えられる人でないと生活がもたなくなってしまう。
 極端な見方をすれば、教師集団は学校ごとに「国」をつくっており、日本という国家から見れば内にある「外国」になっている(小学校の「学級王国」は昔から存在していましたが)。それぞれみんな、ナショナリストである、ということになります。
 職員会議で教師の多数決で決めたんだから、国旗は掲揚しない。国歌斉唱はプログラムに入れない。そういう理屈が成り立つ時代があったわけですから、教師民主主義が貫徹されている。国旗は掲揚した方がいいのではないか、という少数意見は完全に無視され、「校長の犬」「権力の犬」呼ばわりされる。民主主義人民共和国です。
 佐藤優の著書はおもしろいですね。
 AMAZONのレビューには、こんな文章を紹介しました。
あとがきで魚住昭が紹介しているように、佐藤優の言説の活躍の場は、「正論」「世界」 「SAPIO」「週刊金曜日」「新潮45」「月刊現代」「文藝春秋」と非常に幅広い。
佐藤優による巻末の文献解題も秀逸で、対話中、佐藤優がかみ砕いて説明してくれたそれらの文献を思わず買いあさってしまった。読んでみると、佐藤優の解説がないとよくわからない。 クレヨンしんちゃんと「思想」、イエスの「国家」と「貨幣」に対する戦略、ねずみ男のバランス感覚と「原罪」思想、ブッシュと星飛雄馬の共通点、サザエさんと中世ヨーロッパ、ホリエモンと「貨幣」、ゴジラ=「国家」と「貨幣」=東京タワー・・・次から次へと、意外なたとえで引き込まれていきます。 封建社会の地獄絵と、そういう世界から解き放たれた、徹底した個が自立した先の地獄絵・・・
国家とはどうあるべきか、国民とは何か、民族とは何か、ナショナリズムとは何か、自分のアタマで考えるヒントをくれたような気がします。とは言え、やはり佐藤イズムの新しい言説を読みたくなってしまう。

成功に向かってばく進する人がもつ7つの特性(④~⑦)

④明確な価値観をもち、「本当に大切なこと」がわかっている。
 (現場観)教育課程では、その目標や指導の重点でそれぞれの学校が本当に大切だと考えていることが示されているはずですが、学校には学校教育目標があったり、学年目標、学級目標、生活指導目標などと「目標」だらけで、実際には何をめざしているのかわからなくなっているのが現状でしょうか。マスコミでも、自殺がおこると「命を大切にする教育」の重要性を訴えたり、PISAの結果が出ると「読解力を高める必要がある」ときたり、要は何でも大切だと言うことになってしまいます。
 まず第一歩として、毎時間の授業で「本当に大切なこと」が何か、自覚するのが「授業で成功」する秘訣でしょうか。それは、その人の「価値観」にとってという意味ですが。
⑤エネルギーに満ちている
 (現場観)物理的、知的、精神的エネルギーと偉大な成功が密接にあることは言うまでもありません。多くの教師はめげそうになる現実と常にたたかっているのだと思います。やはり規範意識の低下、学力の低下、コミュニケーション能力の低下など、「問題」にいつでも直面していて、その解決が一日二日でできるものではないことを考えると、教育には莫大なエネルギーが必要とされます。
 子どもの能力を向上させるには、自分の指導力を向上させなければならない。消耗している教師を見ると、この当たり前な前提を受け止める余裕すらないのではないかと見られてしまいます。
 教師にとってのエネルギーの源泉は何かといえば、やはり子どもです。質の高い「教育欲」という欲求の力をあげるコツは、自己啓発本からはどのくらい探せるでしょうか。
⑥自分の味方を増やす「対人関係力」 (現場観)教師には、教育論を職場でかわす暇がないためにブログで自分を慰めている(自分もか?)人もいるかもしれませんが、いい学年をつくろうとか、この行事を成功させようとか、そういう意味では団結しやすいはずです。人と絆を築き、心を通い合わせる、そういう対人関係力を、学校ではおもに行事や部活動を通して身に付けさせているわけですが、これを小学校段階からもっと体験させてほしいという要望を私はもっています。
 教科の授業で体験活動をやってもらうのもけっこうですが、小学校ではこれが多すぎる。(中学校からは逆に少なすぎる。)教科の学習は基本的に個々の能力を高めることが「基礎・基本」ですから、もう少し指導を工夫してほしい。他教科でもすべて日本語を使って国語の学習もかねているのに、わざわざ国語の時間になぜこれをやるのという内容が増えてきています。
 教師に「対人関係力」が欠けているのは、そういう教育を受けてきたからで、これは重点の置き方を変えていく必要があることかもしれません。
⑦コミュニケーション力 自分の思想や追い求めているもの、喜び、使命を人々に伝える能力に秀でているか。
 (現場観)⑥とかぶってしまっている観がありますが、成功の実現のためには「犠牲をいとわない」ことが条件と自己啓発本にはあります。・・・・これだから、行政からは発信できない情報なんですよね・・・・
  「口先だけの多数派」「行動する少数派」・・・こうなると教育現場は厳しいものです。ただ、政治的には、こういうのを議会制民主主義というのでしょうか。

成功に向かってばく進する人がもつ7つの特性(①~③)

①情熱をもって目標の実現に打ち込む力。偉大でありたいという情熱がないと、どんな偉業も本当の意味で偉大とは言えない・・・・?
 (現場観)熱血型の教師だけでなく、地道にこつこつと学力をつけさせ、生徒理解を深めている教師もいます。情熱は外部から図れるものではないですが、教師には「自分は情熱をもって教育にあたっています」と言うのが照れくさい人が多いかもしれません。情熱には自己制御がはたらきがちなのです。そうでないと、睡眠時間3時間は当たり前になってしまいます。・・・毎日学年便りを出していたときは、「寝ているの?」とよく聞かれましたが、それは寝てないようには見えないからだったのかもしれません。
②信念をもつ力。「自分には限界がある」と考えない力。
 (現場観)これも①と同様に、本当に好きでやっているときは限界を感じないのですが、それでは家族生活とかが犠牲になる。それで結婚できない(しない)人もたくさんいる。多様な価値観を重視するというのであれば、信念をもてるようにした方がいいのか、しない方がいいのか、悩むところです。
③情熱や能力を体系的にまとめ上げる「戦略」をもつ。
 (現場観)戦略はたいていは肌で感じて覚えるか、先輩の優れた指導をまねするかで身に付けますが、教師にとって一番障害になるのは、自分が受けてきた教育です。最もよくわかるのが、授業スタイル。研究はしているようなのにどうしても垢抜けないのは、きっと自分が受けてきた授業に原因があるのかなと思って聞いてみると、まったくその通り。行政の側は、学習指導要領に書かれている内容の取扱いとか指導上の留意点とかを説明しますが、それはおそらくそういう授業を経験したことがある教師にはわかるが、そうでない教師は採用試験のペーパー上では正解が出せても、実際の授業ではできない。だから模擬授業が採用試験で使われているわけですが、本物の子どもがいないと授業にはならない。「戦略」は指導者がいて、かつ試行錯誤で身に付けるのが一番でしょうか。
④以降は次回に・・・

自己啓発本は教師向きではない?

 世界を動かしているような人は、得てして他人の優れているところを盗むことに長けている。
 こういう特性を教育にどう活かすか。
 もちろんすべての子どもを「世界を動かす」人間にするのが教育の使命ではないと思いますが、環境保護、人権擁護など、グローバルな対応をせまられるようになったため、「国際社会を生きる人」としての資質は身に付けなければいけない。
 ただ、自己啓発本が事例に挙げている成功者のほとんどは、事業に成功して富を手に入れている人間たちです。つまり、自己啓発は新自由主義の考え方に沿ったものであり、経済的な意味での成功に重きがおかれている。
 だから、教師が参考にすべき本ではない・・・と言ってしまえばそれまでかもしれません。
 結果の平等が大事で、手をつないでみんな一緒に一等賞をとる、そんな価値観があるような世界で、「成功」とは何なのでしょう。
 では、管理職をめざすような一部の人にとってだけ自己啓発本は有効性が高いのか?
 生涯賃金には違いがあるかもしれませんが、管理職が経済的な成功の形とは言えません。つきあいでけっこう出費も多かったりする。ささやかな成功です。
 一部にはスーパー教師に管理職並みの手当をという提言もあるようですが、それこそ「あいつだけ何で」という反発がいやで教師をやめかねない。
 では、子どもに経済的な大成功をおさめる資質を身に付けさせるのが教師の仕事かというと、これも何とも言えない。
 ・・・そんなことを考えつつも、「成功者」の特性を紹介し、教師生活との乖離をみていきます。

修正を重ねて成功に結びつくイメージ

 教育改革は、教師一人一人の意識改革から出発しないと成功しない。これは真理なのでしょうが、だから、「政府は何もいいません」「校長もみなさんに子どもはお任せします」「親のように子は育つ」とはいかない。
 では公の立場からはどう教育を変えられるのか。
 教師一人一人の意識を変えさせる方法は何か。
 職務目標やキャリアプランを検討させることを人事考課制度に組み込んだ東京都の政策は、もともと「自分が変わることが大切だ」という意識をもっている教師には有効的でしたが、自分のことはいっさい棚にあげて「行政が」「政府が」「管理職が」・・・と真犯人は他人だとかたく信じている人には効果が今ひとつでした。
 成功した人たちの多くは、願いを実現するまでに数え切れないほど修正に修正を重ねている、と言いますが、人事考課制度も改善を重ねていくことが重要です。教師が目標をもてる職場環境づくりが第一に必要で、「チームワークを向上させる」という最も大切なところからはじめるとか、「コミュニケーションを活性化する」とか、成功例は10年程度の経験がある教師ならわかるものがあると思います。これを一般化できないものか。
 教育の現場で「成功」のイメージがわきにくい(大会で優勝するなどの部分的な目標ではなく・・・)ので、コンピテンシーモデルというものをどう実用化するかが私の課題ですが、一応、成功方程式のラインに乗っている内容はおさえられているようです。
 理想を言えば、教師と管理職が現状を見つつ目標とそれを達成する手段を修正し続けた結果、成功が得られたという体験を積み重ねることが大切です。
 ただ、コンピテンシーディクショナリーとよべる事例数がまだ十分ではありません。
 「情熱」がある教師が求められるといいますが、情熱だけでは教育はできない。メリデメの理解も必要になる。部活動をしていた中学生が亡くなる事故がおこることもありますが、教師や子どもの情熱はこういう結果を招く恐れもあります。 
 具体的なリスク管理の方策をコンピテンシーモデルとセットにして考えなければなりません。

究極の成功方程式

 成功した人が必ず踏んでいる4つの段階。
 第一歩は目標をもつこと、次は行動すること、三番目は自分の行動の結果が目標に近づいているのか、それとも遠ざかっているのかを速やかに判別すること、最後は柔軟性を身に付け、絶えず適応し、調整し、臆することなく実行に移すこと。
 非常に当たり前のことで、PDCAサイクルと同じようなことです。
 ただ、当たり前のことを、普通の人はできないから、普通の人なのでしょうね。
 学校も同じじゃないかと言われるかもしれませんが、まず「学校」という組織を意識できるのは、中学校が最大で、次に小学校、高校は受験をのぞけば「学校」のために・・・という意識で仕事をするのは難しいのではないでしょうか。
 特に三番目の方程式です。
 たとえば「学校評価」。
 教師が手がけて、本当に学校改善に結びつきそうなことが多いのは中学校くらいで、小・高ではまじめに評価に取り組むモチベーションが低いのでは?それ以前にやるべきことが多すぎて・・・。中学校というところは、部活動に代表されるように「学校名」がひとりでに歩いていく。だから評価もそれなりに教員自体がかかわろうとします。
 それでも、学校評価を「速やかに行う」習慣のある学校は少ない。
 学校のコンピテンシーモデルというのは少し難があるかもしれませんが、このチェック機能がしっかりはたらくかどうかがよい学校とそうでない学校の分かれ道のような気がします。
 生徒のためを思って、まじめに議論しあう教師の姿をどのくらい目にしたことがあるでしょう。私も喧嘩になるのではないかと思うくらいハラハラして話し合いに参加していたことがありますが、議論が終わればみんなもとのように仲良しになる、そういう経験は今の職場では滅多に見られないかもしれません。
 小中一貫とか、小中連携とかいう取り組みがありますが、日頃から気にかかっているところはどんどん議論にもっていく方がただバレーボールをしながら交流するよりは子どものためになるでしょうね。
 「小学校ではなぜゲームや携帯を持ち込み可にしているのか」「それもクラスによってルールがまちまちなのはどういうことなのか」「なぜふつうの教科をやらないで新聞ばかり作らせているクラスがあるのだ」「なぜ百人一首ばかり毎日やっているクラスがあるのか」「不得意な教科をビデオでだけ見せている教師がいるそうだが何とかならないのか」、・・・それこそ苦情合戦になりますが、親の苦情への想定問答になるかもしれず、どうにか相手を説得できる話術があれば、連携も可能になってくるはずです。残念ながら、そういう説明を聞いた経験はないのですが。

見方を変える力 ~リフレーミング~

 リフレーミングとモデリングは、プラス思考で生きていくために身に付けるべき基本的な習慣の一つです。
 リフレーミングは日本風に考えれば頓知みたいなものでしょうか。無理矢理プラスの価値にもっていく。
 退却している指揮官が「これは反対方向に進軍しているのだ」と言ったら「おまえはバカか」と思われるかもしれませんが、これをすべて肯定的に、前向きに考えようというのがリフレーミングの趣旨です。
 教育の数々の失敗も、見方を変えることで創造に結びつくかもしれません。
 管理職不足でだれでも管理職になれる時代が来たとき、教師不足でだれでも先生になれる時代が来たとき、これを「教育はもう終わりだ」ととらえるか、「古い教育の時代は終わりだ。これから新しい学校像がつくれる」ととらえるかで「次の一歩」が踏み出せるかどうかが決まります。
 「管理職は思いつきでものを言う」ので「たまらない」としないで、「管理職が反駁のしようのない論理で要求してこなくてよかった。こちらで運用する方法を考える余地がある」ととらえるなど・・・。
 一方のモデリングは、優れた成果を上げた人がいたら、「なぜそのような結果を出せたのか」を考える習慣をつけるということですが、これをまとめたものが教師のコンピテンシーということになります。
 これを「なぜこの教師はだめなのか」をまとめると逆コンピテンシーとなります。なぜわいせつ行為に走るのか、なぜ体罰に訴えるのか、なぜテストで不正を(教師自らが)行うのか・・・これらの犯罪行為は、方向性さえ変えれば、優れた教師になる要素でもあるかもしれません。

だれに言われるかがすべて?  ~研修の民営化~

 研修の民営化を私が推奨する理由は、こんなこともかかわっています。
 自己啓発本は、「私はいい恩師にもめぐまれましたが、この本は私にとって『恩書』とよべるものです」と表現されるような影響力を発揮する場合があります。
 そこには、「どれだけ才能、時間、お金がなくても、情熱さえあれば、道は開けます」などということが書かれていますが、もしこれを行政や管理職に言われたらどうでしょう。「私を見てごらんなさい」と管理職から言われても、ただただ反発をくらうだけでしょう。
 「自分の人生に制限をつけるのはやめましょう」というのを、制限だらけで不満をもっている教師に行政が訴えても逆効果であるだけです。
 ただ、こういう自己啓発本はよく売れています。教師が買って読んでいるかどうかは疑問ですが、社会には相当のニーズがあるわけです。
 「授業にすぐ使える○○シート」のような安易なものではなく、一見安易な考えのように見えるが、実践して大きな成果をあげている人に、やる気をもらって自分で授業をつくりだせるような本に巡りあえている教師は少ないかもしれません。
 自腹をきればよいといえばそれまでですが、お金だけは行政が出し、民間にそういう体験をさせることをまかせる。今までのように、行政がそういう講師をやとってやらせるのでは、また逆効果になってしまいます。そういう講師のもとに「自分で進んで行った」ことが大事です。(それでも自腹をきることの効果の高さを強調する人がいるかもしれませんが)
 環境保護団体が「自然を愛し、国を愛して、自然を守り、国を守りましょう」と言ったら納得する人でも、国家が言ったら「ふん」ということになる。
 教室の中のパワーバランスもこれに似たところがあって、同じことをAさんとBさんが言っても、Aさんの発言ならみんながうけとめ、Bさんならしらける・・・これが民間人と行政の人間の違いに近い。
 なぜ同じことなのに言う人の性格や立場が違うと受け止め方が180度変わってしまうのでしょう。
 ・・・それはおいておき、すべてにプラスの価値を見いだす人間の強さ、それを考えてみたいと思います。

豊胸手術経験と自殺率の関係

 アメリカの研究チームが、豊胸手術をした人の自殺率が一般の3倍であることを発表しました。美容整形外科の医師には心のケアも求められるという趣旨でしょうか。
 強引な勧誘でエステ店が処分を受けたようですが、ビジネスチャンスの裏にはコンプレックスを抱いていたり不安心理を抱えている人間がおり、そこを利益の源泉とする人々は少なくないと思います。
 データの比較というのは、因果関係がありそうに思えてしまうものを発表するだけで、そう信じ込んでしまう人が増えそうでこわいものです。
 豊胸手術を強く望んでいたけど、お金がないのでやめた人の自殺率は?周囲から反対されたのでやめた人の自殺率は?豊胸手術をした動機別の自殺率は?・・・いろいろたしかめたいデータが思い浮かびます。
 予備校に通っていた人の自殺率がどうとか、離婚経験者の自殺率はどうとか、すぐに得られるデータばかりではないでしょうが、想像し出すと気になります。
 ゲームにはまっている子どもの学力水準は、たしかにそうでない子どもより低いかもしれません。
 朝食を食べない子で、食べる子よりも勉強ができない子もたくさんいるかもしれません。
 ただ、ゲームをやめれば学力が上がるとか、朝食を食べれば勉強ができるようになるわけではなく、やはり勉強そのものへの意欲が大事なのでしょう。
 最近、学校から保護者に対する要望で、こういうのが増えてきました。
 データを重視しているようですが、保護者もそれにだまされてはいけません。
 「おたくの子は朝食を食べてこないから集中できないのだ」と堂々としている教師はいませんか。
 

教師の人生が「名作」と呼べるものになるには

 教師にとって、自分の人生が「名作」と呼べるすばらしいものになるかどうかは、言うまでもなく、そこでの主人公=子どもたちがいかに活躍できるかにかかっているわけです。
 ときには自分は何もしなくても、子どもだけで名作をプロデュースしてくれるかもしれません。
 しかし、教師不信が定着してしまった今となっては、甘えてばかりはいられません。
 自分の教師生活を手記に綴るということを想定したとき、同僚や管理職への不満だけが募ってくるという人は少なくないかもしれません。報道だけを頼りに、文部科学省や都道府県教育委員会の動きに批判的な態度をとることも多い。しかし、それはそれ。
 自分は、現場で、どういう行動をとったか。
 自分は、何のどのようなことに主導権をもったか。
 自分はどんなことを身につけ、それをどう活用したか。
 こういうプロットを考えなければ、教育という仕事も他人事に過ぎなくなります。
 ・・・・・・というような見方・考え方が、自己啓発本のパターンです。
 現実を見ることも忘れないようにしますが、「行動」を伴わない「理解」では意味がない・・・という視点で教師のコンピテンシーを追究していきたいと思います。
 
 

教育再生の主張は教育破壊に帰結する? ポストモダニズムの次は「やるしかない主義」?

 社会の動きや人間の心、考えの形成には何かの規則性、整合性があり(社会学主義)、ときには一見整合的な見せかけの下に、とんでもないしくみが隠されている(構造主義)という主張に魅力を感じるのは、「なるほど!」を実感したい人間の心理の要請に応えてくれるからであり、何となく学問らしいにおいがするから魅力があるのでしょう。
 これに対し、ポスト構造主義(ポストモダニズム)は、積極的に何かを主張するというより、だれかの主張や理論の一部に注目し、それを極端化させて、自己矛盾に陥らせることで、理論自体を自己破産させる戦略をとります。その批判の中に自分の思考の自由を確保する、これが「脱構築」です。
 今、現実の社会をどういう切り口で見て、それをどう捉えるか、どう対応していったらいいのか、答えを出すのが難しい。実は、そもそも社会にも人間にも整合性などはなく、ポストモダンも脱構築も常識化して魅力が失せている、今はそんな状況にあるようです。
 教育再生や教育改革を訴えれば訴えるほど、現実の教育がおかしいことが露呈され、教育に携わる者に対する社会の不信が高まっていく、つまり、教育再生の主張が教育破壊に帰結する・・・このような主張がポストモダンの解釈です。たしかに納得がいく説明かもしれません。
 ただ、「教育再生会議」はその人選にも批判が集まっているようですが、提言の中身はまっとうな人がつくっているものですから、決していい加減なものではない。
 現場の教師の力に問題があることが露呈しますが、それは現場だからこそ受け止めざるを得ない、受け止めなければならない課題であって、ただ「教師の数を増やしてくれ」という「ますます教師の質を下げるような危険性が高い要求」などではなくて、教師の力量をアップする学校内の提言をどんどん発信し、実際に力量を向上させなければなりません。ポストモダニズムの次は、「やるしかない主義」です。
 「この先生、ますます指導力を伸ばしていってくれるのだろうな」と思わせる場面は、現場ではどこにあるのでしょう。どんな教師なら、そういう期待を他の人々に抱かせることができるのでしょうか。
 アンソニー・ロビンズ著(本田健訳)「~世界NO.1カリスマコーチが教える~一瞬で自分を変える法」(三笠書房)から、ためになりそうな情報を拾ってみたいと思います。

何とかイズムと日本語

 「何とかイズム」の新語はないかと検索してみたところ、イズムという株式会社があったのには驚きました。
 ファッション関係の会社でしょうか。
 日テレにはおしゃれイズムという番組があるそうです。
 デザイン、アート、ファッションなど、美術・芸術系に使われるということは、個性を求めることを重視する語句に親和性が高い印象があるのでしょうか。
 「プラスイズム」というのは、「毎回個性的な演出家で公演を行う人気急上昇中の演劇ユニット」だそうです。
 小林よしのりの「わしズム」、「美味しいズム」なんていうのもあります。
 それでも、あまり日本語や日本人には「主義」という言葉は似合わないのでしょうか。ちょっとしっくりこない気がします。
 ウィキペディアの「主義」の項目に「主義」「イズム」の言葉が網羅されています。また暇があればながめてみたいと思います。

リバタリアニズムと教師

 リバタリアニズムについて最初に知ったのは橋爪大三郎著「人間にとって法とは何か」(PHP新書、2003年)・・・第11章・184頁~・・・ですが、リバタリアニズムについて詳しい入門書としては、森村進著「自由はどこまで可能か」(講談社現代新書、2001年)があります。
 リバタリアニズムとニート、不登校との関係を研究している人はいないでしょうか。
 リバタリアニズムは、国家への人々の心情的・規範的同一化に徹底して反対するという個人主義的要素を政治思想の中にもっています。民主制の主権者は全体としての国民であって、基本的人権の持ち主である個々の国民ではないから、基本的人権が民主的決定によって侵害される可能性は否定できない。だが、大切なのは基本的人権の方だというのがリバタリアニズムの主張です。
 民主主義は、権威主義的独裁、全体主義をもたらすおそれがあることは一般的にも理解しやすい。多数決で決まるしくみ、投票に棄権をしたならあとで決まった政策を批判する資格はないと考えるしくみは、「どうしても他といっしょはいやだ」「国の言うことは聞きたくない」という信念をもつ個人には通用しません。
 専門家ではないのでよくわからないところがあります。リバタリアニズムの国家に対する態度はよくわかるのですが、地域社会と人のかかわりはどう考えているのでしょうか。集団の中での個人はどういう態度をとるべきか、とることが許されるのか。教師の世界にリバタリアニズムが拡大していってしまわないか、心配でなりません。
 
 

コミュニタリアリズムと教師集団

 平等重視の共産主義に対して、自由重視の考え方がありますが、そのバリエーションはさまざまです。
 自由を守る介入を重視するリベラリズム、自由に対するいかなる介入も排除するリバタリアニズム、集団指向のコミュニタリアリズム(コミュニズムとは異なる。共同体主義。)などがあり、それぞれに長所・短所があります。
 学校教育、特に義務教育で重視されているのは、コミュニタリアリズムでしょう。
 コミュニタリアリズムは、個人が自由に考えるなどといっても限界があり、物事のよしあしの判断も、他者の判断、共同体の判断をベースとして形成されると捉えます。そもそも、人間の思想・信条は、周囲から独立して形成されるものではなく、自分がやったこと・言ったことが、周囲から「いいね」と承認されてはじめて「いいこと」として意識される。
 個人が自由を感じるのは、むしろ集団や共同体の基準と調和できたときで、一人だけ自由を主張していても仲間が承認してくれなければ自由とは感じられない。
 そういう考え方のコミュニタリアリズムは、公共空間の中での人間というのを意識しています。
 一方、個人の自由を絶対化するリバタリアニズムには、努力して得たものは自分のもので、税金は国家による窃盗だと主張する感覚が強く、結果として、「みんなのために行動する」という発想がおこりにくい。
 教師の仕事は、ときにこのリバタリアリズムに傾斜していきます。「子どものため」という名の自分主義が、「学校のために」「教師集団のために」「地域社会のために」という集団指向とマッチしないのです。自分の研究のため、自分が本を出すため、などという論理で、公共空間から利益を得ておきながら、それを還元する発想がないこの自由主義は、私共空間の人間の典型です。
 私共空間は、集団化することもありますが、駅前の放置自転車のように、それは複数のバラバラな個人の行動の結果そうなるケースが多く、「みんなのための行動」という観念に乏しい。
 子どものように、人に迷惑をかける個人を矯正していくためには、集団指向のコミュニタリア二ズムが優位なように見えます。(私有財産の否定などの話はおいておきます)
 学校に不適応をおこす子どもやその保護者の感覚を体験の範囲内でいうと、一般的には教師の集団指向の姿勢に抵抗を感じるように思われるかもしれませんが、実際には教師自身の個人主義的・自由主義的な面に反発している場合も少なくありません。不登校になってから急に態度が変わる教師というのも子どもには人間不信になる原因になるようです。
 自由や公平をめぐる論議は堂々巡りで面倒くさいものだとして、最近はとりあえず自由や公平とは言わず、勝手にやってくれ、しかし何か問題がおこったらその後、処理する・・・などというネオ・リベラリズムというものも登場しているそうです。教師の中には、けっこうそのタイプの指導で子どもから反発を買う人も多い。
 「自由にやらしてくれる」と言ったのに、やってみたらあとで怒られた、と子どもが反発する。
 教師集団がまとまっていると子どもが落ち着く、と言う当たり前の法則?が学校にはありますが、子どもは大人が言っていることとやっていることのギャップには非常に敏感です。そこに不信感をもつ。人に要求したいことは、自分もやる・・・ところが、教師の中には、自分もできないから子どもにも要求しないという自己防衛力がはたらいてる人も多い・・・。自分が知っている教師集団の作り方の基礎基本は、初任のときの学年主任から吸収したことがすべてですが、結局、そういう力のある学年主任にめぐまれるかどうかにかかっているのでしょうか・・・。
 
 

権威主義から権威活用主義へ

 「真犯人さがし」のコラムの著者は、非常に儒教的なものの考え方が染みついている人のようです。
 経験主義である一方、権威主義によりかかろうとしている。(実際には多くの人からよりかかられている存在のようですが)
 教員が、管理職(上司)をバカにして嫌う、嫌ってバカにするというのは、管理職を上司として甘えてよりかかるのと同じことの裏返しです。
 つまり、著者のようなタイプの人は、「上司」「管理職」を特別な存在だと思っているわけです。
 おそらく現職のときは、「自分の上にいて、給料も多くもらっているんだから、これぐらいのことはできて当たり前だろう」などと思っていたのでしょう。あてがはずれると、「バカじゃねぇの」「頭が古い」となる。
 上司、管理職を特別な存在、「上司はえらくて部下はえらくない」「校長はえらいが平教員はえらくない」と考えるから、上司を拒絶したり、よりかかったりする。
 しかし、行政もふくめ、今時の企業社会で「上司は上司であるがゆえにえらい」とは普通考えないでしょう。
 その職責、職の役割をどう果たしているかが重要なのであって、かつその職責は一般的には多様であるのに、一部の面だけを取り上げて批判することは避けたいものです。しかも自分にかかわる一部の上司の批判を全体に転嫁していく発想は、まさにマスコミの手法です。(だから新聞のコラムなのかもしれませんが)
 真犯人だらけで、文字数だけは稼げるかもしれませんが、もともとカバーできる領域がせまい(テレビの視聴者、新聞の購読者と同じで、人数が多い少ないが問題ではない)わけですから、自分の中の犯人さがしに着手してみたらいかがでしょう。
 指導主事時代に、自分の直接担当している自治体以外の現場の先生から、管理職への不満をよく耳にしましたが、その都度、管理職を利用する方法を説明し、前向きな人には、さらに教育行政の利用の方法もアドバイスしました。力量不足の教師には、自分の能力不足を管理職の問題に転嫁させようとしていることに気づく能力もありません。校長や現場の教師に育てられた指導主事の例、校長を育てた現場の教師の例を教えてあげると、どこに自分の学校の問題があるか、力のある教師は気づいてくれました。
 10年後には、採用数が極端に減った時代の教員がたくさん管理職になります。その資質・能力はさせてから育成するというせっぱ詰まった状況が予想されます。「上司だから力があって当然」ではなく、「上司に力をもたせて自分の要求を実現させる」「学校本来の教育の姿を追究させる」技が必要です。反発するだけでは前進しません。自分が変わろうとしないと、相手を変えられるという信念がもてません。
 新聞のコラムには、もっと建設的な提言を期待しています。有名人の影響力の強さをいい意味で発揮してほしいと思います。
 
 

「真犯人さがし」の新聞コラム

 産経新聞HPを見ていたら、「真犯人はこいつだ」という仰々しいタイトルのコラムがもう79回目を迎えていることを知りました。
 もうさすがにネタがつきてきているのか、最新の話は疲れた教師が飲み屋で愚痴をこぼしているような内容ですが、まだ連載は続くのでしょうか。
 過去のコラムも見てみると、10人に1人は何々とか、データらしきものがありますが、ほとんど著書の体験と伝聞の範囲内の経験によるものらしく、せいぜい「林」の話で「森」が見えているわけではないようです。
 7月25日の記事には、「私の経験では8割の校長は授業が下手だ。指導主事も同じだ。」とありますが、一人の教師が経験で知ることができる校長とか指導主事は何人いるのでしょうか?
 関係者には残念なことながら、授業の上手下手の基準になりそうな話は私のブログでも過去に述べていましたが、「上手」とか「下手」という授業の形容をしているレベルでは、授業の評価は一面的なものです。
 著者は「授業を批評できるには、研究授業、公開授業を500回は経験しなくては無理だ」と述べていますが、これにはびっくりしました。毎月2回ずつやっても20年以上かかるのですね。
 なお、「職員に授業をやってみせる校長なら評定する資格はある」そうです。
 こういうキレ方をしないように教育しているはずですが・・・。
 指導主事の話については、東京都の指導主事はもちあげていましたが、「各地からきた50人」からの情報をもとに、他県の指導主事の力量をこきおろしています。
 東京都以外のことなのでしょうが、「力のない指導主事が学校を指導している。教育は、しんから壊れつつある。」そうです。これは東京版にしか掲載されない記事なのでしょうか。
 私のブログのタイトルは「教育失敗学」ですが、こういうタイプの批判を自分もしていたのかと思うと、読んでくださった方に申し訳ない気がします。
 犯人は自分だという自虐的な書き方もしていませんでしたが、もう少し足下を見ながら教育を考えたいと思います。

不登校対策

 学校は、実にさまざまな機関と連携をとるようになっています。
 病院、警察、児童相談所のような公的機関から、塾や予備校、そして地域の自治会、通学でかかわる鉄道会社まで。
 希望すれば、ほとんどの人が子どもの教育にかかわることができます。
 ただ、難しいのは、不登校(年間30日以上の欠席のうち、病気等ではないもの)の児童、生徒への教育です。
 壁は4段階あります。
 軽いのは教室の壁。保健室には入れるけれど、教室には入れない子ども。
 次は校門。自宅は出られるけれど、学校の敷地に入れない子ども。
 次は家の玄関。玄関から一歩でると気分が悪くなってしまう。また、家庭訪問で、玄関の中に入れるかどうかも大きな境界です。
 最後は部屋。部屋から一歩も出られない、出てきてくれない。
 これらすべての壁は、自宅を出て寮つきの学校に入ってしまえばなくなりますから、そういう手段で解決を図ろうとする人もいます。
 虐待もそうですが、大きな壁は家に入れるかどうか。
 家族と教育的な協力が図れるかどうか。
 教育を受けさせる義務を、親がどう果たそうとしているか。
 中学生の3%とか4%という数字になってくると、これは学校関係者だけで対応できる人数ではありません。
 不登校の生徒のための学校を設置している自治体もありますが、その学校の不登校生徒はどうなるのでしょう。
 東京都教育委員会が8月9日に発表した資料によると、平成12年度から小中学校とも不登校の数は減少傾向にありましたが、18年度は前年を上回る結果になりました。
 実数としては、小学校が1871人(0.34%)、中学校が7049人(3.24%)。不登校は中学校ではじまるケースが多いわけです。
 中学校の場合、不登校生徒の状況は、情緒的混乱が2314人、無気力が1719人、いじめではない友人関係の問題が969人、あそびや非行が705人などとなっています(18年度から複数選択に改められた)。意図的な拒否という生徒も319人。
 なお、4、5月だけ休んで、あとは全部登校するようになった生徒も含まれているかもしれません。平均欠席日数、または220日程度すべて欠席が何人かなどはわかりません。
 原因がさまざまなですが、学校と家庭、医師やカウンセラーの努力で何とかなりそうではないかと言われそうなデータではあります。
 ただ、データを見ればわかるように、「不登校生徒を出さない学校教育の工夫」というのは、現実にはできません。そういう状況になったときにどう対応すればよいかという問題が半分以上をしめています。
 養護教諭の指導を受けた生徒は1441人、スクールカウンセラーや相談員の相談を受けた生徒は3204人。これを多いと見るか、少ないと見るか。
 私は不登校ゼロの自治体にかかわっていたので、直接指導をしたことはないのですが、一人一人を大切にする教育をスローガンに掲げている学校がとるべき不登校生徒に対する指導とは何かと問われたら、特別支援学校で作成しているような、「個別指導計画」を作成して複数の関係者がその指導過程、指導の成果の情報を共有化し、可能な限り連携して指導するということになるでしょうか。
 「そんなことをする時間はどこにある」「他の子どもの教育はどうなる」と怒られそうですが、「それを全員につくれるような、コンピュータ処理で作成できるシステムをつくりましょう」と答えてしまいそうです。
 もちろん現場の人が臨機応変に対応すればマニュアルどおりでなくてよいのですが、AさんとBさんに別のことを言われたということがないように調整する時間は必要になりそうです。
 ・・・確か最初に赴任した学校の学年会は、不登校生徒の話だけで1時間以上いつもかかっていました・・・。
 

国民が共通にもてる愛国主義とは?

 『世の中がわかる「○○主義」の基礎知識』 (PHP新書 470) のAmazonHPに、以下のようなカスタマーレビューを入れました。
 

○○主義のサンプル集。
 だれにも文句を言われない主義は?
 最も人口が多いのは何主義者?
 など、勝手に課題を設けて読んでみたりもしました。
 テーマの設定が優れているので、辞書的・断片的にではなく、○○主義と△△主義の関連や比較をしながら読み進められます。
 章ごとの図解も参考になります。「集団指向と個人指向」で対比されるのは何主義?「権利は変えられる?変えられない?」「合理的か、非合理的か」「個性か、非個性か」 「豊かさと貧しさ」「地域指向と世界指向」「日常と非日常」では何主義が紹介されているでしょう?
 図解を見て、それを自分の言葉で説明できるかどうか考えて、本文で確認する、そんな読み方もできそうな本です。 小論文の講義に関する本を出版している著者ならではの、簡潔な文章の中に必要な情報が整然と詰められた、読んでいて頭の中がすっきりする本です。

 教育における集団指向と個人指向の使い分け、学校による教育資源の格差の問題、さまざまな問題提起のヒントが隠されています。
 単なる解説本ではなく、たとえば「愛国心」については、以下のような解釈を紹介しています。
 「国家は欠陥の多い制度だが、それをコントロールし、自分たちに利益をもたらすように変えられるという希望が愛国心である」 多くの日本人にとって、「愛国心」から連想される最も多い言葉は「戦争」でしょう。
 「愛国心」を重視する人は、すぐに戦争賛美派にように見られてしまう。
 だから上記のような捉え方をしてもらえれば、少なくとも議論自体が成立します。
 ただ、愛国心の分析は、それが客観的なものに見えても、また実際に客観的であったとしても、国民意識のプロパガンダになる可能性があるとの指摘もされています。
 何かの主張を行うときには、どうしても「あなたはどっちの立場なのか」という目で見られがちです。
 管理職なんかはいつもそういう目で見られているでしょう。
 私も、指導主事のとき、校長先生に君はどっち(教育委員会か、現場か)の味方なのかと攻められました。
 どっちの敵でもないし、どっちの味方でもある・・・という理屈が通りにくい社会です。
 私は常にメリットデメリットの整理でこの問題を切り抜けてきましたし、メリットの最大化とデメリットの最小化の手段を練り合っていくしか方法はないのですが、議論してもかみ合わないのは、結論が最初から決まっている人でした。その結論が立場によって決められている(実は行政の世界もそれが多いのですが・・・)と議論になりません。相手は言いたいことを言うだけです。
 さまざまな主義や主張があるということだけでも認めあえる社会になるといいのですが。
 そのためには、○○主義の解釈をだれもが共通してもてるものにつくりかえていく作業が重要になってくるかもしれません。
 

古典主義とロマン主義

 子どもの図画工作の教科書を見て驚いたことがありました。
 落書きのような絵やがらくたの写真が載っているだけで・・・。
 正直、心配になったものですが、ああいう本を見せられると、「日本の伝統文化の重視」とかいう教育に思わず意味を感じてしまいます。
 自分がそういう教育をうけるとしたら抵抗があるのですが、子どもには受けさせたい教育。
 古典主義とかいう考え方は、そんなものなのでしょうか。
 「お手本となる美を崇拝して、その高みに謙虚に近づいていく姿勢が特徴的・・・そこには永久に到達しない」古典主義的な考え方は、教師ならある程度はみんなもっているのではないでしょうか。
 歴史的には、古典主義に真っ正面から対抗して登場したのがロマン主義。「自分が美しいと思うものは美しい」・・・これを現代の個性重視という教育の姿に投影すると、多様性と混乱と逸脱を生む「教育の劣化」の根本原因ではないかと捉える人が出てきても仕方がないかもしれません。
 では古典主義がよいかというと、抵抗も強い。
 「個性」の意味や意義をどう捉えるのかということ、教育の世界で取り入れるべき古典主義のよさとロマン主義のよさとは何か・・・。また宿題ができてしまいました。
 

チャンスがやってこない習慣

 レス・ギブリン著(渋井真帆訳) 「チャンスがやってくる15の習慣」(ダイヤモンド社)は、装丁がきれいなこととタイトルを見るとわくわくするので買ってしまいましたが、内容が帯の文句~1時間で読める、一生の宝物~のとおりかどうかは、読む人が判断すべきしょう。
 自分にはほとんど「チャンスがやってこない」習慣がついていたようです。
 それは、教育の世界では、自分よりも他人のことに興味を常にもっているからでしょうか。
 というのは、冒頭から、こんな表現がありました。
 「人間とは、もともと自分のことしか考えない生き物です。関心があるのは自分自身であって、そもそも他人に興味はありません。これが人間の本性です。
 別の言い方をすれば、相手はその人自身のことを考える1万分の1も、あなたのことを考えてはいないものです。この場合、逆も真なりです。あなたも、世の中の誰よりもあなた自身のことに、はるかに関心を持っているはずです。」
 ・・・自分はむしろ自分のことから関心をさけていたように思えてしまいます。
 生徒はまさにそのとおりの生き物と思い当たることもあるし、一方で、「空気の読めない」他人のことは一生懸命気にしていたりします。
 本の内容には、教師の逆コンピテンシーに結びつく例がたくさんみつかりました。
 「話し上手のルール」として、①話す内容をきちんと知っておく。②言いたいことを言ったら、すぐ終わる。③聞いている人の顔を見ながら話す。④聞き手が聞きたがっていることを話す。⑤演説をしようとしない。とありましたが、生徒指導の場面を想像すると、自分は何と「話し下手」だったことか・・・。
 

相対主義と絶対主義

 ここでは教育の業界用語としての相対主義と絶対主義の話です。
 現役の親の世代は、みんな「相対評価」の教育を受けてきました。7%の「5」の成績の人がいる一方、同じ割合で「1」をとる生徒がいる。
 これは生徒数が多ければ、実力を考えても、実態として当たり前のことのように思える人が多かったのではないでしょうか。教師がテストの問題をつくるときも、100点満点で、平均点が90点とか30点になるような問題はつくらず(こういうのは「悪い問題」)、70点あたりに得点分布が集中する(正規分布に近い)ような問題にします。
 ただ、生徒数が減ってきて、極小規模の学校になると、この評価方法には無理があることが明らかになってきました。
 そもそも、やらなくてもわかっていた(業者テストというのもありました)ことですが、学力調査によって学校間格差が大きいことが証明されたように、A校の「4」のレベルがB校なら「3」程度である・・・ということがあり得る。
 しかし、入試ではそれが同じ条件で点数化されてしまう・・・。
 そういう背景もあって、「絶対評価」(正しくは、目標に準拠した評価)に切り替わりました。
 すると今度は、教師が好きなように(いい加減に?)評価をつけているのではないか、どこどこの区は甘い、どこどこは辛い、など、疑念が生まれてくる。
 学校に評価の説明責任が生まれ、評価基準を作成して公表し、入試のときは、評定をまとめた資料を高校に提出して妥当性を示す・・・。
 相対評価の時代には、一般的な意味での相対主義的な捉え方・・・できる子もいれば、できない子もいていいじゃないか。それが現実だ。みんな違っていて、みんないい・・・が(入試のプレッシャーを除けば)現場では支配的でした。言ってみれば現実主義だったのですね。
 しかし、絶対評価の時代になると、みんなにとっていいことが求められました。結果の重視です。「できない子がいる」ことが当たり前ではすまされなくなってしまいました。
 これは、功利主義の考えだと気が楽なのですが、何が目標か、価値基準が決められている中で実力をつけ(これを競争させられと見る人は見る)させるという意味では、結果の絶対主義という厳しいものになります。そんなものは理想主義だと批判して逃げることが学校現場としては難しい。
 面談などで「うちの子は確かに体育が取り柄なのかもしれないが、算数の力を学校できちんとつけさせてくれるということはできないのですか」と親から希望されれば、「そんなことを言ってもあなたの子どもの力では無理です」とはいえないのが学校です。
 私の場合は、「授業の中では、子どもたち同士で学び合う環境をつくっています。Aさんはこういう考えをもっているんだな、Bさんはこんなこともできるんだ、Cさんがやるとこうなるのか・・・など、子どもが互いに実力を高め合うムードをより向上させるよう、努力します」と逃げますが、「ではうちの子の成績を伸ばす戦略をタイムスケジュールとセットで説明してください」と突っ込まれると困ります。
 養護学校程度に教員が多ければ問題がないのですが、絶対評価になって現実的に一番問題なのは、目標に準拠した評価は一人一人に対応した資料をつくり、もし個に応じた指導の工夫をするには個別指導計画を作成しなければなりません。極小規模校や小学校ならできるかもしれませんが、400人を教えている私の場合は非常に困難です。このことは、観点別評価の問題も含め、以前ここで書きました。
 教員の評価もそうですが、できることなら生徒の評価も外部委託が今後のぞましいかもしれません。
 試験問題も、PISA型のようなものから基礎基本型、問題解決型などさまざまなタイプからオーダーメードで発注できるようなものにする。学校が答えを教えたり問題をあらかじめ見て、練習させたりするのが不安だというなら、漢字検定、英検のように会場で受けられるようにする(そんな場所がないからやはり学校でやらざるを得ないのでしょうが)・・・。自治体の学力調査はそういう形にしていけば予算も維持できるかもしれません。

教育改革がうまくいかない理由 ~楽観主義と悲観主義~

 教育改革に関する議論がうまくかみあっていかない最大の理由は、現場の教師の多くが楽観主義者である一方、マスコミや行政等の関係者は悲観主義で食べているからではないでしょうか。
 教師が「もう私はだめだ。こんなにみんなテストの点が低いとは・・・」「いつまで指導してもみんな上達しない。私には教えるセンスがない・・・」などといじけてばかりの先生では困ります。「自分を信じよう」「いつかは結果がでる」「努力は裏切らない」などと子どもを励まし続ける教師像が一般的です。
 マスコミは、「いろいろ批判されているが、教師はみんながんばっている。応援しよう」では仕事になりません。「今の先生にはこんな問題がある。あんな問題もある」「どこどこの教育は日本より優れている」で視聴率が稼げます。行政が予算を獲得する方法も同じです。「よくやっている」では予算が増えません。
 楽観主義者というのは、マイナス面については一時的、特定的にとらえ、人のせいにする一方、プラス面については永久的、包括的にとらえ、自分のおかげだと考えます。教師にもそんな傾向が強くはないでしょうか。物事を自分の都合のいいように考える、あるいは自分に都合の悪いようには考えないようにするのが教師は得意です。
 それは、そうでなければやってられないという面、精神面を安定させるのに欠かせない面というのがあるからです。
 しかしそれは一方で、一般人や立場の少し違う人から見れば、批判されてもしかたがない姿に見えるのも当然で、感情的な対立というのも起こりえます。
 学力調査の結果が公表される自治体では、自分の学年の成績が自治体の中で最低となるケースも存在します。学校が小規模化している結果、1学年1学級というところもありますから、自分のクラスが最低となる可能性もあります。しかし、そうなるといやだから一生懸命に教えるというのは悲観主義者のやることで、楽観主義者はそういうことにこだわりません。行政は悲観主義者を想定したプレッシャーをかけて学力向上を果たそうとしたのですが、現場は楽観主義ですから、調査自体を批判的にとらえ、「行政が悪い」ことにして、答えは見せる、点数の低い解答用紙を除外する・・・と、「悪」には「悪」で対抗するような態度に出ます。
 程度の問題ですが、現場ももう少し、悲観主義的に現実を見たらどうでしょう。「子どもの質が・・・」と逃げないで、「自分の指導力が・・・」という反省を。ただ、溺れている人が右手で左手を引き上げて助かろうとしても無駄なように、他の人に引き上げてもらう必要があるかもしれません。
 精神分析の世界でも、自己分析は基本的に成功せず、かえって症状を悪化させる場合が多いそうです。
 私はいじわるな質問を教育課程届の受理のときにたくさんしてしまいました。それでわかったことは、ほとんどの学校の自己評価は役に立っていません。学校評価がいつもやってるから・・・程度の認識だから、「来年度の教育課程のうち、今年度の学校評価の反省をふまえて最も強く改善しようとした項目はどれですか」という質問にすら答えられない。
 楽観主義の学校は悲観主義の行政とは相性が悪いでしょうが、自己改善力には限界がある以上、外部の力をどう活かすかという視点はもっていてほしいものです。

教育の民営化と行政の権限強化

 「子どものため」に、公教育の現場でも、教育の仕事の民営化が進められようとしています。
 第一歩は民間人校長の導入でした。
 「民営化」という手法は、「小さな政府」への移行のために実施されますが、これは決して権限を現場に移すための政策とは限りません。行政の指導を徹底するためのものである場合がありますが、教育の世界ではそれが露骨です。成果主義の流行(これも企業では下火になりつつありますが、「あこがれ」の力で生きている子どもたちには魅力あふれる言葉のようです)後、PDCAサイクルの確立など、目的を達成しようという意識をもち、「改善」とその過程を客観的に示すことが教育現場に求められましたが、現場の教師や管理職に、それを実現する能力や資質に欠けていたため、民間人校長が活躍することになりました。
 行政の意向を体現してくれるのが民間人校長でした。
 民間人校長が手がけていることの多くは、「限られた予算の中でもてる教育資源を最大限に活用する」ことで、これは教育行政が現場に最も願っていることです。行政がいくら予算を増やそうとしても、議会で承認されません。
 行政にとっての民営化の利点は、失敗したら責任は「民営化された現場」に求められればよいし、成功したら「民営化」という手法をとった行政の手柄になるということです。
 この内容は、萱野稔人著「権力の読みかた」(青土社)に紹介されていました。
 多くの場合、民営化とは、国家が責任をとらずに権力を強化・集中するための巧みな方策になっている。教育現場においてもそうだ。市場原理に教育をゆだねればゆだねるほど、教育行政の権力は強化されていく。教育におけるさまざまな問題の責任は現場に負わせる一方で、市場で競争するためのルールをさだめたり、競争を監督したり、どこが競争に勝ったのかを判定する権限は行政が握ることになるからだ。(中略)
 こうして権力は集中化し、現場の状況を無視した決定がトップダウンでどんどん降りてくるようになる。現場にいる人たちの裁量は小さくなり、仕事量だけは増えていく。それでかれらはその埋め合わせとして、強化されたお上の権力を盾にとって自分より弱い立場にある人たちにみずからの権力を乱用するようになる。権力がねじれたかたちで増幅されるのだ。(104頁)
 これまでも学力をつけるという目標は、塾や予備校などの民間企業に学校がたよっているという側面がありました。それが、塾の先生が現場の教壇に立つ時代になりました。
 結果として、「子どものため」になっているので、現場としては批判できない。
 一度うごきはじめた民営化の動きは止まらないでしょう。
 私は、教員の研修・研究機関が次に民営化されると読んでいます。大学等への委託も進んでいますが、行政の研修には熱心でない教師たちでも、自腹を切って各種研究会に進んで参加する人は多い。そういう研究会は、教育産業、教科書会社や教材会社に資金を頼らざるを得なくなっていく。
 初任者研修でも10年経験者研修でも、現場や行政の負担はけっこう重い。これは業者委託になります。幸い、退職する大量の校長経験者、指導主事経験者がいますから、力量はともかく、人間の数には事欠きません。しかもとても安くできます。
 その次にくるのは、教師の評価の民営化です。民間人校長というレベルではなく、専門の業者が評価を担当します。これも安くできるし、客観的な評価になる。
 結果としては、非常に安いコストで行政が現場をコントロールできる時代が来ます。
 もしそれを望んでいないとしたら、現場は今何をどのようにしたらいいのでしょう。 

「子ども第一主義」を掲げる主義

 なぜ「教育改革」に「子どものための」などという当たり前の修飾語をつけるのでしょうか。
 当人たちには、現在の教育改革は「子どものため」になっていないという実感があるのでしょうが、教育現場で、「子どものためになること」「子どものためにならないこと」の線引きはなかなか難しいことです。
 本音は「教師のための」なんだなとよくわかる研究会もあります。
 何かにつけて「子どものために・・・」と言って「子ども第一主義」を掲げている割に、部活動の面倒を見るなどボランティアに近いことには一切手を出さない教師や、「多忙だ多忙だ」と言いながらほとんど仕事ができていない教師、「わかりやすくおもしろい」授業ができない教師など、何がその人の信念なのかよくわからない教師が増えています。
 「すべての子どものためにできること」が「子どものため」だという主張もわからなくはないですが、震災の時に行政がストックしている毛布があるのに、全員にいきわたらなくて不公平になるからとう理由で出さなかった事例と同じで、すべての人のためになることをするには「まず目の前の人から」という発想がほしいものです。
 学校では、1枚の毛布を何人もの生徒が使っていて、職員室という押入にしまったままの毛布がたくさんありませんか。
 私の経験上では、教育を語るとき「子どものための」という修飾語を使っている人で、本当にそれらしいことを実践している人には会ったことがありません。本当に「自分の子どものため」に勤務校の行事を欠席したりする教師もいます(それはそれできちんと許可をとっていれば決して問題ではないでしょうが、生徒はどう思うでしょう)。
 「子どものための教育の担い手」としての教師の評価は、子どもの目から、保護者の目から、管理職などの先輩教師の目から、地域の目から・・・など、評価者によって大きく異なるのも現状です。だから360度評価が教育現場にも求められています。一部の教育評論家は、子どもや保護者はこういう教師を求めている。これが行政の考えと一致していない。と特定のデータをもとに主張していますが、自分の主張に都合がいいデータだけを示して「これが真実だ」と主張する姿勢は、決して「子どものため」にも「教師のため」にもなりません。
  「子ども第一主義」を掲げる教師は、子どもの評価をきちんと把握しているのでしょうか。「子どものため」には、子どもの考えを聞くのはもちろんですが、「第一主義」はそこに重心をおくという意味で、その他を切り捨てるという意味ではないはずですから、その他の考えも聞き入れようとする姿勢が大事なのは言うまでもありません。
 採用されたばかりの教師は、ベテランから見れば「子ども」です。しつけも必要です。現場の先生なら、そういう「子ども」のまま年だけ取ってしまった教師を一人二人は頭に思い浮かべられませんか。でも、こういう「子ども」には、人の批判だけは立派にできる能力が備わっていて、けっこうその人物評価は正確なものだったりもします。
 教師の評価についていうと、「子ども第一主義」はけっこうなことです。

マンネリズムからの脱却

 齋藤孝著「教育力」(岩波新書)に、「未熟さの効用」という話が紹介されています。これは、「知識や教育技術がたとえ未熟であったとしても、不思議と初めて受け持った授業が生徒との間に一番濃い縁を結ぶことがよくある。」というもので、その背景には「未熟さゆえの緊張感」があり、生徒にはその緊張感を共有する楽しみがあるというのが著者の主張です。
 私はこの考えに条件付きの賛成です。それは、単なる未熟さだけで、ろくに教材研究をしていない教師の授業では、いい意味の緊張感など生まれようがないからです。
 深く教材研究をした授業なら、経験を積んだ教師にも同じことがあてはまると考えています。
 授業のマンネリズムとは、要するに教材研究不足を経験主義でごまかそうとしているだけの態度で、生徒はもとより教師自身が感じやすいものでしょう。
 マンネリズムからの脱却の方法は何か。
 百マス計算導入のころは、多くの小学校教師がマンネリズムからの脱却に狂喜していました。学校体制で取り組んだ事例も見てきました。先生方はとても生き生きしていましたが、あれはもしかして、子どもがしっかり勉強していることへの喜びよりも、マンネリズムからの脱却の喜びだったのではないでしょうか。
 百マス計算にもマンネリ化の兆しが見えてきました。この系統の大人向け能力開発の本もたくさん出版されていますが、購入した何%の人が課題をやりきっているのでしょうか。
 学校は、導入するだけで満足しがちです。個人は、購入しただけで満足しがちです。
 今、子どもの学ぶ姿が導入時と変わらないとして、以前のように生き生きと百マス計算を実践している教師はいるでしょうか。もし子どもの姿が以前より熱中していないと感じたなら、それは教師の情熱が薄れたことが原因ではないでしょうか。
 マンネリズムからの脱却は、自分で産みの苦しみを味わうことが大切なのかもしれません。
 いずれまたマンネリ化が訪れるかもしれませんが、人まねのときよりはそのサイクルが長くなるのでは?

「教師格差」はどのレベルから語られているか

 現場から離れた「教育評論家」のような職業になってしまうと,目の行き場が非常に偏り出すようです。
 教育評論家が「教師格差」という本を出版しましたが,これを帯の宣伝文句どおり本当の「教育再生」への処方箋だと思って読んだら大失敗。あれもだめ,これもだめの羅列で,ただの苦情の標本箱でした。
 教育論文で書いたらほとんどみんな赤を入れられてしまうような,抽象的な提案ばかりで,これでは教員採用試験には合格できません。
 教育への提言になっていない最大の原因は,現場感覚の戦略思考がないからです。
 たとえば目標管理型評価を「同僚性」「協調性」を崩すもとだと決め付けていますが,「同僚性」「協調性」を高めることを目標にして成果を高めればよいのです。
 PDCAサイクルの重視も「企業ごっこ」と揶揄していますが,この視野のせまさが主張をつまらなくしています。
 「競争ではなく共創を」などという言葉遊びをしていても,教育は再生できません。
 「研究協議に生徒を参加させる」などという低レベルなことだけでなく,もっと具体的なビジョンを語ってほしいと思います。

事大主義が事大主義を生む

 自主性なしに勢力の強い者につき従う事大主義・権威主義は,外見上は,強いチームワークで結びついている状況と同じように見えます。
 中学生になると行事などで子どものリーダーシップを発揮させることがあります。ここで難しいのは,教師のリーダーシップのコントロールです。それは,子どもを動かす力と同時に,教師集団を動かす力も必要だからです。
 個々の教師がバラバラだと,混乱を招く場合があります。
 行事で,子どもが学年の教師に「○○はどうしたらいいのでしょうか」と聞いてきた場合,返事の仕方は何通りもあります。
1 わかりません。
2 それは,自分たちで決めなさい。
3 それは,こうしなさい。
4 それは,担当の○○先生に聞きなさい。
5 それは,担当の○○先生と相談して決めなさい。
6 それは,先生方で話し合って決めるから,それまで待っていなさい。

 一般的には,行事の担当者であってもなくても,「あなたはどうしたいのか」「みんなはどうしたいと考えているのか」をまず聞き,どういう目的で話しかけにきたのかを判断してから対応します。
 こういうケースで,官僚主義的でない,個人プレーOKの教師集団だと,A先生はこういった,B先生は正反対のことを言った,C先生はあてにならない,・・・などと,子どもから見た教師はバラバラな個人に見えてしまいます。
 一方,子どもたちからだけでなく,教師からも何でもたよりにされる教師がいると,その他の教師に子どもはよりつかなくなります。
 子ども自身に事大主義,権威主義,ご都合主義が染み付いている集団に出会うことがありますが,これは教師集団が育てた資質でしょうか。
 教師集団にとって,リーダーシップの役割分担というのは意外と重要なものかもしれません。

「困った教師」と官僚主義

 教育現場しか知らない教師から見ると、行政というところは官僚主義、お役所主義の固まりのように思えてしまうかもしれませんが、行政から教育現場を見ると、これがなかなかお役所主義的な部分をかなりもっています。
 現場も行政も信用できない一般の人は、その原因を解明して、安心して子どもを預けられる教育をしてほしいと願っているかもしれません。
 ただ、安易な解決方法・・・最も手っ取り早いのは、カリスマによる支配ですが・・・は、より大きな犠牲を強いることになる場合があるので、結論を急がないでほしいですね。冒険主義やラジカリズムのような非日常の理想郷を求めることではなく、日常の中の現実を見すえ、問題の本質を探らなければなりません。
 一見合理的に思えた「実力主義」「成果主義」は、評価のコストが高くつきすぎるなどの問題があり、教育現場で活用するには十分な知恵や配慮が必要です。学力調査の問題性は教育ブログで話題になっていますが、これは別の機会に考えることにします。
 さて、現場の教師ですが、校内では最大で5つのセクトに属しています。
 教科、学年、分掌、部活動、組合です。(実質的に1つのセクトにしか属していない教師もいます。)
 小学校では、ここに学級という一人しか構成員のいない困ったセクトも存在します。
 普通の小中学校では、学年セクトが最も強力です。それは、移動教室などの行事を運営するためにプロジェクトとしての機能が必要だからです。ある学年だけ特別なことを実行しようとすると、他学年からストップがかかったりします。他に、教務部と生徒部(生活指導部)がいがみあうこともあります。高校では、教科セクトが強くなります。
 それぞれのセクトでは、自己の利益を主張する場面があり、行政と同じ図式になることがあります。
 規則や慣例をたてに、プロジェクトの邪魔をする教条主義者、やるべき指導・監督をおこたる事なかれ主義者、ころころと主張を変えるご都合主義者、カリスマをたよる権威主義者、機嫌取りばかりの事大主義者、新しいことだけにやけにはりきる冒険主義者、担任のクラスや受け持ちのクラブの都合しか考えないセクショナリスト、細かいことばかりにこだわって水をさしてばかりいる瑣末主義者、前年度のまるうつししかしないマンネリスト・・・1校当たり、それぞれ最低1人ずつはいるのではないでしょうか。そういう教師ばかりなんていう学校はないでしょうか。
 ただ、官僚制のもとでは、教師たちのそのような行動は必ずしも「困ったもの」ではありません。だからことが進む、という判断の結果であったりします。官僚制は非効率の面ももちながら、大きな不公正や失敗を回避するよさももっています。
 「お役所仕事」という言葉のニュアンスはマイナスのイメージが強いわけですが、そこには確実で公正な仕事という当たり前のプラスの価値が隠れていることを認識すべきかもしれません。
 以上のことをふまえて、学校教育で最も大きな課題は、「十分な学力を身に付けさせていない」ことでしょうか。
 官僚制を、「与えられた目的を遂行するために組織された、権限と責任が明確にされた専門職のシステムのこと」と定義づけすると、学力をつけるという学校の最大の目的、その権限とは何か。責任とは何かを明確にしなければなりませんね。また、そのための学校という組織に課題があるとすれば、それをどうしなければならないか、追究する必要があるということです。

○○主義・○○イズムと教師の逆コンピテンシー

 繁忙期が過ぎ、ようやく時間に余裕ができました。
 さて、自分の考え方にぴったりくる「何とか主義」という言葉がないか考えていたところ、吉岡友治著『世の中がわかる「○○主義」の基礎知識』(PHP文庫)という本に出会えたので、教育の世界での「○○主義」「○○イズム」の位置づけを探ってみようと思います。教育の足を引っ張っている○○主義とは何でしょうか。
 どこから手をつけたらよいか考えておりませんが・・・。
1 教育における「自由」とは?
 リベラリズム、リバタリアニズム、市場原理主義、共同体主義、ネオ・リベラリズム
2 正しい政治→教育とは?
 全体主義、民主主義、ポピュリズム、独裁主義、議会主義、立憲主義
3 よい教育の原理とは?
 相対主義、功利主義、人格主義、保守主義、原理主義、虚無主義
4 教育における正しい判断とは?
 直観主義、体験主義、プラグマティズム、実証主義、合理主義、懐疑主義
5 教育における心のはたらきとは?
 実存主義、行動主義、社会学主義、構造主義、ポスト・モダニズム
6 教育における自他の区別とは?
 利己主義、利他主義、博愛主義、愛国主義、レイシズム、平和主義、敗北主義
7 教育における個性の尊重とは?
 古典主義、ロマン主義、野獣主義、立体主義、未来主義、超現実主義、新古典主義、抽象表現主義
8 教育における満足とは?
 拝金主義、快楽主義、禁欲主義、清貧主義
9 国を愛することとは?
 愛国主義、資本主義、グローバリズム、愛郷心、アナキズム、コスモポリタニズム
10 教育における支配・差別とは?
 帝国主義、コロニアリズム、ポスト・コロニアリズム、オリエンタリズム、フェミニズム、土着主義、原理主義、民族主義
11 教育における信頼とは?
 楽観主義、悲観主義、ダンディズム、日和見主義、スピリチュアリズム、オカルティズム
12 困った教師をどうする?
 官僚主義、教条主義、瑣末主義、セクショナリズム、事なかれ主義、事大主義、権威主義、マンネリズム、ご都合主義、成果主義、社会主義、冒険主義、ラジカリズム
 さしあたり、12番が扱いやすいでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より