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なぜ多面的・多角的な見方が必要か

 マスコミだけでなく,国民の多くは白か黒か,右か左か,格差社会であるかそうでないかなど,公共空間を何か二つのグループに分け,自分は私共空間に閉じこもっていながら,公的な立場の人や私的な立場の人を評価(批判)しがちです。 

 図式としてはわかりやすいかもしれませんが,右や左にも社会の進歩・発展に前向きなグループと,後向きのグループがいるように,世の中は決して二色の世界ではありません。

 学力格差が仮に明らかになった場合でも,下位層は,もともと子どもの学力が低いのか,高い指導力でどん底からそこまで引き上げた結果なのか,学力が高いのに指導力が低いためにそうなったのか,・・・ケースは多様です。学力が高い層も,塾での学習の成果かもしれません。

 ここでは下位層の原因を教師の指導力不足に結びつける行政,保護者と,子どもの経済的な格差やもともとの能力の問題に結びつける研究者や教師たちという二つのグループに分かれてしまうかもしれませんが。

 まもなく歴史の教科書からも「源平の戦い」という用語はなくなると考えられます。

 これは,源氏の中にも平清盛についた一族もいるし,平氏の中にも源頼朝についた一族もいた(一族が両方に分かれるケースもある。子孫の確保のため,この例は戦国の戦いでも続く)ためで,年号で「治承・寿永の乱」と呼ぶのが適当だろうという考え方があります。源頼朝に従った平氏には,北条時政、熊谷直実、梶原景時、三浦義澄、千葉常胤などがいました。

 皇族の立場から見れば,後白河天皇の皇子で,後の皇統につながる天皇は平徳子(建礼門院)を皇后とした高倉天皇で,母方(外戚)ですが平氏の血が流れ続けていくことになるわけで,単純に「平氏の負け」とは言えない面もあります。

 リベラリズムと保守主義とはまた別の軸で権威主義の対極にあるリバタリア二ズムのように,文科省や教育委員会とそれに対立する軸ではなく,完全に子ども重視の理想主義の立場に立った「指導力のない教師は学校から排除する」という立場と,一回採用したら法令違反がない限り,どんなに適性に欠いていても現場で使い続ける立場が対極になるような軸があってもおかしくないわけです。犬山市のような例は貴重です。

 もちろん伝統的な「和」の精神(これは私共空間を作る原動力でもありますが)が残っているうちは,ほとんどの指導力不足教員は守られると思いますが。(管理職の降格には教育委員会が積極的になってきました。)

 警察なら刑事に向かなければ警務,市役所なら人事がだめなら庶務など,同じ組織で違う畑が用意されているのですが,学校は生徒部がだめなら教務部や研究部などと,分掌とはいっても結局全員がかかわっている仕事の違いしかないので文字通りつぶしがききません。せいぜい「副担任」という遊軍におくぐらいです。

 今後は,指導力不足を「人間関係不適応型」「専門的教養(学力)不足型」「指導力不足型」「道徳性不足型」(これらの複合型が「教育職不適応型」)などに明確に分類していく必要があり,そのためにも教師のコンピテンシーディクショナリーの完成を急がなければなりません。・・・すでに「キャリアアップ」「ベイシックスキルアップ」「モラルアップ」などの研修を実施している自治体もありますが。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より