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2007年5月

教育の仕事で完全燃焼は可能か?

 1校目に勤務していたころは、警備の方が帰宅してから学校を出るので、警備会社のセットをするのが日課でしたが、十数年たってまた同じような生活に戻ってしまいました。
 行政のときはタクシー券が使えました(正当な理由で使っているものでしたが、議員の開示請求で気の毒に事務の方の仕事が3日間つぶされ・・・これでまたタクシー券の利用が増えました・・・)ので2時まででも3時まででも仕事ができました(教員の身分で残業手当がつかない指導主事は上司が仕事のストップをかけません)が、今は終電時間との戦いです。
 思い起こせば、十何年前の方が、今より仕事量は多く、内容も濃かったような気がしますが、そのころに比べると今は給料が2倍以上になっているのですね。
 給料に比例させて、あのころの2倍仕事をしていたら、とっくに過労死でしょうが・・・。

 つい最近、行政時代の上司に偶然道でお会いして、その方の専門の講義を学校でお願いすることになりました。とんとん拍子で話が進み、快くお引き受けいただいた元上司は、ある企業の顧問になっていますが、現在の方がより生き生きされているように見えました。70歳近くは90代の方から見れば「若造」だと聞いたことがありますが、「現役」を長く続けられる方は幸せですね。
 間違いなく高齢社会を生きる子どもたちに、私が学校で体験させたいのは、「高齢者はこんなにも元気で生き生きとしているものなのか」ということに気づかせることです。
 これもかつて地元のシルバー人材センターの方がおっしゃっていたことばですが、「理想はぴんぴんコロリ。」
 ・・・最後の講義が終わって教室で息をひきとる80歳代の教師・・・なんてだれもあこがれませんかね・・・。
 

「タイプ別分類」よりコンピテンシーを求める発想を

 教師のタイプ別分類として、○○型教師という分析基準を設けている研究者がいますが、これではいけません。
 教師のコンピテンシーというものは、ある特定の個人だけを対象にしてつくりあげるものではなく、優れた業績を残しているさまざまな教師の行動の特性から質の高い教育に求められるエッセンスを集めてつくるものですので、「Aさんのようになろう」「Bさんを超えよう」という発想ではなく、「Aさんのここをまねしよう」「Bさんからはここを学びとろう」という姿勢を期待するわけです。
 中学生入学当初には、「自分より優れた面をもつ人と友達になろう」「その面を尊重しつつ、学び合える友達になろう」という指導が行われると思いますが、教師の世界には、ここのところが希薄なわけです。
 日本人は個人主義を「私は私、あなたはあなた主義」と誤解している面があり、子どもにとって身近な教育者である教師が紛れもなくその見本を示してしまうため、他人を自分と同様に尊重する姿勢を身に付けさせることが難しくなっています。
 特に、個人の業務の目標を教師が自ら考えようとするとき、「私は私、あなたはあなた主義」が露骨に現れる人がいるようです。個の分離主義とでも呼べるでしょうか。私の言葉では、これを「わたくしども空間」主義といいます。
 教師を○○型という言葉で表現しようとする研究者がいるのも、発想は同様です。
 たとえば「タレント型」より「プロデューサー型」が優れている教師であるというもっともらしい説明ができます。
 これは生徒主体の指導をというだけの意味ですが、これをタレントやプロデューサーの世界を知りもしないで、マスコミがすぐやる「ものの一面化」の手法をわざわざ使って説明しているのです。 
 しかし、・・・今、子どもたちがタレントのような魅力のある教師をどれだけ求めているか、一般の方はおわかりになるでしょうか。TV画面に登場できるようになるまで、多くのタレントは下積みを重ね、力量を限りなく向上させ、だめなら世の中に出られないというプロセスがあるのに対し、教師の場合は採用即デビューですから、同じ子どもがタレントと教師を比較すれば、すぐにタレントに軍配をあげてしまうような状況が生まれます。
 新しい指導案でいちいち模擬授業を実施するベテラン教師がいるでしょうか。TVに出ているタレントは、収録までにどれほどの準備、リハーサルをこなしているのでしょう。教師にとっては年に何回もない研究授業を、タレントは毎日しているようなものです。
 教師には、学者、医者、芸人、・・・などの面をもてなどと初任者研修のはじめの講義で聴かされる言葉がありますが、それは教師に求められるコンピテンシーを示されているのであって、「本当に医者の免許もとろうかな」などと思う人はいないわけです。
 大学や学会などという私共空間で連想ゲームをしていることより、教育の仕事は現場で教師たちと向き合いながら研究することの方が大事ですよね。

私共空間の殲滅に必要な逆コンピテンシー把握

 ある情報番組のキャスターは、私のブログのようなタイプのマスコミ批判を真に受けてしまったのでしょうか。
 公平性をわざとらしく強調し始めていて、思わず「降板まぢかなのかな」と同情したくなりました。
 ある意味でマスコミは私共空間づくりのプロフェッショナルですから、下手に「公共性」を全面に出そうとすると、指導力不足の教師が実践する道徳の授業のように嘘っぽく見えてしまいます。または取材のつめが甘いようにしか写らなくなります。
 地上波を24時間つけっぱなしにしているよと言っているのに、衛星放送のアンテナがあるだけでBS放送分の料金も取ろうとするNHKのように傲慢さを失うと、マスコミらしくなくなってしまいます。
 教育の世界でもマスコミ型の人間が多く充満しており、何かを批判することでしか自分の存在価値を示せないため、子どもに何のビジョンも示せない、「どうせ上の人の言いなりなんだな」と失望されたり、「あんたは批判してても、どうせ被害者は俺たち子どもだからな」などと思われてしまうような教師が目立っています。
 「マスコミ型の教師」には、たいしたことではなくても本当に大事だと思いこませるような技術をもつなどの長所もあるので、一掃する必要はないと思いますが、せめて情報の伝達者ではなく、情報そのものになってほしいものです。
 私共空間の殲滅には、「公共空間では、よい行動をしている人に自分もあわせていきましょう」という指導の指針が必要です。
 ですから教師の世界でも、コンピテンシーを明確にして、「自分もあわせよう」「見習おう」という気持ちで充満させることが有効的ではないでしょうか。人間は、レベルの低いことには喜んで自分をあわせていく弱さがあります。
 私共空間の殲滅には、このような人間の弱さのようなもの、逆コンピテンシーを明確にして、それを公共空間の「リスク」として把握できるようにすることも欠かせないかもしれません。

子どもに甘える教師

 地下鉄車内の予備校の広告に「子どもに甘える親」というコピーが使われていました。
 さまざまな意味にとれます。
 「生徒に甘える教師」「力のある教師に甘える教師」も多く目にしてきました。
 学校は子どもが私共空間から公共空間に巣立つ基礎を養う場ですから、自治活動を重んずる必要があります。ときどき放任=自治の指導だと誤解している教師がいたり、授業以外の校務の時間が増えると、「もっと授業に力を入れたいのに・・・」と不満を口にしたり、「教師は授業が命」という言葉の意味を勘違いして他の仕事をしなかったりする教師が目につき始めます。
 生徒会活動の指導を生徒部の教師にまかせっきりにしたり、部活動の指導から逃げたり、行事の運営すらろくにできない教師は、ただちに非常勤講師になればよいのです。「授業が命」ならこれがベストでしょう。
 スクールカウンセラー並みに時給をアップさせれば、一部の教師たちは喜んで転職するのではないでしょうか。
 生徒数が激減しても学校数はゆっくりとしか減らせないため、小規模校が増えてきているので、中学校の教科によっては一人で複数の学校の授業を受け持つことも可能になっています。
 非常勤講師ではなくてなぜ常勤の教師になっているのかが理解できていない教師はけっして少なくないでしょう。
 義務教育の教育課程では、道徳や特別活動の時間の活動が、公共空間の意義を見いだす重要な経験になるのですが、現状把握ができていない素人が教育課程の基準をつくったために、特別活動が年間35時間というあり得ない数字になっています。卒業式、運動会、文化祭、修学旅行、移動教室・・・これらの事前指導、当日の指導、事後指導に必要な時間はどれぐらいでしょう。部活動をもしこの中に入れたら、どういうことになるのでしょう。部活動はそのねらいや実態からして、どう見ても特別活動です。
 この特別活動の意義を認め、その指導に力を入れたい教師ばかりの学校と、授業だけやりたいという教師ばかりの学校を経験したのですが、前者の場合は「教育現場」というイメージが強かったのに対し、後者の場合は「中途半端な予備校」というイメージしか残りません。
 これこれこういう子どもを育てたいというイメージが教師にあるとして、それは教科の指導だけで成り立つものなのでしょうか。
 総合的な学習の時間を使って特別活動をしている学校ばかりですが、学校だけを責める気にはなりません。

教師は自分のことにどのような興味をもっているか

 「チャンスがやってくる15の習慣」(レス・ギブリン著、ダイヤモンド社)に、よい人間関係を築くための第一歩として、「人は自分にしか興味がない、と知っておく」ということが紹介されています。
 対象がアメリカ人セールスということなので、教育に生かせる習慣ばかりではないのですが、冒頭に記されているこの一文には、
 「日本人はそうとばかりは言えないだろう。小中学生の親は、自分のことはさておき自分の子どものことにしか興味がないのは確かである。」などという感想をもちました。
 行動の基準を他者との同一性におきがちな日本人は、「自分にしか興味がない」のではなく、「自分が所属している私共空間にしか興味がない」のではないかという気もします。
 そこでふと、日本の教師は自分自身の教育という仕事に対してどのような興味をもっているのか?と考えてみました。
 案外職場では「自分」というものが出せず、欲求不満になっている教師が多いのでは?
 だからブログで発散している・・・?
 自分の教育に対するこだわりを10ほど挙げてみると・・・
1 毎年「新作」(オリジナル)にこだわる
2 授業での生徒との討論にこだわる
3 図や板書の美しさにこだわる
4 時間の正確さにこだわる
5 礼儀正しさにこだわる
6 授業での目と目の会話にこだわる
7 テストの問題の質にこだわる
8 アンケートの項目にこだわる(テストの結果との相関を出す)
9 授業をもりあげる発言にこだわる
10 質の異なる数種類の笑いにこだわる
・・・明日には半分ほど入れ替わるかもしれませんが、今思い浮かんだのはこれくらいでしょうか。
 
 よく教師に求められる資質に、「教育に熱心である」「教育に情熱を注げる」などというものが挙げられることがありますが、その教師のどんな行動をもって「熱心」とか「情熱を注ぐ」と言っているのでしょう。
 教育に関するアンケート調査には、論理ではなく感覚だけで回答してしまうような項目が多く、たとえば授業評価でも「わかりやすい授業」「楽しい授業」とは、何を具体的に示しているかは問わず、ただ「とても楽しい」「どちらかというと楽しい」などと選ばせているものを目にします。
 少なくとも、生徒に「自分にしか興味がない先生」などという評価をされないよう、気を付けたいと思います。

なぜ多面的・多角的な見方が必要か

 マスコミだけでなく,国民の多くは白か黒か,右か左か,格差社会であるかそうでないかなど,公共空間を何か二つのグループに分け,自分は私共空間に閉じこもっていながら,公的な立場の人や私的な立場の人を評価(批判)しがちです。 

 図式としてはわかりやすいかもしれませんが,右や左にも社会の進歩・発展に前向きなグループと,後向きのグループがいるように,世の中は決して二色の世界ではありません。

 学力格差が仮に明らかになった場合でも,下位層は,もともと子どもの学力が低いのか,高い指導力でどん底からそこまで引き上げた結果なのか,学力が高いのに指導力が低いためにそうなったのか,・・・ケースは多様です。学力が高い層も,塾での学習の成果かもしれません。

 ここでは下位層の原因を教師の指導力不足に結びつける行政,保護者と,子どもの経済的な格差やもともとの能力の問題に結びつける研究者や教師たちという二つのグループに分かれてしまうかもしれませんが。

 まもなく歴史の教科書からも「源平の戦い」という用語はなくなると考えられます。

 これは,源氏の中にも平清盛についた一族もいるし,平氏の中にも源頼朝についた一族もいた(一族が両方に分かれるケースもある。子孫の確保のため,この例は戦国の戦いでも続く)ためで,年号で「治承・寿永の乱」と呼ぶのが適当だろうという考え方があります。源頼朝に従った平氏には,北条時政、熊谷直実、梶原景時、三浦義澄、千葉常胤などがいました。

 皇族の立場から見れば,後白河天皇の皇子で,後の皇統につながる天皇は平徳子(建礼門院)を皇后とした高倉天皇で,母方(外戚)ですが平氏の血が流れ続けていくことになるわけで,単純に「平氏の負け」とは言えない面もあります。

 リベラリズムと保守主義とはまた別の軸で権威主義の対極にあるリバタリア二ズムのように,文科省や教育委員会とそれに対立する軸ではなく,完全に子ども重視の理想主義の立場に立った「指導力のない教師は学校から排除する」という立場と,一回採用したら法令違反がない限り,どんなに適性に欠いていても現場で使い続ける立場が対極になるような軸があってもおかしくないわけです。犬山市のような例は貴重です。

 もちろん伝統的な「和」の精神(これは私共空間を作る原動力でもありますが)が残っているうちは,ほとんどの指導力不足教員は守られると思いますが。(管理職の降格には教育委員会が積極的になってきました。)

 警察なら刑事に向かなければ警務,市役所なら人事がだめなら庶務など,同じ組織で違う畑が用意されているのですが,学校は生徒部がだめなら教務部や研究部などと,分掌とはいっても結局全員がかかわっている仕事の違いしかないので文字通りつぶしがききません。せいぜい「副担任」という遊軍におくぐらいです。

 今後は,指導力不足を「人間関係不適応型」「専門的教養(学力)不足型」「指導力不足型」「道徳性不足型」(これらの複合型が「教育職不適応型」)などに明確に分類していく必要があり,そのためにも教師のコンピテンシーディクショナリーの完成を急がなければなりません。・・・すでに「キャリアアップ」「ベイシックスキルアップ」「モラルアップ」などの研修を実施している自治体もありますが。

「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む その8 プラグマティズム 

 「こんなにすごい日本人のちから」(日下公人著、WAC)では前回の評価力の項目で、プラグマティズムとアカデミズムを対比させる話が掲載されています(154頁~)。
 日本では評価の世界で、「観点別学習状況評価」という愚策を現場に実施させており、教師を無意味に忙しくさせている元凶になっています。これは対教師の授業評価(「観点別指導力評価」)としては使えても、子どもの学力を測定する手段としては課題が多すぎます。
 評価に手間ひまをかけるのが好きな人の考え方の特徴として、次の7点を挙げています。
1 時間をかければよい評価ができる
2 第三者など評価者をふやせばよい評価に近づく
3 自分より英明な人が世の中にはいる
4 自分の責任を最小にするのが重要と思っている
5 評価の世界にとどまっていれば実行しなくてすむから楽でよい
6 評価を文章にするのはインテリの本務である
7 文章より、評価の数値化を考案すべき
 5などは特にマスコミや評論家、研究者にぴったりの評価観ですが、プラグマティズムの考えに従えば、よい指導をどんどん実行する必要がある。それは、理論の世界では「時間軸」がないから議論が堂々巡りするまで続き、終わりがなくなるが、実践の世界では、時間の制約があるから評価より指導をということになります。
 形成的評価として観点別評価を使うならまだしも、総括に使うとは・・・早く誤りに気づき、「ご破算力」を発揮する人物が文科省に現れてほしいものです。

 よく「テスト=評価」という固定的な見方によって、学力調査について批判している教師がいますが、そういう教師が出題した問題を見れば、その教師の教育の質・指導力は一目瞭然になります。
 テストは評価の側面もありますが、子どもの自己評価に直結させられる指導でもあります。
 そうした指導の一環としてのテストは、学校での学習で最も個人の集中力が高まる時間です。生徒が何をどこまで学ぶことができたがわかり、今後、何を学ぶべきかがわかる。教師が何を学ばせてくれなかったかがわかり、それでも自らどこまで解決できるかがわかる。そういう学力調査観、テスト観がないと、学力向上は望めません。
 当たりはずれを競うような質の低いテストを出すと、自己採点ができません。自己採点をしながら自分の学力の課題を知り、短期間のうちに補充ができるように指導することも大切です。
 
 

「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む その7 評価力 

 内閣府が昨年、「指導力不足教員が生まれる理由」を教育委員会や現場の教師にアンケート調査した結果、教師の約6割が「忙しくて研究の時間がとれない」ことを理由に挙げる一方、「研修は指導力の向上に役立つ」と答えた教師は約3割でした。要は仕事を楽にしてくれという話で、研究・研修で力を向上させる意欲が乏しいことを証明しています。子どもと直接向き合っている日数は年間220日程度でしょうか。それでも研究・研修に使う時間が足りない・・・。自分で自分を正しく評価することができない人たちには、だれも信頼をよせません。
 まだ行政では、教育の仕事に不適応状態にある教師だけを「指導力不足教員」と呼んでいますが、近い将来は定義が変わるでしょう。これは正しくは「教育職不適応教員」で、「魚や包丁不適応すし職人」のようなものです。教師も不幸ですが最大の被害者は子どもと日本の将来です。(「教員としての適性・資質を欠く者は常に一定比率存在してしまう」と答えた教師は約4割。教育委員会と教師の回答割合が近いのはこれだけ。)
 保護者や生徒の教師を見る目が厳しくなったことを理由とした教育委員会は約6割に対し、教師は約3割。同僚のケア不足を理由とした教育委員会は約4割で教師は2割。
 業務を多く抱えている人の中には、不満をもらさずに黙々と仕事に集中して高い成果を上げている人と、不満をもらすことに多くの時間を費やして研究の時間を無駄にしている人と、業務遂行能力が高く次々に仕事が舞い込む人と、いつまでたっても仕事が終わらずそのことだけにいらいらしていて忙しい忙しいと言っている人と・・・もしかしたらこういう評価の目が一番しっかりしているのはまだ現場の仕事のことがよくわかっていない新採教員かもしれませんね。
 
 
 
 

教育の大目的とは何か 「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む その6 飛躍力 

 「こんなにすごい日本人のちから」(日下公人著、WAC)の『発想の飛躍力』(104頁~)で、「大目的が見える人は小目的を捨てることができる」エピソードが紹介されています。そこには発想の転換、飛躍が必要であろうとの話です。

 教育の世界では、大目的が見えていないか、誤った大目的を抱いているために、小目的の行き違いでゴタゴタもめているようなところがあります。

 視聴率かせぎという自己の経済利益を優先し、偽情報を垂れ流して権威を失ったマスコミや人気司会者のように、自己保身や自己弁護にしか聞こえない弱気な言い訳をばかりする教師も公共空間を支える力を失いつつあります。

 公共の電波で私共空間を伝染させているマスコミは風邪のウイルスみたいなものですが、公共空間で私共空間論理を伝え続ける学校は下手をするとガン細胞になってしまいます。(もちろん日本人の発想には、ガン細胞さえ殺さずに、同じ命をもっているものとして扱う精神があります。教師をやめさせずに、短い年数で多くの学校をたらい回しにする、担任をもたせない、分掌で重要なポストにおかない、研修で延命させる・・・など。被害を1点に集中させず、「散らす」ことで問題の解決だと考える。)

 学力調査で測定した国語と数学(算数)の学力は、教育の大目的でしょうか。その結果を公表することが大目的でしょうか。・・・だれもそんなことを考えているわけではないでしょう。しかし、その結果が少しでもよくなるようにすることは、「小目的」にはなると思います。

 しかし、優れた教師たちが全エネルギーを傾けて指導しても、満足のいく学力がつけさせられないとしたら、話は別になってきます。優れた教師たちのエネルギーが、学力が不足している子どもだけにふりわけられたとしたら、できる子ども、伸びたがっている子どもはどうなるのでしょう。

 ここでは、指導力格差ではなく、指導量格差の問題が浮上してきます。
 リバタリアニズム(福祉を重視するリベラリズムと異なり、経済的な自己所有権を重視する自由主義)の考え方をもつ人から見れば、「学力が低い→手厚く指導してくれる・指導の質が上がる」「学力が高い→指導量が減る・指導の質が下がる」は「経済的に不自由→福祉を充実して自由に近づける」「経済的に恵まれている→財産を吸い上げられて不自由にする」と同じ自由主義の論理で否定されるべき事態ということになります。

 公立学校は教育現場というより福祉の現場と割り切ってしまうなら、給食費さえ払わない私共空間の人たちの肩代わりを公共空間がやるべきという話になるのでしょうが、教育の大目的を公共空間で生きることができる人間をつくることと考えるなら、教育と福祉の線引きをきちんとすることが必要かもしれません。

 教師の指導力を向上させ、適切な指導量配分を実現しておかないと、現実的には国立や私立と公立の小中学校やすべての高校がそうなっているように、公立の小中学校の中でも「学力向上推進校」「体力向上推進校」などができて、子どもの力に応じて最も効果が高い教育を提供する学校が増えてくるかもしれません。何を目的に選んでいるかはさまざまですが、学校選択制は、そのふりわけを加速させる重要な装置になります。

 教育の世界には、公共空間に近い論理をもつ塾や家庭教師、予備校、通信教育という学力補充・発展機関があるのが救いなのか、・・・一部の論者に言わせれば、これらが教育を私共空間化させ、学校教育の質を低下させる元凶であるとのことです。

 とても飛躍している考え方のようですが、教育を公共空間に生きる人間を育てることが大目的の国家事業であるとすれば・・・・。私の出た高校では、授業中みんなは予備校のテキストの予習をしていました。テスト前に私のノートをコピーして勉強し、私よりいい点をとる・・・なんて人もいましたね。国語や算数の力なんて言うのは、もしかしたら学校ではなくて塾で身に付けた成果かもしれないので、学力調査の結果が悪かったら、「うちの学校の子どもは塾に通っていないので・・・」と言い訳すればいいだけなのかもしれません。

私共空間の見本市があった、教材の宝庫としての水俣

 私が教育という仕事につく上での原点が、水俣にあります。

 4月30日発行の日経ビジネスで、「ドキュメント 水俣発地球再生 ~環境先進都市が生まれた~」という特集がありました。

 大学時代、教育実習で公害問題を扱うことになり、教材化するために2度にわたって水俣をフィールドワークし、聞き取り調査を行いました。当時お世話になった財団法人水俣病センター相思社の「ごんずい」購読も17年目になり、この機関誌は7月25日号で100号になります。

 「水俣の水俣病」ではなく、「水俣病の水俣」と言われるように、教科書で中学生が学習するこの地名・病名は、現在の住民にとっても非常に複雑な影を落としていると同時に、過去の「負債」やマイナスイメージを、プラス思考で「資産」・変革力に転換するエネルギーを蓄えているまちでもあります。

 患者と企業という単純な図式でなく、患者と住民、行政、医師、研究者、政府、裁判所の関係を解いていった授業を思い返すうちに、現在私が使っている概念の「私共空間」の見本市のようなものだということに気づきました。

 水俣病を「高度成長の裏面」と表現している記者が気になりますが、チッソ社長のインタビューも掲載されているのは評価できますし、昔、自分自身が取材できなかった後ろめたさもようやく解消された気になりました。

 水俣は、社会科教育、環境教育、道徳教育、人権教育・・・さまざまな教育の教材の宝庫です。

 水俣をどのように教材化するか・・・どの教科が専門であるかにかかわらず、教師の資質を図るのに最適な題材かもしれません。「私共空間」の分厚い壁を崩す理論を構築するため・・・今後も追究し続けていきたいと思います。
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より