「こんなにすごい日本人のちから」(日下公人著、WAC)の『発想の飛躍力』(104頁~)で、「大目的が見える人は小目的を捨てることができる」エピソードが紹介されています。そこには発想の転換、飛躍が必要であろうとの話です。
教育の世界では、大目的が見えていないか、誤った大目的を抱いているために、小目的の行き違いでゴタゴタもめているようなところがあります。
視聴率かせぎという自己の経済利益を優先し、偽情報を垂れ流して権威を失ったマスコミや人気司会者のように、自己保身や自己弁護にしか聞こえない弱気な言い訳をばかりする教師も公共空間を支える力を失いつつあります。
公共の電波で私共空間を伝染させているマスコミは風邪のウイルスみたいなものですが、公共空間で私共空間論理を伝え続ける学校は下手をするとガン細胞になってしまいます。(もちろん日本人の発想には、ガン細胞さえ殺さずに、同じ命をもっているものとして扱う精神があります。教師をやめさせずに、短い年数で多くの学校をたらい回しにする、担任をもたせない、分掌で重要なポストにおかない、研修で延命させる・・・など。被害を1点に集中させず、「散らす」ことで問題の解決だと考える。)
学力調査で測定した国語と数学(算数)の学力は、教育の大目的でしょうか。その結果を公表することが大目的でしょうか。・・・だれもそんなことを考えているわけではないでしょう。しかし、その結果が少しでもよくなるようにすることは、「小目的」にはなると思います。
しかし、優れた教師たちが全エネルギーを傾けて指導しても、満足のいく学力がつけさせられないとしたら、話は別になってきます。優れた教師たちのエネルギーが、学力が不足している子どもだけにふりわけられたとしたら、できる子ども、伸びたがっている子どもはどうなるのでしょう。
ここでは、指導力格差ではなく、指導量格差の問題が浮上してきます。
リバタリアニズム(福祉を重視するリベラリズムと異なり、経済的な自己所有権を重視する自由主義)の考え方をもつ人から見れば、「学力が低い→手厚く指導してくれる・指導の質が上がる」「学力が高い→指導量が減る・指導の質が下がる」は「経済的に不自由→福祉を充実して自由に近づける」「経済的に恵まれている→財産を吸い上げられて不自由にする」と同じ自由主義の論理で否定されるべき事態ということになります。
公立学校は教育現場というより福祉の現場と割り切ってしまうなら、給食費さえ払わない私共空間の人たちの肩代わりを公共空間がやるべきという話になるのでしょうが、教育の大目的を公共空間で生きることができる人間をつくることと考えるなら、教育と福祉の線引きをきちんとすることが必要かもしれません。
教師の指導力を向上させ、適切な指導量配分を実現しておかないと、現実的には国立や私立と公立の小中学校やすべての高校がそうなっているように、公立の小中学校の中でも「学力向上推進校」「体力向上推進校」などができて、子どもの力に応じて最も効果が高い教育を提供する学校が増えてくるかもしれません。何を目的に選んでいるかはさまざまですが、学校選択制は、そのふりわけを加速させる重要な装置になります。
教育の世界には、公共空間に近い論理をもつ塾や家庭教師、予備校、通信教育という学力補充・発展機関があるのが救いなのか、・・・一部の論者に言わせれば、これらが教育を私共空間化させ、学校教育の質を低下させる元凶であるとのことです。
とても飛躍している考え方のようですが、教育を公共空間に生きる人間を育てることが大目的の国家事業であるとすれば・・・・。私の出た高校では、授業中みんなは予備校のテキストの予習をしていました。テスト前に私のノートをコピーして勉強し、私よりいい点をとる・・・なんて人もいましたね。国語や算数の力なんて言うのは、もしかしたら学校ではなくて塾で身に付けた成果かもしれないので、学力調査の結果が悪かったら、「うちの学校の子どもは塾に通っていないので・・・」と言い訳すればいいだけなのかもしれません。
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