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道徳の評価について その2 道徳も習得・活用・探究の三段階別評価を

 最近はマスコミが生き生きと?報道できるニュースがなく,意味の感じられない石垣島取材,不幸な「私的空間」を題材に,できそこないの推理ドラマのような番組ばかりのようですね。なぜこういうときに,「いいニュース」を各民放ごとにもっと発掘できないのか・・・。
 英国人講師が殺害された事件では,早い時期に父親がテレビに向かってコメントし,その紳士的態度にマスコミは圧倒されてしまっていたようでした。ある国なら日本製品不買運動が起こってもおかしくないのに,父親は「自分も娘も日本で教師をすることを誇りに思っていた」という表現をしていました。容疑がかかっている人物が怒りの対象であり,日本や日本人全般ではない。これはヨーロッパの感覚では当たり前のことなのでしょうが,東アジアではどうなのでしょうか。
 それより日本人の場合は,「容疑者の家族」に興味の矛先が集中しているかもしれません。報道されなくて当然なのですが,阿部謹也が「世間」として紹介している容疑者の家族の例もあります。・・・犯罪者の親にも道徳性はないのか?・・・とても小中学生に議論させられる題材ではありませんが,「私共空間」という日本独特の問題には目を開かせる必要があると考えています。

 さて,現行の道徳の学習指導要領解説では,「評価の方法」もあやしいもので,「観察」「面接」「質問紙など」「作文やノートなど」による方法を挙げています。観察による方法では,「外に現われた行動からだけ判断するのではなく,態度や表情の微妙な変化から行動の背景にある(・・・これも「外に現われたもの」からの判断になるのに・・・)心の動きをとらえる(単純に「担任うざい!」という心?)など,生徒の内面の理解に努めることが大切である」としています。
 これでは「嫌われている担任」は当然評価が厳しいのは言うまでもなく,そもそも教科担任制の中学校では,担任がそれほど生徒の日常に密着しているわけではないので,「生徒指導のことなら担任より部活動の顧問」と言われるような実態も見られる現状があり,だからこそと言うべきか,部活動の顧問と生徒との関係という「私共空間」が強力になってしまっているという問題にもつながっているわけです。
 「生徒の直面している悩みや心の揺れ」は,「道徳」で扱うべきかどうか。母親が父親の暴力で苦しんでおり,離婚寸前である。転校も間もない。・・・これは「道徳」教育の題材なのか。母親からの虐待に耐え抜いてここまで生きてきた。虐待を受けて育った人間は,自分が親になったら子どもに同じことをする確率が高いという。結婚して子どもをつくっていいかどうか,悩んでいる。・・・これを「道徳」の時間に「教師は生徒と共に考え,悩み,感動を共有していく姿勢で指導に当たる」のか。知らない男が母親の在宅中の昼に出入りしている。この前は夜も泊まっていった。とてもこわかった・・・。明るい展望がもちにくい「私的空間」は無数にあるでしょう。
 「主として自分自身に関すること」は,このような「私的空間」の問題を扱うのではなく,あくまでも「社会」「公共空間」,各教科の指導で育成できる道徳性に重点をおくべきで,そうすれば評価の問題もすっきりすると思います。もちろん「じーっと自分自身を見つめる時間」も大切ですが,それが「学校」という公共空間で行うのにふさわしいかどうか。「寺」「神社」などという特別な環境が整った場所なら別ですが・・・・。
 指導要領解説にあるように,道徳の時間は,各教科等の指導で育成される道徳性を「補充」「深化」「統合」することに重点をおくというのも一つの手で,そこには「学力」的な要素がふんだんに盛り込めることになります。(詳しくは,「道徳教育と各教科の特質」という項目に,教科別に書かれています)
 また,これは教科の評価とも一致しているのですが,私は教育課程部会の審議結果を受けて,「観点別学習状況の評価」の総括に反対の立場をとることにしました。
 そもそも「観点別」の評価なので,「総括」をすることには無理があり,「合成の誤謬」などという難しい話を出す以前のレベルの問題として,矛盾が多く,客観性,信頼性に乏しい。導入から何年も経過していながら,「評価規準」「評価計画」も絵に描いた餅になっている。いまだに「関心・意欲・態度」の評価をどうするかなどという研修をやっている。
 この観点別評価の問題の裏側(本当は表側)には,それができる指導というもの自体が存在しないということもあります。観点別評価は,むしろ,教師の指導力の評価として,教師のコンピテンシーとして使うべきである。これは非常にわかりやすい。
 この教師は,生徒の「関心・意欲・態度」「資料活用の技能」を高める指導をしているか,「思考・判断」の力を向上させる学習方法をとっているか,「知識・理解」について,教材研究の内容等からどれくらいの水準を保っているか・・・など。
 私の指導モデルは,「習得」のレベル,「活用」のレベル,「探究」のレベルを段階的に向上させていくというもので,評価モデルもこれに対応したものになり,道徳の評価にも応用できる。そういうことを主張したいと考えています。
 前にも述べたように,内容に重複が多い社会科の評価方法ともセットで改善を考えることができます。
 具体的な説明は後日になってしまうかもしれませんが,キーワードは,「習得」「活用」「探究」の3段階です。習得段階がA(十分満足)レベルになれば,活用段階がB(おおむね満足)かAレベル,活用段階がAレベルになれば探究段階がBかA・・・という評価モデルです。
 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より