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道徳の教科化について

 直近の話題に関する賛否の表明がブログというメディアのスタンスでは大切だと思うので,「道徳の教科化」について,主に「改正教育基本法反対」「反政府」の立場の人たちから反対意見が多い中,ちょっとだけ勇気をもって「賛成」意見を述べようと思います。
 ただし,「条件付」賛成です。
 まず,基本的に賛成の立場をとる理由は,まず,今までの道徳の時間の無駄が省けること。
 この4月で小学校3年生になる子どもが,最近になって,「心のノート」を本棚に入れていました。これは,1・2年生の副教材ですから,どんな勉強をしたのかなと思って開いてみたら,何の記入もなし。このノートは,書き込みができるのが特徴になっています。どうしたの?と聞くと,2年生が終わる3月に配布されたとのこと。
 学校現場というのは,こんな調子なのです。副教材を買わせて指導する学校もあるかもしれませんが,それがどれくらい活用されているかは疑問です。
 まず,教科になれば,このような税金の無駄や家庭の負担はなくなるということ。
 次に,「教科書」ができることで,教師が安心して指導できるようになるということ。
 ここが条件付ですが,この教科書に掲載する教材は,国語の教科書みたいな「読み物」中心では絶対にいけません。国語の教科の専門家につくらせてはいけない。これは譲れない条件です。ではつくる主体はだれかというと,社会科専門の教師です。
 現行の道徳の内容と改正教育基本法の中身をみると,驚くほど似ています。そして実は,社会科の教科目標とも似ている。社会科の教師が,現代社会のさまざまな問題の中から,,道徳的価値を自覚しやすいものを選び,「教え込み」でなく生徒が授業を創造できるような「学び合い」の教材として教科書化する。これが条件です。それほど難しい注文ではありません。研究熱心な社会科の教師の授業は,かなりの度合いで道徳的です。
 うまくいけば,今まで日本の教育ではタブーだった宗教にもふれられます。国際社会で生き抜く上で,宗教に関する無知は重大な課題となり,日本の将来にとっても命取りになりかねません。
 さらに付け加えたい条件は,道徳を教科にするなら,その専門家を育てること。現行の道徳は,担任が指導することが原則になっていますが,今後は,「道徳」の免許を持った教師が教える。ただしこれは,すぐに実現できるように,免許更新とセットで希望する教師に取得させる。道徳だけを教える教師がいてもよいということです。定数もこれに伴って変更する。
 道徳の教科化に批判的な人の大方の意見は,「どう評価するのか」ということですが,これは現行の指導要録の「行動の記録」をより具体的・計画的に評価できるシステムを構築する。
 現行の指導要録では,「反社会的」「滅公奉私」の行動をとる生徒を,記録の上で残せない問題がありました。ですから,テストの点はとるが,清掃はサボる,遅刻は多い,人を傷つける・・・そんな生徒でも優秀だと思われて進学してしまう仕組みがありました。「私的空間」を重視する倫理と違って道徳の場合は「公共空間」「社会」での生き方に重点がおかれます。自治活動や部活動がさかんな学校では,非常に評価しやすい内容になります。
 「国のため」というと「戦争で死ぬ」ことしか頭に浮かばない人が50代の教師に多いようですが,今の小中学生はまだ「国」とは何かがわかっていませんし,徴兵制の国でもなく,天皇は象徴(今では平和と国際親善の象徴の色合いが濃い)ですから,「戦前に逆戻り」というのは絶対にありえません。近代日本があの形をとれたのは,天皇権威を政治に利用できたからであって,権威のない政府や軍部だけでは成立しなかったのです。
 最後に賛成の理由をもう一つ。道徳は,総合的な学習の時間と同じように,地域や社会の人材を生かしやすい領域だということ。身近な地域の人々による教育参画が促せるようになります。
 私なら,「公共空間」に生きるとはどういうことか?「私共空間」の誘惑にどう打ち勝つか?などをテーマに授業をしたいですね。 

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教育」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。
新潟県の小学校教員のhirarinと言います。
私も「道徳の教科化」についての新聞記事を読んだ時、まず頭に浮かんだことは「評価をどうするのか」ということです。
倫理と道徳の観の違いの文脈から、少しは光が見えては来たのですが、やはりまだ腑に落ちません。
子どもって見えないところでいろいろなことをしています。マイナス面だけではなくプラス面も。そこまでの「私的空間」を含めて評価できるのかと聞かれれば答えはNOです。
なかなか難しい問題です。

話は脱線しますが、例えば大学入試で、筆記試験だけで落ちたと言うのなら「勉強が足りなかった」で納得しますが、面接試験だけで落ちたというなら「何が悪かったんだろう。私の人間性かな。」と何とも言えない感情になるかと思います。
子どもたち、保護者が通知票の「道徳の評価」をどう見るのか。少し恐い気がします。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「中国古典の言行録」より
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    「春秋の色」より
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    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より