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犬山市の全国学力調査不参加に喜んでいる自治体

 日本人は、何か大きな変革が必要なときに、「優れたものはみんな他から(外国から)入ってくる」「政府などの公的機関がやることは間違っている」という意識をもってしまっている。これに類する主張をしている人は少なくないようです。
 もちろん優れた制度や文化を外国から学ぶべきであることは、日本人だけに限ったことではないですが、特に日本では百マス計算のように、「これこれこうすると必ず効果が上がる」などという評判がたったものにすぐ食らいつく。フィンランドの学力が高い(このデータの信頼性はだれが保障しているのか知りませんが)と聞けば、いくつもの団体が調査団を送る。(これも日本だけではなかったようですが。) 「同じようにやれ」と言われるのはいやだが、自分から進んで「同じようにやる」ことには非常に熱心である。
 小学校では特にこの傾向が強く、有名人、有名校、有名団体の研究会への参加が非常に熱心です。もちろん研究・研究に熱心なのは教特法に定められているからという理由ではなく、当然もっているべき態度なのですが、「有名人」のまねを薦めようとする団体、また、「追試」といってまねをさせて自分の実践の効果を実証しようとする団体が多く存在します。会に参加するとその独特の「空気」に違和感を覚えます。
 入学当初から学力に課題のある子どもを多く見てきている中学校の立場から見ると、「これでは無理もないな」と思える実践に、多くの教師が共感している。「よくぞ言ってくれた!」と批判的な意見を協議会で述べた教師に対しては、実践者ではなく、他の参観者が実践者をかばうように意見を返す。異様な空間です。
 私が行政にいるときに小学校に要求したのは、「百マス計算をいけないと言っているわけではないが、本来他のことに時間をとるべきときに、それをやってはいけない。」「字が非常に雑になっている子どもが多いが、速く書く指導と同じように、丁寧に書く指導も重視してほしい」「小学生は集中力がないという思いこみで授業計画を立てないでほしい。しっかり練られた教材と計画があれば、百マスで時間をつぶさなくても子どもの学びは豊かにできる」ことで、これはもちろん保護者からの苦情を受けてお伝えしたことです。
 しかし、ある校長が言ったように、楽ができる上、自分たちの力量の差が隠せる取り組みなら、教師はしがみついてはなれない。・・・中学校に入学した段階で、担任の力は一目瞭然になるのですが・・・と言っても、「それが小中連携がうまくいかない原因だな」と返されてしまう始末でした。
 ものまねでない、学習指導要領が示す目標を実現することに重点をおいた取り組みをしている代表的な自治体が、犬山市です。法令の範囲内で、義務教育のあるべき姿を目指している。すばらしい取り組みです。
 犬山市の教育改革は、東京大学基礎学力研究開発センターに設置されたプロジェクトチームの協力のもと、その評価が実施され、岩波ブックレットにも収められています。(「教育改革を評価する」)
 このブックレットから各学校が学べることが多いとも思う一方、「やはり犬山でもそうなのか」と感じることも多くあります。
 たとえば、教師の評価について、記名によるアンケート集計を拒否する論理。これは、記名による集計では、教師ごとの評価につながるおそれがある。第三者機関による調査なのに、それにも協力できない。記名による集計をすると、「うそを書く」教師が出てくる。・・・「ヤバい経済学」でも紹介されていたように、たとえば自分の給与の増減に直結してしまうようなデータを出すときに、教師の一部に虚偽の申告をする者がでてくる。給与にかかわらなくても、学校の信頼を損ねないようにするため、データの改ざんをする。・・・「企業と全く同じではないか」と思う人がいるかもしれませんが、企業と学校ではどこが違うかというと、企業ではデータを改ざんした本人がクビになるだけでなく、社長も責任を問われて辞任に追い込まれる。学校では、教育委員会や校長が謝る場面があるかもしれませんが、本人を含め、当然処分などはない。「本来協力しなくてもいい調査なのだから、嘘をついてもかまわない」という「私共空間」論理が、学校にはあるわけです。
 前回の全国学力検査では、解答を生徒に見せながら実施した県がありました。
 学校には、どういうわけか、こういうことをしても仕方がないだろうという論理がはたらく。 
 これは、教師の中で、改革に対する積極派は何%いるかというと、犬山市でも20%しかいない・・・という現実からもうなずけます。教育長は、これを「20%もいる」と認識しています。1つの学校で30人教員のうち5~6人も積極的な人間がいたら学校経営を完璧にできる。ビジネスの世界にも、「2:8」の法則がありますが、教育の世界でもそれでいいのでしょうか。
 しかし、教育長の言うように、20%の教師の力で教育が変えられたとして、その成果も上がり、学力調査の結果として裏付けられたら、日本という国の特質として、「私の自治体も犬山市のようにがんばらないといけない」というムードが一気に高まります。
 犬山市の学力調査不参加表明で、一番ほっとしているのは、教育のことがよくわからないで事務局まかせにしている教育長たちでしょう。このままでいけば、「あそこはあそこでがんばっているようだが、成果はわからないし結果が出ていないんだから、まねする必要はないだろう」という話で落ち着いてしまいます。 犬山市は「文部科学省の言うとおりにしないようにがんばっている」わけではなくて、「文部科学省や学習指導要領、各種法令の路線からはみ出さない範囲で、できることをしっかり実践している」のです。一部には反対だけしていれば満足できる「私共空間」の住民もいますので、注意しなければいけません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より