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2007年4月

学力調査の結果の公表を見据えて

 自治体が実施している学力調査や今回の全国学力調査で、仮に基礎学力の定着が不十分であると客観的に判定される学校が明らかになったとします。
 当然、学校や教育委員会は、何らかの対応をせまられます。まさか、教育社会学者のように、「ここの地域は経済的に恵まれていない家庭が多いから、このような学力で精一杯です」などと保護者に言えるわけがありません。社会的弱者であることを前提に、社会的弱者のままであきらめさせることが教育の役割ではありません。
 教師は、「競争を学校内でも導入し、得点力の向上をめざす」などと言うべきでしょうか。どうも発想があまりに短絡的な教師が多いようで、校内の研究・研修体制の不備、学校評価と教育課程編成時のいい加減さ、教師集団の問題解決能力の低さを露呈しがちになります。
 まず、学習指導要領の目標に照らして適切な指導をしてきたのなら、それを裏付ける資料を公表すればよいのです。学校公開だけでも十分です。各教師の研究・研修計画やその結果を発表する場を設ければよいのです。紙上でも十分です。指導が十分で、評価も高いにもかかわらず、学力調査の結果が悪かったとすれば、問題は明確です。
 もし指導や評価、研修が不十分だったとしたら、それを改善する方法を考え、理解を求めればよいのです。ただ、そのような現状があったとしたら、税金を増やして教師の数を増やすことは国民の同意を得られないでしょう(教師の給与をカットするなら別ですが)。ベテランがだめで新採が優れている場合もあるでしょうが、数は限られます。
 現行の学習指導要領の趣旨を考えれば、「競争主義を導入する」ことをねらいとしてはいないことは明らかです。ただし、個性の伸長を含めた「能力主義」は、規範意識のようなものも含め、教師にも子どもにも求められる時代になっています。
 仮に、学力調査の結果の公表によって、点数による学校の序列が図られたとします。そのとき、教師が子どもにどのようなメッセージをかけられるかが、教育の品質というものです。
 デメリットをメリットに転換させる創造力は、もしかしたら子どもの方がもっているかもしれません。それを発揮できる学習機会は、総合的な学習の時間で保障されています。内容とその質を保障するのは教師です。

開私公共の理念を教育にも

 個人と社会の関係でWin-Loseの例として、戦前のような滅私奉公と、現代のような滅公奉私の状況をあげていますが、私の用語ではいずれも「私共(わたくしども)空間」の論理となります。

 個人を他者関係のなかで活かしながら、人々の公共性を開いていくという意味で、金泰昌が最初に用いた「活私開公」という言葉を、公共哲学では使っています。私の用語では、これが「公共空間」の論理で、個人と社会がWin-Winの関係となります。「私」という文字も含めてその理念を伝えたければ、「開私公共」が近いでしょうか。

 公共哲学では公私二元論にかわる「個人と社会」観を「政府の公/民(人々)の公共/私的領域」の相関関係としてとらえていますが、政府の私共空間民(人々)の私共空間を要素に入れれば、現実の社会のモデルになり得ます。

 教育の世界では、文部科学省という「公」、学校という「公共」、家庭という私的領域のほかに、課題のある一部の教育委員会や教師集団、家庭という「私共空間」が存在します。子どもたちも居心地のよい「私共空間」をつくり、そこにこもりがちです。

 子どもの教育に最も影響力が強いのは、言うまでもなく教師集団です。その「私共空間」の空気が、如実に子どもに伝染している姿を学校訪問で多く目にしてきました。

 子どもに自信と誇りをもたせようと、積極的にその姿を公開している学校がある一方、子どもの力を軽視し、外部に見られないように努力している学校(見せなければならないときは著しく不自然な姿になる)もあります。複数の学校に訪問する機会をもつ立場になってから、ここまで教師たちの影響力は強いものなのかと愕然としました。同時に、ここまで校長や副校長の影響力が小さいのかとがっかりもしました。課題の多い学校の管理職は、教師集団の「私共空間」に完全に取り込まれ、公共空間の空気を吸えず、その論理だけでなく自己の存在理由も喪失していました。

 教育管理職の研修を受けながら、教育委員会で仕事をして、現在の管理職の課題もそれこそ無数にまとめあげてきましたが、それを教育失敗学であまり紹介していないのは、学校経営をはばむ教師の私共空間の強固さが尋常でないからです。

 管理職と教師たちの関係を、歯車モデルで説明したことがありました。

 完全に歯車が食い違っている学校。それも歯と歯の形が違う学校と、軸がずれている学校。

 管理職の歯車が小さく、教師集団の歯車が以上に大きい学校。管理職側は一生懸命に回っているが、教師集団の回転数がゆっくりである。しかし、時間がたてばきちんと回転するからまだまし。

 どちらかの歯車がすり減っている学校。空回りして動きがなくなっている。

 しっかりと歯車がかみ合いながら、両者が逆回転し合い、動きが停滞している学校。そのうち2人しかいない管理職の歯車がすり減っていく。

 保護者は、どのような学校に子どもを通わせたいと思うのでしょう。そもそも実態のわからない学校に、子どもを通わせることができますか。平成14年の「小(中)学校設置基準」は何を定めたのでしょう。

 文科省、学校、教育委員会、家庭、子どもと、すべての歯車がかみ合うような教育の姿を求めて、教育を公共空間に開いていくのが、教師のコンピテンシー研究の役割です。

 「実行力」や「調整・統合力」の欠如にばかり目を向けてきたのが「教育失敗学」ですが、何とか「創造力、変革力」に目を向ける「教育創造学」に発展させたいものです。
 

経済格差は学力格差の背景。学力格差の真因は指導力格差。

 たびたび引き合いに出して恐縮ですが、教育社会学者の苅谷剛彦が学力格差の原因は経済格差にあると言ってから、指導力のない教師たちに安心感を与えてしまいました。それが指導力格差の拡大を招きました。
 マスコミと同じで、そういう教師たちが攻撃できるのは文科省や教育委員会しかありません。ろくに食事も与えない親、学習意欲が乏しい子ども、指導に工夫をしない教師たちは脇において、要求だけは熱心です。
 上位層があまり抜けていない公立小学校で、教師の指導力格差は目に見えやすい問題です。
 41人学級でも立派に学力をつける教師がいる一方、10人以下の学級を崩壊させる教師もいます。こういう教師の指導力格差に、私共空間の主人公である教師は目を向けませんが、そういう教師以外の公共空間に生きる人々は(指導力不足の教師にあたったときに特に)不満を抱いています。学力調査の問題でもわかるように、社会生活に生かせる力をつけてもらうことを親は望んでいます。「経済的に困難な家庭が多い地域なので高い学力は期待できない」という前提の教師が多い学校(学級ごとの格差が指導力格差の根拠となる)と、「経済的に困難な家庭が多い地域だからこそ最低限の学力をつけさせよう」という意欲の高い教師の多い学校とでは、必ず格差が出てしまいます。ある学校では、3年かかって教師を総入れ替えし、それを実証してしまいました。

「友達を大切に」の落とし穴

 中学校では新しい学級が編成された4月に、学級委員や係などが決められた後、多くの場合「学級目標決め」というのが行われます。

 「ALL FOR ONE,ONE FOR ALL」などの定番の目標がありますが、「私共空間人間」が多い子どもたちには、「友達を大切にしよう」というスローガンは危険です。

 「友達でなければ大切にしなくてよい」というメッセージに誤解されてしまうからです。

 ALLをALLとして認識できれば、公共空間の人間になれますが、地域では集団遊びがなくなり、学校では個性尊重の意味を誤解している教師に「ALL FOR ONE」などといわれるものですから、ますます子どもの孤立化、よくて私共空間人間化が進んでいます。「ALL」というものの認識力が著しく低下していることは、集団行動をさせると一目瞭然です。

 学級目標ですら、前回の会社の5つの失敗則にあてはまるようなパターンが多いことに驚きました。

教育の失敗の真因は何か

  「戦略の失敗」という過去の錯誤を繰り返すため、スローガン倒れ、中途半端な合理化、流行への迎合、相次ぐ目標未達成という現象がひきおこされる。これは企業の失敗を紹介した「会社が繰り返す5つの失敗則」(丹羽哲夫著、中央経済社)で紹介されていることですが、学校教育、教育行政ではどうでしょうか。
 この本では、失敗の「真因」を次の5つであるとしています。
 1 変化感知への無関心
 2 組織力学の放置
 3 状況設定なきスローガン
 4 懸案事項の先送り
 5 業界横並びの新規事業開発

 普通はこれらが複合化し、過去の錯誤が繰り返されているということです。これらの真因のメカニズムを解明し、系統的アプローチを創造していく必要があるとしていますが、教育にもうまくあてはまれば、教育失敗学→教育創造学への道筋も見えてきそうです。
 ここでは真因やその類似現象を整理しておきます。
 真因1 変化感知への無関心
 ~変化を肌身に感じることを嫌う~

 類似現象
A 顧客の声を無視する
B 今後の変化が自社にどのように影響するのかを読めない
C 前例のない変化をすり替える
D 成功事例が出るまで待つ
E 顧客ニーズの変化を探るシステムがない
F 絞り込むことを嫌う
G プロダクトマネジャーが社内調整に忙殺されている
H 市場で認知されなくなった事業を延命させている
 これらは受身の対症療法こそ無難の風土が背景で、経営戦略を誤らせている原因になっています。     

 真因2 組織力学の放置
 類似現象
A 既存事業を延命させる
B 部門のモンロー主義を徹底する
C 社内に危機感がない
D 各部門の開発テーマが多すぎる
E 同じ課題を取り上げている
F 新経営手法を入れてもすぐに消える
G 組織を変えるが何も変わらない
H 総論賛成・各論反対がつねに行われる
 これらは、経営戦略の実現をはばんでいます。

 真因3 状況設定なきスローガン
 類似現象
A 誰も理解できないビジョン
B 流行語の羅列
C 構造的課題を列挙しているのみ
D 事業全体を貫くシナリオがみえない
E 会社のブランドイメージに反する事業展開
F 戦略を担う技術開発が見込めない
G グループ企業の事業展開に触れず
H 事業ごとのミッションが不明確
 状況設定なきスローガンは有害無益です。

 真因4 懸案事項の先送り
 類似現象
A 会長マター事業の売却中止
B 老朽工場の閉鎖見送り
C 聖域部門の解体見送り
D 問題視される子会社の清算先延ばし
E 社内抗争を起こす相談役・顧問の廃止見合わせ
F 申し送り事項の中断先送り
G 旧態依然とした代理店・系列店の温存
H 弊害のある天下り人事の継続
 これらは悪循環を招いている。

 真因5 業界横並びの新規事業開発     
 類似現象
A 同業他社事業の模倣
B 役員の思いつきによる事業案
C 報道された成功事業の模倣
D 独自ビジネスモデルの同質化
E アイデア募集も先発企業の改善版
F 新規事業責任者を異動できる部長とする
 これらはリスクを増大させています。
 ざっと見ただけでも、同じような組織体としての学校や教育行政の課題が見えてきそうです。

「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む その5 引き受け力 

 「引受力の正体は自信過剰と無責任である」・・・事の成否を考えれば、新しい政策の立案とその実行を引き受けることは、そう簡単に引き受けられるものではありません。政策を批判することはだれにでもできることです。
 教師は現実に、学力に課題がある多くの生徒を「引き受け」ていますが、そこでの教育の失敗原因は、教師の無責任さと悲観的他者評価にあります。
 たとえば、教師たちは、全国学力調査の実施の意義について、どのようなニュアンスで子どもに伝えたのでしょうか。
 自分の指導の結果(目の前の子どもたち)に責任を持とうとしている教師と、そうでない教師とでは、明らかに子どもに与えた印象が異なると考えられます。
 「税金の無駄遣いだ」などと子どもの前で口走らなくても、政策に批判的な教師の姿勢は子どもに伝染します。
 「成績に関係ないからしっかりやらなくても関係ない」という私共空間人間を容認した教師はいなかったでしょうか。解答を終えた生徒に向かって「よく耐えた」などと賞賛するような教師はいなかったでしょうか。
 解答を集めたときにさっと目を通し、その結果について責任を感じた教師はどのくらいいたのでしょうか。
 自分自身が育てている人間に対して「うちの子どもはできない」「うちの子どもはまるでだめだ」「力が落ちてきている」と嘆いている教師がいるようですが、私には「こんな子どもを引き受けたくて引き受けているのではない」「少なくとも私のせいではない」と言っているように聞こえます。子どもの立場で言えば、「この人に教育してくれと頼んだ覚えはない」ということです。
 「(平均点が下がるから)受けなくていいよと言いたくなる」という教師のブログを読む子どもたちはどう思うでしょう。
 引受力が注目された人の成功の源は「楽観的自己評価とチャレンジ精神」だったそうです。
 犬山市にもこう言いたかった。「断って後悔するより、引受けて後悔せよ」

「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む その4 政策研究 

 政策研究というものは、「私共空間」内で行われているものが多いようです。
 「研究費の出所を見れば結論が分かるような研究がふえた」「官庁の行う政策研究は官益・省益・局益に偏していた」などの記述が見られます。
 「政策研究の仕事に手をそめるとたくさんの病原菌に感染する」として、いくつかの例が挙げられていますが、ここで教育関係者が陥っているかもしれない問題点を重ねてみると・・・。
 国家依存症?・・・問題の解決を国家権力の発動に求めるのは、一番安易な道だとは承知してもやめられない・・・犬山市のまねができる自治体が少ないのは、犬山市のような苦労を買ってでもやるような姿勢がなく、国家依存症が強いからではないか・・・。
 密室の自己満足と自己肥大?・・・ブログの中で、自分もそうなっていないか、知人に点検してもらわなければ・・・マスコミは、他人には結果の検証や責任の追及を求めるが、自分にはしない・・・こんな構造が伝染していたら困ります。
 (良心的な人だけがかかる病気だが)自信喪失病?・・・目標が低ければ別だが、教育の目標がある程度高いと、それが毎年毎年達成できない自分に自信がもてなくなるのも無理はありません。
 国立教育政策研究所という場所がありますが、ここが果たしている役割は何だか一般の先生方はご存じでしょうか。HPがあるのでメンバーもわかりますが、もう少し「政策研究」の名にふさわしいことをやってほしいものです。
 

教員異動の戦略を問う

 ある政策への批判に対する想定・対応能力のレベルは、文科省や再生会議でもある程度は向上しているようです。
 事前に用意されていた「結果の不振校に援助を」というコメントは、保護者の立場では文句なし、教員の立場でも「指導力の高い教師の補強なら歓迎」というムードだと思います。ただ、これは足し算の結果ですが、教師の力が向上しない限り合計は変わらないので、引き算になる学校も出てきます。
 今回は初めての調査なので、「上下の格差が大きい」ことはわかるかもしれませんが、「格差が広がっている」かどうかはわかりません。教員の異動の目的が、「格差の縮小」に向かうとき、それは底上げと同時に天井下げ?がおこるようなことにはならないでほしいと思います。
 今後、教育委員会が権限を握っている、教員の異動の戦略がどのような形で語られていくかに興味があります。私は極論かもしれませんが、教育全体の総合力UPのためには、格差が拡大するように異動させる戦略が必要だと思います。「学力不振生徒を見捨てるのか」という声が保護者から出てくるかもしれませんが、そこで働いている教員免許をもった立派な公務員を信頼してもらうしかありません。
 また、今回の学力調査の批判については、学校や地域の序列化の問題に焦点があてられていますが、学力を測る絶対的な尺度というものがない以上、今回の調査内容ではこの順位でしたということであって、特に問題にはならないと考えます。
 順位・序列の明確化は、教員以外の世界では常識です。企業業績でも、ラーメンの人気店でも、行政サービス度でも、政治家の選挙でも。教育の世界にそれを導入しようとするとき、コンピテンシーなどの尺度や基準がないため教員は反対します。しかし、今回の調査では、簡単に採点できるレベルの入試問題のような問題のタイプだけではなく、習得した知識を活用する力の判定に焦点を当てるという意図が明確です。ですから、単に知識があるかないかということだけではなく、活用力があるかないかも判断できるのは大きなメリットです。
 「知識はあるが活用はできない」というタイプの学校や生徒が明確になると、文科省は、観点別評価が実効性をもてるような指導のあり方を提示してくると思います。思考判断や資料活用の技能を測定することが不可能な指導をしておきながら、評価だけはやっている。それも不正確に。だから指導を改めろ。・・・ここまでは正解ですが、私の主張は、指導は改めろ。しかし評価は今回の学力調査のような問題を考えて出題し、判定すればよい。
 評価の観点は習得、活用、探究の3つのレベルで考えるだけ。これは問題さえ作れれば、だれでもできます。
 また、以前の繰り返しになりますが、子どもは学校だけではなく、塾や家庭教師、通信教育でも学習をしています。そういう意味では、入学試験の結果から学校の教師の指導力を図るというのは無理な話ですが、今回の調査では、ある程度それが判定できるかもしれません。

戦略は教育長が命ずるべき

 学校現場では、ほとんどの教師は目の前のことで精一杯(このキャパには個人差が大いにありますが)です。学校をこう変えたい、こういうことにもチャレンジしたい、そういう意欲をもっている教師は少なからずいると思いますが、「またさらに仕事を増やそうとするのか」というマイナスの空気が改革を阻んでいます。
 ブログのコメントで、偉そうにこんなことを書いてしまいましたが、管理者の方はたいへん謙虚な方で、まっすぐ受け止めてくださいました。本来、こういう指導をするのは校長・副校長です。彼らに対して指導ができるのは教育長です。数字だけのチェックで教育課程届を受理する教育委員会では、存在理由が希薄です。
 

先生の学校では、次年度の教育課程編成をどのようなスケジュールで、だれがどの程度参画して実施していますか。そこに外部評価を含めた学校評価はどのように反映されていますか。改革のチャンスはそこにあります。たとえば教科担任制の実施なら、他校の見学の実施、その報告会、メリデメの検討を研修で実施するなど、地固めが必要ですよね。そして人的・物的・金銭的土台を管理職に固めさせる。戦略を年間の進行管理表にまとめてみたらいかがでしょうか・・・。イニシアティブをとりやすい教務主任や研究主任をまきこんで。

キャッチアップ思考は創造の敵か?

 日本は、アメリカなどの企業が開発した商品を、より安く高品質なものに作りかえることで高度成長を実現した側面があります。このようなキャッチアップ思考は、自分自身がその対象になってしまった現在、模倣に固執する悪癖として敵視されるようになりました。
 教育界でも、百マス計算をはじめとした「すぐ使える・・・・」に教師たちが飛びつきやすく、マスコミもそのリード役になりがちです。
 このような模倣は、教育の創造の敵なのでしょうか?
 私の立場は、決してそうではなく、日本がかつて他国の技術や製品を安いコストで高い付加価値をつけることに成功したように、教育でも模倣による一時的な失敗や小さな成功を乗り越え、新しく価値ある実践に発展させるようなキャッチアップ思考が必要であると考えます。
 ですから、たとえば研究授業に参加したら、その指導案を自ら改善して、自分の学校に合った形の指導案にし、それを実践して、さらにその成果を持ちよって検討しあうような研修を充実すべきだと考えてます。初任者研修や、10年経験者研修ならそれが可能だと思います。

責任転嫁に覆われる教育問題

 「改革」や「創造」という言葉は、特に教育の世界では完全にインフレ状態になっています。(今までの焼き直しや付け加え、やるべきだったのにやってこなかったことを始めるだけでそう呼んでいる)
 自分自身の教育実践でも、他の人がやっていないことをやるフロンティア精神を大切にしようと自覚する一方、できて当たり前のことをやっていくことが仕事の9割以上なので、「教育の改革」や「教育の創造」と偉そうに語りたくないという思いがあります。
 ただ、日常的な「教育の失敗」にほとんど目が向けられず、教育行政の失敗(または失敗の可能性)ばかりに目がいってしまって、教育問題が完全に責任転嫁に覆われている現状は望ましくありません。
 教育の失敗は、畑村「失敗学のすすめ」が世の中にでるはるかに前からほとんどの親や教師、行政が自覚してきたことですが、「失敗は許されない」という考えから「失敗の存在自体も許されない」(いじめも同じ)という誤った観念を生んでしまったために、問題の解決に近づくことができませんでした。
 教育の成功に近づくためのチャンスも、本当はこれまでたくさんありました。しかし、失敗への自覚や成功への強い願望、創造力が現場には足りなかった。成功志向が強い犬山市でも、成功の名誉を独り占めしようとする(あるいは失敗の責任を文科省に転嫁しようとする・・・これは表裏一体)ばかり、結果責任を負おうとしないので、失敗が目に見えず、結局問題は解決されないまま終わることになります。
 教育に成功している教師とは、どんな教師なのか(コンピテンシー)。なぜ成功しているのか。成功した結果に対するイメージは具体的に形作られているのか(本来は教育課程)。その教師の成功の影に隠れた失敗とは何か。成功と失敗の分かれ目はどこか。成功すべき教師の足をひっぱっているものは何か(仕事の集中や委任、行政の委員との兼務、他の教師のフォロー等)。現場に立たせること自体が失敗である教師をどうするか。そういう教師を任用した行政の失敗をどうするか。
 現場の教師の立場でこれらの問いにきちんと答えていく必要があります。
 あえて羞恥心には目をつぶり、教育の失敗を本来想定していた成功に近づけるためだけでなく、今までになかったタイプの成功を創造することをめざしたいと考えています。時間はかかりますが、始めは歴史や経営の理論や実践結果の焼き直しでも、教師のコンピテンシーの創造をめざしていきたいと思います。

「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む その3 想像力・想定力・対応力 

 いじめ問題解決の糸口が,東知事と記者クラブの対立から見えてきたような気がします。

 いじめ対策でも、子ども・教師・保護者にとって共通の力として、想像力・想定力・対応力の3点セットが必要です。

 教室でいじめがおこっている状況を想像してみよう。いじめをしている人たちの気持ち、いじめを受けている子どもたちの気持ちを想像する。なぜそうなったかを想像する。けんかか。私共空間論理か。教師の助長か、放任か。

 そこから次におこることを想定してみよう。いじめられた子はどのような行動の選択があるのか、自殺から自力解決まで。いじめた子どもたちはどうなるか。助長したり見過ごしたりした教師はどうなるか。

 次にどのような対応が必要になるか。いじめを受けた子どもは。いじめをしている子どもは。それをただ見ていた子どもは。教師は。校長は。保護者は・・・・。

 マスコミは、最も想像力・想定力・対応力がなく、それを発揮する機会もほとんどない校長や教育委員会と保護者の対面だけを報道し、それがいじめられた子と保護者へ報いる道だと思っているようですが、肝心な当事者たちへの「踏み込み力」を持たないのがマスコミの限界です。

 マスコミは自分を批判してこない相手しか批判しませんから,東知事のような想定外の人物に出会うと,思わず公共の仮面がはがれてしまって「編集権」などという私共空間論理で自己正当化を図ってしまいます。想像力だけはたくましいが想定力と対応力がないのがマスコミの特徴です。だからいじめる人間と全く同じ精神構造です。マスコミの影響力は大きいので,いじめをする子はマスコミの真似を安心してし続けることができました。

 ただ,そういうマスコミの特質を最近はマスコミ自身が報道(これが本当の「真実に報いる道」)してくれるようになりました。定例記者会見で知事と喧嘩した幹事らしき記者は,どう見ても横柄で私共空間的でした。マスメディアに対する正しい批判的な目が開かれようとしています。もしかしたら,これがいじめ問題解決の糸口になるかもしれません。

「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む その2 踏み込み力 

 「上の人の責任回避」「日頃の勉強不足」「問題の先送り」「不作為に罪なし」「我が身第一」などの踏み込み力不足を、日下公人は「仕事の抱えすぎ」「職務怠慢をとがめない」「個人の素質の劣化」のためとし、予算の削減、失敗や不作為の責任を追及し、処罰する(一罰百戒)、「全体への奉仕」とは何かが分かる人を探し起用することを対策としてあげています。しかし、気概英知がないからこれらに踏む込むこともできない・・・・。
 教育の場合には、たとえば教科指導、総合や道徳の指導、部活動の指導の一部を民営化すること、「誤った指導」「子どもに力がつかない指導」「偏った指導」をもとに処分を敢行(給与に差をつけるのではなく、指導はできて当たり前という見地から、特別昇給はやめ、減給のみを適用する)ことが「踏み込み」例でしょうか。・・・そんなことできるわけないよ・・・ということをやるのが「踏み込み力」であり、「改革」です。
 教育改革という名称で、30人学級を目指したり、52分授業を実施したり、土曜授業を増やしたりと、たいした効果も期待できない(あるいは逆効果も多い)小手先の政策が続いていますが、こんなレベルから脱却することはできるでしょうか。
 全国学力調査反対など、文科省や教育委員会の政策の批判に気概をもっている教師はたくさんいますが、「○○が悪いからなくせ」式の主張ではなく、本当に日本の教育をよくするためなら○○をすべきという気概を多くの教師がもてるようにするためにはどうしたらいいのでしょうか。 

「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む その1 脱却力 

 

日本は長い間後進国だったので接近力の開発と育成に努力してきたが、その結果それはすでに過剰になった。
 これからは“拒絶力”またはその一歩手前の脱却力の開発が急がれる。
 ・・・古い日本の古い体制は改革するより廃止してしまうのが簡単である。
 「日本人のちから」(日下公人著、ワック、137頁)より

 どの国も他国に学ぶことと自国のプライドを守ることの両立に苦しんでいるという指摘を、学校や文科省にあてはめてみたらいかがでしょうか。
 「評判」ではなく、他校の美点の実態を、教師はどのくらい具体性を伴って知っているのでしょうか。教師は、自校の教育にどのくらいのプライドを持っているのでしょうか。・・・ちょっとこの面は問題外という気がするので、文科省に目を移してみると、国際学力比較で脚光を浴びたフィンランドに学ぶことがないことがわかった後、文科省はどうすればいいのでしょうか。
 現在、学習指導要領の改訂作業が進んでいるところです。
 学力向上のためには指導力の向上(これが学ぶ意欲の向上に結びつく)しかありません。朝ご飯を食べなくても、おもしろい授業には集中できるし、夜更かししても、楽しい授業では目が覚めるものです。
 指導力の向上のためには、無駄をいっさい省き、くだらない作業から教師を脱却させ、教材研究・授業研究、生徒理解に没頭させる必要があります。
 最近になってあいまいだった観念が確信に近づいてきたので指摘するようにしていますが、私は観点別評価という、最大40人という少人数しか教えない小学校で、かろうじて通用しそうな分析的評価を、中等教育でも使わせるようになったことに、平成の教育が失敗した原因があると考えています。
 私が今年教える生徒数は、400人です。400×4の項目の評価を毎週行うと、どのくらいの時間がかかるのでしょう。定期考査の採点で、1人5分で採点・分析するだけで、30時間以上かかります。物理的にも困難なことが明らかで、10年以上たってもまともに定着していない(そもそも4観点の評価が可能な授業ができる教師が少ない)、評価規準や評価基準づくりに莫大な時間が費やされているのに定着しない、そもそも指導力が上がっていないから評価力などついているわけがない・・・それを政策の失敗と言えないために、脱却することができない。
 ・・・・すでに観点別評価を拒絶して10年以上たっている教師もいるかもしれません(5~1の評定をつけてから観点別のA~Cをつけるような)が、指導要録を改訂しない限り、この無駄は消えません。
 中等教育の一部と初等教育を義務教育として一元化してしまったことが、諸悪の根元なのでしょう。このスリム化は、本物を見極める目を完全に空洞化させてしまったのです。
 「小中連携」などという、連携していないからこそ使われる用語があることが、小中の断絶を物語っているように、小中で同じような文言の使い回しをする指導要領だけはやめてほしいと思います。
 観点別評価から脱却するための教師のコンピテンシーは、その評価をすることなしに(その観点を重視した指導はもちろん行いますが)生徒の学力を高める指導力です。

日下公人「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読む 序

 ○○力というキーワードがはやってから、雑誌などでもブーム?は続いているようです。まだコンピテンシーという用語は定着していないようですが、これはちょっと単語が長いからでしょうか。コンビニやファミレスなどの短縮型がつくれないからでしょうか。
 さて、評論家の日下公人もこの○○力をネタに「こんなにすごい 日本人のちから ーだから、日本の未来は明るい!」(ワック株式会社)というおもしろい本を著しています。タコ壺学者に批判的な著者ならではの、「日本は思想戦に弱いが、それはインテリのことで、庶民は多分世界最強ではないか」などといった刺激的なコメントが満載です。
 この著書では、「日本力」へのプラスイメージを増幅するアイテムとして、自立力、洞察力、協働力、転換力、決断力、按配力、発信力、踏み込み力、着眼力、奮発力、想像力、想定力、対応力、飛躍力、看破力、打開力、見極め力、対決力、家族力、牽引力、先手力、実行力、伝達力・・・・といった力を駆使しており、話のネタに使いたいものばかりです。
 齋藤孝「教育力」シリーズの次は、日下公人「日本人のちから」から教師の逆コンピテンシーを読むシリーズを開始したいと思います。

居心地のよい学校とは?

 帰宅途中の地下鉄の車内で、都立高校の教員と思われる中年女性二人の会話をしばらく聞かされることになりました。聞きたくなくても聞こえる大声だったことと、内容が内容だったので、記憶も鮮明です。
 要点は、「学校の居心地が悪くなった。」
 理由は、「管理職がきまりにこだわるようになった。」「ルールを守れとうるさいことを言われる。思想の自由を侵害される。」
 先日、生徒に「私共空間」と日本社会についての話をする機会があり、子どもにも「私共空間」のいじめの論理などはよく理解できたようで、さらに言えば「教育」の目的や意義が腑に落ちたということでした。
 都立高校に限らず、学校という職場では教育課程無視など様々な法令違反が常識であり、その空気を乱す管理職が悪なのです。「ルールを守る」ことを教えるべき空間、公共空間であるべき学校は、私共空間なのです。政治家が「公」の仕事を「私共化」するのでよけいに公共の精神が死んでいくように、学校という「公」の仕事でも公共空間の論理を殺す因子がたくさん転がっていることが、学校帰りによくわかりました。
 
 報道が「真実を報ずる道」ではなく、「スポンサーに報いる道」であることが明らかになっているように、教育も報いる相手を見失っているようです。

原因と現象の区別 その2

 最近、自分の過失の原因を徹底して他に転嫁するタイプの子どもが増えてきました。
 昔からそういう子どもは多かったかもしれませんが、一つ一つ矛盾をついていくと、いつかは「すみませんでした」にたどりつけた。嘘を重ねる罪悪感を感じることができたのです。しかし、最近は、うそや矛盾が何回ばれても次から次へと新しい理由を作り出して、「自分が間違った」ことを絶対に認めようとしない子どもが見かけられます。
 保護者が子どもに輪をかけてこういう傾向をもっていると、三者面談が成立しない。学校側も複数でないと、一対二で負けてしまう。
 これまで何人かこういう窮地に立たされた人を学校で救ってきましたが、二対二というのは、割と効果的な対戦になるようです。
 加わった教師が両方の肩をもつように話を進め、子どもと保護者にはその考えがまるで一体であり、多くは子どもがその主導権をもっていて、保護者独自の考えが何もないことに気づかせるところまでいくと、だいたい指導は成功します。
 二人目の教師の話への加わり方と、双方の主張を互いにわかりやすくかみ砕いていくような裁判官のような演じ方と、両方の一番痛いところを共有させるプロセスが鍵となります。
 「攻撃は最大の防御」とばかり、問題となっている子どもの過失は棚において、全く別の話題で学校や教師を非難する保護者には、また別の戦略が必要となります。これは、会話の流れを二人目の教師が記録し、紙に書いた要点を保護者に示しながら話を進めるとある程度の脱線は防げます。
 ストーリーの流れを簡略に図示することで、論点をしぼって話し合いをスムーズに進められたことがありました。
 原因と現象を区別する作業を意識的に行い、このような図で示す方法で指導すると、成功しそうな事例がたくさんありそうです。
 

原因と現象の区別

 これまで数十名の教育実習生の指導を担当してきました。教師を第一志望にしている人ばかりではありませんでしたが、みなさん必死に指導に耐え(?)、私自身も貴重な勉強をたくさんさせてもらいました。本当は3週間も自分の授業を奪われるのがつらいところですが、実習生への指導のために自分自身もそれまで以上に教材研究をすることになります。
 先日お会いした今年の実習生の方々もみなさんまじめで、実習生の生活指導(?)に時間をとる必要はなさそうで、安心しています。準備の中で、「子どもに向き合う時間」という話題になりました。
 現在私が勤務している学校では、(教科によって多少の温度差はありますが)教材研究に力を入れてもらうために、ほとんどの実習生が放課後の部活動に参加できない状態になります。これは気の毒なことなのですが・・・。
 よく生徒理解を深めるために、子どもと直接向き合う時間がたくさんほしいという人がいます。部活動に熱心だったりする教師の中には、それが子ども全体ではなく、一部の子どもに限ったことなのですが、「子どもと常に向き合っている」ことだけで満足している人がいます。委員会活動でも生徒会活動でも同様です。
 実習生にはそういう向き合い方も経験してほしいとは思いますが、教師の最も重要な仕事、日常の授業という時間に子どもときちんと向き合えること、ふれ合えることを最も重視しているのです。
 優れた教師は授業の中でも生徒理解が充実しているのでしょうが、生徒を理解するためには、教師が生徒に理解されていなければなりません。生徒が教師を理解するというのは、授業がおもしろく、わかりやすいことが最低条件になります。ですから実習生にとっては、指導案検討という時間も、立派に生徒に向き合っている時間であり、教材を徹底的に研究し、発問を練り、最適な教具を準備することが、生徒と向き合うこととイコールであるという話をしています。たとえ授業で失敗しても、生徒には「教師が自分に向き合おうとしている」ことがわかり、そういう教師の姿勢が生徒理解の前提であることは、実習を終えればよく実感できるのです。
 ○○時間の授業には、○○時間の教材研究、準備が必要だと具体的に数字をあげる教師がいます。実習生たちは、「物理的にはその通りかもしれないが、実質的にはそうは言えない。一つの授業に必要な教材研究の時間というのは、無限である。」こういう感想をもってくれるようになります。研究を深めれば深めるほど、やるべきことが増えてくる・・・。どうしても教材研究の途中で、授業の日を迎えてしまうという結果になる。しかしそれでよい・・・というか、それしかない。
 私は定期試験の問題の完成がいつも教務の締め切りぎりぎり(か過ぎてしまう)になってしまうのですが、これは「最高の問題を出すためにぎりぎりまで練りに練っている・・・」などと勝手な理由(実際そうなのですが)をつけています・・・しかし、・・・締め切りは守らないといけないですね。
 
 何でもかんでも教育に結びつけて考えるのもどうかと自覚はしていますが、文庫版になった「実戦!問題解決法」(大前研一・斎藤顕一著、小学館文庫)に、次のような事例が紹介されていました。
 問題解決の原則の一つに、「原因と現象を混同しない」(真の原因を見抜く)ことがあります。
 セールスマンに元気がなくて商品が売れない。→元気を出させれば良い。と考え、社長が激励したり、能力給を導入したり、ボーナスを増やしたり、・・・などの対症療法を始めるが、売り上げは伸びない。
 原因はどこにあったか。実は、セールスマンに新しい商品の知識、顧客を開拓するスキル、説得するスキルがなかった・・・。教師にこれがあてはまらないことを祈ります。
 

道徳の評価について その2 道徳も習得・活用・探究の三段階別評価を

 最近はマスコミが生き生きと?報道できるニュースがなく,意味の感じられない石垣島取材,不幸な「私的空間」を題材に,できそこないの推理ドラマのような番組ばかりのようですね。なぜこういうときに,「いいニュース」を各民放ごとにもっと発掘できないのか・・・。
 英国人講師が殺害された事件では,早い時期に父親がテレビに向かってコメントし,その紳士的態度にマスコミは圧倒されてしまっていたようでした。ある国なら日本製品不買運動が起こってもおかしくないのに,父親は「自分も娘も日本で教師をすることを誇りに思っていた」という表現をしていました。容疑がかかっている人物が怒りの対象であり,日本や日本人全般ではない。これはヨーロッパの感覚では当たり前のことなのでしょうが,東アジアではどうなのでしょうか。
 それより日本人の場合は,「容疑者の家族」に興味の矛先が集中しているかもしれません。報道されなくて当然なのですが,阿部謹也が「世間」として紹介している容疑者の家族の例もあります。・・・犯罪者の親にも道徳性はないのか?・・・とても小中学生に議論させられる題材ではありませんが,「私共空間」という日本独特の問題には目を開かせる必要があると考えています。

 さて,現行の道徳の学習指導要領解説では,「評価の方法」もあやしいもので,「観察」「面接」「質問紙など」「作文やノートなど」による方法を挙げています。観察による方法では,「外に現われた行動からだけ判断するのではなく,態度や表情の微妙な変化から行動の背景にある(・・・これも「外に現われたもの」からの判断になるのに・・・)心の動きをとらえる(単純に「担任うざい!」という心?)など,生徒の内面の理解に努めることが大切である」としています。
 これでは「嫌われている担任」は当然評価が厳しいのは言うまでもなく,そもそも教科担任制の中学校では,担任がそれほど生徒の日常に密着しているわけではないので,「生徒指導のことなら担任より部活動の顧問」と言われるような実態も見られる現状があり,だからこそと言うべきか,部活動の顧問と生徒との関係という「私共空間」が強力になってしまっているという問題にもつながっているわけです。
 「生徒の直面している悩みや心の揺れ」は,「道徳」で扱うべきかどうか。母親が父親の暴力で苦しんでおり,離婚寸前である。転校も間もない。・・・これは「道徳」教育の題材なのか。母親からの虐待に耐え抜いてここまで生きてきた。虐待を受けて育った人間は,自分が親になったら子どもに同じことをする確率が高いという。結婚して子どもをつくっていいかどうか,悩んでいる。・・・これを「道徳」の時間に「教師は生徒と共に考え,悩み,感動を共有していく姿勢で指導に当たる」のか。知らない男が母親の在宅中の昼に出入りしている。この前は夜も泊まっていった。とてもこわかった・・・。明るい展望がもちにくい「私的空間」は無数にあるでしょう。
 「主として自分自身に関すること」は,このような「私的空間」の問題を扱うのではなく,あくまでも「社会」「公共空間」,各教科の指導で育成できる道徳性に重点をおくべきで,そうすれば評価の問題もすっきりすると思います。もちろん「じーっと自分自身を見つめる時間」も大切ですが,それが「学校」という公共空間で行うのにふさわしいかどうか。「寺」「神社」などという特別な環境が整った場所なら別ですが・・・・。
 指導要領解説にあるように,道徳の時間は,各教科等の指導で育成される道徳性を「補充」「深化」「統合」することに重点をおくというのも一つの手で,そこには「学力」的な要素がふんだんに盛り込めることになります。(詳しくは,「道徳教育と各教科の特質」という項目に,教科別に書かれています)
 また,これは教科の評価とも一致しているのですが,私は教育課程部会の審議結果を受けて,「観点別学習状況の評価」の総括に反対の立場をとることにしました。
 そもそも「観点別」の評価なので,「総括」をすることには無理があり,「合成の誤謬」などという難しい話を出す以前のレベルの問題として,矛盾が多く,客観性,信頼性に乏しい。導入から何年も経過していながら,「評価規準」「評価計画」も絵に描いた餅になっている。いまだに「関心・意欲・態度」の評価をどうするかなどという研修をやっている。
 この観点別評価の問題の裏側(本当は表側)には,それができる指導というもの自体が存在しないということもあります。観点別評価は,むしろ,教師の指導力の評価として,教師のコンピテンシーとして使うべきである。これは非常にわかりやすい。
 この教師は,生徒の「関心・意欲・態度」「資料活用の技能」を高める指導をしているか,「思考・判断」の力を向上させる学習方法をとっているか,「知識・理解」について,教材研究の内容等からどれくらいの水準を保っているか・・・など。
 私の指導モデルは,「習得」のレベル,「活用」のレベル,「探究」のレベルを段階的に向上させていくというもので,評価モデルもこれに対応したものになり,道徳の評価にも応用できる。そういうことを主張したいと考えています。
 前にも述べたように,内容に重複が多い社会科の評価方法ともセットで改善を考えることができます。
 具体的な説明は後日になってしまうかもしれませんが,キーワードは,「習得」「活用」「探究」の3段階です。習得段階がA(十分満足)レベルになれば,活用段階がB(おおむね満足)かAレベル,活用段階がAレベルになれば探究段階がBかA・・・という評価モデルです。
 

道徳の評価について その1

 「hirarin」さん,コメントありがとうございます。極端な主張に関する賛成派に対して,冷静なご意見をいただけて,とてもうれしいです。
 

私も「道徳の教科化」についての新聞記事を読んだ時、まず頭に浮かんだことは「評価をどうするのか」ということです。
 倫理と道徳の観の違いの文脈から、少しは光が見えては来たのですが、やはりまだ腑に落ちません。
子どもって見えないところでいろいろなことをしています。マイナス面だけではなくプラス面も。そこまでの「私的空間」を含めて評価できるのかと聞かれれば答えはNOです。
なかなか難しい問題です。
 話は脱線しますが、例えば大学入試で、筆記試験だけで落ちたと言うのなら「勉強が足りなかった」で納得しますが、面接試験だけで落ちたというなら「何が悪かったんだろう。私の人間性かな。」と何とも言えない感情になるかと思います。
 子どもたち、保護者が通知票の「道徳の評価」をどう見るのか。少し恐い気がします。

 専門家の方には釈迦に説法かもしれませんが,自分でも道徳教育の基本を確かめたい意味から,学習指導要領解説の評価の部分を見直してみることにしました。その章のタイトルに,基本姿勢が集約されているようです。タイトルは,中学校では,「生徒理解に基づく道徳教育の評価」です。
 道徳の評価については,学習指導要領でもその基本的態度について,「あくまでも生徒の道徳性の評価は,生徒が自らの人間としての生き方についての自覚を深め,人間としてよりよく成長していくことを支えるためのものである。」と規定しているように,プラス思考の機能を重視しています。それができる前提として,教師が「指導前や指導後の生徒の実態の把握に努め,確かな生徒理解に基づく道徳性の評価を心掛ける」こと,「常に生徒の立場に立って生徒を受容し尊重する共感的な生徒理解を心掛ける」こと,「生徒の道徳的な成長の姿を温かく見守り,よさを認め励ましていく」ことが大切であるとしています。
 実はここまで読めばすぐに,現行の道徳の学習指導要領解説は,臨床心理学やカウンセリング理論に詳しくなくても,ちょっと偏りと無理のある生徒指導の理念に基づいていることがわかります。
 現行の道徳教育の最大の欠点は,「心のノート」という副教材のタイトルに端的に現れているように,「人間の内面」「私的空間」に学校や教師が入り込もうとするメッセージを送ってしまう過ちを犯しているからで,そういう視点からの批判はもっともなのです。「私的空間」にくさびを打ち込むことは許されても,あくまでも教育は「公共空間」「公私合同空間」の中で処理しなければならない。スクールカウンセラーもいいのですが,「公私混同空間」に陥ることもあります。私の考える道徳教育は,「私共空間」の問題性を論じ合うだけでも十分なのです。
 現行の学習指導要領解説では「評価の観点」も非常に貧弱なもので,「生徒の道徳性は人格の全体にかかわるものであり,いくつかの要素に分けられるものでない」(・・・それは学力も同じです・・・・)とことわりながら,「道徳的心情」「道徳的判断力」「道徳的実践意欲と態度」「道徳的習慣」をあげています。これらの観点では,「評価を成績化するかしないか」で「やる気」が変わる=つまり外発的動機づけという好ましくない理由によって,見かけ上の道徳性が高まるだけの結果となってしまいます。これは,おそらくほとんどの教師がそう感じるのではないでしょうか。では,評価をどうするか。明日の仕事の準備が終わったら,少し考えてみたいと思います。

道徳の教科化について

 直近の話題に関する賛否の表明がブログというメディアのスタンスでは大切だと思うので,「道徳の教科化」について,主に「改正教育基本法反対」「反政府」の立場の人たちから反対意見が多い中,ちょっとだけ勇気をもって「賛成」意見を述べようと思います。
 ただし,「条件付」賛成です。
 まず,基本的に賛成の立場をとる理由は,まず,今までの道徳の時間の無駄が省けること。
 この4月で小学校3年生になる子どもが,最近になって,「心のノート」を本棚に入れていました。これは,1・2年生の副教材ですから,どんな勉強をしたのかなと思って開いてみたら,何の記入もなし。このノートは,書き込みができるのが特徴になっています。どうしたの?と聞くと,2年生が終わる3月に配布されたとのこと。
 学校現場というのは,こんな調子なのです。副教材を買わせて指導する学校もあるかもしれませんが,それがどれくらい活用されているかは疑問です。
 まず,教科になれば,このような税金の無駄や家庭の負担はなくなるということ。
 次に,「教科書」ができることで,教師が安心して指導できるようになるということ。
 ここが条件付ですが,この教科書に掲載する教材は,国語の教科書みたいな「読み物」中心では絶対にいけません。国語の教科の専門家につくらせてはいけない。これは譲れない条件です。ではつくる主体はだれかというと,社会科専門の教師です。
 現行の道徳の内容と改正教育基本法の中身をみると,驚くほど似ています。そして実は,社会科の教科目標とも似ている。社会科の教師が,現代社会のさまざまな問題の中から,,道徳的価値を自覚しやすいものを選び,「教え込み」でなく生徒が授業を創造できるような「学び合い」の教材として教科書化する。これが条件です。それほど難しい注文ではありません。研究熱心な社会科の教師の授業は,かなりの度合いで道徳的です。
 うまくいけば,今まで日本の教育ではタブーだった宗教にもふれられます。国際社会で生き抜く上で,宗教に関する無知は重大な課題となり,日本の将来にとっても命取りになりかねません。
 さらに付け加えたい条件は,道徳を教科にするなら,その専門家を育てること。現行の道徳は,担任が指導することが原則になっていますが,今後は,「道徳」の免許を持った教師が教える。ただしこれは,すぐに実現できるように,免許更新とセットで希望する教師に取得させる。道徳だけを教える教師がいてもよいということです。定数もこれに伴って変更する。
 道徳の教科化に批判的な人の大方の意見は,「どう評価するのか」ということですが,これは現行の指導要録の「行動の記録」をより具体的・計画的に評価できるシステムを構築する。
 現行の指導要録では,「反社会的」「滅公奉私」の行動をとる生徒を,記録の上で残せない問題がありました。ですから,テストの点はとるが,清掃はサボる,遅刻は多い,人を傷つける・・・そんな生徒でも優秀だと思われて進学してしまう仕組みがありました。「私的空間」を重視する倫理と違って道徳の場合は「公共空間」「社会」での生き方に重点がおかれます。自治活動や部活動がさかんな学校では,非常に評価しやすい内容になります。
 「国のため」というと「戦争で死ぬ」ことしか頭に浮かばない人が50代の教師に多いようですが,今の小中学生はまだ「国」とは何かがわかっていませんし,徴兵制の国でもなく,天皇は象徴(今では平和と国際親善の象徴の色合いが濃い)ですから,「戦前に逆戻り」というのは絶対にありえません。近代日本があの形をとれたのは,天皇権威を政治に利用できたからであって,権威のない政府や軍部だけでは成立しなかったのです。
 最後に賛成の理由をもう一つ。道徳は,総合的な学習の時間と同じように,地域や社会の人材を生かしやすい領域だということ。身近な地域の人々による教育参画が促せるようになります。
 私なら,「公共空間」に生きるとはどういうことか?「私共空間」の誘惑にどう打ち勝つか?などをテーマに授業をしたいですね。 

犬山市の全国学力調査不参加に喜んでいる自治体

 日本人は、何か大きな変革が必要なときに、「優れたものはみんな他から(外国から)入ってくる」「政府などの公的機関がやることは間違っている」という意識をもってしまっている。これに類する主張をしている人は少なくないようです。
 もちろん優れた制度や文化を外国から学ぶべきであることは、日本人だけに限ったことではないですが、特に日本では百マス計算のように、「これこれこうすると必ず効果が上がる」などという評判がたったものにすぐ食らいつく。フィンランドの学力が高い(このデータの信頼性はだれが保障しているのか知りませんが)と聞けば、いくつもの団体が調査団を送る。(これも日本だけではなかったようですが。) 「同じようにやれ」と言われるのはいやだが、自分から進んで「同じようにやる」ことには非常に熱心である。
 小学校では特にこの傾向が強く、有名人、有名校、有名団体の研究会への参加が非常に熱心です。もちろん研究・研究に熱心なのは教特法に定められているからという理由ではなく、当然もっているべき態度なのですが、「有名人」のまねを薦めようとする団体、また、「追試」といってまねをさせて自分の実践の効果を実証しようとする団体が多く存在します。会に参加するとその独特の「空気」に違和感を覚えます。
 入学当初から学力に課題のある子どもを多く見てきている中学校の立場から見ると、「これでは無理もないな」と思える実践に、多くの教師が共感している。「よくぞ言ってくれた!」と批判的な意見を協議会で述べた教師に対しては、実践者ではなく、他の参観者が実践者をかばうように意見を返す。異様な空間です。
 私が行政にいるときに小学校に要求したのは、「百マス計算をいけないと言っているわけではないが、本来他のことに時間をとるべきときに、それをやってはいけない。」「字が非常に雑になっている子どもが多いが、速く書く指導と同じように、丁寧に書く指導も重視してほしい」「小学生は集中力がないという思いこみで授業計画を立てないでほしい。しっかり練られた教材と計画があれば、百マスで時間をつぶさなくても子どもの学びは豊かにできる」ことで、これはもちろん保護者からの苦情を受けてお伝えしたことです。
 しかし、ある校長が言ったように、楽ができる上、自分たちの力量の差が隠せる取り組みなら、教師はしがみついてはなれない。・・・中学校に入学した段階で、担任の力は一目瞭然になるのですが・・・と言っても、「それが小中連携がうまくいかない原因だな」と返されてしまう始末でした。
 ものまねでない、学習指導要領が示す目標を実現することに重点をおいた取り組みをしている代表的な自治体が、犬山市です。法令の範囲内で、義務教育のあるべき姿を目指している。すばらしい取り組みです。
 犬山市の教育改革は、東京大学基礎学力研究開発センターに設置されたプロジェクトチームの協力のもと、その評価が実施され、岩波ブックレットにも収められています。(「教育改革を評価する」)
 このブックレットから各学校が学べることが多いとも思う一方、「やはり犬山でもそうなのか」と感じることも多くあります。
 たとえば、教師の評価について、記名によるアンケート集計を拒否する論理。これは、記名による集計では、教師ごとの評価につながるおそれがある。第三者機関による調査なのに、それにも協力できない。記名による集計をすると、「うそを書く」教師が出てくる。・・・「ヤバい経済学」でも紹介されていたように、たとえば自分の給与の増減に直結してしまうようなデータを出すときに、教師の一部に虚偽の申告をする者がでてくる。給与にかかわらなくても、学校の信頼を損ねないようにするため、データの改ざんをする。・・・「企業と全く同じではないか」と思う人がいるかもしれませんが、企業と学校ではどこが違うかというと、企業ではデータを改ざんした本人がクビになるだけでなく、社長も責任を問われて辞任に追い込まれる。学校では、教育委員会や校長が謝る場面があるかもしれませんが、本人を含め、当然処分などはない。「本来協力しなくてもいい調査なのだから、嘘をついてもかまわない」という「私共空間」論理が、学校にはあるわけです。
 前回の全国学力検査では、解答を生徒に見せながら実施した県がありました。
 学校には、どういうわけか、こういうことをしても仕方がないだろうという論理がはたらく。 
 これは、教師の中で、改革に対する積極派は何%いるかというと、犬山市でも20%しかいない・・・という現実からもうなずけます。教育長は、これを「20%もいる」と認識しています。1つの学校で30人教員のうち5~6人も積極的な人間がいたら学校経営を完璧にできる。ビジネスの世界にも、「2:8」の法則がありますが、教育の世界でもそれでいいのでしょうか。
 しかし、教育長の言うように、20%の教師の力で教育が変えられたとして、その成果も上がり、学力調査の結果として裏付けられたら、日本という国の特質として、「私の自治体も犬山市のようにがんばらないといけない」というムードが一気に高まります。
 犬山市の学力調査不参加表明で、一番ほっとしているのは、教育のことがよくわからないで事務局まかせにしている教育長たちでしょう。このままでいけば、「あそこはあそこでがんばっているようだが、成果はわからないし結果が出ていないんだから、まねする必要はないだろう」という話で落ち着いてしまいます。 犬山市は「文部科学省の言うとおりにしないようにがんばっている」わけではなくて、「文部科学省や学習指導要領、各種法令の路線からはみ出さない範囲で、できることをしっかり実践している」のです。一部には反対だけしていれば満足できる「私共空間」の住民もいますので、注意しなければいけません。

私共空間が「評価」を嫌う論理

 「公共哲学」では、日本人にとって「公」(本来は公共という意味で使いたいが、日本人はこれを国家や政府と同一視しがちである)と「私」を断絶したものと捉え、両極端にしか受け止められない感性・・・代表的な例は、「滅私奉公」と完全にその逆の「滅公奉私」しかないと思ってしまう構造を打開することを目標にしているようです。

 そこで、「公共哲学」では「活私開公」と造語をキーワードにしています。

 私は、日本の特徴は「公」と「私」の断絶ではなく、「私共空間」の存続に課題があるという立場をとっています。「私共空間」の人間は、基本的に個人主義の立場をとらない。なぜならば、個人を尊重しようとすると、自分だけでなく、自分と異なる考えをもつ他者も尊重しなければならない。同じ考えをもたない人間は、「私共空間」から排除する必要があるので、個性は尊重できない。これは、全体主義とも違う。「私共空間」を国全体に広がる必要はない。「私共空間」は本来は「公」の空間でありながら、他の考えに従いませんから、「公共」という思想そのものがない。あるのは「わたくしども」だけ。

 学校や企業のいじめ、問題の隠蔽体質、家庭での虐待などもここに原因があり、「他者に開かれる」ことを嫌う。ですから「活私開公」は非常に高いハードルになっています。

 結果として、問題を解決しようとすると、強制力を伴う法、国家の権力によるはたらきかけが必要になる。

 だから「私共空間」の人間にとっては、悪循環しか存在しない。

 文部科学省は、今後の教育政策について、以下のように考えていると想定できます。

 国は大きな目標や基準を示し、具体的な内容は地方が決める。実践レベルの基本路線は地方の自律性に任せる。ただし、国民としての学力水準を保障するため、その担保として全国学力調査を実施する。

 地方主導の教育こそが改革の目玉であるべきで、その点では犬山市は全国に先駆けています。しかし、犬山市の論理が「公共」ではなく「わたくしども」であることを、全国学力調査不参加という態度で示されてしまった。

 「評価」アレルギーは、「他との比較」という「私共空間」が最も嫌うことを公開の場でされてしまうことに起因しています。

 日本に「公共空間」をもたらすことができるのは、国でも地方でもないとすれば、どの機関なのでしょうか。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より