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道徳の評価について その1

 「hirarin」さん,コメントありがとうございます。極端な主張に関する賛成派に対して,冷静なご意見をいただけて,とてもうれしいです。
 

私も「道徳の教科化」についての新聞記事を読んだ時、まず頭に浮かんだことは「評価をどうするのか」ということです。
 倫理と道徳の観の違いの文脈から、少しは光が見えては来たのですが、やはりまだ腑に落ちません。
子どもって見えないところでいろいろなことをしています。マイナス面だけではなくプラス面も。そこまでの「私的空間」を含めて評価できるのかと聞かれれば答えはNOです。
なかなか難しい問題です。
 話は脱線しますが、例えば大学入試で、筆記試験だけで落ちたと言うのなら「勉強が足りなかった」で納得しますが、面接試験だけで落ちたというなら「何が悪かったんだろう。私の人間性かな。」と何とも言えない感情になるかと思います。
 子どもたち、保護者が通知票の「道徳の評価」をどう見るのか。少し恐い気がします。

 専門家の方には釈迦に説法かもしれませんが,自分でも道徳教育の基本を確かめたい意味から,学習指導要領解説の評価の部分を見直してみることにしました。その章のタイトルに,基本姿勢が集約されているようです。タイトルは,中学校では,「生徒理解に基づく道徳教育の評価」です。
 道徳の評価については,学習指導要領でもその基本的態度について,「あくまでも生徒の道徳性の評価は,生徒が自らの人間としての生き方についての自覚を深め,人間としてよりよく成長していくことを支えるためのものである。」と規定しているように,プラス思考の機能を重視しています。それができる前提として,教師が「指導前や指導後の生徒の実態の把握に努め,確かな生徒理解に基づく道徳性の評価を心掛ける」こと,「常に生徒の立場に立って生徒を受容し尊重する共感的な生徒理解を心掛ける」こと,「生徒の道徳的な成長の姿を温かく見守り,よさを認め励ましていく」ことが大切であるとしています。
 実はここまで読めばすぐに,現行の道徳の学習指導要領解説は,臨床心理学やカウンセリング理論に詳しくなくても,ちょっと偏りと無理のある生徒指導の理念に基づいていることがわかります。
 現行の道徳教育の最大の欠点は,「心のノート」という副教材のタイトルに端的に現れているように,「人間の内面」「私的空間」に学校や教師が入り込もうとするメッセージを送ってしまう過ちを犯しているからで,そういう視点からの批判はもっともなのです。「私的空間」にくさびを打ち込むことは許されても,あくまでも教育は「公共空間」「公私合同空間」の中で処理しなければならない。スクールカウンセラーもいいのですが,「公私混同空間」に陥ることもあります。私の考える道徳教育は,「私共空間」の問題性を論じ合うだけでも十分なのです。
 現行の学習指導要領解説では「評価の観点」も非常に貧弱なもので,「生徒の道徳性は人格の全体にかかわるものであり,いくつかの要素に分けられるものでない」(・・・それは学力も同じです・・・・)とことわりながら,「道徳的心情」「道徳的判断力」「道徳的実践意欲と態度」「道徳的習慣」をあげています。これらの観点では,「評価を成績化するかしないか」で「やる気」が変わる=つまり外発的動機づけという好ましくない理由によって,見かけ上の道徳性が高まるだけの結果となってしまいます。これは,おそらくほとんどの教師がそう感じるのではないでしょうか。では,評価をどうするか。明日の仕事の準備が終わったら,少し考えてみたいと思います。

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教育」カテゴリの記事

コメント

私のどうでもいいようなコメントを取り上げていただきありがとうございます。

>あくまでも教育は「公共空間」「公私合同空間」の中で処理しなければならない。
納得できました。
そのへんを変なところにつっこんでしまうと、道徳はドツボにはまり、おかしな方向へ行ってしまうのだと思います。

また勉強させてください。

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より