阿部謹也の「世間」と「私共空間」 その1 長幼の序
阿部謹也は、小さな「世間」の例として、団体旅行の集団を挙げています。列車の中で宴会が始まれば、その「世間」に属さない人の迷惑などはまずかえりみられることはない。「同じ列車に乗っている人々はただの人であり、ほとんど関係のない人で、他人ですらないのである。いわば人間ですらないといってもよい。自分達の世間の利害が何よりも優先されるのである。このように世間は排他的であり、敢えていえば差別的ですらある。」
私も職員旅行や学年旅行のたびに、その集団の一員であることをつらく感じた経験をしてきました。アルコールが飲めない私ははじめから「世間」外の人間だったかもしれませんが。
この例は以前にも述べたように、「私共空間」の典型的な事例で、阿部謹也の説明を読んでもわかるように、「いじめ」を生む強力な空間でもあります。
阿部謹也は「世間」の掟、世間を構成する原理として、長幼の序と贈与・互酬の原理を挙げています。
学校現場という「世間」で非常にやっかいなのが「長幼の序」です。経験とともに指導力を向上させ、給与と比例してコンピテンシーモデルに近づいている教師ならば、学校の核として重要な存在になっていると思いますが、管理職に抵抗するための権威として利用されているとき、逆コンピテンシーの核となってしまいます。
「世間」の内部は、競争ができるだけ排除されており、あまり有能とはいえない人でも、その「世間」の掟を守っている限りそこから排除されることはなく、能力のある者がそれなりの評価を受ける保証がない空間です。
教育は、教師たちのこのような「世間」「私共空間」を子どもや保護者、地域住民がどう「公共の空間」化していけるかが勝負です。「外部評価」は、「私共空間」を破る手段の一つだと考えられます。そしてその評価基準の一つが、教師のコンピテンシーモデルです。
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