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ルールを徹底できない教師

 学校という公共空間は、社会と比べるといくつかの制約条件があり、それに対応したルールを設けているのが普通です。

 たとえば公立の小中学校でペットボトルのお茶やジュースを持ち込み可能にしているところは何%くらいあるでしょうか。公立の高校ではどうでしょうか。

 私が授業参観したことがある高校では、ゲーム、ジュース(紙パックやペットボトル)、お菓子、菓子パン、コンビニ弁当、携帯、マンガなど、あらゆるものが机に乗っていました。

 「他人もやっているからいいや」という私共空間が複数存在していました。

 ペットボトルなどについては、一般的な公共空間や家庭と違い、たとえば学校内のゴミ処理の方法がどうなっているか、ということから判断してみると、教室のゴミ箱は「燃えるゴミ」「燃やせないゴミ」の2種類あるか、「資源ゴミ」用のゴミ箱まであるか?・・・と言えば、ゴミ箱が教室に一つしかない学校も多いのでは?つまり持ち込み禁止のルールの前に、学校にはそういうものを持ってこない常識があったのですね。

 私は衛生面に注意して水筒がわりにペットボトルを使うことに賛成です(水筒は振り回したり投げたりすると危険なので、サッカーの公式戦では持ち込み禁止になっているところがある)が、持ち込み可能にすると、必ず学校に捨ててしまう生徒がでてくる。校外での活動だと現地に捨ててしまう。

 というわけでペットボトルは学校に持ち込み禁止なのでしょうが、では持ってきてしまったらどうするか?

 教師の立場からすると、ルールがある以上、持ち込んだのを発見したら没収するなどの措置を講じないと、ルールがなかったことと同じになってしまいます。

 「教師が注意しない」ことが、ルールを破っていい大きな根拠になってしまいます。
 ここで話題が一気に飛躍してしまいますが、「教育委員会が注意しないから(これは隠蔽工作も必要ですが、教育委員会にはそれを見破る義務がある。時間割を提出させれば簡単にわかります)」ルール(この場合は法令)を破る例がたくさん存在します。最近の高校での必修科目未履修問題がそれです。私の経験した例では、公立小学校の41人学級(以前申し上げた通り、この41人学級は教師の指導力のおかげで39人のクラスより質の高い教育が受けられましたが)。ほとんどの教師が意識していないかもしれない長期休業中(のうち、教師の勤務を要する日)の職務専念義務違反。

 飛躍の上に飛躍を重ねますが、教師がなぜ当たり前のように法令を破るのか。一部に、以下の理由による人たちがいるのではないでしょうか。

 「人間にとって法とは何か」(橋爪大三郎著、PHP新書)で紹介されている、マルクス主義の考え方をとる教師の例。マルクスにとって法律とは、階級闘争を隠蔽する(資本家が財産を持っているのは搾取の結果で、泥棒のようなものなのに、それを、正当に持っている、と法律はいう。取り返そうとすると革命になり、革命は刑法に違反してしまい、弾圧される)ものであり、資本家とその代表者である国家が、資本家に都合がよいように発した命令である。労働者、人民は、この法律に従う必要がない。・・・この考え方はレーニンや毛沢東に受け継がれ、日本では特定の政党、そしてその影響の強い組合に受け継がれる。

 私くらいの年代の人間にはわかりにくいことですが、おそらく50代教師の多くは「法律」に対するこのような受け止め方を理解できるのではないでしょうか。だから改正教育基本法は「改悪法」だから認めない・・・など。とくかく「法律」を研究すること、よりよい法律をつくろうとすること、法律の正義とは何かを哲学的に考えることは、バカバカしくてやってられない。法律学より経済学だ。

 驚いたことに(50代教師は驚かないのかもしれませんが)、橋爪大三郎もそういう人間の一人だったと言います。しかし、マルクス主義を卒業したきっかけは、「よりよい法律をつくろうと提案しないのは、現状のままでいいと言っていることと同じだということに気がついたから」だそうです。

 マルクス・レーニンにとって法とは、強制されるもの。だから、そういう法はなくてよい。学校にも、「校則」などは必要ない。・・・現実に存在しても、なくてよいと思っているから、校則違反に対して何もできない(しない)。そういう教師は50代ほど多い傾向がありませんか?

 しかし、法は強制ではない。強制がルールを生み出すことはないが、ルールは強制を生み出せる。法律の本質はルールである。橋爪大三郎は、こうした「法のルール説」の立場をとることになります。

 この立場をすべての教師がしっかりとれれば、よりよい学校がつくれると思うのですが、日本社会と法には欧米諸国と異なる歴史がある・・・これが「私共空間」を今に根付かせる背景になっています。
 
 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より