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« 「犬山の教育の重要施策2006」を読んで | トップページ | 30人学級だと授業の発表回数が増やせる? »

30人学級は「少人数」と言えるの?

 「redu06」さん、コメントありがとうございます。
 30人学級の実現が現実的に難しいのはお金の問題からですが、もし自治体が住民税を大幅にUPするなどして、その実現にこぎつけたとしましょう。そこでどんな問題が発生するか。
 私の住んでいる地域には、8~9クラスという大規模校があり、かつ学校選択制(東京都区部では80%が実施。学区域が広い市部では30%にとどまる)によって、もとの区域外からの希望者は抽選で入ることになります。
 もし30人学級が実現してしまうと、クラス数は増やせませんから、80~90名の希望者が新たに入学できなくなります。
 単学級の小学校では、たとえば36人のクラスは18人×2の2クラスになりますが、2人の担任の指導力が同じレベルでないと、保護者や児童の側からどんな声が聞こえるようになるか、想像できますよね・・・。
 これまでにも30人学級の問題点は述べてきましたが、一方のメリットも、当然、大きなものがあります。
 36人の単学級が2クラスになり、18人学級になると、習熟度別学習集団(学級ではない)編成など、能力に応じた教育が実現します。体育や音楽などでは2クラス合同で授業すればいいので、効果的な運用を学校ごとにできるようになります。
 ただ、ここで明確にしておかなければならないのは、18人を教えるときにはできて、36人を教えるときにはできないことは何か、ということです。18人学級規模の学校と、36人学級規模の学校を徹底的に比較してみることです。そして、36人学級規模の学校がどの面で劣っているかを証明しなけれなばなりません。
 私立や国立のように、常に40人いっぱいいっぱいの教室でも、高い教育効果を実現しているのはなぜか?ということも、その実践の場に立って見てみることです。生徒が優秀だから成立しているのかどうか。(・・・30人学級が法律で決まると、校舎を増築しないと定員そのものが25%経ることになり、競争がさらに激しくなりますね)
 「少ない方が目が届きやすく、学力も向上する」というのは甘い考えで、指導や評価に新たな工夫が加わってこそ、学力向上は実現するのです。
 総合の発表やワークショップのように、内容によっては、100人でやった方が効果が高いものもある。
 私は2校目の学校で夏休みに3週間くらい補習をやっていました(専門でない教科の数学や英語)が、これは10人でも大変。本当に全員の学力を向上させようとしたら、塾のように本当の少人数制にしないといけません。
 塾などでは、何人以下を「少人数指導」というのでしょうか?
 18人学級は「少人数」でしょうかね?
 

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教育」カテゴリの記事

コメント

管理人様、わざわざ本文で取り上げてくださって、ありがとうございます。

近い話題を私のほうでもエントリーしつつあります。管理人様ほど鋭く論理的には切り込めそうにないですが・・・

>もし30人学級が実現してしまうと、クラス数は増やせませんから、80~90名の希望者が新たに入学できなくなります。

東京の取り組みについては興味があります。しかし、東京の制度上、希望者が入学できないからといって30人学級を否定するのも変な話なのでは??

>2人の担任の指導力が同じレベルでないと、保護者や児童の側からどんな声が聞こえるようになるか、想像できますよね・・・。

指導力の問題は、どうやったところで出てくるのでは・・・??

>これまでにも30人学級の問題点は述べてきましたが、一方のメリットも、当然、大きなものがあります。

メリットについてもよくわかっておられる上でのご発言だということも承知しております。

>18人学級規模の学校と、36人学級規模の学校を徹底的に比較してみることです。そして、36人学級規模の学校がどの面で劣っているかを証明しなけれなばなりません。

そうですね。いろいろと精査する必要はあると思います。あまりにも調査と議論がなされていないですね。現状では自治体によって40人学級が発生するわけですから、40人対20人で調べるべきでは??

>私立や国立のように、常に40人いっぱいいっぱいの教室でも、高い教育効果を実現しているのはなぜか?

どの私立でも?ですか?高校には底辺校の私立が存在していますが、そこで高い教育効果が実現していますか?
しているところも知っていますが・・・
私立と公立ではそのシステムも生い立ちも違います。
そのあたりも精査・検証する必要があるでしょうね。
少なくとも給食費を徴収しに行って逆切れされて帰りが10時を回るというような事態は私立にはないようです。

>「少ない方が目が届きやすく、学力も向上する」というのは甘い考えで、指導や評価に新たな工夫が加わってこそ、学力向上は実現するのです。

学力だけではなく、教員が増えることによって仕事量も減ると思います。毎日3時間以上の残業をしていますが、これはどう考えてもおかしな状態でしょう?

私は管理人様のコンピテンシーの話については賛成・共感するところが多いです。

ただ、現場がコンピテンシー活用によって改善されていくには時間がかかりそうですし、そういった改革がもたらすものがプラス方向に働くばかりではないでしょう。紆余曲折を経ながら現場が向上していくにしても、それまでの期間に崩壊する学級の児童、私を含むダメ教員が落ちこぼす子どもの数のことを考えると、とりあえず30人学級は必要だと思うのです。

40人学級でもへっちゃらな優秀な教員がいることとはまた別問題として教育崩壊は今ここにある事実なのですから。私の見た範囲でものを言うと、ダメ教員はクラス人数が40人に近づけば近づくほど、崩壊を起こしています。

「どう考えても自己責任で破綻した銀行さん」に投入するお金があるのなら、30人学級の実現をしてほしいです。

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  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
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    「楽毅」第四巻より
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    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
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    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より