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2007年3月

いじめとマスコミの違い=継続性と一過性

 「ひろみ」さんより、コメントをいただきました。ありがとうございました。

はじめまして。
いじめから子供をまもろう!から来ました。
こちら地方のせいか、放送されてません。
でも、見なくても、ある程度、想像はつきましたよ。
普段の放送見てても、そうだし。
少年事件の時に「二度とこのような痛ましい事件が繰り返されないよう、少年の心の闇の解明をしていくことが急務です」などと、言っても、その場限り、話題性がある内しか、取り上げません。
もう、7年前になるでしょうか?
ある真面目な優等生と目されていた中学生か高校生が、老夫婦で経営してる小さな本屋に忍び込み、見つかって奥さんを漬物石かで殴り殺した事件が気になって、続報を待っていましたが、ある筈もなく、PTAの研修の講演会で、講師の方が、その事件の背景を知ってみえて、話を聞いたら、あぁ、そのパターンだったかと。
その情報をTVで放送したら、大変、子育てに参考になるのに、しない。やはり、する気ないんだな。その時、本当に、マスコミだけの情報では、何も分からない。ルポライターに期待する。と、思いました。
女子高生コンクリート事件も、そう。
かえって、ネットの世界のなの方が、誹謗中傷、がせネタも確かにあるけど、マスコミより、欲しい情報が、知りたい情報が、たくさんあります。

 マスコミは、日本独特の「空気」の世界に存在しながら、自己が存続しやすい「空気」を作り出すという存在です。教育再生会議の「いじめ問題への緊急提言」の⑧で、「いじめ問題については、一過性の対応で終わらせず、・・・」という指摘があるように、番組などでも「~については引き続き・・・」とうコメントが入れられるようになっていますが、その続報がいつどのような形で行われるかは、ずっとテレビを見ていないとわかりません。
 デジタル化が進む時代ですから、情報番組には、放送で約束した「取材の継続」をHP等で「続報特集」として公開するなどの手法をとってほしいものですね。それをさらに第三者機関が評価して、優れた情報番組をランク付けするような企画もほしいです。
 いじめなど教育の問題については、けっしてステレオタイプ化した観念を垂れ流すのではなく、個別に隠された(隠れている可能性がある)諸条件を洗い出す作業を継続してほしいと思います。その役割を担うのは、日本の代表的な「公的な私共空間」の主役であるマスコミなのか、「民の公共」としての地域のコミュニティなのか、インターネット空間なのか、・・・最終的には行動や実践の場である「学校」の役割でなければいけないのは、言うまでもありません。

マスコミのやり方をいじめっ子は活用する

 フジテレビの教育再生特番は、またまた役割の決まった「顔なじみ」の面々がテレビ局の演出通りに使われ、安直な対立図式で怒ったり泣いたりして終わってしまいました。
 ディレクターの調査不足なのか、企画のブレーンが理解不足なのか、典型的だったのは「いじめ解決シナリオ」のずさんさ。「いじめ解決に保護者が積極的に乗り出しましょう」というメッセージはわかるのですが、校長、担任、いじめた子の親の三者は、全く役立たずであることを視聴者に刷り込んでいました。これではいじめられている子をもつ親にとっては自分に対する責任感だけを強調されてしまって不愉快だったのではないでしょうか。
 せっかく学校運営協議会の例も入れ込んでいたのに、その意義が他の事例に生かされていない、マスコミの「つまみぐい」「とりあえず陳列式商店」的な性格がよくわかりました。
 また、一部の教育委員会の問題(教育委員の問題?)を取り上げて、こんな教育委員会はいらない?なんて発言をさせる根拠にしていました。これでは、社員を信頼して数多くの決済を綿密な検討や議論なしに?こなしてしまう社長が怠慢だから、その会社をなくしてしまえというようなものですね。教育委員会の事務局の仕事は多種多様で、はじめから特に議論も必要なくこなしていかなければならないものも多く、そんな当たり前のことをいちいち教育委員が審議する必要もないから、数分で終わる会議もあるのです。その会議だけを紹介して、「こんな会議をする組織は必要ない」って思わせるのがマスコミの論理。いじめっ子の論理と同じですね。
 生徒たちには情報リテラシー学習で教えているのですが、マスコミは問題の箇所だけを誇張して宣伝し、全体的な印象を悪くし向ける傾向があり、これがコマーシャルのように、よい箇所だけを誇張して宣伝し、全体的な印象をよくするものと好対照だと説明します。前者がいじめの原因になり、後者は恋愛や結婚の失敗の原因になります。
 教育再生会議が昨年11月に出した「いじめ問題への緊急提言」をもう一度読み直して、それを実行・実現できない子ども、教師、学校、家庭、地域、教育委員会の問題をきちんと論ずるべきですね。
 

いじめ被害者を救う「公私共同空間」づくり

 「いじめ」を許さないという「空気」は、最近では、自殺報道や教育委員会批判とセットにして、どちらかというとマスコミを主導にして行われてきました。あとは現場に、その「空気」をいかにふきこむかにかかっています。

 教育失敗学では、いじめの発生、継続、隠蔽、悪化などのメカニズムを解明していきたいと思いますが、究極的には、「私共空間」をいかに「公共空間」に転化できるかが勝負であるという立場をとります。

 社会問題の解明・解決を「政府の公」「民の公」「私的領域」という三領域から研究する学問として、「公共哲学」というものがあります。手頃な入門書としては「公共哲学とは何か」(山脇直司著、ちくま新書)が最適です。

 私なりの表現でいうと、「政府の公」のうち、本来の公共性が生かされていない場を「公的な私共(わたくしども)空間」、「民の公」のうち、本来は公共性が求められるのにそうなっていない場を「私共空間」、プライベートが最優先される場を「私的空間」と呼んでいます。

 公共空間は、「政府(行政機関や学校などの公的機関)の公」と「民(国民、住民、市民、学校の生徒たちなど)の公」がきちんと互いの義務や責任を認識しつつ、正しく振る舞うべき場なのですが、日本では、ここが特に弱いとされています。私は、弱さを克服するために、単純な「公共空間」という言葉より、「公私共同空間」という用語を使いたいくらいです。

 東京大学出版会の「公共哲学 15 文化と芸能から考える公共性」97ページに、以下のような話が紹介されています。

 

日本に長く滞在したある米国の学者が、「日本人は公と私の間に何もない。あるのは「無規範の空間」だけだ」と言いました。・・・自分の家の中で勝手に小便をする人はいない。また官庁や総理公館で小便をまき散らす人もいない。しかし、道路公園では誰でもやっている。だからそこは完全に無規範な空間である。
 

 私は、そういう真空状態があるのではなく、「私共空間」という特殊な空間があると考えます。

 学校に特有な「私共空間」(作り手は教師の場合もあれば、いじめのように生徒の場合もある)の例を教育失敗学でふれてきましたが、それを破る最善の策は、真の公共空間、「公私共同空間」の創造です。

 このことをしばらく考えていきたいと思います。

マスコミの典型教材「朝ズバッ!」

 有給休暇がとれたので、ゆっくり新聞を読む時間がとれました。
 社会的事象に対する多面的・多角的な見方を育成する教材として、一面的・決めつけ的な見方を事例にすることがあります。
 TBSの情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」での「不二家報道問題」が報道されていますが、これまでにも、陰山英男に現行学習指導要領批判をさせたとき、「中学校の地理では外国を3つしか教えていない」などと虚偽のコメントを訂正なしに流しっぱなしにしてしまったことがありました。中学校の学習指導要領や教科書を読んでいない高校の教師まで、外国の名前と位置を知らない中学生が増えたのは学習指導要領のせいだと誤解する始末です。
 信用を裏切った企業を徹底的に叩く。司法が裁く以前に裁ききる。これがマスコミの道徳感覚であり、ねつ造ぎりぎりの手段を使う。
 「徹底的に叩く姿勢」を見せるのが「報道機関らしさの象徴」であり、「10年以上前の証言に基づいて・・・」などという情報収集の裏話は隠す。
 情報を隠す姿勢は、企業もマスコミも同じです。
 学校はどうかというと、昔「行き過ぎた性教育」が問題になったことがありました。学校は、保護者からの批判を避けるため、「教材を家に持って帰ってはダメ」「学校で教わったことを家で話してもダメ」と統制を行っていました。
 報道機関も「私企業」なので、競争相手の企業がスポンサーについていたりすると、敵対する企業が問題をおこすと徹底的に叩く。私企業だから、「私共空間」の論理で動くのはしかたない面もありますが、報道の倫理規定ってそのレベルでしたっけ?
 学校で情報リテラシーを教えるとき、「朝ズバッ!」などは典型的な教材になって助かります。
 教材としての効果は、「自分に都合の悪い情報を隠すことが、正しい生き方だと思っている人間が世の中にはたくさんいることがわかる。」「自分に都合の悪い情報の隠し方がわかる。」「相手に都合の悪い情報のうち、より相手が不利に見えるようにする工夫がわかる。」などです。

愛国心を嫌悪する子どもたち

 政策が振り子のように左右に大きくふれやすいのと同じように、子どもたちのものの感じ方、考え方も非常に大きく揺れやすい時期が、小学校~中学校時代です。
 「愛国心」という言葉は法律の文言上ではでてきませんが、改正教育基本法やそれに伴う学校教育法などの改正に反対している人々は、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」を教育の目標にすることを批判しています。
 マスコミの報道も「これに賛成」という人はテレビに出しませんし、子どもは「教師の多くが反対派である」ことを知っていますから、教師に気に入られたい子どもたちの一部が「国を愛してはいけない」のだと誤解し始めています。反対者は「国=政府(行政府)」だと考えているのでしょうが、子どもには「国」がさすものを状況によって使い分けできない。ここに問題の根の一つがあります。
 ここでは政府が「国(これは政府のことではありません)を愛すること」を教育の目標におくべきでない、という考え方に対する意見を述べます。
 結論から言えば、郷土や国は愛すべきものであって、自国に対してそれができるからこそ、他国に対してもできる。国際社会の平和と発展には、自分や自国を愛すること、他人や他国を愛すること、違う考えを認めることが必要だということです。だから教育の目標にあっておかしくはない。
 国が・・・とは言っても、これは政府が考え出したものかもしれませんが、日本は国会における国民の代表者が決めるという民主主義のルールがあり、そのルールに基づいて成立した法律です。ルールに基づいて決まったものは、みんなで守るというのが民主主義の仕組みですが、学校ではそうならない。思想や信条の自由があるので、「私は反対だ」の思うのは自由。「反対だ」と言うのも自由。でも、卒業式前に国旗を燃やしたり、卒業式中に叫んだりして会の進行を妨害してはいけない。
 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」に反対している教師たちの論理の中には、自分たちの指導力レベルの低さを如実に証明してしまっているようなものもありますが、子どものまわりにはそういう教師ばかりなので、なかなか自分の誤りにも気づくことができません。(一方では、批判一辺倒のマスコミの怪しさに気づき、その逆のことを考えるような子どもも増えていますが。)
 たとえば「我が国と郷土を愛する」態度とは、どう評価するのか。この評価の内容は指導の内容と一体ですので、ここでは反対者の事例を挙げませんが、私の考えをいくつか述べたいと思います。
1 我が国の優れた伝統と文化を理解し、それらを生み出した先人や先人たちの生きた郷土・国といった環境に興味や関心を高め、それらを継承し、郷土や国をよりよくしようとする意欲をもつこと。
2 我が国の伝統や文化のうち、望ましくないものを郷土や国のレベルでも排除し、他国からも愛され、尊敬されるような郷土や国のあり方を考えられること。
3 自分を愛する価値と他人を愛する価値は平等であるように、自国を愛するように他国を愛し、他国を愛するように自国を愛することができるようなものの考え方を身に付けること。
 改正教育基本法反対者のうち、国が「国を愛する心を教育の目標に入れよう」というのがおかしいという意見の人もいれば、「学校は学校の文化でやる。法律は関係ない。」という批判もしない人、「国を愛する必要はない」と言う人もいるかもしれません。しかし、この「国」には成員である自分自身も含まれていることを忘れてはいけないのではないでしょうか?

水戸黄門が民主国家を滅ぼす?

 50代以上の方の考え方に違和感を覚えることが多いのですが、職場に20代・30代が少ないので対話ができず困ります。
 岡本薫「日本を滅ぼす教育論議」(講談社現代新書)では、日本人の「お上頼み」、(司馬遼太郎の)「専門家畏敬主義」が紹介され、その典型的な例として「水戸黄門」などの例が紹介されています。
 歴史的背景をふまえると、日本人が「権威」に弱いことはある程度証明できると思いますが、「弱者の味方をする権力者」がみんな大好きなのでしょうか?50代はみんな「水戸黄門」が好きなのでしょうか?若い世代は?
 私は「水戸黄門」については、子ども時代に観ていたウルトラマンと同じレベルで、最初から必殺の兵器(葵の御紋、スペシウム光線)を出せばいいのに、番組を成立させるために最後に持ってくる、くらいの認識なのですが、著書によれば、権威ある者が悪者を倒すのを日本人は爽快だと感じる。これは、遠山の金さんや暴れん坊将軍、大岡越前も同じだと言います。・・・私の感覚では、意地悪なおとり捜査ばかりでは世の中はよくならないのでは?現場の優秀な行政官にとっては迷惑な話?結局、絶対に主人公は負けないから安心して観ていられる・・・程度の認識です。
 「水戸黄門のように非民主的な番組の視聴率が高いうちは、日本を民主国家とは認めない」なんて言われたくありません。ただ、権威に弱いという特質があるのなら、それをうまくコンピテンシーに取り込めないか?と試行(思考)錯誤しています。

自衛隊が学校と同じ論理で動いたら?

 教育失敗学では、教育に関する失敗を実践上の問題、政策の問題、理念の問題などから分析しようとしています。HPでまとめた55の失敗例は、主に実践上の問題を扱ってきました。これは現場教師のコンピテンシーモデルづくりを想定していたからですが、「日本の教育をよくしよう」などと考え出すとしたら、学習指導要領のあり方や行政のあり方を考えることができる教師像も必要になります。コンピテンシーモデルでは、「戦略創造力」の分野に該当します。
 教育の政策上の問題を考える上で、文科省課長の経験がある岡本薫「日本を滅ぼす教育論議」(講談社現代新書)はある程度参考になります。ちょっと現場感覚の甘さと欧米礼賛主義的なムード、文科省の教科調査官のように現場経験のあるマンパワーを軽視しているところ、論議の仕方が話題の中心で、「ではどうする」論がないところが玉にきずなのですが、この本の内容をヒントに、教師の逆コンピテンシーを抽出することができます。
 たとえば、岡本薫も、「ルール感覚の欠如」を話題にしています。
 

日本で教育に関する議論をする人々の中には、いわゆる有識者でさえ、「『国会が決めた学校教育法や学習指導要領は、ルールとして守らなければならない』などというのは、現場を知らない『行政側の論理』であって、学校はそんなルールとは別に、独自の『学校文化』で動く」といったことを平気で言う人がいる。(196ページ)

 「自分が気に入らないルールは認めない」という論理を、自衛隊がもっていたらどうする?と岡本薫は言っています。自衛隊は行政側の論理でなく、自衛隊の論理で動くと主張したら・・・・。学校ではそれは許されてしまう?
 文化論的に言えば、日本人は「同質性の信仰」に陥っている。「みんなが自分と同じ心を持てるはずだ」という安易な考えをもっているので、「憲法に従って国会での多数決で決められた法律」などについても、自分の思想に合わないから認めない、というルール感覚のなさ。
 岡本薫は、「ルール感覚」がある状態を、次のように説明しています。
 「対立は必ず存在する」「ルールは、対立の存在を前提として、多数決で人工的に決める」「ルールが決められたら、反対していた人もそれに従わなければならない」「ルールは変更できるが、それには『変更に関するルール』に従った手続きが必要」「ルールが変わるまでは、改正前のルールに従わなければならない」
 これらの感覚が欠如した状態は、「独善」であるということです。
 では少数意見側の、たとえば犬山市のような場合はどう考えたらいいのでしょうか。犬山市は学習指導要領や文科省、中教審等の理念を忠実に実行して、責任感に満ちた独自の教育施策を練っています。的がはずれているとしても、学力調査に反対する理由を明確にして実施しないことを決めている。PTAや保護者、教師も賛成している(?・・何%が賛成しているのか、確認はできていません)。
 私共空間の中でも「本来の公共空間」に近い論理で「犬山市のルール」は存在しています。
 「ルール感覚」を考える上でも私共空間の壁は厚いのですが、「私共空間」に近い「公的権力」を待望する日本人の論理を続けて考えたいと思います。

ルールを徹底できない教師

 学校という公共空間は、社会と比べるといくつかの制約条件があり、それに対応したルールを設けているのが普通です。

 たとえば公立の小中学校でペットボトルのお茶やジュースを持ち込み可能にしているところは何%くらいあるでしょうか。公立の高校ではどうでしょうか。

 私が授業参観したことがある高校では、ゲーム、ジュース(紙パックやペットボトル)、お菓子、菓子パン、コンビニ弁当、携帯、マンガなど、あらゆるものが机に乗っていました。

 「他人もやっているからいいや」という私共空間が複数存在していました。

 ペットボトルなどについては、一般的な公共空間や家庭と違い、たとえば学校内のゴミ処理の方法がどうなっているか、ということから判断してみると、教室のゴミ箱は「燃えるゴミ」「燃やせないゴミ」の2種類あるか、「資源ゴミ」用のゴミ箱まであるか?・・・と言えば、ゴミ箱が教室に一つしかない学校も多いのでは?つまり持ち込み禁止のルールの前に、学校にはそういうものを持ってこない常識があったのですね。

 私は衛生面に注意して水筒がわりにペットボトルを使うことに賛成です(水筒は振り回したり投げたりすると危険なので、サッカーの公式戦では持ち込み禁止になっているところがある)が、持ち込み可能にすると、必ず学校に捨ててしまう生徒がでてくる。校外での活動だと現地に捨ててしまう。

 というわけでペットボトルは学校に持ち込み禁止なのでしょうが、では持ってきてしまったらどうするか?

 教師の立場からすると、ルールがある以上、持ち込んだのを発見したら没収するなどの措置を講じないと、ルールがなかったことと同じになってしまいます。

 「教師が注意しない」ことが、ルールを破っていい大きな根拠になってしまいます。
 ここで話題が一気に飛躍してしまいますが、「教育委員会が注意しないから(これは隠蔽工作も必要ですが、教育委員会にはそれを見破る義務がある。時間割を提出させれば簡単にわかります)」ルール(この場合は法令)を破る例がたくさん存在します。最近の高校での必修科目未履修問題がそれです。私の経験した例では、公立小学校の41人学級(以前申し上げた通り、この41人学級は教師の指導力のおかげで39人のクラスより質の高い教育が受けられましたが)。ほとんどの教師が意識していないかもしれない長期休業中(のうち、教師の勤務を要する日)の職務専念義務違反。

 飛躍の上に飛躍を重ねますが、教師がなぜ当たり前のように法令を破るのか。一部に、以下の理由による人たちがいるのではないでしょうか。

 「人間にとって法とは何か」(橋爪大三郎著、PHP新書)で紹介されている、マルクス主義の考え方をとる教師の例。マルクスにとって法律とは、階級闘争を隠蔽する(資本家が財産を持っているのは搾取の結果で、泥棒のようなものなのに、それを、正当に持っている、と法律はいう。取り返そうとすると革命になり、革命は刑法に違反してしまい、弾圧される)ものであり、資本家とその代表者である国家が、資本家に都合がよいように発した命令である。労働者、人民は、この法律に従う必要がない。・・・この考え方はレーニンや毛沢東に受け継がれ、日本では特定の政党、そしてその影響の強い組合に受け継がれる。

 私くらいの年代の人間にはわかりにくいことですが、おそらく50代教師の多くは「法律」に対するこのような受け止め方を理解できるのではないでしょうか。だから改正教育基本法は「改悪法」だから認めない・・・など。とくかく「法律」を研究すること、よりよい法律をつくろうとすること、法律の正義とは何かを哲学的に考えることは、バカバカしくてやってられない。法律学より経済学だ。

 驚いたことに(50代教師は驚かないのかもしれませんが)、橋爪大三郎もそういう人間の一人だったと言います。しかし、マルクス主義を卒業したきっかけは、「よりよい法律をつくろうと提案しないのは、現状のままでいいと言っていることと同じだということに気がついたから」だそうです。

 マルクス・レーニンにとって法とは、強制されるもの。だから、そういう法はなくてよい。学校にも、「校則」などは必要ない。・・・現実に存在しても、なくてよいと思っているから、校則違反に対して何もできない(しない)。そういう教師は50代ほど多い傾向がありませんか?

 しかし、法は強制ではない。強制がルールを生み出すことはないが、ルールは強制を生み出せる。法律の本質はルールである。橋爪大三郎は、こうした「法のルール説」の立場をとることになります。

 この立場をすべての教師がしっかりとれれば、よりよい学校がつくれると思うのですが、日本社会と法には欧米諸国と異なる歴史がある・・・これが「私共空間」を今に根付かせる背景になっています。
 
 

学校の統廃合と「私共空間」

 30人学級についてしばらく考えてきましたが、生徒数の減少の関連があるもう一つの教育問題に、「学校の統廃合」があります。

 郵政民営化に反対していた議員の主張に、「郵便局をつぶさせない!」というものがありました。統廃合の反対の意見は、これと似たような印象があります。

 私の住んでいるところから、自転車で5分以内にいける郵便局は、何と6~7カ所もあります。同じく、自転車で10分以内で行ける中学校も、同じくらいあります。

 町内から郵便局や学校が消えることは、おそらくほとんどの日本人にとっては「好ましからざる現象」だと思います。(砂ぼこりや騒音、ピンポンダッシュや落書きなどで迷惑を受けている近所の方は別かもしれませんが・・・)

 公共空間より「私共空間」を優先する日本人の話がとぎれていますが、日本人には「市」や「区」のような(まして「都」や「県」などのような)大きな空間は「自治」の空間とは認識されにくく、「町内」が実感をもって(「マンション内」でも実感をもたない人も多くなっていると思います)把握できる広さの限界でしょう。

 町の自治で成立しているわけではなく、本来はあくまでも「区」や「市」のレベルで検討すべき学校の統廃合。しかし一方で、「地域の中の学校」という存在意義を行政側で指導してきた経緯がありますから、「学校を守れと言ったり、消すぞと言ったり、ころころ変わって何事だ!」という反発はあってもっともです。

 その地域から票を集めているような議員にとっても、反対の声が強ければ死活問題。

 しかし、ほとんど歩いて4~5分しか離れていないところに、1学年1~2クラスしかない学校が2つ必要か?・・・これは、税金の無駄遣いを徹底的に検証している団体から見れば、おかしなことでしょう。統合すると教員数も足し算というわけにはいきませんが、校庭や体育館、プール、図書館などの施設は1つ節約できる。統合の状況によっては、学級の人数が20人代になるかもしれません。

 二つの地域が手を取り合って、新しい学校をもり立てましょう!マンパワーを2倍に!・・・なんて言っても、火に油を注ぐようなものか・・・。

 生徒数の減少はここ十数年、ものすごい勢いでした。クラスの生徒の人数が減ったのに、学力低下という批判を受けている学校。

 「地域の学校」はどうあるべきか。私は生徒数より先生の数が多い学校も管轄していましたが、子どもは本当に神様のように輝いていました。文字通り、「子どもは宝」でした。一人当たり、1000万円以上かけて、教育されている子どもは、親や教師の目から見れば、幸せそのものでしょう。しかし、子どもにとってはけっこうつらいものがあることを感じ取りましたね・・・・。「私共空間」にどっぷりつかって育った子どもたちは・・・。

30人学級だと授業の発表回数が増やせる?

 私の持っていた部活動の教え子はなぜか幼稚園・保育園の先生が多いのですが、その勤務のたいへんさには会うたびごとに同情してしまいます。親が大変なことは想像におまかせするとして、とにかく子どもが大変。かみつく、暴力をふるう、つねる、甘えて先生を独占したがる・・・叱られて当然の子どもたちですが、家庭ではその子どもたちは食事をまともに与えられていない(パチンコ屋の景品のお菓子で毎日生きている子どもたちはテレビでも紹介されました)、虐待を受けている、・・・親の愛情を知らない子どもたちに、先生とはいえ他人の大人がどこまで教育できるのか・・・。同情を超えて愛情を注ぎつつ、厳しく教育することの難しさ・・・。
 おそらくめざましい進歩もないまま、このような子どもたちはレッテル付きで小学校に入学する・・・。小学校の教師は、親や幼稚園・保育園の力のなさに憤慨する・・・。30人学級でもきびしい現実がそこに生まれます・・・(自治体によっては小学校低学年の30人学級を実現しています)・・・。
 教え子たちは本当に疲れてしまって、円形脱毛症にかかるわ、高熱がひかなくなるわ・・・。
 「それはあなたが住んでいる地域がそういうところなんでしょう」と言われてしまうかもしれませんが、1人の子どもの教育に対する責任の重さというのは、たとえどんな地域でも、果てしないものがあるのです。教師ならたいてい、一番教育が難しかった・・・けれども一番教育の意味を考えさせてくれた・・・そんな子どもを持った経験があると思います。
 40人学級を30人学級にすれば、こういう問題も解決する・・・と思う人はいませんよね。
 私は大きなメリットがあるこの30人学級に、「一人一人に目が行き届く」などという安易な理由で移行してほしくないのです。
 本当に自分は傲慢で申し訳ないですが、私は(中学校ですが)クラスの人数は30人より40人の方がいい。1人でも多くの子どもの担任でありたいのです。教科の方では、400人を担当している。これもできれば多い方がいい。30人学級で学級数が増えると、もてるクラスが少なくなってしまいます。あとは講師の先生にお願いするしかない・・・。それは歯がゆい。
 どこかのHPに30人学級のメリットとして、「授業での発表回数が増やせる」というのがありましたが、授業での「発表」は、挙手をして全員の前で1人が自分の考えを言うことだけではありませんから、この理由は誤解を招きます。まず「発表」する値打ちのある内容か。「発表」させる前にノートにまとめさせたか。3~4人のグループで発表し合う形をとったか。ジグソー学習の形態をとったか。クラスを超えて発表できる(紙上討論のような)方法を工夫したか。・・・このことには「評価の失敗」の中でふれてきたことを含みます。
 繰り返しになりますが、30人でなければできないことは何か。40人だとできないことは何か。それをきちんと吟味したいと思います。
 これは、教師の能力を向上させることとセットで考えなければなりません。 

30人学級は「少人数」と言えるの?

 「redu06」さん、コメントありがとうございます。
 30人学級の実現が現実的に難しいのはお金の問題からですが、もし自治体が住民税を大幅にUPするなどして、その実現にこぎつけたとしましょう。そこでどんな問題が発生するか。
 私の住んでいる地域には、8~9クラスという大規模校があり、かつ学校選択制(東京都区部では80%が実施。学区域が広い市部では30%にとどまる)によって、もとの区域外からの希望者は抽選で入ることになります。
 もし30人学級が実現してしまうと、クラス数は増やせませんから、80~90名の希望者が新たに入学できなくなります。
 単学級の小学校では、たとえば36人のクラスは18人×2の2クラスになりますが、2人の担任の指導力が同じレベルでないと、保護者や児童の側からどんな声が聞こえるようになるか、想像できますよね・・・。
 これまでにも30人学級の問題点は述べてきましたが、一方のメリットも、当然、大きなものがあります。
 36人の単学級が2クラスになり、18人学級になると、習熟度別学習集団(学級ではない)編成など、能力に応じた教育が実現します。体育や音楽などでは2クラス合同で授業すればいいので、効果的な運用を学校ごとにできるようになります。
 ただ、ここで明確にしておかなければならないのは、18人を教えるときにはできて、36人を教えるときにはできないことは何か、ということです。18人学級規模の学校と、36人学級規模の学校を徹底的に比較してみることです。そして、36人学級規模の学校がどの面で劣っているかを証明しなけれなばなりません。
 私立や国立のように、常に40人いっぱいいっぱいの教室でも、高い教育効果を実現しているのはなぜか?ということも、その実践の場に立って見てみることです。生徒が優秀だから成立しているのかどうか。(・・・30人学級が法律で決まると、校舎を増築しないと定員そのものが25%経ることになり、競争がさらに激しくなりますね)
 「少ない方が目が届きやすく、学力も向上する」というのは甘い考えで、指導や評価に新たな工夫が加わってこそ、学力向上は実現するのです。
 総合の発表やワークショップのように、内容によっては、100人でやった方が効果が高いものもある。
 私は2校目の学校で夏休みに3週間くらい補習をやっていました(専門でない教科の数学や英語)が、これは10人でも大変。本当に全員の学力を向上させようとしたら、塾のように本当の少人数制にしないといけません。
 塾などでは、何人以下を「少人数指導」というのでしょうか?
 18人学級は「少人数」でしょうかね?
 

「犬山の教育の重要施策2006」を読んで

 「かずくん」さんより
 

僕の勝手な想像ですが、お国の指示に従うこと自体が犬山市にとっては懸念すべきことかと思います。犬山市は独自の教育路線を取っているのに、文部科学省の教育路線が正しいことを証明するための全国学力調査を犬山市でしてしまっては、一見すると犬山市の教育路線が失敗だったことを示す結果が出る可能性があります。こうなってしまっては、各メディアからバッシングの雨嵐となって、犬山市も方向転換を余儀なくされます。今まで類まれなる努力で築き上げてきた教育ノウハウも、風の前の塵に同じ。虚しいですね(笑)
 学力テストというのは、テストの内容が違えば、出てくる結果も違うわけです。そういう状況で、出題者=国なら、国のいうことに従ってきた学校の評価が高いのは当然。しかし、犬山市が作成したテストで全国統一テストをしたら、犬山市の生徒は好成績を収めるのでは?
 ということで、まぁ、犬山市のやり方も間違ってはないかなーと思います。僕だったら、素直に国の言う事に従いますが(政治的なメリットが欲しいから)

 犬山市教育委員会の施策を読むとわかるのですが、現行の学習指導要領の理念をかなり忠実に実行しているようです。そういう意味では、犬山市は「お国の指示に従う」自治体です。
 犬山市の施策が優れているのは、教育の本来の担い手らしい内容になっていることと、施策の中身が具体的で、批判しやすい表現になっていることです。具体的な議論がしやすい。
 犬山市が反対しているのは、「学力調査」なのですが、犬山市教育委員会は、この調査が「国語と算数、数学」の学力を調査しようとしていることを、「学力すべて」を調査されようとしているかのように誤解してしまっている問題があります。せっかくいい教育をしていることが、学力調査と同時に実施される質問紙による学習習慣や生活習慣のアンケートで明らかにされようとしているのに、それも拒否せざるを得ない態度をとってしまった。新市長は実施してほしいのに、教育委員会が拒否している。ここが行政委員会という地方自治の中でも独特の位置にある教育委員会らしさが発揮できるところですが。
 犬山市の施策で他にちょっと気になるのが、少人数指導をすれば学力がつくという考え方。少人数学級のもとで豊かな人間関係を形成するという考え方です。決してそうはいかないぞという事例を肌で実感している立場から言えば、犬山市は前提から間違っています。教育社会学者の苅谷剛彦のように、教師の人数を増やせば質が下がり、効果が減少するとは私は思いません。子どもの数が減っているのですから、増やす必要はないのです。子どもの減り方が激しかったのに、教員をそれに応じて減らすことはできず、自然に少人数化しているのですから。
 また、犬山市は「自ら学ぶ力」の意味を勘違いしています。
 教師を例に考えてみてください。総合的な学習の時間のねらいは何でしょう?その一つに「自ら学ぶ力の育成」があります。他に何がありますか?・・・これは、学習指導要領の総則を読まなければわかりません。これを読まずに、子どもに「自ら学ぶ力」を育成する方法を自分で考えているのですか?こういう教師の態度を「自ら学ぶ」というのでしょうか?
 どんな学習でも、まずは「習得」というステップが必要なのです。総則には何て書いてある?
 総合的な学習の時間の実践のうち、「習得」の段階がないまま体験や発表で終わってしまっているものが、「深まり」のない、「これならやらなくてもよかったな」「何の勉強だったんだろう」学習になっています。
 「教え込み」というと「無理矢理」というイメージがありますが、職人さんのように「見てまねしろ」式の教育は別として、全員にまず同じスタートラインに立たせる準備が必要です。
 そこで初めて「習得」した力を「活用」し、役に立ったという充実感、自分もできるという自己肯定感、先生に教わったとおりだという信頼感が生まれ、その先に、「探究」という知的好奇心をさらにかきたてる世界が待っているわけです。
 間違っていたらごめんなさい。犬山市は独自の副読本を作成しているようですが、その中に「社会」科の副読本は含まれていないのでしょうか?地域の素材を生かした教育が一番しやすい教科なのに、国語と算数と理科しか副読本がないのかな?
 学力調査の話に戻りますが、テストの内容でできがかなり左右するのは、単純な知識を問うような社会科や理科の場合です。国語や算数、数学という教科は、まず当たりはずれがありません。漢字や計算というのは、基礎中の基礎ですし、読解力がなくて社会ができるわけもなく、計算ができなくて理科ができるわけもないから、調査の対象とする教科としてはベストだと思われます。

文部科学省の責任と地方自治体の責任

 「かずくん」さんよりコメントをいただきました。ありがとうございます。
 こちらに一度引用させていただいて、お答えさせていただきます。ちょっと長くなりますがご辛抱ください。
 
 

一つ疑問があって、kurazohさんは文部科学省にも責任(悪い所)があるというスタンスですか?
 僕の場合、お金の配分という点から考えて、責任は①文部科学省(国) ②地方自治体 ③校長 という順番かなと思いました。理由としては、学校の財源の半分は地方交付税で、その半分は地方税ですよね? もし校長が上の指示に従わなかったら、その学校に配分されるお金も減るのかなぁって想像したのですが、そういう状況はないのでしょうか? もし指示に従わなくても、何も圧力を受けない状況なら、誰も学習指導要領など従わないかと思いますが、いかかですか?
 とはいえ、現場に近い立場の人がしっかりしていた方が問題は解決しやすいというのは一理あると思います。

 
 教育政策にかかわる文部科学省の責任は、もちろんたいへん重いものがあります。
 ただ、お金の出所と責任の重さは簡単に比例の関係と考えることはできません。財源が税であるからです。
 税というと「国」というイメージがありますが、地方分権の流れから「地方」への財源委譲が進んでいきますので、本来の担い手の責任が重視されるようになってくると考えられます。
 公教育の本来の担い手は、地方自治体です。公立の小中学校長の上司は区市町村教育委員会教育長です。ですから別に大臣の命令を直接聞いているわけではなく、大臣の命令をそのまま区市町村教育委員会教育長が小中学校長に命令すればそうなってしまいますが、主役は教育長です。
 では文部科学省の仕事は何かというと、教育全体の基準をつくることです。
 たとえば、学習指導要領というものを定めることによって、学校ごとに好き勝手に特定の教科の授業時数を減らさないようにしばりをかけています。もしこのしばりがないと、たとえば中学校で、数学と英語に力を入れ、音楽や技術・家庭を履修しないでよい(保護者によってはそれを切実に望んでいたとしても)と決める学校ばかりになると、音楽や技術・家庭の教員が必要なくなってしまいます。私立学校も公立より英語の授業を多く実践したとしても、他教科で「標準時数」を下回ることはできません。だから土曜日も授業をすることになります。
 また、公立高校の入試問題は、学習指導要領に示された内容の範囲内で出題することになりますから、基本的に未習の問題は出されません。
 では学校はこの学習指導要領というものによってがんじがらめになっているかというと、そうではなくて、現行の指導要領でいうと総合的な学習の時間の時数と選択教科の時数を学校ごとの実情に応じて定め、総合はねらいを実現できる内容ならば自由に決めることができます。
 各学校は何をどれだけの時間教えるかを定めた「教育課程」をつくり、校長が(実質的には副校長や教務主任が)、公立小中学校だと区市町村教育委員会教育長に受理してもらいます。教育長は、(実質的には教育委員会の指導主事がチェックをしますが)各学校から提出された教育課程(案)が気に入らなければ、つきかえして「これでよし」というまで校長に(学校に)検討させることができます。
 これが、学校と国、地方自治体の関係です。
 教育社会学者の苅谷剛彦は、教師に能力がないのに総合を導入したのが政策の失敗だと言っています。もしこれが正しいとすると、文部科学省の責任になります。
 教師に信頼をよせた文部科学省が悪なのか、文部科学省の信頼に応えられない教師が悪なのか?
 私の考えは、文部科学省の政策を現場がきちんと実践できるように指導できない教育委員会が悪です。・・・これは指導主事をしていた私自身が悪だったということかな?(ちょっと弁解をさせていただくと、私の管轄していた各小中学校では、総合もきちんと特色ある内容で地道に実践しています。ただ、学力がきちんとついているかどうかは、調査をしないとわかりません。また、たとえば総合で身についた力は、簡単には評価できないから成功しているか失敗しているかは謎である・・・・とも言えます)

犬山市の全国学力調査不参加に対して

 文部科学省の施策として4月に実施される全国学力調査ですが、犬山市と何割かの私立学校が実施を拒否しています。小学校6年生と中学校3年生が対象ですが、4月の実施ですので、実質的に小5までと中1・中2の学習の到達度が測られるわけです。
 この調査は、学力テストだけでなく、アンケートもけっこう中身の濃いものと予想され、おそらく実施した小中学生にとっては、学ぶことの意義を再認識するきっかけになり、教師にとっては、指導の改善に生かせる資料になると考えられます。費用対効果もそれなりでないと、税金で実施するコンセンサスが得られません。
 犬山市の学校に通っている子どもやその保護者、教師たちは、この政策の福利が残念ながら得られません。
 生徒の学力の実態が明らかになると経営が苦しくなりそうな私立学校は仕方がない(情報公開しない方が経営上有利なら、私企業だけにやむを得ない)としても、犬山市教育委員会教育長はなぜ「公共空間」に入らず「私共空間」に閉じこもる決断をしたのでしょうか。
 教科担任制をとっていない小学校や、小規模校の中学校では、特定の教師の指導力不足を測定する資料になってしまうから?成績が低いと、生徒は教師のせいにして、教師は生徒のせいにする・・・から?学校間の格差が明らかになり、学校選択自由化をしている地域では、さらに格差が広がるから?国語と算数・数学のテストの結果だけを「学力」と見られるおそれがあるから?授業時数を確保したいから?答えを教えるなどの不正を行う教師が出るおそれがあるから?(「ヤバい経済学」(東洋経済)に紹介されています)
 メリットしかない政策などありえません。
 まず、子どもにとって必要か、不必要か、そこから考えましょう。
 競争原理のはたらくことが問題?・・・私立学校をこの世からなくしたいのですか?
 「公教育」に競争はいらない?・・・部活動の大会やコンクールも廃止したいのですか?
 同じ問題を次年度も使って経年変化を見る目的があるでしょうから、すべては公開されないでしょうが、問題の一部(おそらくできが悪かった問題)とアンケート結果の分析がやがて公表されます。
 またそのときになって議論をしてみたいですね。
 基本的には教育行政というのは地方自治によるものです。プラス面があってもマイナス面があるなら実施しないという自治体が正しいかどうかは、住民が判断する問題かもしれません。

NHKスペシャルから ~教育と地方自治~

 期待はしていませんでしたが、最後まで見てしまった今晩のNHKスペシャルも残念ながらはずれでした。一応大事な話もでてくるかもしれないと思い、テレビを離れることをしませんでしたが、あれだけの内容で90分休みなしは厳しい。コーヒーも飲めませんでした。
 電話世論調査の内容も陳腐で、議論の対象にすらならない。AとBとどちらが大事ですかと言われて、両方大事だと答えられない質問の仕方がおかしい。少なくとも、優先すべき理由まで聞かなければ、分析の対象になるデータにはなりません。教育社会学者が出ていたから、Aと選んだ家庭は高収入で・・・などという分析があるかと思いきや、それもなし。
 また、今晩は、先生よいしょの番組づくりになっていて、そこではなぜか教師の多忙は悪のような議論になっていました。悪の代表が研修や書類づくりなどの事務仕事。「雑用」などという言葉も使われていました。しかし、世の中に本当に「雑用」と呼べる用事はあるのでしょうか。ただ雑にやりたいだけの用事なのでは?
 教育者が「雑用」などという言葉を使ってはいけません。・・・とどなたかが書かれていたような記憶があります。
 コンピテンシーモデルの中には「時間効率追求」という観点があって、例えば無駄な会議や報告の時間をいくらでも減らすことが可能であることは述べてきました。
 「仕事が忙しい」というとき、私は実家が自営業だったせいか、マイナスのイメージがほとんどありません。
 「店が忙しい」というと、売り上げが伸びているということなので、明日は肉が食べられるかなとかいう期待を抱いてしまうものです。
 教師になってからも、帰宅が毎日のように深夜になるので、「先生も忙しいのね」と言われましたが、皮肉ではなく「おかげさまで」という感覚でした。
 満足な教育ができないのは教師が多忙だから?本当ですか?
 
 毎度おなじみの面々の意見が一致していたのは、校長や教育長がしっかりすることが大事だという話。
 一般の人にとってわかりにくかったかもしれないのは、義務教育は地方自治の仕事という話。それなのになぜ文部科学省の通達が・・・?となりますが、文科省の通達は都道府県教育委員会教育長に出されるもので、別に都道府県はそれをそのまま市区町村教育委員会教育長に出す必要はありません。都道府県なりの味付けをしていいわけですが、そのままおろしているだけの自治体が多い。ひどいのは市区町村教育委員会もそのまま味付けをせずに公立小中学校におろしている。優秀な校長なら、うまく料理して教員に周知できますが、結局はんこを押して職員室内に回覧するだけ。
 教師は、まず校長に注文をつけるべきで、その次に市区町村教育委員会(教育長)に、次に都道府県教育委員会(教育長)に、そして最後が文科省なのに、なぜか直接文科省が批判のターゲットになる。これはおかしいということが、番組ではわかったはずですがいかがだったでしょうか?
 教育長の評価というのを開発するとおもしろいかもしれませんね。校長の評価には、私のコンピテンシーモデルがそのまま使えます。
 

学校選択自由化後の人気校の悩み

 人気校の悩みは、テレビ番組でも紹介されていましたが、1クラスの人数の増加です。
 平成18年度の東京都の小学校の普通学級1クラス平均の人数は31人、中学校では34人です。あくまでも平均ですが、小学校では「30人学級」がほぼ定着しています。学校選択自由化によって、人気のある学校が40人近くになっている一方、20人を下回る学校もある。どちらの学校の生徒の成績がよいのか・・・。それは人数で決まることなのでしょうか?

「私共空間」の論理による学校選択自由化反対について

 学会や研究会の代表者がある特定の問題について見解を発表した場合,そこに所属している人はみんな同調しなければならないのでしょうか。「私共空間」の人間は本当に不自由なものですね。「協調性」ではなく「同調性」では並外れた能力を誇る日本人の典型パターンです。
 たとえば,学校選択自由化について,反対している団体があります。その団体の人たちはみんな反対者なのでしょうか。
 学校は「公共空間」に開かれたものであるべきものだから,私は選択自由化に賛成です。「ここに住んでいる人間はここの学校に入らなければならない」「ここに住んでいない人間はこの学校に入れない」というのは,「私共空間」の論理であって,たった10mの違いで人をそこまで差別的に扱うのか?と疑問に思います。
 「私共空間」を維持しようとする意思は非常に強固なものなので,逆の立場にたつのはつらいことですが。
 たしかに,地域に住んでいるなら地域の学校のために貢献すべきだという論理は正しいので,子どもが通っている通っていないにかかわらず,協力すべきことはたくさんあると思います。しかし,私の中学校時代のように,教員が職員会議で校長を「おまえ」「権力の犬」呼ばわりしたり,授業中に廊下をオートバイが爆走していたり,トイレの壁がなかったり,毎週のように窓ガラスが割られ,対教師暴力が行われてちょくちょくパトカーが出動している学校に入れ!という指令はいかがなものか?と子どもながらに思いました。
 また,そもそも学校は地域と連携らしい連携をしていたのでしょうか。ほとんどの学校が,掲示板に学校便りをはるくらいなものでしょう。道徳地区公開講座に,どのくらいの地域住民が参加しているのでしょうか。
 当時は指定校変更という手続が,一部の議員や役所の役人の口ききで可能でした。さもなくば中学受験しか選択肢はありませんでした。ですから,選択自由化に踏み切った自治体の中には,特定の人間の力を利用できなければ指定校変更ができないのはおかしい,という声がきっかけだったところもあります。ひどい例は埼玉県に住民票があるのに,東京都の中学校に通っている。足立区の場合は,選択自由化によって,これをくいとめることができるようになりました。
 小学生にとって,進路を選ぶこと,進学したい学校が選べることは,よくないことなのでしょうか。
 受験を経験している人は, 「小学生の進路はほとんど子どもではなく親が決めるものだ」と思っているかもしれません。それはそれで正しい。保護者にとって,子どもの進路を選ぶこと,進学させたい学校が選べることは,よくないことなのでしょうか。
 

阿部謹也の「世間」と「私共空間」 その2 互酬関係

 宝くじ当選者の話は、よく日本と欧米の文化の違いを示す例として紹介されることがありますが、阿部謹也も「世間」の構成原理から説明しています。

 日本では、欧米のように、1億円が当たった人が公開され、その使いみちを誇らしげに紹介するような機会はまずありません。私ぐらいの世代だとそれほど強く感じませんが、阿部謹也は「当籤者の名前が発表された場合、おそらくその人の親族や世間を構成する人々、あるいは何の関係もない人からさえ金の無心が相次ぐであろう。親族や世間を構成する人々は自分も何らかのおこぼれにあずかる権利があると思っているのである。」と述べています。

 日本人は、世間の中で、世間の評価を気にしながら生きている。「私共空間」に生きている人間にとって重要な評価とは、その中での評価であって、外部からの評価、公共空間からの評価ではないのです。

 たとえば「いじめ」ている集団にはそれなりの論理があり、外部から「それはいけないことだよ」と言われても、聞く耳を持たない場合がある。

 また、「私共空間」の評価は、長幼の序のように実ははじめから決まっているのであって、改めて評価するまでもない。これが、学校で言えば「学校評価」を面倒くさがる原理でもあります。「自己評価」ですら、拒否する教師がいるわけです。自分の立ち位置は、わたくしどもの「世間」の中であらかじめ決まっているのであって、管理職のような「外部」の人間に指示される覚えはない。そもそも「私共空間」は内部での関係性を変化させないのがルールであって、組織を改善するなどもってのほかである・・・。

 ところで、評価を報酬に直結させる、企業のような手法はどう捉えたらよいでしょうか。

 「優秀な教員のやる気を高めるために金銭的な報酬を」というのは、教員免許をもっていない事務職員の発想であり、ごくわずかに実行されていますが、そのやり方には私は賛成できません。

 能力が低い教師の昇給をストップし、実績をあげた教員にその分をまわす。これは、教師集団という「世間」の中では、互酬の原理に真っ向から逆らう政策ですが、これで「公共空間」化は図れるのでしょうか。

 私なりの表現をすれば、この政策は公的な「私共空間」による強引な「公共空間」化です。

 公共空間で仕事をすべきであるという自覚、目覚め、それを促せるようなコンピテンシーモデルを創りたいものです。

阿部謹也の「世間」と「私共空間」 その1 長幼の序

 阿部謹也は、小さな「世間」の例として、団体旅行の集団を挙げています。列車の中で宴会が始まれば、その「世間」に属さない人の迷惑などはまずかえりみられることはない。「同じ列車に乗っている人々はただの人であり、ほとんど関係のない人で、他人ですらないのである。いわば人間ですらないといってもよい。自分達の世間の利害が何よりも優先されるのである。このように世間は排他的であり、敢えていえば差別的ですらある。」

 私も職員旅行や学年旅行のたびに、その集団の一員であることをつらく感じた経験をしてきました。アルコールが飲めない私ははじめから「世間」外の人間だったかもしれませんが。

 この例は以前にも述べたように、「私共空間」の典型的な事例で、阿部謹也の説明を読んでもわかるように、「いじめ」を生む強力な空間でもあります。

 阿部謹也は「世間」の掟、世間を構成する原理として、長幼の序と贈与・互酬の原理を挙げています。

 学校現場という「世間」で非常にやっかいなのが「長幼の序」です。経験とともに指導力を向上させ、給与と比例してコンピテンシーモデルに近づいている教師ならば、学校の核として重要な存在になっていると思いますが、管理職に抵抗するための権威として利用されているとき、逆コンピテンシーの核となってしまいます。

 「世間」の内部は、競争ができるだけ排除されており、あまり有能とはいえない人でも、その「世間」の掟を守っている限りそこから排除されることはなく、能力のある者がそれなりの評価を受ける保証がない空間です。

 教育は、教師たちのこのような「世間」「私共空間」を子どもや保護者、地域住民がどう「公共の空間」化していけるかが勝負です。「外部評価」は、「私共空間」を破る手段の一つだと考えられます。そしてその評価基準の一つが、教師のコンピテンシーモデルです。

「世間」と「私共空間」

 ドイツ中世史が専門の歴史学者である阿部謹也が著書『「世間」とは何か』で述べている「世間」は、私の造語「私共空間」の範疇の中で日本的な要素を強く含んだ空間を示しています。

 阿部謹也は私風の言い方では、学会や学者たちの「私共空間」に嫌気がさし、公共空間の中で真理を追究しようとした人物です。昨年9月に亡くなられてしまったのが悔やまれます。

 阿部謹也が言いたかったことは「はじめに」と「序章」で100%理解できます。

 日本の学問の問題を、「叙述の中に自己を示すことができない」こととし、その理由について以下のように述べています。『「世間」とは何か』(講談社現代新書、5ページ)
 
>西欧の学問や技術を輸入しようとした政府や開明的な人々は、世間という言葉を捨てて社会という言葉をつくった。そのとき古来の世間という意識に基づく社会認識を形のうえでは放棄し、西欧的な形式を選んだのである。

 しかしそれは西欧の形式の根底にある哲学や世界観をもたず、形のうえだけの模倣であったから容易に輸入できたが、その形式は一般の人々の意識から程遠いものであった。

 わが国の社会科学者は、学問の叙述に当たっては西欧的な形式を用いながら、日常生活の次元では古来の世間の意識で暮らしてきた。したがって叙述の中に自己を示すことができなかったのである。

 日本人は「公共空間」より「私共空間」を重視する・・・ことの事例と背景について、阿部謹也の考察を学校現場の「個人」不在の「私共空間」と関連させながら見ていきたいと思います。

 
 

年代別教師の教育観

 引っ越しが終わり、ようやく自宅の机の上で仕事ができるようになりました。
 先日、50歳代半ばの教師と、「生徒に身に付けさせる力」のあり方について議論したことがありました。
 今の中学生たちは、「役に立つ知識・技能」を求める傾向がある。一方で、「役に立つと実感できない知識や技能」を身に付けようとしない。これはけしからん・・・。
 年配の先生は、「とにかく何でも学ぶことが大事。役に立つ立たないの判断は、中学生にはできない。」という主張でした。自分も中学校時代は、「なぜ学ぶのかを考えるのは危険」という意識をもって、そういう哲学的なことに頭と時間を使うよりは、目の前に山積している課題を処理することに専念していました。
 しかし、教師になって強く感じるようになったのは、「テストの時にしか役に立たないような無駄な知識が多いのは確か。そんなことの習得に時間を費やすよりは、将来使える力を伸ばすことに重点をおきたい」ということでした。教師になって10年がたったころ、総合的な学習の時間の試行がはじまり、その研究と実践に教科指導なみに力を入れてきました。しかし、「教養主義的」教師からは、知識量の低下を嘆く声が出始めた頃でもありました。
 ここで気づいたのは、年配の教師は子どもには教養を求めるが、自分にはそれを課さない。新しい学力観やコンピュータ等の活用技能など、「役に立つと実感できない知識や技能」を身に付けようとしないのは彼らたちであったということでした。
 少し脱線するようですが、私が東京都で教師になった年は、都の中学生の数は33万人でした。現在は22万人を割っています。(しかし学校数は665校から639校までしか減っていません。)この間、生徒数は一貫して減少傾向にありました。
 私より15歳以上離れた教師の場合は、新任のころから10年以上は生徒数が増え続け、47万人近くまで中学生が増えました。東京都の中学生は今の2倍以上いたのです。教師も大量に採用されました。
 団塊の世代の中学校教師が現場を退く時期が近づいていますが、彼らが教師になった頃の「日本の先行き40年」と、私が教師になった頃の「バブル絶頂・崩壊からの40年」とでは、日本の未来の展望の明るさには非常に大きな隔たりがあるような気がします。団塊世代の教師は若い頃に校内暴力等が激しかった時代を経験していますが、それを乗り越えてきたせいか、「たいした教育でなくてもあとは何とかなる」と呑気なムードがただよってくる。
 しかし、これからの20~30年を現場で過ごす教師は、団塊世代の教師とともに、彼らが育てた校内暴力世代を親にもつ中学生がこれから続々と入学してくるような環境なので、とても大きな使命を背負わされているという感覚が強い。社会の変化に対応する力をつけさせるというのは、ずいぶん前から教育の使命になっているはずだが、メディアリテラシーをはじめとして、時代についていけなかった人たちを送り出しながら、また大量に採用され始める新米教師のめんどうも見なければならない・・・。
 そういう感覚が影響しているせいか、私などは「学校で学ぶ知識や技能が役に立つと実感させられない教師が生徒からそっぽを向かれるのは無理もない」と思ってしまいます。
 教育番組で特集してほしいのは、年代別の教師の教育観の違いを浮き彫りにするような企画です。少なくとも教育論では、現場からはずれた教育評論家や、年配の教師に活躍してほしい。現場から彼らが去っていく前に議論で溝を埋めていきたい気持ちです。
  
 
 

「私共空間」から「私たちみんなの空間」へ

 学校という場を「公共の空間」と認識している教師や生徒はどれだけいるでしょうか。

 最近、やっと校舎内が禁煙となりました。

 しかし、公共の場の禁煙という原則が徹底しなかったために、「校舎内がだめなら、校舎の外で吸う」という教師たちが、休み時間に外の一角で群がって煙草を吸う光景が見られることがありました。当たり前の話なのですが外部から見ると異常に目立って見えて、ようやく「敷地内」全域の禁煙が徹底するようになりました。

 日本がまだ「開国」「一等国化」していない側面の一つに、喫煙率があります。

 先進国の中で、日本は喫煙率が高いことは知られていますが、それはいかにも自然や健康に配慮しているようにうまく見せているコマーシャルのせいでしょうか?

 それはさておき、日本人には「私共空間」という強力な「空気」を発する場を作り出す傾向が強いので、「公共の場」の範囲を徹底しないと、なかなか理想的な空間は作れません。

 「私共空間」は、ルールに則してないことでも「私共」であれば無敵です。小さい子どもをだっこしてとても疲れた雰囲気の母親が電車に乗ってきたが、だれも席を譲ろうとしない。眠っている。しかし、しばらくして一人が席を譲ったことで、眠っていたはずの人々は目を覚ます・・・。よくある風景です。「私共も疲れておりますのであなたには席を譲れません」というメッセージを、寝たふりをすることで送る。

 学校教育で「公共の精神」を養うことに重点をおくとすると、まず学校は「公共の空間である」ことを教師にも生徒にも徹底させなければなりません。部活指導に熱心な教師にも。

 教師に公共の精神が宿っているかどうかは、「机の上は整理整頓されているか。」「時間や期限を守っているか。」でひとまず評価できるでしょう。

 以前に、「生徒がだらしなくてこまる」と相談された学校の話をしましたが、外部の目から見ると、教師の方も十二分にだらしない。

 チャイムと同時に授業が開始できるかどうか。教師が空間や時間をルーズに扱わないようにしましょうと助言したら、しばらくして効果があったようでした。

 教育には、「私共空間」を「私たちの空間」「みんなの空間」に変える力が求められています。

評価の季節

 教育管理職が有能かどうか、学校運営が健全か不健全かを判断するわかりやすい基準があります。
 これは、「学校評価をいつ行っているか」です。
 教育課程の届け出を行おうとしているこの時期に、「年度末評価」のプリントが出されている学校はないでしょうか。平成14年の小学校&中学校設置基準の制定後、計画的・組織的な自己評価とその結果の積極的な公表、外部評価の導入を行うようになった学校が増えました。きちんと管理職から説明を受けていない教員はこの法令のことを知らないかもしれませんが。
 自己評価の結果を公表するのはいつが適切でしょう。それを考えれば、いつ校内で評価結果を検討すればよいのか、そのためにはいつまでに評価内容を集計したらいいか、そしていつから自己評価を始めればよいかが自動的にわかります。
 「評価」と聞くと「悪いところ探し」「問題探し」をすぐ連想する人もいるかもしれませんが、プラスの評価、たとえば「なぜこの活動が成功したのか」をきちんとまとめておくことも大事です。
 学校評価は、落ち着いている学校、周囲から「いい学校」と言われるところほど、手を抜きたくなるものかもしれません。ですが、現状は生徒が変われば変わる。教師が変われば変わるものです。どちらの方向へも。
 ですから、「教師のコンピテンシー」は大事なのです。どうやれば成功するのか。ふだんからどういう行動、価値が求められているのか。それを繰り返し確認する場が「学校評価」なのです。
 2月や3月になって入学式や運動会、文化祭の反省をしている学校はさすがにないかもしれませんが、学校評価は「年度末」にしかやらないという学校、最低なパターンでいうと学校評価という名称が存在せず、「年度末評価」になっている学校はないでしょうか。分掌や教科としての評価はどうやっているでしょうか。
 このような評価が組織的にできる学校であれば、学習指導も生活指導も思いつき・場当たり的に行われることのない、信頼性の高い教師が多い学校だということがわかります。
 「自分が学校を動いているんだ」という一匹狼的な方からは批判があるかもしれませんが。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より