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文科省キャリアの現場研修

 教育関係者のブログでは,文科省キャリアの現場研修については袋叩き状態のようですが,私は素直に喜んでいいと思います。現場の課題を体感させ,本当に必要な改革を立案してもらうために。
 ただ,こういう研修自体が失敗に終わるケースも想定しておく必要があります。
その1 現場が組織として機能していない場合(そのことに気付くことだけが成果となってしまう)
 私は行政に3年間いたので,一部の現場教師の行政嫌いは痛いほど肌で感じてきました。
 行政マンというのは,基本的には法令や中教審答申などを守り,それを忠実に実行したり,理念の実現に向けて努力しているだけなのですが,それに批判的な人は,法令や答申を出した人にではなく,それを実施するのが仕事である行政マンに不満をぶつけます。虫が入った料理を運んでしまった店員は,客に苦情を言われれば謝らなければなりませんが,文科省キャリアは少なくとも虫ではないでしょう。
 教師も法令を守り,各学校の教育課程を着実に実施する主体であるという意味で,全く同じ「全体の奉仕者」としての公務員なのですが,「現場に立っていなければ教育者ではない」みたいな風土もあり,テレビに出たりする「教育評論家」は馬鹿にされています。文科省キャリアは「お前は教師じゃない。教育実習生の延長版程度だ」として扱われるかもしれません。
 1年しかいないことがわかっていても,初任者と同じように教えなければいけないことが山のようにあるでしょう。それを,「どうせ1年しかいないのだから」と言って教えなかったり,仕事を与えなかったりしたら,「教育の課題」は体感できません。また,キャリアの目で見た学校改革の提言を受け入れようとする懐の広さがなければ,学校がよくなるチャンスも失います。
その2 授業そのものが上手すぎる場合(後から教える教師がやりにくくなる問題)
 教育現場は初めてとはいっても,文部科学省が調査等によって把握している現場の実態は理解しているはずなので,知識としては初任者をはるかに上回るものをもっていると考えられます。
 教科としては出身が法学部とか教育学部であることを考えれば,社会科が多いでしょうか。行政経験を踏まえた人の社会科の授業というのは魅力が感じられます。
 1年目の人にあまり上手すぎる授業をされるのは,ベテラン教師にとっては痛恨の極みです。教育実習生を毎年大勢受け入れている私の経験からわかることは,若い教師の授業の力というのは,大方が「自分がどういう授業を受けてきたか」で決まります。
その3 学校全体として教育実践がうまくいきすぎている場合
 個人的な意見としては,日本の教育行政が第一に取り組むべきことは,クラスの人数を減らすことです。欧米から教育視察にくる外国人がまず驚くのは,1学級の子どもの数が多いことです。
 極小規模校の子どもの成績が特段いいわけではないことからわかるように,クラスの人数を減らせば教育の効果が上がるというわけではありません。教師の力量が高ければ,10人でも40人でも力は同じようにつけさせられるのです。ただ,その逆の場合は,被害者が40人より10人の方が少なくなります。
 40人学級で成功している学校を知ってしまうと,改革が難しくなります。
その4 「失敗」を「失敗」と言われたくない教師が多い場合
その5 「評価」アレルギーの教師が多い場合
 受け入れ学校が,「将来の日本の教育行政を担う人材」を教育するという気概を持てるかどうか。そこが成功と失敗のわかれ道でしょうか。 

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 202頁より
「会社の中で上司になった場合,部下をうまく評価してリードしていく,そのリーダーシップ自体がその人の仕事力なのだから,部下がうまく育たなければ上に立つ人間としての評価は上がらない。そういう意味では教育的なセンス・能力,教育力というものが,一般の会社でも常に要求されるわけだ。」
 
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より