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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその16 自分への評価の目

 「評価」アレルギーをなくせるか?
 (逆コンピテンシーその16 主観優先である・・・「自己変革力」「戦略立案力」などに課題)
 失敗例では,「29:計画や評価のない実践を教育と勘違い・・・」に関連があります。
 「評価」と聞いて,成功体験の多い人,実力があると自覚(誤解?)している人の場合はプラスのイメージの方が強い一方,聞くだけでジンマシンが出てしまうような人もいるようです。
 評価というのは目標があって,それを達成しようとする実践があって初めて成立するものです。目標を自分の責任できちんと立てたものなら,実践に対する評価というのは,実践を改善して,より目標への到達度を高めるためにも必要なステップですよね。PDCAサイクルは,サイクルであることに意義があるので,「評価」だけ,「実践」だけが存在するわけではありません。
 以下の引用中の「若者」を「教師」に置き換えてみたらいかがでしょう。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 170頁より
「現在,『主観優先(好き嫌い優先)で別にいいじゃん』という人が増えてきてしまっている。その事態に社会全体が非常に手を焼いているが,そういう態度は勉強から逃避してしまった場合に起こりやすいことなのだ。勉強は客観性,多角的視点を非常に重んじるからだ。
 自分の好き嫌いにかかわらず,間違いは間違い。それを常に突きつけられることが大切なのだ。自分のものの見方が否定される。だが,その自己否定がいやなものだから,自分を試される場に身を置かない傾向が起きてくる。そうすると,ほとんど試されることのない,『勝手に決めつけ癖』を持った若者が仕上がってしまう。」

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より