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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその17 自己の再構成 

 習慣の奴隷になっていないか?
 (逆コンピテンシーその17 経験にこだわる・・・「成果統合力」「情報活用力」などに課題)
 失敗例では,「47:知識に縛られて・・・,49:苦労したものへのこだわり・・・。52:おさめるべきをすて・・・」に関連があります。
 公立学校には「異動」がつきものですが,中にはその頻度が高い(一つの学校で勤務する期間が短い)教師がいます。教師の側から希望する異動理由には,「管理職と合わない」「学校のやり方が自分に合わない」「荒れているからいやだ」「駅から遠い」「自宅から遠い」「交通が不便」「問題をおこした」などがあります。
 行政は,優秀な教師を集中させて「エリート校」を作るということをしない(最近の都立の入試問題自校作成校や一貫教育校,研究拠点になる学校では違うでしょうが)はずなので,公立にはいろいろな教師が働いています。「そこが公立のよいところだ」と自慢したい人もいるでしょう。
 私は公立で異動があることの最大のメリットは,学校ごとの優れた指導方法,教育技術が異動によって広まり,知恵が共有化され,学校がよりよい方向に改善されていくことだと考えます。だから教師や管理職の異動によって,荒れた学校の再建が可能になるのです。ただし,逆もあります。
 かつて,「落ち着いた学校に来られてよかった。少しのんびりさせてもらう」と言った教師がいました。冗談かと思ったら本気でした。
 すべての教師が気を抜かず,手を抜かず,生徒に目をしっかりかけているので「落ち着いた学校」であったはずなのに,その学校の雲行きはどんどん怪しくなってきました。その原因は言うまでもありません。
 一般の方は(子どもを学校に通わせている保護者の方にとっても),学校といったらその中のシステムはだいたい同じものだとお思いになるかもしれませんが,これは都道府県,区市町村,学校の規模,年齢構成,地域の特色などによって,不二家と山崎パンどころか,他業種の会社くらい違う習慣が見られるのです。
 たとえば生徒指導の方針。外部評価も含めた学校評価の方法。会議の仕方。その回数。その時間の確保の仕方。朝の打ち合わせの仕方。日直の仕事とまわし方。・・・教科の指導でも,東京都は免許を持たない教科を教えることはありませんが,専門外の教科を教える地域もあるようです。通知表は学校ごとに様式が自由。保護者会の回数。懇親会のやり方。校長室の位置と大きさ(悲しいことに職員室から離れた校舎の片隅の小さい倉庫のようなところもあります)。
 異動した教師が一番戸惑うかもしれないのは,生徒指導の方針や,会議の方法の違いです。
 最適な方法がとられていたのに変更して失敗する。最適な方法を実践できる教師がいるのに習慣を変えずに成功しそこなう。それぞれこの逆のパターンにすべきなのですが・・・。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 192頁より
「習慣を変えねばいけないときに対応できない人が落ちていくのだ(注・・・小学校から中学校に進学した子どもで,テストに対応できないことを例に)。だから逆にいうと,ある新しいところに入っても,そこの習慣によって自分を新しく再構成することができればよい。リストラクション―リストラといっても,クビという意味ではなくて再構造化―,つまり構造化をもう一度行う。習慣を組み替えることによってその状況に対応していく,それが人間に必要な適応能力なのだ。状況が変わっているのに,かつての習慣にのみとらわれていて,その習慣を変えることができないと滅びていく,ということだ。」

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より