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齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその15 評価の目

 信号が届いたという信号
(逆コンピテンシーその15 公平でない評価をしてしまう・・・「対人指導力」「対人関係力」などに課題)
 失敗例では,「43:目を合わせる自信がないことがわかってしまう。」に関連があります。
 研究授業を参観すると,生徒の発言を名票か何かにチェックしている教師を見かけることがあります。これは,発言回数やその内容を記録し,評価に生かそうとする目的だと考えられますが,ここでの課題を齋藤孝が端的に指摘している箇所があります(下記参照)。
 「観点別評価」というのが導入されてから,教師を悩ませているものの一つに,「関心・意欲・態度」の評価というのがあります。その趣旨については,国立教育政策研究所が平成14年に出している「評価規準の作成,評価方法の工夫改善のための参考資料」で示されているので,一般の人も知ることができますが,一部の教師が学習に臨む意欲や態度と勘違いしてしまっており,挙手や発言の回数を評価の材料にしている事例があります。現場では「のりじゅん」と呼んでいる評価規準は,ある意味では授業での目標のようなものですが,それを達成させることは教師の義務であるのに,達成できないことを子どものせいにしてしまう。目標を個人内では達成してしまっているのに,「手を挙げて発言しない」「手を挙げたが他の人が答えてしまった」せいで評価されなかったり,達成していないのに手を挙げただけで達成したことになったしまったりという問題がおこっています。
 まず誤りを正すことが先決です。
 ちなみに,「もとじゅん」と呼んでいる「評価基準」とは,ここまでできれば十分満足(A)=その手前ならおおむね満足(B)などと,A,B,Cの基準を決めるもので,こうして出された4つの観点別の評価を合わせたものが,「評定」(1~5)となるしくみが,「絶対評価」というものです。
 手を挙げる回数などという相対的なもので評価されている生徒はいないでしょうか。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 158頁より
「教師には何人もの子どもたちから,同時にいろんなアプローチがくるケースがある。いろいろな子どもがいっぺんに発言する。誰かを指名する。私も小学校時代に経験があるが,そのときに,指名してもらえなかった何人かは,案外くじけるのだ。「ではわかった人,手を挙げてください」という場合も,何人も手を挙げているのに,指されるのは一人。それ以外の子はがっかりする。その軽い失望感が授業の中で何回もくり返される。そのときに先生が子どもの目を見て,「ああ,君はわかっているね。君がわかっていることを,教師である私は理解しているよ」というメッセージを送れば,その子は別に発表しなくても満足するだろう。」

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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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