『欲ばり過ぎるニッポンの教育』を読んで
苅谷剛彦と増田ユリアの対談をまとめた本ですが、齋藤孝とちがって苅谷剛彦の本の読後感がいつも悪い気がする原因が、この本でよくわかりました。まえがきやあとがきで「議論が不毛」「やめたほうがいい」という会話がなされたことが紹介されていますが、学校に対する認識のレベルがよくわかったので、読者としては決して不毛ではありませんでした。毛は生えていたが肌触りがきわめて悪い繊維といったところです。
齋藤孝が教育学者である一方、苅谷剛彦は社会学者です。
データにもとづいて語るわけですが、要は身も蓋もない結論になる。
「教育の失敗」は、社会学者の立場でいうと、要するに「力のない教師にできはしないことを行政がやらせようとしたこと」「国が教育にお金をかけなかったこと」「教育力、経済力のない家庭が学校に過度の期待をしていること」が原因だそうです。
「フィンランドの学校は、特別なことをやっているわけではない。ただ、教師は尊敬されている(力がある)。養成と研修が充実しているから。人間関係のトラブルを親は学校の責任にせず、家庭で解決しようとする。」
で、日本は・・・?
だからどうするという提言はいっさいない。欲ばらないであきらめろ、という「解脱観」のような印象が残ります。
もちろん学者として優れた指摘もたくさんあり、ドッグイヤーは50個程度できています。
著者の考えがよくわかった箇所を抜粋します。
47頁(小学校の英語教育に反対の理由) 教えられる人がいないのに何時間か入れたら、はみ出したものはどうなるんでしょう。確実にできることを犠牲にして、できないかもしれないけど入れたいものを入れようとする。どっちが重いか、はかりに掛けたときに、僕は失うものの方が重いと思う。(この論理は、総合的な学習の時間の導入についても同じ)
143頁 一定レベル以上の英語ができるようになるのは、本当に英語を必要とする人たちだけでいいという考え方もできる。
60頁 僕が教育に対して悲観的なのは、むしろ人間に対して楽観的だからかもしれない。そういう意味では、放っておいたって人間は育つよ、ってどこかで思っている。いい教育をやろうとして、どんどん悪くしているという感覚もある。
62頁 ・・・いわば引き出しの使い方のうまい人や、引き出しの数が多い人たちがやるならば、総合学習みたいな自由度の高い教育というのは成功する。でも、引き出しの少ない教師が、雑誌に書いてあるものをそのまま使ってやったら、これはうまくいくわけない。
82頁 十分なお金も、人の手当も、時間も、専門的な訓練も与えられていないのに、実に多様な問題の原因として、教育がバッシングされる。実力以上の過剰な期待をかけていることに、多くの人たちは、気づかないか、気づいていてもそのことを忘れているのか、いずれにしても、期待が裏切られるたびに、「教育の失敗」がいわれるようになる。
110頁 ・・・個別塾になればなるほど、教師の数は増えるんだから、教師の質は低くなる。 この本を読んで、元気がでる教師ってどんな教師でしょうか?
« 学校現場と行政のちがい | トップページ | 組織内の「腐ったリンゴ」を取り除くには »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
「書評」カテゴリの記事
- 「7つの大罪」によってモノが溜り「4つの基本道徳」によって整理ができる(2018.05.13)
- 「一呼吸おく」ことの大切さ(2018.04.27)
- 教師の成長力を奪う力(2017.11.19)
- かえってくるブーメランが見えない人たち(2017.11.11)
- リーダーシップの意味がわからない人たちに翻弄されるだけの校長たち(2017.09.18)
「苅谷剛彦」カテゴリの記事
- 日本人の大多数が「英語嫌い」になるシナリオ(2016.06.05)
- 「教材」から「教財」へ 「学習材」から「学習財」へ(2009.03.08)
- 内田樹・齋藤孝・苅谷剛彦の共通点(2008.12.13)
- 『欲ばり過ぎるニッポンの教育』を読んで(2007.02.26)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント