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2007年2月

日本人は「公共空間」より「私共(わたくしども)空間」を重視する 前編

 私共(わたくしども)空間というのは、私の造語です。

 公共の空間の中で、本来は公的にふるまわなければならないのに、個人や一部の人間たちが、自分や自分たちの欲求を満たすことを優先し、実行している空間のことです。

 一番わかりやすいのは、電車の中の携帯電話による通話。個人で勝手にやっているようでも、相手がいるので当人にとっては「私共空間」です。音楽を聴いている人も、(録音ではあるが)演奏している人がいるから「私共空間」。これらについては、鉄道会社の社員という、私企業の中でも公共性の高い仕事をしている人によって、放送による注意がなされることで抑制されています。しかし、少人数のグループが、大きい声で話したり、おかしやパンを食べたりすることはよくあります。化粧している人も、個人かというと、鏡の中の自分と化粧している自分がいるから「私共空間」。

 公共空間より、「私共空間」の方が、居心地がよいのでしょう。これは、公共空間のマナーを守っている人からの、「迷惑しているぞ」という空気のプレッシャーをはねのける威力を持つ場合もあります。

 指導力のない教師の授業では、一昔前まで「私語」が大問題でした。これは、公共空間にいながら、勝手に(私的に)離脱されてしまっている状況です。

 時間を守らない教師の話を先日書きましたが、「公共空間」より「私共空間」を優先する逆コンピテンシーです。
 小学校でよくある「学級王国」。自分の専門(なぜ小学校の教師のなのに「専門」があるの?)教科ばかり教える教師。教室は、「私共空間」です。

 いじめというのは、「私共空間」の居心地をよりよくするために、「公共性を重視する人」「私共空間の空気が読めない人」を排除する行動です。「私共空間」のうち、排他的性格が最も強いのがこれでしょう。

 世界史未履修の学校。これは、「公教育」を「私共(わたくしども)教育」にしてしまった例です。

 入学式・卒業式という、学校外部の「来賓」や保護者までが大勢集まっている公共性の非常に高い「儀式」としての空間の中でも、「私は君が代が嫌いだからピアノ伴奏はしない」という「私共空間」を優先しようとする教師。これは反対する仲間がいるからできる。弁護士という職業の人はお金を払えばいつでも仲間になってくれる。

 壁の落書き、駅前の自転車の放置、団地のペット飼育、授業中の携帯メール、・・・・「私共空間」は、日本のありとあらゆるところにあります。

 問題性が低いものには、大相撲の枡席。野球のボックス席。特急列車の個室。カラオケルーム。これらは「私共空間」ではなく、単純に「私的空間」と言えるものです。

 日本人はなぜこうも「公共空間」の力が弱い=「公共性が乏しい、公共の精神に欠けている」のでしょうか。
 
 私は、これを日本の歴史的経緯から説明できます。
 また続きは後日。

「魔法の呪文」だけのごまかしを許さない姿勢

 もうすぐ教育課程届を教育委員会が受理する時期となります。
 教育課程というのは、年度ごとの学校の方針を定めたものですが、「個に応じた指導を充実させる」「基礎・基本の徹底を図る」など、抽象的なことばかり書かれているのが普通で、「欲ばり過ぎるニッポンの教育」(講談社現代新書)では、苅谷剛彦が「魔法の呪文」にたとえて批判しています。
 教育委員会は教育課程の受理にあたって何をするのかというと、それぞれの目標、特色ある学校の教育活動は、具体的には何をどうやって教え、どこまでできることを目標にするのか?何をいつどう評価するのか、などという説明を学校に求め、責任をもって教育活動を任せられるかどうかを判断するのです。ですから「年間指導計画・評価計画・全体計画」などの補助資料の提供を事前にお願いします。
 総合的な学習の時間を目標と関係ない時間として使ったり、標準時数をごまかしたりしないかもチェックしますが、問題なのは、確信犯ではなく、虚偽報告の方が一般的であることです。
 書写を実施していない学校、音楽や美術などを少ししか実施しない進学校があることが判明しましたが、これは届け出上だけは実施していることにする、という公教育の典型的な腐り方の見本を示しています。
 そういう学校はそもそも「公教育」をプラスの価値のある言葉としては認識しておらず、自分が正しいと思うことを勝手にやるのです。法令遵守の精神がありません。
 東京の都立高校改革は、ある高校のインチキがもとになって本格的に着手されたという歴史があります。
 日本人はなぜ「公的な立場で法令を守る行動」が苦手なのでしょうか。
 入学式での国歌伴奏を拒否し、処分を受けた教師がその取り消しを求めた裁判は、最高裁で上告が棄却されました。オリンピックで国旗があがることや国歌が流れることは、今でもアジア諸国に苦痛を与えている、自分自身は国歌を演奏してしまうと、アジアへの侵略を連想し、耐えられない・・・という先生の気持ちは分からないでもありませんが、こういう方の中に、自分がいやだから生徒や児童に演奏させていた人もいました。こういう人は、「子どもを戦場に二度と送らない」と言いながら、いざとなると子どもを盾にして自分の身をかばうのですね。
 改正された教育基本法では、前文で「公共の精神を尊」ぶことを追加しましたが、日本人はなぜその精神が乏しいのでしょうか。明日、その私見を述べたいと思います。

「欲ばり過ぎるニッポンの教育」(講談社現代新書)より
(「個性の尊重」など・・・)こういう言葉としての働きをもった用語が、教育論の「殺し文句」として多用されている。厳密な意味で使えないから、かえって使い勝手がよいのであり、多用される。だから、そういう言葉で語られる教育論は、まさに魔法の呪文のようなものだ。呪文は救いを求めるありがたい言葉かもしれないが、呪文自体には意味がないのだから。」

・・・とは言え、日本は「言霊」の国であり、著者のように「できのわるい教師に過度の期待をするな」などとネガティブなことを主張する人は浮かばれにくいのでは?

組織内の「腐ったリンゴ」を取り除くには

 表題は、部活指導だけ熱心だったり、教科指導しかできないような、教育現場のM教師のことを言っているわけではありません。
 雑誌プレジデントの3月19日号「情報の達人」の「ジャック・ウェルチのビジネス問答」で紹介されている話です。
 企業の社員は、「業績(成果)」と「価値(社員に望む行動)」から、4つのタイプに分けられる。(学校の生徒で言えば、学習成績と生活態度といった側面でしょうか。)
タイプ1:業績の面でも行動の面でもすばらしい
タイプ2:すばらしい成果もすばらしい行動も示さない
タイプ3:成果は貧弱でも、会社が望むすべての行動を実践している
タイプ4:数字は出すが、価値を実践していない
 タイプ2の社員をまず辞めさせる。タイプ3とタイプ4では、どちらが「腐ったリンゴ」か。
 ここでは、タイプ3には、二度目、三度目のチャンスを与えるべきだが、タイプ4のような社員は、組織に貢献する以上に害をなすから、高い成果を求めるあまり部下の有害な行動に目をつむるという誤りを犯してはならないと回答されています。
 「リーダーは、社内のすべての人間に、会社が重視している価値を周知徹底させなければなりません。それらの価値を自ら実践し、他の人々が実践していたら惜しみない賞賛と報奨を与え、それらの価値についてうんざりするほどしつこく語り続けなければなりません。組織から愚か者をなくす真の決め手は、現在いる愚か者を辞めさせることです。そして、その理由を全社員に明らかにすることです。」
 
 教師のコンピテンシーモデルでは、どうしても「実行力」や「成果」が目立ってしまうのですが、やはり自己統制力や対人関係力を基盤にするなど、ウェートのあり方の研究も必要かと反省しています。

『欲ばり過ぎるニッポンの教育』を読んで

 苅谷剛彦と増田ユリアの対談をまとめた本ですが、齋藤孝とちがって苅谷剛彦の本の読後感がいつも悪い気がする原因が、この本でよくわかりました。まえがきやあとがきで「議論が不毛」「やめたほうがいい」という会話がなされたことが紹介されていますが、学校に対する認識のレベルがよくわかったので、読者としては決して不毛ではありませんでした。毛は生えていたが肌触りがきわめて悪い繊維といったところです。
 齋藤孝が教育学者である一方、苅谷剛彦は社会学者です。
 データにもとづいて語るわけですが、要は身も蓋もない結論になる。
 「教育の失敗」は、社会学者の立場でいうと、要するに「力のない教師にできはしないことを行政がやらせようとしたこと」「国が教育にお金をかけなかったこと」「教育力、経済力のない家庭が学校に過度の期待をしていること」が原因だそうです。
 「フィンランドの学校は、特別なことをやっているわけではない。ただ、教師は尊敬されている(力がある)。養成と研修が充実しているから。人間関係のトラブルを親は学校の責任にせず、家庭で解決しようとする。」
 で、日本は・・・?
 だからどうするという提言はいっさいない。欲ばらないであきらめろ、という「解脱観」のような印象が残ります。
 もちろん学者として優れた指摘もたくさんあり、ドッグイヤーは50個程度できています。
 著者の考えがよくわかった箇所を抜粋します。

47頁(小学校の英語教育に反対の理由) 教えられる人がいないのに何時間か入れたら、はみ出したものはどうなるんでしょう。確実にできることを犠牲にして、できないかもしれないけど入れたいものを入れようとする。どっちが重いか、はかりに掛けたときに、僕は失うものの方が重いと思う。(この論理は、総合的な学習の時間の導入についても同じ)
143頁 一定レベル以上の英語ができるようになるのは、本当に英語を必要とする人たちだけでいいという考え方もできる。
60頁 僕が教育に対して悲観的なのは、むしろ人間に対して楽観的だからかもしれない。そういう意味では、放っておいたって人間は育つよ、ってどこかで思っている。いい教育をやろうとして、どんどん悪くしているという感覚もある。
62頁 ・・・いわば引き出しの使い方のうまい人や、引き出しの数が多い人たちがやるならば、総合学習みたいな自由度の高い教育というのは成功する。でも、引き出しの少ない教師が、雑誌に書いてあるものをそのまま使ってやったら、これはうまくいくわけない。
82頁 十分なお金も、人の手当も、時間も、専門的な訓練も与えられていないのに、実に多様な問題の原因として、教育がバッシングされる。実力以上の過剰な期待をかけていることに、多くの人たちは、気づかないか、気づいていてもそのことを忘れているのか、いずれにしても、期待が裏切られるたびに、「教育の失敗」がいわれるようになる。
110頁 ・・・個別塾になればなるほど、教師の数は増えるんだから、教師の質は低くなる。 この本を読んで、元気がでる教師ってどんな教師でしょうか?

学校現場と行政のちがい

 私が行政経験のある方から直接いただいたアドバイスは、行政は文書主義であるということと、常に法令を根拠に説明し、その責任は「あなた」ではなく「○○教育委員会」「○○区市町村」「○○都道府県」が負うことになるということでした。実際、まさにその通りで、「私はこう考えるのですが・・・」と言いたいことも山ほど出てくるのですが、公務員に必要なのは個人の見解ではなく、憲法や法律、法令、答申、学習指導要領、基本方針などに基づく言動です。
 公的な場では型にはまったことしか言わない(言えないのではなく、言わない)のは、それが公務員だからです。たまにそうでなかった方が「伝説の指導主事」とか言われていますが、今はそういう「におい」のする人は危険なので任用されていないと思います。
 一方で学校現場の教師が、いかに公務員としての意識が低かったかは、自校の憲法ともいうべき「教育課程」の指導の重点などを説明できたかをふりかえることでわかります。
 学校現場ではいかに法令遵守の精神が欠けているか、私はそこまでこのブログで公開する気はおきませんが、三大トラブルである交通事故、セクハラ、体罰による処分件数の多さに驚かれることでしょう。校長ぐらいがやらないと多すぎて新聞記事になりません。
 ご質問をお受けしたとき、本来お伝えするべきことはこの程度のことで十分だったはずですが、ほかにも余計なことまで申し上げました。失礼いたしました。釈迦に説法ですが、憲法15条だけでなく、憲法99条は公務員ならきちんと頭に入れておくべきね。

第10章 最高法規
第99条〔公務員の憲法尊重擁護義務〕
 天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。

 この条文を、公務員にも「思想の自由がある」という解釈で、上司の命令を無視して行動する教師がいます。また、教育関係者のブログの中で、行政による「管理」を「不当な支配」と批判している方もいらっしゃいます。行政は法令や答申等に基づいて正当な要求をしているだけなのに、日本人特有の「公共空間ぎらい」=「公共心の欠如」=「私共(わたしども)空間好き」という文化のせいで、「攘夷運動」が好きなのです。行政は学校を武力ではなく、法の力によって「開国」させなければなりません。
 こういう方々との問答のシミュレーションをしておくといいかもしれませんね。
 

文科省キャリアの現場研修

 教育関係者のブログでは,文科省キャリアの現場研修については袋叩き状態のようですが,私は素直に喜んでいいと思います。現場の課題を体感させ,本当に必要な改革を立案してもらうために。
 ただ,こういう研修自体が失敗に終わるケースも想定しておく必要があります。
その1 現場が組織として機能していない場合(そのことに気付くことだけが成果となってしまう)
 私は行政に3年間いたので,一部の現場教師の行政嫌いは痛いほど肌で感じてきました。
 行政マンというのは,基本的には法令や中教審答申などを守り,それを忠実に実行したり,理念の実現に向けて努力しているだけなのですが,それに批判的な人は,法令や答申を出した人にではなく,それを実施するのが仕事である行政マンに不満をぶつけます。虫が入った料理を運んでしまった店員は,客に苦情を言われれば謝らなければなりませんが,文科省キャリアは少なくとも虫ではないでしょう。
 教師も法令を守り,各学校の教育課程を着実に実施する主体であるという意味で,全く同じ「全体の奉仕者」としての公務員なのですが,「現場に立っていなければ教育者ではない」みたいな風土もあり,テレビに出たりする「教育評論家」は馬鹿にされています。文科省キャリアは「お前は教師じゃない。教育実習生の延長版程度だ」として扱われるかもしれません。
 1年しかいないことがわかっていても,初任者と同じように教えなければいけないことが山のようにあるでしょう。それを,「どうせ1年しかいないのだから」と言って教えなかったり,仕事を与えなかったりしたら,「教育の課題」は体感できません。また,キャリアの目で見た学校改革の提言を受け入れようとする懐の広さがなければ,学校がよくなるチャンスも失います。
その2 授業そのものが上手すぎる場合(後から教える教師がやりにくくなる問題)
 教育現場は初めてとはいっても,文部科学省が調査等によって把握している現場の実態は理解しているはずなので,知識としては初任者をはるかに上回るものをもっていると考えられます。
 教科としては出身が法学部とか教育学部であることを考えれば,社会科が多いでしょうか。行政経験を踏まえた人の社会科の授業というのは魅力が感じられます。
 1年目の人にあまり上手すぎる授業をされるのは,ベテラン教師にとっては痛恨の極みです。教育実習生を毎年大勢受け入れている私の経験からわかることは,若い教師の授業の力というのは,大方が「自分がどういう授業を受けてきたか」で決まります。
その3 学校全体として教育実践がうまくいきすぎている場合
 個人的な意見としては,日本の教育行政が第一に取り組むべきことは,クラスの人数を減らすことです。欧米から教育視察にくる外国人がまず驚くのは,1学級の子どもの数が多いことです。
 極小規模校の子どもの成績が特段いいわけではないことからわかるように,クラスの人数を減らせば教育の効果が上がるというわけではありません。教師の力量が高ければ,10人でも40人でも力は同じようにつけさせられるのです。ただ,その逆の場合は,被害者が40人より10人の方が少なくなります。
 40人学級で成功している学校を知ってしまうと,改革が難しくなります。
その4 「失敗」を「失敗」と言われたくない教師が多い場合
その5 「評価」アレルギーの教師が多い場合
 受け入れ学校が,「将来の日本の教育行政を担う人材」を教育するという気概を持てるかどうか。そこが成功と失敗のわかれ道でしょうか。 

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 202頁より
「会社の中で上司になった場合,部下をうまく評価してリードしていく,そのリーダーシップ自体がその人の仕事力なのだから,部下がうまく育たなければ上に立つ人間としての評価は上がらない。そういう意味では教育的なセンス・能力,教育力というものが,一般の会社でも常に要求されるわけだ。」
 
 

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその17 自己の再構成 

 習慣の奴隷になっていないか?
 (逆コンピテンシーその17 経験にこだわる・・・「成果統合力」「情報活用力」などに課題)
 失敗例では,「47:知識に縛られて・・・,49:苦労したものへのこだわり・・・。52:おさめるべきをすて・・・」に関連があります。
 公立学校には「異動」がつきものですが,中にはその頻度が高い(一つの学校で勤務する期間が短い)教師がいます。教師の側から希望する異動理由には,「管理職と合わない」「学校のやり方が自分に合わない」「荒れているからいやだ」「駅から遠い」「自宅から遠い」「交通が不便」「問題をおこした」などがあります。
 行政は,優秀な教師を集中させて「エリート校」を作るということをしない(最近の都立の入試問題自校作成校や一貫教育校,研究拠点になる学校では違うでしょうが)はずなので,公立にはいろいろな教師が働いています。「そこが公立のよいところだ」と自慢したい人もいるでしょう。
 私は公立で異動があることの最大のメリットは,学校ごとの優れた指導方法,教育技術が異動によって広まり,知恵が共有化され,学校がよりよい方向に改善されていくことだと考えます。だから教師や管理職の異動によって,荒れた学校の再建が可能になるのです。ただし,逆もあります。
 かつて,「落ち着いた学校に来られてよかった。少しのんびりさせてもらう」と言った教師がいました。冗談かと思ったら本気でした。
 すべての教師が気を抜かず,手を抜かず,生徒に目をしっかりかけているので「落ち着いた学校」であったはずなのに,その学校の雲行きはどんどん怪しくなってきました。その原因は言うまでもありません。
 一般の方は(子どもを学校に通わせている保護者の方にとっても),学校といったらその中のシステムはだいたい同じものだとお思いになるかもしれませんが,これは都道府県,区市町村,学校の規模,年齢構成,地域の特色などによって,不二家と山崎パンどころか,他業種の会社くらい違う習慣が見られるのです。
 たとえば生徒指導の方針。外部評価も含めた学校評価の方法。会議の仕方。その回数。その時間の確保の仕方。朝の打ち合わせの仕方。日直の仕事とまわし方。・・・教科の指導でも,東京都は免許を持たない教科を教えることはありませんが,専門外の教科を教える地域もあるようです。通知表は学校ごとに様式が自由。保護者会の回数。懇親会のやり方。校長室の位置と大きさ(悲しいことに職員室から離れた校舎の片隅の小さい倉庫のようなところもあります)。
 異動した教師が一番戸惑うかもしれないのは,生徒指導の方針や,会議の方法の違いです。
 最適な方法がとられていたのに変更して失敗する。最適な方法を実践できる教師がいるのに習慣を変えずに成功しそこなう。それぞれこの逆のパターンにすべきなのですが・・・。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 192頁より
「習慣を変えねばいけないときに対応できない人が落ちていくのだ(注・・・小学校から中学校に進学した子どもで,テストに対応できないことを例に)。だから逆にいうと,ある新しいところに入っても,そこの習慣によって自分を新しく再構成することができればよい。リストラクション―リストラといっても,クビという意味ではなくて再構造化―,つまり構造化をもう一度行う。習慣を組み替えることによってその状況に対応していく,それが人間に必要な適応能力なのだ。状況が変わっているのに,かつての習慣にのみとらわれていて,その習慣を変えることができないと滅びていく,ということだ。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその16 自分への評価の目

 「評価」アレルギーをなくせるか?
 (逆コンピテンシーその16 主観優先である・・・「自己変革力」「戦略立案力」などに課題)
 失敗例では,「29:計画や評価のない実践を教育と勘違い・・・」に関連があります。
 「評価」と聞いて,成功体験の多い人,実力があると自覚(誤解?)している人の場合はプラスのイメージの方が強い一方,聞くだけでジンマシンが出てしまうような人もいるようです。
 評価というのは目標があって,それを達成しようとする実践があって初めて成立するものです。目標を自分の責任できちんと立てたものなら,実践に対する評価というのは,実践を改善して,より目標への到達度を高めるためにも必要なステップですよね。PDCAサイクルは,サイクルであることに意義があるので,「評価」だけ,「実践」だけが存在するわけではありません。
 以下の引用中の「若者」を「教師」に置き換えてみたらいかがでしょう。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 170頁より
「現在,『主観優先(好き嫌い優先)で別にいいじゃん』という人が増えてきてしまっている。その事態に社会全体が非常に手を焼いているが,そういう態度は勉強から逃避してしまった場合に起こりやすいことなのだ。勉強は客観性,多角的視点を非常に重んじるからだ。
 自分の好き嫌いにかかわらず,間違いは間違い。それを常に突きつけられることが大切なのだ。自分のものの見方が否定される。だが,その自己否定がいやなものだから,自分を試される場に身を置かない傾向が起きてくる。そうすると,ほとんど試されることのない,『勝手に決めつけ癖』を持った若者が仕上がってしまう。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその15 評価の目

 信号が届いたという信号
(逆コンピテンシーその15 公平でない評価をしてしまう・・・「対人指導力」「対人関係力」などに課題)
 失敗例では,「43:目を合わせる自信がないことがわかってしまう。」に関連があります。
 研究授業を参観すると,生徒の発言を名票か何かにチェックしている教師を見かけることがあります。これは,発言回数やその内容を記録し,評価に生かそうとする目的だと考えられますが,ここでの課題を齋藤孝が端的に指摘している箇所があります(下記参照)。
 「観点別評価」というのが導入されてから,教師を悩ませているものの一つに,「関心・意欲・態度」の評価というのがあります。その趣旨については,国立教育政策研究所が平成14年に出している「評価規準の作成,評価方法の工夫改善のための参考資料」で示されているので,一般の人も知ることができますが,一部の教師が学習に臨む意欲や態度と勘違いしてしまっており,挙手や発言の回数を評価の材料にしている事例があります。現場では「のりじゅん」と呼んでいる評価規準は,ある意味では授業での目標のようなものですが,それを達成させることは教師の義務であるのに,達成できないことを子どものせいにしてしまう。目標を個人内では達成してしまっているのに,「手を挙げて発言しない」「手を挙げたが他の人が答えてしまった」せいで評価されなかったり,達成していないのに手を挙げただけで達成したことになったしまったりという問題がおこっています。
 まず誤りを正すことが先決です。
 ちなみに,「もとじゅん」と呼んでいる「評価基準」とは,ここまでできれば十分満足(A)=その手前ならおおむね満足(B)などと,A,B,Cの基準を決めるもので,こうして出された4つの観点別の評価を合わせたものが,「評定」(1~5)となるしくみが,「絶対評価」というものです。
 手を挙げる回数などという相対的なもので評価されている生徒はいないでしょうか。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 158頁より
「教師には何人もの子どもたちから,同時にいろんなアプローチがくるケースがある。いろいろな子どもがいっぺんに発言する。誰かを指名する。私も小学校時代に経験があるが,そのときに,指名してもらえなかった何人かは,案外くじけるのだ。「ではわかった人,手を挙げてください」という場合も,何人も手を挙げているのに,指されるのは一人。それ以外の子はがっかりする。その軽い失望感が授業の中で何回もくり返される。そのときに先生が子どもの目を見て,「ああ,君はわかっているね。君がわかっていることを,教師である私は理解しているよ」というメッセージを送れば,その子は別に発表しなくても満足するだろう。」

事務職員が「職員会議」に出席している学校の割合は?

 文部科学省の若手キャリアが事務職員として学校に派遣されることになったそうです。彼らは現場で,教育の成果や課題についての情報を収集し,文科省に新たな戦略を創造するための論理を構築するわけですね。
 私が教育委員会で勤務するようになって一番驚いたのは,学校の「事務の方」が教育政策の立案にかかわっていたということです。区市町村採用の「学校事務」の方など,さまざまな立場の方がいることもわかりました。
 事務の方は施設や物品,人事の管理のように,「お金」に関わる仕事の専門家だと思っていたら,そういう方だけではなかったのです。教育委員会の指導主事,文部科学省では教科調査官のような,教員出身の事務担当者がいますが,その上司に教育が専門でない方がいるのですね。役所で長年働いていた方が教育長に就いている自治体もあります。
 文部科学省は「現場を知らずに政策を決定していた」(失敗の28:実態からの出発が期待できない」に関連がありあります。情報追求力の欠如という逆コンピテンシー。)という失敗を認めたことになるので,たいへんよいことだと思うのですが,過激な方は「事務室に何がわかる」とお怒りになるかもしれませんね。優秀でかつ学校の現状に危機感を抱いている事務の方も大勢いらっしゃるのですが。いつも暇そうにおしゃべりしたり,ネットサーフィンばかりしている方ばかりではないのです。役所や人通りの少ない商店街のお店の仕事と同じように,事務の仕事は,集中するときは集中して,そうでないときは暇そうに見えてしまうのです。「本庁」となると,残業手当が必ずもらえるくらい忙しいのです。

 事務職員は学習指導要領の内容を理解しているのか。学校の道徳や総合的な学習の時間,各教科等の目標や年間計画,全体計画,週ごとの指導計画,評価計画を理解しているのか。教育課程の管理(作成,実施,評価,改善)のプロセスに適切に関与しているのか。執行された予算ごとに,費用対効果の検証をしているのか。職員会議には参加しているのか(教員会議になっていないか)。
 キャリアの方は,そういうことを検証されるといいと思います。

「空気」との戦い

 学校教育の世界については,さまざまな場で多彩な意見が出されていますが,それが正しい内容に即して語られているかというと,あやしいところがあります。
 次の文章は,冷泉彰彦著『「関係の空気」「場の空気」』(講談社現代新書)からの引用です。
 『文部科学省が,学習指導要領をやさしくしてみたり元に戻してみたり迷走しているのも,「空気」の仕業だろう。「詰め込み教育よりも個性を」という空気は「ゆとりは学力低下を招く」という空気に敗北すると,これもどこかへ消えていってしまったのである。
 そこには,冷静な事実の把握や,原理原則と政策のすり合わせはないと言っていい。」(4ページ)
 
 著者の「学習指導要領がやさしい」という認識も「空気」の仕業であって,事実を把握しているわけではないことは,現行の学習指導要領の趣旨を実現することがいかに難しいかを体験している教師には明らかなことです。「自ら学び,自ら考える力」の育成や,各学校での「創意工夫を生かし」た「特色ある教育」は,とても容易なものではありません。教師にとっては,「詰め込み教育」ほど簡単な仕事はないのです。
 「社会の変化に自ら対応する能力や態度を育成する」ことが,いかに難しいか。教師がそれに対応できていないことからも明らかです。力のない教師が「詰め込み教育」に戻すことを主張しているのは,その方がゆとりができるからです。
 

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその14 時間の扱い方  

 教師は時間や期限を守っているか?
 (逆コンピテンシーその14 時間にルーズである,効率を重視しない・・・「効率追求力」などに課題)
 失敗例では,「30:環境の作り手は教師・・・。」に関連があります。
 「時間を大切にしよう」「時間を守ろう」は,多くの学校で必ず月間や週間の生活目標に掲げられるもので,逆に言えば徹底が難しい(守られにくい)ことの一つです。廊下にそんなスローガンが貼ってある学校というのは,生徒がふだんから時間を守っていないことを宣伝しているようなものです。
 社会に出ると「時間を守らない」「期限を守らない」ことで信用を失い,仕事をなくす恐れもあるので,学校教育で徹底してしつけるべきことだというのは,だれも異論のないところでしょう。
 さて,教師の方は,時間や期限をきちんと守っているでしょうか。
 校内の会議は,必ず時間通りに始まるでしょうか。私は,開始時間を守らない教師を絶対に信用しません。「生活指導で遅れました・・・」と平気な顔で言いますが,会議の開始時刻に合わせて指導というのは行うべきで,緊急の場合には少なくとも一度は出席者に断ってから続けるものです。時間にルーズな教師は,たいてい多忙な教師ではないのです。多忙な教師ほど,時間効率を重視しなければ仕事が終わらないため,仕事の重要度,適時性,緊急性を総合的に判断し,優先順位を決めて行動しているのです。一部の教師の怠慢によって,貴重な時間が失われるのは許されることではありません。
 授業の開始時刻は守っているでしょうか。チャイムが鳴り始めてから職員室や準備室を出ている教師はいないでしょうか。中学校では,教室移動や着替えなどもあって,生徒は授業遅刻に注意しなければなりませんが,荒れている学校では,体育の後の授業は必ず開始が遅れたり,チャイムがなっても教師が来るまで遊んでいるという状況が見られます。
 私は授業と授業の間の(ほとんどの中学校では10分間)時間を,「休み時間」とは言わせず,「(次の授業への)準備時間」と呼んでいましたが,チャイムは授業の開始の合図であって,着席を始める合図ではないことを分からせるのはたいへんでした。
 事務関係の書類を,提出期限までに出しているでしょうか。・・・
 きりがありませんが,教師は環境の作り手であることを肝に銘じる必要があると思います。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 123頁より
「私は,実はストップウォッチを持たずに授業をするのは犯罪だ,と思っているぐらいなのだ。簡単に言うと,「人の時間を何だと思っているのだ」ということである。私の授業では,「次の作業は一分半」といったら一分半で切る。そうやっていくと,ふつうは授業の三倍は密度が濃くできる。ストップウォッチを使えば,誰でもそうなる。教育界では,「効率の良さ」があまりにも軽視されている。このことに私は強い怒りを感じている。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその13  二つの時間を生きる

 生徒との対話,教材との対話を両立させる
 (逆コンピテンシーその13 目的意識をもたせることができない・・・「戦略遂行力」などに課題)
 失敗例では,「42:独り言で子どもの思考放棄をさそう。」に関連があります。
 ☆☆☆失敗例については,HP版でご覧になれます☆☆☆
 授業では,「いま,いったい何のやめに何をやっているのか,を常にはっきりさせる習慣をつける」ことが必要です。教師はよく集中力を高めたり,気分転換を図るために『脱線』という手法を使います(生徒の発言から脱線させることもある)が,もとの位置に戻るとき,あえて教師自ら本題を示さずに,「あれ,何の話をしていたんだっけ」と質問して,脱線箇所にバックさせる(あるいは脱線を逆にたどっていく)という方法があります。これによって,生徒に目的意識を自覚させることができます。
 参考で引用した箇所に関連して言うと,教師は生徒との対話を楽しみながら,教材との対話を忘れないようにする必要があります。授業はつねに教師と教材のティームティーチングであり,教材と生徒,生徒と生徒,生徒と教師とのティームラーニングです。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 104,105頁より
「対話においては,―そして授業においても―いくつかの見通しを持つことが必要だ。相手と対話しているわけだが,頭の中では意識を常に二つの線路の上に走らせるようにする。一つの線路は,相手(生徒たち)と一体化している感じ。そこで一緒の時間を生きている感じである。もう一つの線路では列車は少し先を走っているのだ。先に置き石がないか,などを見ておく。そして,こっちへ行ってはだめなのだなどと,あとの電車に指示を送るのだ。それを私は『二つの時間を生きる』という具合に表現する。」
「複線的な意識で二つの時間を同時に生きることが,授業を展開させていく上で大事である。」

失敗の分類

 いじめ自殺という教育の失敗の原因は?
 歩き始めたばかりの「教育失敗学」では,まだ教育の失敗を「逆コンピテンシー」によるものとして,コンピテンシーモデルをもとに説明しようとしています。
 いじめ自殺という一日も早く根絶したい教育の大失敗は,このモデルによれば,子どもに対する対人関係力,対人指導力,対人変革力だけでなく,戦略や論理,情報の欠如も原因です。よく「時が解決する」とのん気に構える人もいますが,聞き取りをした結果では,いじめの記憶や傷というのは,ずっと消えない場合があります。長期的な戦略として「待ち」の姿勢も大切ですが,コンピテンシーモデルのうち,「時間」の分野は,「いつかは・・・」という期待感,希望的観測のようなものではなく,「効率」を重視するものなので,初期指導も含め,短期的にできることの能力をさしています。
 さて,中尾政之著「失敗百選」(森北出版,2005年)には,「失敗事例が密集している」20の分野を分類している図(横軸に1年平均で日本に生じる被害者数,縦軸に事故を記述した書籍・論文集などの知識の総量をとったもの)があって,特徴別にまとめた5グループが紹介されています。
(1)今や被害者は少ないのに,科学データが多いグループ・・・原子力,宇宙,鉄道,食品,化学,航空,船舶。
(2)災いとしてあきらめがちなグループ・・・天災,バイオ災害
(3)今も被害者が多いのに科学データが少ないグループ・・・火災,労働災害,交通事故,医療過誤(医療過誤は,次のグループにも含まれる)
(4)これまで失敗が顕在化しにくかったグループ・・・環境公害,建築土木,医療過誤
(5)失敗を失敗として確定さえしていないグループ・・・企画,開発,政策,教育,経済
 「失敗百選」の著書は,教育の失敗(事故)を「被害者(死者)数」で測定しているので,体罰やセクハラ,交通事故という学校の「三大事故」以外の失敗をどう考えているのかわかりませんが,確かに今まで,研究大会や研究授業を通して,「こうすれば学力がつく」という発表はあっても,「こうしてきたから学力がつかない」「これだけやって学力がつかないのはなぜか」という失敗研究論文や発表はありませんでした。
 学力テストの結果で学校への特別予算の配分に差をつけようとした自治体がありましたが,行政には新しい失敗原因の創出というずばぬけた逆コンピテンシーがあります。
 教育研究に新たな方向性が求められているのかもしれません。

 行方不明になっていたマグロ漁船の3名の方々が救助されたというニュースが入ってきました!ご本人はもちろん,ご家族の皆様も本当によかったですね!

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその12 優れた試験問題

 良問によって教科のすごみを伝えているか 
 (逆コンピテンシーその12 自分がつけさせた力を問う問題が作れない・・・「対人指導力」などに課題)
 失敗例では,「3:表面的な評価」などに関連があります。
 良問とは,生徒の身につけた力を存分に引き出せるもので,かつ,まだ到達していない領域へのあこがれを喚起できるテスト問題のことです。
 地元の塾などでは,学校の定期考査問題をストックし,データベース化して生徒に練習させるのに使うので,同じ問題は出せません。しかし,毎年全く新しい問題を出すというわけにいかないので,試験用の教材とテスト用の教材を使い分けるなど,教師には多くの「ひきだし」「ストック」が必要になります。
 教師の教科指導へのこだわりや指導力を評価する最良の方法は,定期考査をチェックすることです。問題の質で授業の質もわかります。
 ほとんど覚えているだけで答えられるような問題をテストで主題している教師が,「思考判断」「資料活用」などの観点別評価をまともにやっているはずがありません。
 齋藤孝が紹介しているように,私も論述問題を出題した後,評価の基準を授業で話し合いで決めさせ,事例として配布した数人の解答と自分の解答の採点をさせたことがあります(例:「中世の日本は一つの国家といえたのだろうか」)。「国とは何かをどう定義したか」「中世の社会の特徴を適切に述べられたか」「定義と特徴を関連づけて説明しているか」など,客観的な評価項目が完成し,「力を補充し伸ばすことにも結びつく」復習も実現できました。
 「テストは復習が大事」は学力向上の絶対法則ですが,「復習しろ」というだけでは始まらないので,別解の検討や学習の深化が図れるように,採点後に配布する解答・解説集に補充問題等をのせることも効果的です。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 93頁,100頁より
「テストは,その生徒の能力をはかったり,個人差をつけて選別したりするための必要悪である―などというちっぽけな考えを持って試験問題をつくってはいけない。その試験問題を通してその教科のすごみを伝えてやろう,というぐらいでないといけないのだ。」
「子どもには教壇に立たせるだけでなく,採点をやらせることも大事である。採点者になる。あるいは問題作成者になる。これが,ある意味では教育の中でもっとも効果的なやり方なのだ。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその11 クリエイティブな関係

 関係の力を信じ,伸ばすことにこだわりを持っているか
 (逆コンピテンシーその11 能力にこだわり伸ばすことにはこだわらない・・・「対人変革力」「成果追求力」などに課題)
 失敗例では,「18:長所が引き出せない」「53:普通の子どもといってしまう。」に関連があります。
 教師個人の能力の優劣というより,固定化しているスタイルの問題といった方が適切かもしれませんが,授業のあり方というのは,本当にさまざまなタイプがあります。
 私が考案した授業の分析方法のひとつに,生徒が行っている活動を,「興味をもつ」「読む・聞く」「考える」「まとめる」「調べる」「書く・描く」「理解する」「つくる」「話し合う」「発表する」「振り返る」「生かす」という12の項目から評価し,それぞれにどのような成果が見られたかを判断するというものがあります。(指導要領では4つの観点ですが,生徒が自ら自己評価できるような簡易な項目に分けてあります。なお,総合的な学習の時間では,これらの活動を,学習テーマの特性に応じて自ら構成していくことを目標としました。)
 学級崩壊状態は別として,最もレベルの低い授業というのは,生徒が「読む・聞く」「書く・描く」だけで50分が終わってしまうものです。よく教師が「わかりやすいまとめ」を板書して,生徒がノートにそれを写すことがありますが,「理解する」成果を残せない生徒の多くは,ただ「写している(書く・描く)」だけで,自ら「考え」て「まとめる」わけではないために,学習に主体性が乏しく,力がつかないままになります。
 齋藤孝は「話し合い」などを重視していますが,教師はさまざまな方法を試して,「あの子はもともと学力が低いから,私の話にはついてこれない」と投げてしまうのをやめるべきです。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 72,73頁より
「たとえば,二人一組になってずっと話していたり,ディスカッションしたり,お互いにチェックし合ったりしている中で伸びていく力がある。これで両方が伸びていく場合は,その二人にそれぞれ個別に才能があったという言い方もできるけれども,そういう関係性がクリエイティブであったと言うほうが当たっているだろう。」
「関係をクリエイティブにできるかどうか,というところに教師の力量が問われるのである。才能のある個人は伸びていく,才能のない人は伸びない―これだと教師の力量はそれほど大きな意味をもたない。才能のある人というのは,教えられなくても伸びていく人だ。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその10 研究者的な態度

生徒が教師に求める「ぎりぎりのところ」とは?
 (逆コンピテンシーその10 新しいことにチャレンジしない・・・「戦略遂行力」「情報追求力」などに課題)
 失敗例では,「27:内容で勝負できない。」「28:実態からの出発ができない。」に関連があります。
 私が「研究者的な先生」と聞いてまず連想するのは,「他人と同じことをしない,オリジナルを追求する教師」です。しかし,一般的な現場では,「いい評判の実践をまず真似してみよう」と言って,百ます計算や朝の読書など,同じことをやろうとします。成功例ももちろん多く,そういう本の出版に情熱を傾けている教師もいます。
 気をつけなければいけないことは,子どもというのは,物まねやパクリはすぐに見破り,教師への尊敬や信頼,期待を失うことがあるということです。ある料理のかくし味に塩を入れるのが最適だからといって,別の料理にも塩が使えるとは限らないように,物まねには限界があります。
 せめて教師には,「あの子どもたちにはあの指導が効果的であった。私の受け持つ子どもはこうだからこういう味つけもしてみよう」など,プラスアルファをする意欲がほしいものです。 

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 67頁,69頁より
「単に唯々諾々と聞く姿勢ではなくて,一つのことをいろいろな面から見ることができる力,この視点移動力を子どもたちに身につけさせたい。そのためには教師自身に,そのように問題を掘り返して,新たな角度から見る習慣がほしい。それが研究者的な態度ということになる。」
「教師の研究者的視点が生きている授業では,生徒たちはいま,この先生が工夫して,新しい解釈で臨もうとしていることがわかる。そういう試みは研究授業で発表されることが多い。その場合,ほかの学校の先生も大勢見に来るから,先生自身も緊張している。学会の発表のようなものだ。そうなると生徒もほうも「ああ,この先生はぎりぎりのところでやっているな」と思うものだから,一所懸命に協力しようとする。すると協力しようとしているうちに,理解が深まる。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその9 段取り力

 教師に必要な科学的精神
 (逆コンピテンシーその9 失敗する勇気と機会が少ない・・・「自己変革力」「論理追求力」などに課題)
 失敗例では,「9:頭を使えと指図してしまう。」などに関連があります。自信をもって堂々と失敗している人を見ると,失敗を指摘されないで年数だけたってしまった気の毒さを実感します。
 段取り力の最大の発揮場所は,1時間1時間の授業です。研究授業という場では,授業者は必ず「指導案」というものをつくり,参観者はこれを参考にしながら授業を分析し,意見交換を行います。この「指導案」を見ると,段取り力(戦略立案力にも近い)が如実にわかります。
 研究授業は本来,授業を科学的に分析し,多くの失敗を洗い出して,互いの教訓とするものです。私の経験では,小学校ではわりと鋭い意見が飛び交って,協議そのものに意味がありますが,中学校の校内研究では教科の専門家に対して苦言や疑問を呈するのは失礼と考えてしまうのか,授業者へのご機嫌とりか生徒の低学力への嘆きの共感で終わってしまいがちです。ですから教科別に行われる研究会が大事なのですが,全中学校教員の中で,たとえば10名以上の参観者がいる研究授業を年に1回必ず実行している人は何人いるでしょうか。そういう研究授業を参観している人は何人でしょうか。初任者研修の他に10年経験者研修が始まり,法律の縛りによって絶対に行わなければいけない教員を除いて,1年に1回も研究授業をやらない人は何%くらいいるでしょうか。
 よく初任者のころ,授業はたくさん見てもらって,若いうちにたくさん恥をかいておけと言われました。暗黙のうちに,ベテランになったら恥はかけないぞという常識を知らされたわけですが,ベテランこそわかりやすい失敗をたくさん犯しているもので,そういう意味で,「師範授業」はたいへん役に立つのです。
 「教育力」では,エジソンの電球のフィラメント研究で,多くの失敗を「それが駄目だということがわかった,という意味で成功であると考える」意味についてふれています。
 生活指導関係の著書が多い(と私が勝手に思っているだけかもしれませんが)家本芳郎の「挑戦!教育実践練習問題」(ひまわり社)は,齋藤孝の段取り力の問題集として,笑える本です。
 「教室の窓の開け方」「授業中寝ている子の起こし方」など,堂々と多くの失敗例を紹介しています。


参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 63頁より
「まずい料理の理由はいろいろあるに違いない。あまりいろいろありすぎて,直しようがないとする。その場合,『まず,こことここは言うとおりにしてごらん。その上で,塩加減だけはおまえに任せるよ』と言って,それでまずかったら,それはおまえの塩加減が悪いんだということになる。それと同じことだ。まずこういう進歩のある科学的,合理的なものの考え方というものを,学ばせなければいけないのである。」

HPにまとめました

 これまでブログで紹介してきた教育の失敗や「宮城谷昌光の小説の言葉」を,ホームページにまとめました。教師のコンピテンシーの整理も進めていきたいと思います。
 →HP版「教育失敗学」はこちらから

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその8 真似る力

 教育力のある教師は教師も育てる
 逆コンピテンシーその8 ・・・「成果統合力」などに課題)
 失敗例では,「19:活かすよろこびを与えていない」「38:優れた実践を眠らせてしまう」に関連があります。
 人事考課により,教員の昇給に差がつけられるようになっています。昇給がぐっと早まったり昇給停止になる人は,ごくごくわずかですが,いい先生のやる気を引き出すため,だめな先生に気合いを入れるために必要だと管理する側の人はいいます。東京都の場合は,自己申告による能力開発とセットになっているので,評価が一方的に決められるものでなく,年間最低3回は評価する管理職と面接して意見交換や指導が行われます。
 私が提起している教師のコンピテンシーモデルは,そもそもそのような人事考課をスムーズに進めるためのもので,トラブル防止の想定がたくさんあります。
 たとえば,成果主義的な評価の導入に反対する人に多い意見として,「教員間の仲がギクシャクする」というものがあります。この人はすでに「戦略立案力」「戦略創造力」に課題があるのすが,「ではギクシャクしない方法を考えてください」と言ってしまうと喧嘩になるかもしれないので,「成果統合力」を特に重視する職務目標を考えてもらうのです。
 ごくまれに力のある教師同士が仲が悪く,つまり「対人関係力」が低レベルで,自分の優れた指導力を新任の先生や異動してきた先生に伝えられない人がいます。この場合はちょっと話が複雑になりますが,要はすべてのコンピテンシーで100%完璧な人というのは,まずいないのです。
 いたとしたら,だれもが認めるわけですから,その人の昇給が早まったとしても文句はでないでしょう。
 「成果統合力」は,チームでの成果を志向するわけで,それは学年でも分掌でもプロジェクトチームでも,成果は関係した教師が共有できます。
 コンピテンシーモデルのいいところは,成果のアップの連鎖が想定できることで,学校改革が加速化するきっかけになるところです。
 人事考課は,現場の管理職の立場で言うと,「いい先生」と「だめな先生」に分けるための制度ではなく,力のある先生に課題のある先生の力をアップさせる「対人指導力」「対人変革力」「成果統合力」「効率調整(組織効率極大化)力」を強く要求するところに力点をおくべきなのです。
 能力に課題があることを自覚している教師には,「真似る力」と上達の技化が求められるわけです。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 49頁より
「上達ということで言うと,ある事柄がうまくなるときに,それだけがうまくなって終わりの人と,そのことを通じて上達力とでもいうべき応用の効く力が身につく人とがいる。」
「勉強や部活動を通して上達の普遍的な原則を相手に伝えるのだという意識を常に持っている人が,教育力のある人だと私は思う。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその7 学習の意味

 勉強が知的向上心を磨く砥石になっているか
 (逆コンピテンシーその7 何のための学習かを語れない・・・「成果追求力」などに課題)
 失敗例では,「14:具体的な目標を描けていない。」に関連があります。
 齋藤孝は著書「声に出して読みたい日本語」の頃から,教養主義的な立場の学者だと思っていましたが,やはり「内容重視」より「学び方重視」にしてしまった現行の学習指導要領に関しては,批判的な立場をとっているようです。
 教師の失敗例として「テストに出るから覚えなさい」式の指導はあまりにもレベルが低いために紹介しなかったと思いますが,子どもが喜んだり集中したりするため,ついついやってしまうことです。塾はそれで食べているのでしょうが,最近は塾や予備校の授業が学校には求められている・・・なんて話になっています。
 小数や分数ができない中学生を問題にするのか,1200字で1つのテーマについてまとまった文章が書けない中学生を問題にするのか,教育に関する議論というのは,どのレベルの話をしているのかがよくわからないものがあります。「書き手の価値判断も含み,個人的な経験というものもどこか行間からにじみ出るような形で,しかも知識の豊富さも示すような形で文章が書き上げられる,そういう能力がいま求められている。」(「教育力」31~32頁)という話は,相当高いレベルの話ですね。
 目標というものをどう設定するか,それがまず指導する上では重要です。
 目標を生徒にしっかり示すことができれば,いまなぜこれを覚えなければいけないのかも説明することができます。
 なお,優秀な教師は,豊かな教材を武器にして子どもに力をつけるので,「教材が知的好奇心を磨く砥石」の役割を果たすことになります。教師の役割は研ぐときの水でしょうか。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 31頁より
「個々の知識を陸続きにするような説明の仕方が教師には求められる。教師というのは,当の知識を記憶する必要性を説得力をもって語れないといけないのだ。それは大きく言えば,「文脈力」ということになろう。」
 36頁より
「私たちの社会にとって,この知識は必要だ」と考えて,カリキュラムを組んでいるのだ。そのカリキュラムをきちんとこなすプロセスを通じて,知識とともに向上心を技化していく。これが教育の主たる役割である。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその6 教育の成果

 教育は太陽か,惑星か,それとも衛星か。
 (逆コンピテンシーその6 目先の成果を求めたがる・・・「成果」の分野などに課題)
 失敗例では,「24:目先の利益を優先するものに勝てない」に関連があります。
 現在のいわゆる「ゆとり教育世代」=「低学力世代」という公式は,文科省をはじめ,各自治体,マスコミでもすでに「定理」になってしまっているのでしょうか。
 平成10年版教育課程の目玉であった「総合的な学習の時間」の内容を知らない一般の方々も,大臣の「君たちは失敗作だ発言」を信じ,「百ます計算」のような単純な能力向上策に惚れてしまいました。
 総合の時間の創出や週5日制対応のための教科の学習時間の削減は,たしかに学習内容量のカットを意味していましたが,消化不良をなくすことにねらいがありました。「ゆとり」を目指したわけでなく,「習得率アップ」を目指したわけで,評価も相対評価でなく絶対評価に移行したことからわかるように,「すべての子に力をつける」ことがねらいでした。
 私は学習内容3割減を,「1万円のフルコースをやめて7000円のハーフコースにし,しっかり味わい十分に消化し,栄養にすること」と解釈しています。よくできる生徒の「発展的な学習」もより見やすくなり,習得が不十分な生徒の「補充学習」も力を入れられてきています。
 この指導要領は中学校では平成14年度に完全実施になりましたが,もうこれが失敗だと言いきれるのでしょうか。現行の教育課程に対する批判は,特に総合の時間に力を入れてきた教師たちには大きなダメージになります。しかしもともと自信もなく実践していたのであれば,見直すことは必要ですが。
 総合ではなく教科指導における斎藤喜博の言葉を紹介している部分があります。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 28頁より
「成果が目に見えず,感謝されないことも当然ある。『教育という仕事ははかない』と斎藤喜博はよく言っていた。・・・中略・・・教育では,いわゆるリターン(報い)というものが,必ずしもはっきりしない。だから,『何をやったから,どのくらい見返りがある。じゃあ,このぐらい見返りがあるんだったらやります。見返りがないのだったら,やりませんよ』という,そういうギブ・アンド・テイク的な人間関係しか結べない人には向いていない仕事だといえるだろう。」
「太陽は,見返りを求めない。ひたすらエネルギーを放射し,地上の生命を生かしている。教師は太陽のようでありたい。」

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より