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2007年1月

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその5 余裕

 未熟な教師がベテランに勝てる理由
 (逆コンピテンシーその5 余裕がない・・・「自己展開力」「効率追求力」などに課題)
 失敗例では,「33:自分の余裕のなさを子どもに伝えてしまう。」に関連があります。
 齋藤孝の想定する教師はけっこう水準が高い(大学の教員レベル?)ためか,読んでいるとベテラン教師も油断できない箇所が見つかります。
 「教育において『新鮮さ』は決定的な重要性を持っている。」というのは,たいへん強気な表現ですね。「安定感」も否定はしていませんが,「新鮮さ」が「決定的」とまで書かれると,たしかにテレビ業界ではそうだろうなとか,いろいろ頭に思い浮かぶものはあります。私の想定する逆コンピテンシーである「余裕のなさ」は,齋藤孝によると「新鮮さ」に読み替えることができます。
 テレビなら飽きたらチャンネルを変えることができますが,生徒が授業をエスケープしたら連れ戻されることになる。そう考えると,「授業に40人を拘束できる教師の権利」というのは,強力なものです。
 保険会社の比較研究をしているサイトで,「信頼できる営業担当者の条件」として,「余裕やゆとりが感じられる人」と書かれており,なるほどと思ったことがありました。私が出会った営業の方の話は様々な点で新鮮でした。
 「新鮮さ」は,やはり未熟さよりゆとりから生じるものがベストでしょう。テレビの露出頻度が高いみのさんやさんまさん,タモリさんには「ゆとり」がありますよね。
 「ゆとり教育」は,そんなコンピテンシーを子どもに持たせるような教育を目指すべきなのでしょうか。

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 4頁より
 いわゆる「教師臭さ」は,学ぶ側の構えを鈍くさせてしまう。型どおりの教え方が染みついてしまっている,という印象を与えてしまうだけで大きなマイナスになるのだ。「決まり切った感じ」を印象として与えないようにすることが大切である。

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその4 発問力・多問多答へ

 教師の自問自答型から教師と生徒の多問多答型へ
 (逆コンピテンシーその4 「北風発問」・・・「戦略遂行力」「論理追求力」などに課題)
 発問力については,数多くの失敗と関連がありますが, 「42:「独り言」で子どもの思考放棄をさそう」でくわしくふれています。
 齋藤孝「教育力」では,「教育の祝祭的瞬間」として,生徒が自由な発想ですばらしい答えを生み出した例を述べていますが,私のコンピテンシーモデルでは,「太陽発問」として紹介しました。太陽発問は生徒がコートという殻を脱ぎ捨て,自分の思いや考えをオープンにしてくれるような問いで,逆に「北風発問」は,生徒の殻をきつく閉じさせてしまう問いです。
 自問自答(自分で答えを言ってしまう)レベルから多問(多ヒント,北風)一答レベル,一問一答(けっこう子ども受けするので授業のペースをつかむために使う場合がある)で満足するレベル,一問多答レベルを経て,多問多答型へと進化しなければならないということです。
 齋藤孝の他の著書に,「質問力」がありますが,これは教師向けというより社会人,インタビュアー向けです。ぜひ次は「発問力」という本を書いてほしいですね。(もうそれに類する本が出ているかもしれませんが)
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 19頁より
「教師の実力が問われる勝負どころは,発問力である。問いがぼんやりとした凡庸なものであるならば,生徒たちは深く考えることができない。問いを発するという行為は,実に教育者らしい行為なのである。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその3 「場」の空気

 『弓名人』のように弓を使わずに鳥を落せるか
 (逆コンピテンシーその3 友情の関係性を実現する場を提供できない・・・「対人変革力」に課題)
 失敗例のうち, 「4:葉にとらわれて根を育てない」「18:長所が引き出せない」「26:予言の自己成就の悪用」などと関連があります。
 子どもたちを学びに燃えさせるコンピテンシーをすべての教師に求めるのは酷かもしれません(齋藤孝の要求水準は,歴史上の実力者がモデルになっているだけに,相当に高い)。
 私が考えるコンピテンシーモデルの3つの次元のうち,「創造力」については,逆コンピテンシーの想定が難しいものもありますが,「自己」と「対人」という2つの基本的な分野については,理想を追求する姿勢がほしいものです。
 「緊張感のある関係の場」を作る例として,こんな事例がありました。
 ある行事の委員になった下級生が遊んでいるのを担当の先生が見つけ,「そんなに責任感がないのなら担当からはずす」と強い指導をします。しかし,自分がやりたくて臨んでいる行事の委員なので,やめさせられたくありません。生徒は「続けさせてください」と謝罪に来ます。しかしすぐには許しません。「反省文を書いた後,委員長・副委員長といっしょにまた来なさい。」と言って,いったん帰します。その後,先に委員長と副委員長を呼び,「自分たちが責任を持ちますから続けさせてやってください」と下級生をかばうように指導します。
 この指導の結果,教師と下級生の間には一時的に溝が生じますが,上級生と下級生の間には緊張関係,信頼関係が生まれます。もし下級生が問題を繰り返すようなら,その対応は上級生と担当の先生が悩みながら考えていくことになります。なお,この指導は行事の準備の初期に行うのが効果的です。
 こういう指導があると,その後,準備のときにふらっと見に行ったときの「空気」を感じるのが楽しみになります。そして,行事の後には,下級生だけでなく上級生に対しても「褒める」言葉のバリエーションが増えます。
 孫子の兵法を活用したような指導ですが,生活指導で「緊張のある場」をおわかりいただくための例として紹介しました。なお,齋藤孝「教育力」では,この「場」を学習指導のケースで説明しています。
 
参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 16頁より
「切磋琢磨という言葉どおり,お互いに磨き合う関係性を作り上げることが教育者の最も重要な仕事である。教えているだけでは本当の実力はつかない。・・・(中略)・・・肝心なのは,そうした緊張感のある関係の場を整えるということだ。」 
 18頁より
「この『場』の空気は,教師自身の人格や教養,身体から発せられるエネルギーなどに支えられている。だからこそ,教育は人間が身をもって行う営為なのだ。教師の人格的雰囲気がそのまま『場』の空気になってしまう。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその2 生徒との人間関係

 生徒と友情の関係性をもっているか?
 (逆コンピテンシーその2 場に応じた関係性が築けない・・・「対人関係力」「対人指導力」に課題)
 「7:わかったふりが見抜けない」「39:騒がしくない子どもを数に入れない」など,関連のある失敗例はたくさんあります。
 先日のインタビューで,生徒とどのような関係を持とうとしているかというような趣旨の質問には,状況や生徒の個性に応じた関係とお答えした記憶があります。
 たとえが逆にわかりにくいかもしれませんが,学校は総合病院のようなものです。教師は,受付兼,外科医兼,内科医兼,精神科医兼,レントゲン技師兼,小児科医兼・・・さまざまなケースに応じた医師を演じなければなりません。まず,受付の健康チェックが大事です。
 「筆箱がなくなってしまいました」と訴えてきた生徒がいたら,「もしかしたらいつも私をいじめているAさんたちが隠したのかもしれないけど,Aさんたちを疑うともっといじめられるかもしれないし,そもそもAさんたちから私がいじめられていることを先生は知らないし,先生にはどう相談したらいいかわからないけど,筆箱がないと授業で困るし,・・・」と心の中で思っているかもしれないことを想像できる力が必要になります。しかし,心の傷はレントゲンには映らないので,教室にいっしょに探しにいったときの他の生徒たちの反応から読み取るしかありません。
 まずできることは,一生懸命に筆箱を探すことです。警察官のような仕事ですが,ことの成り行きによっては検察官,裁判官,そして弁護人の役割を演じるケースも出てきます。
 いじめの対応の「隠れた初期指導」になっているかもしれないこのケースでは,相談を受けた教師が一連の対応の後,生徒から感謝の言葉を聞いたとき,「友達が困っていたらあなたも力になってあげよう」と一言返せば,友情の関係性を学んでもらったことになります。
 
 齋藤孝「教育力」(岩波新書)の「友情の関係性が教育の目指すところ」(4頁)の趣旨とはちょっと違った話でしたが,ご勘弁ください。

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むーその1 学び上手の教師

 教え上手である前に,学び上手であるか?
 (逆コンピテンシーその1 学ぶことが下手である・・・「自己変革力」に課題)
 55の失敗例のうち,「1:面子にこだわる」「11:経験にとらわれる」「25:批判に耳を傾けない」「37:評価されることを嫌う」でふれてきた4つに関連があります。これらは対人指導力や対人指導力,対人変革力にも強い影響をもちますから,重大な逆コンピテンシーになります。
 こんなチェック項目はいかがでしょうか。
1 今,燃えている研究内容があるか
2 自己研修の時間が充実しているか
3 ともに学ぶ仲間がいるか
4 学ぶことについて示唆を与えてくれる人がいるか
5 授業はいつも新鮮であるか

参考 齋藤孝「教育力」(岩波新書) 1頁より
「教える者がすでにあこがれの気持ちを失っている場合には,人はついてこない。」
 5~6頁より
「自分自身が本を読まず学んでいないのに,教えたがるとすれば,それは本末転倒だ。学ぶことのプロフェッショナルであるからこそ,教える側に立つことができるのだ。」
「学ぶことが楽しいことだ,と相手に本気で信じさせることが,教師のいわば使命である。自分自身が学ぶことをせずに,ある程度習い覚えた教育内容を消化するだけでは,一番肝心な『共に学び合う関係』が生まれない。」

齋藤孝「教育力」から教師の「逆コンピテンシー」を読むー序

 齋藤孝の「教育力」(岩波新書)を読みました。これまでの著書の焼き直しかな?という不安もありましたが,「教育失敗学」の立場から言うと,齋藤孝が言う「優れた教師の力」の裏返しをまとめると,教師の「逆コンピテンシー」集になるので,なぜそういう失敗がおこるか,それを防ぐにはどうしたらいいかという研究の参考になります。
 齋藤孝が重視している教師の資質は,「学ぶ力」です。たとえばこの「逆コンピテンシー」は,能力では「学ぶ力がない」こと,資質では「学ぼうとしない」ことが挙げられます。
 今後,具体例をもとに,「教育力」をテキストにしながらまとめていきたいと思います。
 

コンピテンシー聞き取り調査について

 先日,教師のコンピテンシーについて研究されている大学院生の皆さんとお会いできる機会がありました。私の教育欲は別の角度から見ればたいへんおしつけがましいもので,長い話に付き合っていただいて(私は)大満足でした。研究の成功をお祈り申し上げます。
 「教育失敗学」には,教師や保護者,教育行政にかかわる人たちなどの「逆コンピテンシー」を白日のもとにさらす使命があります。三者の立場を経験した私には,その中で一般の人には見えにくい「逆コンピテンシー」を紹介したい欲求にかられています。ただ,非常に残念なことは,守秘義務があるために根本的な部分にかかわるわかりやすい事例が紹介できないことです。
 

教育の場を戦場にたとえると・・・

 記事をHPにまとめるためブログを休止しておりましたが,ここに再開します。「教師のコンピテンシーディクショナリー」作成も不定期ながら地道に続けたいと思います。
 さて,教育再生会議の報告を待つまでもなく,教員の指導力向上は普遍的・恒久的な課題です。教育委員会の立場では,採用試験の倍率が3倍以下になろうとしている小学校教員の質の問題を深刻に受け止めているようですが,問題は新採教員の質ではなく,その人が赴任する学校の環境(同僚,管理職,生徒,保護者・・・等)にあると考えています。
 教師に指導力をつけさせる学校の環境とは?・・・私は,失敗することを覚悟で若手に仕事をさせられる(ということは失敗した後のフォローが完璧にできる)職場が理想的だと考えます。私が教育の成功を目標にした「教育失敗学」を構築したい理由の一つがここにあるのです。
 悲しいかな,この「失敗」を自分自身で許容できず,かつその教師の保護者・・・失礼しました・・・親までが,管理職に苦情を言ってくるケースがあることを,たしか以前に紹介したことがありました。
 失敗させないようにするということは,人によっては何もさせないようにするということで,(本人もそれで喜んでいたりして,)それによって指導力をつける機会を喪失してしまっている教師は大勢いると思います。
 また,一つの職場に長くいることで,能力の向上の機会に恵まれない教師がいるという問題もあります。

 さて,過去の教員生活をふり返ると,私が勤めていた学校(職場)環境は互いに全く質の異なるものでした。そして,それぞれの職場をその順序に経験できたおかげで,ずいぶん力をつけさせてもらったと考えています。

 学校(職場)環境のちがいは,不謹慎ながら,戦場を例にたとえるとわかりやすいので,簡単に説明します。
 私が初任者として赴任した最初の学校は,厳しい生活指導で有名でかつ学力水準も地域内では高いところでした。自分の役割は,優秀な兵隊を育成する鬼軍曹のようなものでした。学校の研修はさかんではありませんでしたが,自分の研究ははかどりました。次の学校では,敵陣に少人数で紛れ込んだ兵隊のようなものでした。味方はほとんど敵の捕虜になっているか,基地に隠れていました。精神力の勝負で味方を増やしつつ,敵が勝ったように思い込ませる勝ち方で平和を築きました。三番目の職場は前線の指令基地。本部からの命令を反発覚悟でおろしましたが,戦地ではそもそも本部を意向を聞かなければいけないという風土がないことに気付かされました。高校の世界史未履修問題で,教育の目的が法令を無視してでも希望の大学に進学させやすくすることであることがはっきりしたように・・・。親も生徒もそれを望んでいるからです。四番目は司令本部兼病院。そして最後は平和ボケした今の日本のようなところ。
 
 当たり前のことですが,職場の環境によって,コンピテンシーごとの重要度が激変します。「優秀な人」の定義が異なるのです。お役人の方々がコンピテンシーを検討される際は,「学校に遅くまで残って教材研究に励み,研究発表にも力を入れ,地域の行事に欠かさず参加し,土日は部活指導に力を入れ,スクール・ウィドー(学校未亡人)に家事と育児をさせている」ような人を決して「優秀」とよばないしくみを真剣に考えてほしいと思います。
 コンピテンシーづくりに360度評価は欠かせませんが,既婚者には「配偶者」の評価も忘れないように。

 ・・・さて,ある校長が誇らしく,「私は本当に何もしないで先生方がよく動いてくれています」と語りました。この校長は優秀なのでしょうか?それとも?・・・私は両方の校長先生を知っています。孫子は,「本当に優秀な指揮官はだれもが優秀だとわかるような働き方をしない。太陽や月が見えるからといって,目がいいわけでなく,雷の音が聞こえるからといって,耳がさといわけではないのと同じ」と言っていますが,そういう校長のコンピテンシーを見抜くためには,自らがそういう体験をしていないと難しいでしょうね。
 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より