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国として失敗した「成果統合力」の発揮

3 成果統合力(A 調整・統合力の③成果)
 成果についてのコンピテンシーを語る場合は、何が成果かを問う前に、何が目標かを設定する必要があります。目標を設定するには、現状がどうであって、理想がこうであるからここを目標とする、ということを共同で確認しあう作業が不可欠です。そうでないと、「何となくやっていたらこれこれこういう成果があらわれた」(悪いことではないですが)と誰も真似のしようもないことになってしまうからです。コンピテンシーは、優れた教師の行動特性をいうわけですから、「何となくが一番」「一生懸命やれば結果はおのずとついてくる」「力のない人に何を言っても無駄」といわれても困ります。
 目標達成のために取り組んだことが何で、その結果、どのような成果を生んだのか。
 この「調整・統合」の次元では、協働による運営部門、つまりチームでどう取り組めたのかを重視します。(個人の力はBの実行力の次元の「成果追求力」)
 中学校と違って子どもがみんな下校する放課後に時間がとりやすいほとんどの小学校では、校内研修がさかんに行われており、学校組織、学年組織、低・中・高学年、あるいは成績上位・中位・下位者ごとに担当する部会など、組織ごとにテーマを設定してよく研究が行われています。このコンピテンシーは、組織をうまく動かし、全体の成果として共有させた人に与えられる評価であり、組織内の人が共通認識をもって評価できることに特徴があります。いままで、「経営」や「管理」は管理職のしごとと考えていた人が教師には多かったようですが、管理職主導でなく、組織を目標の達成に向けてコントロールする人は常に身近にいるべきなのです。
 ただ、行政の立場から見ても指導が難しいのが中学校、高等学校です。
 東京都では授業力向上の取組を都立高校ではじめていますが、前途多難でしょう。
 学校ごとに生徒の学力に差がありすぎますし、本来点数で輪切りにされているとはいっても、推薦で入った生徒がいる一方で学力検査による入試で倍率のでない高校では、校内の学力の格差も大きなものになっています。「目標」の設定に困難さがあります。
 さらに、前回触れた「専門外のことに・・・」という抵抗があるからです。
 「他教科の授業をみてもわからない」と公然と発言する管理職もいます。(こういう人には評価されたくないでしょうね)
  中学校で、成果統合力を発揮する最大のチャンスは、平成12・13年度にまず訪れました。現行の学習指導要領の移行期間に当たって、総合的な学習の時間の試行を行えた期間です。そして平成14年度、学校5日制となり、新しい学習指導要領での指導がスタートしました。
 少なくともこの3年間は、成果統合力の見せ場でした。また、コンピテンシーの3つめの次元である「創造力」発揮の大チャンスだったのです。
 行政の立場で言うと、「研究指定校」式のはっぱのかけ方より、よほどフェアーというか全部の学校に同じ機会が与えられたのですから、よい成果が期待できる学校へ重点的に予算配分するチャンスでもありました。・・・が、・・・。「何をやったらいいかわからない」「総合は(専門じゃないから?)やりたくない」と教師が言っている間に、「学力低下懸念」がマスコミによって社会問題とされ、文部科学省までそれに振り回される始末となりました。
 国として「成果統合」に失敗してしまったのです。
 では、今、中学校で「成果統合力」を教師が発揮しようとしたら、どういう場面で何をしたらいいのでしょうか。
 (明日へ続く)
 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
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  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より