ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 2005年7月 | トップページ | 2005年11月 »

2005年10月

教師の失敗55

8 自己統制力(B 実行力の①自己)
 教育現場では事務的な仕事のことをよく「雑務」だといって、蔑む空気があります。行政にいた私などは雑務が本務だったことになってしまいます。
 その“雑務”ですが、行政の仕事は「失敗は許される」というムードが全くなく、非常にプレッシャーがかかります。数字1字、名称一つとっても決して間違えてはいけない、間違えるのは信用にかかわる、そんな雰囲気です。ふだん学校現場に無理ばかり言っているため、行政がミスると鬼の首をとったように嬉々として(?)苦情に酔う人がいます。気持ちはわかりますが、同じ紙を3回も4回も読み直してもミスるときはミスってしまうのです・・・。
 企業の人が学校現場の仕事がなかなかわからない以上に、学校現場の人にとって事務や行政の仕事は(本来わかっているべき・・・例:文書主義など・・・こともありますが)わからないことだらけでしょう。「事務室にいくといつもボーっとネットサーフィンしているか、お茶ばかりしている」という印象をもっている教員もいるかもしれませんが、たとえば文書管理だけでもけっこうな仕事になります。
 教育ブログでは管理職批判をしている教員の方が散見されますが、たとえ管理職試験の勉強をしてみても、管理職になってみなければわからない仕事というのが山のようにあります。人格的な面での批判もあるようです。これまでここで紹介しているコンピテンシーを総合的に発揮できる教育現場というのが少なかったせいもあり、管理職向きの人材がそもそも育ちにくいという背景はあります。しかし、経営の勉強をすればわかるように、ある経済活動、生産活動(教師の場合は教育活動)が利益を生んで手元に収入が入ってくるまでには、たいへん多くの、確実性が求められるプロセスがあるわけです。これを代表して行っているのが管理職であり、それに加えて事務の方々の「縁の下の力(表現が適切でなかったらすみません)」があるおかげで、のびのびと授業や部活に励めるんだということを本当に理解している人は少ないような気がします。
 それでは教員の「本務」とは何か。
 多くの教師には、「子どもと向き合っていること」というような「本務」のイメージがあるのではないでしょうか。
 ただ、一度現場を離れて教員というのを見てみると、子どもの前にいながらも、子どもと正面から向き合うことができない人が多いことがわかりました。また「部活熱血教師」のように、「全体の奉仕者」ではなくて「一部の奉仕者(実際の活動ではどっちが奉仕しているのかわからないこともありますが・・)」でとどまってしまっている人もいます。
 この「本務」をきちんと自己評価し続け、子ども「たち」ときちんと向かい合っていたのか、できなかったところは何なのかということをしっかりと振りかえり、改善し続けられる力、これが「8 自己統制力」だと考えています。
 私の場合は自分でもいやになるほど繰り返してしまいますが、「気持ちのムラ」が教育活動の大きな障害になっています。まさに失敗の連続です。それを戒めるために、55の「教師の失敗」をまとめてきました。これをもう一度振り返り、「自己統制力」を高めていきたいと思います。

 もちろん給与引き下げには反対です。ただ、万が一、実際に給与が下がったとき、「下がった分の手を抜く」「やる気をなくしたから楽をする方法を開発する」教員は少ないと思います。子どもという存在が目の前にいる以上、おそらくそういう経済原理とは超越している存在が教員だと思います。決して引き下げ賛成(そんな教員はいるのでしょうか?)派ではありませんが、もし他の職業と労働の価値を科学的に分析され(授業の質や分掌の職務量等を含めて)たら、どんな結果になるのでしょうか。こわい気もしますが、自分の仕事なら「教員の給料はまだ安い」という分析結果がでるぞ、という教員もけっこういるのではないでしょうか。

密度を上げる ノットイコール 多忙になる

【前回の続き】 7 効率調整力
 私が用意していた評価項目(=目標項目)には、次のようなものがありました。

○職員会議の総時間を前年比20%減。
○行事の準備にかける時間を○%(行事ごとに設定)減。
○授業で使うプレゼンソフトの製作時間を1授業時間あたり2時間以内とする。
○クラスの生活の記録のチェック&返事書きの時間を1日50分以内とする。
○学年だより(週3号程度発行)の作成時間を1号あたり2時間以内とする。
 
 時間を限定すると教育活動の質が落ちるかというと、必ずしもそうとは限りません。
 というより時間効率を高めるためには、質を落とさず実行する戦略の設定と実行が不可欠なので、教室の移動中や学校と自宅の生き帰りなどにたえずアイデアを出そうと努力して、新しい方法を試すという行動が伴うからです。失敗もありますがこの失敗があるおかげで時間を有効に使うこつがつかめてくるのです。
 分類では「C 創造力」の次元の「21 効率創発力」に入れてしまっていますが、「部活動の指導にあてる時間を30%以上削減できる練習法の開発」など、効果を上げたアイデアも生まれました。
 
 教育現場の仕事はとにかく時間に追われることになりますので、別室登校の生徒一人につきっきりになるのもいいのですが、学校の教職員全体の時間の使い方の効率も考えて、切るところは切り、重点をおくべきところに時間をかける、そういうメリハリのきいた仕事をしなければいけません。
 定期考査の準備の指導のときには必ず言う言葉ですが、「ムリ・ムラ・ムダ」のない時間の使い方を!というのは、自分自身への戒めという意味もあると考えています。

★★★教育関係ブログ雑感★★★
 教員給与の削減が話題になっていますね。年功序列(正確には年のみの序列)型賃金の見直しは困難でしょうから、全部を減らしちゃえというのは非常にすっきりした提言ですが、だからといって2人の仕事が3人でできる(教師を増員する)ほどには減らせないでしょうから、文部科学省が反発するまでもなく実現は難しいでしょうね。
 一般の公務員程度にするといっても、たとえば都庁や警察などの場合は、異常に安く住める住宅があるという好条件があるので、教職員の待遇はそれ以下になってしまうことになります。
 若い頃、東京では手取りの半分以上が家賃でなくなっている生活を送っていましたから、同じ公務員なら倍率が高い学校より行政の方へという人が増えてしまうかもしれませんね。
 職員住宅を通常の賃貸にまわして、公務員全員を現状どおりの数千円の住居手当に統一し、家賃収入を財源に入れると、どのくらい収入が増えるのでしょうか?

教員の給料は常時接続の定額制?

7 効率調整力(A 調整・統合力の⑦時間)
 教師の時間に対する感覚というのは、人によって全く異なるかもしれません。
 全く「忙しい」と思わずに誰よりも仕事をしている人、「忙しい、忙しい」と言って仕事がまわってこないように努力し、だれよりも役に立たない人。家に帰っていくらでも時間があった独身時代、子どもの世話をしなければいけない人、親の介護をしなければいけない人、・・・傍目ではわからない楽や苦労がそれぞれにきっとあるのだと思います。不登校生徒への対応の会議中、家でひきこもっている子どものことを考えていた教師がいたかもしれません。
 個人的な事情はあるにせよ、教師にとって、どうにかクリアしなければいけない課題はこの「時間」の使い方にあります。よく、「時間さえあればもっといい案が浮かぶのだが」という人がいますが、自分の経験では、最も忙しく自由に時間が避けないときほど時間は有効的に使え、仕事の内容も質もよかったと思います。
 ただ、年を重ねてくると、授業の準備に3日も4日も徹夜をする体力はなくなってきます。
 
 教師の時間の管理は、まず、時間割で7,8割が決まります。
 時間割の担当をしていたときは、コマを埋めるのが精一杯で、どこに○○の会議を設定できるように調整しようなどと考えるゆとりがありませんでした。放課後の会議は部活動や生徒指導、教材研究等に支障をきたすので、学校の規模にも左右されますが、空き時間に設定するのがベストです。
 授業時数の関係で、ほとんど空き時間がない先生もいれば、実技教科で時間割がガラガラな人もいましたが、当時はだからどうという感覚はありませんでした。
 財務省は教職員の給料を削減しようとしているようですが、あまりこういう「時間割」は見せたくないですね。
 何か言ってきそうです。
 ティームティーチングといって授業を二人の教師が担当している教科がある学校を監査するときは、行政用の報告書ではなくて、時間割か学級日誌を見れば不正がすぐにバレます。こういうところからお金の回収を進めるという手もあるでしょうが、こういう個人の手抜きは授業の質までさかのぼればきりがありません。
 
 話題がそれますが、行政で仕事をしていたときに、けっこう意外だったことがあります。
 私と同じように現場から行政にきたある人は、いつも始業の1時間前に学校に出るのが習慣だったようで、行政でもその習慣を守っていました。あるとき、他の席の事務方の人たちが、「どうして異常に早く来る人がいるのか」と話題にしていました。何か悪いことをしているかのように。「信じられない」というニュアンスです。事務方はなるほど勤務時間開始の5分前くらいからいっせいに仕事場に出てきて、時間になると残業のない人はきれいに帰っていきます。
 教員は行政で働いて何時間残業をしても、もともと給与に4%の調整額がプラスされている(これは全教員対象です)ので、残業代はつきません。教員を指導主事として行政で働かせるメリットはここにあります。
 指導主事はネットで言えば定額制の常時接続。
 考えてみれば、教員というのは勤務時間がはっきりしない(1週間で100時間労働はけっこうありました)職業なので、常時接続のような料金?体系なのかもしれません。
 給料で差をつけるとしたら「速度」?
 つまらないことを書いてしまいました。
 この「7 効率調整力」については、「組織効率極大化力」という観点から、どんな目標の立て方が可能か、次回は考えてみたいと思います。
 

お金は惜しい。

6 情報活用力(A 調整・統合力の⑥情報)
 雑誌「プレジデント」で前回の話題であった「会議」の特集をしています。広告だけからの判断ですが、学校の会議というより授業での「話し合い活動」に活用してみたいなという感想を持ちました。

 さて、学校からの情報発信ですが、昔から「学校(学年・学級)だより」を主な手段として行われていました。都立高校は全校、小中学校でも多くの学校がホームページを開設しています。(更新の頻度は学校格差が大きいようですが)
 最近は学校評価の内容も外部に示すようになりました。ただ、学校の情報のうち、不登校や問題行動のようなものになると、個人の情報の性格が強くなるので公開しにくくなります。「学校は閉鎖的だ」といいますが、そういう情報までオープンにすると、保護者という地域住民の問題までわかってしまうという難点があります。
 都市部の学校に関するうわさのおもしろい入手方法を最近気付きました。全部の学校というわけにはいかないのですが、マンション建築があって購入を検討をする人たちの掲示板というのがネット上にあります。そこで、必ず話題になっているのが、子どもを通わせることになる学校の「質」「評判」です。ある区は学力調査の結果が悪いとか、そういう情報も交換されています。親の学歴が子どもの学力をほぼ決定付けるという調査結果を発表している学者もいますが、学力調査の結果=学校の価値=地域のレベルというような図式が描かれています。
 本来、学校からの情報発信というのは教育の信頼性を高めるとか、保護者とのコミュニケーションを円滑にするとか、教育への参画意識を高めてもらうというような効果を期待するもので、これは実態からよくわかりますから評価するとしたらとてもやりやすいコンピテンシーになります。
 
 私がここで問題にしたい「情報活用力」は、学校や各個人の教員の研修成果の活用度です。
 研究指定校になったりすると、発表やまとめのための冊子をつくります。予算の大部分はこの冊子の製本費用にあてられます。ただ、こうして蓄積されていく情報のどれだけが活用されているのでしょうか。
 異動してきた学校における過去の研究成果を把握できている教師がどれだけいるでしょうか。
 夏季休業中、正式な届出があれば、教師は自宅など学校外で研修を行うことができます。この成果は自分のためであることは当然ですが、学校全体の財産になっているでしょうか。
 ここで何度も私が主張していることですが、研修は個人の力量を高めるためだけでなく、学校の(あるいは自治体全体の)教育力の向上に役立てる必要があると考えています。
 一部の人には怒られそうですが、私が一番気になるのは、ネットで公開してただで使ってもらえばいい程度の情報を、わざわざ出版社に売っている教師たちがいることです。一昔前なら本でなければ効率が悪かった情報伝達も、今ではネットで済みます。NICERなどで情報公開すればいいものを、どうして本にするのでしょう?
 ある研究会に出たら、授業者が「あとのことは私の本を買って読んでください」と言っていましたが、これって公立の教師の言葉なのでしょうか?小学校の先生というのは、有名人をあがめるように研究会に大勢集まってきて、「有料の研究会に出ているのにさらに本を買えとは何事だ」とは言わないのが礼儀なのでしょうか。
 もちろん著作権が課題になるので図版等が必要な実践などは、出版した方がいいと思いますが、字や子どもの授業風景だけの教育図書ってけっこうあります。(ですから教育図書の出版社が必要ないというつもりはありません)
 教育の本というのは、「ふんふんなるほど、これとこれは使ってみよう」と読む程度のものであって、200頁のうち数ページも自分に役に立つものがあればラッキーなものです。ですからネット情報で十分なのです。
 ・・・・「そんなに金がおしいか!」と言われそうですが、教科の専門書もたくさん読む必要があるので、お金はおしいのです。
 「自腹を切るから勉強する気になる」という人もいますが、それは公立の学校より月謝を払って勉強する塾の方が効率がいいという意味でしょうか?
 ずいぶん脱線してしまいましたが、情報について、調整や統合という観点からできることはないかと考えてみました。

職員会議の評価方法は?

【前回の続き】 5 論理統合力
 会議についての問題点は企業人だけでなく教師たちの多くも感じていると思います。中学校の教師は多忙感をもっており、7番目のコンピテンシー「効率調整力」でもふれますが、「時間を有効に使う」ことも成果をあげるのに必要な力になります。ですから「時間を無駄に使っている」実感が高い会議に問題があれば、改善しなければなりません。一言で表現すれば、会議は「論理統合」や「戦略立案」の場とし、「思考」の場、最悪でも「調整」の場としたいものです。「連絡」「指示」だけの目的で開かれる会議ほど無駄なものはありません。
 齋藤孝先生に「会議革命」(PHP研究所)という本があり、「あなたの会社の会議は大丈夫か?」というチェックリストが冒頭に紹介されています。「別のことをしていても大丈夫」「アイディアを出さないくせに、注文ばかりつける人がいる」「一人の話が長くてうんざりする」「意見の質ではなく、声の大きさで決まることがある」など、学校でも心当たりの多い例がたくさん出てきます。
 学校で代表的な会議は「職員会議」です。現場でないとご存知ない方も多いと思いますが、「職員会議」というのを学校が必ず設ける必要はありません。校長の必要に応じて開くものという位置づけです。ただ、慣習的にこの会議というものはあり、なぜか校長への不平不満の発表の場になっていたりします(直接言えばいいでしょうが、大勢の場で攻撃することに意味があるようです)。職員会議に先立って、校長・教頭(副校長)、主任等で開く会議があり、学年や分掌ごとの会議がありと、下手をすると同じ話を3回聞かされる場合があります。不登校生徒や問題行動の報告、行事の分担の発表などは職員会議で行われています。学校の年間の動きはほとんど決まっていますから、どの職員会議で何が報告されるかは4月にわかっているのが学校というところです。
 この会議を改善していくために、たとえば学校評価では、職員会議に費やされた時間の何%が単純な伝達事項であり、うち何%が「もっと早く知らせろよ」という内容であり、どの教員がどれだけ建設的(あるいは非協力的)意見を述べたかなどを振り返る必要があります。
 学校によっては卒業式のシーズンになると必ず職員会議が長くなります。校長先生の自殺で促された面もありましたが、国旗・国歌の法律が制定されたおかげで、「国旗を掲げる」「掲げない」「国歌を歌う」「歌わない」で延々と相手の立場と関係のない意見の述べ合いはなくなりましたが、「職員会議で必ず意見を述べること」という使命がある団体の人はそれでも決められた言葉を発表しなければなりません。学校では卒業式が「儀式」なら、卒業式シーズンの会議で聞かされる話も「儀式」です。
 こういう必ず出てくる意見の一方で、多くの教師が問題だと考えていながらあまり取り上げられない議題が、「○○先生の授業が成立していません。どうしたらよいか」「子どもの自習時間が多いと思ったら、どうやら本の原稿か試験の勉強のようなものに取り組んでいる先生がいるがどうしたらいいか」という身内の問題です。管理職の指導力の問題だと言い切ることもできますが、教育の信用にかかわる問題の解決のための戦略づくりこそ「会議」のテーマにしなければなりません。
 授業が成立しない教師が、何を勘違いしているのかクラスの担任の教師に「先生のクラスはうるさくて・・」と苦情を訴えてくるケースがありますが、たしかに会議で「自分の指導力のなさをわざわざ担任に協力してもらって生徒に確認させようとする先生がいます」などと問題にする必要はないのですが、こういう指導力不足の教師を放置している学校が多いことは事実です。
 現場からいったん研修の場に遷される人もいますが、そのレベルになると復帰させることも気の毒、やめてもらうことも気の毒という八方ふさがりになるそうです。
 自信がない教師、指導力不足を自覚できていない教師には、現状の問題点の把握、改善策の検討、実行、成功、新たな課題の設定と、のぞましいマネジメントサイクルを体験させてあげること、とにかく成功体験、自己有能感をもってもらうことが大事なので、このための知恵を学校ごとにしぼってほしいものです。
 私が体験した会議で最も内容が濃かったのは、総合的な学習の時間や学力モデルを練るための構成員4人の会議でした。放課後でなく4人の空き時間をいっしょにしてもらい、頭を使いましたが、毎時間、完全燃焼でした。横でお菓子を食べたり雑談をしている人も気にならず、議論に集中できました。このようにプロジェクトチーム方式で方針や提案を考える会議が学校ではもっと必要かもしれませんね。
 どこまでが「会議」でどこから「研修」なのかがわからなくなってくると、「会議」の質が高まっているということではないでしょうか。

コンピテンシーモデルを構築するコンピテンシー

5 論理統合力(A 調整・統合力の⑤思考)
 「論理統合力」とは、「混沌とした複雑な対象に対して論理的なフレームワークを適用し、統合する力」のことで、私のモデルではここに「概念共有のための論理伝達力」=「思考や信念を、論理的にわかりやすく伝達し、共有する力」も含めたものをコンピテンシーのモデルの一つと考えています。
 たとえば、子どもの学力をどう定義するかは難しい問題です。
 この学力の考え方をはっきりさせなければ、「学校として高めさせたい学力」の説明がつきません。
 マスコミが「学力テスト」と言ってしまうものは、正確には「学習で身に付けた力の一部を測定するためのテスト」であって、その結果=子どもの「学力」ではないこと、学校の結果=生徒たちが学校で身に付けた「学力」ではないこと(これは塾で身に付けたかもしれない力の一部だという意味も含めて)は、よく考えればわかることですが、その結果が何だか一人歩きしているようです。
 本来、学ぶべき内容がほかにある時間を使って、ひたすら「100マス計算」をしている学校を参観したことがありますが、校長先生がおっしゃっていた言葉がむなしかったです。「これなら教師の力量の差がはためにはわからないですむ」・・・
 文部科学省のHPには、「確かな学力」の説明として、「知識や技能はもちろんのこと、これに加えて、学ぶ意欲や自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題解決する資質や能力等まで含めたもの」と記してありますが、「自分で課題を見付ける」「主体的に問題解決する資質」と言われても、ちょっとピンとこないかもしれません。
 たとえばそれらを重点的に指導できるはずの「総合的な学習の時間」の成果がどれくらいあるのか。教科の中ではどうなのか。具体的な成果を検証・分析するデータを欠いています。その理由は何といっても、そういう力がついたかどうかの評価が難しいからです。
 日本の子どもは「知識や技能がある程度身に付いている」わりに「学ぶ意欲」を欠いていると言われますが、アンケートの回答で「意欲」の測定や比較ができるかどうかも疑問です。
 このように「評価」が困難な力も含めているのが現在の学習指導要領で言っている、それはつまりこれからの時代を生き抜くために子どもに必要な「学力」なのです。
 私が担当していたある学校では、「学力とは何か」の協議・共通理解から研究をスタートしていました。けっして無駄な作業ではなかったかもしれませんが、学力像を統一させるよりも、多様な学力像が並存でき、教師がさまざまなアプローチの仕方で学力向上に努めてもらう方が、特に中学校の場合にはいいなあと思いました。
 それぞれの教師がそれぞれのフレームワークで学力を語ることができ、「マニュアル」にたよらない総合学習を創造できればいいと思います。多少戦略に不安があっても、自らの信念に従って行われる実践には力があるものです。
 私は独自の学力モデルを実践で活用していますが、現在ご紹介中のコンピテンシーモデルをうまくいじることで、学力コンピテンシーモデルができるかもしれません。検討してみたいと思います。
 次回は、学校で行われている「会議」のあり方について、「論理統合力」の欠如という観点から述べてみたいと思います。(お詫び・・・スタートで申し上げた一日「1モデル」のペースでなくなってしまっております。今後もこんな調子になりそうですがご勘弁ください)

「優秀な教師」に求められる条件とは?

4 戦略立案力(A 調整・統合力の④戦略)
 学校には、学校経営方針、学年(学級)経営方針、教科等の指導計画(年間計画や週ごとの計画、授業ごとの指導案など)といった、目標達成のための「戦略」を決めたものがあります。
 企業などと比較すると学校の最も弱いところの一つがこの戦略の立案です。
 教師の失敗の28や29でふれたところです。
 もし学校を自由に選択できる地域でしたら、学校を選ぶ基準にしてもらいたいのが上記の方針や計画案です。
 学校には教育委員会に届けて受理してもらう「教育課程」というのがありますが、どの学校にも共通しそうな大きな目標(人権意識を高めるとか自主性を重んじるとか)や取組内容(少人数指導を行うとか補習を行うとか)だけで、学校の比較にはとうていなりません。
 学校にはこんな質問を向けてみます。「人権意識を高め、いじめをなくすために何をいつどの程度どのように取り組むのか」「学力を向上させるために、この学校は何をどのようにするのか」「教員の資質を向上させるために、校内での研修は何をいつどのように実施するのか」。それらについて通り一遍のその場しのぎのような回答だったら、「それらの取組がこれまでどうであったので、今年度(来年度)どう改善しようとしているのか」といった具体的な「戦略」を聞き出します。
 なかなか外部からは見えにくい学校の教育力ですが、中学校であれば、定期考査の試験問題を公開してもらうという手もあります。どんな力を育てようとしているのか、評価しようとしているのかが一目でわかります。テストの作問能力は、教師の指導力や熱意とある程度の相関があります。これが塾でやるような問題なら、塾に通わせるのがベストだという判断にも使えます。もちろん他の学校を選ぶこともできます。
 教育委員会の立場で指導にあたっていた自治体の学校の例でいくと、小学校では「短時間の研修タイム」を設定して学習に関する情報交換を行う例とか、中学校では「一年間に一人一回は必ず研究授業を行う」というものが、戦略として、「場の設定」だけの次元でいうと優れたものでした。そこに、授業の改善とその成果を明らかにするプロセス、それを共有化して全体のレベルを向上させる手段などが組み合わさってくるとよりべターな戦略になっていきます。
 「時間がないから研修はいやだ」「研究授業は準備がたいへんだからやりたくない」「研修より指導にあたっている方がよい」という教師たちをやる気にさせるコンピテンシーは「2 対人指導力」ですが、今、現場に求められているのはそういう「改善への戦略的思考をもたない教師」を変える「戦略の立案力」です。
 私は、「優秀な教師の条件は何か」と聞かれたら、「他の教師の力量を向上させられる教師」を第一番に挙げます。人にやる気をもたせることができずに自分だけ仕事をする人に「給料で差をつけて優遇する」という行政の考え方は間違っています。

小中一貫教育は成果統合力発揮の大舞台になるが・・・

【前回の続き】 3 成果統合力
 中学校では、これまでも生活指導については「チームによる指導の成果を志向する」面がありました。学年主任や生活指導主任に強いリーダーシップがあり、主任が前面に出なくても成果が上がる。よくある学校の失敗は、「おさえられる教師」がほとんど単独で動き、その教師が挫折するか異動するかでまた収拾のつかない学校になってしまう・・。前回の「対人指導力」は高ければ高いほどいいのですが、特定の教師だけがその力を発揮していると、他の教師にマイナスコンピテンシーである「対人依存度」が上昇してしまう場合があります。
 「自分たちの力でこういう成果を生み出したのだ」という達成感を同僚に味わってもらうのが、「成果統合力」というコンピテンシーの大事なところです。
 生徒に対する「対人指導力」が高い教師は、同じように達成感を生徒に味わわ、自己有用感に酔わせることができるのです。
 さて、この成果統合力の評価については、学校、学年、学級、外部等で設定した目標の達成度とその前年比上昇ぐあいで判断します。
 新しい事業に取り組むときは、目標が立てにくいのですが、次回の「戦略立案力」などと合わせて総合的にコンピテンシーを発揮できるチャンスになります。
 文部科学省が、義務教育6・3制のあり方(見直しもふくめて)を検討するため、小中一貫教育校に高い関心をもっているというニュースが報道されています。品川区では、「品川区小中一貫教育要領」という本を出版しているように、まったく手付かずの分野ではありません。が、「小中連携教育」とは明らかにレベルが違っており、たとえば中学校の教師か、より高い専門性をもった小学校の教師が小学校高学年の児童に専門教科を教えるような時代がやってきます。
 また、次の学習指導要領の検討がはじまろうとしていますが、たとえば6年生で学ぶ歴史と中学1・2年の歴史をどう関連づけていくか。社会科の教師なら、新しいカリキュラムを創造するチャンスとなります。
 これを地域の小・中学校の教師が協働で教材開発を行ったらどうか・・・など、アイデアが出てきそうです。
 ただ、小・中の間には、同じ義務教育でありながら、免許や教員養成時代の教育の背景なども影響してか、中・高の教師以上にお互いを理解しづらい部分が山積しています。
 成果を生み出すには最適な戦略が必要になります。(次回へ)

国として失敗した「成果統合力」の発揮

3 成果統合力(A 調整・統合力の③成果)
 成果についてのコンピテンシーを語る場合は、何が成果かを問う前に、何が目標かを設定する必要があります。目標を設定するには、現状がどうであって、理想がこうであるからここを目標とする、ということを共同で確認しあう作業が不可欠です。そうでないと、「何となくやっていたらこれこれこういう成果があらわれた」(悪いことではないですが)と誰も真似のしようもないことになってしまうからです。コンピテンシーは、優れた教師の行動特性をいうわけですから、「何となくが一番」「一生懸命やれば結果はおのずとついてくる」「力のない人に何を言っても無駄」といわれても困ります。
 目標達成のために取り組んだことが何で、その結果、どのような成果を生んだのか。
 この「調整・統合」の次元では、協働による運営部門、つまりチームでどう取り組めたのかを重視します。(個人の力はBの実行力の次元の「成果追求力」)
 中学校と違って子どもがみんな下校する放課後に時間がとりやすいほとんどの小学校では、校内研修がさかんに行われており、学校組織、学年組織、低・中・高学年、あるいは成績上位・中位・下位者ごとに担当する部会など、組織ごとにテーマを設定してよく研究が行われています。このコンピテンシーは、組織をうまく動かし、全体の成果として共有させた人に与えられる評価であり、組織内の人が共通認識をもって評価できることに特徴があります。いままで、「経営」や「管理」は管理職のしごとと考えていた人が教師には多かったようですが、管理職主導でなく、組織を目標の達成に向けてコントロールする人は常に身近にいるべきなのです。
 ただ、行政の立場から見ても指導が難しいのが中学校、高等学校です。
 東京都では授業力向上の取組を都立高校ではじめていますが、前途多難でしょう。
 学校ごとに生徒の学力に差がありすぎますし、本来点数で輪切りにされているとはいっても、推薦で入った生徒がいる一方で学力検査による入試で倍率のでない高校では、校内の学力の格差も大きなものになっています。「目標」の設定に困難さがあります。
 さらに、前回触れた「専門外のことに・・・」という抵抗があるからです。
 「他教科の授業をみてもわからない」と公然と発言する管理職もいます。(こういう人には評価されたくないでしょうね)
  中学校で、成果統合力を発揮する最大のチャンスは、平成12・13年度にまず訪れました。現行の学習指導要領の移行期間に当たって、総合的な学習の時間の試行を行えた期間です。そして平成14年度、学校5日制となり、新しい学習指導要領での指導がスタートしました。
 少なくともこの3年間は、成果統合力の見せ場でした。また、コンピテンシーの3つめの次元である「創造力」発揮の大チャンスだったのです。
 行政の立場で言うと、「研究指定校」式のはっぱのかけ方より、よほどフェアーというか全部の学校に同じ機会が与えられたのですから、よい成果が期待できる学校へ重点的に予算配分するチャンスでもありました。・・・が、・・・。「何をやったらいいかわからない」「総合は(専門じゃないから?)やりたくない」と教師が言っている間に、「学力低下懸念」がマスコミによって社会問題とされ、文部科学省までそれに振り回される始末となりました。
 国として「成果統合」に失敗してしまったのです。
 では、今、中学校で「成果統合力」を教師が発揮しようとしたら、どういう場面で何をしたらいいのでしょうか。
 (明日へ続く)
 

聞く必要のない人ほどよく聞く

【前回の続き】2 対人指導力
 生徒への指導、同僚への指導という2つの面の例を紹介しましたが、今、教師には、保護者や地域の人々との協働体制を向上することが求められています。
 忙しい中でも時間を割いて学校からの情報発信に耳を傾けてくれる人はもちろんのこと、子どもの教育に関心や責任をもとうとしない「大人」の教育力をどう引き上げていくのか。
 学校で朝礼や集会を行ったり、保護者会を開いたりするときによくおこることに、「聞くべき人は聞かず(その場におらず)、聞く必要のない人がよく聞いている」現象があります。「休み中の生活の過ごし方なんて、学校に指導される筋合いはない」と怒り出す保護者もいますが、かえってその方がうれしい。どういう反応をされようと、自分の子どもの教育に責任をもってもらえれば問題はありません。プリントまで配布して生活の細かい注意を促すのは、「学校が指導してくれないからこんな子どもになった」という言い訳をあとでされないためではありません。
 今、学校内外の生徒の問題行動を減らそうとしたら、大切なのは個人だけの実行力のコンピテンシー(熱血先生?金○先生?・・・他のクラスの子にはどういう働きかけをしていたのだろう?)にたよることではなく、保護者や地域の人々に動いてもらうことや、次の項目で示す、「チームでの成果」にもっと目を向けることが必要です。
 2の対人指導力でもし人事考課の材料とするなら、「道徳授業地区公開講座で何人のゲストティーチャーを招いたか」「地域の人に何人参加してもらえたか」「総合的な学習の時間や職業体験学習に協力してもらえる地域のサポーターを何人確保できたか」という評価項目があれば、数値目標も示せるので使えると思います。
 長くなってしまったので、次の項目は明日の話題とさせていただきます。

 「いずみ」さん、コメントありがとうございました。かかわりのある話題が、明日もう一度、登場します。

教師は教師を指導できるか

2 対人指導力(A 調整・統合力の②対人)
 教師の仕事の中には、子どもの教育だけでなく、後輩や指導力不足の教師に対する教育もありますが、これが現場ではどれだけ機能しているでしょうか。
 初任者として赴任した学校では、直接指導をしてくれた教師はもちろん、多くの先輩から貴重な「技」を学ばせてもらいました。優れた教師には、直接的な指導はなくても、その姿で同僚の指導力を向上させる力があります。ですからこのコンピテンシーは「対人影響力」という側面もあります。これがさらにレベルアップすると、Cの創造力の次元の「対人変革力」になります。
 最近の学校現場を行政の立場から見ると、自分のことで精一杯になっている教師が多いためか、若い教師を「鍛えてやろう」という意気込みをもっている先輩は減ってきているようです。いたとしても、「生活指導畑」の体育会系指導しかできない教師です。(もちろんいないよりはいた方がますですが)
 管理職の指導力はどうか。人事考課制度の導入から、授業観察の回数は格段に増えているようですが、「教科ごとの専門性」が高い中学校、高等学校では、授業力の向上への指導は無理だと初めからあきらめている管理職ばかりです。「素人に何がわかる」と言われるのがこわいのです。「子どもが授業を理解していない」「授業が成立していない」ことは素人でもわかるのです。が、「じゃあ、どうしたらいいんだ」という問いに自信をもって答えられるか。
 たとえばコンピテンシーを人事考課に活用しようとすれば、これは評価する以前に指導する力がなければ無理です。観点別学習状況の評価が導入されたのは現行より一つ前の学習指導要領ですが、4つの観点の学力を育てる指導力がないので4観点の十分な評価ができなかったように、評価の前提には指導があるのです。
 教師の子どもに対する「指導」の問題点、失敗例については「教師の失敗」で多く触れてきましたので、ここでは同僚への指導という側面の問題を書きました。
   

教師は長所を発揮できているか

21のコンピテンシーモデルは、以下のとおりです。
A 調整・統合力の①自己・・・1 自己展開力
           ②対人・・・2 対人指導力
           ③成果・・・3 成果統合力
           ④戦略・・・4 戦略立案力
           ⑤思考・・・5 論理統合力
           ⑥情報・・・6 情報活用力
           ⑦時間・・・7 効率調整力
B 実行力の   ①自己・・・8 自己統制力
           ②対人・・・9 対人関係力
           ③成果・・・10 成果追求力
           ④戦略・・・11 戦略遂行力
           ⑤思考・・・12 論理追求力
           ⑥情報・・・13 情報追求力
           ⑦時間・・・14 効率追求力
C 創造力の   ①自己・・・15 自己変革力
           ②対人・・・16 対人変革力
           ③成果・・・17 成果創造力
           ④戦略・・・18 戦略創造力
           ⑤思考・・・19 論理創発力
           ⑥情報・・・20 情報創造力
           ⑦時間・・・21 効率創発力


1 自己展開力(A 調整・統合力の①自己)
 
 教師は、現場で各自の長所が発揮できているでしょうか。
 このブログの教師の失敗ー38では、「優れた実践を眠らせてしまう」事例を紹介しました。学校によっては、教師の力量の差をつつかれるのがいやで、教育実践の自由を制限しているところがあります。
 ここで紹介するコンピテンシーは、自己の強みや特長を環境に合わせて柔軟に展開できる力をさしています。「自分だけ突っ走るタイプ」も教師にはいますが、直接教育を受ける対象の子どもにはたよりにされたりします。できない教師に右へならえされるよりはましですから。
 自由が制限された学校社会では、教師はせいぜい「教務や生徒部など分掌で適性に合った仕事を分担する」程度しかできません。
 もし低い山に高さをあわせることをやめたらどうでしょう。高さを競いだすでしょうか。2組より1組の方が宿題が少ないとか、学級通信の数が少ないとか、毎日つつかれることになるでしょう。「それのどこが悪い」と叱られそうですが、「忙しくなる」=「売り上げ、収入が増える」職業と違って、「忙しくなる」=「単位仕事量の収入が減る」(給料は上がらないのに仕事が増える)と不満に思い出すのが普通のレベルの公務員ですから、サービスの向上というのはむずかしいことです。
 ここでは、人前では仕事をしていないように見せながら、子どもに最善の指導ができるよう、かげで必死に働く教師のあり方が優れたコンピテンシーといえるでしょうか。
 そのためには、情報の出し方、時間の使い方について優れた戦略が必要となり、他のコンピテンシーとの関連がでてきます。
 

教師として成長するためのコンピテンシー

 つい先日、学習指導要領改訂の方向性を論議している中央教育審議会の教育課程部会で、企業が人事考課などに採用している「コンピテンシー」の考え方を義務教育に応用できるかという議論が交わされたというニュースが紹介されました。
 「成果主義は教育にはなじまない」という考え方は、現場の教師のほとんどが思っています。定年間近の超ベテラン教師を、条件付採用の1年目の教師が指導する場面もある現場では、成果主義はたしかになじみません。
 「あの先生より授業がわかりやすい」という生徒の一言、「あの先生より子どもの話をよく聞いてくれるし、指導が熱心で子どもがとてもやる気を出して成績も上がった」という保護者の一言で、二十数年のキャリアが地に堕ちるのが教育現場です。
 つまり、成果が上がらない(目標のレベルが低ければ別ですが)のが普通の世界、そもそもどんな目標がベストなのかがわかっていない学校に、成果主義をもちこむのは危険だという考えを、現場の教師はもっているのです。
 たとえば「すべての生徒に学習指導要領に示されている目標を達成させる」芸当ができる先生はいません。まさか、「10%の生徒ができないのは大目にみる。70%の生徒が60%程度達成していればよしとする」なんて目標は立てられません。

 ですから各個人が細かい職務目標として自らの行動をふりかえる程度の目的で使うべきもので、360度評価というなら別ですが、給料に反映する他者評価には向きません。評価者が実践力をもたずに評価力だけもつのは不可能だからです。
 
 私が3年前につくった教師のコンピテンシーモデルがありますので、明日から一日一つずつ紹介していきます。
 参考にしたのは「図解 戦略人材マネジメント」(ウイリアム・マーサー社著、東洋経済新報社)です。
 調整・統合力、実行力、創造力という3つの次元の能力を、7つの分野(自己、対人、成果、戦略、思考、情報、時間)ごとにどのように発揮するのが「優れた教師か」と自らに問うためのもので、基本的には自己評価用のモデルです。 

« 2005年7月 | トップページ | 2005年11月 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より