教師の失敗55
8 自己統制力(B 実行力の①自己)
教育現場では事務的な仕事のことをよく「雑務」だといって、蔑む空気があります。行政にいた私などは雑務が本務だったことになってしまいます。
その“雑務”ですが、行政の仕事は「失敗は許される」というムードが全くなく、非常にプレッシャーがかかります。数字1字、名称一つとっても決して間違えてはいけない、間違えるのは信用にかかわる、そんな雰囲気です。ふだん学校現場に無理ばかり言っているため、行政がミスると鬼の首をとったように嬉々として(?)苦情に酔う人がいます。気持ちはわかりますが、同じ紙を3回も4回も読み直してもミスるときはミスってしまうのです・・・。
企業の人が学校現場の仕事がなかなかわからない以上に、学校現場の人にとって事務や行政の仕事は(本来わかっているべき・・・例:文書主義など・・・こともありますが)わからないことだらけでしょう。「事務室にいくといつもボーっとネットサーフィンしているか、お茶ばかりしている」という印象をもっている教員もいるかもしれませんが、たとえば文書管理だけでもけっこうな仕事になります。
教育ブログでは管理職批判をしている教員の方が散見されますが、たとえ管理職試験の勉強をしてみても、管理職になってみなければわからない仕事というのが山のようにあります。人格的な面での批判もあるようです。これまでここで紹介しているコンピテンシーを総合的に発揮できる教育現場というのが少なかったせいもあり、管理職向きの人材がそもそも育ちにくいという背景はあります。しかし、経営の勉強をすればわかるように、ある経済活動、生産活動(教師の場合は教育活動)が利益を生んで手元に収入が入ってくるまでには、たいへん多くの、確実性が求められるプロセスがあるわけです。これを代表して行っているのが管理職であり、それに加えて事務の方々の「縁の下の力(表現が適切でなかったらすみません)」があるおかげで、のびのびと授業や部活に励めるんだということを本当に理解している人は少ないような気がします。
それでは教員の「本務」とは何か。
多くの教師には、「子どもと向き合っていること」というような「本務」のイメージがあるのではないでしょうか。
ただ、一度現場を離れて教員というのを見てみると、子どもの前にいながらも、子どもと正面から向き合うことができない人が多いことがわかりました。また「部活熱血教師」のように、「全体の奉仕者」ではなくて「一部の奉仕者(実際の活動ではどっちが奉仕しているのかわからないこともありますが・・)」でとどまってしまっている人もいます。
この「本務」をきちんと自己評価し続け、子ども「たち」ときちんと向かい合っていたのか、できなかったところは何なのかということをしっかりと振りかえり、改善し続けられる力、これが「8 自己統制力」だと考えています。
私の場合は自分でもいやになるほど繰り返してしまいますが、「気持ちのムラ」が教育活動の大きな障害になっています。まさに失敗の連続です。それを戒めるために、55の「教師の失敗」をまとめてきました。これをもう一度振り返り、「自己統制力」を高めていきたいと思います。
もちろん給与引き下げには反対です。ただ、万が一、実際に給与が下がったとき、「下がった分の手を抜く」「やる気をなくしたから楽をする方法を開発する」教員は少ないと思います。子どもという存在が目の前にいる以上、おそらくそういう経済原理とは超越している存在が教員だと思います。決して引き下げ賛成(そんな教員はいるのでしょうか?)派ではありませんが、もし他の職業と労働の価値を科学的に分析され(授業の質や分掌の職務量等を含めて)たら、どんな結果になるのでしょうか。こわい気もしますが、自分の仕事なら「教員の給料はまだ安い」という分析結果がでるぞ、という教員もけっこういるのではないでしょうか。
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