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2005年6月

「普通の生徒」は横綱級の禁句

雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。

参考 「楽毅」第四巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
177頁


 教師の失敗-53
   「普通の子どもです」と言ってしまう

教育現場にいると、見えていないものの本当の
大きさに愕然とさせられることが多くあります。
見えているもので一喜一憂するような人間や、
事件に飛びつく商売の人たちにはほとんど関心
のない部分に、教育の真価が問われるものが
点在しています。

 毎日汚れたシャツを着てきている生徒がいれ
ば、家庭内の不和が予想できるように、不幸を
味わっている者はわかりやすいサインを発する
場合があります。サインだらけの「荒れた学校」
を見ると、「教師は何をしているんだ」「どんな親
なんだ」と外部の方は言いたくなるかもしれませ
んが、そんな甘えた成長途上人よりも、それなり
に精神的に成長して、悩みをもちながらも他の
人に心配をかけないように生きている多くの子ど
もたちには目が向けられにくいことが問題です。

 以前ここで書いた、「数に入れられていない」
子どもたち、「普通の」子どもたちです。

 個性を重視すると教育課程でうたっておきなが
ら、「普通の子」と平気で「個性がないこと」を強
調するようなことを言う教師がいます。

 崖を滑り落ちようとしている子どもを救うのもも
ちろん必要ですが、崖下の人間と引っ張り合い
をしている場合でないことも認識しなければいけ
ません。

 子どもとともに雲の上を目指せるような教師で
ありたいと思います。

最後に手元に残るものは?

みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。

参考 「楽毅」第四巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
46頁


 教師の失敗-52
   おさめるべきをすて、すてるべきをおさめる

 
 教員しか買い手がつきそうにない中途半端な
専門書や雑誌がたくさん出ていますが、その
多くがあまり役に立ちません。
 教育を永遠の解答探しであると捉えるならば、
そういう印刷物の多くは研究者や実践者の通
過点にすぎず、「完成品」ではないと思えてしま
います。
 本を買うと「もうこの著者はこの思考モデルを
卒業してしまっているのではないか」と不安に
なってしまいます。

 私は、それはそれでよいものだと考えていま
す。むしろそういう教育書の失敗をどう見極め、
よりよいものに改善していくための実践のプロ
セスを学びたいと思います。

 教育現場ではよく、おさめるべきものをすてた
り、すてるべきものをおさめたりします。

 私が確立したい教育失敗学では、失敗の自覚
プロセスを取り込んだ改善サイクルをモデル化し
たいと考えています。 

千里の馬の尾をつかむには

去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない

参考 「楽毅」第四巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
33頁


 教師の失敗-51
   絶好のタイミングをのがしやすい
 

 授業をしていてつくづく感じることは、40人規模の
生徒のほとんどが集中していると、子どもの一瞬の
反応を見逃しやすく、対応しきれないということです。

 普段から優れた反応、表現をする生徒の方に自然
と意識がいってしまいがちなものですが、「あのとき
あの子どもの反応を拾ってあげれば、もっと伸びた
はずだ」ということに気付きもしない自分がいるはず
なのです。

 多くの生徒の目が話し手に集中していると、話し手
はその状態であることに満足してしまい、表情が豊
かな子どもに自然と目線を送ってしまうものです。

 しかし、こちらの目線を流すと、ときどき「先生がこ
ちらに目をとどめてくれたこと」に満足感を覚える生徒
や、目が合った瞬間にメッセージを送ろうとする生徒
に気付きます。

 個々の生徒のよさを引き出そうとするとき、本当は
その絶好のタイミングというのはいたるところにあり、
そのほとんどを逃してしまっているのかもしれません。

道はちかきにあり。しかるにこれを遠きに求む。

・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。

参考 「楽毅」第三巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
239頁


 教師の失敗-50
   力を引き出すことよりつけることにこだわる

 他の教師や教育実習生の授業を参観して
いると、いつも自分の授業で見ているのとは
異なる子どもの姿に出会うことがあります。
 ほとんど別人に見える子どももいます。
 
 改めて、自分一人の非力さを思い知らされ
ると同時に、「力をつけること」より「力を引き
出してあげること」に努力すべきであることに
気付かされます。

 「力がない」のではなくて、「力を出せる状
況にない」ことを認識して、「力を開花できる
授業づくり」という発想で子どもを見ていきた
いと思います。

ベテランの学ぶ姿勢とは?

この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。

参考 「楽毅」第二巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
283頁


 教師の失敗-49
苦労して得たものへのこだわりが大きな失敗を生む

 教師の「捨てる勇気」は、創造への意気込みと
セットとなるもので、経験による「力の安定維持」
で満足しようとする心理的傾向によく足を引っ張
られます。

 教育では「積み重ね」が必ずしも実を結ぶとは
言えないケースがあります。不登校生徒に対し、
登校を促すために、今日はここまで、明日はここ
まで、・・・とステップを踏んで教室に入ることを
想定した指導がよく行われていますが、「成功
=登校」への階段を上がるようにうまくいく場合
もあれば、見かけ上の「小さな成功」が、頂上
付近まで上ってはしごをはずされるように、「大
失敗」へのお膳立てにすぎない場合もあります。
 「登校」という地獄に向かって努力をさせたこと
が何度もあり、今も心が痛みます。「失敗しても
いい。何もしないよりまし」という価値観との板
ばさみになって、何度も後悔しました。

 教育の世界では、ベテランほど新しいものを
吸収して古いものを捨て去っていく努力が求め
られてくると思います。

 ただ、それは若い人の模範になるわけでは
ないので、ここに現職研修の難しさがあるとい
えます。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より