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2005年5月

失敗時の喪失感を増幅するもの

なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。

参考 「楽毅」第二巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
284頁


 教師の失敗-48
  成功への過信が失敗時の喪失感を高めてしまう

 教育に長く携わってくると、それなりの信念や
自信が備わります。一方では、年を追うごとに
自信を失っていく教師もいます。
 授業研究、教材研究なども、やればやるほど
わからなくなる、自信がなくなるという時期は必
ず訪れます。見かけだけでも自信満々風で対処
して、切り抜けなければならない修羅場も多くあ
りますから、完全にいっぱいいっぱいにならない
ですむようなゆとりは必要ですが、教師にとって
一番危険なのが、自信過剰な状態です。

 常に自分自身には言い聞かせてありますが、
授業は「いくさ」といっしょで、二度と同じ戦いは
ありません。
 同じ学年で複数クラスの授業をもっていると、
「同じ話を何回もするのはつらいでしょう」とよく
言われますが、同じ題材でも「同じ授業」には
決してなりません。
 同じ発問でも全く異なる局面に発展する場合
もあり、扱う教材が生きたものだと予想ができ
ない方向に授業が流れます。
 発言などの刺激で教材解釈の改善を授業中
に検討したくなる場合もあります。
 「前のクラスのようにうまくいくだろう」という
楽観は、授業では決してできません。
 これが、生活指導のように個性が全く異なる
子どもたちを対象とする教育では、学習指導と
同等かそれより困難で、ある個人や集団に
響いた指導も、他の個人や集団では響かなく
なることがあり、まじめな教師はそこで自信を
失ってしまいます。

 教育という仕事は、年を追うごとに自信を失っ
ていくものだと最近は思うようになりました。
 しかし、教育という仕事が将来の日本を支える
子どもをつくるという信念だけは失いたくないと
思います。

研修・研究の怠慢とは?

からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか

参考 「楽毅」第二巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
359頁


 教師の失敗-47
   知識に縛られて指導を誤る

 教育研究の成果は子どもをもつ保護者の
レベルにはなかなか伝わってきません。
 教員養成系の大学だけでなく、教育学部を
もつ大学が日本の教育にどんな貢献をして
いるのか、「教師の指導力が向上している」
という話をほとんど聞いたことがない現場や、
初任者を指導する行政にいても、見えてこな
いのが現実です。
 もっぱら、学校での実践の成果をもって我
が子の能力や教師の指導力を推し量ります。

 現職研修、自主研修や研究は実践の基礎
になる指導力をつけていくのに欠かせないも
のですが、けっして研修や研究の内容その
ものが直接に指導力の向上に結びつくわけ
ではありません。

 研修の実施者だったときは、よく「学んだこ
とがすぐに役立つ研修を」と要望されましたが、
そんなことができればどんな初任者でも1年
目からまともな授業ができるのです。

 「学んだことがすぐに役立つ研修を」という
発想の教師がいること自体が行政の立場か
ら見れば失敗なわけですが、現実的に力が
なければそう願うのも無理はありません。
 
 子どもと離れた場所で行う研修や研究には
当然に限界があります。そこをよく認識した上
で、実践力の基礎を養おうと努力するのが、
本来の普通の教師です。

 授業がうまくいかないと悩む教師の話を
いくら聞いてもそれがなぜだがわからなかった
のに、学校で実際の授業を参観したとたんに
その理由がわかる場合もあります。
 その先生のもっている知識は教師自身が
自ら考える力を奪うような役割を果たしており、
肌で感じた判断材料よりも既存の知識を優先
してそれをあてはめようとする心理構造が授業
を台無しにしてしまっているのです。
 そして教師自身が何を教えたいのか、子ども
にどんな力をつけさせたいのかが明確でなく、
ただ本で読んだり、「授業名人」と言われる人
の授業をまねしようとしています。

 前々回の繰り返しになりますが、子どもが
「先生はいろいろ知っていてすごいなあ、この
授業はおもしろいなあ」と思わせて、興味や
信頼感を持たせることはもちろん必要ですが、
ほとんど力をつけさせていない授業が多いの
です。
 中学校で小学校の教育の成果をとらえよう
としても、「印象」しか残っていないことに気付
かされます。

 教材づくりにどれだけ苦しもうとしているのか、
子どもが力を獲得するのにいかに楽をさせず
に学ばせるか、そういう視点がなかなか共有
されないことが残念です。

「指示」ありて「導き」なしは「命令」

こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。

参考 「楽毅」第二巻(宮城谷昌光著)新潮文庫 366頁
 

 教師の失敗-46
   指導という名の命令で動かしてしまう

 優れた学習発表、学芸発表を行っている子ども
たちに、すばらしい能力が身に付いているかという
と、そうではない場合もあります。教師のシナリオ
どおりに演じただけの活動かもしれない。たとえ
そうでも、子どもの生き生きした姿を見れば、やり
がいをもって取り組んでおり、力はついていくだろ
うと感じてしまいがちです。
 命令に従っているとはいっても、活動する上では
自己判断・自己決定が多少なりとも入ってくるだろ
う。また、そもそも「型」を教え込まないで実力をつ
けるのは無理だろう。命令を肯定的に捉える向き
には、そういう考え方もあります。

 子どもに力をつけさせるための指導には難しい
面が多く、活動は成功したが低レベルの満足感
にひたっているような子どもには喝を入れたり、
活動が失敗し見た目にはレベルが低いようでも、
そこから多くを学ぶことができそうな場合には励
ましたりと、傍目からは矛盾しているような対応を
行ってきましたが、特に前者のケースは十分に
理解してもらえないことがありました。

 子どもにまったくの「丸投げ」をしてしまい、何
の援助もせず、自己判断に任せることが「自主
自律の精神」を養うという考え方の人もいます。
かつての高校に多く見られました。
 しかし、指導がなければ子どもは育つのでしょ
うか。これが本当なら、行政が教育費の大幅
削減を堂々とできますね。

 私は、よき家庭教育の在り方に、この問題の
答えがあるような気がしています。
 学校で同じような能力をもっている子どもに
同じ条件の指導をしていても、成果がかなり
異なってくる背景は何か、広い視野で考えて
いきたいと思います。

力量のある教師とその授業とは

人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる

参考 「楽毅」第三巻(宮城谷昌光著)新潮文庫 14頁


 教師の失敗-45
   教師が「学習」の主体になってしまう

 研究授業の多くが子どもの活動に焦点を
あてたものになっています。学習の主体は
子どもであり、子ども「が」学ぶ授業のスタ
イルが求められるのは当然のことです。
 しかし、これは子どもに学ぶ土台や厳選さ
れた学習の材料があって初めて成立するも
ので、情報量が増えて「広がり」のある学習
にはなりますが、ねらいがぼけてしまったり、
単に他人の知識の転用にすぎなかったり
することが多くなります。

 それを嫌う教師は、学習の深まりを重視し、
教材対象の研究を進め(ここでは教材研究の
ことをさしません)、「玄人的」な「なるほど授
業」を展開することになります。

 しかし残念ながら、玄人的な授業は「教師
の学ぶ力」を周囲に認めさせることができて
も、それが「子どもの学ぶ力の育成」に結び
つかずに終わることが多くなります。

 小学校では、「指導」を「支援」とか「援助」
という用語に変え、教師の「最小化」に苦心
していますが、子どもの学習の「最大化」に
は結びついていないものも多く目にしました。

 すべての授業において大きな鍵を握って
いるのは、「教材」です。教師が「教材対象
研究」を経て本物の「教材研究」の域に達
することが、望むべき授業を実践するため
の条件でしょうか。

本物の「良問」とは?

勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす

参考 「楽毅」第二巻(宮城谷昌光著)新潮文庫 51頁


 教師の失敗-44
   沈黙より発話を選び、思考を妨げる

 授業で問いを発すべきでない瞬間、タイミング
がわからない教師がいます。
 せっかく主体的な問いを自らに発している子
どもに、「別の電車に乗り換えろ」式の発問が
くりだされる場合があるのです。

 学習で最も尊重すべきは、子ども自身の「自
問自答」であり、その対極に教師の「自問自答」
があることは、前回、前々回に述べました。

 能力の低い評価者に「指導力に優れている」
と判断されがちな教師がいます。
 用意している「良問」を「良問」たらしめている
のは私の力だと言わんばかりに発問する教師
のことですが、本物の「良問」とは生徒が自ら
発したものであり、それを引き出すのが教師の
仕事でなければなりません。

 ・・・しかし、「なにもなさない」勇気と周到な
智恵を発揮できるような機会はめったにない
のが現状です。
 授業で生徒と「息が合う」体験というをたく
さんしたいものです。

目に力がない大人と子ども

目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。

参考 「楽毅」第1巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
333頁


 教師の失敗-43
  目を合わせる自信がないことが伝わってしまう

 授業で問いを発しているにもかかわらず、答え
に対する期待感が子どもに伝わらない教師がい
ます。
 「自問自答」になってしまうのが最悪のケース
だとして、次にまずいのが、問いを発した後に
相手の思考や心の変化を読み取らず、ろくに目
を見ないで黒板に書いたり他の子どもに目を移
してしまったりするケースです。
 主因は自信の欠如です。

 こういうまずい教師の習慣が、そのまま子ども
に応対のまずさとして定着してしまいます。
 「人と話すときは・・・」といちいち注意しないと
まともな会話が成立しないことがしばしばです。

 30歳代から下は完全にテレビやゲームゲー
ムの世代。テレビの人物たちはニュース番組を
除いてほとんどカメラを直視しません。
 そんな影響もコミュニケーション下手の背景と
して考えられるのでしょうか。

「考えない」子どもが増える背景

知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。

参考 「楽毅」第1巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
302頁


 教師の失敗-42
  「独り言」で子どもの思考放棄をさそう

 授業のうまい、へたは発問の質でわかります。へたな
発問のパターンを分類していくと、次のようになります。

1 自問自答型・・・問いを発しておきながら、反応がな
 いことで間がもたなくなり、進行を優先するために、
 自分で答えを言って進めてしまう教師。
  子どもは反応しないことが定着してしまい、かつ、自
 分自身の「自問自答」もできないままになる。

2 多問一答型・・・問いを発して、答えがなかなかでな
 いことにあせりを感じ、次々にヒントや発問を繰り出す
 教師。子どもの思考の妨げになり、しばしば何が聞か
 れていたかわからなくなってしまう状態に陥る。

3 一問一答型・・・問いに対してほとんど単語で答えら
 れておしまいになるパターン。たとえば社会科でいえ
 ば、「暗記教科」という印象を定着させてしまう。


 子どもが生き生きする授業の発問パターンには、
一問多答型、多問多答型、良問名(迷)答などが
あります。

 「一問多答型」がすべてよいとは限りませんが、十人
十色の子どもたちが答えるすべてにバリエーションが
あり、かつ正解であるような問いはおもしろいと思い
ます。

 「多問多答型」は、教師だけでなく生徒たちからも
次々に疑問が発せられ、それを教師が答えてしまう
のではなく、生徒たちに返して考えさせ、答えさせる
パターン。

 「良問」とは、問いが子どもに自然に生まれるような
問題、新たな問いを誘発するような問題等を指します。
 深い教材研究をしなければ、なかなか本物の「良
問」はできません。

 「迷答」は、ある意味では新たな疑問を提供してくれ
るかもしれないので楽しみなものです。

 意のままにならないこと(発問に対する答えがかえ
ってこないこと)に対して逃げの姿勢でいるくりかえし
が、子どもの無反応、無関心を助長していることに
気付かなければなりません。

同じ拒否なら無反応型を選ぶ

 もともと、日本の教育は、「同」をもとめてきた傾向が強い。これはどういうことかというと、たとえば、日本の大学から招かれた外国人の講師が、大学の教室へ一歩足をふみいれた瞬間、ゾッとするらしい。教室にあるのが、「水を打ったような静けさ」だからである。この静けさは、かれらには、一種の拒絶と感じられる。  日本の教師は、静かに授業をきき、おとなしい生徒を、良い生徒だといいがちである。しかし、外国人の講師からすると、それはもっともダメな学生になる。・・・(中略)・・・黙っている生徒は、そのことに無関心であり、非協力的であるということだ。

参考 「歴史の活力」(宮城谷昌光著)文春文庫
116頁(「教育により人は立つことを得る」より)


 教師の失敗-41
 同じ拒否反応なら無音・無反応型を選んでしまう

 授業中や集会等で大勢が集まる場面での私語に
悩まされる教師は多いと思います。
 授業等の内容にかかわりのある発話なのかどうか
は、数人が一斉に話すと聞き取れません。
 
 こういうとき、教師は「静かにしなさい」と言ってしま
います。これは久しぶりですが教師の禁句のひとつ
です。「話をするのをやめなさい」も同様の禁句です。
 注意を受けるべき人間は比較的少数であるにもか
かわらず、全体に向かって発せられた言葉だからで
す。

 荒れた学校や成人式なら「お前がだまれ」と逆に言
われて終わりです。 

 学校なら、「全員、話をしている最も近い人の方を向
いて見つめなさい」と指示し、それに協力してくれれば、
全員が静かになるまでたいして時間はかかりません。
「全員に見つめられたい人は前に出て私の横に立って
いなさい」まで言うと意地悪でしょうか・・・。

 さて、静かな空気の中で話が始まりますが、何度も
紹介しているように、子どもは黙っているから聞いてい
るとは限りません。
 黙っていればそれでことは済む・・・という感情とその
経験の繰り返しが、大人になってからの問題の端緒に
なっているということはないでしょうか。政治的無関心、
児童虐待に気付かない周囲の大人、学校に抗議でき
ない親、内部告発のない企業体質・・・

 むしろ黙っていたり無視したりするよりは、私語で「私
は私で話しているから別空間の存在だと思って」という
メッセージを送る方がやさしさを感じてしまうのは私だ
けでしょうか。 「あなたの話が退屈だということでは
なく、私たちの話が盛り上がっているだけです」  

 本当に力のある教師が授業をすると、大勢が声を出
し反応しているのに「うるさい」と感じられないのが、
不思議なところです。

誤認が確信に変わるとき

会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。

参考 「奇貨居くべし 黄河編」(宮城谷昌光著)
中公文庫 59頁


 教師の失敗-40
  誤認を確信に変えてしまう

 学力には量的に測れるものと、測れないものが
あります。教師にはそんなことはよくわかっていま
すが、子どもは、テストの結果のように数値化され
たもので自分の価値が測られていると思ってしまう
ものです。

 何でもないことのようですが、テストを返されるとき
の一瞬の空気で、教師が自分をどう評価しているか
感じ取ることが生徒にはできることがあります。

 成績優秀者への教師のわずかな笑み、そうでない
ものへの無表情等。

 テスト返却時という1対1のわずかな時間で、たとえ
50点の生徒にも光っている部分を認めて成長への
期待感を伝えてあげられる教師であれば、「点数が
すべてでない」ことをわからせることができるかもしれ
ません。

 「点数がすべて」「結果がすべて」だということを
確信させてしまうような人が、もてはやされていると
いう現状もありますが。

数に入っていない子どもたち

静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。

参考 「楽毅」第四巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
123頁


 教師の失敗-39
  「さわがしくない」子どもを「数」に入れない

 多動の子どもや自己主張の強い子ども、わがまま
放題の子どもは、話を集中して聞くことができない
ため、教師から見れば「邪魔」な存在となります。
 もちろん静かに聞いている(か聞いているふりをし
ている)子どもがその話を理解しているかどうかは
わからないわけですが、とりあえず情報を発信する
使命をその子に対しては果たしたことになります。

 クラス分けをするときに、おとなしく話が聞けない
ような子どもはたいてい均等に(相乗効果を生まな
いようにすることも考慮して)分けられますが、こう
いうとき、「おとなしい子ども」は「数」に入っていま
せん。
 「おとなしい子ども」は、5人だろうが10人だろう
が20人だろうが、「同じ子ども」としてひとくくりに
考える傾向が教師には見られます。
 理解に時間がかかる子どもも平均的に分けます
が、だから何をするというものではありません。

 情報の発信を妨げる子どもには、「注意」という
余計な仕事が必要になるので、おのずとそういう
子どもに「注意」が注がれます(あえて無視すると
いう教師もいますが)。

 「静寂」なクラスがよいクラスか。欧米の教育観と
儒教の影響をかつて受けた国の教育観の大きな
違いがわかる問いです。
 
 教師の仕事は、情報の発信ではなくて伝達であ
り、子どもにその情報を「再現」させる責任を負って
います。できれば「再構成」、もっと欲を言えば「創
造」させる。

 私の経験では、一見情報が伝達されていないよ
うな子どもでもすでに「再構成」の準備ができてお
り、あっという間に「創造」の域に達してしまうケー
スがあります。

 教師は自分の「情報力」を問い直すだけでなく、
静謐を保たせてしまう「多くの子ども」の怖さにも
注意を向けるべきです。

本は本屋にあるうちは価値がない

人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。

参考 「春秋の名君」(宮城谷昌光著)講談社文庫
112頁(「歴史のありがたさ」より)


 教師の失敗-38
  優れた実践を眠らせてしまう

 優れた教師の実践は、教え子が教師になること
によって再現されることがあるかもしれませんが、
広めることができる立場の人間に見出されるか、
自分から広めなければなかなか人には伝わりま
せん。

 教師向けの教育書という変わったジャンルの本
があります。授業実践に使うプリント類から、教科
書の教師用解説書にあたる「指導書」「教授資料」
のように本屋さんでは売っていないものまで、
さまざまです。

 東京都では、こういう本の原稿を書いて原稿料
や印税をもらったりすると「副業」にあたるため、
校長、教諭、指導主事等、さまざまなレベルで
制限を加えています。

 このことに対して、二つの見方があります。
 
 一つは、そういう原稿を書ける人というのは力が
ある人で、そういう人は年功序列の給与体系では
たいてい不遇(校長は別?ただ、指導主事は教員
と同じ給与で、しかも行政で働いているのに残業
手当がでない損な仕事)であるから、少しくらいの
副収入は認めてあげてもいいし、そもそも力のある
人のよい実践が多くの教師に広がっていけば、
全体の教育水準も上がっていく。しかしそこに制限
を加えれば、書き手がいなくなってしまう(本当に
教材会社や教科書会社は困っているそうです)
・・・という見方。

 もう一つは、自腹を切って教育書を買う人は、
そもそもすでに力がある人であって、優れた教育
実践の情報というのはお金を出さなければ買えない
というのはそもそもおかしい。
 収入増は考えないで、日本の教育水準の向上に
貢献するために、ホームページへの公開など、
もっとオープンな方法で広めるべき(実際にそうされ
ている方もいます)。教育実践の報告は副業では
なく本業であるから、制限は当然だという見方。

 当然この両方の見方には異論・反論があります。

 出版社の立場でも、書き手がいないのは困るし、
本がつくれないのも困る。

 しかし、眠っているよい実践、起こされる機会の
ない優れた実践が非常にたくさんあることは、教師
の立場でも、親の立場でも、何だか気がかりです。

 本はすべてそうですが、本屋さんに置いてある
時点ではその本には価値はありません。購入され、
読まれて、実践に役立つまでは。
 
 教育書で最近はやりだしているものの中に、
「百ます計算」という、字は下手になるが脳は活性
化されるらしい実践の本の流れをくむ「大人用の脳
の活性化教育書」がありますが、教師向けの教育
書に手を加えて、「親でもわかる指導書」みたいな
ものが登場することはないでしょうか。
 これを理解できれば、授業参観や公開授業の
あと、「あなたの授業のこの発問は、子どもの主体
的な思考活動を促す契機にはならなかった」など
の「指導講評」ができるようになるかもしれません
・・・。

厳しい評価は仕事にマイナスか?

寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない

参考 「沈黙の王」(宮城谷昌光著)文春文庫
254頁(「鳳凰の冠」より)


 教師の失敗-37
  評価されることを極端に嫌う

 一般に「評価する」という言葉を使うとき、それは
良いことを認めるという意味として通じる場合が多い
のではないかと思いますが、学校現場では、評定
(5段階評価など)をつけること、観点別学習状況の
評価をすること、人事考課(教師の業績評定)という
イメージがあって、どちらかというと拒否反応を招く
ような言葉になります。

 人間はだれもが褒められたい欲求をもっている
ものですが、教師の場合は自分自身が褒められる
(褒めてもらえる価値があることをした実感をもつ
ような)機会があまりないので、良い意味で評価
されたり、同僚が何かで賞を取ったりすることに
対して素直に喜べない気質を持ちがちです。

 どちらかというと反感を抱かれている(生活指導
が厳しいとか、授業がわからないとか、部活の
顧問なのに指導が下手だとか、そもそも練習を
見に来ないとか)という強迫観念がある人は、
とにかく自分に対する評価を嫌います。

 鉄道会社のようにミスに対して厳しくしすぎると、
教師はどういう行動に走るのでしょうか。致命的
な間違いを犯すのでしょうか。

 日々、評価にさらされている仕事についている
方と、評価されることに慣れていない仕事につい
ている教師とでは、その職業観や仕事観にどの
ようなちがいが生じているのでしょか。
 これから考えてみたいテーマです。

「顔」を見せにきた保護者の話

小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである

参考 「歴史の活力」(宮城谷昌光著)文春文庫
225頁(「窮地から救ってくれるものは信用」より)


 教師の失敗-36
  批判を受けないことで信用されていると勘違いする

 教師は批判を受け入れようとしない体質を
もっていることは以前に触れましたが、この
背景には、なかなか批判される機会がない
ことが挙げられます。

 学校というのは、社会的に信用されている
のか、いないのか、教師であるとなかなか
わかりません。

 分別のある親なら、教育的配慮から、子ども
の前ではよほどのことがない限り教師の批判
をすることはありません。

 (ただ、子どものわがまま勝手を真に受けて
子どものスポークスマンとしての役割を果たす
保護者はときどき見受けられます。このような
子どもは気がかりのまま卒業してしまいます
が、その後どんなふうに成長したかは知る
すべがありません)

 自分も親として、細かなことでいちいち担任
に要望を伝える気になりません。学年だよりの
表記ミス、連絡・通知ミスから始まって、一人
の子どもの間違いを見せしめとして注意する
こと、名前を間違えること・・・言っても無駄だ
と思ってしまうのと、子どもの「人質」意識が
あることで、伝えるのにはかなりの勇気を要
します。

 同業者を信じようとしない私のような親が悪
いのか、いい加減なミスばかり犯す教師が悪い
のか、悪者探しをしてもはじまりませんが、
教師にとっての不利なことは、当たり前のこと
を当たり前にやってもそれは親には伝わって
こないことです。

 親にとっての「信義」が家で教師批判をしない
ことであるとすると、教師にとっての「信義」とは
何でしょうか。

 笑い話ではありませんが、ある教師が生活
指導で「親の顔が見たい」と言ったら、本当に
保護者が顔を見せに来たということがあった
そうです。
 教師が保護者に何と言ったかということま
では、聞いていません。
 

個人でも、企業でも、社会的な信用を得ることは、一朝一夕で、できることではない。相当な気くばりを、ゆるみなくつづけていくことが、必要なのである。

同音「多義」語が多い教育の用語

奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。

参考「歴史の活力」(宮城谷昌光著)文春文庫
195頁(「正しい生き方の知恵」より)


  教師の失敗-35
   意味上の共通語をもてないがゆえの
  すれ違いが多い

 引用の文章と意味のずれがあるかもしれません
が、教師仲間、教師と保護者等の間でかわされる
会話の中で、同じ言葉でありながら、意味の広がり
や深さが異なる次元で使われているものがたくさん
あります。
 たとえば、「学び」や「学び合い」。このような名詞
化された語句はくせものです。
 小学校ほど、「ふれあい」「ひびきあい」などの語
感はよいけれどそれがどんな意味をもった言葉な
のかはっきりしないものがあふれています。

 教師の場合は、過去に読んだ本やその著者、
自分の研究や研修の内容等によって、簡単な言葉
ほどその意味の異なり、言葉の使い方が大きく
異なるものがあります。
 ですから相手の言葉の用法のくせを見抜けないと、
議論がかみ合いません。
 教師が大人数で研修をすると、往々にしてこういう
事態になります。
 少人数でもかみ合わないことがあるので、まずは
意味の捉え方の違いから理解し合うことが大切です。

 「学力」とは何か、「学力低下」は本当か、本当なら
どんな「学力」が低下しているのか、低下していない
「学力」はあるのか。
 もし学力向上をうたっている学校であれば、少なく
ともだれに聞いても同じ答えをしてもらいたいもので
すね。・・・しかし、みんながみんな勝手な感想を抱
いて、勝手に教育を行っている学校がほとんどでし
ょうけれど・・・。

 ただ「学力」なら、それをどのようにして測った結果
であるかによって、ある程度はその「学力」が指す
ものがわかります。
 少なくとも教師が保護者等に対して情報を提供す
るときは、理にかなった根拠を示してほしいものです。
 
 抽象的であいまいな言葉を頻繁に使う教師ほど、
その指導力については要注意かもしれません。

堤防は弱い箇所が皆無でなければ意味がない

黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。

参考 「侠骨記」(宮城谷昌光著)講談社文庫
162頁(「布衣の人」より)


  教師の失敗-34
   問題の早期発見、早期解決を怠ってしまう

 
 一度流れ始めた乱れを正すことは容易な
ことではありません。生活指導の乱れは、
最初のシグナルを発見しそこなうか、
発見しても対処しないことで簡単に広がって
いきます。

 ただ、この川の流れの難しいのは、はじめ
に最も低いところへと流れ始めるということ
です。
 指導力に乏しい教員の前でまず様子見の
ために行動をおこすのです。
 堰をきればあとは自然の流れです。
 
 堤防は弱い部分が一箇所でもあれば無
意味なのです。
 川の流れていないところに堤防を築くこと
はしないかもしれませんが、それくらいの
心構えが学校では必要です。

 治水事業が完成しないうちに国力を使い
果たして滅んでしまった国がありました。

 生活指導困難校では、堤防を築いたり
河床の土砂を取り除いたりする努力より、
支流をつくったり全く新しい放水路を掘った
方が、案外、解決が早いのかもしれません。

いくら時間を与えても、余裕は簡単には生まれない

私は立原正秋という小説家に、「一流の人は、余裕がある。余裕がなければ、一流じゃない」 と、おしえられた。余裕のない人に会うと、私はさびしくなる。その人のさびしさがつたわってくるのだろう。人はさびしいものである。それもわかる。が、わずかなことで、そのさびしさをたのしさに変えることができる。そのしくみは、自分のことしか考えない人には、たぶん、死ぬまでわからない。

参考 「春秋の色」(宮城谷昌光著)「講談社文庫」
218頁(「余裕について」より)


 教師の失敗―33
  自分の余裕のなさを子どもに伝えてしまう

 教員集団の中でしたわれることが多い人は、
どこか「余裕」のある人です。
 「ゆとり」というのとは、少しちがいます。
 
 だれよりも仕事を多く抱え、それでも余裕のある
対応ができる人と、だれでもできるようなわずかな
仕事しかないわりに余裕のない人がいます。
 
 電話対応ひとつとってみても、一般企業ではあり
得ないおかしな人にでくわすことがあります。
 
 小中学生の時代に、いつも忙しそうだけど相談す
ると丁寧に応じてくれる教師もいれば、めんどくさそ
うに相手をする教員もいたという記憶はないでしょう
か。人を寄せつけない雰囲気をもった人もいました。

 学校現場では、教師の仕事の大部分は集団を
相手にしたものです。
 教師から単独の子どもに向かっていくのは、授業
でのポイント的な個別指導や、問題行動等の生活
指導の場面など、特殊なケースです。

 ですから子どもの方から単独でこちらに向かって
きてくれるような、1対1のチャンスはめったにあり
ません。

 そのとき、どんな教育をその子どもに対してして
あげられるのか。
 本当はそこに教育のこだわりがあってもいいはず
です。

 冒頭の余裕という言葉は、「実力」「力量」という
言葉におきかえることもできます。

甘えたい子どもは教師になるしかない

人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。

参考「奇貨居くべし 春風篇」(宮城谷昌光著)中公文庫
143頁


 教師の失敗-32
  「命令」も「自己判断」も機能しない

 企業なら上司の命令で対策をすぐに指示
されるようなことでも、学校は「子どもの主体
性に任せる」とか何とか主体性のない根拠
で対応をしないケースが多い職場です。

 生徒の遅刻が多い、授業の開始時刻が
守られない、挨拶ができないなど、学校で
は「ルーズな生徒の行動」に頭を悩ます場
合が多くあります。
 ここで、管理職が「遅刻2回で保護者及び
本人に反省を求める文書を出し、3回以降は
遅刻の度に三者面談を行う」とか、「開始時
刻までに教室で教える準備ができない教師
はその回数に応じて人事考課におけるマイ
ナス評価とする」等の方針(あくまでも例です
が)を命令として伝え、直ちに全職員が従う
学校はまず皆無に等しいと思います。

 「なぜ話し合いもせずにそんなことを決める
のか」「教育的に考えておかしい」などという
批判が必ず出されます。
 一般企業にお勤めの方には理解できない
でしょうが、教師は地方公務員法で定められ
ている「上司の命に従う」ということをなかなか
守ろうとしません。
 処分覚悟で故意に命令を無視する教員もい
ます。
 子どもをふだん管理しているのに、自分は
管理職から管理されるのを嫌うのです。管理
が嫌いだからと、遅刻が多い生徒にも指導し
ようとせず(自分が遅刻している教員は論外
として)、授業は50分間の実践をしようとせ
ず、挨拶をしない者もいます。

 「何もしない」管理職は教員からありがたが
られ、「何もしない」教員は一部のだらしない
生徒からありがたがられます。
 笑えない話ですが、命令も自己判断も機能
しない組織の影響を受けている子どもたちが
同じように生きていくためには、自分も教師に
ならなければなりません。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より