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2005年4月

教師を見習う子どもたち

外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。

参考
「奇貨居くべし 春風篇」(宮城谷昌光著)中公文庫
143頁


 教師の失敗―31
  自分が上司に従いたくないから子どもが自分に従わない

 多くを説明する必要はないかもしれませんが、
主に生徒指導という側面で、学校の内部で起
こっている問題の原因が教師の側にあるという
ことを、何度となく実感した経験があります。

 教員の中には、「教育委員会嫌い」「指導主
事嫌い」を公言して憚らない人たちがいます。
 「余計な仕事を次々によこして!」という怒り
もわからないではないですが、それはおそらく
子どもが教師に向けている目と同じです。

 子どもは、「反権力ムード」を肌で感じながら、
大人と違ってうまく感情をコントロールできずに
反社会的行動に映していく存在でもあります。

 では管理職や主任にぺこぺこしている教員
ばかりならよい学校になるでしょうか。
 それは、管理職や主任から具体的にどんな
命令が出ているか、教員がどの程度の判断力
と行動力、指導力をもっているかによりますが、
子どもは、やはり「容姿」を見破ります。

橘化して枳(からたち)となる

橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか

参考「晏子」(第四巻)(宮城谷昌光著)新潮文庫
327,328頁


 教師の失敗-30
  環境の作り手は教師であることがわからない

 いじわるな楚の国の霊王を訪れていた斉の晏嬰
の前に、楚で窃盗をはたらいた斉人が引き出され
ました。
 霊王が、「斉人というのは、もともと盗みがうまい
ものであろうか」と皮肉を言ったことに対し、すかさ
ず晏嬰は答えたことが引用した文です。

 学校の風土というのは、地域や子どもたちが作る
ものだという人がいますが、人が人を育てる教育と
いうしごとでは、教師がおもに環境、風土をつくりだ
しているというのが私の実感です。

 ある学校を何度か訪問した際、行儀の悪い生徒
たちも目立ちましたが、それ以上に教員の課題の
方が目立ちました。
 時間通り教室に行って授業を始めない(鉄道や
郵便、ピザの配達だけでなく、時間を守るべきな
のは教員も同じ)、職員室に入るときに(この学校
では職員室に入るときに上履きを脱ぐ)靴をそろえ
て脱がないなど、マイナスの姿で教育を行ってい
ました。

 しかし、「この頃は生徒が大人しい。少し授業に
集中するようになった。」という話を聞いた後に訪
問すると、職員室の前の靴はきちんとそろえられ
ていました。
 

迎合型だった問題発言大臣

倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し

参考
「中国古典の言行録」(宮城谷昌光著)文春文庫
87頁


 教師の失敗-29
  計画や評価のない実践を教育と勘違いする

 教師は忙しい職業だといいます。これは多くの
教師が実感していることですが、だからといって、
書類を作成する時間を減らせば、その時間がそ
っくり子どもの教育にあてられるわけではありま
せん。
 文書をつくるかわりに教材研究をする人が何%
くらいいるでしょうか。
 
 文部科学大臣は、毎週のようにだれに迎合し
たいのか、だれを責めているのかよくわからない
コメントを出しています。
 教師から一斉に批判を浴びたのでご機嫌をとる
ためにコメントしたのでしょうか。私は更迭が時間の
問題だと見ているが、だれかが教えてあげた方が
いいですね。
 どうやら今回も逆の入れ知恵をされてしまったよう
で、気の毒です。

 一部に教育計画や学校評価はいらないと言って
いる人がいますが、これはよほど自分の教育に
自信がある人か、学校運営に直接かかわらない
非常勤講師のような立場の方なら(そうでない方
もいるかもしれませんが、会議には出席しません)
わかりますが、事務能力が低くそれと比例して
指導力に課題のある人をこれまで以上に甘やか
せば、もう後戻りはできません。

 不必要だといって書類を減らして、事故が発生
したときに大慌てするのは目に見えています。

 教育実践は計画に基づいて行うものであり、
評価をとおして次の計画や実践の改善に役立てる
ものです。

文字の軽さと現実の重さ

小説を書きつづける人は、文字空間の軽みと人生空間の重みとの間隙に苦しむことがあるかもしれない。が、独創は身近な空間をみつめることで得られることは、先人や古人が口をすっぱくしていったことであり、そこを経て、書くことが苦しみから楽しみにかわった瞬間、その小説は他人が読んでも楽しいものに映るという、独自な存在位置を得たことになる。

参考「春秋の色」(宮城谷昌光著)講談社文庫
164頁「小説の楽しみ」より


 教師の失敗-28
  実態からの出発ができない

 学校が作成する公的なもののうち、学校を「国」
に見立てると「憲法」に当たるようなものが、「教育
課程」です。しかし、その学校の教育活動の目標
や指導方針を伝えるはずのこの「教育課程」ほど、
重みのないものはありません。

 「個に応じた指導」「ゆとりの中での特色ある教
育活動」という「文字」よりも、「規範意識の低下」
という理由で済ませている「授業不成立」という
現実の方がはるかに重いのです。
 
 もし教育課程に基づいた教育ができないので
あれば、それが成り立つための条件を教育課程
に盛り込んだらどうでしょうか。

 「授業中に教室を歩き回らない」
 「学習に使用する教科書やノートを用意する」
 「授業の開始時間に机に座っている」
 「人の話を聞く」・・・
 指導困難校で起こっている現実は、こうした
「憲法」でも提示しないとだれも見向きもして
くれないものなのかもしれません。

 しかし、もし「すべての子どもに必要最低限度
(=学習指導要領に示された内容に基づくもの)
の学力を保障する」ことを目指すなら、もっと実態
からの出発に努めなければならないと思います。

学力テスト結果に戸惑う大臣

礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。

参考「春秋の色」(宮城谷昌光著)講談社文庫
163頁「小説の楽しみ」より


 教師の失敗-27
  内容で勝負できない

 もう一年以上も前に実施された「教育課程実施
状況調査」(いわゆる学力テスト)の結果が公表
されました。
 これが「脱ゆとり教育の改善の成果だ」というの
なら、その改善は少なくとも二年前には進められ
ていたことになります。

 データに一喜一憂するのは、株価や原油価格
のようなリアルタイムの変動結果ならわかります
が、「教育の成果」を今回のような公表結果から
どうこういうのは間違っているということは、中学
生でもおそらくわかります。

 ただ、この成果が漢字の読み書きや計算のよ
うな、点数を上げるのが容易なものに教育活動
の重点がおかれすぎた結果で、本来の内容の
充実がおろそかになっているのではないかという
危惧はあります。
 
 このことは、「できない親の子どもはできない」
という失礼な実証をしている教育社会学の苅谷
剛彦東大教授も答えています。
 (本日の日経新聞)

 教育方法は真似るのが容易なのでだれでも
飛びつきますが、教育は教師の教材研究、教育
内容の吟味があってはじめて本物になります。

 「儀ありて礼なし」という教師にならないように
したいです。 

「失敗作」との謝罪はいかがなものか

日産自動車の前身をつくった鮎川義介という人は、小さいころ祖母に、ああしなさい、こうしてはだめです、などと、こまかなことはいわれずに、ただ、「おまえは、きっと偉くなる」と、いわれた。そういわれつづけていると、ああ、オレは偉くなるのだ、と自然におもわれてきて、あとでふりかえってみると、祖母は賢婦人であったと、かれはおもった。・・・(中略)・・・人は、尊敬したり好きであったりする人から、良いことをいわれると、それにむくいようとする気がはたらく。もっといえば、その人を喜ばせてあげようとする。

参考「春秋の色」(宮城谷昌光著)講談社文庫
176頁「ほめることの大事」より

 
 教師の失敗-26
  予言の自己成就を悪用してしまう

 文部科学大臣が、中学生を相手に「みなさんは
失敗作だ。次の世代では失敗しない。」と謝罪し
ました。
 この大臣は少なくとも自分の省のホームページ
に載っている学力の話は見たことがないはずです。

 「総合的な学習の時間」を切る腹のようですね。
専門の教科指導のほかに多大な時間を割いて努
力してきた教師はまたふりだしにもどされるわけ
ですね。
 教育関係者は、このところ負の予言の自己成就
を促すことに専念しているようです。宮城谷さんは
こう書いています。

人をけなすより、人をほめることが、いかにむずかしく力が要ることか。それをわかる人はすくないが、実行する人はなおさらすくない。

 私もけなす側ですが。

共有できる「天」はどこに

 教師の失敗-25
  批判に耳を傾けない

 
 教師の思考の四方を取り囲む感情の壁は、
一般社会の人間からは想像できないほど、
厚くて高いものです。

 教師の最大の負い目は、力を付けていない
のに給料をもらっているということで、感情的
には防衛的にならざるを得ません。

 子どもを鍛え伸ばしていこうとする「天」を
共有しあえる日はいつ訪れるでしょうか。

「学力低下世代」の逆襲をまつ

都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。 とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。

参考
「子産(下)」(宮城谷昌光著)講談社文庫
231頁


  教師の失敗-24
   目先の利益を優先する者に勝てない

 人は、思考の矩形をつくることが好きな
ようです。ステレオタイプ化といってもいい
かもしれません。「学力低下世代」という
レッテルを貼られた今の小学生から大学
生くらいまでの人たちは、これを甘んじて
受け入れざるを得ないのでしょうか。

「君たちは文科省の失敗が生んだバカ
の世代だ」と決め付けられて、うれしいわ
けがありません。
教師もこの世論?に迎合して、自分の
指導力不足、教材研究不足、児童生徒
理解不足を棚にあげて、だめだだめだと
嘆くだけで給料をもらっている者もいます。

 残念なのは、迎合集団に論理で対抗
できない「学習指導要領遵守派」がいる
ということです。

ある自治体で地域住民が学校運営に
強くかかわる仕組みが試されていますが、
教育産業を潤す結果にしか結びついて
いないようです。
学校を「塾化」する試みも無駄ではない
と思いますが、子どもたちは気の毒です。

「○○のせい」?自分の存在意義は?

人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
参考 「孟嘗君 5」(宮城谷昌光著)講談社文庫 212頁

 
 教師の失敗-23
  「失敗さかのぼりの原理」で責任逃れをする

 これも一種の教師の禁句ですが、中学校
なら「小学校が甘いから…」、高校なら「中
学校が荒れているから…」と、自己の指導
に成果が見られない場合に、責任を他に転
嫁しようとしてしまいがちです。
 精神的な自己防衛の心理システムですが、
言われた側はたまりません。
 行き着くところは家庭であり、親の子ども
時代にまでさかのぼります。

 言われた方は、必ず根にもちますから、
「連携」もうまくいかないことになります。

 教育の原点は家庭にあることくらい、だれ
でもわかっています。しかし、「学力をつける」
「同年代の人間たちとの協調性を磨く」という
のは、本来、学校でなされるべきもので、
「家庭の教育が悪いから」「入学の時点で必
要な学力水準を満たしていないから」という
失敗逃れは通用しません。

 多くの学校の教育課程には、「個に応じた
指導」という眉唾用語、あるいは「嘘」が掲げ
られています。

 ほとんどの保護者は(学校選択自由化の
地域の方でも)教育課程の内容から学校の
特色を読み取ることはしていません。(学校
にすらこれを知らない教員がいるはずです)

 「基礎・基本の徹底」は必ずしてくれるのか、
「個に応じた指導」はどの教科のどの内容で
いつどの程度、だれがしてくれるのか、など
と質問する保護者がいないため、学校はそれ
を説明する用意をしていないのが普通です。

 ・・・ということは、学校の失敗を促す責任は
保護者にもあるのでしょうか?

失敗の拡大再生産

人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。

参考
「沙中の回廊(下)」(宮城谷昌光著)朝日文庫
202頁


 教師の失敗-22
  告発ができず失敗が再生産される

 入学式からの41人学級のように、明らか
に法令の基準を無視したことを学校が行っ
たということは、内部に反対者はいたとして
も、告発者はいなかったということです。

 校内で校長を罵倒したり悪態をついたりし
ている教員でも、広く外部へはその情報を
提供することが少ないようです。

 教育委員会への虚偽報告や校内での
法令無視行動は、慣れてくるとそれが当
たり前になりますが、企業のように「つぶ
れる」心配がないため、歯止めがききま
せん。

 畑村失敗学では、次のように述べられて
います。

ある組織が社会に対してウソをつき始めた場合、それは加速度的に「成長」し、最終的には警察なり法律の裁きを受け、社会的な信用をなくすという大打撃を受けることになります。(例:三菱自動車のリコール隠し)

参考
「決定版 失敗学の法則」(畑村洋太郎著)文藝春秋
130頁

やったもの勝ちの法令違反

「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」

参考
「沙中の回廊(下)」(宮城谷昌光著)朝日文庫
149頁


 教師の失敗-21
  無知を利用して法令を犯す

 ある小学校の話です。新1年生は4クラスと
宣伝しておきながら、蓋を開けてみれば120人、
3クラスでした。驚くべきは、学級編制に「41人」
のクラスがあったことでした。
 (当然39人のクラスもあります)

 法令の基準を無視した行動ですが、保護者
たちはこのことに気付いていませんでした。

 子どもたちは将来、「41人もいたから学力が
つかなかったのね」と職員室で語られることに
なる可能性があります。

 39人のクラスの担任がよほど力量不足か、
指導が困難な子どもがいるか、理由はいくつも
想像できますが、こんな話は30人学級の実現
を要求している政党の議員が聞いたら大騒ぎ
です。

 なお、私は30人学級には賛成していません
(学年が31人だと15人と16人の2クラス、61
人だと20人、20人、21人の3クラスになって
しまいます。ちょっと少なすぎます。)が、法令で
決められている40人というはどう考えてもMAX
です。

 41人はありえません。

 仮に学力が定着しなかったとき、校長はどう
責任をとるのでしょうか。

 説明のしようがありません。
 あとになって、法令違反でした、なんて言えま
せん。

 では、クラス編制をやり直せばよいのかという
と、まさか入学式後に学級開きをしてようやく
慣れつつある子どもを「あなたは隣のクラスよ」
と追い出すわけにはいきませんから、これは
完全に「やったもの勝ち」「やり逃げ」です。

 教育委員会や区長は、人事部が「教員上がり
の無能経営者」と呼んでいる校長のおかげで、
議会で叩かれることになります。

 41人で学力がつかなければ凶、逆に41人
でも学力をつけられることがわかれば、30人
学級というのは完全に夢の話になり、これも
一部の人にとっては凶になります。

言行不一致

人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。

参考
「子産(上)」(宮城谷昌光著)講談社文庫
218頁


 教師の失敗-20
  人にはボランティアを求めるが、自分はしない

 中学生の悩みは部活動の顧問の量と質
です。持ち手がおらず、廃部寸前の部活動
も多くなっています。
 教師の高齢化も問題ですが、部活動の
指導ができそうな教師が採用されていませ
ん。試験のときだけ「何でも持ちます」といっ
て合格してくるのです。

 部活動の指導は立派な学校の教育活動
ですが、勤務時間外がほとんどであるので、
管理職も命令できません。

 要はボランティア精神とボランティア体力
の欠如が課題です。「ボランティア精神」だ
けではだれも救われません。活動に結びつ
かなければ。

 都立高校で奉仕活動が必修化されること
は以前に書きました。
 ・・・先生もきついですね。自分ができない
ことを指導しなければいけない人がいるわけ
ですから。

話下手な方が勉強になる?

知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。

参考
「青雲はるかに(上)」(宮城谷昌光著)集英社文庫
201頁


 教師の失敗-19
  「活かす」よろこびを与えていない

 話が上手な教師がいます。私も幾度となく
「楽しい」経験をさせてもらいました。生き生き
と語っている大人の姿は、とてもすがすがしい
ものです。

 教師には、「教材研究」といって、授業の素
材に磨きをかけるための準備があります。
そうやって新たに身に付けた知識や発見した
資料をもとに、いろいろ教えてくれるわけです
が、これは一面では教師にとっての学力づくり
であって、本来はそのような過程にしたがって
生徒にも学力をつける必要があります。

しかし、生徒は「結果」としての知識を提供
されるばかりで、そのプロセスを経験すること
が一般的には少なく、「テスト」にだけ生かし
て終わりになってしまいます。

それでよいと腹をくくって商売している人もい
ますが。

私の場合、「おおむね満足」という満足はありません

師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。

参考
「孟嘗君 2」(宮城谷昌光著)講談社文庫
161頁

 教師の失敗-18
  子どもの長所をひきだせない

 
 子どものよさを褒めてあげられる機会を
多くもてる教師は、優れた教師です。
 しかし、授業を参観していると、子どもが
よさを発揮できる機会が意外に少ないこと
がわかります。
 中学校なら、教師がしゃべりどおしで子
どもの出番がほとんどない授業。小学校
なら、誰でもできることばかりで、一人一
人の本当のよさが発揮できない授業。

 観点別学習状況の評価では、A(十分
満足できる状態)とB(おおむね満足でき
る状態)の境界がどこにあるのかというこ
とが問題になります。量的には、「(○○
分以内に)○○問以上できればA」という
設定の仕方ができますが、それでよいの
か。むしろ質的に、「この水準の問題が
できればA」という設定の方がよいのでは
ないか。
 題材によっても評価の方法が様々です。
 
 そもそも、「満足」とはだれの「満足」な
のか。「おおむね満足」というのは「満足」
ではないのではないか。
 
 だれもが納得できる評価というのは難
しいかもしれませんが、少なくとも当事者
が納得できる評価の方法を研究するべき
です。

人を家にたとえると、目は窓にあたる。

人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。

 参考
「孟嘗君 2」(宮城谷昌光著)講談社文庫
99頁


 教師の失敗-17
  口先で褒めていることがばれてしまう

 
 「人は褒めて伸ばせ」と言われます。しかし、
子どもにも褒められてうれしいこととうれしくない
ことがあります。「褒めて伸ばしてあげないとい
けないから褒める」という褒め方は、子どもには
すぐに見やぶられます。ごく一部には、褒められ
て「この程度でいいんだ」と誤解し、成長をストッ
プさせてしまう例もあります。また、「この程度で
褒められるということは、自分はたいして期待さ
れていなかったんだな」と落胆してしまう生徒も
います。

 「褒める」タイミングは難しいですが、やはり,
「心から本当に褒めてあげたい」場面でその
理由を明確に示しながら褒めることが必要です。
 
 目を見ていれば、お芝居か実感のこもった言
葉かは判断できます。

問題の質による学校選択

人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。

参考
「孟嘗君 3」(宮城谷昌光著)講談社文庫
129頁


  教師の失敗-16
   問いのレベルが伸びる力を奪う

   中学校・高等学校の授業のレベル、指導の
  レベルを知りたければ、その学校の定期考査
  の問題を見ればよくわかります。
   
   学校説明会の説明を聞くより、定期考査の
  問題とその平均点を聞いた方が、教育水準や
  生徒のレベルがわかります。
   
   よく、過去の定期考査問題を蓄積していて、
  「試験対策」として使用している塾があると
  聞きます。こういう塾に通っている生徒、また、
  兄弟がいて、きちんとテストを保管している
  家庭の生徒は、対策が立てられるので有利
  だと言われています。

   もし、そういう立場でない人が不利だと思う
  なら、理由を挙げて、学校に提供を願い出
  ればよいのです。

   学力向上を図るための調査を教育委員会が
  行うようになっていますが、中学校なら、定期
  考査の問題の質の調査をしてもおもしろいか
  もしれませんね。

   定期考査問題の比較で学校選びというのも
  あっていいのではないでしょうか。
  (○○の教科はいいけど△△はだめ・・・など
   ということになりそうですが・・・。また、教員
   の異動があるというのが公立学校選びの
   リスク要因ですね。)

嫌われまいとする心理はわかるが・・・

嫌を避くる者は皆内足らざるなり

人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。

参考
「中国古典の言行録」(宮城谷昌光著)文春文庫
174頁 「嫌を避くる者は皆内足らざるなり」 
朱子『近思録』より

 教師の失敗-15
  嫌われない努力で不信を招く

  公立中学校の校長が、飲酒運転で5歳の子ども
 に怪我を負わせました。
  
  学校では、「校長が重大事件を起こした場合」の
 教頭等の緊急対応マニュアルが必要になっていま
 す。
  おそらく適切に(?)対応されたのでしょうが、
 入学式はどうするのでしょうか。
  
  教育の場に多く見られる失敗に、相手に嫌われ
 まいと起こした行動がたいへんな逆効果を招くとい
 うものがあります。

  困難校に赴任した教師が、「にこにこしていれば
 危害は加えられない」と先輩からアドバイスされた
 という話を聞いたことがあります。喫煙を見かけて
 も注意できない大人が学校にいるのは悲しいこと
 です。
  真剣に叱ってくれる大人を子どもは待っているの
 です。

  指導が困難な地域では、地元の方との協力が欠
 かせないので、勤務時間中にでも勧められたお酒
 を断ることができない場合もあるでしょう。どうしても
 断れなければ、その後にとるべき手段は当然あった
 はずです。

体験させる側とする側の目標のずれ

人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。

参考
「太公望 中」(宮城谷昌光著)文春文庫
75頁


 教師の失敗-14
  具体的な目標が描けていない


  目標を描くという行為は、活動の根本でありながら、
 実は易しいようで、たいへん難しいことです。きちんと
した目標を描ければ、指導を行う前から半分以上は成
功していると言っても過言でない場合があります。
 この目標管理で現場が困っているのは、教師が描
く目標と、子どもの側の活動の目標にずれを生ずる場
合が多いことです。
 いやらしい例ですが、昔よく言われたのは、「内申書」
の点が上がるから、子どもはやる。(全員やれば選抜
では差がつかないから、「やらないと損する」という脅迫
かも?) 商店での販売の体験活動は、お駄賃(=バイ
ト料?)をもらえる(ふつう、あげてはいけない)からやる。
 
 教師がすべきことは、活動の目標をメッセージとして
明確に伝え、その目標が、どの程度達成できたのか、
またはできなかったのか、その理由は何か、などをきち
んと文章で書かせて評価することです。それを必ず協力
者にはフィードバックします。

 こういう場面でこのような助言をいただけると、より教
育効果が高まったとか、この一言がこの子どもの職業
観を一変させたようです、とか。

 さらに協力者から「よくわかりました。次回、機会があ
れば、そのことに注意してご協力します。」と言ってもら
えれば、「失敗は成功のもと」になります。

 

「むさぼる」教育

与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない」

参考
「孟夏の太陽」(「月下の彦士」より)(宮城谷昌光著)文春文庫
119頁


 教師の失敗-13
  協力者を得られない理由がわかっていない

  このブログに初めてコメントをいただきました。身に
 つまされる思いのするお話ですが、「教育失敗学」
 の構築には欠かせない「現場のコトバ」です。
  本当にありがとうございました。
  トラックバックの方も、感謝申し上げます。
  今回より、文体を改め、より謙虚な姿勢で問題に
 取り組んでいくつもりです。
 
  さて、東京都では、すべての都立高校での「奉仕
 活動」の必修化、公立中学校での職場等体験学習
 の1週間程度の実施を進めようとしています。
  公立中の方は、この指針が区市町村教育委員会
 に下り、それぞれの自治体が知恵をしぼらなくては
 なりません。

  ニートやフリーターの増加によって、よりより職業
 観や労働観を育成する必要が増していることが背
 景にあります。
  
  コメントでは、体験活動でお世話になる職場への
 依頼攻勢と事後の対応のお話をいただきました。

  私自身もゲストティーチャーを招いての授業をした
 ことがありましたが、依頼するとき、きっぱり言われ
 ました。

  「子どもだけが学んでおいしい思いをするの
 なら、ゲストは派遣しません。ゲストにとってもいい
 ものを学び、得られる時間にしてください」

  傲慢な自分の目が覚めました。そして、地域の
 中で学校がどうあるべきかも知りました。
  本当に社会性を身に付けるべきなのがだれなの
 かも。

料理の上手な人とは

・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。


参考
「太公望 中」」(宮城谷昌光著)文春文庫
362頁

 教師の失敗-12
  素材のよさを活かせない

  「試験にでるから覚えなさい」式の指導は、
 飲食店で言えばファーストフード店のような、
 マニュアルどおりに調理すれば高校生でも
 できるようなものを出す店のようなものだ。

  授業では素材を「教材」という。教材を何
 の味付けもなくストレートに出してしまって
 は、せっかく潜在的な興味(食欲)がある
 のにそれを損なってしまうようなものであ
 る。

  素材の組み合わせや調理法をよく研究
 したい。
  
  しかし、多くの教師は「時間がないから」
 と逃げてしまう。

  総合的な学習の時間が始まって4年目
 になるが、「教科の学習内容3割カット」=
 学力低下の主犯格とされてきた。

  試行の段階から、私はこう言っていた。
 「1万円のフルコースを注文してさあ食え、
 というのをやめて、7000円のハーフコー
 スにしたと考えよう。あまった3000円で、
 素材を自分で選んだり、自分で料理する
 ことを楽しみながら食事できるようにしよ
 う。焼肉屋に行って、人に焼いてもらって
 皿にのせてもらったのを食べるだけでは
 つまらないでしょう。」

  自ら学ぶ力を身に付けなければいけな
 いのは、子どもよりも教師である。

他人を変革するためには

他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。

参考
「太公望 中」」(宮城谷昌光著)文春文庫
361頁

 教師の失敗-11
  自分の経験にとらわれ、変化を恐れる

  実際に教壇に立つと、事前に準備して
 きたこと以上に実践に影響を与えてしまう
 ものがある。それが過去の経験、たとえば
 自分がうけてきた授業である。

  教師の禁句に、「これ、試験にでるよ」
 がある。
  試験のために、授業している教師である
 ことを暴露してしまう。
  「何としても覚えさせなければ・・・」と
 やっきになる教師は、試験が終わって
 すっかり忘れてしまうことなどおかまい
 なし。それ以後の責任は自分にないなど
 と考えてしまう。

人まねの先にあるもの

人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。

参考
「奇貨居くべし 春風篇」」(宮城谷昌光著)中公文庫
131頁

  教師の失敗ー10
   他人の実践のまねをする段階から、実践から
  学ぶ段階まで到達しにくい

  小学校レベルのように誰でも教えられるような内容
 だと、ついつい流行をおいかけたり、本のタイトルの
 マインドコントロールにかかってしまったかのような
 教師を見かける。

  教育は、消費するサービスではなく、学ぶ豊かさを
 享受するサービスである。「新製品」のよさを判断する
 のは子どもであり、親である。

  どのような教授法でも、メリットがある一方、デメリッ
 トがある。取り入れたメリットは最大限に活かしつつ、
 デメリットも明らかにし、それをメリットに転換させるよ
 うな工夫を重ねることで、指導力は向上していく。
  
  総合的な学習の時間は、与えられる一方だったも
 のを、自ら「取る」ことで力にしていくためにある。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より