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2005年3月

教師の禁句 その2

頭をつかわぬだけ、他人より若いということだ。

参考
「重耳(上)」(宮城谷昌光著)講談社文庫
159頁


 教師の失敗-9
  「頭を使え」と指図してしまう

  「頭を使え」「よく考えろ」という指示は、
 何も指導していないのと一緒である。
  教師の禁句のひとつである。
  「頭を使うとはどういうことか」「考える
 とは何をどうする、何がどうなることか」
 ということを子どもと徹底的に「考えた」
 ことがあったが、子どもは教師が想像
 している以上に考える力がある。

  授業中に、「頭を使っている」教師に
 出会ったことがあるだろうか。
  優れた教師は、子どもとよく対話する
 以上に、教材とよく対話する。それも
 子ども以上に真剣に問いかける。

  教師はよく歳より若くみえると言われ
 るが、その理由は・・・・。

教師の禁句 その1

みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。

参考
「奇貨居くべし 黄河編」(宮城谷昌光著)中公文庫
263頁


 教師の失敗-8
  「わかりましたか」と聞いてしまう

  指導の世界では、「わかりましたか」は
 禁句とされている。というより、指導力の
 乏しさの象徴とされている。
  この問いは、すべての子どもにしている
 ものなのか、最も理解が遅れがちな子ども
 に確かめているのか、はっきりしないこと
 が多い。
  小学校の授業で、大勢が「わかりまし
 た!」と声をそろえて返事している場面に
 出会うが、「本当か!」と叫びたくなること
 が多い。

  後で子どもが理解していないことがわか
 ったときに、言い訳として「あのときわかっ
 たって言ったのに」などという教師はさすが
 に少ないだろうが、そもそも「わかる」と
 いう意味を教師や子どもが「わかっている」
 か?という疑問がある。

  わかっているかいないかが「わかる」問
 いをして、その解答から判断すべきなので
 ある。
 

わかったふりをしてしまう子ども

人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ

参考
「晏子」第二巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
222頁


 教師の失敗ー7
  「わかったふり」が見抜けない

  研究授業でよく遭遇するのは、児童や
 生徒たちの「思いやりの関心・意欲・態度」
 である。道徳的によく育てられていれば、
 当然のことであるが、教師は自分の指導が
 うまくいっていると勘違いしてしまう。
  児童や生徒は多くの大人の目にさらされ
 ていつもより緊張している教師をかばう行動
 にでる場合がある。
 
  そもそも参観者を「お客さん」呼ばわり
 するのはやめてもらいたい。
  児童や生徒まで「お客さんのために」
 わかったふりをしてしまう心理に陥る。

  「今日はいい態度でした」という評価を
 するときに、たとえば社会科の授業なら
 学習内容、学習対象である「社会的事象」
 に対する関心や意欲、態度がどう表れた
 のかを評価しなければならない。

  関心や意欲のように見えにくいものの
 評価をするこつは、「関心が高ければ、
 この方向にもっていけばこういう行動に
 でるはずだ」という計画をしっかり練ること
 である。

  話をよく聞く態度はしつけの領域、
 よく考えて練りなおす意欲を高めるのは
 学習指導の専門的領域である。


よいこだわりと悪いこだわり

人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。

参考
「奇貨居くべし 飛翔篇」」(宮城谷昌光著)中公文庫
222頁


 教師の失敗ー6
  準備した計画にとらわれ、最適な判断・評価を誤る

   計画に基づく実践を重んじることも教師の大切
  な資質であるが、そもそも計画とは目標を達成
  するために考えたひとつの案であって、そのとおり
  実践すれば必ず目標が達成されるとは限らない。
   
   「子どもの集中力は長く続かない」ことを前提に、
  授業の前半と後半で別々の学習を行う計画を立て
  ていた教師がいた。しかし、教師の予想に反し、
  適切な指導によって子どもはよく集中し、どう考え
  ても続きを学びたがっている場面で「計画どおり」
  学習を中断させてしまった。結果として、子どもの
  集中力は著しく失われた。
   
   教師は、学ぶ過程にもっとこだわりをもつべき
  である。
  
   

失敗を活かす

失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。

参考
「楽毅」第四巻(宮城谷昌光著)新潮文庫
170頁

*私自信は、「楽毅」が宮城谷小説の最高傑作
 だと思っている。宮城谷小説の主人公は多くの
 困難に出会い、失敗も経験するが、鮮やかに
 人生を生き抜いている。人物の鮮やかさ、
 読後のすがすがしさは、司馬小説を上回る。

  

 教師の失敗ー5
  失敗を失敗として認識できない

  「教育に失敗は許されない。『教育失敗学』
 とは何事だ」とお叱りを受けるかもしれない。
  しかし、失敗を失敗として受け入れ、それを
 活かすことをしようとせず、何となく成功した
 つもりで次の実践に向かいがちなのが教師
 であり、行政である。

  「学力低下」があおられることで、教育予算
 がとりやすくなることはよい。
  しかし、簡単なペーパーテストのできをよく
 しようと努力し、仮に点数が上がってしまうと、
 多くの「失敗」が隠されてしまうことになりかね
 ない。

  「失敗を活かす」とは、とても難しいものである。
 畑村「失敗学」だけでは対応できない「失敗」も
 教育現場では数多くある。
  だれの目から見ても「失敗」と言える教育も
 もちろん取り上げるが、保護者や一般の方には
 気付かれにくい失敗を明らかにしていきたい。

幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。

人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。

参考
「奇貨居くべし 春風篇」」(宮城谷昌光著)中公文庫
127頁(前日に続く部分を引用した。)

 教師の失敗ー4
  葉にとらわれ根を育てようとすることを忘れる

   表面的な評価をしてしまうこと、変化に対応
  できないことの根は同じである。教師はゆらぎ
  のない目標をもつことを忘れがちである。
   

大木でなければ豊かな実をつけない

大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。

参考
「奇貨居くべし 春風篇」」(宮城谷昌光著)中公文庫
126頁

 教師の失敗ー3
  表面的な評価をしてしまう

 「観点別学習状況の評価」の評価の観点の
中に、「関心・意欲・態度」というものがある。
 教師の中には、挙手の回数や発言数で
これを評価する者もいるが、わからないのに
手を挙げていたらどうするか、答えられたのに
他の生徒に先に答えられてしまい、発言の
機会が失われた生徒はどうするか、・・・等々、
これは課題の大きい評価である。

 多くの生徒があらそうように挙手できる発問
とは、たいてい単なる知識を問うものである。
 「関心・意欲・態度」の観点は、知識を発表
することに意欲的な態度を評価するためのもの
ではないはず。
 この失敗に気付かない教師は多い。

難に臨みてにわかに兵を鋳る

あらゆる事態を想定して準備を怠らず、
変化に対応できるようなトップでいな
ければならない。

 教師の失敗ー2
  変化に対応できない

目標に準拠した評価(いわゆる絶対評価)
が導入され、今までのように上から順番に
成績を並べて切っていく機械的な評価が
できなくなった。
高校入試の調査書点(いわゆる内申点)
に活用されるようになり、その信頼性が
問われている。
「今までどおりでいい」
という意見も多い。
なぜ、相対評価から絶対評価に変わったのか。
教育に、指導に、授業に、何が求められて
いるのか。
「観点別学習状況の評価」が導入されて
もう10年以上がたつが、学習観や評価観、
指導観をどうグレードアップさせてきたか、
これからどのようにグレードアップさせて
いくかが問われている。
「過去の経験どおりいきたい」
これは失敗を避けたいという心理からくるものか、
それともただ楽をしたいだけなのか。

参考
「中国古典の言行録」(宮城谷昌光著)文春文庫
182頁

漱石枕流(そうせきちんりゅう)

言い誤りをたださず、理屈をつけて押し通した故事から
来た語。

 教師の失敗ー1
  面子にこだわり誤りを認めない

  教師には、面子、プライド、自負心も大切。
  石は枕でなく歯をみがくため、流れで口をすすがず
  耳を洗う・・・自分の言ったことをあくまで押し通して
  納得させる力も、ときとして必要である。
  「生きる力」のひとつかもしれない。
  しかし、失われた信頼を取り戻すのは難しい・・・。


「中国古典の言行録」(宮城谷昌光著)文春文庫
40頁 「石に漱(くちすす)ぎ、流れに枕せん」

★夏目漱石のペンネームになったいきさつとは?★
★この故事に似た体験を、四字熟語にしてみよう★

3年のブランクを経て・・・

教育の現場を離れて3年。
3年ぶりの教壇に立つにあたって、
行政の立場や親の立場から考えてきたことを
綴っていきたい。

愛読書である宮城谷昌光の小説をテキストに
しながら、
「教育における成功・失敗とは何か」
「失敗を活かす教育とは何か」
を考えていく。

「教育失敗学」という学問を構築することによって、
新たな教育像、学校像を描きつつ、
実践していきたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より