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14 家庭や地域社会との連携及び学校相互の連携や交流(第1章第4の2(14))

14 家庭や地域社会との連携及び学校相互の連携や交流(第1章第4の2
(14))

( 1 4 ) 学校がその目的を達成するため, 地域や学校の実態等に応じ,家庭や地域の人々の協力を得るなど家庭や地域社会との連携を深めること。また, 中学校間や小学校, 高等学校及び特別支援学校などとの間の連携や交流を図るとともに, 障害のある幼児児童生徒との交流及び共同学習や高齢者などとの交流の機会を設けること。

  教育基本法には,第13条において「学校,家庭及び地域住民その他の関係者は,教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに,相互の連携及び協力に努めるものとする。」と規定されている。また,学校教育法には,「中学校は,当該中学校に関する保護者及び地域住民その他の関係者の理解を深めるとともに,これらの者との連携及び協力の推進に資するため,当該中学校の教育活動その他の学校運営の状況に関する情報を積極的に提供するものとする。」との規定が置かれた(同法第49条で中学校に準用される第43条)。このように,学校がその目的を達成するためには,家庭や地域の人々とともに生徒を育てていくという視点に立ち,家庭,地域社会との連携を深め,学校内外を通じた生徒の生活の充実と活性化を図ることが大切である。また,学校,家庭,地域社会がそれぞれ本来の教育機能を発揮し,全体としてバランスのとれた教育が行われることが重要である。
 そのためには,教育活動の計画や実施の場面では,家庭や地域の人々の積極的な協力を得て生徒にとって大切な学習の場である地域の教育資源や学習環境を一層活用していくことが必要である。また,各学校の教育方針や特色ある教育活動,生徒の状況などについて家庭や地域の人々に説明し理解や協力を求めたり,家庭や地域の人々の学校運営などに対する意見を的確に把握し,自校の教育活動に生かしたりすることが大切である。その際,家庭や地域社会が担うべきものや担った方がよいものは家庭や地域社会が担うように促していくなど,相互の意思疎通を十分に図ることが必要である。さらに,家庭や地域社会における生徒の生活の在り方が学校教育にも大きな影響を与えていることを考慮し,休業日も含め学校施設の開放,地域の人々や生徒向けの学習機会の提供,地域社会の一員としての教師のボランティア活動を通して,家庭や地域社会に積極的に働きかけ,それぞれが持つ本来の教育機能が総合的に発揮されるようにすることも大切である。
 また,学校同士が相互に連携を図り,積極的に交流を深めることによって,学校生活をより豊かにするとともに,生徒の人間関係や経験を広げるなど広い視野に立った適切な教育活動を進めていくことが必要である。その際には,近隣の学校のみならず異なった地域の学校同士において,あるいは同一校種だけでなく異校種間においても,このような幅広い連携や交流が考えられる。
 学校間の連携としては,例えば,同一市区町村等の学校同士が学習指導や生徒指導のための連絡会を設けたり,合同の研究会や研修会を開催したりすることなどが考えられる。その際,小学校や高等学校との間で相互に児童生徒の実態や指導の在り方などについて理解を深めることは,それぞれの学校段階の役割の基本を再確認することとなるとともに,広い視野に立って教育活動の改善充実を図っていく上で極めて有意義であり,児童生徒に対する一貫性のある教育を相互に連携し協力し合って推進するという新たな発想や取組が期待される。
 学校同士の交流としては,例えば,近隣の中学校や校区の小学校と学校行事,クラブ活動や部活動,自然体験活動,ボランティア活動などを合同で行ったり,自然や社会環境が異なる学校同士が相互に訪問したり,コンピュータや情報通信ネットワークなどを活用して交流したり,特別支援学校などとの交流を図ったりすることなどが考えられる。これらの活動を通じ,学校全体が活性化するとともに,生徒が幅広い体験を得,視野を広げることにより,豊かな人間形成を図っていくことが期待される。
 障害者基本法第14条第3項にも規定するとおり,障害のある幼児児童生徒との交流及び共同学習は,生徒が障害のある幼児児童生徒とその教育に対する正しい理解と認識を深めるための絶好の機会であり,同じ社会に生きる人間として,お互いを正しく理解し,共に助け合い,支え合って生きていくことの大切さを学ぶ場でもあると考えられる。特別支援学校との交流の内容としては,例えば,学校行事や学習を中心に活動を共にする直接的な交流及び共同学習のほか,文通や作品の交換といった間接的な交流及び共同学習が考えられる。なお,交流及び共同学習の実施に当たっては,双方の学校同士が十分に連絡を取り合い,指導計画に基づく内容や方法を事前に検討し,各学校や障害のある幼児児童生徒一人一人の実態に応じた様々な配慮を行うなどして,組織的に計画的,継続的な交流及び共同学習を実施することが大切である。
 また,特別支援学級の生徒との交流及び共同学習は,日常の様々な場面で活動を共にすることが可能であり,双方の生徒の教育的ニーズを十分把握し,校内の協力体制を構築し,効果的な活動を設定することなどが大切である。
 都市化や核家族化の進行により,日常の生活において,生徒が高齢者と交流する機会は減少している。そのため,学校は生徒が高齢者と自然に触れ合い交流する機会を設け,高齢者に対する感謝と尊敬の気持ちや思いやりの心をはぐくみ,高齢者から様々な生きた知識や人間の生き方を学んでいくことが大切である。高齢者との交流としては,例えば,授業や学校行事などに地域の高齢者を招待したり,高齢者福祉施設などを訪問したりして,高齢者の豊かな体験に基づく話を聞き,介護の簡単な手伝いをするなどといった体験活動が考えられる。また,地域の様々な人々との交流を図っていくことも考えられる。
 こうした取組を進めるに当たっては,総合的な学習の時間や特別活動などを有意義に活用するとともに,学校は介護や福祉の専門家の協力を求めたり,地域社会や学校外の関係施設や団体で働く人々と連携したりして,積極的に交流を進めていくことが大切である。

*中学校学習指導要領解説 総則編(平成20年9月) 第5節 教育課程実施上の配慮事項より 

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
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    「歴史の活力」より
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    「歴史の活力」より
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    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より