数余りを隠すために・・・

 そもそも今のように小規模化している学校に、「備立」を構成するための人数がいるのか、人材がいるのかという疑問があります。

 小規模校をなくしていくと、教師の数が余っているのがわかってしまいますから、反対するという論理はよく理解できますが、子どもにとって何が一番良いのかという発想がないのも気がかりです。


100ページの1文」(09/12/19)より

 大名主君からは伝令である「使番」が「先備」の旗頭の下に派遣され、敵軍の攻撃展開についての情報と作戦についての指示が伝達されるけれども、前線の指揮進退はあくまで旗頭の裁量に委ねられている。

 封建社会、あるいは中央集権的な集団主義というと、上意下達型の服従システムであるとする通念が根強い日本ですが、「激しい現場」ではいちいち中央の指示を待つことはできないわけで、その場の指揮官が短期的には意思決定を行うケースというのは普通にあったようです。

 短期的な意思決定を求められる場面が連続的に訪れる学校現場では、それだけ「前線の教師」の役割が重要で、責任も重いわけです。

 しかし、現場には、現場にもかかわらず、「中備」「脇備」「旗本備」の立場に自ら安住し、「先備」ではなく「作戦中枢部」の方ばかりを見ている教師がいることが、「作戦中枢部」の人間たちにとっても負担となっています。現場の無責任体質は、組織を崩壊させる最大の原因の一つでしょう。

 先日、ある質問をいくつかの学校にしたところ、すぐに返答をくれたのが1校、残りはすべて、「質問をもみ消す」べく「作戦中枢部」にすべてを委ねる結果となりました。ある1校の不正から始まった「改革」の行き着いた先がこの姿です。

 現場には今、複雑な状況に耐えうる「備立」をもっている学校はどれほどあるのでしょうか。

武士道と日本型能力主義

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壁に向かって歩める教師 ふり返り366日【08/8/8-2】

 原理・原則主義のうち、「どうしてそのような原則になったのか」が説明・理解可能なものと、説明・理解不可能なものがあるものだと考えられます。

 よく学校現場の生活指導で、「そういう校則だから」としか説明できないことがあることの問題が論じられます。

 そういう態度で押し通そうとすると、子どもの側も、「ルールだから守る」という発想になり、「どうして人を殺してはいけないのか」という質問に、「法律で禁止されているから」とか、「殺すと法律に基づいて罰せられる(自分が死刑になる)と嫌だから」などという答えが返ってきてしまうことになりかねません。

 根源的な問いを向けることができるほど「落ち着いている」のが理想の学校だと思う人もいるかもしれませんが、多くの課題、問題、壁にぶち当たることで子どもも教師も成長します。

 「落ち着いている学校からは優秀な教師は生まれない」というジンクスが破れるよう、自分から壁に向かって歩いていってほしいような気がしています。

08/8/8 佐藤優著「世界認識のための情報術」  自らを「右翼で国家主義者である」としている佐藤優が、『週刊金曜日』で連載した内容をまとめた本を出版しました(「(株)金曜日」が出版しました)。  以下はまだ公開されていませんが私が作成したレビューです。  記事の内容はもちろん参考になるのですが、レビューでも紹介した「多元主義に向かうための五つのテーマ」のうち、「右翼と左翼の既成概念にとらわれない」ことに、強い共感を覚えています。  もともとこの言葉のおこりは、フランス革命にさかのぼりますが、佐藤優がわかりやすくまとめているので引用させてもらいます。  
国会の議長席から見て、左側に座っている議員が左翼である。この人々は、理性を信頼する。万人には等しく理性が付与されているので、完全情報と時間があれば、人々の認識は一つに収斂すると考える。従って、真理は一つとなる。  理性に基づいて、理想的な国家や社会を建設することが、原理的に可能と考える。従って、構築主義、設計主義に傾きやすい。  これに対して、議長席から見て右側に座っている人々が右翼である。この人々は、理性には限界があり、人間は偏見から逃れられないと考える。従って、真理が一つに収斂することはない。複数の権利的に同格の真理が存在する。従って、右翼の世界観の基本は多元性になる。多元性は、他者の真理を尊重しなくては成り立たない概念なので、多元主義が右翼の基本になる。  また、神、国王、宗教、神話、伝統など、理性の言語で説明できない存在や事柄を「いままで続いている以上は何か意味があるはずだ」と受け入れる。その意味で右翼は基本的に保守的だ。
 教育界で乗り越えていくべき壁とは何かを考えるヒントになります。   amazonへのレビュー 佐藤優著「世界認識のための情報術」(金曜日) 『週刊金曜日』を舞台とした佐藤優の「思想的営為活動」が読める本 By kurazoh  「週刊金曜日」を定期購読されている方に必要な情報:巻頭の「『週刊金曜日』への私の想い~序論として」と巻末の「世界をできるだけリアルに認識するために~あとがきにかえて」が書き下ろしで、あとは連載「飛耳長目」の第1回(2006年3月10日号)から第27回(2008年5月14日号)までの内容が収録されています。  「週刊金曜日」をご存じない方への情報:「はじめに」より~右翼で国家主義者である筆者を『週刊金曜日』の執筆陣に加えることだけでも、編集部はリスクを負う~・・・と佐藤優が表現している雑誌が『週刊金曜日』です。  巻末の書き下ろしに、「多元主義に向かうための五つのテーマ」が掲げられています。  「その1」で、「もはや有効性を喪失している右翼と左翼の既成概念にとらわれないこと」とし、「その5」で「より根源的な問題意識として、日本人にとっての超越性の問題を解き明かしたい。その意味で、左翼的アプローチが重要だ。構築主義、設計主義を徹底的に詰めるところから、『命がけの飛躍』の必然性を感じ取るのだと思う。このようにして感じ取った超越性が、寛容と多元主義の根拠になるのだ。」と述べていますが、このことが、「疑似争点についての論争で、無駄なエネルギーを費やすことではなく、新自由主義とファシズムに対する耐性をつけるための思想的営為に全力を投球したい」という意気込みをもって『週刊金曜日』に佐藤優が連載をもっている理由です。  機密費、日露関係、イラン問題、靖国問題、「慰安婦」決議、集団自決、プーチン流イデオロギーなどについて関心のある方は、佐藤優流の切り口を堪能できると思います。

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北京オリンピックに見る中国と公立中学校の共通点 ふり返り366日【08/8/8】

 北京オリンピック・・・中国らしい「国家の威信」を示したイベントになりましたね。

 生活指導の行き届いた公立学校をイメージしてしまったのは私だけでしょうか。

08/8/8 北京オリンピック報道の見所?  北京オリンピックの開催に際して、もちろんメダルの行方は気になりますが、なぜか私の強い関心はスポーツよりも中国の人々のマナーの方にあります。  発行されたばかりの辻康吾(元毎日新聞北京支局長)著「中国人、中国人を笑う 中華人民笑話国」(小学館)を読んで余計に気になってしまいました。  この本は、中国関係のジョーク集で、アメリカ人は~、イギリス人は~、ロシア人は~、韓国人は~、日本人は~・・・などと他文化の特徴と合わせて中国独自の問題を浮き彫りにしています。  この中で、中国では「行列をつくる」「整列して待つ」という習慣がなかったので、自国のメンツをつぶさないように、オリンピックの開催が決まって以来、「礼儀を守ろう(=講文明)」をスローガンとして、「行列(=排隊)」を推奨してきたそうです。  世界のマスコミがスポーツとともに、中国の生活文化などをどのように報道していくか、日本のマスコミはどうするか、何かをきっかけにしてまた反日運動がおこらないか、など、見所?がたくさんあるような気がします。  社会科の教材になりそうな題材も抱負です・・・国際問題、人権問題、環境問題、衛生問題、・・・。

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学級日誌の威力 ふり返り366日【08/8/7-2】

 学校で最も頼りになる「教師の仕事の記録」は何であると思われますか?
 
 それはおそらく、各学級の日直の生徒が書く「学級日誌」でしょう。

 欠席や遅刻などの記録は、これを見て確認する教師もいるくらいですから、公簿といってよい貴重品です。

 年間計画と異なる授業を行っている場合、ティームティーチングをさぼっている場合、インチキの自習が多い場合など、教師の週案でもいいのですが、基本的に「ごまかし」のきかないのが学級日誌です。

 学校訪問のときは、必ず目を通してみたい資料の一つです。

08/8/7 京都府の「地理」授業不足問題  京都新聞に中学校の社会科授業で、「地理的分野」にあてるべき授業時間が約20時間ほど少なかった(ということは歴史的分野に20時間余分にかけた)ことがわかり、補習を行うことになった、という記事が掲載されました。  「子どもが地理がわからないと言っている」という訴えを保護者がおこしていなかったら、全国に京都府の中学校名が知られることはなかったはずですが、記事を読んでいて興味深かったのは、実態を把握するのに取られた手段が、「生徒らに調査」というものだったことです。  担当する教諭は「地理、歴史とも十分に授業を行った。未履修はない」と言っているということですが、標準時数の8割しか実施しないで「十分な授業」と表現できるところが、公立学校の教育の問題を物語っているわけです。  (そもそも、現行の地理的分野の学習は「学び方・調べ方」の習得と活用に重点が置かれており、その趣旨をふまえた指導が行われているかどうか、という問題もあります。)  こういう一つの記事によって、京都府はおそらく全校に調査をかけることになるでしょう。  他県の教育委員会はどうでしょうか。  京都府のこの学校だけの問題でしょうか。  文科省は

 中学校の地理と歴史については、学習指導要領の原則に反してザブトン型(地理を1年、歴史を2年で学習)で教えている学校が多い自治体があったり、歴史が中2で終わらずに中3に食い込んで、公民的分野の学習が遅れがちになったりする問題があります。
 
 そしてさらに混乱しそうなのは、次の指導要領では、各分野とも授業時数が増えるのですが、地理が105時間から120時間、歴史が105時間から130時間、公民が85時間から100時間という増え方で、歴史の学習が中3の1学期までかかることになり、「現状に近い」ことが正しい指導になっていく、そういう問題もあります。
 
 今後の動向に注目しています。

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素人の強みと弱み ふり返り366日【08/8/7】

 教師になって、一番良かったと思うことは何ですか・・・・。

 ある面接で聞かれたことですが、このような、答えが複数あるタイプの質問というのは聞かれると困るパターンのものです。
 
 一番簡潔に答えられそうだが、深みのなさそうなもの。

 あまりに深くて、短い時間では説明しきれそうにないもの。

 この二つのものが同時に浮かんできてしまうと、その選択に迷います。

 いずれにせよ、「使命感」や「教育的愛情」の度合いを調べるための質問だな、と思えてしまうと、どうしても肩に力が入ってしまいます。

 自分の中ではいい回答だな・・・と思えること・・・たとえば、

 ・・・毎日授業ができることです。

 も、事務方の管理職には通じない言葉かもしれません。

 ・・・大きな目標を生徒が達成して、一緒にうれし涙を流したこと・・・

 こんな「情にうったえる」系の方がウケはよいかもしれない・・・。

 面接で一番困るのは、相手がどんなバックグラウンドを持っているかが分からないため、教育の専門的な分野の話が通用するかどうか不安であることです。

 そこが、企業の面接などと一番違う点でしょう。

08/8/7 教員養成カリキュラムに「学校取材」の導入を  教師の社会的地位が医者と同等とも言われるフィンランド。  教師が非常に尊敬されている存在であるフィンランド。  高校生のなりたい職業のトップであるフィンランド。  大学の教員養成学科の人気が高く、入試倍率が10倍にもなるフィンランド。  増田ユリヤ著「教育立国フィンランド流 教師の育て方」(岩波書店)は、主に優秀な教師へのインタビューと現地の教育の実態を紹介している本です。  そういう意味では「当たり前のことが当たり前にできている国」という理想を描きたくて、取材先が偏っている?というイメージはぬぐいきれません。  
「私は教師の仕事が本当に好きです。この仕事は同じ日がひとつとしてありません。子どもたちの様子も毎日違うので、それぞれにあった学びを探す努力を続けていかなくては。教師の仕事に終わりはありませんね」
・・・というのが、フィンランドでは「普通の教師」なのかどうか。  学校教育に希望を見出そうとする傾向は、著者の経歴が高めていたようです。  
「学校以外の社会を知る機会(NHKのリポーター)を得た私は、そこで初めて学校の仕事を楽しいと思えるようになった。自分がいかに未熟だったか、ということに気づかされたのである。インタビュー取材をするようになって初めて、自分が子どもたちと『会話』ができていなかったことに気づいた。」
・・・そんな一節を読んでふと、教員養成のカリキュラムの中に、特色のある学校を取材し、その成果や課題を肌で感じてくる、そしてその取材結果や自分なりの分析と改善プランのプレゼンを行う、なんていうのがあるといいかなと思いました。  よく教育実習を終えた大学生が残すコメントに、「理論や知識というのは実践ではまるで役に立たないことがわかった」というのがあります。  本当は「理論や知識を役に立たせるような実践方法がわからなかった」という意味なのでしょうが、実習を終えてこのレベルのコメントですんでしまわないように、「学校取材」をカリキュラムに組み込む・・・。  実はここでの「インタビュー内容のセンス」が、授業では「発問センス」として反映されてくることになるのでしょう。

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最も失うべきではなかった存在 ふり返り366日【08/8/6-2】

 教員養成にお金と時間をかけることが、どのくらい日本の教育の水準を向上させることに結びつくのか・・・?

 これは、「だれが養成にたずさわるか」にかかってくることでしょう。

 今は、授業力なら塾の講師とか、生活指導なら元ヤンキーとか、「役割分担式」の教員養成が注目されがちなのですが、教師の資質の中核にある「使命感」とか「教育的愛情」とか「教養」とかは、バラバラに身に付けられるものなのかどうか。

 それらを高めるためになぜ「恩師」の存在が語られないのか。なぜそういう教師がいないのか。

 未来の教師を育てるために、最も失ってはいけないものを失ってしまったのが今の教育界なのかもしれません。

08/8/6 「教育立国フィンランド流 教師の育て方」の内容  増田ユリヤ著「教育立国フィンランド流 教師の育て方」(岩波書店)を読みました。  教育書の多くに感じることとして、書名と内容がしっかりマッチしていないものが多いことがあります。  売れる本にするために出版社側が考えてつけるのでしょうが、この本を教員養成プログラムの参考にしようとして購入した(私のような)人は「あれ?」と感じてしまうと思います。  以下、amazonへのレビューです。  
著者はPISAで世界一の学力を維持したフィンランドという国について、世界最大のシェアを誇る携帯電話会社のある国、ウィンドウズと拮抗するOSソフトを生んだIT先進国、サウナやキシリトール、ムーミンを生んだ国、人口が北海道と同じくらいの国、学校の夏休みの長さ、ソ連崩壊当時は失業率が20%に達した国、大学はすべて国立・・・といった冒頭のインフォメーションで親近感を高めてくれた。  そして肝心の「教師の育て方」だが、特色の一つとして、日本とは比べものにならないくらい長時間の「教育実習」が紹介されている。  本書は、タイトルだけにひかれて「教員養成プログラム」の参考にしようとすると、期待はずれに終わるだろう。  実質的には、著者によるフィンランドの各種学校のルポである。  タイトルとしては、「優秀な教師が育つフィンランド流学校教育」の方が適切だったかも?
 私としては、20代、30代で校長になって、しかも十数年も同じ学校を経営している人がいることに驚きました。しかも、学校経営の悩みは日本と似たようなものがあり、研修の内容にも興味がわきました。  「子どもの変化」についても日本と同様なことがおこっているようで、果たして「授業」の質の高さがどの程度まで維持できるのか、5年、10年先のフィンランドにも関心を持ってしまいます。

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教師としてどう生きたいのか? ふり返り366日【08/8/6】

 無責任な態度を教師がとったり、熱意が感じられなかったりすると、「使命感が足りない」という批判を受けることがあります。

 @nifty投票では、小学校教師・中学校教師、どちらに対しても「望むこと」のトップが「使命感」になっているのは、もしかしたら選択肢の最初にあるからかもしれませんが、実際、その通りだなと感じている教師自身も多いと思われます。

 今、教師たちに最も欠けているのが「使命感」だと・・・。

しかし、教師の「使命感」は、何で測ることができるのでしょう。

 熱心さ? 
 まじめさ?
 勤務時間の長さ? 
 部活動指導? 
 教材研究の量・質? 
 不登校生徒への対応?

 体罰などによる処分の数???

 「使命感」が足りない・・・というのは何から言えるか。
 この方が具体的によく分かってしまいます。

 また、「使命感」の空回りとか、特定の方向に限っての「使命感」が問題を起こすこともよくあります。

 「教師としてどう生きるか」を正面から問えるような職場は今、どこにあるでしょうか。

08/8/6 教職志望動機と「使命感」  教師を目指す動機。  採用試験の面接では必ず問われることではないでしょうか。  私の場合は人から言われた「ひとこと」なのですが、それではインパクトが足りない(またはそこをつっこまれると言いたくないことも言わなければならないので困る)と考えたせいか、別のことを言ってしまった気がします。  採用側としては、何が受験者から語られても、そこに教育への「使命感」「責任感」が嗅ぎ取れるかどうかが勝負になると考えられます。    「使命感」によって「働かずにはいられないで働く」ような職業というのがありますよね。  こういう職業は、公務員の場合、職につくまでの幻想に惑わされていた人が、現実の厳しさを知って「使命感」を喪失した後も、よほどのことがない限り失職しないですむという問題がありますが・・・。  教師の場合は、使命感を喪失させられた原因が子どもでも、失った使命感を取り戻させてくれる存在も子どもであるというラッキーな職業です。  どんな理由で教師になったにしろ、現場で教育にたずさわっていれば、本当の「使命感」に気付くことができるのが教職というものだと私は考えています。  何度も挫折を味わうことで、自分自身が成長できるのも教師であり、同じように挫折を体験した子どもにも、そこから次のステップに進ませてあげるのが教師です。  教師は、立場上、子どもの評価はいつもしていますが、自分自身へのふり返りや次のステップへの目標づくりをすることも、教師には求められています。  たとえば毎年の人事考課、サイクルは長くなりますが免許更新講習等がその機会になります。  そのようにして成長していった教師のライフスタイルを公表できる自治体が出てくるとおもしろいかもしれません。  目標とするロールモデルが見つかるとすると、教師志願の有力な動機になるのではないでしょうか。

 できたら、そこに「指導教諭」「主幹」「管理職」「指導主事」等になったロールモデルも入れてほしいものです。
 というのは、いきなり管理職になりたくて教師を目指す人は少ないのでしょうが、何年経っても「管理職」の仕事は「他人事」と考え続ける教師ばかりでは困るので、一応、あらかじめ、そういう道があり、そのような道を選んだ人がどのような成長を遂げていったのかを知っておくことは意味のないことではないと考えられるからです。
 
特に、世の中で最も「明るい印象のない」のが「副校長」という管理職ではないかと考えます。
 実際、精神的にも体力的にもつらい経験もする立場ではあります。しかし、「副校長」は(基本的には)ゴールではないので、その経験が校長になってどう生きたとか、校長と教諭の間でどのような仕事が最もやりがいがあったとか、何かプラスのイメージの発信がほしいところです。
 余計なことですが、副校長が「職務遂行上の負担」として最も感じているのが「仕事量の多さ」で、その中でも大きな量を占めているのは、「調査もの」と、「だれにふったらよいかわからない」仕事だそうです。
 この担い手が主幹になる、と考えられてしまっては、主幹のなり手もいなくなってしまうでしょう。
 「使命感」のみが原動力・・・なんていうのも寂しい話です。

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何が分からないかが分かる授業 ふり返り366日【08/8/5】

 百マス計算のように、やさしい問題を繰り返し繰り返したくさん行うことが、子どもから「本当の思考力や学ぼうとする力を奪っている」という学説がもし登場したら、とたんに取り組む教師は減っていくでしょうか。

 ある程度の経験がある教師たちでも、「本当の、本物の学習」と、「ただの流行の、冷めやすい学習」との区別はつきにくいものです。

 私がある小学校の授業を見ていて一番感じたことが、「やさしいことばかりに時間をかけすぎる」という問題でした。

 子どもは明らかに「飽きて」いました。

 教師が飽きている学習を子どもに強いても、子どもの頭は活発にはたらきません。

 特に小学校の教師は、子どもが「分からない!」という反応をすることに対して、臆病でありすぎはしないでしょうか。まさにそれを避けるためだけに、学習内容を構成している授業はないでしょうか。

 「分からない」という心理状態=学習意欲を失う・・・こういう「公式」を信じ込んでいる教師はいないでしょうか?

 もしそれが本当なら、子どもの創造力、想像力はどのように育てるのでしょう。

 ここでの話は、進学塾に通っている子どもが小学校の授業で退屈な思いをしている・・・ということとは関係ありません。

 長年抱いている疑念は、「学習に熱中させる教材づくり」が、「退屈をさせないための教材づくり」「分からせるための教材づくり」のレベルに落ちている人が増えているのではないかということです。

 「分からない」ことは当たり前のことである・・・そこが出発点だ・・・・という意識を中学校入学当初に持てないと、3年間、下手をすると6年間、「苦しい勉強」を強いられる結果になりかねません。

 「分かる授業」は大切なのですが、「何が分からないかが分かる授業」をもっと増やせないでしょうか。

08/8/5 情熱がわかない4つの原因  「教育への情熱」をどのように高めたらよいのか。  様々な立場の人から、教師へ、教師志願者へ、保護者へ・・・様々な立場の人へ、それが十分でないときに求められる問いです。  岡潔集第四巻にある言葉です。  
目標があまり遠くては情熱はわかない。  目標が正しくなくても情熱はわかない。  また、全然責任を感じないときにも情熱はわかない。  やさし過ぎても情熱はわかない。
 はっとさせられるのは、三つ目の指摘です。  教育への責任というのを、教師や保護者はいつどのようにして感じることができるのか。  事件や事故を起こしたときだけか。    一方、子どもの勉強へのやる気、学習への情熱のことを想定すると、あまりそこに子ども自身の「責任」という「重荷?」をもたせてこなかったのが、今までの教育ではないか、と思われてきました。  ここに、教育という語への永六輔の反発が理解できる立場が生まれます。  「教え育てる」行為の主体は子どもではなく教師や保護者などの大人。  そちら側には、教育の責任がある。  では、子どもの側には?  「教育」と言ったら、やはり「受けるもの」「受けさせられる」ものでしょうか。  「教育基本法」ではなく「学習基本法」を、という提唱をしている「働くための学習」(学文社)の著書、田中萬年。    「~を身に付けなければならない」という言われ方をすると、当然子どもは反発するのでしょうが、  「~を身に付けさせることとする」とされていても、それが十分にできていない状況をどう考えたらよいのか。  こんなことが面接の質問で聞かれたら、教師志願者の方は何とお答えになるのでしょう。

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教師にあこがれる子どもが多い国の特徴とは? ふり返り366日【08/8/4】/昭和20年に始まったもの

 教師が子どもにとって、あこがれの職業になる国にはどのような共通点・特徴があるのでしょうか。

 どなたかご存じの方に教えていただきたいものです。

 日本には、「教師なんかにあこがれているようでは、たいした人間ではないな」と認識する教師が少なくないのではないかと思われます。

 私も教師になりたてのころは、いわゆるデモシカ教師からだったでしょうか、「どうして教師なんかになったの?」と聞かれたことがありました。

 幕末のころ、吉田松陰に影響を受けた人間のうち、吉田松陰のような「先生」になろうとしていた人はどのくらいいたのでしょうか。また、吉田松陰のような「人間」になりたいと思った人はどうでしょうか。

 いずれにせよ、人材獲得・人材づくりのためになりふりかまわぬ政策をとる自治体も登場している昨今です。

 私のいた自治体では、「指導力不足」の教師が増えるとともに、「こんな人間を獲得した教育委員会はどうかしている」という見方をする教師も増えているようですが、現場が採用したい人と、教育委員会が採用する人のギャップをどう埋めていくかについては、それにかかわることによって負担が増すのではないかと鋭い嗅覚をきかせている現場が動かないので、なかなか改善は難しそうです。

08/8/4 教職志願者を増やす方法とは?  ある新聞のコラムで、「教職志願者が減ったのは、教師が夏休みに休めなくなったからだ」と書いている人がいてびっくりしました。このコラムは筆者の好きなように書かせている(編集の手が加わっていない)ようで、ときどきとんでもない偏見が飛び出します(通常は自分の実践の正しさの強調)。  たしかに、私が初任者のころは、プール(水泳)指導の担当者を決めるのに四苦八苦していた記憶があり、考えてみるとその理由は、プール(水泳)監督をして責任を持たされるのが嫌というより、単純に学校に来たくない(来ない)教師がいたからだったような気がします。  休みがないとは言っても、毎日8時間ずっと部活動や会議をしているわけではないので、授業の準備や研修がいくらでもでき、かつ、年休を取ろうと思えば実際に取れる期間があるのですが、最近は「夏休みでも休みがない」という宣伝をしたがる教師が多いようです。  「楽をしているわけではない」ということが言いたいのだと思いますが、過密スケジュールで塾の講習と部活動を両立させている生徒と比べると、明らかに学期中よりは楽になっているのはたしかでしょう。  勤務時間中に趣味の歴史小説を読んでいても、社会科の教師なら「研究と修養のため」という理由がついてしまいます。  さて、本題は「教職志願者を増やす方法」です。  昔は、本当に「夏休みが40日も取れるから」という理由で教師になった人がいたのでしょうか?  教師の子どもが教師を目指すことが少なくないようですが、そういう人が、「自分の子どものころ、随分家にいて、一緒に遊んでくれた」という記憶があり、「私の子どものためにそうしたい」と思ったりしているのでしょうか。  一般の公務員よりも給料が高い、そういうことが一定の志願者数を支えているのでしょうか。  そうすると、教師の給与水準をもう少し上げると、志願者が今より増えるのでしょうか。  いずれにせよ、私が考えている「教職志願者数を増やす方法」は、単純なことで、大学時代までに、「教職につきたい」という願望を強く持ってもらうようにすること、これに尽きます。  そして、そのために重要なのは、早ければ児童・生徒の段階から、この仕事への魅力を実感してもらうことです。  それは、教師自身が、日々やりがいを持って仕事にのぞむ授業を楽しそうに行うなど)とか、この仕事をしていてよかった、という気持ちを児童・生徒に伝えるとか、さまざまな方法があります。  教師の場合は、自分の能力の向上、自分の成長だけでなく、子どもの能力が向上し、成長してくれることも「仕事の報酬」になります。  「お金ではない」報酬で心が満たされる職業は他にもたくさんあるのでしょうが、教師の場合はこれが格別で、行政では事務方から教育長になったような人が、教員系の人によくこう言うのです。  「卒業した後も、相手がどんなに偉くなっても、いつまでたっても先生、先生と慕われるのがうらやましい。」  後者の報酬が教師ならではのものであり、子どもに「恩義」「感謝」の気持ちが生まれることで、卒業後も「教え子」と「世話になった先生」という関係が続くことになります。  教えた当時の自分の年齢を超えた「教え子」たちに、当時の教育への暖かい批判を浴びたりするのが年中行事になっている教師も少なくないでしょう。  教職志望の人たちにがあるとすると、「どうしてそんなたいへんな職業につかなければならないんだ」「もっと出世できて高収入が得られる仕事の方がいいんじゃないか」と反対する親の存在でしょうか。  教師になってからも、「組合に入らないといじめられるんじゃないか」とか、「親からいろんな要求をつきつけられてまいってるんじゃないか」「結婚相手を探す暇はあるのか」などと心配をかけます。  そんな親を安心させる方法も、日々やりがいを持って仕事にのぞむことしかありません。  卒業させるごとに増えていく「色紙」や「感謝のことば」などを見て、徐々に安心させていくことができていくのでしょう。  大学の教職課程に欠けていることが何かは多くの方が実感できるのではないでしょうか。  蛇足ながら、都道府県の教員採用試験の倍率をいかに上げるか。  その答えも同じであるとすると、現職の教師の役割も非常に大きいものになっていきます。

*******************
昭和20年(1945年)がスタートのもの
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
○タンパク源として、ヘビ・カエル・ネズミも食用に。
○北村サヨ、山口県で天照皇大神宮教(踊る宗教)を開く。
○JIS規格スタート。
○スイスのローレックス社が、日付が瞬間的に変わる腕クロノメーターを開発。
○プレハブ住宅が登場。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

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藤田晋の成長学・教師編41 簡単な課題なら最高の評価はBどまり

 セオリー№41 部下を盛大かつ頻繁に褒めよう

 褒めることが人間の活動のエネルギーをどのくらい高める効果があるのか・・・・。

 定量的に調べることもできそうなこの話題については、「順位を基準にしたもの」「絶対的な価値をもとにしたもの」に分けて考えることが必要でしょうか。

 順位がつくと、当然1位で褒められる人はうれしいものです。3位までは「メダル獲得」圏のイメージがあるのでやはりうれしい。8位までは「入賞」のイメージでしょうか。

 20人いる集団で15位まで表彰するのもおかしな話ですが、10位までならどうか・・・。

 相対的な比較というのは線引きでいつも迷うことになります。

 教師として子どもを褒める場合には、「個人内評価」が基本でしょう。

 どこがどのように成長したのか・・・どこがどのように人から認められるようになったのか・・・・。

 そう考えると、「絶対的な価値」について、基準を設けて評価分けするということの難しさや課題が見えてきます。

 100mを10秒で走る人と、20秒で走る人では、12秒という結果になったときに行う「評価」は変わってくるでしょう。

 「のびしろ」を用意しておかない評価というものにも問題性を感じます。

 課題によってAのレベルが変わるというのもおかしい。

 簡単な課題については、どんなにがんばっても「B」どまりになることが望ましいと思われることはありませんか?

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藤田晋の成長学・教師編40 お付き合いと未来の展望

 セオリー№40 接待・会食を侮ってはいけない

 アルコールが飲めないという事情で、個人的には、書き飛ばしたい項目ですが、教師のために一言。

 「お付き合い」というのは、「本音では一緒にいたくはないが、一緒にいないというのもまずいにで、一緒にいる」というニュアンスで使われる言葉です。

 あるいは、「プライベートなら絶対ごめんだが、仕事だから一緒にいる」という感じでしょうか。

 「一緒にいたくない」というのが直接的に伝わってしまっては、「お付き合いしない」より具合が悪いので、「お付き合いする」ときは悩むものです。

 こういうとき、もし自分の立場が年下だったとしたら、もう「あきらめる」しかないのか・・・。

 私の解決イメージは、「自分が逆の立場だったら・・・数年後か十数年後、自分のような人間を相手に会食などをするとき、自分はどのように振る舞っているのだろう・・・困っている相手の立場を考えているだろうか・・・」という想像をめぐらすというものです。

 そう考えると案外、「お付き合い」から学べること、築ける関係、深める交流などがあるのではないか・・・と思えるようになるのでは?

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藤田晋の成長学・教師編39 生徒指導の手抜き

 セオリー№39 交渉で“褒め殺し”は怪しまれるだけ

 会話中にやたらとうなずく人を怪しめ・・・これは「褒められ病」の人たちには理解しがたい教訓かもしれません。

 「常に認めてもらっていないと気がすまない」子どもや大人が増えたのはなぜでしょうか。

 それは「罠にはまる」自分が面白いからでしょうか・・・?

 教師の中で、子どもの言うことを「受容的に聞こう」として・・・というかそういうジェスチャーを子どもに示そうとする目的で、やたらにうなずく人がいますが、鋭い子どもなら、すぐに見抜いてしまいます。

 「この先生、その場がよければそれでいいのだな・・・」

 意味のない「ご機嫌取り」のうなずきは、「打算的」というより、「手抜き」であるというのが藤田社長の考え方です。

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家庭が稼停・過低・下底に・・・ ふり返り366日【08/8/3】/昭和20年に禁止されたもの

 社会を覆う大きな「望ましいとは思えない」空気とは何でしょうか。

 「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」と考える人が、とても多くなっているようです。

 根拠とセットで調査してほしいものですが、そうではないので理由や背景は憶測でしか語れません。

 子どもがいる家庭は「稼停」。稼ぎが停滞するから?

 子どもがいる家庭は「過低」。過去最低の「暗い未来」しか見えないから?

 子どもがいる家庭は「下底」。教育費がかかり、もともと収入が低ければ、苦しい生活になるのが目に見えているから?

 子どもがいる家庭には、幸せの「過程」が味わえるのに・・・。

08/8/3 「弱さ」が最強の「武器」になる社会  「守り」ではなく「攻め」の精神科医・・・と区別することがあるとしたら、その代表として、中嶋聡(『「心の傷」は言ったもん勝ち』新潮新書の著者)、香山リカ(『うつ病が日本を滅ぼす!?』創出版の著者)の二人が挙げられると思います(たまたまその2冊の本を読んだというだけの理由ですが)。  2冊の書名からも明らかなように、二人が危惧している社会への共通の問題意識があります。  香山リカは、  
今の30代、40代が『われもわれも』とばかりに“心の病気”を訴え始めているように見える。そして、この状態が続くと、どこかで企業のモラルや社員の士気が一挙に崩壊し、それが社会にも深刻な影響を与えるのではないか、と半ば本気に思っているのだ。
   
自尊心が強く自分幻想も大きく、他人からの評価には傷つきやすく、落ち込んだかと思うと時には攻撃的になることもある人たちが、ちょっとした挫折をきっかけとして、少し耐えて乗り越えようとすることもなく、次々と「私、うつ病です」と戦線離脱していくと、会社も役所もそのうち成り立たなくなるのではないか。 (以上、「あとがきにかえて」から抜粋)
   中嶋聡は、  
人一倍努力して、少しでも自分を向上させる。そしてその結果、少しでも世の中の役に立つような仕事をする。そのことの価値を疑う人は、ほとんどいませんでした。しかし現在では、そのような考え方は、ださく、格好悪いことのように受けとめる人が多いようです。
 
被害者の立場の極端化を許しうるような、ある共通の構造があることを指摘しています。そしてそのような構造にもとづいて、訴えさせすれば被害者の主張がそのまま認められ、加害者とされた人が一方的に断罪されてしまう現代社会のありかたを、「被害者帝国主義」と名づけました。  「時代が変わった」と人はよく言います。それは、仕方のないことなのでしょうか。変わってしまった価値観は、すべて受け入れ、適応していかなくてはならないものなのでしょうか。 (以上、「はじめに」から抜粋)
 昔なら「弱い」立場だった人が、これからは、その「弱さ」を武器とすることで「最強」の存在になってしまう。  香山リカが当惑している最近のうつ病患者は、かつては考えることができないほどある意味ではタフで、強い自己愛や万能感をもった人たちだそうです。  企業のジレンマは、「弱い」人を守るためには、競争力の低下は絶対に避けなければならない。しかし、「弱さ」を容認すると、競争力が低下し、「弱い」人を守れなくなる・・・。  ある経営者は、「ゆっくり休みながらやりなさい」と言うと、若者は本当に休んでしまうので、最近はあえて「とにかく辛抱してがんばりなさい」と言うことにしているそうです。  しかし、「しっかりしろ」「がんばれ」はうつ病の人への禁句になっている・・・。  香山リカの場合は、自分は「戦後民主主義教育」と「80年代的サブカルチャー」をよりどころとする人間だと言っています。  「80年代原理主義者」とよばれて批判された経験がある彼女の価値観とは、
自由、平等、反権力が何より重要 オトナよりコドモ 強いものより弱いもの 金儲けより人助け 多数派より少数派 構築より解体 管理より自律 整理より混沌 体系的より散発的
などというもので、「ああ自分にもあてはまる」という人も多いでしょう。  その香山リカの違和感を、どう捉えたらいいのか。    中嶋聡の場合は、「被害者帝国主義」という造語からもわかるように、やや過激です。  「タイミングのよい体罰は容認する」という、「○×式」ではない、あいまいな部分を残すことに重きをおこうとしていることに特徴がありますが、反発される方も多いでしょう。  私が二人に注目したのは、自分も感じている近年の「問題行動」や「家庭の対応」の質の変化の問題を考えるヒントになると考えたからです。  「ギャンブル依存症は病気なんだから!」と非常に強い態度に出る人。こういう保護者への対応はどのようにしたらいいのか。  「~のせい」にする能力が非常に高まっている生徒。なかなか納得させられないで困るケースもありました。  時間をおいて少し考えてみようと思います。

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昭和20年に廃止・中止・禁止されたもの。
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 ○警官の夏の白服は敵機の目標になるということで、夏の盛りでも黒服に。
 ○GHQ,チャンバラ映画を軍国主義的として上映禁止に。
 ○国史、修身、地理の授業を停止。
 ○学校での神道教育を禁止。
 ○弁当を持参できない子どもが続出し、午後の授業は中止に。
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繰り返される世代的特徴? ふり返り366日【08/8/2-2】/昭和20年のブーム

 すべての子どもに同じように成長のチャンスを与えたい・・・・。

 親の立場ではなかなかこういう発想はできないのかもしれません。
 「自分の子どもに不利」という情報には非常に敏感でしょうが。
 あるいは「自分の子どもだけに有利」という情報。

 うまくそのあたりの気持ちをくすぐりながら、子どもを勧誘する教育産業。

 親は、自分が「不利だった」という記憶を深いところで抱いていて、その「借りを返そう」としているのか・・・。

 時代のサイクルのまわり方として、「繰り返される世代的特徴がある」という仮説は検証できるでしょうか。

 今、学校での暴力事件が増えているようですが、ちょうど今の親の世代も同じでしたね。

08/8/2 歴史は繰り返すのか?  岡潔の『春風夏雨』の中の一節です。
ここに一人の非行少年があると思ってほしい。これを治すことがどんなにむずかしくても、治せるかどうかわからなくても、ぜひ治さなければならない。めいめいが勝手なまねをしてよいというのではなく、だれ一人として踏みにじられることのないようにというのが民主主義の本義なのだから。  なるべく親たちと先生たちの手で治してほしい。一人を治してみて、どんなに治しにくいか、実際にわかったら、そして人々がそれを聞き知ったら、それを重ねていくうちに、だんだんいまのように心を軽視しないようになるだろう。
 ・・・童心の時期の家庭的環境に起因する非行少年に対しては、人の持つ最高のものである愛と誠実を以て、長期間にわたって接し続けるほかないのではなかろうか。・・・心の病は肉体の病よりも遙かに治しにくいと昔からいわれており、もし本当に病んでしまっていたら、・・・絶えざる細心の注意と、強靱な意志を以て、長期間にわたって徐々に治してゆくほかなかろうと思われる。また、これは癖であって、癖はもう治ったかと思っていると、またしても出る。そしてその頻度がだんだん減っていって治ってゆくというものなのだから、・・・
 もし教える内容量の多い「詰め込み教育」が子どもの非行や問題行動に強い影響を与えていたとしたら、移行期以後、量が増えるこれからの学習指導要領下では、またこれらの問題が頻発することになるでしょう。  ちょうど、校内暴力がピークだったころの人たちが、学齢期の保護者になっています。  加害者になってしまった親、被害者だった経験がある親、嵐が過ぎるのをじっと耐えていた親、・・・さまざまな立場の親が、今の子どもたちを家庭で守っているわけです。  当時と今では学校環境のどこが最も異なっているかというと、当時は大量採用の教師たちが若手だった。そして今は、教師の高年齢化が進んでいる。当時の若手の先生方は、あと数年で現場を去ろうとしている。  体罰は即、処分につながる可能性が高くなっている。  子どもの数はかなり減少している。  当時はインターネットもなかった。  コンピュータも普及していなかった。  では社会は・・・  環境の変化をどう評価するかは、また何年かたってからでないと難しいかもしれません。  しかし、当時よりも10年先が読みにくくなっていることは確かかもしれない。  犬の寿命が人間の7分の1くらいであることから、変化の激しい社会で使われる言葉に「ドッグイヤー」があります。  梅田望夫が書いていた記事によると、インターネットのサービスの黎明期から現在まで、ドッグイヤーではちょうど100年がたとうとしている、ということでした。  この間に、教育の何がどのように変わったのでしょう。  何をどれだけ残し、何をどれだけ削ったり増やしたりして、どんな新しい課題に取り組めばよいのでしょう。  社会の大きな変化への対応力、がキーワードになっています。

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昭和20年(1945年)のブーム・流行・流行語
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○東京・大塚で鉄兜を鍋に変える町工場が大繁盛。1個11円。
○『日米会話手帖』(誠文堂新光社)が発行され、400万部の大ベストセラーに。
○天然痘・発疹チフスが全国に蔓延。
○来日したアメリカ人女性の真似をして、口紅の化粧がはやる。ネックレス・ブローチ・ブレスレットなども普及。
○東京・日本橋の三越で、座り机(46円)や食卓(180円)が飛ぶように売れる。
★流行語「本土決戦」「一億玉砕」「ピカドン」「一億総懺悔」
    「進駐軍」「ギブ・ミー・チョコレート」「結婚とは何ぞや」
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やめるとなぜやる気が出るのか?

 「当事者」でなくなると、急に生き生きし出す習性のおこりはどのへんにあるのでしょうか。

 一度、立場を離れると、いろんなことが見えてくる・・・・それなら、立場についているうちに、そういう目で見ることができないのか・・・・と考えてしまいますが、きっと、「立場から離れられない何か」があるのでしょう。

 自分は、「教えるのが好き」なのか、「自分で学ぶのが好き」なのか、どっちか迷うことがありますが、おそらく両方好きなのでしょう。

 ただ、引退するまで嫌で嫌で仕方がなかった運動部の練習を、引退した後で手伝うことは本当におもしろかった。まだ、自分でやりたい気持ちもある(・・・・から地域ではやっている?)けれど、その場に近づいていくにつれて高まる「やる気」は引退前には考えられないものでした。

 不思議なものです。

 教師を退職した後にも、そんな気持ちは高まるのでしょうか・・・。ちなみに私の祖母は元高校教師で、退職後も自宅を塾にして長く「現役」でした。

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