2008/07/04

子どもが自らつかむ道徳的価値とは?

 コメント欄で回答した内容を記事として整理する前に、madographosさんといちろうさんから新たなコメントをいただきましたので、コメントはそのままとして、ここにその内容を加筆・修正しつつ、ご指摘への回答をさせていただきたいと思います。
 私の記事は、「リーダーを育成する学校と教師」です。
 この内容について、madographosさんから、「自分より実力のある人間とつき合いなさい」という指導には論理矛盾があり、

「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい。誰でも自分より優れた面をもっているものです。その優れた面を認め合い,学び合う関係をつくっていきなさい」とでも,指導した方が矛盾がない

というご感想をいただきました。
 madographosさんのお考えは、道徳の副読本や「心のノート」に書かれているような、ごくごく当たり前の指導言ですね。これに反対する人は一人もいないと思います。
 しかし、そう教師に言われた子どもが、みんなそのように学び合う関係をつくっていけるか
 それができたらmadographosさんのおっしゃるように、「教育改革」なんて必要ありませんよね。
 教師は、「道徳で教えたでしょ!その通りにしなさい」などとは言わないでしょうが、そんな感覚を抱く人は少なくないと思います。
 子どもは、大人の「ごく当たり前の指導言」に出くわすと、何と思うか。
 「きれいごとばかり言って!」「大人のあなたはそういう関係がつくれているのですか?」
 道徳の授業が苦手な教師が多く、道徳の時間がくるのが待ち遠しいという生徒が少ない理由は、教師でなくても考えればわかることですよね。
 ポイントは、子ども自らが道徳的価値に気付けるような指導となっているかどうか。
 道徳の成否は、ごく当たり前の、常識的なことをわざとらしく答えなければならない授業ではなくて、それが「自ら学んだ」「自分で獲得した」価値となったかどうかにかかっています。
 そこで、ご指摘いただいた疑問へのお答えです。
 なぜ「自分より実力のある人間とつき合いなさい」などと教師が言うのか。
 子どもたちにも、必ず考えてもらいたい問いなのです。
 本当に素直にこの言葉を受け取って、じっくりと人間観察を始める子どももいます。
 なぜ「誰とでも分け隔てなくつきあいなさい」という当たり前のことを言わないのか。そこに疑問や興味を感じる子どももいます。
 とりあえず、「自分より実力のある人間とつき合う」努力をしてみると、どんなことがわかるのか。
 自分は、「実力」を固定的にとらえていないか。
 勉強のできる子ばかりを探そうとしていないか。
 その幅の広がりに目が向いているか。
 自分は豊かな人間観・友人観をもっているか。 
 子どもたちは、さまざまなことを気付かされるのです。
 生徒たちに限らず、大人でも、自分より優れたものをもっている人とのつきあい方が上手でないために、損している人はたくさんいます。
 環境自体が誰とでも分け隔てなく活動するようなシステムになっている私の学校では、子どもに強調する第一点が、「長所を学び、盗んでいこう」ということになります。
 わざわざ、「あなたの長所をまねしたいのですが、いいですか」などと、断る必要はありません。
 どんどん盗んでいいのです。
 発表するとき、たとえや図を使いながら説明すると意味が伝わりやすいんだな。
 発言するときは、先生の方ではなく、教室の中央に向かって話すという方法もあるんだな。
 みんなの注目を集めるときは、ちょっとだけでもジェスチャーを入れるのが効果的なんだな。
 友達の失敗のフォローって、こうすると相手が傷つかないですむんだな。
 先生に質問するときは、あらかじめこういうメモをつくっておくといいんだな。
 テストで出そうな内容を質問するときのポイントはこれだな。
 この人のノートは見やすいっていうけど、ポイントはこのスペースの使い方なんだな。
 この人の話し方は、なんだか安心感を相手に与える。そのこつは笑顔とタイミングのいいうなずきかな。
 ・・・「学び慣れ」していくと、加速度的に長所が盗めるようになっていきます
 そして、最も「学び上手」の生徒が、よきリーダーとして育っていきます。
 さらに、「学び方」がわかってくると、それを他の生徒に教えることも得意になってきます。
 「気の合う」友達づきあいというのは、黙っていても子どもは勝手に始めるものですし、その中ですでに「学び合い」をしているかもしれません。
 また、「つきあい」には、メル友になるようなレベルのものもあるでしょうが、班、係、委員会、部活動、当番活動・・・など、子どもたちには「つきあい」だらけの毎日を過ごします。
 ただ、惰性のつきあいをしていると、子どもの中には、相手の欠点ばかりに目がいって、ときにはそれを攻撃の材料にしたり、自分と共通した欠点を互いに慰め合う材料にしたりするものです。
 いじめ問題も、多くの場合、「相手より優位に立ちたい(立ち続けたい)」という願望が引き起こしていると私は考えています。
 ですからあえて教師の側では、「力のある生徒とつきあおう」というわけです。
 自尊心が高すぎる生徒にはその鼻の高さを調整する指導を入れることがありますし、理想が高すぎて自己肯定感が弱い生徒には、友だちからのはたらきかけによってその感覚を高めさせる指導を入れることもあります。
 「長所に目を向けさせる」教育。
 子どもによっては、それが短所への攻撃性を高める原因になっているとお感じかもしれませんが、もし実際の攻撃があったときこそ、その生徒への「人間教育」の指導の糸口になるのです。
 人間が対等であるとか、敬意をはらうべき対象であるということは、子どもたちが道徳的実践の中で自ら気付いていくものです。「そういうものなんだから・・・」では、子どもを変えることはできません。
 「そんな言い方、おかしんじゃないか?」という興味・関心をひくことができただけでも、このような指導法の効果を実感していただけるのではないでしょうか。
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2008/07/03

総則の冒頭に改訂のエッセンスがあります

 教育制度改革についての具体的な提言をするわけでもなく、ただ現行の学習指導要領等に対する不満(批判ではない?)が述べられている記事が散見されますが、このこと自体が、現在の学校教育が抱えている大きな問題の顕著な傾向であると考えられます。
 教育課程編成の大原則を理解せずに(下手をすると自分の学校の教育課程も知らずに)、そしてその内容への批判や自己評価をせずに、現在そして近未来の学校教育の課題を語ることに意味はあるのでしょうか。
 現行の学習指導要領の総則の1「教育課程編成の一般方針」では、「学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、生徒に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに、基礎的・基本的な内容の確実な定着を図り、個性を生かす教育の充実に努めなければならない」とありました。
 ところが、「自ら学び自ら考える力の育成」の具現化が十分に図れなかったばかりか、内容を減らした基礎的・基本的な内容も確実に定着させられないことが明らかになったため、「自ら学び・・・」の部分が、以下のように改訂されるようになりました。
 ・・・創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で、基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむとともに、主体的に学習に取り組む姿勢を養い、個性を生かす教育の充実に・・・
 「定着」が「習得」に、「自ら学び自ら考える力」が「基礎的・基本的な知識及び技能を活用して課題を解決する力」=「思考力、判断力、表現力その他の能力」、「主体的に学習に取り組む態度」となり、
 さらに、
 「生徒の発達の段階を考慮して、生徒の言語活動を充実するとともに、家庭との連携を図りながら、生徒の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない」
という文言が加えられました。キーワードは、「言語活動」の充実と「学習習慣」の確立です。
 学習指導要領総則の「教育課程編成の一般方針」の第一に掲げられたこの内容については、学校だけではなく、家庭にも周知されるよう、文部科学省及び各教育委員会、学校は努力すべきであることは言うまでもありません。
 「習得」と「活用」への理解に関する課題は、これまでも記事にしてきましたが、また後日ふれることがあると思います。
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「しつけの問題」?・・・子どもの行動を左右するものとは

 はるえもんさんのブログで、「しつけの問題」って言われても・・・(1)という記事がUPされていたので、その趣旨を受けつつ、以下のようなコメントさせていただきました。

はじめまして。
私は小学生と赤ん坊の父親で、教師です。
教師による教育ブログでも、このような発言(「しつけの問題」)が散見されますよね。
教師が「親の」しつけの問題、親が「教師の」指導力の問題として子どもの課題を捉えてしまえば、「教育」という行為はそこに生まれません。
問題は、親が自分のしつけの問題、教師も自分の指導力の問題だと気付いたときに、この親と教師にはどのような会話が成り立つのかということです。
私が実際に経験した三者面談で、保護者と私が互いに謝り合うという場面がありました。
間に入った子どもの表情は、うれしいような、恥ずかしいような、微妙なものでしたが、両者が自分のことに責任を感じて教育してくれているんだなあということを肌で実感してくれたのでしょう。
ある時期まで「手がつけられなかった」子どもは、「生まれ変わった」「見違える」ように頼もしく成長していきました。
保護者として、教師として、今後もそういう関係づくりをしていきたいと考えています。

 私が接してきた子どもの場合は、親や教師のはたらきかけよりも、小さい頃からの友達関係、交友関係によって、その行動がかなり大きく左右されているようでした。
 本当に荒れて荒れて仕方がなかった男子も、ちょっと優等生っぽい彼女ができてからは、何だかお行儀よくなってみたり。
 そこでもともとリーダー性の高かったその女子生徒を学年のまとめ役として鍛え上げ、「教師の指示は聞けなくても、○○さんの言うことなら聞く」という環境の中で、(直接的には見えない教師の働きかけで)本来中学生が学んでいくべきことを積み上げていった経験がありました。
 要は、「○○の問題」として片づけずに、「自分なら何ができるか」「自分以外のだれならうまくいくか」を考え抜いていく習慣が必要だということでしょう。
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2008/07/02

教育ブログでのスタンス

 「強き」リーダーを鍛え抜いている場面を見られ、「どうしてそこまで厳しくするの」と問われることがあります。
 私が厳しく指導するポイントはその生徒が自信をもっており、その部分をよりピカピカに磨いていこうとするときに行うことです。
 リーダーの中にもある弱い部分には、しっかり寄り添って自信に変える指導を行うようにしています。
 ただ、それぞれの指導にはタイムラグがあるので、「教師間の協力的指導」というのが威力を発揮するわけです。
 強さと弱さが同居しているのが人間であり、子どもならそのアンバランスさが心の不安定さも招いています。
 「弱い」部分を支えることに注力しすぎたために、いつも手助けを必要としてしまうような依存心の強い子どもが生まれるのだという批判を私も受けたことがありました。
 「強い」部分には度合いに応じた適当な刺激を
 これが私のモットーであり、教育ブログの中でのスタンスでもあります。
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歴史学習における名脇役と主役

 特定の課題の調査結果から、「主に学習過程でより強い印象をもった歴史的事象に引きつけられたこと」による習得場面での失敗が指摘されています。
 ある教科の1時間の授業で学べたことを家に帰って一言で表現させると、社会科などは、教師の雑談や脱線した内容しか覚えておらず、肝心の「習得すべき内容」がおろそかになっているのがわかることがよくあります。
 ここで大切なのはノートなのですが、ノート指導ができない小学校教師が担任になってしまっていたらもうおしまいです。
 小学校の教師は、子どもに「あきさせない」ために、さまざまな工夫をしてくれることがあるのですが、それが導入にとどまらず、主要な展開部分でも余計な話が入ることがあるため、学習内容に焦点があたらず、子どもも何が大切なのか、何をこの授業で学ぶべきだったのかがわからず、ピンぼけのまま終わってしまうことが多いのです。
 もちろん「話術」で子どもを引きつける中学校の社会科教師にも似たようなことが言えるでしょう。
 しかし、さすがに中学校ではノートをとらずに授業が終わるということはめったにないので、最低限、どのような用語が理解できていればいいのか、どのような概念がわかっていればいいのかが一目で復習できるようなしくみになっています。
 特定の課題の調査結果では、中学校の歴史的分野で、「関係図にまとめる学習を行っている生徒は正答率が高い傾向がある」ことが明らかになりました。これは、教師の指導の有無による影響が多いことは言うまでもないでしょう。
 関係図では、丸や四角、矢印の意味を明確にしておかないとかえって誤解を生む場合もありますが、それが書かれて初めて理解できるような内容もあるわけです。
 話を元に戻しますが、歴史学習では、非常に印象深い場面、絵画資料、エピソードなどが豊富にあります。
 それらを学習の主役ではなく、「特別出演」「友情出演」のような扱いにし、習得すべき学習内容の名脇役として子どもに認識させるような指導が求められているのだと言えます。
 もちろん、小学校段階では、「歴史的事象に興味・関心をもてるようになること」だけでも十分な気もしますが、学習指導要領に示された内容を重点的に指導し、簡単に子どもに説明させられるような授業を展開してほしいと思います。
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特定の課題に関する調査(社会)結果が公表されています

 国立教育政策研究所から、「特定の課題に関する調査(社会)」結果が公開されています。
 この調査は、
①社会科における基礎・基本となる知識・概念
②問題解決的な学習
に焦点を当てた調査を実施したもので、ペーパーテストの結果と学習に対する意識や学校における指導の実際等に関する質問紙調査の結果との関連も考察しています。
 学習指導要領の解説も出されてきますので、指導の改善に役立てる資料と捉えるならよいタイミングでしょう。
 基礎・基本に関する調査結果では、たとえば、中学校の歴史的分野の場合、正解率が高かった(80%以上)ものには、次の3つの特徴が挙げられています。
1.時代の転換にかかわる歴史的事象・・・鎌倉幕府太平洋戦争など。
2.用語から内容が推察されやすいもの・・・刀狩廃藩置県富国強兵世界恐慌冷戦など。
3.歴史的事象が視覚的にとらえやすいもの・・・甲骨文字古墳東大寺南大門の金剛力士像など。
 一方、正解率が低かった(60%以下)ものは、
1.主に語意や概念が似ている誤答と混同したと考えられるもの・・・国際連合に対する誤答は国際連盟
2.主に時期が接近している歴史的事象同士で、歴史の流れや内容の理解が不十分であるために混同したと考えられるもの・・・サンフランシスコ平和条約に対する誤答は日米安全保障条約
3.主に学習過程でより強い印象をもった歴史的事象に引きつけられたと考えられるもの・・・大和朝廷に対する誤答は邪馬台国
4.主に覚え間違いや曖昧なままの理解を続けていると考えられるもの・・・○世紀の意味。
などの特徴が指摘されています。
 質問紙調査からは、教師の指導方法によって子どもの理解度への影響が見られる内容があり、このような調査結果が現場の教師までわかりやすく伝えられる手段というのも求められていると考えられます。
 ちょっと読み続けるにはしんどいページ数がありますが、「ポイント」でおおまかな内容は判断できそうです。
 指導上の改善に役立てる内容もごくわずかですから、参考にしていただきたいと思います。
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2008/07/01

リーダーを育成する学校と教師

 「自分より実力のある人間とつき合いなさい
 このことは、「生徒から学ぶ生徒」「生徒が生徒を育てる学校」という伝統がある私の勤務校では、昔から教師が口を酸っぱくして生徒に語りかけてきた言葉です。
 この「力」というのは、もちろん「学力」だけとは限りません。たとえ一言で「学力」と言っても、それがさす「力」は非常に広がりがあるものです。
 あえて誤解を避けるように言えば、「自分より個性の豊かな人間とつき合いなさい」という表現になるでしょうか。
 「実力」「個性」とは、たとえば包容力なんてものもあっていいし、忍耐力、協調性、雑学博士、運動センス、・・・さまざまな「力」が子どもたちには備わっており、また、伸ばしていっているのです。
 人は、自分が優越感を感じられるように、自分と同等か、似たようなタイプ、自分が優位に立てる自信があるようなタイプの人間とは容易につき合うことができます。
 しかし、自分より優れていると見えてしまう人で、自分が下に見られそうだなと思ってしまうと、自分から近づいていくことは難しくなる。人が人から学ぶというのは、言うのは簡単でも、実際には難しいものです。
 自治のさかんな学校というのは、そういう場面がたくさんできるよう、あらかじめプログラムされているというか、代々そういう経験ができるようなしくみができあがっています。
 学校が「リーダー育成」を声高に目標に掲げると、「格差拡大を目論むつもりか!」という反論が出てきそうですが、子どもにリーダーシップが備わると、たとえば危険な行動をとっている仲間に対して、子どもの側から「危ないぞ!」「そんなことはやめろ!」という注意が促されるものです。
 単純な一例ですが、リーダーがそういう態度に出たとき、「おまえは教師の犬か!」などと非難されるような学級経営をしているようでは、具体的な対案も出さずに世の中を批判することしかできない人間ばかりが増えてしまうことでしょう。
 「子どもにそんな責任感をもたせる必要があるのか」と問われると、教師の力量に多大な疑問を抱えている私などにとっては、「あるどころの話ではない。それが学校を救えるかもしれない」とまで言い切ってしまいます。
 以前に若干ふれた、「学校再建」「学校正常化」の最大のコツは、そこにありました。教師の力ももちろん必要でしたが、生徒が生徒を救ったのです。
 公立中学校にいたときは、「学級委員ができるレベルの生徒が少なくなった」という嘆きをよく耳にしました。
 こういうとき、即、「学級委員が育てられる教師が少なくなった」と読み替えられるかどうか。
 公立中学校のピンチの背景として、子どもと教師、どちらに大きな比重をおくか。
 私のスタンスは、これをあくまでも教師におくという前提で考えをまとめていくというものです。
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小学校学習指導要領解説が公開されています

 「少人数指導」というのは通称で、学習指導要領では「グループ別指導」とよんでいる指導のことです。
 「少人数」と言ってしまうと、それは何人以下の指導のことなのか、などと説明しなければならないのを避けるためでしょう。
 それは相対的な見方もできて、児童・生徒数が少ない学校で、学年に数人しかいない場合、40人学級から見れば常に少人数に見えてしまう学習集団が「グループ別指導」を行おうとすれば、3人と4人に分けたりすることができます。
 小学校学習指導要領総則で「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」の一つとして示されている「指導方法や指導体制の工夫改善など個に応じた指導の充実」については、現行と改訂版にほとんど変化はありません。(「教師」→「教師間」だけかな?)
 引用すると、以下の通りです。

 各教科等の指導に当たっては、児童が学習内容を確実に身に付けることができるよう、学校や児童の実態に応じ、個別指導やグループ別指導、繰り返し指導、学習内容の習熟の程度に応じた指導、児童の興味・関心等に応じた課題学習、補充的な学習や発展的な学習などの学習活動を取り入れた指導、教師間の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善し、個に応じた指導の充実を図ること。

 本日、文部科学省のHPに、小学校学習指導要領の解説がUPされました。
 よたよたあひるさんもふれている、「少人数指導」への配慮事項として、解説には以下のような内容があります。
 
こうした指導方法の工夫はすべての児童に対応するものであるが,学習の遅れがちな児童には特に配慮する必要がある。

 各学校で学習内容の習熟の程度に応じた指導を実施する際には,児童に優越感や劣等感を生じさせたり,学習集団による学習内容の分化が長期化・固定化するなどして学習意欲を低下させたりすることのないように十分留意する必要がある。また,学習集団の編成の際は,教師が一方的に児童を割り振るのではなく,児童の興味・関心等に配慮し,自分で課題や集団を選ぶことができるよう配慮することも重要である。その際,児童が自分の能力・適性に全く合致しない課題や集団を選ぶようであれば,教師は適切な助言を行うなどの工夫を行うことが大切である。
 また,保護者に対しては,指導内容・指導方法の工夫改善等を示した指導計画,期待される学習の充実に係る効果,導入の理由等を事前に説明するなどの配慮が望まれる。


 一般の方は学習指導要領の解説までは読まれないと思いますが、小中学校の教師でも、「総合的な学習の時間」の担当者以外で、総則の解説を読み込んでいる人はきっと少ないでしょう。
 各学校は独自の「教育課程」を編成しなければならないのですが、学習指導要領をしっかり読み込んでいかないと、教育委員会が受理するときにつっこまれた質問をされて答えられなくなってしまいます。
 受理する時、指導主事は、解説までしっかり読み込んでおかないと、つっこんだ質問ができません。
 学校が教育課程を編成するとき、教務主任や副校長だけが練るのではなく、学年や研究部の教師の意見がどれだけ反映できる仕組みになっているかが問われなければなりません。
 解説の以下の部分を知らないということにならないよう、徹底してほしいものです。
 かなりつっこんだ学校の指導体制のあり方を述べています。もちろん法改正の趣旨をふまえた内容です。
 昔からしっかりやってこれている伝統があるところは慌てる必要はないのですが。
 指導体制の工夫改善を進める上で校長の果たす役割は大きいので,校長は指導力を発揮して,指導体制の活性化を図るよう努めることが必要である。また,校長や副校長,教頭が授業の指導を行ったり参加したり,学習指導について経験豊かな指導教諭などの教師が他の学級の授業を支援したりするなど,様々な工夫をすること
が求められる。さらに,指導案の作成,授業研究などを学年会や教科部会,学校全体などで行い,広く意見を交わし合い,教師間で情報の共有を図るような機会を設けたり,それぞれの役割分担を明確にすることも,より効果的な指導を行うためには大切である。なお,教師が教材研究,指導の打合せ,地域との連絡調整などに充てる時間を可能な限り確保できるよう,会議の持ち方や時間割の工夫など時間の効果的・効率的な利用等に配慮することも重要であろう。

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2008/06/30

少人数指導のあり方にも注意と関心を!

 よたよたあひるさんの記事へコメントさせていただたことなのですが、小学校における少人数指導の問題点を保護者の立場からも指摘しておきたいと思います。
 転落事故がおこった小学校ではどうだったかわかりませんが、2学級を3グループに分けるような算数の少人数指導を行う場合、当然担任外の教師が指導に加わることになります。
 新聞発表では、「担任教諭」ではなく「女性教諭(なぜ「女性」「男性」と断る習慣があるのかよくわかりませんが)」と表現されているので、もしや、と思いました。
 私が授業観察させていただいた学校だけでなく、子どもの通う学校にも、児童の能力・性格・行動の特性はおろか名前までわからずに「一斉指導」形式の授業をしている教師がいました。
 当然指導主事の時代には指摘せざるを得ないケースでした(これは、学校の教育課程で示していることと反することになり、校長の責任で改善してもらうべき重要な点だからです)。
 「少人数指導」というのは、少なくとも「一人一人の児童・生徒にきめの細かい指導を実施する」ことが目的であり、それができて、子どもの能力が高まることが最大のメリットなのですが、40人のときと変わらない指導では意味がないのです。それどころか、名前やクラスまで覚えていないというのは大問題です。
 今回の事故を通しては、このような指導のあり方にも目を向ける必要があるかもしれません。
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反響の大きかった記事のコメントについて

 すずめ先生のブログへのコメントが反映されず、自分が書いたことが消えてしまったので、若干表現が変わってしまうかもしれませんが、こちらで発表したいと思います。少し加筆もしています。
 コメントを入れたのは、すずめ先生の「お騒がせしてすみません」という題の記事で、この件については私が多大な責任を負っており、その件についてお詫び申し上げるとともに、よりよい教育をつくりあげるために今後も何をすべきかを追求していきたいという趣旨のものでした。
 教育ブログの住人(ブロガー)というのは、程度の差こそあれ、だれもがこの国の教育のあり方、子どもの将来について心配ごとや課題意識があり、今自分が何をしているか、何をすべきか、何が求められているのか、理想の教育とは何かなどについて、高い関心をお持ちの方々だと思います。
 私のように、堂々と傲慢にも「教育は、教師は、どうあるべきか」と主張する人間もいれば、すずめ先生のように慎み深く、謙虚に記事を発表される方もいるのが、多様性を認め合う教育ブログらしさだと考えています。
 どちらかというと私が保護者や子どもの視点に立って、「教師にはどうあってほしいか」(今回の死亡事故への対応、反応という点についてもそういう視点でした)ということを中心に追求しているのに対して、すずめ先生は「教育の現場がどうなっているのか」を具体的にお示しいただいている、そんな違いがあるのでしょうか。
 決して、どの組織に入っているか、入っていないか、どのような人格の人間なのかということが問題なのではないので、立場や人間性についての批判を受けることは、だれも望んでいないし、意味がないことだと思います。
 私の学校では、頻繁に教育論議がおこっています。傍目から見ると喧嘩にしか思えないような言葉の応酬がありますが、決して相手の人格を傷付けようとする意図はなく、子どもに力を付けさせる理想の教育とは何かを渾身の力をこめて議論しあうときにあふれ出すエネルギーが、尋常ではないのです。
 そういうエネルギーが他人のブログのコメント欄にまで及んでしまったことは、お詫び申し上げなければならないことかもしれません。
 「有益でした」と言って下さる方はごく限られているのかもしれませんが、私がブログにコメントを入れさせていただくときは、そのブログから十二分に学ぶことがあり、その感謝の気持ちを込めての意見表明であることが多いです。気持ちをくんでいただける方には、本当に感謝申し上げます。
 人によっては、そのような教育へのエネルギーの向け方が、本来の目的とは違う形に流れてしまうということが、今回のブログへの反響を通してよくわかりました。
 ブログを誰にでも読める形で公開し、コメント欄を用意していても、批判的なコメントが寄せられることを極端に嫌がる方、そのようなコメントに対して、過剰に反応して反論される方、批判的なコメントに対してコメント欄で反論をされる読者、ブロガーを擁護するために批判される読者、その擁護を喜々として受け入れるブロガー、批判に正対し、自己の正当性を論理的に説明しようとするブロガー・・・この世の中に、「無益なつきあい」というのは究極的にはないと考えていますので、感情ではなくあくまでも論理にこだわっている場合には、ブロガーや読者と関係を切るようなことは避けたいと思います。
 今、教育現場は、教育基本法、学校教育法が改正された後の新しい学習指導要領が発表され、間もなく「解説」が公開されることで、移行期間を経ての新しい教科書に基づくさまざまな指導内容、指導方法、指導計画等を構想すべきタイミングにあります。
 もっと目の前のことで解決すべき課題、こなさなければならない業務も山ほどあるのですが、どの仕事も、すべて「子どもに本物の力をつけさせられるかどうか」にかかっているので、手を抜くことは許されません。
 プロの教師は、こういうことを、子どもに「そういう重責に追いまくられている忙しそうな存在」と感じさせず、いつでも余裕とゆとりがあるように思わせなければならないという存在でもあります。
 決して、言論の場と指導の場を混同されないよう
 このことは、「評論家になるな、実践家であれ」という教訓を受け継いでいる学校の教師だけでなく、どの世界の人にも共通して認識していただきたい原則であります。
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2008/06/29

豊富なメニュー【「朝令暮改の発想」その2】

 教師の逆コンピテンシーにも共通する「朝令暮改の発想」のメニューは非常に豊富で、どのように料理すべきか迷うほどです。
 「時間の無駄の典型は成果に結びつかない会議と資料づくり」
 「人間は『○○』のせいにして自分が納得しやすい話をつくりたがる」
 「『○○のせい』にして責任逃れをしたときからすべては終わる」
 「『できない』という間に『できない理由』になっているか考える」
 「『なあなあ』『まあまあ』に流れたときから停滞が始まる」
 「口先だけの『評論家』をやめ、仕事のできる『実務家』になろう」
 「『真の競争相手』は同業他社ではなく『絶えず変化する顧客ニーズ』である」
 「『顧客のために』ではなく『顧客の立場』で考える」
 「『素人の強さ』をあなどってはならない」
 「『本当にそうだろうか』と常に問い直し、ものごとの本質をつかむ」
 「目的と手段をはき違えてはならない」
 「『基本の徹底』ができないと『変化対応』もできない」
 「部下は『常に自己正当化する存在』だから追い詰めることも必要」
 「上司はいざというときは部下にかわって『答え』を出さなければならない」
 「『悪い情報は知りたくない』と思う人間には真実はつかめない」
 「人は『変えること』に抵抗をする」
 「『自分を守ろうとする心理』に妥協しない」
 厳しく教育現場を見つめ直してみたいと思います。
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逆風のときに問われる力量【「朝令暮改の発想」より(その1)】

 私はこれまで、企業経営者の本を読んでも、あまく多くの共感を得ることはありませんでした。
 ただ、最近手にした鈴木敏文(セブン&アイ・ホールディングス代表取締役会長・CEO)著『朝令暮改の発想 ~仕事の壁を突破する95の直言~』(新潮社)には、教育失敗学にそのまま適用できる考えばかりが紹介されており、ここで取り上げる価値があると思うようになりました。
 さっと読んでこの本を購入することにしたきっかけは、「はじめに」の中で、

 チャンスをつかめるかどうかは、才能ではなく、ものの見方や、仕事の取り組み方にかかっています。世の中でいわれていることを鵜呑みにするのではなく、「なぜ、そうなのか」と常に問題意識を持ってクエスチョンを発し続け、自分で掘り下げて考える習慣を身につけることです。そうすると、日々起きるさまざまな出来事に対し、自分なりに理解力がついてきます。

 アゲンストのときこそ、取り組み方の差が大きく表れる。自分の仕事のフォームをもう一度見直す上で、この本が一つのヒントになれば、何よりの幸いです。


とあったこと。
 また、「仕事は毎日が瀬戸際」というフレーズ。
 まさに今の私は文字通り、瀬戸際です。ルーチンワークを除き、校務関係、教科関係、外部関係、合わせて約20のプロジェクトが同時進行で、常に結果が求められています。
 「人間は一度仕事でうまくいくと、その喜びの余韻にいつまでも浸ろうとする習性があること」、「仕事の中で惰性に陥る人がいること」は教師の世界でもよくあてはまり、惰性や妥協をなくさない限り、問題の解決は図れないという考えにも共感できます。
 「去年と同じ(内容、レベル、・・・意味はさまざま)でいいのでは」と言われることがありますが、それでは決して満足できません。
 冒頭のゴルフのたとえは秀逸でした。
 ゴルフでフォローからアゲンストに風が変わると、普通の人は「ついていない」と思う。
 アゲンストのときはボールの中心を打たないと、どこに飛んでいくかわからない。
 ということは、実力が結果にストレートにあらわれる。
 日ごろから熱心に練習し、正しいフォームを身につけて、技術を磨いていれば、アゲンストのときほど努力が報われ、努力を怠っていた人が出せないような成果が出せる。 
 ただ、ゴルフは競技で一緒にプレーしていた人と競うスポーツですが、教育現場はそうはいきません。
 アゲンストになるともろくも崩れ去るような弱体化した教師集団では困るのです。
 「95の直言」の中には、当たり前のこともたくさんあるのですが(その当たり前ができずに苦しむ場合も)、教師の逆コンピテンシーにかかわる部分を取り出して考えてみたいと思います。
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学習指導要領改訂による混乱とは?

 コメントをいただいた方からの要望で、記事を削除し、新たに内容を改訂してお示しいたしました。
 そのためコメントもいっしょに削除されてしまいました。ご了承ください。
 新しい学習指導要領が、かなりの期間及び相当の回数の検討を経てできあがることは、中教審の答申や教育課程部会の審議内容を読まない教師はよく知らないと思います。
 学習指導要領の各教科編には、「改訂の経緯」や「改訂の趣旨」「改善具体的事項」「改訂の要点」等が冒頭に示されています。そこを読めば、今回の改訂がなぜ行われたのかを知ることができます。
 一部に、学習指導要領の改訂が教育の混乱を招いてきたと考えている人がいますが、改訂されてもあまりその趣旨を理解せずに昔ながらの授業を実践している教師が多いのは、学習指導要領があくまでも基準を示したものだからです。
 一方で、たしかに「混乱」する部分があると言えるのは、たとえば教科書会社が、新しい学習指導要領の趣旨に沿うように新しい教科書を作らなければならないのですが、具体的にこう教えろとは学習指導要領は書いていないものですから、「どうやってつくったらいいか」と悩むわけです。編集者、執筆者の中には「混乱」している人がいるかもしれません。
 また、授業時数がかわるので、新しい時間割づくりなど、現場が苦労することはあります。
 教育政策へのスタンスは、非常に長いスパンが必要である部分と、「豊かな人間性をはぐくむべき時期の教育に様々な課題が生じている」以上、それらの「課題に適切に対応していくことが、これからの教育に求められている」こと、また、国際化、情報化、科学技術の発展、環境問題、高齢化・少子化等の様々な面における大きな変化は、10年先のことも十分に見通せないため、今後の変化を踏まえた新しい時代の教育をしっかり検討し、それを学校教育でも反映していくような短いスパンで実践すべき部分があるのは当然のことです。
 学習指導要領そのものも問い直すべきではないかという意見もありますが、たとえば今回の改訂では、いわゆる「はどめ規定」が見直されるなど、さらに学校の裁量が増え、自由な教育ができるように改善されています。
 (ただ、はどめ規定が示された現行の学習指導要領の趣旨をふまえると、内容を厳選して「これだけは身に付けさせて」ということが結局は実現できなかったため、今後は指導者や学習集団の力量による格差が拡大することは避けられないことが予想されます)
 学習指導要領の具体的な内容については、私も批判したいことはたくさんあります。ただ、もし公務員が法令に準じる学習指導要領を自主的に、そして批判的に読む習慣を失っているとすれば、公教育への信頼は失われていくばかりだと考えれます。
 (現実に、学習指導要領を読まなくても、それに準拠した教科書が作られて、文部科学省の検定で合格させている以上は、それをもとに教えれば、教育は成り立ちます。しかし、学習指導要領の改訂の趣旨を踏まえないことで、マイナスの要素が生まれることは多いと思います。)
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学習指導要領を読まない教師

 学習指導要領の趣旨を誤解している方たちがいます。
 「生きる力」とか、「新しい学力観」など、改訂に際してのキーワードの意味すら認識していない教師もたくさんいます。(なお、新しい学習指導要領は、現行の学習指導要領の理念を引き継ぎつつ、教育基本法や学校教育法の改正もふまえ、その理念の実現するための具体的な手立てを確立する観点からの改訂です。)
 「移行措置」についても、「教科書会社が資料を作ってくれるだろう」と頼り切っている教師が多いことでしょう。
 新聞などのマスコミからの情報を鵜呑みにしている教師もいます。
 学習指導要領というのは、内容の基準を示すものであって、細かな内容や教育方法については現場や地域の特色に応じた創意工夫にまかされている部分が大きいものです。
 そのため、「どうやって教えたらいいか分からない」という先生方のためにさまざまな研修が実施されています。
 私は基本的に、50年たっても教師の教え方はそれほど変化していないのではないかと考えています。
 内容の増減はあっても、20~30年前の教師と、今の教師を比べて、何がどれだけ変わったというのでしょう。
 教師はほぼ10年ごとに学習指導要領が変わって、10年区切りの世代が引退していきますが、特別リニューアルされるわけでもなく、昔のスタイルを引き継いでいる部分が多いのではないでしょうか。
 学習指導要領では、各学校がその特色に応じて工夫すべき点をたくさん示してあります。
 本当に目の前にいる子どもたちのために工夫している教師が多いのかどうか、それを問うべきときだと考えています。
 学習指導要領の改訂ごとに、現場がしっかり教育内容、教育方法についてふり返り、よかったことを引き継ぎつつ、課題があったことを改善していく。このサイクルは、「もっと短い方がいい」という意見もあるのですが、私は10年がいい区切りだと考えています。
 学習指導要領には、細かい具体的内容や方法は示されていません。それは、それを示すと国定教科書ができてしまうからです。
 現場の困惑は、よりよい指導法を編み出し、教科の専門性を磨くための産みの苦しみだと捉えています。
 私は「学び直し」「目標と内容、その構成の再検討」の機会として、積極的に改訂を捉えています。
 人から説明されるのをただ待つのではなく、具体的な質問ができるくらい読みこなせる教師が求められていると考えます。
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2008/06/28

「役」意識を喪失し始めた日本人(序)

 学校で発生する事件や事故は、ネグレクト系、虐待系の親が多いから増えている、という単純なものではないようです。
 確かにそういう親は増えているかもしれませんが、そういう親の子どもでも、学校生活だけはしっかりできている場合があります。
 それは、教師集団の力というものもあるかもしれませんが、子ども集団というものが、「いじめ」にも向かえるような強いエネルギーを「良い面」にも発揮できる力をもっているからだと考えられます。
 行事のときの子どもの姿を見ればよくわかります。
 指導力のない教師より、よほど子どもは自分が認めた子どもの言うことをよく聞きます。
 ですから、教師は子ども集団に適切なはたらきかけをして、よきリーダーを育てることを大切にしてほしいものです。私も、近く学校で「リーダー講習会」を企画します(クラブの責任者は必修、その他の生徒も参加自由)。
 親の話に戻れば、本当にしっかり子どもをしつけている親でも、必ず反抗期の洗礼を受けるものです。「うちの子に限って・・・」なんていう話は、ドラマに限らず現実でもいまだによく聞きます。
 子どもとはそういうものだと捉えることが第一歩です。
 だから、家庭では親が、学校では教師が、地域では地域の人々が、子どもにあたたかい目を向けてあげていてほしいのです。
 学校でおこった問題を、「親が・・・だから」という話でしめくくるのだけはやめてほしいと思います。
 息子の学校近くの自治会で「挨拶運動」を毎朝してくださっている方々には、本当に頭が下がります。
 そして、学校に入ったら挨拶をしない・・・なんてことは本当に悲しくて見ていられません。
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