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「先生」という呼称

 大学出たての教員にも使われる「先生」という呼称が,教員の「社会感覚を失わせる」という批判は,いつの時代にもあったと思います。以下のようなコメントをいただきました。

私は先生という言葉が嫌いだ。先生という言葉の存在が人間を増長させ勘違いさせていると強く感じている。
若いころから先生、先生と持ち上げられれば、自分は偉くて特別な立場にあると勘違いして増長し、高慢天狗、高飛車天狗になってしまうのも無理はない。私自身もそれで保護者や生徒からの信頼を失った苦い経験がある。
 ではそのような高慢天狗、高飛車天狗になってしまわないためにはどうすればよいのだろうか?
 答えは単純明快。先生という呼び方を一切禁止すれば良いのだ。さん付けにすれば良いではないか。

 別に私の意見を求めていらっしゃるわけではないかもしれませんが,簡単に今の考えを述べておきたいと思います。

 まず,生徒が教員を「~さん」と呼ぶのは無理があります。一部の小学校では認められているような,教員をあだ名で呼ぶ,というのも,賛成しかねます。

 ですから,教員間で「~さん」と呼ぶことを徹底しても,子どもや保護者から「~先生」と呼ばれていれば,「増長」してしまう人も出てきてしまうでしょう。

 ただ,呼び方がどうであれ,勘違い人間はどこにでもいるもので,それは教員も例外ではありません。

 高慢天狗はどの世界にもどの集団にもいるでしょう。呼び方を変えても,無駄,という人も大勢いるような気がします。

 質問された方がそうだとは言いませんし,「信頼を失った」理由が,必ずしも高慢天狗だったからとは言えない面もあると考えられます(コメント入れていただいたもとの記事の趣旨はそういうものでした)。

 私は,ある先輩の先生からは「くん」付けで呼ばれます。「先生」と呼ばれるより,はるかに親近感があって自然な呼ばれ方だと思います。

 「禁止する」とかいう強制ではなく,自然に「~さん」「~くん」と呼び合える関係を築くことが,教員には求められているのだと思います。

 いかがでしょうか。

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独身の日のセール

 楽天市場で1日限りの珍しいセールが行われていることに気づいたら,11月11日は「1」が4つも並ぶことから,それは「お一人様の日」という意味で,中国では「独身の日」としてアリババが毎年セールを行っていることもわかった。

 アリババでは1日で3兆円の売上が見込まれるという。

 こういうセールに惹きつけられるのは,実は「お一人様」ではなくて,「賢い消費者であるという自覚」を持とうとする人か,「お一人様」であった過去に戻って買い物をしたい人ではないかと思ってしまう。

 日本の若者達は,現在よりも将来を見ているので,無駄なお金は使わないという。

 大規模災害や財政破綻に備えるという意味では,よいことでもある。

 日本で景気をよくするための刺激策は,どんなものだろう。

 1年ずつ,消費税を1%ずつ上げていくというのはどうだろう。

 3年先より今買う方がお得である。

 「そんなことしたら,やがて私の会社はつぶれてしまう」と言っている人たちには,「つぶれない努力をするのが会社の経営者の仕事である」と諭してあげればよいか。

 そもそも,「なくてもよい商品」はこの世にどのくらいあるだろう。

 プラスチックごみをなくすためにできることとして,今後,「不買運動」が起こってくるかもしれない。


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チコちゃんに叱られる~おやじギャグが言える年齢になると,ホンネも漏れやすい

 人のホンネが漏れる場所はどこか?

 いまどきは,「無礼講」の席でも「無礼」は許されない時代だから,ネット上の匿名の書き込みくらいでしか,ホンネは語られない時代になったのかもしれない。

 先日,ある講演があった。私はホンネが漏れるタイミングを知っている。

 控え室に戻った直後である。

 ベテランの講演者にとっても,一仕事終わって衆人環視の状態から抜けた時点はやはり気が緩むらしい。

 「●●の××化」が,その人にとっての激しいストレスになっていることは,講演からも痛々しいほど伝わってきたが,控え室で私が投げかけた言葉に,本当に素直に反応されてしまった。

 「××化さえなければ・・・」

 ●●が××化されたことで,講演者は多くの「ウソ」をつかなければならなくなった。

 ●●の指導を徹底させなければならない立場なのに。

 まともな人なら,相当な葛藤があるはずである。

 もし証人喚問されて,真実を隠すか語らないことを強いられたら,精神が持たないだろう。●●の指導者なのだから。

 しかし,行政マンが求められる資質能力は,そういうケースでも揺らがない「精神力」である。

 羊の群れの中では,居心地がよかったためか,ホンネもたくさん漏れていた。
 
 仕事を辞めた後の人の講演がなぜおもしろく,現役の行政マンの話がなぜつまらないか,ホンネを言っているかどうかの違いととらえれば,わかりやすい。

 行政マンが一応,精神状態を保てるのは,「ペーパーを読むのが仕事」と割り切れるからである。

 それなら,ペーパーを配ってもらえれば,話はすむ。

 動画もいらない。原稿を公開すればよい。

 動画をとるなら,俳優・女優を起用してほしい。

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総合評価2点台の宿の快適さ

 週末の奈良の学会は,行けることがわかったのが直前だったために,宿の確保で苦労した。

 ようやく見つけた宿は,後から気づいたことだが,総合評価2点台というすさまじい評価の低さだった。

 入室してから点数を確かめ,納得した,という流れなのだが,私はこの宿に対して何の不満も抱いていない。

 駅から近いという利点だけは4点台だったが,私もそれだけを評価しているということではない。

 すべてが快適だった。

 私には,外泊してぐっすり眠ったという経験がほとんどない。

 高齢の女性が一人で切り盛りしているらしいその宿の正面には,工事中の空き地があった。

 来年にホテルが立つという。

 もともと奈良県は,宿泊施設が少ないことで有名である。

 行政の後押しもあるのだろうか。その場所にホテルが建てば,おそらく奈良市内より2000~3000円安い価格設定になると思うので,交通費数百円で移動できると考えれば,私なら喜んで利用する。

 外国人観光客も増えているため,民泊系の施設が増えているが,

 見ず知らずの人と二段ベットで一夜を過ごすのはちょっとつらい。

 それで私が選び,泊まったホテルは,ひどい人は「廃墟」と呼ぶかもしれないようなところである。

 しかし,私はこういう歴史の長い住宅で20代前半まで生活していた。

 「昭和レトロ」の住宅を好んで泊まりたい,というタイプではないが,どうして1日落ち着いた心で過ごせたのだろう。

 私はまた機会があれば,同じ宿を利用したい。

 行政にいたころ,出張先で泊まった民宿を後になって思い出した。

 お風呂は別の施設を探さなければならないが,車を利用しようと思う。

 私は嵐のような苦情を受けるかもしれない女将さんが気がかりで仕方がない。

 資本を出してホテル再建に名乗りを上げようかと真剣に思うほどである。

 ああいう「快適さ」が味わえる場は,もうこの日本からは消え去る運命にあるのだろう。

 古い教師も,同様だ。

 残されるのは,完全に機械で管理され,一切の塵・埃のない,「完璧」なモノだけになるのか。

 猥褻行為で次々に逮捕されている小学校教師たちへの感情も多少変わってきた。

 処罰を受ける教師の「人間性」が評価の対象になってしまうとは,情けない話である。

 直前に長谷寺を訪れて,観音様の御御足に触れてきた。そのおかげだろうか。

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正倉院展を訪れて

 先週,学会で奈良に行ったついでに正倉院展を訪れ,奈良時代の貴重な宝物を目にすることができた。

 宝物はもちろんだが,私の印象に強く残っているのは宝物をじっと見つめる高齢者たちの熱心な態度だった。

 仕事をリタイアした方々が,むさぼるように宝物を鑑賞する姿は,「年をとったらこうでありたい」と願うきっかけにもなった。

 創作を仕事にしている方は,これほどの目で見つめられる作品をつくってみたいと思うに違いない。

 私が出会ったこの「目」に近いものは,研究発表会に参加された先生方が子どもたちに向けてくれる視線である。

 「偉い人」の話は半分以上の人が寝てしまうが,子どもよりもキラキラしているのではないかと思われるほど輝く視線で生徒の発表を見つめて下さった先生は,強く記憶に残っている。

 これから正倉院展に駆け込む方に一言お伝えするとしたら,玄関入ってすぐ左の講堂でボランティアがしてくれる30分ほどの解説を,ぜひ聴いてから見学に入るべき,という一点である。

 10分ほどかけて,光明皇后が写経させたものを読んでみたが,仏のありがたさを日本中に広めようとした熱意がひしひしと伝わってきた。

 「本物」から得られる影響というのは,とても大きなものである。

 子ども時代に全く感動を得られなかった博物館を,ようやく楽しめる年齢になってきた。

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いじめや暴力行為が多い自治体の「いじめ」対策の共通点

 調査結果には表れてこない数字なので,予想を立てるしかないのだが,私の経験上,「外部機関に頼ろうとする姿勢」が強ければ強いほど,「いじめ」を減少させることが難しい自治体だと思われる。

 まず,自治体が教員を信用していないこと。

 こういう自治体では,教員も自治体を信用していない。

 管理職と教員の関係性が悪いこと。

 こういう「大人の仲が悪い」社会では,そのまま子どもたちの仲も悪くなる。

 「施策を打てばそれでいい」という感覚は,私も行政にいたのでよくわかる。

 問題は,施策が「役に立っていない」「そもそも利用されていない」ことがバレないように,自治体がダメな施策を隠蔽していることである。「税金の無駄遣いだ」という批判がこないように,いくらでも「実績」をでっち上げる。

 しかし,「実績がない」ことくらい,当事者だったらわかってしまうものである。

 「いじめ」対策の本当の基本は,「教師」「子ども」「保護者」という三者の関係をどうするかである。

 すべてが密接でなくてもよい。そもそも条件が満たされない子どもはたくさんいる。

 どんな荒れた学校にも,教師がいる。

 教師は,自分の子どもではなく,人様の子どもの教育を職務とする職業である。

 まともな教師がまともな行動をとることが当たり前の場が学校である。

 親の子育てのせいにしたり,いじめた子どものせいにしたり,本人のせいにしたりする「教育を他人事とする教師」は,当然だが「教師」とは呼べない。

 徹底して「教師」を「教師」として育てる機能を果たせる自治体にならないと,すべての施策は無駄になる,というか,そういう機能さえあれば,余計な施策はなくし,行政コストをなくすこともできる。

 どこに資金を投下するか,最初に大きな誤りを犯したのはどこの自治体か。当事者ならその痛さが実感できるだろう。

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道徳教育が成立するための条件とは

 ある中学生が正論を述べている。

 「道徳の授業という枠の中で,綺麗事を考えるのは,忖度できる人間をつくるだけで,害の方が大きい」とのこと。

 確かに,決まった時間にテーマが決められて,そのときだけ「考えたことにする」という時間は,まともな子どもにとっては,どちらかというと罪を犯している感覚の方が強くなる。時間が終わればそんなことに構っていられない現実が子どもにも待っているからである。

 道徳教育で育まれるべき諸能力は,どんな場でも,どんなかたちでも,だれに対しても,いつでも発揮されなければならない。

 道徳の授業という限られた場だけで頭を使わせられるのは,開店前に挨拶の練習をさせられる店員のようなものである。

 だから,道徳の授業は最も道徳教育の成果を発揮しにくい場になっていることの自覚がほしい。

 自分の頭で考える時間が必要だと真剣に考えるのなら,時間も場もテーマも強制してはならない。

 小学校低学年くらいで道徳の授業は「卒業」させることを真剣に考えてみてはどうか。

 いずれにせよ,ろくな授業が行われいないことは,調査をするまでもなく明白なことである。

 それはまともな授業をやろうとすればするほど,ろくでもなくなるという道徳に特有な事情である。

 最も道徳教育が機能している学校とは,道徳の授業の話などせずとも,いくらでも道徳が語れる教師で満たされている学校のことである。

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いじめがない(認知されていない)学校で,いじめがある学校よりもたくさん実施されていることとは?

 「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」で注目したデータがもう1つある。

>いじめの日常的な実態把握のために,学校が直接児童生徒に対し行った具体的な方法

 として特筆すべきは,

>「個人ノート」や「生活ノート」といったような教職員と児童生徒との間で日常的に行われている日記等

 で,いじめを認知した学校と,いじめを認知していない学校の違いは以下の通りである。

 いじめを認知した公立小学校で行っていたのは47.3%,公立中学校では82.8%,

 いじめを認知していない公立小学校では,57.9%,公立中学校では86.0%で実施されていた。

 これを統計的に有意なデータと言えるかどうか,わからないが,毎日子どもが担任教師に向けてのメッセージを送る仕組みがある学校では,「いじめを見過ごしやすい」と考えるより,「しっかり子どもとのコミュニケーションがとれているので,いじめが起こりにくい」と考える方が自然である。

 こういう仕組みは,単純に労働時間を短縮すれば良いと考えるだけの「働き方改革」推進者から見ると,やっかいなものである。家にまで持ち帰ってコメントを書かなければならないようなものは,できればなくしたい(もちろん,適当に判子だけ押して返している教員も多いだろうが)。しかし,教育への熱意に介入すると,「働きがい強奪改革」になってしまう。

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データから見える「いじめ」発見の難しさ

 「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」では,「いじめ発見のきっかけ」についても詳細なデータが公表されている。

 公立小中学校では,いじめはだれがどのように発見しているのか。

 「学校の教職員」とそれ以外(子ども自身,保護者など)の比率は,

 公立小学校で約7:3,公立中学校では55:45となっている。

 担任教師が発見した割合(全体に占める)は,公立小学校が11.2%,公立中学校は10.3%。

 アンケート等でわかった割合は,公立小学校が57%,公立中学校が38%。

 本人からの訴えでわかった割合は,公立小学校が16.2%,公立中学校が24.0%。

 本人の保護者からの訴えでわかった割合は,公立小学校が9.3%,公立中学校が13.7%。

 このことからわかる「いじめ」の特徴は,9割が教員の見ていないところで行われる,ということである。

 データから少々意外な印象を受けるのは,担任教師といつも一緒に過ごしている小学校でも,担任が気づかないように「いじめ」が行われているということである。ここでは「小学校担任はいじめに気づけない」という意地悪な解釈はやめておこう。

 アンケートをすれば「垂れ込み」がたくさん集まるのが小学校。

 本人が申し出てくれる可能性は,小中いずれも低いが,まだ中学生の方がやや勇気が持てているか,状況がひどくなって申し出がある,といったところだろうか。

 もう一つ意外だったのは,いじめを受けた児童生徒がだれに相談したか(複数回答可)というデータである。

 「友人に相談した」と答えたのは,公立小学校では5.5%,公立中学校では9.6%しかいなかった。

 いじめを受けた児童生徒は,集団から孤立していることも大きな特徴と言える。

 「担任に相談した」と答えたのは,公立小学校では81.4%,公立中学校では74.6%だった。

 私も長年教員をやっていて,「教師としか会話ができない子ども」をたくさん見てきた。「これでいじめを受けていないとしたら,ほとんど集団とはかかわりをもたずに生活しているという意味になる」という心配の仕方をしたこともある。

 スクールカウンセラー等の相談員に相談した児童生徒は,公立小学校では1.3%,公立中学校では4.0%。

 学校以外の相談機関に相談した児童生徒は,公立小学校では0.4%,公立中学校では1.1%にすぎない。

 日本では,いかに「学校の先生」の役割が大きく,「教員以外」の人材が機能していないかがわかる。

 費用対効果を考えて,予算を大幅にカットするという方法もあろうが,日本では「やがて機能する」という神話を信じる人が多いので,状況は変わらないだろう。もちろん,臨床心理士の人の仕事が急になるなるのも気の毒なことである。「いじめ防止に役立っている」というデータをつくれば,何とかなるだろう。だが,いじめの防止に対しても,教員の果たす役割が非常に大きいことは,次に紹介するデータからもわかってしまう。

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1000人当たりの暴力行為発生件数ワースト5は

 文科省が,「平成29年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果」を公開している。

 小中高における暴力行為とは,「対教師暴力」「生徒間暴力」「対人暴力」「器物損壊」の4つを指している。

 1000人当たりの発生件数のワースト5は

1位 島根県   15.6件
2位 神奈川県 10.7件
3位 沖縄県   10.0件
4位 新潟県   9.0件
5位 京都府   8.0件

 だった。ちなみに東京都は2.1件。

 人口の少ない地域では,どうしても1人当たりの件数が多く見える問題があるが,神奈川県の場合は言い訳ができない。

 最も発生件数が少ないのは愛媛県で0.5件だった。

 指定都市別に見ると,ワーストの順位は

1位 横浜市  18.4件
2位 新潟市  18.0件
3位 相模原市 13.3件

 の3市が突出して多い。

 高い割合を示しているのは「生徒間暴力」で,横浜市では暴力行為総数4935件のうち,生徒間暴力は3375件で7割弱を占めている。

 校種別では,中学校が最も多い。

 横浜市の公立中学校では,子どもはどのようなストレスを暴力で解消しようとしているのだろうか。

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よい質問が出なければ,よい発表とは言えない

 疑問だらけの発表では聞き手もどうしようもないが,疑問も一切湧かず,質問が出せない発表には意味はない。

 拙い内容であっても,よい質問を引き出せた発表は,よい発表と判断する。

 こういう判断を多くの人や客観的な「評価・評定」に反映することは難しいかもしれないが,「成長」のこつはここにある。

 先日行われた学会の「自由発表」(パネルディスカッション)のような場で,私は将来性のある「学生」「教員」かどうかを確かめる「実験」を行った。

 それは,「自分自身の課題をふり返るゆとりがあるかないか」を評価するためである。

 教員より,学生の方に将来性を感じたのは,私が「良い点を評価するコメント」を多めに出したせいかもしれないが,「人から学ぼうとする姿勢」「人の話を聞く姿勢」が歳や研究を重ねるごとに薄れていく傾向があり,特に大学の教員は「人の話を聞かない」ことに特徴があって,そういう教員に育てられた学生は若いうちに「学習能力」を失う危険性があるので,「被害状況を確かめたかった」という意図もあった。

 一番将来性を感じたのは,内容はほとんどゼロであるにもかかわらず,発表の場に参加していた人だった。

 民間の方とコラボで研究をしているこの方は,教育現場の問題に正面から取り組んでいる。

 大学の研究者の多くは,教育現場をろくにしらないから,教科書の執筆を任されると,ほとんど読めないか全く興味を引き出せないような原稿を出してしまう。学問的に「正しい」ことを書くのは当然だが,「教科書」をどういう子どもが読むのか,どういうレベルの先生が使うのかがわかっていない。

 こういう教科書を読んでも,子どもが何の反応も示さないことに,おそらくは何の疑問も感じていないだろう。

 大学の講義の途中で,矢継ぎ早に質問が繰り出され,追い詰められて答えられなくなる,という経験をしたセンセイはどのくらいいるのだろう。ゼミで学生に対してそういう「いじめ」をしている人はいるかもしれないが。

 質問が出てこない講義に疑問を感じることができるセンセイはどのくらいいるのだろう。

 「この本を読めば全部書いてあるよ」なんていう態度がとれてしまう人が,なぜ生まれてしまうのだろう。

 「教育とは偉い人が訳の分かっていない連中に,情報を垂れ流してあげる仕事」という捉え方が根本にあるのではないか。

 そういう人が消えない限り,教育を「改革」することはできないだろう。

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「いじめ」対策は,日本という国のどんな弱点を象徴しているか

 新しい「いじめ」の定義によると,成績のいい子が近くにいて劣等感を覚えると「いじめ」になってしまうので,もはや「いじめ」の統計は意味をなさない。

 「いじめ」がゼロなんて,おかしいぞ!

 という恫喝をくらう状況だから,認知される「いじめ件数」はまだ増え続けるだろう。

 そのうち,「いじめ」のレベルを「心の震度1」「心の震度7」とか呼び始めて,細かい調査が始まることと思われる。

 「震度3」でも緩い地盤のところは相当揺れるし,「震度7」でも揺れをうまく受け流す柔構造の建物もある。

 不登校にならずに「耐えて」いれば「重大案件」にならない,というのも問題になるだろう。

 
 「いじめ」の根絶という「願い」はもちろん悪いものではないが,個人の言動だけではなく,

 「劣等感」などという,人間と人間が生活する場の「状況」によって生じる精神的な苦痛を根絶することは難しい。

 公立学校では特に,「できること」を隠すことが優れた生存戦略として機能するわけだが,「いじめ」防止のためにこうやって生徒たちは涙ぐましい努力をしているわけである。

 「公正・公平」などという原理や原則に照らしてみるときに,「いじめ」をめぐっては「目には目を」というタイプの要求をしてくる親が増えてくることも予想できる。

 「いじめは犯罪だ!」と声高に叫べば,「犯罪者は罪を背負うべきだ」「犯罪者には,刑罰を与えるべきだ」という主張も当然存在感を増していく。

 いずれ,「いじめ」を装って相手に罰をくらわせるタイプの「いじめ」も増えるだろう。

 学校は,どんだけ生きにくい場所になったんだ,とあきれるばかりである。

 「いじめ」対策は,どんどん「地盤を緩める」方向に流されていないか。

 今の日本では,そもそも地盤の緩い,危険な場所に住んでいる人が多い。

 しかし,「移住による安全確保」という選択肢をとることができない。

 「自分で自分の命を守る仕組み」がつくれない国の弱点が,「いじめ」対策に象徴されている。

 
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孤立・自壊する可能性に気づいた?中国との関係づくり

 昨日は,週刊ダイヤモンドで企画された橋爪大三郎さんの講演に参加してきた。

 四大文明・世界宗教の特徴から,米中関係を考えることがテーマだった。
 
 中国の儒教は忠<孝。だから「腐敗」が防げない。

 日本は儒教のモノ真似をしたが,江戸から戦前にかけて,忠>孝で,自滅した。

 千何百年も書き換わらない「正典」をもつ「文明国家」と,そうではない日本との対照が鮮やかであった。

 「日本は文明ではなく,文化で生き抜いていく国」というメッセージを受け取った。

 橋爪氏の予想は,「中国はやがて孤立する」というものだった。

 今日のニュースを見ていると,「中国がそういう自覚をもつことで,日本との関係づくりの重要度が上がったのか」と感じてしまった。

 中国を追い詰めていくのではなく,「競争から協調へ」という「仲良し路線」をとる戦略は,「外交練度」が低い日本ならではの動きのような気もする。

 「文明国家」ではなく,「文化国家」としての日本の動きは,よく言えば「機動的」,悪く言えば「行き当たりばったり」になる。教育政策やエネルギー政策を見ていると,まさにそんなレベルの国である。

 キリスト圏,イスラム圏,中国,インドとの関係を上手にコントロールしていくために必要な力とは何か?

 これは「歴史教育」による「思考力育成」をおいて他にはない。

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自信をなくす教師たち

 おそらく自分が年齢を重ねたからではなく,もしアンケート調査を本気で実施したら,本当に出てくる傾向だと思われる。

 教師たちは,自信を失っている。

 だから何にでも,ろくでもないものに飛びついてしまうという,「飢餓状態」にあるのではないか。

 自信を失う理由とは何か。

 「だれかに支えられている」という安心感がなくなったからではないか。

 子どもたちとの距離が開き,親たちとの関係性もなくなり,まわりの教師たちとのつながりも薄くなる。

 今から30年前の教師たちには,安心感があった。

 今は管理職ですら,頼りにならない。

 まわりにいる教師たちも,頼りにならない。

 そういう学校で「自信」を維持しているのは,ただの「自意識過剰人間」だけかもしれない。

 うまい「頼り方」を知らない世代は,孤立傾向を強めていく。

 「頼りにできない人」は,「頼られないこと」でますます離れていく。

 自信を回復するための最初の一歩は,「頼ること」である。

 子どもを頼っている人間は,給与の全てを返納してほしい。

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地雷を踏む教員 地雷をばらまく教員

 危険がわかりきった状況なのに誤りを犯して失敗してしまうことを,「地雷を踏む」と表現する。

 カンボジアで実際に被害にあい,義足をつけている人には大変失礼な表現なのだが,他民族の不幸には無頓着の日本人の癖として,許していただきたい。いつもどこかで世界の笑いものになっている日本人だが,国内には本物の地雷を見たことがある人がいないので,同情の余地はあると願いたい。

 教育の世界には,自ら地雷をばらまき,周囲を不幸にする人間もいれば,目の前の地雷に気づかずに,平気で踏んでしまう人もいる。

 対人関係の調整能力がない子どもたちと長年生活していると,使わない能力は退化していくもので,自分も子どもと似たような状況になっていく。

 対人関係調査能力不足の子どもと教師が一緒になると,本当に困ったことになる。

 逆に,忖度が完璧で,教師の地雷をちゃんとよけていってくれる子どももたくさんいる。事故は起こらないのだが,地雷のばらまき方が尋常でなくなっていく。

 「本を読めば全部書いてある」・・・・宗教の正典でもあるまいし,そんな都合のよい書物があると豪語するのも正典を持たない日本人の情けない虚勢だと思っていただきたい。

 今の日本で,たとえで使っている「地雷」を踏むと,もうそこでは生きていけなくなる仕組みになっている。
 
 心の傷を負った山のような子どもと教師たちはどうやったら救われるのだろうか。

 要は簡単な話である。

 自分たちが騙されていたことに気づけばよい。

 そろそろまともな「実証的な反論」が失敗者から出てきてもよいのではないか。

 「教え方」「学び方」ではなく,「考え方」を誤ったのは,実践した奴が悪い,という「逃げ」を封じる方法も考えておいていただきたい。

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なぜ学会への信頼が低いのか

 先日,ある本に寄せた私の内容を引用している人がいると,論文のコピーをもらった。なぜこのコピーが出回ったかというと,どうやら二重投稿の証拠の品であるという。

 問題は,二重投稿であることがわかったのが,雑誌が出された後だという。

 私自身は,ある学会誌の論文の査読を命じられて,二重投稿をすぐに見破って書き直してもらった経験がある。

 二重投稿というのは,みんなよくやってしまっていることなのだろう。

 できれば,すべての論文に目を通している人が査読の役割を果たすべきだろう。

 手渡された論文を読んでも,これが論文として成立しているようには見えなかったが,スルーされて世の中に出てしまうのが「学会」というところのようだ。

 まともな査読者がいない学会の存在意義はどこにあるのだろうか。

 そもそも,せっかく論文を出してもスルーされてばかりでは,学会に所属して数千円から1万円を上納してくれる人がいなくなってしまうだろうから,「仲間としての甘い評価」で世に出るかどうかが決まってしまうのだろう。

 少なくとも,中学校か高校の「国語」の先生のチェックくらいは受けてほしい気がする。

 大学の世界では,論文はどんなレベルの低いものでも,一つ書くことで一つの論文として成立するらしい。

 だから見る角度をちょっと変えただけで,同じ内容のものを二つでも三つでも書くことができる。

 そんな論文の数で就職が決まるのが大学だから,そこで行われる教育のレベルも想像がつく。

 どこかに大学教育を根本的に改革できるヒントはないだろうか?

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「自由の檻」の中で「情報の繭」に閉じこもる大学のセンセイたち

 大学という狭い世界での「政治」を語れる人はいても,それは「世の中」とはほとんど無縁の話である。

 意見の異なる人々との情報交換を拒絶することが自分にとって「得」である,という感覚はよく理解できるが,「それではダメだ」という「世の中」の常識も知っておいてほしい。

 自分の子分たちや,自分と同じようなものを目指している人ばかりとコミュニケーションしている人間を,「自由の檻の中にいる」として批判できる「有識者」が近くにいてほしいものである。

 『#リパブリック』(勁草書房)の書評で橋本努教授が述べている。

自分の好みに合わせて情報環境を作る「情報の繭(コクーン)」社会は,危険である。

 自分とは異なる意見に耳を傾けたり,討議したいと願う「市民」を日本の教育は作ってこなかった。

 だから,「村」の人間たちがますます「村」の中に閉じこもっていく,という現象が目立っている。

 「檻の中での学び合い」をやめさせる一番よい方法は何だろうか?

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なぜ学会に参加するのか

 授業の質,教育のレベルは全国一律ではない。それが教育という仕事の面白いところでもある。

 同じ教科書,同じ指導案を使って授業をすれば,みんな同じ程度の学力がつくかと言えば,そうはならない。

 子どもが先生のことをどう思っているか,だけで,結果ががらっと変わるような教育の場所が,学校というところである。

 どうやったら学力が向上するか。その近道が書いてあるのが,「学習指導要領の解説」のはずである。

 しっかりと書いてあることがたくさんある。それを実行していないから,学力が向上しないのか,書いてあることがいい加減なのか,研究者たちにはしっかりと分析してほしい。

 教育系の研究者たちが書いた論文が,相当に集積しているはずである。 

 優れた論文というものも,この世にはたくさんあるのだろう。ただ,そういう論文に対する評価も,教師によってまちまちであるが,全国のほぼすべての教師に,大学のセンセイが書く最新の論文を読む機会はないというのが実際のところだろう。現場の人間に読まれない論文がなぜ大量にあるか。それは書いた人が職を得るためでしかないからである。

 学会は玉石混淆ならではの面白さもあるが,さすがに小中高が入り乱れると,「意見や質問が出ない」発表ばかりになって,授業に置き換えてみれば最低のパフォーマンスで終わる結果になるものが多くなっている。今まで学会で聞いた中で最も最低だったのは,大学教授の発表で,しかもそれが全体会のような場だったから,「だから教育学部はダメなんだな」ということが非常によくわかってとても参考になった。後日,別の学会で,同じ大学の教育学部の学生の発表を聞いてびっくりした。直前に紹介されていた高校生の発表以下だったからである。わざわざ使えない人に場を任せる「余裕」があるのが国立大学法人である。教育学部出身者は教育現場では使えない理由もよくわかる。

 なぜ学会に参加するのか。ここ何年かは,私の後任を探すための「旅」である。今は「一本釣り」の時代ではないが,そもそも公募に参加してくれなければ何も始まらない。後任人事に先任は口出しできない仕組みになっているが,実績がある人なら採用される可能性はもちろん高くなる。問題は,私のように退職金の額が減ってしまったり,場合によっては給料が下がってしまうことだ。それでも公募に応じてくれる人がいてほしい。教育現場は,「人」がすべてである。 

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どんだけ最低の説得方法なのか

 以前から書いていることが,講演などの後に「学校に持ち帰ってすぐに実践できる情報がたくさん得られた」という講評を受けることを,私は望んでいない。

 「だれかの得になるから」という理由で仕事を引き受けているわけではない。

 基本的には,「宿題がたくさん出された感じのする研修」を目指している。

 「主体的,対話的で深い学びの実現」を目指した研修だったら,その内容はどんなものか,ゴールは何なのか,想像がつくレベルの教師であってほしい。

 だから「これこれこうすれば,結局は自分の得になるから,やった方がいいよ」みたいな話法は絶対にとらない。

 教師に対しても,子どもに対してもである。

 思い出してみれば,今年だけでも内閣府,財務省,厚労省,文科省,資源エネルギー庁の人たちに対しては,そういう言葉を発した記憶があるが,子どもに対しては,せいぜい,「~さんはこうやって学習のコツをつかんだそうだ」という子どもの言葉を紹介するくらである。

 「こういう態度をとると,それは結局は自分のためになってかえってくるから,そうする」子どもを育てようとする人間がいるが,私はこんな教師に育てられた子どもはとても気の毒だと思う。

 実社会は,どんなに人のための行動をとっても,結局は自分にとってあまりプラスにならない結果になることが非常にたくさんある。大学を見てみればよいだろう。大学を出て,たとえば一端は仕事で挫折して辞めてしまっても,また立ち直り,新しい職場で順調に昇進できた人間と,その人間が居座っているためにポストを得られずに損ばかりしている人がいる。「みんなが得をできる」幻想を抱かせる理由は,「自分が得をする」ために必要だからだ。実際にはほとんど役に立つことはない薄っぺらい本が売れる仕組みでもある。

 「こういう態度をとると,それは結局は自分のためになってかえってくるから,そうする」子どもを育てようとする人は,自分もそういう態度でいると考えればよい。結局は「自分本位」の人間なのである。

 「自分本位」の人間たちというのは,言っていることとやっていることが違っていても,全然気にしないでいられるという特徴がある。

 自分にはしっかりとした逃げ場がある。そもそも,「子どもを教育する場」にいない人と,「子どもを教育する場」にいる人の違いを理解しておく必要があるだろう。

 逃げ場があるというか,「逃げ場」にいる人間に利用されて,教育現場で逃げ場をなくしている教師たちに言いたいことは,「大学に逃げる」という方法を探してみるか,「逃げてはいけないという自覚を与えられた」と感謝すべきだということか。

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中学校化している?小学校の授業

 私の子どもが通っている公立小学校は,すぐ近くに中学校があるわけでもなく,小中連携の大がかりな取り組みをしているわけでもない。

 区は学力向上を大きな目標に掲げており,その指標となるのが全国学力調査等の「ペーパーテスト」の結果である。

 公開授業を参観してみたが,いくつか発見があった。

 まず,話し合い活動をしている教室が一つもない。

 コの字型の座席配置にしている教室も一つもない。

 授業はすべて,「一斉授業」である。

 中学校と比べると,聞いているだけで理解できていそうな子どもはあまりいないから,無駄な時間がたくさん過ぎている印象がある。

 黒板をそのままノートに写す,「書写」だけはしっかりやっている。

 子どもたちは一年生から六年生まで,おとなしく黒板に向かって座り,先生の話を聞いていた。

 この小学校では,授業が行われている45分×6回の間,どのくらい「言葉」を発する機会があるのだろう。

 ほとんどなさそうだ。そのストレスを,昼休みなどに一生懸命発散している感じである。

 ほぼ黙っていることが可能,というよりは,「黙っていなさい」「おしゃべりをやめなさい」と言われ続け,黙っていることが義務のような印象が強い小学校である。

 学力向上=ペーパーテストの得点力向上には,これが一番良いのだ,という意見が一致した,「同僚性」の賜物なのだろう。

 「お行儀良くする訓練」を強いられた子どもたちが,どうして中学校で荒れ始めるのか,想像はできるのだろうか。

 「お行儀良く黒板をノートに写したところで,勉強がわかるようにはならない」ことに気づくタイミングの問題である。小学校で気づいた「賢い」子どもも,できる子も多いため,なかなか行動に移せない。

 本当に教育を研究している人たちは無力なんだなと実感した。

 学力調査などの施策のせいにして,自分たちの無力さ加減をスルーしているうちに,こんな小学校ばかりになっていくのだろうか。

 細かいことはあまり書きたくないが,ある授業で教師が説明していたことがらのうち,5分くらいの中でも誤りがたくさんあった。何を読んで準備したらそういう説明になるのか,本当に小学校用の教師用の指導書の「検定」が必要になってくるかもしれない。教科書は「検定」で誤りがチェックできるが,資料集や指導書には「検定」がない。

 説明一辺倒の授業を続けるのなら,少なくとも正しい内容を教えてほしい(ほとんど定着しないから,害は少ないのだが)。

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«自分との対話ができない人たち

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より