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「総合的な学習の時間」の指導ができるように教育できるのはだれか

 教員を養成しているのは「大学」であるはず。

 小中学校での「総合的な学習の時間」,高校での「総合的な探究の時間」で,どのようなことをすればよいのかがわかるような教育が受けられるのが「大学」だと思っていたのだが,そうではないようだ。

 「大学」に入ってから「学び方」の教育を受けるところが多いようだが,「学び方」がわかっているかどうかを入試科目に入れたらどうだろうか。何だか時間の無駄を強制されているような気もする。大学教員はみんな思っていることだろう。

 教員免許を取得するのに必要な「ナントカ教育法」という単位があるが,これがどれくらい学校現場で生かされているか,だれがどのように検証できるのだろう。

 「総合的な学習(探究)の時間の指導法」を指導できる能力とは,どのようなものなのか。

 ごく一部の分野の専門性しか持っていない大学の教員に,「教科横断型の学習の目標と指導の一体化」の意味や意義がわかるだろうか?

 取得しなければならない単位が増大することで,ますます教員ばなれに拍車がかかるのだろうか。

 そもそも現場の「総合」の実態を放置したまま,限られた「充実した総合の学び」の実例をかじった程度の学生が現場に入ったところで,「ああ,こうやって楽すればいいのか」「自分の小中高でもこんな感じだったな」で終わってしまうのがオチだろう。

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教員いじめから何を見るか

 学校では,ときに「想定外」のレベルの問題が起こることがある。

 

 神戸の小学校の「教員いじめ」には,唖然とするばかりである。

 

 職員旅行などでは,はめをはずして「遊び」に夢中になってしまう教員が昔はよくいたのではないか。

 

 今ではヒマな学校の中で,弱い立場の同僚をいじめるという「遊び」が行われる。

 

 昔から私が使っている言葉で説明すれば,「公共空間」の「私共(わたくしども)」化である。

 

 小学校は昔から教室が「私共(わたくしども)空間」であり,マンションの部屋ごとに教室があるとイメージすればわかりやすい。

 

 教室の壁をなくすことで「公共空間化」する試みがなされているが,壁のないマンションの部屋に住みたいと思う人はいないだろう。

 

 教室を私物化できるから,悪ふざけをしても「何が悪いのか」と開き直れる。

 

 私は中学校の教員だから,関係者の中学校時代の様子を知りたい。

 

 小学校教員は,社会では「偏差値が低い大学を出て・・・」とバカにされる。

 

 「教員採用試験の倍率1.1倍なんて,信じられない」と危惧される。

 

 教員自身も「英語ができないから小学校の教員になった」と明かしたりする。

 

 「英語なんか,教えられるわけがない」とみんなが思っている。

 

 教育の世界に「指導力」が求められる時代は終わりを迎えた,とある大学教授が言っている。

 

 教育の世界には,もはや「信用失墜行為」はないという見方もある。

 

 すでに「信用」などないからだと。

 

 「田舎ではそんな問題は起こるわけがない」という反発もあるだろう。

 

 外野からの声に学校現場はいちいち反発しているヒマはない。

 

 おそらく教育委員会に問題を分析・解決する能力はないし,増してや文科省にそれを期待するのは酷である。

 

 明らかに誤った制度,整っていない条件のもとでも,教育は行われなければならない。

 

 指導力不足を自覚できる多くの教員たちも,辞めるわけにはいかない。

 

 今は,歴史上でも最も「管理職」が果たすべき役割が大きくなっている。

 

 その「管理職」も人材不足で試験の低倍率に悩んでいる自治体もあるが,学校現場としては事務係長や事務課長が校長を兼任するような時代を望んでいないだろう。

 

 教育の世界は,問題の解決方法を探り,見つかったとしても,解決の実現まで何年もかかる場所である。

 

 だからこそ,常に「創造」を続けなければならない。

 

 「創造」は,「新しいこと」だけとは限らない。

 

 「学校は,何をつくることができる場所か?」を考えていく場が求められている。

 

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教員になりたての人がすぐ辞める理由

 教員養成系大学は,教員になって必要なことをほとんど教えていない,と揶揄されます。

 一部の大学は,教員採用試験の予備校だと。

 何も知らない人が,わずかな教育実習の期間に学んだことをベースに,現場に入っても,戸惑うだけだと。

 これらはすべて,見当違いかもしれません。

 教員としての資質・能力は,いつ育つのか。

 優秀な教員の子ども時代をリサーチした人はいるでしょうか。

 教員というのは,他のほとんどの職業と違って,自分が子どものときにいた場所で仕事をする人,子どものときに,やがて自分がつく職業の人をずっと見ていた人である,という特徴があります。

 教員に向くか向かないか,教員になった後,続けられるかどうかは,すべて自分がどういう学校生活を送ってきたかにかかわるような気がしています。

 もちろん,教員が辞めるとき,その理由を後付けでいろいろ語るのは簡単です。

 本当のことはもしかしたら本人にもわからないかもしれない。

 ただ,「知識がない」ことが理由ではない,というのが私の考えです。

 教員養成にかかわるセンセイが,掲示物の貼り方の例を挙げていましたが,そんなものは子ども時代に学んで知っていて当然の話です。

 どういう教員に子ども時代に習ったか,子ども時代にどういう経験を学校でしたのかが,自分の教員生活に非常に大きな影響力をもっている,・・・というのは,当然の話なのではないですか。

 他者への依存型で生きてきた教員は,同じような依存を期待して自滅することがあるでしょう。

 自分が寝ていた授業の記憶しかない人に,子どもを眠らせない授業はできるのでしょうか。

 もちろん,教員には「反面教師」という機能が果たせる特殊な環境が用意されています。

 本当に頼りなさそうな担任のクラスが一致団結,まとまってしまったり。

 小学校と違って,中学校にもなると,「将来の教員モデルのサンプル」をたくさん見ることができます。

 辞める前に,自分は,お世話になった教員のうち,どのようなタイプの教員なのか,考えてみてほしいです。

 多くの人は,教員の強烈な劣化を気がかりにしていますが,教員の立場ならば,他人事ではありません。

 自分の分身が辞めていく姿を見て,何を考えるのかも大切なことでしょう。

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教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない

 変化の激しいこの世界,数十年後がどうなるかなんて,絶対にわかりません。

 危機を煽っている人間たちは,たいてい,危機とは縁遠いシェルターの中にいる傍観者です。

 電話による高齢者への詐欺と同じとは言いませんが,見える構図は同じです。

 人間の心理をいじります。どういじったら,どんな効果があるか,なんていう嫌らしい実験が大好きな人たちのおかげで,詐欺の手口も非常に巧妙化しているそうです。

 大変なことになるぞ。仕事がなくなるぞ。だから今,こんな教育が必要なんだ,と言って「売りモノ」を提示する。

 はい,これを買って読めば,こうなる。こういう本が精神安定剤代わりになる教員はいるでしょう。

 ただ,読んでも意味がわからないか,思い通りにならない教員が普通でしょう。

 教育の場合,実際のコミュニケーションに占める「文字」や「言葉」の割合は,とても小さかったりします。

 当たり前のことをいちいち言葉で言うロボットのような教員に子どもはついてこないのです。

 硬直化した学校制度と頭の固い管理職のせいで「学校がつまらない」「子どもに愛情がわかない」なんていう人,それは,制度や他人のせいではありません。あなたの問題です・・・ってどっかのポスターにありましたね。

 繰り返しますが,数十年後の話は,だれにもわかりません。

 相手はすでにこの世にいません。数十年後まで覚えていて「あれ?おかしいな?」と思うような人もいないでしょう。

 45分ごとに楽園ごっこをしている子どもたちが,幸せになれないわけではないのです。

 45分ずっとノートに落書きをしている子どもが,優れたアーチストになる可能性もあるのです。

 こういう「願い」があらゆるものを逸脱・超越していく図式は,全く戦時中の軍部そっくりです。革命運動真っ盛りの「同志」集団そっくりです。

 「言ったモノ勝ち」です。しかも声を大きくして。ヒトラーの演説とセットで視聴してみたらいかがでしょう。

 この手の教員が近くにいると,恐らく周囲はものすごいストレスを感じるでしょう。だから飲んで憂さ晴らし,の繰り返し。

 私は子どもと教員が気の毒でなりません。

 恐らく冷静に周囲から眺めてみれば,1人を救うために他が全滅するような事態も起こりうるでしょう。

 再度大きな震災があったときなどは,目も当てられない状況になるかもしれません。

 何しろ,「一人も見捨ててはいけない」のですからね。

 ドラマとしては,その方が心を打つのでよいのかもしれません。

 空想ですましておくべきです。

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「一人も見捨てない」は罪な要求である

 「一人も見捨てない」という教師から子どもへの要求を,子どもはどう受け止めるべきなのだろうか。

 もし従わない,という選択肢をとったら,「弱い立場の人間を見捨てることは,よいことか?」などといじわるな質問をされる。「お前は道徳的に問題のある人間だ」とレッテルを貼られてしまう。だから強制されるしかない言葉となる。

 「見捨てられてきた側」からすると,「一人も(自分も)見捨てられない」という状況は喜ばしいものだろうか。そういう体験をしたことがある私は,必ずしもありがたいものとは言えないと考える。いわゆる「ありがた迷惑」な状況がたくさん生まれるから。

 たとえば授業でわからないところがあると,よってたかって「教え」にくる。何しろ,できない子どもを「見捨ててはいけない」のだから。いろいろ「親切」にされて,「それでもわからない」のだが,「わからない」とは言いにくい状況になり,つい「わかった」と言ってしまう。テストのときに,ウソをついていたことがいちいちばれてしまう。

 「一人も見捨てない」という要求の問題を子どもにする教師の立場から考えてみる。 

 「子どもの扱い」が上手い教師なら,「一人も見捨てない」ことへの不満を封じ込めることが可能かもしれないが,「優秀な教師」=「子どもを騙すのが上手な教師」という評価が定着しそうでおそろしい。

 外国人の割合が高い一部の学校に限らず,「一人も見捨てない」という「強い」使命を小学生に課すのは,非常に重い要求であると言わざるを得ない。

 すぐに思い浮かべられるのは,戦時中の「玉砕」である。以前も「一人も見捨てない」という方針は「全滅」につながる危険な思想である,という趣旨のことを,震災における避難行動を例に強く訴えたが,今回は「大人の勝手な理屈への服従」という点から,益よりも害があることを述べておきたい。

 実際の授業では,「7・5・3(小中高での満足に学修を終えた児童生徒の割合)」と言われるように,決してすべての子どもが「最低限」の知識・技能すら習得できないまま,はじかれることのないエスカレーターに乗って進級していく。

 日本が「落第あり」に舵を切るのは,相当に無理があることだろう。

 不登校などによって学習ができず,学力がつかない子どもを「進級させるのが気の毒」と考える欧米と違って,「進級させないなんて可哀想」「進級させないなんて,あり得ない」と考える日本の溝は簡単には埋まるまい。

 現状としては,日本の大人は明らかに子どもを「見捨てている」のである。授業を「優秀な子どもに教えさせる」という方針は,「子どもに見捨てさせる」という責任転嫁にすぎない。学力の定着という,教師が実現できない問題をうやむやにしたまま,子どもたちにはひたすら「一人も見捨てるな」と要求するような大人が近くに居続けることは,結局は大人になれば無責任がまかり通る世の中にしてよいということを教えているようなものである。

 私有財産制の廃止など,共産主義思想として植え付けることを宣言しているというのなら,とてもわかりやすい。

 悲観的な私は,「実験」の結果を知るのは決して「楽しい」ことではないが,「過去の失敗をすべて理解した上で実践しても,なぜ失敗し続けるのか」という理由をしっかり認識してもらうことは,大事なことだろう。

 「一人も見捨てない」という「信念」は大事だが,それを「手段」として使うことが,最大の問題なのだ。

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列で並ぶこと自体が好きな?日本人

 あけましておめでとうございます。

 新年にも書きたいことがいくつもあったのですが,ネタ的に少しふさわしくないかなと考えて,結局「列」の話になりました。

 「列に並ぶ」という言葉を聞いて,思い浮かぶものを考えてもらうと,小さい子ならディズニーランド,一定の年齢を超えると有名な店の順番待ちといったところが上位に来るでしょうか。

 今年も当たり前のように,福袋を買うための長い行列ができています。

 日本以外で似たような光景が見られる国は,どのくらいあるのでしょう。

 そして,いつまで日本人は「蟻」のような習性を持ち続けるのでしょうか。

 以前も書いたことがある内容ですが,ある万博で,私は友達と一緒に列に並ばずにすいすいと展示場に入れるという経験をしました。時代が時代だからでしょうか。その友達とは,万博に協力している企業の経営者に近い人の子どもでした。障害者優先レーンを通って,2時間,3時間待ちの人たちとは別に,展示を楽しめたのです。

 人間は,一度そういう「優先権」を体験すると,「おいしさ」に慣れるというか,「つらさ」に耐えきれなくなるものでしょうか。また,「感動」というものも,失われていく傾向にあるのでしょうか。

 万博会場では,罪悪感もありましたが,展示が特に素晴しかったという印象もありませんでした。

 何かにじっと耐えて,耐えさえすれば必ず手にすることができるような経験を,多くの人は大切にしてきたと思います。

 しかし,これからは,待っているだけでどうにかなる,という社会ではなくなっていくように思います。

 それでも日本人は待つことが可能なのか。

 それとも,列に割り込むのが当然という人たちが増えるのか。

 学校現場にいて,年配の人たちが抱いている危惧は,わからないでもありません。

 だから,「道徳の教科化」という方針も,全く理解できないわけではないのです。

 しかし,少し考えるだけで,そんなことをしても未来に何の保証も得られないことはわかるはずです。

 「美徳」と「愚鈍」の差が,行動をただ美化したい人,自己満足したい人,人に強制させたい人にとっては,ほとんどゼロに近いということを忘れてはいけません。

 ただ黙ってセンセイの話を聞き,センセイが想定する答えを気に入られるように答えてきた人間が,どうなっているか,わからない人はいないでしょう。

 ただ大人しく列に並んで行儀良くしていることで,満足できる国民が作られ続けたとして,その先に待っているものは何なのでしょう?

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止まらないビールの需要減

 私には飲酒の習慣がない,というよりは,お酒が飲めない。

 人生の楽しみの一つを失っている,という宣告を下されたことが何回もある。

 体格を見てほとんどの人が「信じられない」と言う。「飲んだらどうなるの」と聞いてくるのがわずらわしい。

 外国人のようにわかりやすく納得させたい場合は,ウソなのだが肝臓を指さすとうなずいてくれてそれで終わりである。

 ビールの市場規模の縮小が始まったのは,1990年代後半,バブルがはじけてしばらく経った頃からである。

 ただ2000年頃までは,ビールより酒税の安い発泡酒(酒税法では,麦芽使用率が3分の2以上のものをビールという)の消費が増えており,ビール+発泡酒の消費量にはあまり変化がなかった。

 しかし2004年頃に,新ジャンル(麦芽を全く用いないもの)のビールが登場すると,ビール全体の需要はどんどん減り続けるようになった。

 メーカーは,ビール350ml当たり77円かかる酒税があるため,価格競争の意味でも発泡酒(約47円)や新ジャンル(28円)の投入によって生き残りを図ってきた。

 データを見ると,若者の飲酒習慣が大幅に低下していることが影響している。だから,業界としては,若者をいかにアルコールに近づけさせようとするかを考えているだろう。

 私が教員に採用された平成の初め頃は,とにかく「飲めないやつは人間じゃない」くらいに差別されたものだが,今では「飲まない人」の方が多くなっている。私もずい分と気が楽になった。

 飲める若者が減ったことを嘆いている50代が多いかもしれないが,健康診断をばっちり毎年やられると,気持ちもしぼんでしまう,ということにもなるだろう。

 テレビのコマーシャルでは,どれだけおいしそうに飲んでみせることができるかを競い続けている。タレントは撮影前にサウナなどに入ったりして,「のどが渇いている状態」をつくらされているのだろうか,などと余計なことを考えてしまう。このようなCMがなくなったら,さらに需要は落ちてしまうのだろうか。

 酒類全体からビールの割合は,1989年に71%だったのだが,2016年は何と31.1%にまで落ち込んだ。

 増加率が最も高いのはリキュール類で,1%くらいしかなかったのが24.5%にまで増加した。

 ワインの消費も増加傾向にある。

 「お酒と言えばビール」という世界ではなくなった。飲み会でも,「最初は全員ビールで乾杯」というと,拒否する人が出てくるから,いちいち一人一人注文を聞くことになる。

 「多様化」という流れは,どの業界でも起こっていることだろう。

 「1強」が去った後に,「成熟」がやって来る。

 政治の世界でも似たようなことが起こらないだろうか。

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遠慮しないで情報を提供しろ!~いじめを見逃す環境との戦い

 学校によっては,闇雲に定時一斉(よりはたいてい1時間から2時間くらい後に設定されると思うが)退出を推進しようとしているところがあるのではないか。

 放課後の活動がほとんどない小学校ではやりやすく,中学校も極小規模で部活動がほとんどさかんでない学校ではやりやすい。

 組合の組織率が低下し続けている今,勤務時間の短さを競い合う時代が来るとは思ってもみなかった。

 困っている先生方にメッセージを送るとしたら,・・・。

 無理矢理に持ち帰り仕事にさせられる場合は,すぐに不服を直接伝えるより,合計何時間分の自宅勤務をさせられたか,累計をしっかりとって,1か月とか2か月「たまった」状態で「発表」することをお薦めしたい。

 ただ,決してためたり,なかったことにしたりではいけない仕事が教師にはある。

 それは「いじめ」への対応である。

 少しでも気になった点があれば,「いじめる側」はもちろん,「いじめられる側」の子どもから,さらにはそれぞれの生徒と親しい子どもから,しっかりと聞き取りを行って,対応を「組織」で(たいていは学年で,重いものや他学年にまたがっている場合はいじめ対策委員会等で)協議する必要がある。

 冒頭のような環境の学校にいる少し消極的な教員が陥りがちな課題がある。

 「これ,報告したら,いろんな先生方の仕事を増やしてしまうな・・・・」

 「本人からの訴えがないんだから,いいか,見なかったことにしよう」

 この瞬間に,「自殺」への一直線のルートが確立してしまうケースもあるだろう。

 「忙しい」「忙しい」と言っている割に,たいして仕事もせず,さっさと帰宅してしまう教員が多い組織に対して,「憶測や思い込みにすぎないかもしれないこと」について,先生方の対応について協議してもらうことをお願いするにはけっこうな勇気がいる。嫌われる勇気が必要な行動である。下手をしたら,教員である自分自身が組織から「いじめ」を受けることになるかもしれない。そんなのは嫌だ・・・。

 いじめられているかもしれない子どもに寄り添おうとしない教員の構図は,実は教員の組織内にしっかりできあがっていたりする。それが学校が信頼されない大きな理由の一つである。

 「働き方改革」と「いじめ対策」をどうしたら両立できるか。簡単な話である。「いじめ」を早期に発見し,聞き取りや指導をすぐに行う。子どもたちは,教師集団の機動力の高さを実感したとたんに,「より気づかれにくくやる」という方向へ舵を切るかもしれないが,そこはベテランの力の見せ所である。ベテランがいない?育たない?そんなことを言っていると,「いじめ被害」の恐怖心から,親も子どもを学校に通わせなくなってしまう。

 いずれ学校にも,「不審者判別防犯カメラ」が設置される日が来るのだろうか。もちろんカメラが常時監視するのは,生徒たちである。心拍数が上がったりした生徒はその都度「履歴」に氏名が重ねられていき,「呼び出し」を受けることになる。

 教員にはどれだけの資質・能力が必要とされているか,実感できる話の一つである。

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改正教育基本法第16条の問題点

 教育基本法の第三章「教育行政」の規定が,

教育は,不当な支配に服することなく,国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。(改正前の教育基本法第10条)

から,

教育は,不当な支配に服することなく,この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり,・・・

へと書き換えられている。

 第16条 2項には,

国は,全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため,教育に関する施策を総合的に策定し,実施しなければならない。

とあるため,現在実施中の全国学力調査は,旭川学力テスト事件のときよりも,さらに「合法」らしさが増している。

 授業を行わず,「調査」=テストによって「教育水準の維持向上が図れる」という発想の裏には,「自治体ごとに競争させて,テスト対策を頑張らせる」という意図が見えるわけだが,学校の教育課程に「調査」の日を位置付けなければならないことは,「不当」とまでは言えないかもしれないが,立派な「支配」になっていることには間違いがない。

 改めて,旭川学力テストの判決文を読むと,いいことも書いてある。下線部に注目。

>子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、子どもの性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請されることは原判決の説くとおりである

>また、教基法が前述のように戦前における教育に対する過度の国家的介入、統制に対する反省から生まれたものであることに照らせば、同法一〇条が教育に対する権力的介入、特に行政権力によるそれを警戒し、これに対して抑制的態度を表明したものと解することは、それなりの合理性を有する

 あれ?と思うかもしれない。それでは「違法」なのでは?と。残念な続きがある。

>けれども、このことから、教育内容に対する行政の権力的介入が一切排除されているものであるとの結論を導き出すことは、早計である。さきにも述べたように、憲法上、国は、適切な教育政策を樹立、実施する権能を有し、国会は、国の立法機関として、教育の内容及び方法についても、法律により、直接に又は行政機関に授権して必要かつ合理的な規制を施す権限を有するのみならず、子どもの利益のため又は子どもの成長に対する社会公共の利益のためにそのような規制を施すことが要請される場合もありうるのであり、国会が教基法においてこのような権限の行使を自己限定したものと解すべき根拠はない。(以上の判決文は,裁判所のHPの判例文より引用)

 改正前の教育基本法でも,「不当な支配と言われない程度の介入はいくらでも行える」という解釈で,「国民全体への責任」としてしまうと,反対意見を言う人間がたくさん出てきてしまうためか,改正教育基本法では「法律次第でいくらでもふくらませることができる」状態にした,ということだろうか。怖い話である。

 前川喜平氏の『面従腹背』(毎日新聞出版)で紹介されていた話だった。

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五輪ボランティアの数字を見て

 「奉仕活動」というカリキュラムがあると,「奉仕」するのは「強制」になる可能性がありますね。

 何しろ,「奉仕活動」って名前の授業で,「奉仕」しないとは何事だ!と怒られてしまうので。

 昔から,そういう「報師活動」はありましたよね。

 さて,都立高校でボランティア応募の強制か?という疑いがあった件で,学校側は否定していたようですが,もしかしたら学校別の応募者数が公表され,管理職の評価に反映される,という情報でも流れたのか?と勝手に想像していたりもしました。

 特筆すべきとして挙げられているのは,外国籍の方が4割近くも占めているということ。

 恥ずかしいですね。

 「私の国では,学校で英語を何年学んでも,話せるようにはならないんですよ」

 ということを世界に知らしめた感じです。

 こんな数字のおかげで,また学校の授業が「英会話教室」になってしまうおそれがあります。

 人に合わせてモノを考えて話せるようになるためには,相当な時間が必要だと思います。週4時間のペースで勉強したところで,忘れていく子はどんどん忘れてしまうでしょう。

 ただ,皆さんとにかく気をつけてほしいものです。

 来年の真夏に,一度,模擬演習をしてみて下さい。

 そういうプログラムになっているでしょうか。

 無理そうなら,すぐに辞退しましょう。

 倒れるボランティアを介抱するボランティアが大量に必要になってしまいます。

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生徒との対話の中から自然に目標達成へのルートをつくる

 授業の話がまともにできる人が少なくなっているかと思いきや,先日参観に来ていただいた教職大学院の方々から,ご丁寧な礼状をいただいて,その内容を読んで嬉しくなった。

 授業づくりのヒントを様々な教科から学ぼうとされている,数学の方からのコメントが特に新鮮だった。

 目をつけていただいたのが,「生徒との自然な(わざとらしくない)やりとりの中から,目標達成への道筋をつくり,引っ張り上げる」という「技」だった。

 授業を長年して,参観者からのコメントをうかがっていると,こちらが意図して行っていること,意図せず行っていることが,あまり当たり前ではないという事実を思い知らされることがある。

 社会科の授業では,授業の主題をいきなり板書するパターンと,後出しにするパターンがある。

 どんなときに先に提示して,提示しないときと,どんな条件が異なるのか。

 こういう話ができる人とのかかわりは楽しい。

 何の脈絡もなく,「やることに決まっているから」という理由でいきなり課題を提示され,教師による少しの説明の後,できる生徒を頼りに学習を丸投げされるような授業を続けて受けたりすると,実験室の犬のような子どもができあがるに違いない。どうにかしてそんな授業に若い人たちが引き込まれないよう,尽力していきたい。

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南青山に似た環境の公立学校は,頑張った。

 児童相談所を南青山につくってほしくない。南青山のイメージが崩れる。

 こういう「住民」(本当の住民かどうかは,確かめようがない)の声を「説明会」の映像で直接耳にすることができた。

 南青山のイメージを崩そうとしているのは,だれなのか,という話でもある。

 火葬場とか葬儀場,ゴミ処理施設といったものに限らず,保育園や公園ですら,反対の対象となる。

 児童相談所の場合は,その間くらいに位置する「嫌われる施設」なのだろう。

 慌てて政府や文科省は,「道徳教育に力を入れなければ」「高校の必修・公共でしっかり教えなければ」と思い始める。

 いくら学校で本音を封じ込めたところで,当事者の「住民」となった瞬間に,今まで学んだことがチャラになる,といったことにだれも責任をとらずにすむのだから,やれることはやるという行動パターンになるだろう。

 南青山とは全く別の環境だが,同じように住民から総スカンをくらっていた学校があった。

 そこは,人口が増えすぎたので,都営住宅をつぶしてまで,学校をつくらなければならない,というところだった。

 新設された学校に集まってきたのは,異なる制服を身にまとった「追放者」たちだった。

 ここでの「追放者」とは,自分の意思で転校したわけではなく,もといた学校から「追い出された」生徒たちのことを言っている。

 当然のように学校は開校当初から荒れ続け,生活指導の事件のときに,学校の全景が空撮で新聞に載ったこともあるという。役所や教育委員会からも「絶対に荒れはおさまらない」とされたところだった。

 そんな学校でも,時間はかかったが,「ここを卒業できてよかった」と思う子どもが増えていった。

 「開かれた学校づくり」は,新しい学習指導要領で始まったものではない。大昔から学校には協力者がたくさんいた。地元の自治会からなにから,すべての人々が応援したくなる学校をつくったのは,子どもたちである。

 児童相談所の場合は,学校とは逆で,むしろ「閉ざされた施設」という性格をもつ。

 南青山の場合は,とても「適した立地」だと思うのは私だけだろうか。

 地域住民に協力を求められることはまずないだろう。

 児童相談所を抜け出した子どもに,盗みに入られたりするのが嫌だ,とでも思って反対しているのだろうか。

 街頭インタビューでは,これも住民かどうかわからないが,数が足りずに困っており,社会には必要な施設であるから,むしろ南青山に建設されることを誇りに思わなければならない,という声もあった。行政のヤラセでないことを切に願う。

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偶然の重なりと緻密な演出~インスタレーションから受けた刺激

 ネタバレを避けるために,どこのどのような美術館であるかは伏せておくことにする。

 ある施設を見学する目的で,その美術館を訪れたのは昨日のこと。

 特別な趣向の企画展が開かれており,私は多くのことを学ぶこととなった。

 日常の中で,いかに多くの大切な変化を見落としてきたか。

 施設の方に関心があった私は,せっかくの美術展示のいいところを見落としたまま,その場を去りかけていた。

 空間にただならぬ「気配」を感じることはできたものの,「仕掛け」には気づかなかった。

 そこへある仕掛けを管理されている方に声をかけていただき,「その瞬間」を待ち,見届けることができた。

 作品が,1日,1日,変化する。2か月後,3か月後には,どうなっているのだろう。そんな期待をもって,再び美術館を訪れる人のための割引制度が用意されている。

 古寺めぐりには興味があっても,美術館めぐりを趣味とした経験がない私にとって,今回の企画展はとてもよい刺激となった。

 今,私はとても苦しい立場にある。

 「あり得ないことが起こる」といった経験を立て続けにしている私にとって,もはや悪夢から抜け出す方法は一つしかないとあきらめかけている。出口のない迷いの感覚に,完全に疲弊している。

 2005年から続けているこのブログの終着点が見えてきたようだ。

 無限の可能性を子どもには期待できるのだが,大人はダメなのだ。

 子どもに夢を持たせることができないとあきらめるようなことになったら,教師などやっている資格もなくなる。

 まだかろうじて,子どもたちには多くの期待を寄せることができている。

 しかし,大人は厳しい。

 病院にたとえれば,学校は無数の子どもの死体を作り続けていることになる。

 重病で苦しんでいる子どもが放置されているか,さらに虐待を受けている。

 死ぬべき人間が生き存え,生きるべき人間が死んでいく。

 美術館で落ちてくる桜の花びらに感じたのは,果てしない後悔の念であった。

 そして今日は,優れたリーダーシップでメンバーをまとめている校長先生に招かれて,「授業づくり」の研究成果を発表することができた。参加された先生方の表情は,真剣そのものだった。

 私は「中央」の人間の扱いを受けていたが,正直申し上げて私は「中央」を見限った人間である。その経緯も簡単に申し上げた。理由が具体的であるので,相当説得力は高かったようだ。

 反旗を翻すか,もう少し様子を見るか。

 これから起こることを,すべて偶然の産物であるかのように思わせるための緻密な演出が必要となる。

 インスタレーションからもらったアイデアを生かしたい。

 大人たちの多くは見過ごすことになるのだろうが,子どもたちはきっと気づいてくれるだろう。

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愛校心によって大切なものを失った経験から

 愛国心の何がどのように「危ないもの」かを,日本人やドイツ人ほどわかっている国民はいないはずである。

 しかし,日本政府は法律に基づいて,「愛国心を育てる」ことを学校に求めている。

 あるニュースで,「昭和の体育会」と呼ばれる大学病院をもつ大学の不適切入試の事情が紹介されていた。
 
 「卒業生の子どもなら,長時間労働に文句は言わないだろう,経営に文句は言わないだろう」という,「愛校心の利用」の具体的な例である。

 自己犠牲の精神は,現在の道徳教育でも非常に重要視される徳目の一つである。ブラック企業が栄える理由の一つである。

 愛校心や愛国心のような,組織に対して従属的になっている心情を利用しやすい立場にいる管理者たちは,従業員たちの仕事へのモチベーションを高める技能を問われることがないので,本当にお気楽ですませられる。

 「私は進んで仕事をしているんです」「もっと仕事をさせてください」とまで言われて,「もう仕事はしないでいい。早く家に帰りなさい」と言える上司はどのくらいいるだろう。

 私自身は,愛校心があるために,大切な「職」を失った人間の一人である。また,その愛校心のために命を落とすかもしれない「過労死候補者」のうちの一人である。

 こういう私が歴史を教えていると聞くと不気味に思われるかもしれないが,「御恩」と「奉公」を時間差で実施している人間である。今,ちゃんとお給料ももらっているから,現在でも「御恩」が保障されている,とも言えるが,精神的な問題で言えば,「奉公」をしている対象は「今の子どもたち」と同時に,「恩師たち」ということになる。

 愛校心とは,犠牲を伴う心であることは明らかである。

 「愛校心をもつものを優先的に合格させたい」という意図をもつ管理者側と,実際に愛校心をもっている側は,時間的にすれ違いの関係にある。

 国を愛する心を持っている者が,国を愛しているかどうかわからない人たちに利用されることで,国はいい方向に導かれていくとは限らないという簡単な話が,よく理解していただける事例だと思う。

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電子黒板が使い物にならないことを知っていた人たち

 電子黒板や電子教科書など,学校現場で使い物にならなそうなものはたくさんある。

 学校ほど,「ハイテク」が機能しない場所はない。

 地方の国立大学に行くと,本当に困る。HDMIの端子がない。私立の大学なら,大丈夫か?というと,学生が使う机には携帯やパソコンを充電するためのコンセントがあるが,プロジェクターも古いし,操作性がよくない。

 大学の大教室や学校の講堂のようなところならまだしも,40人しか入らない教室では,65型のテレビ1台あれば,十分である。どこのメーカーか知らないが,価格が10万円くらいだった。

 タブレットを子どもに持たせるのはいいが,いつでもどこでも充電できる環境がなければ,6時間授業はもたない。

 iPadでもぎりぎりになることがある。

 これまで,とんでもないコストがかかるわりには,ほとんど死んでいたものはどれだけあったか。

 何も知らない人は,各学校に1台電子黒板があれば,それでいい,と考えてしまったりもする。

 1人しか使えないものは,結局,だれも使えずに終わることになる。

 電子黒板を使った教室と,使っていない教室での学習状況にそれほど違いがないのであれば,入れる意味はない。全教室への導入という目標が立っていないのは,効果が聞こえてこないからだろう。あれば邪魔になる,という声にもきちんと耳を傾けなければならない。

 私は,専門家でありながら,ICTにかかわる機器やソフトが現場にしっかりと定着し,効果がきっちりと出ることを読めなかった人を信用すべきではないと考える。というか,それがわかる専門家なら,もっと別の仕事をしているに違いない。

 使えもしないのに機器ばかり導入しようとする人はいないだろうか。

 学校以外のところで生徒が個人的に活用するのは自由である。動画サイト漬けになって学習に身が入らないようになるのも,すべて買い与えた人間の責任である。

 そろそろ,「本物」と「本物っぽいけど,残念なもの」の区別をしっかりとすべきではないか。

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私でなくてもいい,私ではない方がいい

 教員の多くは,ちょっとやそっとのことでは心が折れません。

 いちいち生徒がしでかしてくれることに怒ったり落胆したりしていては,きっとストレスですぐに病休に入ってしまうでしょう。

 ただ,こういう「心の強さ」は,別の角度から見れば「鈍感すぎる」という嫌悪感すら抱かれる「短所」にもなります。

 生徒の表情や心の中を読めず,直接は言われないかもしれませんが「空気が読めない教師」と陰口をたたかれても,そんなことはどうでもいい,自分は自分のやるべきことをやる,なんていう,人間相手の仕事には不向きであるはずの教員がいます。

 一方,最近は,小中学校時代から本当に「真面目」に勉強に取り組んでいたんだろうなあ,と実感するような「良い子」「良い若者」が増えています。こういう「真面目」な人は,自己評価も的確に行おうとします。

 そうすると,ときには,「私ではない方が,子どもたちは幸せなのではないか」と思うこともあるでしょう。

 明らかに指導力が高い教員というのは,多くの人にとって,「ああ,~先生のことかな」と身近にいるから想像がつくものです。

 「~先生だったら,どうするだろう」ならまだよいのですが,「~先生だったら,子どもたちも嬉しいだろうな」なんて思うようになると,子どもの方も気づいてしまうようになります。

 こういうタイプの人は,また,得てして「新しい何か」「評判のよい何か」に飛びつきます。

 そして,「改めての挫折」を経験します。

 こういう「挫折」は,とても大事なものだと思っています。

 子どもやその保護者の側からすると,「ちょうど自分の(子どもの)ときに,ドツボにはまらないでくれ・・・」と思うこともあるでしょうが,子どもは「挫折から次のレベルへのステップを歩み出すプロセス」を目の当たりにすることで,大いに勇気づけられることになるはずです。そして,教員を「挫折から救う」のは,実は自分たち,子どもたち,児童生徒たちであることに気づきます。

 自分たちが挫折し,なかなか立ち上がれないときに,救ってくれるのも子どもたちです。ごくまれに,教員が手を貸してくれることもありますが,もしここで「お互い様」の関係でも生まれたら,卒業しても,貴重な関係は切れずに続くことでしょう。

 「先生でなくてはだめです」なんて,何度言われても嫌な気にはならないでしょう。

 教育の基本は,教えることができる教師と,同じように,教師に教えることができるような子どもたちとの支え合いです。

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なぜ360度評価が役に立つのか

 人物に対する評価というものが,いかにあてにならないものであるかは,360度評価を実施している企業ならしっかりとわかっているのだろう。

 ダメな人の評価はたいていダメなものであるし,仕事ができる人が,他の人の評価を正しくできるとも限らない。

 360度評価を実施すると,評価能力の高さを人事部は把握することができるので,将来の管理職候補が見えやすくなるという利点がある。

 10人が低い評価をつけているのに,1人だけ高い評価をつけている人がいるとする。

 そして,その1人の評価の方が正しかったことが後でわかることがある。

 こういう人物を,組織はしっかりと育てるべきである。

 学校の管理職には,「評価者訓練」というものがある。

 ケーススタディを読ませて,自分なら,どういう評価を事例の教員にするか,どんな指導をするかを書かせて,管理職としての評価能力,教員を指導する立場としての資質能力を向上させるための研修である。

 やはり管理職としての能力に乏しい人は,人物に対する評価もいい加減なものであることがわかる。

 そもそも管理職には向いていない人というのは,管理職になった後でわかるものだが,教育長としては,相対評価で校長の序列をつけなければならないために,こういうダメな人もそのときだけは役に立つ。

 子どもに対する評価が,どれだけ適切なものなのか。

 適切でないことが明らかになってしまう調査を実施することは難しい。

 なぜなら,その評価が入試の得点として使われているからである。

 いい加減なデータが合否にかかわってくることを防ぐためには,当日得点の割合を高めていくしかない。

 心ある教員としては,できるだけ多くの評価情報を集めて,子どもを「武装」させてあげたいと思うだろう。

 しかし,「評価集め」をしている子どもを見ることほど,哀れに思うことはない。

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PRで墓穴を掘る人たち

 一般的な学校では理解されることのない特殊な「考え方」に基づく教育が,「理解されない理由」を「未来がわかっていない人だから」とするのは傲慢以外の何物でもない。

 「今を犠牲にして未来での可能性に懸ける」という選択肢をとれるほど,公教育は甘くはない。

 公教育の現場から去ったはずなのに,仕事がら,その現場に関わり続けなければならない人たちがいる。

 先日,ある集まりで,開催の趣旨とは全く関係のない話をし出した(自分の大学の宣伝をし出した)元小学校の教員がいた。

 小学校のベテラン教師の「技術」に関する大学院生への指導場面で,始業前のベテラン教師の動きを検討させるところ。

 「教師は,教室の前をゆっくり異動している。なぜ言葉を発することもなく,移動しているのか」

 答えは,「子どもの目がこっちを向いているか,確かめている」そうだ。

 こういうくだらない話をするのが大学院というところなのだろうか。

 教師が挙動不審なら,いつも授業に興味を持たない子どもでも,「不審の目」で教師を追いかけたりもするだろう。

 また,せっかく意味のない動きをした後で,授業が始まってすぐに気をそらす子どももいる。

 どうせ自分の立ち位置を変えるのなら,まだ授業の準備ができていない子どもを見つけて,その場で声をかけてあげるべきだろう。

 直前の10分間の休みに何かなかったか,一人一人の表情を確認して,気がかりな子どもがいたら,別の要件で話しかけてみるべきだろう。

 ヘマな泥棒みたいな真似はすぐにでもやめるべきである。

 小学校のように,教育内容ではなく子どもとのかかわり方ばかりに教育の関心が向くのは,それだけ子どもとまともにかかわれない教員が多いからだろう。子どもとかかわれない最大の理由は,子どもが教育内容にどのような関心の向け方をするかに教員の方が興味がないからである。

 子どもの関心の向け方を知っている教員ならば,休み時間のうちから,次の時間の導入にあたる1枚の写真でもテレビかプロジェクターの画面に映しておいたりして,授業が始まる前から学習が始まっている状況をつくったりもするだろう。

 なぜ中学校や高等学校の教員も多く参加する場所で,そんな大学のくだらない授業の話をする意味があるのか。

 これから先,ただ採用試験の1次が免除になるという特権だけを求めて通う人が増えることで,教員の質は向上するのだろうか。

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130位でも選出された「高輪ゲートウェイ」

 横文字を入れれば「国際感覚がある都市」というイメージUPにつながる,と考えるのが今の日本人である。

 投票が最も多かった「高輪」は,地理的な理由から見送られた,とされているが,山手線の「大塚駅」があるのは,文京区大塚ではなく,豊島区である。豊島区には北大塚と南大塚があるが,大塚はない。あるのは「大塚駅」である。

 どうせなら,今ある山手線の駅に,全部「ゲートウェイ」などの横文字をつけたらどうか。

 上野ミュージアムズ

 御徒町ジュエリー

 とか。

 どうしても横文字は嫌だという駅は,

 巣鴨ジゾーズ

 秋葉原オタッキーズ

 など。

 原宿マイウェイ

 新橋レールウェイ

 新宿ハイウェイ
 
 新大久保コリアワールド

 ・・・
 
 いずれ秋葉原ファーウェイなんて駅名ができてしまったら,恐ろしい。

 日本の都市の良さは,地域が一色に染まっていることではなく,様々な要素が狭い中にひしめいているところにある。

 「わかりにくさ」が「不便さ」を良い価値で捉えることができるような文化が「持続可能な社会」をつくっているのである。

 そうすると,「芝浜」が最も「日本らしさ」を表せる駅名と言えるのだが・・・・。

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当たりすぎる占い師の助言が鍵か

 最近は占いがブームになることはないのかもしれないが,

 政界や芸能界,経済界でも占い師の言葉を先の方針への参考にしている人がいるという。

 継続的な信用?というか信仰?が続くには,それなりの理由が考えられる。

 占い師には,四柱推命などの「基本技」がある。

 例えば,ある皇族の方は,2年間ほど「天中殺」の時期にあたる。

 だから,占い師が近くにいたら,絶対にこの時期の結婚は避けるはずである。

 「3年後がいい」とは,「天中殺」明けである,というのが根拠である。

 方角のことも信じている人は少ないかもしれないが,

 悪い方角に引っ越した人は,大きな病気を経験したり,事業に失敗したり,離婚したりと,悪いことが続いたりする。

 それが悪い時期とかぶっていたら,「助言者はいなかったのか?」と「知っている人」からすれば,逆に不可解になったりする。

 トランプ占いなど,偶然性で決まるものではなく,データによってだれが見ても同じになるような占いだから,信じやすい人が多いかもしれない。

 京都の人で,比叡山がなぜあの場所にあるのか,言えない人はいないのではないか?と思ってしまうが,実際にはどうだろう?

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より