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「道徳があるからやってんだろ」と詰られる子どもたち

 行動の規範を教える方法は様々あるが,昔からさまざまな「形から入る教育」があった。

 その「形」には,「挨拶の仕方」のように,理想型というか定型を直接的に教え込むタイプのものもあれば,

 「茶道」「武道」のように,「応用をきかせるため」に教えるものもある。

 ブランド品を着せるだけで,着ている人間は立派になる,と考える人はいないだろうが,

 「形」から入る教育には,明らかな失敗事例が多発するため,摩擦も増える。

 「柔道」の世界では,指導者レベルの人間が犯した罪が,「柔道」そのものの価値を大粉砕してしまったようだ。

 「武道」をやってもこんなにひどい人間になるのもいるんだ,という共通認識ができたことは貴重だったのかもしれない。

 教育の世界では,そもそも「道徳」という時間(これからは「特別な教科」)が存在すること自体が,摩擦の原因になることは,義務教育の教師ならだれでもわかることだろう。

 家庭環境が荒れた子どもの中には,「教師が気に入るような真面目な行動」が大嫌いで,周囲の子どもが

 別に当たり前のように行動していても,「あいつは教師の気に入られるような行動をしている」と邪推し,

 からかったり,暴力をふるったりするのが出てくる。

 中には,本当に「良い子のふりをしなければならない」苦痛に耐える必要があるのが「道徳」である。

 教育というのは,本来,こういう「邪推」が一切生まれない環境でできることが理想であるが,進路がからむ中学校だと,ただでさえ「教師」と「子ども」の関係は「お互いに嘘が必要」になってくる。そこへ最大の癌の「道徳」がのしかかってくる。

 あいつ,ボランティア活動を熱心にやっているが,あれは「奉仕の精神」の評価ねらいだな。

 学校に内緒でやってるんなら,評価できるのに・・・・。

 「なぜ評価してはいけないのか」がわからない連中たちと教育の話をするのは疲れる。

 「勘違いされたくない」という純粋な子どもの心を最も強力に邪魔している「道徳」。

 「道徳」の次に問題になってくるのは,「どこどこ小学校」などという学校の「看板」である。

 他の地域からわざわざバスで通学しにきて,「うるさい」「邪魔だ」と迷惑扱いされている子どもに

 ブランド品を着せて,どうにかしようとする,という発想は「道徳」以下だが。

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アルマーニを着用する小学生から見える社会とは

 島崎藤村,北村透谷,近衛文麿らが卒業した小学校での話題が,ニュースを賑わせている。

 「東京の銀座に位置する公立の小学校。一体,どんな子どもが通っているのか・・・」と思われるかもしれないが,

 通わせている保護者の中には,至って「普通の方」がいらっしゃることがわかった。

 「アルマーニの制服は高すぎる」という苦情?が寄せられているという。

 学校側(校長)としては,後は説得を続けるだけだろうが,大きく報道されたことで,

 「説明責任」を果たすべき範囲が世の中全体に広がってしまった。

 もう少し後だったら,オリンピックの報道ですべてかき消されたかもしれないのだが・・・。

 今回の8万円とか9万円といった金額が,「過度の負担」に当たるかどうかは,

 容易に判断できるものではない。アルマーニでなくても,いいモノなら,それくらいかかる私立の学校は

 あるだろうから。ただ,「過度な負担」に当たる家庭がいれば,それは困るだろうから,区から補助が出る,

 というやり方もあるだろうが・・・。

 私は,小学校でも「形から入ろうとする教育」は今時珍しい,と逆に感心してしまった。

 これも周回おくれのトップランナーの類か。

 「アルマーニが似合う小学生」とは,ちょっと大きく出すぎている感じもするが,

 これだけの「桁違い感」は,どこか本当にスケールの大きな子どもを育ててくれそうな予感もする。

 中学校で言えば,部活に入って,ユニフォームだの,ジャージだの,個人の道具などが色々と必要なところなら,10万円くらい軽く飛んでいくだろうと思われるが,こういう部活の必要が「過度な負担」として社会問題になったことはないのではないか。

 おそらく,もう少しだけ報道がしつこくなると,教員達の服装にも言及されることになるだろう。

 子どもがアルマーニで担任が1万円福袋のスーツではまずいだろう。

 ジャージもブランド品を買うことになるのだろうか。

 東京都には,荒れているわけではないが,「絶対に行きたくない区」が3つあると言われている。

 杉並区,品川区,千代田区である。中央区ももうすぐ4つめの区として聞こえてくるようになるのだろうか。

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時間が足りなくならないアクティブ・ラーニング

 子どもが教師に利用され,道具として使われる仕組みのアクティブ・ラーニングは,時間通りに「学び」が終了できるのだという。それはそうだろう。道具は道具に過ぎないし,「終わり」が見える「学び」など,塾でもできるようなものだから,「始まる前から終わっている」ようなものである。 

 自分たちが子ども時代にしたことがない学習方法を,なんとかして「現役」の子どもに押しつけようとしている大人の必死さを,どう表現したらよいのだろうか。

 実は,子どもを道具として使う教育方法は,「手本」となる生徒がいて,他の生徒がみんなこれに習う(習わされる)・・・今から60年前の教育と同じである。生徒を道具に使う「詰め込み式」教育である。

 さて,どうして,「時間におさまるアクティブ・ラーニング」などと,すべてが満たされなければ許されないような要求ばかりするのだろう。

 この病的な教育への欲求は,「失敗作」に終わった自分たちのダメさ加減に対する反省の裏返しなのではないか。

 そんな改革が成功するわけがない。戦争に負けた国が勝った国の「精神的なもの」だけを輸入して勝つつもりでいるような,バカらしい発想はやめた方がよい。

 ついでに書いておくと,教育は意思疎通が困難な相手とも粘り強く対話して,一筋の光を探し共有しようとする営みを含んでいる。面倒臭いことはやらなない,コミュニケーションは遮断する,と宣言している人間に教育を語る資格などない。高校教師によく見られるパターンである。義務教育の教師から見ると,こういうのこそ教育のガンという。

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心なく才知ある者が,心あるも才知なき者を置き去りにする授業~考える道徳の末路

 考える道徳では,議論をかわす場面が出てくるはずである。

 社会科や国語で実践するかもしれないディベートと似たような状況に陥る可能性もある。

 資料の活用力があり,口が達者な生徒が評価される。

 はしたない人間が評価されやすく,奥ゆかしい人間が評価されにくい「特別の教科」の指導は大丈夫だろうか。

 中学校段階では,100字以上の長さの文章がさらっと書けない生徒が何%くらいいるか,ご存じだろうか。

 作文を宿題で済ませている小学校の教師には想像もできないだろう。

 ずけずけと自分の長所を並べ立てるような人間を好きになるような子どもに育てたいのだろうか。

 パン屋を否定し和菓子屋を否定しない判断基準をもつ人間たちから学べることは何だろう。

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入試問題のミスを探す専門家

 入試というのは,受験者はもちろんだが,選抜する側にとっても大きな負担となる。

 受験者は,できる問題を絶対に落としてはならない。

 選抜する側は,絶対に出題ミスを犯してはならない。

 最近のニュースではっとさせられたのは,京都大学の出題ミスである。

 大阪大学ではたいして驚かなかったと言えば,失礼になるかもしれないが,

 やはり京都大学のミスにはインパクトがある。

 近畿地方のある私立中学校では,受験生でもわかるミスをやらかしていたのだが,

 出題者の質が教育の質と深い相関関係にあるとしたら,学校選びの基準としても使えるかもしれない。

 大学の出題ミスに最初に気づくのは,予備校の教師の可能性が高いだろう。

 逆に言うと,ミスに気づけない予備校の教師には,少々ガッカリさせられる。

 入試問題の出題者側のチェックはしっかりと行われているはずだが,

 それでもミスは発生する。

 入学選抜の世界は,「働き方改革」とは一切無縁である。

 長期間の作業での緊張,秘密厳守のプレッシャーに耐え続けなければならない。

 そういう経験をしなくてすむ高校や中学校の教師たちも,大学入試問題を解いてみたらどうだろう。

 教え子たちより学力が低いというのはまずい。

 自分が教えた子どもが受験するテスト問題には,やはりできるだけ目を通すべきだろう。

 現場教師たちによる,出題ミスを探すための専門家集団というのができてほしいくらいである。

********************

 この記事を書いて公開する前に,体調を崩してしまった。

 その後,文科省内に入試ミス対応窓口が設置されたことを知った。

 だれがどのような「対応」をするのか知らないが,ここまでのことをしなければならない中央官庁というのも,実に惨めなものである。

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教育の「効率」は何で測定する?

 新学習指導要領関係の説明にやって来る講師の評判がよろしくない。

 やっと「順番が回ってきた」人たちだから,もう少し練度が高まるのを待つという方針もあろうが,

 たぶん今のままではダメである。その理由は詰まるところ,

 自分の頭で考えて出てきたものではない教育を「語らされている」からである。

 ころころと所属の大学を変えているある人は,よく講演に呼ばれているが,内容のほぼすべてが断片的な他人の言葉の羅列に過ぎず,聴いている側はカタログを広げられているに過ぎない。そういうものだと理解すれば,別に腹も立てずにすむが,要は「専門ではないことを語らされるときはこうなる」という典型の一つなのである。

 講師にとっては「効率」がよい仕事だが,聞く側にとってはどうだろうか。

 もともと実力のある人しか集まらない研究会では,「自分の言葉」でしか語らない人しか呼ばれない。

 「効率」をそれほど重視しない人たちは,内容の重さを知っている。

 残念なことだが,今後,教育の世界に新しい無意味な尺度がどんどん入ってくるだろう。

 「働き方改革」まっしぐらだから,「効率」がよい候補である。

 「効率的な授業」「効率的な教育」「効率的な事務処理」・・・・・しまいには,「効率的な生活指導」・・・

 まともな教師なら嘔吐感すら覚える暗い未来が待っている。

 「効率的な教材準備」とは何か?

 実験をせずに実験器具の使い方や注意事項を理解させることが,「効率的」なのか?

 生徒に生徒を教えさせることが「効率的」なのか?

 まさか児童生徒を「使役動物」のように利用する授業方法まで提案されるとは。

 教育に「効率」の概念を落とし込むことができるから,ダメになっているものがたくさんあることを現場の教師は散々味わわされてきたはずである。小学校の教師は,1分1秒に追われる中学校の生活を1週間だけ体験してみてほしい。時間を「効率」よく使うために,1度にいくつのことを同時進行していなければならないか。

 しかし,「手抜き」が「効率」という価値に置き換えられたことでますます自分の責任を果たそうとしなくなる教師が増えていくに違いない。子どもまで「使役」の対象にするくらいだから,学級王国は王様にとってさぞ過ごしやすい世界になっていくだろう。

 「効率」は何を何で割った数字か。成績上昇率と時間か。そもそも仕事に労力をかけない人間に,効率も何もあったものではない。
 
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「時間を守らない」という文化をつくるのはだれか?

 ある高校の体育の授業の開始状況を見ていた。

 始業のチャイムでだいたいの生徒がそろっていたが,そもそも「整列する」という習慣がない授業なのだろう・・・・だれがいるのかいないのか,一目ではわからない仕組みであった。

 教師は1分ほど遅れてやって来た。

 その教師が「時間を守らない」という習慣を獲得したのは,どの場所でだろう?

 子ども時代に通った学校がそうだったのかもしれないし,

 家庭環境に問題があるのかもしれない。

 しかし,決定的なのは,出身大学の「文化」なのだと思っている。

 「時間を守る」という「文化」をもっている大学もあり,授業の集合の仕方,挨拶の仕方,整列の仕方,動きの機敏さなど,特に指導しているわけでもなく,子どもたちはすべてに渡って優れた行動をとっている。

 社会人になれば常識となる「時間を守る」という「文化」は,一部の大学の教師には存在しない。

 そういう大学は,社会人になれなかった人の集まりだと思えてしまうほどの「至らなさ」である。

 話を戻すと,体育の教師が「時間を守らない」人間だった場合,

 学校運営にどういう支障が出てくるか。決して無視できないものになる。

 多くの教師が,時間割で,体育の授業の次に自分の授業が入ることを嫌がるようになる。

 なぜなら,子どもたちが授業に遅れるからである。

 教師の「時間を守らない」習慣は,必ず子どもたちに伝染する。

 落ち着いた学校でも,「時間を守らない」習慣の拡大によって,簡単に荒れ始まることを知っているから,体育教師がまとっている「文化」には敏感である。

 「時間を守る」人間と,「時間を守らない」人間のそれぞれがまとっているオーラがどんなものか,教育の素人でもとてもわかりやすいと思う。

 「時間を守らない」人間は,信用されない。

 そういう「文化」を育んむ大学に通っていた教師は,気の毒に思える。

 しかし,最も可哀想なのはそんな教師の教育を受けている子どもたちなのである。

 大学名を書きたいという強い衝動に駆られる。

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小学校における学級崩壊要因の拡大に備えて

 教育改革が「改悪」に過ぎない最もわかりやすい例が,小学校における英語の必修化である。

 小学校教員の「ナマの声」も届くようになった。

 「せっかく苦手な英語に縁のない仕事につけると思ったのに・・・」

 小学生の子どもを持つ身としては,各学校に,「最も英語の指導に自信がない教師」の授業を公開していただきたい。中途半端な力量で自信満々にやっているものの,発音がひどい教師の英語を聞き続けるのは酷である。

 それよりも自信なさげ,申し訳なさげに,とてもじゃないが中学校の英語科の教師に見せられたものではない,ただの遊びのような授業を突きつけられる方が,「いかに時間を無駄にしているか」を実感することができる。

 実践力が低い教員の授業を参観することで,どこにどのような問題が潜んでいるのかを明確にすることができる。どこのだれがこんな学習指導要領をつくったのか,と国民の怒りを一つにまとめることも可能だろう。

 小学校の学級崩壊の要因には様々なものがあるが,

 とにかく授業がつまらない,という子どもの悩みが根本にあるように思う。

 指導力のない教員は,「楽しい授業」をしなければならない,と焦る。

 しかし,「学び」がなく「遊び」にすぎない授業はすぐに飽きられて,すぐに崩壊に向かうのである。

 子どもだって,「バカにされていた」ことがわかるのだ。

 楽しい授業ができる教師のおかげで,とんだとばっちりをうけている,という悩み方もあり得るが,子どもが「わかる喜び」を実感できない以上は,机に縛り付けておくことはそもそも困難であろう。

 子どもはいくらでも立ち歩いて構わない,という学習形態が存在してしまうのも無理はない。

 英語の授業が始まることで,小学校に学校崩壊要因が加わることとなる。

 どのような対策が取れるだろうか。

 保護者の方では,英語の塾に通わせるという短絡的な発想が蔓延するだろう。
 
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小学校に望む本当の「働き方改革」=小学校が変われば「中1ギャップ」解消に一歩近づく

 まともな学校では,自分で自分を「リーダー」と呼ぶような教師はいない。

 生活指導というと,「それに適した先生」の仕事のように思えるかもしれない。

 テレビドラマで「生活指導主任」の役者は,体が丈夫そうで,怖そうなタイプが選ばれる。

 しかし,実際の教育現場で,優れた生活指導主任の資質は何かと問われれば,

 私は「調整力」だと即答したい。

 管理職はもちろんだが,教師たちの声に耳を傾けつつ,基本方針を徹底してもらえる「話法」が必要である。

 「みんなで~しましょう」

 「私たちは,~しています」

 という「話法」で語れるかどうかが,まずは生活指導主任としての第一歩である。

 自分の考え(あるいは管理職の考え)を他人に押し付けるタイプの人が生活指導主任になると,

 どうしても教師集団のコミュニケーションが希薄になっていく。

 生活指導には,日々起こる新しい事態への機敏な対応が求められる。

 迅速,敏速,俊敏,・・・・そんな「動き」が生活指導の・・・・学校の,命運を握る,と言っても過言ではない。

 しかし,「問題となる事態」を見過ごす教師が一人でもいると・・・・

 あるいは,「問題となる事態」を隠す教師,一人で何とかしてしまおうとする教師がいると・・・。

 共有されるべき情報が共有されないことが,「荒れる学校」から変われない原因の一つである。

 授業は個人の技能次第でいくらでも生徒をひきつけることができるが,

 生活指導は教師全体の揺るぎない統一感が命である。

 だれの口からも,同じような状況では同じような言葉が発せられる学校であることが,

 「荒れる学校」から変わるための条件の一つである。

 「信頼される学校」に変わるために欠かせない条件の一つである。

 だから,「私はこうした」という話をいくらしても,現場の教師の「助け」にはならない。

 生活指導には,「私たちはこうした」という「話法」が欠かせない。

 「私たちの学校は,すべての教師がすべての子どものことを真剣に考える学校です」

 という言い方をすべての教師ができる学校づくりが,生活指導主任の最も大切な仕事となる。

 しかし,小学校にはそもそもそのような「話法」が通用しない空気があるようだ。

 学級ごとに異なったルールが存在するのは当たり前。

 その理由。「子どもが決めたから」。

 当然のことだが,「どうしてあっちはよくてこっちはだめなの」という話になる。

 「クラスが違うんだから,当然だ」という「話法」になる。

 こういう風土の学校では,教師たちが「私たちはこうする」という「話法」が使われることはまれだろう。

 あっちでは試しに「学び合い」をやっている,こっちでは「ドリル中心」でやっている,

 そっちでは「指導書どおり」にやっている。

 授業はそれでいいのかもしれないが,

 授業の基盤となる「生活」が,学級によって異なってしまっていては,中学校に進学したときのギャップに子どもは苦しむことになってしまう。

 どうして学校にマンガを持ってきてはいけないのか。

 どうして休み時間にゲームをしてはいけないのか。

 どうして放課後にお菓子を食べてはいけないのか。

 小学校のときは,よかったのに。

 昔は「いけないものはいけない」という言葉が通じたが,今はそうではない。

 小中のスムーズな接続に最も必要なのは,

 学習指導の問題ではなく,

 生活指導の問題である。

 生活指導の「話法」の有無が,問題なのである。

**************************

 以上は,2014年2月16日の記事:『生活指導の充実を図るための教師の「話法」』の冒頭を一部改変したものである。

 「私のクラスには,そんな問題はない」なんていう反応に意味がないこと,むしろ罪が重いことがわからない限り,小学校の学校経営がつとまるはずもない。管理職がいなくなるのも時間の問題だったのである。

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【都立高校入試】 インフルエンザにかかってしまった場合は・・・

 文科省からの指導もあり,インフルエンザに罹患して入学試験(検査)が受けられない中学生に対して,東京都教育委員会は以下のような方針を発表しています(HPより。日程を書き加えてある)。

 まだ続くチャンスが残されているので,すでに終了した推薦入試については,追検査は行われません。

*************************

 第一次募集において、インフルエンザ等の学校感染症(以下「インフルエンザ等」という。)に罹患し、受検することができなかった者に対して、志願した都立高校の受検機会を確保するため、以下のとおり追検査を実施する(分割募集を実施する都立高校を除く。)。

<実施日程>
○ 分割後期募集・全日制第二次募集と同日程で実施

   3月6日(火)  入学願書受付 

   3月9日(金)  入学検査実施

   3月15日(木)  合格発表

<応募資格等>
○ 第一次募集の検査日当日に、インフルエンザ等に罹患した者又はインフルエンザ等の罹患により出席停止中の者で、第一次募集で出願した都立高校を受検することができなかった者(1教科でも受検した者は除く。)のうち、インフルエンザ等学校感染症罹患者に対する措置を申請し、当該都立高校長から承認を得た者

<出願方法・出願手続>
○ 第一次募集において、インフルエンザ等の罹患により受検することができなかった都立高校にのみ出願することができる。
○ 追検査に出願した場合は、分割後期募集及び全日制第二次募集を実施する都立高校に出願することはできない。
○ 出願の際に、所定の入学願書のほか、医療機関の証明書又は中学校長が出席停止の措置を行ったことを証明する書類を提出する。

<学力検査等の実施>
○ 国語、数学、外国語(英語)の3教科及び面接等(各都立高校が定める。)
○ 学力検査会場は、都教育委員会が指定する。学力検査以外の検査会場は、各都立高校が受検票により指定する。

※ 募集人員は、平成29年10月に発表予定の「平成30年度都立高等学校第一学年生徒募集人員」に定める。
※ 実施要綱に定める内容のほか、追検査の実施に必要な事項は別途定める。

***********************

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小学校における究極の「働き方改革」

 公立小学校は,午後6時までに,次の利用者・従業員のために,場所を空けなければならない,という仕組みにすれば,小学校教員の「長時間労働」は抑制できます。

 午後6時から,塾,予備校,英会話教室,そろばん教室,料理教室,音楽教室,ピアノ教室,絵画教室,ダンス教室,体操教室,地域スポーツなどなどの開始です。

 塾に通う子どもも,一度,帰宅を義務づけます。だらだらと学校に居続けることは禁止です。

 授業料をできるだけ低く設定できるように,また,参入数を多く確保するために,使用料は限りなく安くします。

 子どもがいろいろな教室に通っているうちに,

 「午前中の授業に出る意味はないのではないか?」

 「午後6時からの教室の方が楽しいし,力がつくし,役に立つ」

 と感じ始めることによって,さらに教員の勤務時間は短くすることができ,やがてゼロになる。

 教員は再就職先を探すために,自分も教室で習い事を始める。

 究極の「働き方改革」が完成です。

 我が家の近所にある小学校は,かなりの崩壊度を誇っており,理想のカリキュラムマネジメントが,

 「午後6時からが大事」になりかねない猛威を振るっているようです。

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「深い学び」をイメージできない教員が多い理由

 いちいち説明するまでもないことでしょうが,自分がやったことがないことを人に教えることは難しいことです。

 音楽や美術,技術・家庭や保健体育で「深い学び」を実現させようとする人たちが落とし穴にはまることを,

 指導主事はしっかりと予見し,その防止のために力を尽くさなければなりません。

 世の中には,自己陶酔型の「深い学び」が溢れていますが,そんなものは無視して,子どもたちが学ぶ姿の実態から,本当の「深い学び」をくみ取れる感性が教員には求められています。

 現場に苦しみを植え付ける元凶になるのが,資質・能力という誤ったものの見方・考え方を前提にしてしまうことです。違う場所に正しいと誤解してどんどんボタンをとめていく事態は,避けられないのかもしれません。

 しかし,子どもの方を見ながら授業をすれば,高校生や大学生,大人を相手にするよりはるかにわかりやすく「深い学び」の本質を理解することができます。

 自分の頭を使って物事を考えようとしない教員が増えてきているのは,だれのためでしょう。

 「深い学び」を語る資格を持つことを自覚できる教員を増やすためにすべきことは何でしょう。

 できるだけ早い時期に,今まで「正しく」行ってきたつもりの,「観点別学習状況の評価」が誤っていたことを認めないといけません。

 個別の児童生徒の「思考力・判断力・表現力」の指導・評価場面が全くないのに,別の観点の尺度を使って評価していたことを認めさせることなしに,「深い学び」の実現に向かうことは不可能なのです。

 「正しく」できていないものを,できていることにする,という悪い習慣を消さなければならないのは,もちろん教育の世界だけではありません。

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官僚との「飲み会」をセッティングする大学のセンセイ

 私の知り合いの官僚は,自ら「飲み会」の場所を確保してくれるような気さくな方であり,とてもではないが公言できない情報がたくさん得られる機会をつくってくれている。

 身も蓋もない学校の話をたくさん書いてきたが,さすがに本家本元の情報をここで公開することは不可能である。

 省庁は別だが,教育の現場にとても高い関心をもってくれている人に出会うこともある。その方はとても謙虚であり,そのおかけでお互いに非常に濃密な情報のやりとりが可能になった。

 官僚との「飲み会」をすれば,誰が誰をどれくらい信用しているかが,手に取るようにわかる。

 信頼しなければならない人が信用されていないことを知ることも,長い目で見れば重要なことだろう。

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教員の業務負担軽減を考える業務がただ負担増加を招いているだけという笑えない実態

 おそらくですが,教育の世界で,真っ先に業務負担軽減を実施するところは,

 しらばくすれば最も業務負担が増える学校になります。

 教育という仕事の本質を理解せずに,時間の長さとか人の数とか単純な数字で何かを判断しようとする人間が改革にかかわることで,現場の混乱が避けられなくなる事態が続いています。

 業務負担を減らすための会議にかかわった先生が嘆いていらっしゃいました。

 「こういう会議こそ,負担しか増やさない」と。ろくでもない改善策を潰すための労力は相当なものでしょう。

 教育の世界には,現場の実態をほとんど知らない事務方と,私たち実働部隊という二種類の人間がかかわっていますが,事務方を家でも学校でも問題ばかり起こしている子どもをもっている人ばかりにすれば,少しはまともな「改革」が進展するかもしれません。

 
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教員の業務負担を軽減させる方法

 教育の仕事の業務量の中には,本来はしなくてよい仕事もたくさん含まれているのですが,

 それは本来しなくてよい仕事ができるのを防ぐためでもあります。

 この意味がわからない人が業務量を減らそうとすると,

 教育現場の仕事量は間違いなく増加します。

 心配事が増えるのも考えものです。

 業務負担を軽減させるには,増やすべき仕事があるのですが,

 その担い手を育てない限り,教育現場に未来はありません。

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「何何の仕方」改革が失敗する理由

 「働き方改革」は,今後上手に進めることができるでしょうか。

 教育の世界では,「~の仕方」という言葉が出てくるとき,現場ではたいてい成果が出せずに終わっています。

 「生きる力」が登場したとき,「学び方を学べる」総合的な学習の時間が始まりましたが,今,どうなっていますか?

 今度は,「見方・考え方」を働かせる学習が始まろうとしていますが,小学生が教科ごとにそれらを働かせることは可能だと思いますか? 

 高校の教育や授業を改善させる目的で,小学校から続く串を用意したのでしょうが,小学校でそれが機能するでしょうか?

 内容を語る力がなくなったときに,人間は何かの「方法」に頼ろうとします。

 教養が失われたときに,人間は何かの「手段」に頼れば何とかなると考えます。

 お粗末な内容のオンパレードによって,「方法」や「手段」が「戦犯」になることがわかっている教育改革。

 学校現場は,「働き方」の問題ももちろんあるでしょうが,「仕事の質」を問わずして,「方法」で何かが解決すると思ってしまう人こそが,「改革されるべき存在」なのです。

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どうして「本」に書かないと気がすまないのだろう?

 自分の教育理念等を広めるために,「本を書く」ことを選択する人がいますが,

 「本」の宣伝を自分のHPやブログでする余裕があったら,どうして

 HPやブログに内容をそのまま載せないのでしょう?

 新書の半分も文字の分量がないような内容を,わざわざ「本」にする意味はどこにあるのか?

 ・・・それは,本が仕事の「業績」になるからなんですね。

 売りものをつくれば,「お仕事」をしたことになる。

 世間に広める気があるわけではなくて,金を出して買ってくれる人にだけ情報を提供する。

 これを公務員の立場でやっている人もいる。

 本当に人の役に立つ気があるの?と聞いてみたいものです。

 ある小学校の研究会の参加費は5000円です。

 5000円払って,平日に授業や協議会に参加する小学校のセンセイがいるのは奇特なことです。

 小学校内に,複数の出版社がずらっと売りものを並べて待っている風景を見て,何か感じる人はいないのでしょうか。

 「働き方改革」より前に,何かすることがあるのでは・・・?

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出始めたら止まらない膿

 どこがどのように病んでいるかを説明できない組織では,「膿を出し切る」という能動的なことはできず,

 ただただ繰り返される問題に謝罪等でその都度対応せざるを得なくなる。

 また,膿を出しているそばから内部が腐っている場合,「垂れ流し」の状態が続くことになる。

 私は学校でそれを経験した。

 自分たちに課題があることを認められない組織では,何も解決できない。

 論文のインチキがバレるたびに,優秀な研究者が現場から退いてしまえば,何がそこに残されるのだろう。

 お相撲さん達が参加していた国技館での研修が報道されていたが,

 「ああいう形態」での研修に意味がないことは,学校教育が実証してきている。

 「立ち直る」方法を教えてくれるのは,案外,中学生だったりするかもしれない。

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もしZ省に入省試験があったら・・・

 省として「正しい」答弁ができるように,漢字の意味を理解しているかどうかのテストを行います。

 次の文章を読んで,あとのア~エの中から正しい文を1つ選びなさい。

 2億円を1億円に値下げできませんか。

 1億円以下は無理です。1億500万円でどうでしょう。

 ア 1億500万円は,価格であって金額ではない。

 イ 1億500万円は,価格でも金額でもない。

 ウ 1億500万円は,金額であって価格ではない。

 エ 1億500万円は,金額であるが,価格ともいう。

 Z省の正解は,ウです。

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教員養成の質の向上と優秀な教員志望者の減少の因果関係

 行政は,自分たちにとって都合の悪い情報は開示しません。

 文科省の「口裏合わせ」や「想定問答集」に見られたように,嘘をつくのが前提で動く組織もあります。

 隠されたり嘘をつかれたりするので,データはあてになりません。

 政治家が「エビデンス」を連呼するようになったのは,自分が嘘をつきやすくするためと,部下たちがマニュアルに従って嘘をつきやすくするためであるように思います。

 ただ,「エビデンス」などなくても,実態を見るだけで,優れた資質能力を備えた教員志望者が減少していることがわかります。

 教育職員免許法の改正によって,優れた資質能力を備え,高い学力をもった学生が集まる大学で,教員志望者が減少していくことが危惧されています。大学によっては,教職課程を放棄せざるを得ないところも出てくるでしょう。

 自分の専門分野と,教職課程の履修が両立し得ないカリキュラムになっている非教員養成系国立大学もあります。

 これでは,そもそも教職課程を置いておく意味がありません。

 あまり学力が高くない学生が多い大学の教職課程を担当している先生に聞いたことがあるのは,「まず採用試験に合格できない」ということです。

 そうすると,こういう大学でも,教職課程を置いておく意味も感じられない。

 では,改正された法律に基づく新カリキュラムで履修した学生は,優秀な教員になれるのか?

 制度設計の前提から間違っていると考えざるを得ません。

 採用試験の倍率が低ければ,新カリキュラムで優秀な成績を取ったわけではない学生も大量に合格してしまう恐れがあるのです。

 採用試験の倍率が下がる可能性がある制度のあり方が,まず前提として大問題なのです。

 以上の考えは,「内外教育」1月16日号の巻末に掲載されていたコラムの趣旨とほぼ同じです。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より