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「かばう相手」は選手ではなかった

 政治の世界とスポーツの世界がここまで似ているものだと気づかされることは,決していい気分がするものではない。

 上と下に挟まれている立場にある人間は,下をかばうような言動はしない。

 選手の会見。「選手がウソをついている」という趣旨のコーチや監督の会見。

 どちらかがウソをついていることだけは確かである。

 他の大学の様々なチームで,今,何が起こっているだろう。

 「危機管理学」の専門家がいなくても,民間には「危機管理」を指南してくれる会社がある。

 早急に手を打つべきだろう。

 野球,相撲に次いで,アメリカンフットボール。

 スポーツ界の「膿」は出し切れるか。

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「罰」を受ければチャラになる,という発想の人間なら,「もう罰は受けている」と開き直れる

 子どもが問題行動を起こしたとき,

 「罰を与えないと気がすまない」という人間がいる。

 学校の場合,「体罰」は法律で禁止されているから,「厳重注意」などで終わるわけだが,

 子どもや教師の中には,「それでチャラになった」と考える人たちがいる。

 だから,問題行動に歯止めがきかない。

 「指導を継続する」のが正解である。罰を受ければ反省する,という浅はかな期待は消すべきだろう。

 だいたい,もし自分が不服に思うような処分を受けたら,「罰」を下した人間に恨みを抱くだろう。

 指導力のない教員と,子どもの問題行動が繰り返される関係がどうして断ち切れないかは,この「負のスパイラル」でも説明がつく。

 「お前は退場処分になったんだから,すでに罰は受けている」という趣旨の「慰め」を監督がしたらしいが,

 こういう発想で「反則」を故意にさせる監督やコーチからは,「資格」を永久に剥奪することが一番よい「罰」だろう。

 問題行動を起こしている子どもも,心に傷を負っている,という共感性を持たずして,現場に立ち続けることは許されない。

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チャップリン『独裁者』の最後の演説を選手達に贈りたい

 世界の「名演説」の中の「名演説」の一つ。

 チャップリンが世界に向けて発したメッセージです。

Don't give yourselves to these unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts.

You are not machines.

You are not cattle.

You are men.

You have the love of humanity in your hearts.

You don't hate, only the unloved hate.

Only the unloved and the unnatural.

Soldiers! Don't fight for slavery, fight for liberty.

 兵士を学生たち選手に置き換えて,噛みしめてほしいと思います。

 私も大学時代,スポーツは別でしたが3年間,選手でした。

 上級生が下級生の面倒をよく見る,とてもよいチームでした。

 先輩方に改めて感謝を伝えたいと思います。

 巨人はスポンサー契約を打ち切るべきです。

 スポーツへの信頼や夢を損ねたことについても,

 損害賠償を請求することも可能なのではないでしょうか。

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教職員組合の悲痛な叫び

 某日本の私立大学の,教職員組合が出した声明を読んで,私が私立大学に関わろうとしなかった理由を改めて実感することができた。

 私立大学なのだから,人事の在り方など,いくらでも独裁が許されることはあるのだろうと思っていた。

 利益が出せなかったり,補助金が削られれば,潰れるのが私立大学である。

 正規の教員を絞りに絞り,非常勤を大量に抱えて儲けを出すのが私立大学である。

 この大学のナンバー2が,日本中から大顰蹙を買っている。

 爆発したのはチームだけではなく,教職員組合の人たち(もちろん教職員も)だった。

 (これを機会に)「どうにか変えてくれ」という悲痛な叫び。

 私は初めて教職員組合を応援したい気持ちになった。

 言いたいことが言えない,そんな環境では私は仕事をしたくない。

 しかし,言いたいことが言えずに我慢しなければならない人たちもいる。その中に,

 自分の教え子がいたり,我が子がいたりするのを想像したら,やはり自分も黙っていてはいけないと感じた。

 大学の経営陣,人事権を握る実力者がどんな人間なのかは知らないが,

 入れ替えられるものなら,すぐに入れ替えるべきだろう。

 大学名で人を判断してはならないことは,だれでも承知している。

 しかし,これから「特に気をつかう,あるいはつかわれる対象になるのは嫌だ」という受験生たちの感情は無視できないものがあるだろう。K学園の関連学校しかりである。

 受験者数が減るだけなら,まだ持ちこたえられるだろうが,入学者数が減り出したらどうなるのか。

 もう教職員組合の人たちは,将来の人員カット,人件費カットを計算に入れての行動を起こしているわけだろう。

 多くの「附属学校」「系列学校」を抱えていることも無視できない。

 大学名がつく中学生や高校生もたくさんいるのである。

 自分には何の落ち度もないのに,人から冷たい目で見られることのマイナスの影響力は決して小さくないだろう。

 明日の大学生の記者会見はかなりの注目度になるはずである。

 「救い」が見えてくるのか,どうなのか。

 被害届が出される事態を大学はどう考えているのか。

 たった1人の「有力者」を守ろうとした結果,「損失」がどのくらいの規模に達しようとしているのか,計算している人はいるだろうか。

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「浮世の憂さのはらし場所」としての教育改革

 教育改革に必要なことは,「当たり前のことが当たり前にできるようする」ための地道な努力しかない。

 教育行政は,地道な努力に対する途切れのない支援に注力すべきなのに,

 中央では「看板のかけ替え」によって,「改革したことにする」だけの繰り返しがあるのみである。

 学習指導要領の改訂があるタイミングで,どういう人物が研究発表会等での講演会に呼ばれているかを眺めてみるだけでよくわかる。

 なぜその人物が,過去のタイミングで登場の出番がなかったのか。なぜ今はあるのか。

 それを考えるだけで,「改革の意味」と「どういう失敗で終わるか」がわかる。

 「その人の講演を聞いても意味がない」ことがわかった場合,「努力して下さい」ですまされるのか?

 ある雑誌で竹内洋氏が述べていた,教育改革を「浮世の憂さのはらし所」にしたがることに病の根がある,という指摘が印象に残っている。

 教育改革の失敗事例として紹介されている「法科大学院」は本当に痛すぎる。

 すべての学生の自己責任ですませてよいのだろうか。

 7割合格との触れ込みで入学し,高い授業料を払わされた,7割以上の不合格者たちが悪いのか。

 law school ではなく low school と揶揄されるような結果になった原因はどう分析されているのだろう。

 政策立案者が責任を負わなくてすむ仕組みを変える改革がまず必要なのではないか。

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私が信用しない教師のタイプ

 新学習指導要領に関する本を読んでいると,こんな文章に出くわすことがある。

新学習指導要領では,講義中心から子どもが主体的に学ぶアクティブ・ラーニング型授業への転換が肝になる。

 書き手は,平成元年版,10年版,20年版の学習指導要領を読んだことがない,という人ではないはずであるが,それらのもとでの実践が「講義中心」だったということだ。

 こういうことを書く教師は信用できないし,子どももからも信用されていない事実の根拠にもなる。

 そもそも義務教育で,「講義中心」で授業をして,それが成り立つような環境があるはずもない。

 居眠りや遊びをしながら聞き流せる大教室での授業をしている大学のセンセイと,義務教育の現場の教員では環境が全く異なる。

 少なくとも授業者と子どもとの間でのやりとりがほとんどない「授業」を意味する「講義中心」では,何が成立しないか,本の原稿を頼まれるくらいだから,わかっているはずである。

 確かに,今回の新学習指導要領では,「内容」だけではなくそれを身に付けるための「限定的」な「方法」も示されている。しかし,総則等で従来示されてきた「留意点」もたくさんある。

 ではなぜ「~中心から~へ」という「話法」が使われるのか。発想の源は何か。

 単純な話である。「商業主義」だ。本を売るための「宣伝文句」である。

 英語教育や道徳教育が「商業主義」にまみれているせいで,「公教育」が穢れに満たされてしまっている。

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「勤務条件の改善」圧力が教育委員会から加わってくる

 日本の「忖度文化」は,たとえば教育現場の場合,校長や副校長,教頭のように教育委員会とよく顔をつきあわせている人たちなら,いつの間にか体得してしまうものだろう。

 情けないことに,私がお世話になっていた自治体で,小学校の管理職が国の学力調査の実施中,児童に答えを教えていたことが問題になった。教育長は,「功を焦っていた」らしい。それを忖度した管理職が,「御法度」に手を染めたわけである。教育界全体の信頼を損ねる極悪の所業だった。「テストによる選抜」文化がない小学校ならではの「愛情プレー」とかばえなくもないが,「信用失墜行為」に該当する非道だと考えられる。

 今,文部科学省初等中等教育局では,学校における「働き方改革」を局の最重要課題と位置づけて,一丸となって取り組んでいるそうだ。

 次の忖度対象はこれである。「早く帰宅しましょう」の連呼が始まる。

 民間では「時短ハラスメント」が問題になっているらしいが。

 教員が帰ると,今までいなかった人が「スクールサポーター」とかで学校に顔を出し始める。

 職員室に入れるのも何だから,いつの間にか,校長室がなくなり,関係者の控え室になる。

 局長は,「働き方改革」のゴールは,教育の質の向上であると言っている。

 私なら,週20時間の授業のうち,非常勤講師を獲得して8時間を肩代わりしてもらうことよりも,自分で20時間授業をすることを選ぶ。

 採用試験に合格できないでいる人の授業を増やすことで,教育の質が向上すると考えるなら,そもそも常勤の教師などいらない。みんなパートで時間になったらサヨナラでよい。

 しかし,「例外」を認めると,たとえば中学校のかなりの教師は「例外」であることを選ぶだろう。

 副校長・教頭の仕事が,事務職員にも割り振られる。今,ぶーぶー文句を言っている事務室の様子が手に取るようにわかる。先日も,「よくわからないことをやって間違えたらごめんなさい」という趣旨の謝罪を予めうかがった。でも報告の数字が多少違っていても,だれも気がつかない。お金以外の情報を事務職員が扱うには,せめて生徒の顔と名前が一致できるような仕組みがほしいところである。

 「マネジメント力を」という言葉は,私が指導主事だった16年前も全盛期だった。「経営」よりもいい仕事をしているように聞こえるが,「見える化」できない「経営」だったから問題なのである。管理職は毎日職務報告書をHPにUPすればよい。教育委員会のサーバーに直接提出させるのもよいだろう。教育委員会は,書き込み時間を5分間に制限して,時間切れだったら次の日の朝来て書く,という形にすれば,取りあえず帰宅時間だけは早くできる。

 いずれにせよ,「教育の質の向上」の調査はない。数字で示せる「勤務条件の改善状況」を厳しく非難される副校長の痛々しい姿を想像すると,何ともやりきれない思いである。

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一人だけで「一人も見捨てない」ことの重さ

 基本的に「完全な方法はない」=「救えない子どもがいる」ことをあきらめているのに,

 「一人も見捨てない」ことを一人の教師に背負わせようとする人間がいる。

 自分一人で「一人も見捨てない」つもりでいる傲慢さを,普通の教師はもっていない。

 小学校のように「個業」としての「教師業」が成立してしまっているところでは,無理もない傲慢さなのだが,本当は信じていないことをウソのメッセージとして伝える図々しさは,我慢ができない。

 自分が自分に自信をもつのは構わないが,自信のない真面目な教員をつかまえて,「一人も見捨てない」ふりをしろというのは,無理が過ぎる。

 人間は,幼少期に「基本的信頼感」を身につけないと,社会で過ごすことが困難になる。

 教師は,駆け出しのときに,児童生徒に対する「基本的信頼感」をもつことができないと,心ではなく言葉だけを頼りに生きていくしかなくなる。そんな教師は現場には必要ない。


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広告を撤去してほしい大学名

 スポーツマンシップのかけらもないプレーを見せた,某大学のアメフト選手。

 ネットでは「殺人タックル」などと呼ばれ,犯罪的行為として扱われるレベルだと断罪する声もある。

 一方,「上からの指示がなければ,あんなことはしない」という声もある。

 この大学,東京ドームなどテレビ放映される野球場などに大々的な宣伝を打っている。

 吐き気がして大好きな野球も見る気がなくなってしまうので,ぜひもう広告は自粛してほしい。

 ああいうプレーを見て,実は私も率いているチームのメンバーが敵チームに迷惑をかけ,

 申し訳ないというか,もう試合はしない方がよいと考えることが過去に多々あった。

 種目も様々で,わざとではないディフェンスの行為が非常に危険で,大ケガを引き起こさないとも言えないケースがある。特に相手が空中にいる状態で後ろからぶつかるという競技が下手な人間ならではのプレーである。

 スポーツは,自分がケガをしてから本当の理解が始まると言ってもいいかもしれない。

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インチキ教育論の自爆ネタ

 酔っ払っているときに書く記事の方がまともになってしまったら,もう引退すべき日も目前でしょう。

 「教材研究」について述べた内容が,自分の教育法のインチキをバラす結果になってしまっています。

 素面なのにそれに気づけない悲しさ。

 教育の世界の面白いところは,ときどき「自爆」現象が起こることです。

 まともな教師がやっていることをこきおろし,「何でも知っている」みたいな態度に出る人がよく陥るやつです。

 最も大きな矛盾を自分自身が露呈しているのに,それに気づけない。

 そういう人に世話になっていても,実害がない世界でもあるのが教育現場です。

 だからとくに目くじらを立てる必要もないのでしょうが・・・・。

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「怒る」と「叱る」の違い

 こういう教師は近くにいませんか。

 感情を表に出して,生徒を指導している。

 生徒を威圧するように,大きな声を出す。

 本人が目の前にいないのに,問題行動を非難する。

 その場で指導せず,後になってから問題視する。

 生徒や教員との間の不信を深める指導をする。

 集団や職場全体のムードを沈滞化させる。

 こういう「怒れる教師」の対極にあるのが,

 「叱れる教師」です。

 感情ではなく,愛情を表に出して生徒を指導している。

 生徒を威圧するのではなく,伸ばす意思を持って指導している。

 必ず本人が目の前にいる状態で問題を指摘する。

 その場で間を置かずに指導する。

 「躾」づくりの観点で指導する。

 集団や職場全体を活性化させる。

 前の記事で紹介した『5S入門』に紹介されていた内容をもとにしています。

 「叱る」には,タイミングも大事です。

 「怒り」は溜ってから爆発する場合もありますから,タイミングがずれるリスクが高く,子どもたちが唖然として教員が何に怒っているのかわからない場合もある。

 「怒ろう」「怒ろう」と思って怒る人はいないでしょうから,これからは「叱ろう」「叱ろう」と思っていればよいのでは・・・。

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「7つの大罪」によってモノが溜り「4つの基本道徳」によって整理ができる

 7つの大罪とは,

 1 傲慢
 2 嫉妬
 3 憤怒
 4 貪欲
 5 暴食
 6 邪淫
 7 怠惰

 溜るモノは,「物」だけとは限りません。

 営利活動ではない教育の現場でも,これらのうちで「溜るモノ」がたくさんあり,実際に教師による犯罪行為が発生し,ニュースとして公開されています。

 4つの基本道徳とは,

 1 知恵
 2 勇気
 3 節制
 4 正義

 「生きる知恵」は,ときに「人を騙す方法」を指していたりもします。教師がセミナ-などを開いたり本を書いたりして金儲けをしようとするとき,利用されているのは子どもたちです。

 『5S入門』(古谷誠著,日刊工業新聞社)には,教師の立場で読んでも大切な情報がたくさんあります。

「注意」では不良やケガは減らない

 というコラムでは,著者のお父さんの経験を例に,優れた教訓が示されています。

 ケガを防ぐのに,「注意しよう」という意識だけでは役に立たないことは,私自身も大ケガをしたのでわかります。

作業者は不良を出そう,ケガをしようと思って作業していません。たまたま,何か別の現象が発生した時,危ないという意識を飛び越え,通常の決められた作業をやらず,良かれと思って間違った動きをしてしまうのです。

 「意識を飛び越えた」先にあるのが,教育の世界では「体罰」だったり,政治の世界では「忖度」だったりする(そう考えれば,「記憶にない」というのもあながちウソとは言えない)。 

 安全を大切にしようとしている工場や学校で,「注意書き」がたくさん掲示されていても,事故が減らないのは,「注意力」が足りないことだけが原因ではないことに気づかなければなりません。

 「知恵」「勇気」「節制」「正義」という「徳性」をどう仕事や生活の中に落とし込むかが,経営者側の課題ということでしょう。

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定員割れの大学の「危機管理学部」教授の手腕が問われる

 マスコミでのニュースの扱いは,どうしても「公正中立」には見えにくい。

 疑いが晴れるまで,疑われている人は「悪人」として扱われる傾向にあることを,裁判における「被告人」との違いに着目させてその意味を考えさせることがある。

 ある雑誌では,国会等で話題になり,「認知度」自体は非常に高い学園の系列大学の「不人気ぶり」が紹介されている。

 「危機管理学部」というものがあるようだが,定員の半分以下しか学生が集まらなかったらしい。

 これは「風評被害」扱いになるのだろうか。

 理系の大学だから,「経営」の危機管理とは無縁なのだろうが,自分の存在自体が危機に陥っても,動物たちの安全を守ろうとする気概がある人たちは尊敬に値する。

 大学というのは,「看板」と中身が一致しにくいところである。

 「社会科教育」を教えている先生が,実は特定の学問分野の極めて限られた分野の専門家であったりする。

 「古代史」を学ぼうとしたら,8世紀の講義しかなかった,というケースもあるだろう。

 私のいた高校では,「世界史」の授業で古代ローマ史をずーっとやっていた人がいたらしい。

 「社会学科」で学ぼうとした学生が,自分の専門の研究成果の発表に過ぎない講師の講義に飽きて「社会学」自体への興味を失ってしまうのも,「文系大学」の弱みと言える。

 理系がそんなに素晴しいのかと言えば,中国の北京大学では,学長が「常識のない人だった」ことがばれて,話題になっていたらしい。理系のその学長は,「鴻鵠」という文字を正しく読めなかった。理由は,文革で勉強をさせてもらえなかった,ということらしい。

 どの国でも,「危機管理」の専門家は必要なのだろうが,「危機管理」自体の危機に対処できないというのは,「真理とは何か」を言葉で考えて言葉で答えを出すことはできない,とする哲学者の言葉を思い起こさせてくれる話であった。

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「すぐ役に立つ」話にしか耳を傾けない人間が教育の場に立つ危険

 教師というのは,別にたいした工夫もなく,人間的な魅力もなく,教養も感じられず,内容の乏しい話をしても,相手となる子どもがきちんと耳を傾けてくれるという珍しい職種の人間のことである。しかも,自分ではなく,他人のかかわりやて子ども自身の力によって成長したのに,「自分のおかげで育った」と勘違いしやすい職種でもある。

 もちろん,とても工夫した表現法で,魅力的な人間性を前面に出し,すばらしい内容の話を子どもに伝えている教師もいる。そういう教師に陥ってほしくない悪癖が一つある。それは,「すぐに役に立つことを教えてあげるのが子どものためだ」とする「勘違い」を続けることである。

 「すぐに役に立つ」情報は,世の中にあふれている。「耳よりな情報」という宣伝文句に人は弱い。

 人間の弱さは,低いところ向かって流れようとする水と同じである。

 同調性圧力の高い日本人は,こういう流れに逆らうこともできず,ただひたすら「集団」で堕ちていく。

 学校に存在意義があるとすれば,そういう「易きに流されない強さ」を身に付けさせることにある。

 時間通りに決められたことを淡々と学ばせられる学校では,「学びたいことを学ぶ」チャンスは少ない。

 細分化が極められた内容を,別々の目標の実現に向けて,個別に習得されられる「教科学習」が大部分を占める学校教育で,「すぐに役に立つ」ものを身に付けることは不可能なはずである。

 「よりよく生きるためにはどうすればよいか」という哲学を中核としたカリキュラムをもつ中学校など,存在しにくいだろう。

 だから,教師たちは,試験で高い得点のとり方を教えるという程度の「役に立つ情報」の提供に熱心である。

 しかし,子どもたちのいくらかは,「それがいかに役に立たないか」を完全に理解してしまっている。

 大人たちが,「超優秀な人材が少数必要なのであって,その他大勢は,従順で,人に迷惑をかけない道徳的な行動だけ心がけてくれていればいい」という方針の教育に舵を切ったことを知ってしまっている。

 学校は開き直るしかない。

 「私たちはどのように生きていったらいいのか」「そのために,学校はどうあるべきなのか」を自分の頭で考えられる生徒を育てるために必要な教師像とはどのようなものだろう。

 小手先のスキルで子どもを操作し続けているうちに何が失われていくのかを見極めながら,それでも操作せざるを得ない苦しさに耐えられる人に教師になってほしい。

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63億円でスーパーグローバル大学の創成支援がどれだけできたのか?

 和製英語で「グローバル化」を進めようとしている文科省の姿勢を揶揄してきた人は多いだろう。

 「創成」というのは,

米欧回覧実記(1877)〈久米邦武〉四
「当時世界に於て、海軍の覇王と称するものは、英露両国の此甲鉄艦にあり、即ち米国人の創成にかかるものなり」

>薩長土肥(1889)〈小林雄七郎〉四藩政党
「維新の大業を創成したり」 〔戴復古‐訪陳与機県尉詩〕 (日本国語大辞典より)

 などと明治の頃に使われていた言葉である。

 ある大学に「創成科学」という研究分野があることを初めて知った。

 「はじめてつくる」活動には国民として応援したい。

 小田嶋隆さんが雑誌で述べていたが,

 「ユニバーシティ」の修飾語に「グローバル」がつく愚かさ,

 「グローバル」に「スーパー」という修飾語がつく恥ずかしさは,

 本物の英語が話せる人でないと気づけないらしい。

 そういうレベルの「支援」であるし,63億円がどのくらいの効力を持っているかはとても疑わしいのだが,大学が設定している成果指標を見る限り,「明治維新」と同じようなことをしている感覚におそわれる。

大学教育がその金看板としている「学術教養」に,なるほど傲慢さや非効率があるのだとしても,文科省は,学問と教育の守護者であって,学術教養を攻撃して良い立場ではない。むしろ,産業界の要請や政治の圧力から学問の独立を防衛するのが与えられた任務であるはずだ。
 もし仮に,文科省がネオリベの経営者やグローバル志向の経済人の尻馬に乗って,グローバル企業に有利な教育改革を果たそうとしているのであれば,それは正しく「売国」と言って良い所業だ。
(小田嶋隆さん『新潮45』2016年6月号より)

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職住近接の徹底をまずは教育公務員から

 つい最近,「通勤時間の無駄」に関する持論を書いたばかりだが,最近呼んだ『地域再生の失敗学』(光文社新書)で,千葉市長の熊谷さんが同じ主張を述べていらしたのが印象に残った。

 私自身は,教員になって最初の6年の職場は自宅から自転車で10分以内,次の5年は同じく自転車で15分以内(電車を使うと,駅から15分以上歩くことになる),次の2年は何と徒歩5分以内のところ(転居したので)だった。

 この13年間で,もし家から1時間程度の職場に定期券で通っていたとしたら,安く見積もって年間10万円としても130万円の税金を使ってしまっていたことになる。「そんなはした金」と思う人もいるかもしれないが,節約したいのはお金だけではなく,時間である。

 飯田泰之明治大学准教授の

東京一極集中は明らかに東京のクリエイティビティを落としています。往復で二時間前後も通勤に費やしている都市で,人と会ったり仕事以外の時間や交流を持つことは無理がある。そんな大都市はやはりダメだろうと思いますね。

 という言葉に,千葉市長も

遊びも含めて二四時間を使っている人たちと,二二時間で互角に戦え,というようなものですよね。スタートから負けている。

 と答えている。

人口が減ってきたら,生産性を上げるしかない。生産性を上げるには「早く帰りたい」と思わせるのが一番です。通勤時間が長く,生活から労働を引き剥がして,人間としての暮らしを捨てさせて人々を働かせている国の,生産効率が上がるわけがないんです。

とにかく通勤時間を短くしなければならない。職住を近接させなければいけない。それはこの国が人口減少を抑える中で,国際的な立ち位置を確保していく上で,絶対にやらなければいけないことです。

 中学校教員の場合は,浮いた時間を使って学校に長くいるという選択肢をとる人が多いかもしれませんが,教育の仕事に「生産性」の概念はそもそも適していないので,「使命感にしたがって思う存分仕事をしたい」教員も応援してほしいものです。

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「振り子」の外交と学習指導要領

 新しい学習指導要領にも,当然のことだが,決して「新しくない」ことがたくさん含まれている。

 保健体育科の「銃剣道」のようにびっくりするほど「古い」ものもあれば,

 小学校のプログラミング教育のように,ディスプレイから目が離せないようにするという意味での「古い」ものもある。

 よく,「ゆとり」と「詰め込み」という対比がなされるが,学校教育の基本は「詰め込み」である。

 中学校なら50分たったら,必ず次の授業の開始のために準備を始めなければならない。

 体育の授業の後に着替えて音楽室に移動する子どもの忙しさが想像できるだろうか。

 時間によって管理される子どもに「ゆとり」など存在しない。

 それなのに・・・「主体的・対話的で深い学び」もしろ(させろ)という。

 道徳については,今までのやり方ではダメだ,という前提から「特別の教科化」が始まっている。

 「考え,議論する道徳」が必要なのだと。「パン屋ではアウトで和菓子屋ならOK」という価値観に揺さぶりをかけるような授業も可能になる。

 一方,学校には,昔から「特別」という名称がついている「特別活動」の時間もある。
 
 年間たった35時間で,学級活動から行事(儀式や宿泊行事も含む)の準備まで,時間が足りているところがあったら教えてほしい。35時間以上やっているから「特別活動」だという解釈もできる。 

 いっそのこと,数学にも英語にも,「特別の数学」とか「特別の英語」と名付けてみたらどうか。

 「すべてが特別」になって「特別」感が薄れて初めて,「そんなことで時間を浪費する公教育はおかしい」ということに気づけるはずである。

 「ダメな箇所をその場しのぎで何とかする」発想でいるから,「振り子」に例えられるのである。

 どこかの国の外交と同じである。

 世の中には,絶滅危惧種のように,そんなものに振り回されずに生き残っている学校がわずかだがある。

 だれにも気づかれないまま残しておきたいものである。

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「朝の会」と「帰りの会」

 「朝の会」や「帰りの会」の時間を教育課程上にしっかりと位置付けている学校はどのくらいあるでしょうか。

 「朝の会」での話を大切にして,実質的に道徳の時間にしている教員も少なくないでしょう。小学校感覚だと,「担任がそれぞれ好きなことを話せばよい」となるかもしれませんが,私のような中学校教員は少し違います。

 中学校教員は小学校教員よりも,「学年」や「学校」を動かす組織の一員としての自覚を強くもっている必要があり,それは同時に生徒たちにも求められている心構えとなります。

 私の現在の勤務校には,「朝の会」で教員が子どもに語りかける時間はありません。

 その代わりに日直などの生徒が連絡や前日の「帰りの会」で発表された反省点などを踏まえた注意事項を話します。「帰りの会」は20分以上かけて行い,議長を中心とした議論を行う日もあります。つまり,「特別活動」としての位置付けを学校としてとっているということになります。と同時に,「生徒が主体的に考える道徳の時間」にもなっています。

 中学校教育における「学級指導」がどうあるべきかを考えるときに,「朝の会」や「帰りの会」の道徳や特別活動の実践の場として(特に大事なのは「子どもたちの実践の場」として)の位置付けを考えておくべきでしょう。

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寝た子を起こす教育

 「寝た子を起こす」とは,せっかく収拾がついたのに蒸し返したりするなどの余計なことをして,再びもめたり問題を起こしたりすることのたとえである。教育の世界では,性教育などを例に,潜んでいる欲望が刺激されてよからぬ行動を引き起こすことのたとえにも使われてる。

 ことわざや慣用句を使い慣れない若い人たちがこの言葉を聞くと,「退屈しない授業」「集中して学べる授業」という意味にとられるかもしれない。

 私の場合は,それらのどれにも当たらない意味での「寝た子を起こす教育」の姿を思い描く。

 子どもたちが使っていない能力を発揮できる教育,といったニュアンスである。

 子どもたちがその資質や能力を遺憾なく発揮できるのは,得意なスポーツや学習をしているときだろう。

 ただ,学校には「できないことをできるようにする」という「使命」が与えられているせいで,最初は「できない」ことが前提の学習が多い。「できない」「わからない」ものは,「先生に教えてもらうしかない」という発想になりがちで,どうしても学校での子どもたちの姿勢は「受け身」になる。

 偉いガクシャさんたちは,この「受け身」の姿勢が問題なんだといって,自分の大学でもアクティブ・ラーニングを進めなければと焦っているはず(そもそも大学で求められた学びを下級校に押しつけるだけの人もいるだろうが)である。しかし,コンテンツ重視からコンピテンシー重視へと姿勢をシフトさせる度胸がなかった文科省(これは「ゆとり」失敗の後遺症)が,「コンピテンシーっぽい香りのする見方・考え方を働かせる主体的,対話的で深い学び」を導入してお茶を濁そうとしたときに,待ったをかけなかった。この罪は決して軽くない。子どもは基本的に「寝かせたままでよい」という発想でしかないから,黙認したのだろう。

 「深い学び」は放棄してしまうことを堂々と宣言する『学び合い』のような,度胸のいる実践ができる人は少ない。

 コンピテンシーとは,そもそもが優秀で好成績を残している人がもつ行動特性のことである。

 主体的で対話的だから優秀になったのではなく,優秀だから主体的で対話的な手法もとり,深い学びもできるのだ。

 100%の子どもに保障できないことを押しつけるカリキュラムがスタンダードとして扱われ,力がつかなくても卒業させるという仕組みには,どう考えても正当な「整合性」がない。

 「なぜ学ぶのか」もしっかり考えさせることができる教育を選択しないことも,大きな罪である。

 子どもたちが使わせられずに眠らされたままになり,やがて腐ってなくなっていく「思考力」とはどのようなタイプのものだろうか。それほど難しい質問ではないはずである。古いタイプの学校を消すために何ができるかを考えている。

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朝鮮半島の統一

 「朝鮮半島情勢」という言葉から連想されるイメージは,北朝鮮の核開発や南北の対立といった負のニュアンスのものが一般的であった。

 とうとう,「時刻の統一」が実現する。

 今まで主にマスコミ等によってつくられてきた「イメージ」が,「事実の報道」によって塗り替えられようとしている。

 日本にとっては,「拉致被害者の救出」が長年の責務であり,外交の手腕が問われるタイミングである。

 アメリカがどう出るかによって態度を選ばなければならないような従属国だとしたら,すべてが後手後手にまわることを覚悟しなければならないが,先手を打つチャンスをもっている政党もあるはずである。

 ロシアや中国の動きを眺めているうちに,日本だけが「仲間はずれ」になる構図が予想される。

 こういう最悪のシナリオを想定しないことにする国が,いつまで「もつ」だろうか。

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«日本語は筆の力が物を言う

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より