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「怒鳴り殺し」の生活指導

 ある大学の教育学部の先生も,学生を怒鳴ることがある,と耳にしたが,いずれ

 「怒鳴る」=「大きな声で叱責する」ことの禁止令が出されるかもしれない。

 私は耳障りな大声で話す,ある大学のセンセイが大嫌いだが,自分は怒鳴ることがなかったかと言われると,そんなことはない。

 ただ,怒鳴る相手とタイミングを間違えることはないようにしていた。

 ある時期から,友達が怒鳴られることに耐えられないような子どもが増えてきて,使いどころに困るようになっている。

 そもそも大きな声を聞いたことがない子どもには,衝撃が強すぎるようだ。

 家でも学校でも怒鳴り声に慣れてきた身としては,まるで別世界の子どもたちに別の形で愛情を示す必要に迫られている状態である。

 強い叱責によって子どもが精神的に追い詰められてしまうことがあることは,教師ならだれでもわかっていることだろう。

 小学校の職員室で私が担任の先生に怒鳴られているときは,私の無実をだれも証明してくれず,助けてもくれなかったが,自分が中学校の教員になると,いろんな人が進んでフォロー役にまわってきてくれるものだということがよくわかった。それで調子に乗って生徒を厳しく叱ることもあった。もちろん,自分がフォロー役にまわることもある。

 福井で起こったことは,当然,他の地域でも起こりうるが,フォローがなされない,あるいは機能しない原因をはっきりさせてほしい。

 これも「学力向上圧力」が生み出した悲劇ではなかろうか。

 もともともっていなかった可能性もあるが,教師から大切なものを奪うことに関して,行政は非常に積極的である。

 中学生の悲しすぎる死を無駄にしてはならない。

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10月17日 「貯蓄の日」から連想されるものは・・・?

 総務省の『なるほど統計学園』というサイトに,貯蓄の日の説明が掲載されています。

>昭和27年(1952年)に日本銀行が、お金を無駄遣いせずに大切にしようという思いを込めて定めた記念日です。これは、10月17日に伊勢神宮で行われる神嘗祭(かんなめさい)に由来します。神嘗祭とは、その年に収穫された穀物でつくったお酒などを収穫への感謝の気持ちを込めてまつるお祭りのことです。

 金融機関と神様を一緒にするとは,罰当たりな,という批判は当時なかったのでしょうか?

 まあ,お賽銭が集まる仕組みをもつ宗教施設ですから,敵対関係にあるわけではないのはわかりますが・・・。

 私は,「貯蓄の日」と聞くと,どうしても戦時中をイメージしてしまいます。

 今は,「貯めるより使え」という時代ですから,「消費の日」が必要なのでしょうが,どうも財布のひもがかたいようで,昔の定期市のように,「8のつく日」に売り出しをしたり,ポイントをたくさんつけたり,プレミアムフライデーをつくってサービスを増やすなど,「売り手」が考えたイベントしかないようです。

 実際には,必要を感じないもの,なくても困らないものが多く売られており,「買わない」という選択肢の方が賢い気もするのですが・・・。こういうタイプの人が多ければ,自然に「貯蓄高」は増えていくのでしょう。

 さて,学校現場では,「金融教育」に取り組むところが増えてきています。  

 「金融教育」というと,どうしても「買う」ことが前提として設定されているらしく,「100万円あったら,何を買う?」などという消費を喚起するような呼びかけが鬱陶しくてたまりません。

 「100円ショップに入ると,買わなくてもいいものまでついつい買ってしまう」という人も多いでしょう。

 もし私が「金融教育」に本腰を入れさせるとしたら,子ども全員に口座を持たせ,「お金の流れ」を理解させたいですね。教員に支払われる給料や学校の施設にかかる費用,給食費など,すべて一度,子どもの口座に入ってから,支出されるようにします。税金から口座に入った必要経費は,入った瞬間に支出されるので,引き落とすことはできません。 

 ドラマ『陸王』では,魅力的な銀行マンと超ムカツク銀行マンが登場しています。あまりにドラマっぽくて勉強にはなりにくいのですが,「金融の失敗と成功」を実感することができます。

 「金融教育」が,どのように「心の教育」「環境教育」「リスクマネジメント教育」にかかわってくるかは,指導者の腕次第でしょう。

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10月16日 世界食糧デーに日本の食品廃棄量を考える

 給食指導というのはけっこう難しいものである。

 「好き嫌いのない子どもにしてほしい」と要望する保護者がいる一方で,

 「嫌いなものは食べさせないでほしい」という保護者もいる。

 「食べ終わるまで許さない」などという指導はもう30年以上前に消えてなくなっている。

 私が担任したクラスでは,おかわりが足りないので,私の分も全部子どもに食べさせた。

 他の学年のクラスにまで,あまりをもらいに行かせたこともあったが,さすがに嫌がられた。

 こういう学校ばかりならいいのに,と思うのだが,

 「味が薄くて不味い」給食が大量に残され,山のような残飯が廃棄されるところもある。

 飢餓で苦しむ国の痩せた子どもの写真を掲示するなど,あまりに露骨な「心に訴える指導」も成立しないし,

 日本人が年間に捨てる食品は,7000万人が1年間食べていける量だとデータを示したところで,食べ残しがなくなるわけでもない。

 輸入している食料の半分を捨てている,そんな国がどこにあるだろう。

 戦時中の子どもが知ったら,怒り,そして呆れるに違いない。

 どうしてこんな国になってしまったのか。

 「食育」というのは,非常に奥が深いものである。

 「食べる」ことだけに関心を持たせようとするような浅はかな教師はいないだろう。

 「食べるもの」が目の前にあるのは,どうしてか。

 いったいどれくらいの人が,目の前の食べ物にかかわっているのか,小学校何年生くらいから想像できるようになるのだろう。

 世界で今週,何人の子どもが餓死しました。

 この学校で今週,捨てられた食料は,何人の子どもの命を救えたのでしょうか。

 そんなやりとりをしたところで,食料が余りに余っている国では,廃棄される量は減ることがないだろう。

 年間,1900万トン。食品廃棄量を示すこの数字を,どうとらえたらよいのだろう。

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10月15日 遠いご先祖様を思う日

 10月15日は「たすけあいの日」,「きのこの日」,「ぞうりの日」といった日本らしい文化を味わえるはずの1日だったが,雨で部活動の大会が中止になったので,家で静かに過ごすこととなった。

 私の4人の祖父母の故郷は,北陸と東海,瀬戸内である。

 人口が狭い平野や盆地に集中している日本は,「世界の中では面積の小さい国」という印象をもっている人がいるかもしれないが,中学校の地理学習では,世界の順位やヨーロッパ州の国々と面積を比較することによって,決して「小さい国」ではないことに気づく。

 また,日本列島は細長く,東西にも南北にも広がっており,藩が「国」や「家」として治めていた期間が長いので,各地で独特の文化が育まれていることも学ばせている。

 私が祖父や曾祖父の郷里に立ち寄ったのは,子どもの頃だけだった。

 なぜだが,それ以外の地域には,調査などで過去30年ほど,よく訪問したのだが,ご先祖様のところを直接訪れたことはなかった。

 無意識に避けているのだろうか?

 人間は,だれから,どのような影響を,どれだけ受けて生きているのだろうか。

 生まれてからの環境が大切なのはよくわかるが,多くの人にとって祖父母の生きていた環境がわかりにくくなっているのは,歴史上,人口の移動が大きかったここ数十年が初めてではなかろうか。

 今月は,四国に訪問できるのが楽しみである。

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中学校1年生でよく起こる思考停止状態

 対人関係で何かの被害にあった人が,加害者を責めるのは当然のことですが,

 被害にあったきっかけが,被害者自身にある場合には,加害者を責めるだけで終わらせてはいけないことはわかるでしょうか。

 学校では,Aという子どもがBという子どもの悪口を言い,BがAに殴りかかって怪我をさせる,ということが起こりえます。

 Aの怪我は,AがBに悪口を言わなければ防ぐことができたものでした。

 しかし,Aという子どもがBに悪口を言ったことを反省できないことがよくあります。

 なぜならば「私は被害者なのだから」という一種の思考停止状態です。

 A・Bという空間上の対立軸しか頭になくて,どういう経緯でそうなったのかという「時間軸」での思考が働かない状態です。

 起こったことを順を追って説明することができないのは,どんな教育が欠けているからでしょうか?

 中学校1年生(小学校7年生)によく起こる生活指導事案です。

 なぜか,中学校2年生になると,時系列で語ることは可能になります。

 発達段階によるものなのか,生まれて初めて,通史としての「歴史」を中学校で習うからか?

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10月14日 PTAと鉄道の日

 PTAの世界には,「鉄のレール」が敷かれているところがあります。

 鉄道の世界に対して,自動車の世界の人たちが疑義を唱えることや,その批判の内容はごもっともなことですが,「規格」が異なるものでは議論になりません。

 政治や行政の世界にも,多くの「鉄のレール」があるのでしょう。

 私は行政の世界から「脱線」して今に至りますが,自動車の世界の方が機動性を発揮しやすいのは当然のことでしょう。

 今は,船の世界へと視野を広めようとしています。

 飛行機やドローン,ロケット(ミサイル)の世界に対抗するためです。


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10月13日 獣医さん×麻酔科医

 1日1日が,何かの職業の方を讃える日になると,仕事のやりがいは増すだろうか?

 10月13日は「じゅういさん」の日ではなく,「麻酔の日」だそうだが,

 本当に麻酔を受けたことがある人にとっては,あまり思い出したくない経験に違いない。

 麻酔がきかないという経験をもつ私には,「痛み」は貴重な感覚である,という持論もある。

 獣医学部新設問題には,「麻酔薬」はない。

 信用が得られないという「痛み」に耐えるしかないだろう。

 報道されたものをすぐに「嘘の情報」と貶す権力者もいるが,

 事実らしきものから判断すると,やはり「麻酔」にかかっていた人が,相当数いたことがわかる。

 票が「麻酔」の効果を発揮しないように,政治家の方々には誠実に頑張っていただきたい。

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10月12日 指導の結果,ねらいとは異なる目標を達成できることも

 学習指導では,教師がねらっていた能力が身に付かず,別の能力が開発される,ということがあり得る。

 これは教育の失敗であり,成功でもある。

 地道に板書の書写をしていると,綺麗なノートができあがる。

 丁寧に書かれたコピーは,わかったような気にさせてくれる魔物である。

 教師と生徒との間で,言葉のキャッチボールが続く。

 しかし,思考力を要しない一問一答の連続で,理解を深めることは不可能である。

 どんな力がついたのだろう?

 道徳の授業では,ただ「読解力」が身に付いているだけのケースも多いだろう。

 何がゴール(目標)なのかがよく見えていないという問題は,

 教師も子どももお互い様である。

 コロンブス・デーは,「勘違い」を改めるために努力できる日にしたい。

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10月11日 危険でも安心できる国

 安全・安心なまちづくりのために重要なのは,根拠がないのに安全だと思い込んで安心することがないようにすることだろう。

 こっちは安全のために努力しているつもりでも,何がその人を危険に陥れるかわからない。

 地震や火災,津波などから身を守るためには,勝手に「ここは安全だ」と思い込まないことである。

 「不安な要素」をどこかに持っていないと,隙を突かれることになる。

 「不安でいっぱい」になりすぎても,身動きがとれなくなってしまう。

 危険をたくさん想定して,その中で一定の安心感を抱けるように,万全の備えをすることが大切である。

 普通は,高速道路の追い越し車線に停車中の車はいないはずである。

 普通は,スクランブル交差点で歩行者の信号が青なら,車は交差点に侵入してこないはずである。

 普通は,コンビニの正面にコンビニに向かって停車している車は,買い物が終わって帰るときは前進しないはずである。

 普通は~しないはずでも,普通じゃないときがある。実際に,普通じゃないことがあったための事故が起きている。

 普通は,四つの島を海に沈めることはできない。

 私たちが安心を手に入れるためには,何が必要なのだろう。

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10月10日 と◆との日

 10月10日はまだ私の頭の中では「体育の日」と呼びたい1日です。

 調べてみると,10月10日は語呂合わせでとても多くの「○○の日」とされています。

 冷凍,銭湯,トレーナー,トートバッグ,転倒防止,トマトなどなど。

 語呂ではないので覚えにくいのが「缶詰の日」ですが,

 ここのところ美味しい缶詰がたくさん発売されており,売れているようなので,記念に買ってみようと思ったところまでで11日になってしまいました。

 「とと」は父親のことを指すので,「父の日」でもよさそうな気もしますが・・・父が生きていない歳になってしまったので,こういうときは後悔の念しか浮かんできません。

 「目の愛護デー」はいつから始まったのかというと,1931年といいます。

 明治から大正,昭和にかけて,近視の人が多かったのは,識字率が高かった一方,照明は今ひとつだったことと関係があるのでしょうか?

 とうとう10月も半ばに。いつも,このあたりからあっという間に年の瀬に近づいていく,猛烈な時期になっています。

 高校や大学で野球をやっていたころは,日が暮れるのが早くなってきて,練習時間が短くなり,ちょっとほっとできる時期だったような気がします。

 今,スマホやタブレットを眺めている人は,常に「真昼」なんですよね。

 目って本当に丈夫だと思いますが,体のすべての器官はお互いに会話しているようなので,どこかが悲鳴をあげているかもしれません。研究者の方には急いでいろいろなことを解明してほしいものです。

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10月9日 塾の道具=教材のおかげで入学できた?

 10月9日も,語呂で決まっているナントカの日がたくさんあります。

 じゅく(塾)の日,どうぐ(道具)の日,とうきゅう(東急)の日,とらっく(トラック)の日など。

 とーく(トーク)の日ではないのかなと調べてみたら,毎月19日でした。

 塾は少子化の影響で,環境が悪化しているにもかかわらず,成績上位層を作り出す機能(小学校3年生から受験勉強スタート)が中学受験産業にはあるので,受験に参入する子どもが増えているのかもしれません。

 公立中高一貫校の先生に聞いても,「明らかに塾に通っている子どもが有利」ということらしく,専門のコースもあるようです。

 公立中高一貫校の入学者選抜は,「学力検査を実施してはならない」ことになっています。

 「学力」とは何をさすのか。それを考えれば,「適性検査問題」が「学力検査」ではないとは言えないはずです。

 しかし,平成23年に初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室が公表している「中高一貫教育制度に関する主な意見等の整理(案)」では,

>つまり,生徒に求める思考力、表現力、判断力といった総合的な適性を測る、いわゆる「適性検査」が広く行われている

 などと表現しており,一貫して「適性検査」であって「学力検査」ではないとの態度をとっています。

 「思考力,表現力,判断力といった総合的な適性」は,「学力」ではない,というのが文科省の立場です。

 教育産業が提供している教材は,入学者選抜を勝ち抜くために必要な情報が豊富であり,「知識」があるかないかで受験に有利か不利かがはっきりしてしまいます。

 そして・・・・。公立中高一貫校では,高倍率にもかかわらず,受験のノウハウ(だけ)を身に付けた子どもが多いせいかどうかは不明ですが,入学後に「低学力」で困っている生徒がいる,という現状が前述の文科省の資料でも指摘されています。

 教育産業の授業がそのまま学校の授業に採用されているような予備校型中高はともかく,公立中高一貫校では,地道な努力が積み上げられる生徒が求められています(普通の公立中学校や高校でも同じですが)。

 そういう生徒かどうかを作文や面接で見抜こうとするわけですが,実際にはそれでは見抜けないのが現状です。「道徳教育」の成果かもしれません。ホンネではなく,建前を堂々と扱う次期教科の威力はあなどれません。

 あまり公立中高一貫校の現状を暴露するのもどうかと思いますが,「借り物の力」だけで成功体験を子どもにもたせることは,本人のためにはならないものだとつくづくわかります。

 作文が上手な子どもは,反省文も上手です。

 どうしてこういう立派な反省文が書けるのに,やってはいけないことをやってしまうのか,出さなければならない課題を出さないのか,まあ,子どもらしいといえば子どもらしいのですが・・・。

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10月8日 十たす八で「木」への愛着

 「自然への愛情を育てよう」という目標ほど,あいまいでつかみどころのないものはない。

 「自然」とは何を指すのか。

 「人を愛する心」だけでなく,「人を憎む心」も「自然」に生まれるのが人間である。

 人間の身体・生命を激しく損傷する威力のある「自然」もある。

 かつて,学校の敷地の中にある植物のうち,最も気に入ったものを探し,それを「自分の~」と呼んで愛情を注ごうという取り組みをさせたことがある。

 多くの生徒は,木を選ぶ。

 それはどんな手触りなのか。大きさ・高さ・太さ・堅さはどうか。どんな色をしているか。

 雨が降り,風が吹くとどうなるのか。

 見守っていると,「だれかの~」を傷つける生徒が現れてくる。

 これも想定のうちであるが,その反応を見て,「愛着」「愛情」の深さをはかろうとしていた私たち教師は,生徒にとってどんな存在だったのだろうか。

 どう考えても「自然な」存在ではない。

 ただ,時間を重ねるうちに,だんだん「自然」になっていく感触が強くなっていく。

 ごくごくゆっくりとではあるが。

 木は生徒たちよりもずっと大きく,頑丈そうであるが,言葉を発することはない。

 ただ,言葉を発しないことがわかっている相手に対して,自分はどう接することができるのかを知るチャンスが生まれる。

 生徒と,木と,教師との関係は,チョキとグーとパーのようなものだろうか。


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10月7日 学校での盗難

 とうなん防止の日に,多くの苦い思いが蘇ってくる。

 防犯カメラという「抑止力」が教育の世界にそぐわないことはご理解いただけると思うが,「だれかが見ていたら」「だれかの目があれば」と後悔した経験がある教師は少なくないだろう。

 「盗む」→「自分のものにする」ことで,どんな気分の高揚があるかは,なかなか想像することができない。

 「良心の呵責」という言葉は知っていても,自分の心には生まれてこない人がいるのか。

 「快感」「スリル」が「良心の呵責」を微妙に上回ってくるのか。

 満たされない思いを抱いて我慢している子どもが多いのはよくわかる。

 学校は,何によって子どもの心を満たせるのだろう。

 どうすれば,盗難を防ぐことができるのだろう。

 「盗まれた」子どもの心を想像させることだけでは,抑止できない。

 教育の世界では,「知識偏重」「思考重視」などといって,いつもお茶を濁しているが,知識と思考が別のものだという認識こそが,知識を深めることも思考力を高めることもできない最大の原因である。

 「学力を高める教育」と「心の教育」を別々の時間で行おうとすることも,ナンセンスである。

 何とか教育,何とか防止教育によって,どんな成果がでているのか,確かなデータはつくりようがないだろう。

 教育のいたらなさを自覚することの方が,何とか教育に飛びつくよりも,はるかに優先順位は高いと思われる。
 
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10月6日 すぐやるか・あとでやるか

 50を過ぎたからか,もともと忘れやすいからか,あとからやろうと思うと忘れてしまうので,すぐに取り組もうとするのだが,やろうとするとすぐに「こっちをやる方が先だ」というものが見つかり,それに取り組んでしまうと最初にやろうとしていたことを忘れてしまう。

 ほとんど毎日のことである。生徒に声をかけようとするケースでそれが起こる。

 昔は,To Do List をつくっていたが,それを書く暇があったら「すぐにやる」方がよい,ということで,いつの間にかやめてしまった。メモをとる暇がない。たいていは歩いているときに,「~をしよう」と思い立つ。

 いつも,3つか4つ,多いときには10個くらいのことを同時に考えているのだが,何からアイデアが浮かんでくるか全く読めない。「順番通りに物事を行う」ことに,全く向いていないことに気づく。

 時間を決めてやることを決める,という方法もあるのだろうが,なかなか「あいた時間」がやって来ない。

 千葉県松戸市の総合政策課・すぐやる課の要望状況で最も多いのは,平成28年度,当初からの累計のどちらも「スズメ蜂などの巣の除去」だそうだ(業者委託ではないのだろうか)。累計で4番目の「動物の死体処理」もなるほどと思う。どちらも「迅速な対応」が必要なケースである。

 制度開始から48年たっている「すぐやる課」は,「何でもやる課」ではない,という断り書きに興味がいく。

 「それは個人でやってください」と断られた要望にはどのようなものがあるのだろう。

 公務員人気にかげりが見られている自治体もあるそうで,頼まれたからやる,というのではなく,魅力のある仕事を創り出す工夫が必要かもしれない。

 私が行政にいたときは,「頼まれてもいないことはするな」という圧力があったような気がする。

 行政を魅力のある仕事にするために,できることはないだろうか。

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10月5日 教師の地位向上に関する勧告

 51年前の今日,ユネスコが世界教師デーを制定した。

 日本ではほとんど注目されない日の一つではなかろうか。

 下手に休日なんかにしたら,「この大事で忙しい時期に,なぜ休日を」と怒る教師が多いかもしれないし,

 国民から,教師に「ばっかり」なんでいい思いをさせるのか,というお叱りを受けるかもしれない。

 パプアニューギニアの先生たちと交流をもったときは,その「責任感」というか「使命感」というとても重厚な印象を抱いたものである。モチベーションの高い人たちと一緒にいることが,自分の能力を維持したり,高めたりするための有効な手段であることを実感する。

 日本の教師は優秀だ。そんな実感を簡単にもってもらうことはできない。放課後に部活動の指導をしている先生を紹介したときは,賞賛の拍手を下さった(相手を讃えるとき,感謝するときに,パプアニューギニアの方々は,拍手をしてくれる)。
 
 できれば,日本の教員や講師たちが起こしている,数々の品のない犯罪の報道が,海外に流出していないことを願いたい。

 平成のはじめの方から学校現場にいて,いつも感じるのは,誇りをもてないでいる教師の「地位」は,「地位」とは呼べないものだということである。

 給与面では,もし残業代が役所と同じくらい出たら,教員希望者が試験会場に殺到するようになると思ってしまうが,残業代が出なくても,教員というのはそれなりの収入が見込めるよい「地位」である。

 ただ,仕事が思うようにいかないことも多く,バッシングを受けやすい。

 核兵器に向かって竹槍で突っ込まされていくような仕事をしながら,「能力が足りない」と非難される。

 勝てる気のしない,成果の出る気のしない,やりがいの感じにくい仕事に対して,

 常に高いモチベーションを要求される。

 肉体面が3,精神面が7くらいの比率でハードな仕事である。

 教育環境が整っていない海外の学校でも,日本が震災にあったときには募金活動をしてくれた。

 日本の教育環境で,だれかを助けよう,困っている人のために,できるだけのことをしよう,と思ってくれる殊勝な子どもがどれくらい育てられているだろうか?

 「こころで感じる」「大事な価値に気づく」ことができればよしとされる学校で,実際の行動で「こころ」や「価値」を生み出している子どもはどのくらいいるだろうか?

 教師にとって,今より必要とされているものは何だろう?

 休みの時間なのか?

 より短い労働時間なのだろうか?

 やるべきことの量を減らされて,やる気のある教師のモチベーションを喪失させる政策の評価はだれがするのだろう?

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いまそこに,いるべき子どもがいないことを瞬時に判断できない仕組みがアウト

 授業を抜け出して,職員室の教師の机から金品を盗もうとしていていた生徒が,たまたま外から同じ目的で侵入してきた泥棒と出くわし,顔を見られた泥棒が生徒を刺し殺してしまった・・・とする。

 授業をしていた教師は,生徒が教室を抜け出していたことに気づけなかった。

 そんなことがあり得るだろうか?

 教師はずっと黒板を向いていたのか?

 ・・・教室では,生徒たちが自由に教室内を動き回っていた。

 40人いる生徒たちの,だれがどこにいるのかを瞬時に把握することはできない。

 グラウンドで体育をしている教師も同じだろうか?

 教師が,教室内で負うべき責任とは何だろう?


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10月4日 天使と透視と闘志

 10・4にたくさんの語呂があるとは思わなかった。

 とうし(投資)の日,てんし(天使)の日,いわし(鰯)の日,としび(都市美)=都市景観の日,・・・とふぉ(徒歩)の日は苦しいが・・・。

 一番魅力的なのは「天使の日」である。

 子どもの日から,約5ヶ月。

 子どもたちをしっかりと見守る1日でありたい。

 親による子殺しのニュースは最近耳にしていないが,マスコミが自粛しているのだろうか。

 子どもの寝顔が天使に見えない親がいるなんて想像できないが,

 親の愛情を知らないまま親になった人がどんな苦しみを抱いているかも想像できない。

 教育現場で,教師たちはよく「透視」を行う。

 今日は,どんな気分だろう。

 家で,またきついことがあったのか。

 ガードが堅い子どもの方が,ちょっとした声かけに対する反応がほんの少しだけ遅くなるのでわかりやすい。

 教師たちには,どのような「闘志」が必要だろうか。

 怠け心との闘い。

 子どもよりも自分を守ることを優先したがる心との闘い。

 問題行動との闘い。

 いつも近くに同僚がいるとは限らない。

 いつも近くに頼りになる子どもがいるとは限らない。

 教師は,子どもから放たれる光がどのように自分を通り過ぎていくかを見ながら1日の調子を整える。

 課題の多い1日になりそうだ。

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10月3日 再登山の途中

 ビートたけしさんが,何かのテレビのインタビューで,現在の立ち位置を登山にたとえている場面があった。

 一度頂上に立ち,下山していたが,また頂上に向かって歩き始めたようなもの・・・・

 時間の問題もあるので,実際の登山でこれをやる人はいないだろうが,

 絶頂期を迎えて,山からいつの間にか姿を消したような人たちに,「戻る道」を教えられるのは,たけしさんくらいしかいないかもしれない。
 
 とてつもない期間の「下積み」は,富士山にたとえれば,まさにその裾野の広さに該当する。

 最近は,そうではない山もあり,崖もある。 

 登りはじめから急に傾斜が厳しくなったと思ったら,落ちてしまった,という人もいれば,そのまま頂上にのぼりつめることができる人もいる。

 いきなり急斜面から台の上に立った人に,「登山」のたとえは使えないかもしれない。

 学校現場で危惧しているのは,「登山にたとえる」ことができなくなる時代が来るような気がすることである。

 年間計画を,ただ計画の通りに「消化」しているだけの道徳があったとしたら,教師も子どもも苦痛にすぎないだろう。

 担任を10年,20年もやっていれば,今,このとき,中学生はどんな言葉をかけてくれることを望んでいるか,どんな言葉を自ら発することができることが望まれるかがわかるはずである。

 それは,「計画」の上には乗せることができないものである。

 「計画」に左右されて,子どもを8合目から1合目に無理矢理引っ張り下げる行為だけはしないでいただきたい。

 「カリキュラムマネジメント」の意味がしっかり学校現場や保護者たちに伝わるように努力することも大事だろう。

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10月2日 豆腐と望遠鏡

 学校現場で生活指導をしていると,「豆腐にかすがい」の連続で疲弊する場合がある。

 家でとんでもない暴力を振るわれている子どもも,現在の学校ではまず体罰を加えられることはない,とわかっているから,とても伸び伸びとしている様子が目に浮かぶ。

 自分のタブレット端末か何かを取り上げた教師を蹴っている高校生の動画を見たが,蹴っている高校生よりも,後ろで笑っている高校生,動画を公開する子の方が,「よっぽどだ」と多くの人が思っているだろう。

 教師の立場で言うと,子どもに背中を向けて蹴りを受けるような人は,絶対に子どもからモノを取り上げてはならない。

 モノを取り上げられた子どもが逆上する様子を見た経験がある人なら,モノを取り上げるとき,よほど気をつけないと,「犯罪行為」を誘発することを知っているはずである。

 どっちもどっちというのが第一印象だが,私が見たニュースで磯田道史さんがとてもいいコメントを発していた。

 「これはチャンスと捉えるべきだ」

 まさにその通りである。

 望遠鏡から眺めているだけの教師や,叱ればいいとだけしか思っていない教師は,およびではない。

 問題の多くは,教師と子どもとの関係性ができてない場所で発生するが,

 教師にとって,暴力を体で受け止めた経験というのを無にしてはならない。

 10月2日はガンジーの誕生日で,国際非暴力デーとされている。

 暴力は許せないのだが,許されないのは暴力だけではない。無視も,心ない言葉も,心ない行為も,相手を傷つける深さでは,ときに暴力以上の威力があることを,教師は知っておくべきである。

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10月1日 法とコーヒーと都民の日

 10月1日は,日本茶と日本酒と醤油の日でもあり,ネクタイとメガネの日でもあるらしい。

 福祉用具の日や補助犬の日にもなっている。

 ちょっと多すぎて,覚えきれない秋の1日である。

 学校は警察の方々と連携をとることが多いが,なかなか裁判官や弁護士の方と知り合いになる機会は少ない。

 「法教育」や「主権者教育」という言葉の登場で,一時期ブームになったときもあったが,

 警察の方と違い・・・・というと大変失礼にあたるが・・・・学校での成績が優秀だった裁判官や弁護士の方がイメージできる「中学生の学力」の幅が狭くて困ることがある。扱う題材が簡便すぎると,裁判官とか弁護士さんの存在の意義が認められなくなるし,難しすぎると,距離感ばかりが増幅してしまう。

 「ちょうどいい」教材づくりが難しいのである。

 今,ありとあらゆる業界団体,行政組織が,その存在意義を高めたり,生き残りをかけた方策を教育現場に求め始めているが,自分も中学生だったのに,「中学生の実態」をここまで知らないものなのか,と唖然とするようなことばかりが続く。

 小学生では幼すぎる,高校生は受験があるから敬遠される,じゃあ,中学生で,という話になるのだろうが,中学生にも高校受験がある。

 だから方策としては,入試問題で刷り込んでいく,というやり方も考えられる。

 領土問題については,入試問題での扱いが増えているが,それは国の機関から公的な「要請」が文書でなされているからである。

 小学校の学習指導要領では,領土問題の扱いが露骨に強められることとなった。

 だれも文句は言わない。文句を言わない人たちに作らせたからである。

 私は別に,扱うべきではないと主張したいわけではないし,どちらかというと,複雑な背景のある領土問題を学ぶことは,子どもの思考力を高めるという目的のためにもよい題材だと考えている。

 今日は,コンビニのコーヒーと,家の日本茶をいただきながら,テストの採点をする予定である。

 全部で10クラス分で,10時間くらいかかる。

 気になる小問の正答率を出すために,さらに数時間を要するかもしれない。

 大学生の子どもは昨日からグローバルフェスタに参加している。

 試験の日がずれていたらよかったのに・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より