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教師は子どものために自らを犠牲にするもの

 公務員が「全体の奉仕者」になっていないのは,何も日本だけではないかもしれません。

 「経済的に安定しているから」「健康で文化的な生活が送れそうだから」「転勤がないから」

 などという,「自分の都合」だけで公務員になるような人間を,採用の段階でシャットアウトできる仕組みをだれか開発してくれないでしょうか。

 でも,採用された後にがらっと変わってしまうような人もいるので,悩ましいことです。

 私が書いた

 魅力のある学校とは,どんな学校か?

 それは,子どもが活き活きとしている学校であり,そのために教師がひたすら尽くしている学校である

 という内容と関係があるのかないのかわかりませんが,こう言っている人がいます。


>教育関係者の中にもバカがいて、教師は子どものために自らを犠牲にせよなどと言う者がいる。


 私のことかもしれないので一言,書かせていただくと,

 教師は子どものために自らを犠牲にするものです。

 そういう場面になれば。

 それは,当然のこと。

 「犠牲」がテーマになっている音楽を演奏したことはないのでしょうか?

>子どもの幸せを守れるのは、大人しかいない。

>学校においては、教師がそれを行なうものだと思う。

 子どもの幸せを奪っている教師がいるのに,そんなことは知ったことじゃない,という人の言葉。

 子どもは,自分で自分を守るしかないときが,学校でも家庭でも,社会でもあり得るのです。

 教育観,人間観,社会観,すべてがズレている人が,かつて教育現場で仕事をしていたのですね。

 まだdolceさんの第二関門を突破することができていません。

 懲りない人です。

>ロジックとは、要するに論理であり、ロジックの狂った者とは、正常な思考のできない人(早い話「頭のオカシイ人」)のことである。

 この人の教育観は,現役の教師に対しては,

>特に、先生をやっている人は、児童生徒が読んでいるかも知れないと思って書くべきだと思う。

 という考えを持ち,退職して教育現場を離れた自分は,

>早い話「頭のオカシイ人」

 などという言葉を使う。

 「やめれば無関係」・・・・?

 いえ,そうではないのですね。

 音楽のことはわかったつもりになっているようですが,人間のことが,おわかりにならないようです。

 言葉に品のない人が,楽譜通りの音を奏でている様子は,やはり「あれ」です。

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公立小学校と同じレベルになった国立大学法人

 朝日新聞で,東大の「有名教授」が次々に他の大学に「流出」しているという記事が少し前に掲載されました。

 記事の詳細は読んでいないのですが,

 想像するところ,簡単に言えば,

 東大も「公立学校」並みになってしまった,ということでしょう。

 公立学校の場合は,「市民」「県民」,あるいは,「国民」に向けて,さまざまな情報を提供するために,多くの調査が行われます。

 教育委員会が,調査を依頼し,集約し,文科省に提出します。

 それを「雑用」として嫌がる教師に公務員としての資質が欠けているのは明らかですが,もし公務員でなかったら,「そんなことに協力する筋合いはない」として,たとえば私立学校が簡単すぎる学力調査に参加しないように,NOと言うこともできるでしょう。

 これが,教育よりも,研究を第一の仕事にしている大学の先生を対象とした場合,「どうしてそこまで」という調査が次々にくれば,「研究活動への支障」となり,「もう東大では研究ができない」ということになって,「研究費や給料は少なくなっても,研究に没頭できる職場がいい」という主義の人は,私立の大学などへ移ってしまうのは,仕方のないことでしょう。

 国立大学法人が,給料も安い,研究に集中できない,などの「悪条件の整備」を押し付けられている・・・・・こんな実態がもしあったとしたら,「諸悪の根源」は,どこでしょうか。

 なぜ,独立行政法人になったのでしょうか。

 独立行政法人になったメリットは,何でしょう。
 
 事務官の悪口を言っても始まらないのですが,文科省から国立大学法人に人が次々にやってきて,あれやれ,これやれ,と言い出す・・・・・それは,文科省にいるよりは,仕事のやりがいがあるでしょうね。ただ,私が教育委員会で経験した,教育の素人が,アドバルーンだけをあげたがる,とても困った状況に,そっくりな光景を想像してしまいます。

 昔,「生きる力」というフレーズは,おれが言い出したのだ,と誇っている人を間近で見ました。

 最近では,「言語活動の充実」という「モットー」を掲げて仕事をして,地方から文科省にうつってきた人の話を聞きました。

 両方とも,「当たり前」のことしか言っていない,それだけのこと。

 というより,「何も言っていない」に等しいか,「変な誤解を招くもとになる」,そんなフレーズです。

 私がこのブログで書き続けていることは,

 とにかく教育の現状は,「当たり前のことが当たり前にできない」ことの苦しみなのです。

 昨日,ある会議で,

 「新採の社会科の先生は,『流域面積』の意味を知らなかった」

 ことが話題になりました。

 平均の川幅×川の長さが流域面積だと勘違いしていたようです。

 こんなことは,『ふつう』の問題です。

 アドバルーンも役に立つ場合もありますが,

 1日,1日の授業の準備だけで精一杯(になるべき状況)の人がたくさんいるのが教育現場。

 それなのに,

 教育の現場に立つ資格(教員免許をもっていたら,別ですが)のない,お金の計算や法律の専門家が,教育や研究の邪魔をしている。

 もしも,万が一,こんなことが国立大学法人でおこっているとしたら,

 国立大学だった時代の方が,はるかに「まし」でしたね。

 今は,ただの文科省附属大学になってしまったから,優秀な人材はそのうちいなくなってしまうでしょう。

 それを防ぐために,今度は私立大学を「附属化」することになるかもしれませんが。

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面接開始後,3秒で落とされる教員志望者

 「子どもを大切に」などという当たり前のことをスローガンを掲げている人たちは,

 実際は,「自分のことが一番大事」だったりします。

>学習指導要領に魅力を感じて、学校の教師になろうとする人がいるとは考えにくい。

 本当にそうでしょうか。

 学習指導要領に示されている目標を,自分の指導力で実現できたら!

 そう考える人に,ぜひとも教師になってほしいと思います。

 教師の自己実現とは,

 子どもの成長に裏付けられるものです。

 子どもに学力がついていないのに,

 教師の側が「自己実現が果たせました」などと言うのはおかしい。

 利他的な意識の強い人が,教師になってほしいし,

 奉仕的な精神をもっている人が,公務員であってほしい

>魅力ある職場とはどんな職場か?

>それは働いている人が活き活きとしている職場であると思う。

 魅力のある学校とは,どんな学校か?

 それは,子どもが活き活きとしている学校であり,そのために教師がひたすら尽くしている学校であると,私は考えています。

>急にやってきた校長との出会いが、いつしか教員を続ける原動力になってしまったと言ってよい。

>運がいいのか、先輩たちにも恵まれていた。

 私は,運がいいのか,子どもたちに恵まれていました

 それは,教師として育つ上で,「運がいい」という意味です。

 私にとって,教員を続ける原動力は,次々に訪れる子どもたちとの出会いです。


>つまらない上司(先輩)が威張っているような職場だったら、嫌気を感じるだろう。
>早くどこかへ転勤したいと思うか、転職したいと思うようになるのではないか?

 教育の場合は,子どもと自分との関係の方が,上司と自分との関係よりも大事

 教師の場合は,一度,任された子どもは,上司や先輩がどうだからといって,途中で投げ出すような姿勢ではダメです。

>あんな人たちのもとで働きたくないではなく、ああいう素晴らしい人たちのもとで働きたいと感じさせることが、教育への人材を集めることになるのではないか?

 そんな人間を学校現場には集めないでほしいです。

 上の人間がだれかによってやる気が出たり出なかったりするような人間は,教育現場にはいりません

 公務員としても,適当ではない

 どうやら,こういう事例で,教師の使命感や望ましい資質を明確に示すことができたように思えます。

 わかりやすい「ダメ教師」「わがまま公務員」ぶりを示してくださった方に,心から感謝申し上げます。

****************

 面接官より。

 あなたが最初に任用される学校の校長は,けっこう自己主張が強くて,あれこれアイデアを出し,教師たちにやらせようとします。

 あなたは,こういう学校で働きたいですか。

 嫌です。

 ありがとうございました。出口はあちらです。

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「授業をやりたい!」という欲望を乗り越えること

 管理職試験の面接でよく聞かれる質問に,

 「もっと授業をして,子どもとたわむれていたいのではないですか

 というものがあります。

 こういう質問にどう答えるのがよいのかというと,

 「授業は教師のためにあるものではなく,子どものためにあるものである

 という原則のもと,教育課程の管理に責任がもてる人間であることを証明するのが一番です。

 「授業をやりたい!」「子どもとたわむれていたい!」というのは,

 教師の側の満足を求める言葉であり,

 実は管理職ではなく,ふつうの教師であっても,そんな「恥ずかしいこと」は口に出すべきではないのです。

 「子どもたちが成長している場に立ち会えるだけでうれしい

 「ただ,子どもたちの本当の成長を阻害している教師がいるので,この対処に力を入れる

 「管理職は,学校の教育課程の管理に責任を負うべき立場であり,すべての子どもの成長を支えられるような仕事がしたい

 ・・・・「具体的には?」・・・・と聞かれたら,用意した学校経営計画の一部を披露していけばよいです。

 全くの物まねではいけませんが,今は多くの学校で経営方針や学校評価結果をHPで公開しているので参考になります。
 
 「すべての子どもの力を存分に発揮させられる教育活動を企画し,教職員の協力・協働のもと実践し,評価する」・・・・・こういう「企画力」の有無が,管理職に強く求められる時期に来ています。

 「人の授業を参観しても,子どもの生き生きした姿は見えない」

 「人の授業を参観すると,自分ではなく,授業者に生き生きした姿を見せる子どもが許せない」

 そんなことを考えている人は,近くに・・・・・村の中にはいませんか?」

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「学べる」人が「教える」人としてふさわしい

 教育実習生たちは,準備してきたことを一生懸命に「教えて」くれようとします。

 その姿勢はすばらしい。

 しかし,授業をビデオに撮ってみてみると,子どもが「学んでいる」ように見えない

 「教えている」つもりの教師と,「学んでいない」子ども

 何も,教育実習生に限った話ではないでしょう
 
 単純に,「機械のように」できることを目指す人たちにとっては,

 「子どもが自ら学び,自ら考える」ことの意義は二の次になるわけですが,

 もし,自分自身が本当に「学んで」きたのだとしたら,

 「どういうところに疑問を感じ,どういうところにこだわりをもって考えてきたのか

 という履歴を紹介してほしいですね。

 正しい方法でただ練習すれば上達でき,それで満足しているような人たちと,「学び続ける」人たちには,決定的な違いがあります。

 それは,人間を「故障した機械」扱いしてしまえるか,そうすべきではないと考えるかの違いです。

 「故障した機械のような人間は排除される」とまで書いた人の発想は,「機械」としての発想であり,

 「人間」を教え,育てる「人間」のものではありません

 「学べる」人が,「教える」人としてはふさわしい,私はそう考えます。

 100%できる人間が,子どもを教えても子どもが同じようにできるとは限りません。

 50%しかできない人間は,そういう人間だからこそ,何かでカバーするための工夫をするわけです。
 
 そういう人間を子どもたちが超えていくこと,これが「教える」ことの醍醐味なのです。

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教育者が学ぶ姿勢をなくしてどうする? ~dolceさんの情けない教育観~

 新しい指導要領になって,

 学習する内容が

 増える。

 変わる。

 だから,教師も,学ぶ。

 この「学ぶ」行為を「苦慮」「負担」と表現するのが,dolceさん。

 これを,「もし,自分が教師だったら」というのなら,よく理解できます。

 しかし,朝日新聞の記事では,指導が「不安」だから「奮闘」している教師が描かれている。

 武道の必修化で,道具がそろわないので「苦慮」するのはわかります。

 ただ,ダンスの指導法で「不安」があるので,学びに行く・・・・こういうのを,「対応に苦慮」「負担だ」とは,

 きっと

 「教育に情熱をかける教師」なら言いません。

 「にわか作り」だと思われたくないから,自信はないけど,習いには行かない。

 そういう教師を是としている。

 情けない。

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嫌われることを恐れない教師が何%いるか?

 あるサイトを通して本や雑誌を購入している人が,その履歴から「どのような人か」が分かってしまう時代になるのはこわいことですね。

 私も,そんな恐怖心からか,いくつかの場所で分けて購入しています。

 雑誌は,購読者でなければ,そのときの特集のタイトルにつられて買ってしまう,そんなものだと思いますが,だからこそ,買うのに躊躇するような雑誌(のタイトル)というのもありますよね・・・。

 しかし,わざわざ「職場の(人間の)チェック」をするために,こんな雑誌を読むことをすすめる人がいるのです。

 びっくりしました。教育に情熱をかける教師への具体的なアドバイスが,これではないですよね。

 そういう人間がいたら,こういう項目に当てはまる,やっぱり人から嫌われる人間なんだな・・・・などと納得して雑誌を買った人間が気を晴らすのではなくて,本人に直に指摘してあげて,「改善すべきことは改善させてあげる」のが「教育的」なのでしょう。

 本人が自覚されていることがらは,いくつあるのでしょうか。

 話は変わります。

 教育に情熱をかける教師は,

 「嫌われる」ことを恐れて指導を躊躇することはありません。

 「好かれる」ために周囲に迎合して指導をゆがませることもしない。

>人に好かれようとばかり考えて動くのも、どうかと思うが

 と書かれているということは,人は基本的に好かれようと考えて動く,という人間観なのですね。

 教師は,こんな考えは捨てた方がよいです。

 小学校の教師が「好き」「嫌い」にこだわることの問題点は,かつてふれました。

 教育の仕事は,「好かれる」ことを考えてするものではありません。

 ときには,問題行動を起こす人間,不適切な言葉の使い方をする人間を,強い姿勢で非難しなければならない。

 こういうときには,「これを言ったら嫌われそうだな」などとは考えない。

 小学校には,受け持ちの子どもたちに「嫌われる」ことを恐れない教師が,何%くらいいるでしょうか?

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機械のはたらきと人間の思考を一緒にしない教育観

 問題の教師が話題に上がるときは,とても憂鬱な気分になります。

 今日も,どこかで,子どもが,犠牲になっている。

 人間は,機械ではありません。

 歯止めがきかなくなってしまったdolceさん・・・・いえ,dolceさんの中の良心の一部であったはずのtsuguo-koderaさんにも乱れが生じ,一体化してしまったので,再考をお願いできればと思います。

 dolceさんは,

>かなりのことは、機械がきちんとやる時代だから、正常な思考回路を持たない人間は、壊れた機械と同じだから、排除されていくと思わなければならない。
 
 とおっしゃいますが,私は教育を語る立場の人間なので,決して排除することはなく,修復をめざして努力しています。

 tsuguo-koderaさんが,コメントの中で

>人間は感情に左右されます。最高の状態で人が働けば、機械を越えるのかも。心が定まらなければ、力を出せませんから、ロボットが管理する機械のほうがマシになるのでしょう。


 と結論付けていますが,これがなにがしかの教育に携わる人の言葉だったとしたら,非常に残念です。

 
 中学校の教師は,ふつう,思考の過程に課題がある生徒に対して,「壊れた機械と同じ」などということを言いません。ましてや,「排除される」というのも,もってのほかです。

 「排除しようとする勢力を抑えて,正しい思考のプロセスを育てていくのが,私たち教師の役割です

 と言えるのが,教育に使命感をもっている教師ではありませんか。

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カルロスさんにお詫び申し上げます

 リアルな世界では,とにかく子どもに害のないよう,おだてるだけおだてて,あっちのスイッチが入らないように努力することでしょう。

 しかし,ネット上の世界は,言葉の制御スイッチがはずれてしまっているというか,感情をコントロールしなくてすむので「過度」な表現を生むおそれがある,ということは,自覚できているはずでした。

 つまり,私が「失敗」の淵へ相手を呼び込んでしまった結果が,今,問題となっている状況なのです。

 学校現場では,やってはいけない失敗を,ネット上の世界だからと,危機意識をもたないで,「解放させてしまったこと」。これが,問題の原因であることは明らかですので,お詫びしたいのです。

 「まさかあそこまで」と思われる人は多かったでしょうが,

 ああいう局面で,あれだけの「本音」を出せてしまう人というのは,リアルな場でも相当に難しいでしょう。

 私は実際に調査できる立場にはありませんが,

 病気休職者の近くに,あのタイプの指導力不足教員はいなかったか,いたとしたら,どのような苦労を病気休職者は味わってしまったのか,お聞きしたいところです。

 本当に厳しいレベルにいってしまっている人は,自分がどういう状況だか把握できないといいます。

 実は重い状況だと思っても,それに気づける分,実は「軽い状況なのかもしれない」ととらえた方がいいかもしれません。

 いずれにせよ,次の記事が見どころでしょう。

 真価?が問われる,まさに「世紀の一瞬」が近づいているのかもしれません。

 私はまだ,「第二関門突破」の夢は捨てていません。

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授業を大事にしない子どもがいる原因

 ●指導力不足につながる事例 3/33 「授業を大事にしない」

 「授業を大事にしない」教師なんて,いるのだろうか?

 これは,実際に「授業を大事にしない」教師に出会ったことがなければ,思いもつかないようなテーマなのですが,学習指導要領には法的拘束力がない,という立場に立って,「授業は教師の自由に行える」という主義のもと,本当に好き勝手やっている・・・・特に好き勝手にやりやすいのは,小学校・・・・・教師を目の当たりにすると,今の学校教育で「本当に大きな問題」であることに気づくのです。

 以前,dolceさんとの間で「授業を自習にして出張する教師」の問題をやりとりしましたが,dolceさんの主張は

 「出張命令には従わなければならない

 私の主張は,

 「授業を自習にさせて出張命令を出すのは,本末転倒のゆゆしき事態

 というものでした。

 実際にそのような課題を,「課題として認識し,改善に向けて努力している」自治体があることを以前に紹介しました。

 教育委員会が,授業時間に,代わりの教師がいないことを知っているのにもかかわらず出張させる依頼を出していたとしたら,「授業を大事にしない」のは学校だけでなく自治体ぐるみの問題であるということになります。

 さて,ここでの話題というのは,「授業を大事にしない」教師や子どもの問題です。

 田沼雄一著『若い先生に贈る失敗から学ぶ教師学』学事出版では,以下のような事例が紹介されています。

 ・・・・教師不在の自習となんら変わることのない学習時間となってしまいます。
  子どもたちも,それに慣れ,うるさいことを言われず,指導もされず放任されている時間が長いのでなんとも思わなくなります。学校のほとんどの時間が授業にもかかわらず,教師が授業を大事にしないから,子どもも授業中,真剣にやろうとしなくなります。

 おそらく,これは小学校教師を対象にした文章になっているのでしょう。中学校では,時間ごとに教師が変わるので。まさか「全滅」ということは考えにくい。

 そのあと,紹介されていることとも関連しますが,普段,とても人に見せられるような授業をしていない小学校教師が,いざ,授業参観となると,「授業の準備をしなければいけなくなる」・・・・・でも,「授業の仕方がわからない」・・・・だから,「授業参観のための授業づくり」なんていう本が出版されることになるのですね。

 親としては,特別な授業が見たいのではなくて,できれば,全く普段通りの授業と,普段の授業での子どもの姿が見たくて,わざわざ(人にとっては仕事を休んででも)学校まで出かけていくのです。

 たくさんの小学校から子どもが集まってくる中学校にいると,いろいろわかってくることがあります。

 あるクラスは,授業そのものが成立していなかった

 ゲームや漫画は持ち込み可で,授業がわからない子どもは,授業の邪魔をしないように,個々にゲームなどに熱中させて,それらで時間を過ごして,授業が終わるのを「待っているように」言われていた

 そして小学校の休み時間というのは,「遊びの時間」であって,学校にはトランプやカードなどを持ち込み可で,そういうので少人数でグループをつくって遊んでいた。

 小学校の「遊び」は,もっと大人数で,体を動かして,伸び伸びとやってほしい,というのは,保護者の立場だけでなく,中学校の教師と言う立場からの要望でもあります

 学力はついていない

 体力もついていない

 ある程度の人数で一緒に活動することに慣れていない

 こういう子どもたちに,「学校における生活の仕方」「学校における授業の意味」を改めて中学校で説明しなければならないのは,本当につらいことです。

 小学校には,「週案」というものがあって,管理職がすべて把握することになっています。

 教育課程の管理のうち,「日常的に行う管理」がこの「週案」の確認です。

 校長によっては,副校長や教頭に任せっきりになっている人がいるかもしれませんが,ここで管理職が課題に気づけるケースと言うのも,実際にはあるのです。

 気温が異常に高い炎天下の校庭でマラソンの練習をするなどのケース。

 「予定通りに進めないと気が済まない」というタイプの「指導力不足教員」には,特に注意が必要です。

 授業を大事にするのは,当たり前ですが,子どもを大事にするということです。

 計画の方を,子どもの健康よりも優先させる教師が,実際にいることを忘れてはなりません。

 授業だけでなく,子どもを教師が大事にしてくれていたら,

 子どもは授業の時間を大事にしてくれます。

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中学生が小学生から学んだこと

 先日,中学生を連れて小学校におじゃましたという話をしましたが,

 中学生は,小学生たちから何を学ぶことができたか。

 発表が,とてもしやすかった。

 その一番大きな理由は,
 
 小学生が

 「目で聴いてくれた

 「相槌を打ったり,話しかけてきたりと,とても反応がよかった」

 ことと考えているようでした。

 小学校に訪問する前にお送りした「自己紹介カード」もよく読んでいてくれたそうで,初対面のときに小学生の方から名前を呼んでくれた,という生徒もいました。

 とてもスムーズに発表や意見交換等が進んだのは,小学校の先生方の受け入れ態勢がとても十分になされていたこと,普段の子どもたちの「聞く姿勢」がしっかり指導されていたことなどが理由として挙げられます。

 こういう問題に気づいた中学生もいました。

 「分からないけど,とりあえずうなずいてしまう,という子もいる

 なぜこういうことに気づけたかというと,やはり「あやしい」と思ったのでしょうね。

 「分かっていれば答えられる質問」を,うなずいている子どもに個別にしてみたそうです。

 そうしたら,答えられなかった。

 話し合いをしているように発表することができた,と喜んでいる一方で,

 「プレゼンをして,相手に本当に理解させる,ということ,理解させることができたということに気づくのは,難しいことなのだ

 と自覚できたことには,意味がありました。

 遠い距離を隔てた「小中の交流」ですが,また何年かおきに,実践できるとよいです。

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指導力がある人とない人の大きな隔たり

 指導力のない人は,指導力のある人の指導のまねをすれば,授業ができると勘違いする・・・・というか,指導力のある人と自分との違いが,何であるかが理解できない・・・・という特徴があります。

 だから,指導力のある人の本を買って読めば,自分もきっと指導力のある教師になれるだろう,と勘違いしてしまう。

 もし子どもの教育に対する指導力が高い人が,教師に対しても指導力を高める指導ができれば,そういう人が一人でもいる学校は,とても教育水準が高くなるでしょう。

 「自分の仕事」が終わったらさっさと5時すぎに帰ってしまうような「指導力のある教師」を,周囲はどう見ているのでしょう???

 さて,指導力があるとかないとかが分からず,「指導力のなさ」を実感させてくれる愚問が,

 「指導力があるってどういうことですか」というもの。

 指導力不足教員が,実際にこういう質問をしてくることがあるのです。

 いくつかの学校を異動してきて,何を見て,何を学んできたのだろう?
 
 学校には,「指導力がある」教師と,「指導力がない」教師しか存在しないと勘違いしている。

 まず,教師は,一定の指導力があるのが,ふつうのこと。

 その中で,他の教師から見ても力があることが明らかな教師,子どもがその教師の指導によって,他の教師の指導によるよりも高い成果が出されるようなとき,

 「高度な指導力をもつ」とか「指導力が高い」という意味で,あえて指導力がある」と言うのがふつうなのです。

 ふつうの教師のふつうの指導力に対して,「指導力がある」という言い方はふつうはしないのです。

 自分が教える教科に関する,ある一定の専門的知識や技能は身に付いていることは最低条件ですが,たとえば,その知識や技能はどのようにして身に付けられたのかをふりかえってみます。

 自分が受けてきたような授業を,自分が展開できて,自分が学んできたようなことを,子どもが学んで,自分と同じような状態になっていけば,「指導力」についてあれこれ言われることはない。

 自分より子どもの方ができるようになっても,教師の「指導力」に課題がある,なんてことは言われない。

 教師の「指導力」に課題があると言われるのは,子どもに実力がつかないからです。

 その理由が,「自習が多い」「質問に答えてくれない」などといった「指導力」以前の問題である教師もいますが,今のところ,「子どもとの会話が成立しない」というレベルの教師で,やっと「指導力不足教員」に認定されるようになります。

 本当は,新しい学習指導要領のもとでの教科のねらいや単元の目標を理解せず,大昔のプリントを使って同じような授業を繰り返しているような教師も,私は十分に「指導力不足教員」に認定してよいと考えていますが,こういう場合はいくらでも「言い訳」が成り立ってしまう。

 「子どもとの会話が成立しない」「すぐに体罰に訴える」などのレベルは,だれの目からも「不適格」に見えるので,判定もしやすいし,「言い訳」もできない

 でも「指導力不足教員」がそういう「線引き」では,子どもも浮かばれないだろう,というのが私の考えなので,

 どういう指導が課題なのかを問題にしている,というわけです。

 指導力の「高さ」には本当に様々なレベル,得意分野の多様さがあるので,それを知りたければ,様々な学校の研究発表会にでも出かけていけばよいのです。

 でも,日常的な「指導力の課題」は,そういう「研究発表」「公開授業」では現れにくいでしょう。

 だからこそ,指摘が必要なのです。

 一般企業のビジネスパーソンに求められるスキルは,

 技術スキル

 対人スキル
 
 概念化スキル

 で,一般従業員→管理者→経営者の順に,下の方のスキルが重要になってくる。

 教師の場合は,採用段階から「対人スキル」・・・・しかも,年齢が下の,子どもとのコミュニケーション能力が重要になります。

 そして,そのスキルの背景には,教育への使命感とか,人間尊重の精神などがなければならない。

 放課後の教室で子どもには見せられないような行為をしていた小学校教師のように,感情や行動をコントロールする能力がない人間は,公務員としてそもそも不適格なのです。

 指導力がある教師,とよばれるようになるためには,

 技術だけではダメ(だから,技術をひたすら高めようとする人たちの中からも,指導力不足教員が出てくる)

 対人スキルがあるかないかは,その人が書いたり話したりしている「言葉」から想像できます

 まずは,技術と対人スキル。これがともに高度である教師に出会ったことがない人は,不幸ですね。

 そういう教師に育てられている子どもも不幸です。

 初任者研修における研究授業でも,「指導力があること」をアピールできる人もいます。

 厳しい私の先輩は,そのときの授業・・・・いや,教育実習のときの授業で,だいたいその人の「指導力のレベルはわかる」・・・・と言います。

 大勢を見てきたそういう人の言葉にはなかなか抵抗しにくいですが,それを教育実習生に伝えても仕方がないので,とにかく授業の技術や対人スキルが磨けるような実践,公開・研究授業,研究会での発表等を続けていけるよう,アドバイスしてあげるしかありません。

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dolceさんに不足している追究力

 書けば書くほどハテナになるdolceさん。

 せっかくの「チャンス」を棒に振ってしまった。

 まだ「出身校別指導」にこだわらないと,気が済まない。

 そして,「そのどこがおかしいのか」についての思考を働かせようとしない。

>グレードの違うものを区別しても、何も問題は起こらない。
>昨日、来客があって、その人は高校の時困ったことがあったと言った。
>中学校の時、その中学校では独特の体操をやっていたので、高校でラジオ体操ができなかったと言う。
>それで、体育の先生から「○○中学校の出身者はできないでしょうから、しばらくは他の人のを見ていても
>いいです」と言われたそうだ。
>この扱いは何の問題もない。

 ラジオ体操は,中学校でしか学んで習得できないものなのでしょうか???

 中学校で独特な体操をやっていた生徒は,すべて,ラジオ体操ができない生徒だったのでしょうか???

 愛知県では,小学校でラジオ体操を教えないのがふつうなのでしょうか???

 せっかくのチャンスだったのに・・・・。

 「本当に,その中学校の出身者は,全員がラジオ体操を知らなかったの?
 
 「ラジオ体操って,前でやっている人の動きを見て,同時にできるものではないの?

 という疑問が生まれない理由はただ一つ。

 人間の思考力を奪うものが何であるかを,今回,dolceさんは如実に示してくれました。

 本ブログの管理者として,本当に感謝いたします。

 **********

 ちなみに,「待っていてください」と,「見ていてもいいです」では,違いが大きすぎますね。

 **********

>自ら自分の病気を公開している、どこやらの先生のように、この方は動画に出てくるチエック項目にもかなり当てはまるように、病気なのだと思う。

 「どこやらの先生」とは???

 こういう1文も,そう簡単にはスルーできませんね。

 dolceさんが変われるチャンスは今しかないかもしれませんよ・・・・。

 カルロスさんの訴えをどうぞお聞き届けください。私から言っても,反発して,次々に問題発言が飛び出すという逆効果になっているようですから・・・・。

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dolceさんを喜ばせるための情報×2

 以前にも書いた記憶がありますが,振り返って自分の文章を読む時間がないので,あらためて古い情報を一つと,新しい情報を一つ,書きます。

 まずは,新しいこと。

 dolceさんによってもたらされた,

>中学校で、音楽の教科書の他にリコーダーの本の別冊があって、子どもが自主的に練習して行って、他校の子どもたちよりずいぶん進んでしまうというので、音楽の先生が、しばしば待たせるということを話していただいたことです。

>私の教えた子どもたちは、全員、音楽の教科書とは別の、リコーダーの練習書を終えてしまったので「ふつうではない」かも知れません。

 という情報から,こういう言葉をお贈りします。

 この中学校の音楽教師が,

 「dolce先生というすばらしい先生に音楽を教わった人たちは,しばらく待っていてください。

 と指示したとするなら,半分はOKです。

 小学校によって教育の質が異なっており,出身小学校による格差が生まれていることに子どもが不安を持たずにすむように配慮するとしたら,特定の教師の名を挙げるのが適策です。

 あとの半分は,「待っている」という無駄な時間の過ごし方を授業中にさせないような配慮が,中学校の教師にはほしかったということ。

 ですから,本来は,小学校名や,教師の名などは出す必要はなく

 「作業が終わった人は・・・・」と言えばよい。

 dolceさんには,「自分の教えた子ども以外のすべての子どもは,作業が遅い」と言い切れる自信があるのか,ないのか。

 仮に,中学校の教師から,その通りだ,ということが伝えられているのなら,

 「そういう言い方をしたら,他の小学校出身の子どもは嫌な顔をしませんでしたか」と聞くべきところ。

>音楽の先生が、しばしば待たせる

 ということは,dolceさんの教え子たちは,授業中にしばしば「待たされる」経験をし,そうでない子どもたちは,「待っている生徒」を横目に,作業を進めていた,ということですね。まさか,その都度,「●●小学校出身の人は待っていてください」などとは言わないでしょうね。


 古い情報とは,これは私の予想ですが,

 上に紹介されていた話は,

 dolceさんを喜ばせるために中学校の教師がした話=実際に,dolceさんが喜んでいるようすが,文章からありありと感じられる・・・で,実際にはそのような「言葉かけ」はなかった・・・・のでは?

 中学校の教師である私の感覚・感性は,そう告げています。

 本当に中学校教師がその通りに言ったかどうかを,dolceさんが確かめたとは考えにくいので・・・・。

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人権感覚がよみがえるかどうかが第二関門

 前の記事の一部の再掲です。

 「自分が書いたことに異議を唱えられた」から,「反論する」・・・しかも,相手の「頭がおかしい」[2]という言い方で,かつ,それが「良くない言葉であることを自覚しながら使ってしまう」,というパターンを繰り返している人のことをさしている,ということになります。[3]

 という私の言葉に対して,

 あいかわらず,

>頭のおかしい人がいるから、その人を治療するための病院があるのです。
>胃のおかしい人がいるから、胃を治療する胃腸科があるのと同じです。

>[3]ここで「ということになります」といえるのは、絶対的な真理でなくてはなりません。
>それは、一般的に承認されていることがらでなくてはなりません。


 という反論のされ方になる。

 いいですか。

 胃のおかしい人が,胃腸科に通う,これはいいです。

 しかし,「頭のおかしい人が治療を受けるための病院」とは,どのような病院のことですか???

 その病院に通う人を,dolceさんは「頭のおかしい人」と呼ぶのですね!

 dolceさんには二重の問題を指摘しなければなりません。

 「二重の問題」が何かは,おそらく私の文章をお読みの方はほとんどわかる・・・「一般的な承認」が受けられることと思われます。

 絶対的な真理かどうかはわかりませんが。

 まだ突破できていない「第二関門」は,「よくない言葉」と知りながら,その言葉を「よくない使い方」だと自覚できないでいるdolceさんに,「どこがよくないのか」を自覚してもらうことですね。

 そうでないと,もう「見捨てている」かもしれませんが,しょうさんなどが「もうやめた方がいい」とまた「助言」をしに訪れるようになるかもしれません。それはもちろん,dolceさんのためを思って。

***********

>これは、国語力のなさから来るものか、思考がおかしい(わかりやすく言えば、頭がおかしい)のどちらかではないか

 この文章の使い方から,dolceさんが教師時代にどのような言葉を使っていたのか,心配になるのです。

 国語力がまだ十分に身に付いていない子ども,思考力が十分に育っていない子どもが,論理的に「おかしいこと」を言ったとします。これをdolceさん流の「わかりやすい」表現では,「頭がおかしい」とよぶわけですね。

*********************

カルロスさんのご指摘のとおり,私の文章をお読みになった方の中にも,たいへん不快な気持ちになった人がいるかもしれません。

 この場を借りて,お詫び申し上げます。

 お願いは,長い目で見て,希望を捨てない教育のあり方というのを感じていただきたいというのが,私の思いです。

 貴重な時間を割いて,無駄なことをしているように思われる人がいるかもしれません。

 教育という仕事は,ある面では,非常に無駄なことの繰り返しをしているにすぎないとも言えます。

 しかし,それを無駄だからやめる,と思った瞬間が,教育という仕事から去るときです。

 現場にも,そこから去った人の中にも,一度,本当の意味で教育の仕事から去ってしまった人がいます。

 というか,本当の意味で教育の仕事に「最後まで」かかわることができなかった人がいます。

 今回,確信がもてたのは,亡霊の正体です。

 成仏できないでいる理由が行間からしみ出しています。

 あともう少し,ご辛抱ください。

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やっと気づいてくれたdolceさんに感謝!=第一関門突破

>事実のあるないという論点を行為の良い悪いの論点したいのだと言うことです。

 やっと理解していただいたようで,ありがたいことです。

 ようやく「言葉が通じた」という実感がもてました。

 ということは,まだ望みは捨てないでよい,ということになります。

 議論にはなっていませんでした。しかし,ようやく,平行線ではなくなった。角度が生まれたのです

 またまた繰り返しになりますが,

 授業中,早く作業などが進んでしまった中学生に,「中学校の教師は,ふつう,『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』などという指示は出しません」

 と私が書いたのは,それが「不適切な指導」であるからだ,と私が言いたいのだ,という意味が,ようやく通じたようです。

 そういうことを言ってしまうような教師が100%いないなんて言いきれないのは当たり前のこと。

 Aがもし絶対にBをしないなら,そう書くまでのこと。というより,書くまでもないこと。Aは,ふつう,Bをしない,と言っているということは,BをするAがいるのが問題だ,という意味になるのは,文脈を読めば当然わかるはずのことだったのです。

 そういう「不適切な指導」の「不適切さ」を考えてほしいから,わざわざ記事にしているわけです。

 やっと,その部分が通じたようで,まずは第一関門を突破。

 ただ,まだ次のような紹介をしているので,ズレを治すには時間がかかるかも。

>中学校入学後間もなくの掃除の時間、出身小学校別に清掃を割り当てられたことがあって、自分たちは早く清掃が終わったので、教室に戻ると「○○小学校の人は、掃除が上手だね。ちょっと待っててくださいね」と言われたことがあるそうです。

 またまたやってくれましたね。

 掃除の時間に出身小学校別に清掃を割り当てるって,だれが何の目的で行った指導なのでしょう。

 入学した時にはすでにクラスが決まっているし,それは出身小学校別ではあり得ないわけで,それをわざわざ小学校別にするというのは,どのような事情があるのか聞いてみたいところです。

 清掃の技術を出身小学校別に競い合ったのでしょうか?

 そして,大事なポイントは,

 「早く掃除が終わった」=「掃除が上手」とは限らない,ということ。
 
 まあ,これについてはこれくらいで。

 ・・・・よくこんな異常な情報が次々に入ってくる方ですね・・・。

 さらにご丁寧に,吹奏楽部の生徒の話を繰り返される。

 私が言っているのは,「ふつうの授業での話」でしょう。

 そこで,進度が早い生徒を,わざわざ「出身小学校名を出して」,「待たせる」,これが問題の指導だ,と言っているわけですからね。

 「出身小学校名」を出す必要はないし,「待たせる」以外の指導はいくらでもできるでしょう。

授業中,早く作業などが進んでしまった中学生に,「中学校の教師は,ふつう,『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』などという指示は出しません」

 と私が記事にして得られた「穫物」は,今のところみんなdolceさんによってもたらされているので,感謝を申し上げております。

**************

 比喩表現というのは,説明をわかりやすくするためなのですが,dolceさんには逆効果なので,これはやめておきましょう。比喩表現をさして「普遍的事実ではない」なんて言われてしまうようでは,これは日本語を母語としている人との会話ではなくなってしまいますから。

>それよりも「中学校の教師は、猿に変身しない」という言い方は、変身するものが猿でなくてもよいのです。

 というdolceさんの言葉は,独り言ですよね。

 でも,「亀に変身しない」と書いても,私からは,

 「職員室前の廊下で暴れている生徒がいても,職員室から一歩も出なかった・・・・自席から一歩も動こうとしない教師がいた。これが,亀に変身した教師の一例だ」などと言われてしまうので,

 「ネズミに変身しない」くらいにしておけばよかったのかもしれませんね。

 いや,だめか。職員室で窃盗を犯していた小学校教諭がいました。鼠小僧というわけではないのでしょうが。

 「自分が書いたことに異議を唱えられた」から,「反論する」・・・しかも,相手の「頭がおかしい」[2]という言い方で,かつ,それが「良くない言葉であることを自覚しながら使ってしまう」,というパターンを繰り返している人のことをさしている,ということになります。[3]

 という私の言葉に対して,

 あいかわらず,

>頭のおかしい人がいるから、その人を治療するための病院があるのです。
>胃のおかしい人がいるから、胃を治療する胃腸科があるのと同じです。

>[3]ここで「ということになります」といえるのは、絶対的な真理でなくてはなりません。
>それは、一般的に承認されていることがらでなくてはなりません。

 という反論のされ方になる。

 いいですか。

 胃のおかしい人が,胃腸科に通う,これはいいです。

 しかし,「頭のおかしい人が治療を受けるための病院」とは,どのような病院のことですか???

 その病院に通う人を,dolceさんは「頭のおかしい人」と呼ぶのですね!

 dolceさんには二重の問題を指摘しなければなりません。

 「二重の問題」が何かは,おそらく私の文章をお読みの方はほとんどわかる・・・「一般的な承認」が受けられることと思われます。

 絶対的な真理かどうかはわかりませんが。

 まだ突破できていない「第二関門」は,「よくない言葉」と知りながら,その言葉を「よくない使い方」だと自覚できないでいるdolceさんに,「どこがよくないのか」を自覚してもらうことですね。

 そうでないと,もう「見捨てている」かもしれませんが,しょうさんなどが「もうやめた方がいい」とまた「助言」をしに訪れるようになるかもしれません。それはもちろん,dolceさんのためを思って。

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教師による区別を子どもは差別と受け止める場合がある

 学校によっては,学校評価の一環として,児童・生徒へのアンケートを実施し,「投票箱」に入れるような形式をとって,だれによって書かれたかを特定できないような配慮をして,

 「えこひいき」されている人がいると感じることはあるか

 などという,けっこう際どい質問に答えさせるところがあります。

 児童・生徒へのアンケートを実施していること,そして,こういう質問項目があるということは,

 自校の教育活動への自信の表れ
 
 と読み取ることが可能です。

 どんなわずかな「すき」もつくらない,そういう姿勢の表れでもあるのです。

 もし,一人でも,「心配な教師」がいる場合は,特に小学校では,

 「えこひいき」されている人がいると感じることはあるか

 なんて質問は出しにくいでしょう。

 そのクラスの数値だけ目立つことになり,担任教師の立場が心配だ,なんていう「仲良し集団」は嫌がるでしょうね。

 「えこひいき」をしている自覚がある本人が反対することもあるでしょうし,心配性な人は,そんな質問はやめてくれ,と懇願してくるかもしれません。

 しかし,自覚をもって教育活動が行える人は,むしろそういう質問を通して,

 「気づかないうちに行っている差別」の存在を確かめようとします。

 教師が行っている「区別」でも,子どもから見れば,「差別」と受け止められている可能性があることを自覚しておくべきです。

 会社に入って,上司が,「●●大学出身の新入社員は,仕事が早いな。●●大学出身者だけ,しばらく休みをとっていていいぞ」なんて言うことはあり得ませんね。

 そういう「くくり方」は,もし仮に現実として「実力の格差」があったとしても,行わないのが「教育的」です。

 教師に限らず,「出身」によって人を「区別」して扱うことをすべきかどうか,よくよく考えて行うべきでしょう。

 「お国自慢」は「差異」を知り合うのが目的だから,こういう場合はいいのですが,「差異を認め合う」ことが目的ではない場合は,「出身」による「区別」は「差別」に結びつくおそれがあることを知っておくべきです。

 教職を目指す人たちの中には,「人権問題」に関する基本的な知識を学ぶ機会が少ないか全くなかった人もいるかもしれません。現実として,どういう差別の問題があるのか,それを知っておくべきです。

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中学校の教師は,猿に変身する

 小学校の教師は,職場の日常では「群れ」の行動をとらないのですが,

 中学校の教師の場合は,職場で猿と同じような社会をつくっている場合があります。

 むしろ,それが「ふつう」かもしれない。

 dolceさんは,比喩表現を想像力をはたらかせて読み取ることが苦手なようで,

>「中学校の教師は、猿に変身しません」

と言うなら、納得できますが

 ということなのですが,こういう言葉にこそ「反論」できるのが学校という社会を知っている人間なのです。

 もし,「心がせまい」とは何かを説明するとしたら,

 「自分が書いたことに異議を唱えられた」から,「反論する」・・・しかも,相手の「頭がおかしい」という言い方で,かつ,それが「良くない言葉であることを自覚しながら使ってしまう」,というパターンを繰り返している人のことをさしている,ということになります。

 繰り返しになるのですが,

>「中学校の教師は(ふつう)『ちょっと○○小出身の子たちは待っててね』
 などという指示は出しません」
 
>ということが言い切れるかどうかということです。

>「中学校の教師は」と言えば、対象は日本中の中学校の教師です。

>その教師が、過去、現在、未来を通じて、そういうことを言わないと言い切れるかということです。

 以上からわかるのは,「私の言いたいこと」=授業中に,特定の出身小学校の生徒を待たせるような指導はふつう,行われることはないし,もし行われたとしても,それは不適切だ,ということへの反論になっていない,ということです。

 ここも繰り返さないと問題の所在があいまいになるので困るのですが,

 ある小学校の出身者だけ,進度が早くなるから,そういう子どもは待たせておかなければならない状況になる,だから,「待っていて」という指示が出される,という話が私が「おかしい」といったものでした

 「ある小学校の出身者だけ進度が早くなる」のが,「ふつうの授業で見られる」のが「ふつう」ではないことは,これも繰り返しですが,特定の小学校の出身者の中にも,実力の格差があるのが「ふつう」だから,説明するまでもないことでしょう。つまり,「待っていて」はいけない子どもも含まれるのが「ふつう」なのです。そして,何も「待たなくて」よい。同じ説明でも,「いっしょに聞いて」くれればよい。場合によっては,まだ終わっていない子どもを助けるとか,手伝うとか,そういうこともあり得ます。・・・・ということでした。

 dolceさんは,これが反論として成立していないことを,私の言葉の「ふつう」を勝手に(  )を入れてしまうことで,なかば自覚されている

 以前も同じことをされていました。

 「ふつう」ではないことがあるぞ,というのでは,「ふつうはこうだ」という説明の反論にはなりませんね。
 
 「ふつうは2アウト3塁でスクイズは行われない」という言葉に対して,「2アウト3塁でスクイズが行われない」と言い切れるのか,過去もなかったのか,未来もなかったのか,なんて言い出す人はいないでしょう。

 反論のための反論をしているから,窮地に立たされてしまうのです。

 dolceさんがすべき反論は,
 
 中学校の教師は,作業が早く進みすぎる特定の出身小学校の生徒を限定して,待たせておく,という指導がふつうに行われていることを,示さなければならないのです。

 しかし,これを示して上で,「これは不適切な指導ではない」ことも説明しなければならないのです。

>実際、新学期が始まったばかりの中学1年生においては、いくつかの小学校の出身者が集まっている中学校があります。

>そういう時、それぞれの小学校を紹介する時

>「○○小学校の(出身の)人たちは待っていてください」

>ということはあり得ます。

>そして、それぞれの小学校の特徴や自慢を披露することもあります。

 これは,「ふつうの授業で,作業が早く進みすぎるので待たせておく事例」ではありません。

 「~という場合もありえる」と言っている時点で,「ふつうの例」ではないことも,自覚できないのでしょうか。

 そして,書けば書くほど,「おかしな指示」が際立ってくるdolceさん。

 なぜ,出身小学校のよさをPRする場面で,ある小学校出身者に「待っていて」という指示が必要なのでしょうか。この子どもたちは「聞き役」になるのですから,「待つ」のではなく「聞く」のが正しい姿勢ですね。

 実際の指導場面を思い浮かべれば,そういう言葉を発する必要性がないことは明らかです。

 むしろ,「待たせてはいけない」と考える教師にならないと,「授業のねらい」は達成されません。
 
 一方的に「特徴や自慢を披露する」のではなく,それを「聞いてあげる」側が存在しなければ,「授業」として成立しなくなるのです。

 ・・・・・「特徴や自慢」が披露できる小学校と,そうでない小学校の格差が気になる?

 そういうセンスのある人に,できたら教師を志してほしいですね。

 dolceさんのセンスは,次の言葉でよくわかります。

>中学校で、音楽の教科書の他にリコーダーの本の別冊があって、子どもが自主的に練習して行って、他校の子どもたちよりずいぶん進んでしまうというので、音楽の先生が、しばしば待たせるということを話していただいたことです。

>音楽の練習では、吹奏楽部の例なんかよくわかると思うのですが、進度に差が出る時、進度別にグループを分けて練習するなんてことはやります。

>私の指導していた小学校の子どもが、中学校へ行って、校長やPTAを動かして吹奏楽部を作ったという話はしました。

>そういうこともあって、要請されて、私が時々中学校へ行ったりしました。

>祝日や日曜日の練習の時も行きました。

>そういう時に出た話です。

 途中からdolceさんと私のやりとりを読まれた方は,この部分を読まれて

 「ああ,なるほど!」と気がつかれたことでしょう。

 何を自慢したかったのか,そして,それが否定されたことに,カチンときたのだな,というのがありありと伝わってくる部分ですね。これが「読解力」です。

 そして,たったこの部分だけでも,「猿化した教師」が「習熟度別による学習」を行うと,こういう失敗を犯すのだな,ということがわかります。不適切な指導法です。

 それについては,あえて説明するまでもないでしょう。

 教職につこうと考えられている人には,この「どこが不適切なのか」が問われるようなケースの想定問答をぜひお考えください。

 dolceさんがわざわざ自ら核心的な部分にふれていただいたので,この部分さえお読みいただければ,もう十分だとも言えるでしょう。

 自慢話をしていたdolceさんが否定されたのではなく,中学校の音楽教師の指導が不適切であったと指摘された経緯にあらめて気がつけば,ご機嫌もなおるでしょうか。

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dolceさんの反論パターン

 Aは,ふつう,Bをしません

 と私が述べると,

 BをするAがいないと,なぜ言えるのか

 と反論される。

 そして,BをするAがいないと言えるのは,超能力者だからか,と揶揄する。

 あるいは,「頭がおかしい」という表現をする。

 何度も繰り返されてきた,「基本的なパターン」です。

 dolceさんの反論パターンは,教師の資質の課題をより浮き彫りにしていく傾向のあるものです。

 A=中学校教師は,ふつう,B=差別をしません。

 に対して,

 「差別をしない中学校教師がいないわけない」と言っているだけなわけですから。

 さて,今回の件を,dolceさん自身がまとめていただいた,最初の話から振り返ってみます。

 斜体は,dolceさんの言葉。太字は,私の言葉です。

*****************

私は過去のブログ記事の中で次のことを述べました。

授業中に「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」ということがあったという。
それは、あまりにも早く出来てしまうので、待たせることがあったという。

すると、これに反応して、K氏が次のように言いました。


しかし,中学校の教師は,ふつう,
 「ちょっと○○小出身の子たちは待っててね」
 などという指示は出しません。
 出身小学校で子どもをくくり,区別する,ということはしません。


それで、私が、
中学校の教師は○○ということはしませんと、どうしてわかるのか?
日本中の中学校の教師がみなそうだと言えるのか?
また、未来の中学校教師の実践も含めてそう言えるのは、超能力ではないか
のような意見を掲載しました。

***************

 で,私が

ただ,dolceさんの今回の反論記事はかなりポイントがずれているので,ちょっと心配になっていますが・・・・。

 と書くと,

>いやあ、あなたの妄想にはついていけませんよ。

 という反応。「妄想」という「思考停止語」を多用するのも,dolceさんの反論のパターンです。

 あとは,

「●●小出身者だけ,早く終わってしまう」ので,「待っていて」という話でしたから,

という私の言葉に対して,

>そんな話は全くしておりません。そういう妄想が浮かんだんですね。

 と,以前に書いたことを忘れてしまって,「妄想」扱いすること。

 

 私の言いたいことは,

 中学校教師が,授業中に,出身小学校で子どもをくくり,区別する,ということは,不適切である,ということ。

 だから,ふつう,A=中学校教師は,B=特定の出身小学校名を示して,該当生徒を「待たせる」という指導はしない,と表現しています。

 dolceさんは,まず,こういう表現の意図が読み取れない。

 意図が読み取れていないということがわかってしまうことを前提として反論されるから,余計に「反論のための反論」らしさが際だってしまっています。

 茶摘み体験の話は,どうして出てきたか。

 私の予想は,中学校教師が,出身小学校で子どもを区別している例がある,ことを示したかった。

 dolceさんによれば,それでは都合が悪い(=特殊な例のために,「ふつうの~」という姿の反証としてはふさわしくないことは認識されていることがわかる)らしく,

なぜ教室の授業の話ではなく,特殊な「茶摘み体験」いいえ,「茶摘み労働」の話になってしまったのか?という私の言葉に対して,

>「なってしまった?」だって?何か勘違いしていませんか、ただ私は、私の経験をブログの記事として書きたかっただけです。

 と返す。ただ,読み取り方によっては,もうバレバレなので,一応,以下のような予防線もはってある。

>「だれの目から見ても明らか」かどうか、他人の見方は私にはわかりません。超能力はないですから。

 以下の文を読めば,「無敵の指導力不足教員」の姿が想像されることでしょう。

>適切か不適切かの判断は、あなたがする立場にはありませんよ。誰も、あなたに判断してくれとは言っておりません。


もはや,ワンパターンの,「すべてにあてはまるわけではない」という指摘は不要ですよ。

 という指摘に対して,

>何のことに対してですか?あなたが頭の中で考えていることまで、私にはわかりません。

 というご回答だったので,今回,少しくわしくご説明申し上げました。

 dolceさんの文章を読めば,頭の中で考えていることは,手に取るように分かりますよ。そのまま言葉になっていますから。

 私の文章を読んでも,「わかってはいけない」と命令を下しているのが,dolceさんの「頭の中」の状態です。

 ですから,終わりが見えないのですね。

 今回の記事は,

>勝手にパターンを捏造するな。ではどんなパターンなのだ。具体的に述べてみよ(できないだろう)。

 という「ご命令」に対してお応えしたものです。

 この1文そのものも,代表的なパターンなのですよ。

«不良品の宣伝マン

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より