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思考スタイルの固定化を防ぐ

 思考スタイルは徐々に固定化していく,というのも固定観念かもしれませんが,人には「ものの捉え方,考え方」に異なった傾向がみられることは確かです。
 
 スターンバーグの『思考スタイル』(新曜社)では,たとえば

 一つのことに専念するタイプと,目標の階層をもって優先順位を決め,順番に行うタイプ,

 いくつかのことを同時にやろうとするタイプと思いついたことをするタイプ

 が紹介されています。(それぞれ,単独型・序列型・並列型・任意型と翻訳されています)

 また,比較的広範で抽象的な問題を扱うことを好むタイプと,細かい作業が必要な,
 
 具体的な問題を好むタイプ。(巨視型と微視型)

 一人で行うことを好むタイプと,他の人々と行うのが好きなタイプ。(独立型と協同型)

 何かの行動を起こそうとするときは,それに適したタイプの行動が求められます。

 では,それには適さないタイプの行動はするべきではないかというと,そうでもない。

 人間は,様々な活動を実体験することで,思考や行動のスタイルの優位性を自分なりにつかんでいくものです。

 ですから「こうすればうまくいく」とわかっていることに対して,「近道」としての方法をとることは,「うまくいく」上では非常に効率的なのかも知れませんが,その行動スタイルの優位性を「学んだ」ことにはならないおそれがある。

 そういう意味で,「試行錯誤」が大切であり,試行錯誤を重ねることで,人間は「柔軟性」を身に付けることができるのだと考えられます。

 学校の教師には,「立案型」「順守型」「評価型」では,どのタイプの人が多いでしょうか。

 公務員として,「順守型」というスタイルが求められているのはわかりますが,ただやらされることだけをやり,うまくいかなくて「~が悪い」という「評価」をしていても,何も始まりません。

 だから,学校全体,組織としては,現在,取り組んでいるはずの「教育課程編成」で,どのような「立案」ができるかが試されているわけですし,そこでは同時に今年度の「評価」の結果をふまえたものにしなければいけない。

 どの機能も重要なのですが,「順守型」の教師が,「順守型」の子どもをつくる,という図式は非常に一般的に見られる現象でしょう。

 それが学校教育の機能そのものだ,とせまく限定して仕事をしたい「順守型」の人もいるようですが,やはり創造力のある子どもを未来のためにつくりだしていくためには,どのような「立案」をし,実践していけるかが勝負でしょう。

 来年度の指導計画の立案,これこそが今,勝負のときです。

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記事を2件,削除いたしました

 こちらのブログで著書をとりあげた方から,記事の削除の申請をいただきました。

 メールのチェックをしておらず,気づくのが遅れて申し訳ございません。

 お知らせの内容を検討いたしまして,記事の文言にてご迷惑をおかけいたしましたことをお詫び申し上げますとともに,記事は削除させていただきました。

 当ブログの内容につきましての課題がございましたら,ぜひコメント欄にてお知らせ下さい。

 学校教育の信頼が少しでも回復できますよう,「当たり前のことが当たり前のようにできる」ことの意味を語っていこうと考えております。

 
 

「仕事術」によって創造力が奪われる

 こうすれば仕事はうまくいく,というアドバイスのもとで,「だれでもできる」のは,ルーティンワークです。

 教員の事務処理や学級指導ならまだしも,授業にまでこれを取り入れようとする人間が,小学校には多い。

 「多忙感をなくしたい」

 という意欲ばかりが強くて,「充実した仕事がしたい」「クリエイティブな子どもを育てたい」という気持ちに乏しいと,どうしても「楽をしよう」という低い意識の人間になってしまう。

 藤田晋の「成長論」(日経BP社),「規則やルーティンは発想の敵と考える」では,次のようなことが述べられています。

 日々のルーティンワークも創造的な発想の妨げになることを覚えておきましょう。人間には,目の前にルーティンの仕事があると,その対処を優先する性質があると言います。その都度,「こなした」という充実感や安心感が得られ,仕事をした気になるからです。

 小学校の授業を参観していると,「仕事をした気になっている」教師が目につきます。

 次々にやってくる教科の指導を「こなす」発想の教師には,なかなか「子どもに力をつけさせる」という発想をする余裕はないようです。

 だから,ただ話し合わせてそれをまとめて終わり,という授業が,特に研究授業などで多く見かけられます。

 以前に,特に若い教師は,とにかくいろいろ試行錯誤してみて,そこから得られる自分なりの仕事のやり方を見つけていくことが大事だと書きましたが,何年たってもあっぷあっぷの人には,外から仕事はまわってきませんから,安心してあっぷあっぷしていてくれればよいのです。

 それが,いつの間には目の前の子どものことではなく,「外のこと」の方が忙しくなって,あっぷあっぷし始める教師がいます(実は私もそうでした。でも命令でしたからやむを得ず。それで,行政の世界に入る決心をしたのです)。そういう人は,どれだけ収入が下がろうとも,現場の教師をやめて「ママ」になるか物書きになることをお勧めしたいです。

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「馴れ合い文化」だけが育つ「学び合い」指導

 教育実習生にグループで一つの指導案を作成させた後,私が必ず聞く質問は,

 「みんなでまとめた考えは分かりました。それで,あなたの考えは?

 「馴れ合い文化」に染まった教育実習生が必ず答えるのは,

 「みんなと同じです

 「では,もともとのあなたの考えは?

 「・・・・

 「学び合い」「話し合い」活動の最大の落とし穴は,「自分自身の考えが消し去られること」「徹底して聞き手に回ることが可能なこと」にあるのです。

 最後には,みんなの意見としてまとめなければいけない(一つの指導案にする,というのが,いじわるな設定なのですが)という「信念」は,「馴れ合い文化」に染まった大学生がより強く刷り込まれているものです。

 「馴れ合い」は,単なる「同調」であって,「協調」ではありません。

 「同調性文化」と呼んでもいいでしょう。

 日本人が「協調性」と呼んでいる人間の資質なり能力の実態は,実は「同調性」である場合が多い。

 「ある団体」による「行動」は,常に「一斉・同一行動」を強要します。

 これは,個人の「協調性」に基づく行動ではないのです。

 こういう文化に育った子どもは,「学び合い」「話し合い」活動の中で,どんどん個人としての能力を奪われていきます。

 そもそも同質の集団での「学び合い」の効果が薄いのは,簡単に想像するだけでわかるでしょう。

 「学び合い」とは,もっと異質な集団間でのやりとりを想定すべきなのです。

 しかし,「あの団体」の教師たちは,同調できる子どもがたくさん育った方が,都合がよいのです。

 日本は,文化的にそもそも均質性が高く,「協調性が大事だ」なんて言わなくても,そもそも「協調性豊かな人々」なのです。それを悪い性質の方へと導いているのが,「馴れ合い文化」です。

 はじめの話に戻ります。

 「みんなで決定した指導案はこれだけど,あなたは本当にこれで納得しているの?これがやりたいの?

 と聞きます。

 そこで初めて,「自分なりの言葉」が出てくる教育実習生は,まだ見込みがあります。

 結局,「だれか」が主張したことに「同調」して,そもそも自分の考えなどなかったレベルだったから,決まってほっとしている・・・・そういうレベルの実習生は,私から集中砲火を浴びます。

 「一つの指導案を作れ」という指示だけで,「単純に従うだけの学生」か,「自分の考えを簡単に捨て去らない学生」かが判断できる。

 実習生の側には,「自分の考えをしっかり出さないといけない(時には指導教官と意見が食い違っても)」という自覚を持たせることができます。

 しかし,「単純に従う」実習生のことを,私は気の毒だとは思います。

 小中学校のときに「同調性」を散々たたきこまれた大学生なら。

 「違いを認める」というレベルではなく,「違っているからこそいいのだ」と言えるレベルへ。

 そういう段階に進まないと,日本はそのうち「玉砕」します。

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一貫して偏り続けていたdolceさんの教育観・学力観

 学力の話がいつの間にか部活指導の話になってしまっているdolceさんのブログですが,以前のコメントから,首尾一貫している教育観・学力観であることがよくわかりました。ぶれることのない内容です。

 学力の話題を別の方向へとすり替えざるを得ない事情もよくわかります。

 dolceさんの「教育観」は,非常に分かりやすいです。

 簡単に言えば,「特別活動の大切さ」を重視している,というだけのことで,学力の話題からは逸れざるを得ないのが実態のようです。

 小学校の教師や音楽の教師というのは,やはり「学力」とか「進学」という話になると,常に蚊帳の外にいるような気の毒なところがありますので,無理もないことなのですが,あまりにも学校や塾の実態についての考え方が一面的であることが,ご本人の言葉を読んで納得できました。 

 dolceさんは,どうやら,受験にかかわる教科の指導理念をまるで持っていないことも分かります。

 学力向上のための実践そのものをご存じない

 ましてや「総合的な学習の時間」のように「学び方を学ぶ」なんていう指導となるとお手上げでしょう。

******************

現状の入試はほとんどが点数主義で合格させていますから、効率よく合格に結びつくためには、対策も人間教育に時間をかけるのはムダということで、ひたすら点をとるための訓練と化しているわけです。

学校でも、実験をやっているよりドリルをたくさんやった方が点数が向上するので、実験が少なくなっています。
これでは理科が好きになるわけがないです。

だから、どこかの塾の講師のように「やらないからできないのだ」という単純な考えが出てくるのだと思います。
しかし、人間は機械ではないのですから、やる気が起きなかったらやらないのです。
無味乾燥に、ノルマのようにせっせと問題集やると言うのは、誇張して言えば奴隷のようなものだと思います。
むしろ、そのようなノルマに対して拒否反応を起こす方が人間として自然だと思います。

と言うことは、その無味乾燥に耐えて黙々と課題をこなす子どもが、入試を突破するのだとも言えます。
それは、別な角度から見れば「人間性を阻害する教育を行っている」とも言え、人間性を捨てることができる者が勝者となる構図を作っていると言えます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・★

人間性を捨てた人間が国のリーダーシップをとることは、国民を不幸にすることになります。

と言うことで

>知識のおくぶかさ、勉強のおもしろさを生徒と共有したいと考え」、
>教科の豊かな学習体験を創造していくことを目指すとともに、「
>討議したり一緒に生活を作り出す体験」(演劇祭や夏合宿など)
>を取り入れていきます。

こういうことこそ、本来の教育であると言えます。

だから、私の現状に対する意見は、現状の教育体制への皮肉を含めたものであるとも言えます。

*************************

 前半部分で,すでに矛盾があることをお気づきでしょうか。

 自分が否定しているはずのことを,ご自身で肯定してしまっている。

 まず,ドリルの学習が効率的であるといっている。

 これは,最も低レベルの学力観で,学校現場では,こういう教師がいるために,ますます学力が低下するのです。

 基礎的・基本的な知識や技能は,「無味乾燥な活動」では身に付かないのです。

 「無味乾燥な活動」で子どもができた気分になったようなことは,すぐに忘れてしまうのですよ。

 これはすでに平成13年度,15年度の教育課程実施状況調査の段階でわかっていることなのです。

 だから,新学習指導要領では,基礎的・基本的な知識や技能を「習得させる」ことが大事だ,と言っているのです。

 習得させるためには,たとえば繰り返し学習することが大事だ,と言われますが,これを単純に「ドリルを繰り返すことだ」なんて言っているうちは,絶対に子どもの学力は向上しません。

 そんなことは,学習塾の講師ですら分かっています。

 だから,「分かる喜び」「気づく楽しさ」「解ける自信」をうまく引き出して,授業をするのです。

 授業実践に工夫がないところに,「点数を簡単にとらせる」ような結果はついてきません

 ★印の,「人間性を捨てることができる者が勝者となる」なんていうのは,敗者がもらす泣き言,負け惜しみに過ぎません。

 「無味乾燥なノルマに対して拒否反応を起こす方が人間として自然」なんだから,教材の提示の方法,配列,難易度の設定などに,十分に気を配った指導をするのですよ。

 私の中学校,高校,大学の同窓生は,dolceさん式に言えば,みんな「人間性を捨てることができた者」になってしまいます。

 dolceさん流の認識というのは,一般人から見れば落伍者のひがみ,あるいは部外者のねたみ,そういう風に受け止められるのです。

 最も典型的なのは,dolceさんが「教員の常識は世間の非常識」という言葉に対して,真っ向から否定的な意見を述べられた点にあります。だから非常識だと呼ばれるのが,分からない。

 どういう環境で生きてきたのか,見透かされてしまいます。

 それは,社会,世間からの正当な要望や声を,平気で抹殺していく「あの団体」に代表される態度なのです。

 「あの団体」がdolceさんご本人に見せた態度で,ご自身も気づかれたはずなのですが。

 最大の失言は,「教科の豊かな学習体験を創造していくことを目指す」なんていう言葉です。

 教師は,「教科の豊かな学習体験を子どもにさせる」のが仕事なのです。

 「創造していくことを目指す」のではなく,「実践する」のが仕事なのです。

 「目指している」と言えば許される時代ではないのです。

 「実践し,力をつけさせている」と言える教師が求められているのです。

 そして,それを実現させているのが,学校ではなく,「教育産業」である,という紛れもない「実態」があるのです。

 算数で言えば,学校の教科書と比べ,塾のテキストの内容の豊かさには呆然とするばかり(豊かすぎるという危惧もありますが)。

 そういう実態から目をそらし,あの団体のように,学校や教師をかばえばかばうほど,信頼を失っていくのです。

 こういう人は永遠に目を覚ますことはない,と多くの人は感じていらっしゃるかもしれませんが,目を覚ましてもらわない限り,公教育の質は向上しません。

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「学び合い」が学力低下の原因のひとつ

 どこかの本で,「学び合い」では子どもたちに力がつかないことが分かるまで,ずいぶんと時間がかかりました,という趣旨の「後悔の念」を読んだことがあります。

 「学び合い」が大切だと考えている教師が「これが学び合いです」とよんでいる場面が,本当は「学び合い」になっていないことに気づくことができないのは,小学校に特に多いですね。

 もっと厳しいことを言えば,「話し合い」をさせているつもりでも,「話し合い」にはなっていない場面をいくらでも見ることができます。

 日本人は,「~し合う」こと,「~し合う」という言葉が非常に好きですね。

 (「攻撃し合う」ことも,ネットでは人気があります。)

 「~し合う」という言葉の響きには,人と人が結びついている,そういう実感がこもっています。

 でも,こういう言葉が危ないのは,そうやって呼んでいるだけで,実際に「~し合う」状態になっていると勘違いしてしまうことです。

 「理解し合いましょう」「分かり合いましょう」・・・簡単に表現しますが,本当に理解し合えているかどうか,検証する場面はありません

 特に小学校では,この傾向が著しい。

 「学び合っているのだからそれでよい」

 という発想になってしまっていく。

 つまり,「学び合い」は学力をつける手段のはずなのに,それ自体が目的になってしまっている。

 大事なのは,あくまでも「一体感」,という,滅亡に向かう組織と同じ状態。

 「理解し合う」ような行動をとれば,「理解し合える」のだ,という根拠のない信仰をもっているのが日本人の特徴です。

 生徒に話し合わせた結果だから,生徒たちは納得しているだろう・・・・そんな単純なものではないことは,中学校や高校の教師ならよく分かる・・・いえ,社会人ならよく分かることでしょう。

 必ず妥協している人,意見が言えずに自分を殺した人,納得できないけど反論できない人は,どんな場所にもいるものです。

 単なる思いつきの言い合いが,「学び合う場面」とよばれていることに対して,大学の専門家はどのような評価を下しているのでしょうか。

 「学び合い」の活動で,本当に「学び合うことができたかどうか」の評価を小学校の教師はきちんとできるのでしょうか。

 中学校以降での「私語」「おしゃべり」は,こうした「学び合い」活動の大きな成果の一つかもしれません。

 小学校では,「おしゃべり」していれば高い評価を得られてきたのですから,当然のことかも。

 「学び合い」が成立するための条件を,まずはきちんと認識できる教師に育ってほしいものです。

 ただの「かけ声」にならないように,責任持って「品質保持」をしてほしいです。

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あなたの教育の定義を教えて下さい

 教育は,学校だけが担う仕事ではありません。

 家庭もそうですし,社会全体が「教育」の重要性を認識している時代です。

 震災直後しばらくは,広告は教育の機能を中心に果たしていました。

 企業は新人を教育するし,店員に教育しようとする客もいる。

 自動車教習所では本当にいい教育を受けたと思うし,生命保険会社の人から保険の説明を受けたときは,本当に授業を受けている生徒のような実感がありました。
 
 教育は,教育公務員だけが持っている特権ではありません。断じて。

 学習塾の講師たちも,立派に教育を行っています。

 もしかりに,文字を覚えさせる,という仕事だけをしているとしても,それは教育です。

 そろばんや習字,それも教育です。

 学級崩壊している小学校よりも,はるかに教育的な指導なり配慮なりが,そこでは行われています。

 学校教育は,「義務」とされています。

 税金で運営されています。

 そこまでしばられている学校で,本当の教育に出会えないで,かなしい思いをしている子どもや親がどのくらいいるか,考えたことがあるでしょうか。

 制度上,「本当の」はずの学校教育が,「偽物の」教育であった,という実感をもっている子どもや親が,どのくらいいるか,考えたことがあるでしょうか。

 子どもの思いを踏みにじるような行為は,学校ではいっさい行われていない,と断言することができるでしょうか。

 自分の担任教師が性犯罪で逮捕され,警察に連行されている場面をテレビで見せられた子どもがどんな思いでいるか,想像もできないでしょうね。

 学校教育や義務教育の「制度上の」優位性を振りかざし,その実態に対する責任を全く感じないで済む「部外者」の言葉に耳を傾ける人は,「部外者」しかいません。

 慎ましやかな人は,無責任な教師たちの批判を表立ってはできません。

 「義務」教育の小学校では,子どもは人質のようなものです。

 黙っていられない人というのは,私のように少数派かもしれません。

 「本当に分かって楽しいこと」「学ぶ意欲がより高まる実感」を得られる場が学校以外のところにある子どもは,決してごく少数ではないのです。

 そして,本当はもっと多くの子どもが,そういう体験をしてみたいと思っているはずなのです。

 子どもの学ぶ意欲を最も強力に奪っている人間はだれなのか。

 自問自答することが求められています。

 たった一つの部活動の指導にかかわっているだけの人間が,「教育」を語るのも,自由です。

 しかし,何を目的として集まってきている子どもを「教育」しているのか,自覚する必要があります。

 いや,もしそれが「教育」ではないとしたら,何なのか。それも知りたいところです。

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学力のことを本気で考えていない人たち

 分かりやすい話です。
 
 学力とは何か,という話を,辞書だの事典だのからしか持って来れない,「部外者」の人たちです。

 こういう人たちは,学校が存在するのは自明のことで,なぜ学習塾が存在するかが分かっていない。

 学習塾の存在理由が分からないような人間が学校現場にいるはずはないですが,

 自分より子どもが「頼りにしている人」が,学習塾という場にいることが許せない。

 時代遅れというか時代錯誤というか,学校がやるべきことを極端にせばめて考えている人たち。

 最も基本的なことすら身に付けていない子どもに不安を覚えている保護者に,

 「あなたの学力の定義を教えて下さい」などと質問する「あの団体」の教師たち。

 学力のことを本気で考えていない教師は,総合的な学習の時間の企画・運営上は完全な「部外者」だったのでしょう。

 本来は,これこそが「学力だ」というPRができたはずなのに,考えることすらしなかった。

 そのつけが,学力がつかずに悩んでいる子どもを前に「学力の全体像が知りたい」などという寝言のようなことを繰り返すような人間を生んでしまったことです。

*************

 学校現場は,現在,来年度の教育課程の編成のために最後の詰めをしているところです。

 全面実施となる中学校は,当然,昨年度と同じ,というわけにはいきません。

 学校なりの方針を示すときです。

 小学校は,今年度の教育課程の実施状況を踏まえて,どのような改善を図るかをしっかり検討しているところです。何に満足でき,何に不足していたか。

 学校の「学力像」は,教育課程に表されています。

 問題は,教師たちが自分の学校の「教育課程」を知っているかどうか。

 何が指導の重点かを言えるかどうか。

 学力とは何かを真剣に考えたことがない教師がいたとしたら,不安なところです。

 なお,学校評価の結果は公表されますから,その公表内容を見れば,学校として捉えている具体的な学力観も理解することができます。

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音楽はどうやって生まれ,何のために存在しているのか?

 ピンカー,スペルベル,バロウにとって,音楽はただ喜びをもたらすというだけの理由で存在している。その土台は純粋な快楽主義だ・・・・ケンブリッジ大学のイアン・クロスの言葉だそうです。

 これに対する反論を,小中学校の教師は,どのような根拠をもって行うことができるでしょうか。

 ピンカーの,・・・言語,洞察力,社会的な推論,物理的なノウハウに比べ,音楽がヒトという種から消えてなくなっても,ライフスタイルのほかの部分はほとんど変化しないと言っていい・・・という言葉についてはいかがでしょう。

 認識心理学者にとっては,記憶,注意,カテゴリー化,意思決定などの認知のメカニズムは,すべてが明確な進化上の目的をもっているものと捉えられます。しかし,生物の行動や特性のなかには,はっきりとした進化的基盤が見当たらないものがある。

 それは,進化によって特定の理由による適応が広がっていくとき,何か別のものがいっしょについてくるせいだといいます。

 鳥が体温を保つために進化させた羽が,別の目的に流用され,飛ぶようになった。

 言語が体温を保つために進化した羽なら,音楽は別の目的で生まれたもの,進化の上で言語に便乗して偶然に生まれた副産物である・・・・

 「音楽とは何か」という問いを小中学生に考えさせるのは難しいことでしょうが,「なぜ音楽を学ばなければならないのか」の答えは,ありそうでないものです。

 しかも,なぜヨーロッパの音楽でなければならないのか。

 このような問いに答える準備はあるのでしょうか。

 日本の学校教育の「音楽」の歴史は,以前にちょっと述べたかも知れません。

 明らかに「国民化」のための「道具」にされていました。

 音楽で人間は「一体感」を覚えやすいことを,「利用」する人はいませんでしたか。

 今の地位を「音楽」はどのようにして勝ち取ってきたか。

 ここに,「音楽」と「学力」の関係を探っていく道が見つかるかもしれません。

 ただの欲求を満足させるためだけにあるような教科なら,

 その部分を刺激して,大人の思い通りに子どもを動かすだけのような教科なら,

 今すぐにでも廃止してもらいたいものです。

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部活動の実践を得意げに語る人間を信用してはならない

 若い教師やこれから教師になろうとしている方へのご忠告です。

 なぜ,タイトルで示したことが大切かというと,こういうタイプに限って,日頃の教育実践がいい加減な人が多い。

 こういう教師に影響を受けると,いつの間にか自分自身も「アフタースクール型教師」になってしまいます。

 私も教師になって3年くらいまでは,その典型でした。

 自分自身は大学まで野球部でしたから,どうなっていたかはご想像にお任せしますが。

 でも,「外の世界」「研究の世界」に誘ってくれる方がいました。

 それで,今の私があります。

 体育会系の教師のタイプは多くの方が想像できると思いますが,文化部なのに体育会系,と言われるのが吹奏楽部です。

 普段の授業はおまけで,本職は何何という部活動の指導。

 こういう教師は,体罰さえしなければ,学校や地域にとっては「有り難い存在」ですから,授業に熱は入らなくても問題になることはありません。

 このあたりの事情をブログで詳しく説明していただいた先生がいるので,ここで引用させていただきます。

>音楽教師は、即効性のある指導技術を知りたがりますし、それに応えられるような技術屋も生まれています

>音楽教師の役割につく人たちには、どういうい訳か、音楽と授業を分離してしまう考え方になるらしく、吹奏楽や合唱の部活、あるいは校内合唱コンクールのようなもので、自らの音楽的満足を追究しようとする人たちが多いようです。

>そういう音楽教師の部活の指導や校内合唱コンクールへの取り組み方は、およそ教育的ではありません

>「子どもたちを自分の鍵盤にする絶対君主」のようになる人が、コンクールでの実績を上げていることが多い

>「自分の鍵盤」というのは、子どもをパーツとして自分の表現手段の一部としてロボット化するという意味

>子ども一人ひとりの表現への意欲や音楽性なんてどうでもいいのです。ただひたすら、規格と品質をそろえて向上させることだけが、「絶対君主」の目標です。

>授業教科と別に部活などで音楽に熱心な人は、先に述べた「絶対君主」になるのがほとんどです。この場合は、コンクールの虫になるか、さぼりの名人になるか、そのどっちかに別れることが多いです。

 話を元に戻すと,「この人,部活にかけているな」という感じのする教師を客観的に見てみれば,放課後,部活指導に熱心になればなるほど,「その部活以外の生徒のめんどうはいっさいみることができなくなる」ことに注目すべきです。

 こういう状況を,「全体の奉仕者」ではなく「一部の奉仕者」と呼んで,そういう力の入れ方は公務員としておかしい,・・・もちろん,「勤務時間外」という正論はあるのですが・・・と書いた覚えがあります。

 指導に打ち込むことも大事だが,部活動を教育の場と考えれば,そしてそのねらいとしているところを教育的に考えれば,そこでもし「ががんじがらめ」になっているような状況が少しでもあれば,肌感覚として違和感をもつ「ゆとり」をもっていてほしいのです。

 もし,その顧問がいなければ,部活動の姿が一変してしまう,そんな部活動なら,子どもたちがただの「ロボット」になっていないかどうか,疑ってみてしかりです。

 中学校では,「指導力」というと,「みんなを同じ方向に向かせる力」と思われてしまう節がありますが,それは小学校の教師のレベル。

 中学校レベルでの「指導力」は,「一人一人をその力が発揮できる方向へ導き,伸ばしてあげる力」のことです。

 そういうことを本当に実践できる人は少なく,常に反省を抱えながら指導しているのが普通の教師です。

 部活動の指導とは,自分の専門性が生かせる場面ではありながら,「自分がやってきたことをそのままやらせる」指導に陥りがちであり,だからこそ,教育的な指導とするのに最も留意すべき分野であるのです。

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体面を気にする教師にだけはなるな

 この教師,本当に生徒のことを考えているのだろうか?

 と傍目には見える人が,心から生徒に尊敬されている。

 この教師は,本当に生徒思いだなあ,と見える教師が,生徒からはただバカにされている。

 世の中にはいろんな教師がいます。

 私たち教師にとって,一番やっかいな存在は,子どもではなく同じ教師たちです。

 「あの団体」の教師でも,集会に毎回参加しているような人や卒業式前に騒ぐ人は別として,他はふつうの教師に近い。

 そのふつうの教師でも,多くが囚われているのが「前例主義」であり,今やっていることの意義について何かしら理由をつけて存続させようとする,ここでちょっと飛躍して恐縮ですが,滅亡に向かってひた走る軍の首脳の発想がここにあります。

 論理的には分かっているはずのこと。

>アメリカでは、吹奏楽が正課として取り入れられているということを以前のブログで書きましたが、いつからそれを始めるかというと小学校高学年と聞きました。
>それは、この時期からそろそろ変声期になり声が出しにくくなる、それでその前までは歌(合唱)に力を入れているということだそうです。

 論理的な指導方法ですね。

 では,中学校で合唱に力を入れることは,どうなんでしょう。
 
 しかも,要求された声が出せない合唱をコンクールで競わせるというのは。

 この文を紹介した音楽関係者は,

>子どもは競争が好きです。だから、その競争心を利用して能力を高めるというやり方は教育的にもよい方法です。

 という「感性」の持ち主。塾の教育にも大賛成なのでしょうね。

>競争者間にハンディがありすぎると、競争意欲もなくなるし、強引に行っても得るものはない
>学級数も7~8と競争に適する数があった
>それなりの歌唱力のレベルにあった
>2クラスしかない学校で、コンクールをやっても意味はない

 歌唱力を競わせる,という発想に,何の疑問も抱いていない。

 音楽的感性というのは,人と競うことで高めることができる,と発想する,音楽教育者はいないでしょうね。

 結局,こういう人の感性は,「商業的音楽」=金にかえられる音楽を奏でる人のことが頭の中にあるのです。意図せずとも,そういう「結果」になっていることを自ら告白している。

 音楽を営利目的のものと考えるなら,どうやっても競争は避けれられないでしょうね。
 
 そういう感性の人が,学力を語るとどうなるか。

 学力が低い子どもに,「そんなんじゃいい会社に入れませんよ」「お父さんみたいになっちゃうよ」と脅しをかける人間がいます。同じような頭の構造です。

 お金になるものを身に付けさせようとするのが教師の立ち位置ではないことは,多くの人が納得できるでしょう。

 (ここが,就職を目前にした高校や高専,大学や専門学校となると,ちょっと違うと思いますが)

>中学校で実際に吹奏楽部を指導することになったのですが、コンクールに出なければ生徒たちがかわいそう

 こういう生徒観の教師ではなく,たとえば高齢者福祉施設などで演奏したり,地域の人を招いて演奏会を開くとか,そういう人を相手に聴かせ,心を和ませたりすることの方が,コンクールで賞をとるよりはるかに優れたことであるという教育の信念をもった教師は少数派であることは確かでしょうね。

 目先の「かわいそう」ではなく,「だれのための音楽か」を問える人こそ「感性」を育てる教師でしょう。

 私も,部活動なら目をつむります。

 「放課後の活動」ですからね。被害者もごく一部ですむ。

 そもそも,部活動の実践のことなど,だれも聞いていません。

 授業で何ができるかが問われているのに。

>「コンクールも出れない学校か」と言われたくない

 これこそが,音楽の良さではなく,学校の体面を気にする「感性」の持ち主の典型的な言葉です。

 
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教師自身が自分に正直であること(一部追加:1月29日)

 勤務時間が終わったらさっさと帰れるように,「仕事術」の勉強がしたい先生は,すればよいでしょう。

 私は今から二十年も前の採用試験の面接で,「勤務時間後も部活動の指導をしなければいけないことについて,どう思いますか」という質問に対して,「教育の仕事に勤務時間内も勤務時間外もない」と答えた記憶がありますが,なぜか面接官は「嫌そうな顔」をしていました。

 でも,管理職からの命令がない限り,勤務時間が過ぎたら職務のことは忘れていいのが公務員です。

 前も述べましたが,教育の仕事が好きで毎日を過ごしている人にとって,「忙しい」ことはかけがえのないことです・・・というか,「忙しい」などと考えている暇はないでしょう。子どもに集中していれば。

 音楽教育について,伊東玲先生のような態度がとれる人は,やはりなかなかいないでしょうね。

 まず,心で思っていても,口に出すことはない。

 ましてや,ブログに書くことなど,ありえない。

 だから,私は先生のことを「慎ましやかではない人」とよんでいるわけです。

 でも,本心を隠して,慎ましやかな人に教育されるのは何となく嫌な気がしますよね。

 教師が正直であることは,子どもにとって安心できることです。

 毎日の授業がめんどくさい。

 教材の準備などしたくない。

 早く家に帰りたい。

 そういう正直な先生は,子どもは嫌いじゃないでしょう。

 子どもの方も,演技をする必要はありませんから。勉強がめんどくさい,そういうことに教師が共感してくれるのですから,嫌いになるはずはありません。

 全く力がつかない話し合い活動ばかりの授業をして(教師は45分間中,5分間しか話さないことを自慢している人もいる),子どもは楽しがって充実している。

 子どもには,教師の本心は見えませんね。

 学校が「鉄のカーテン」の向こうにあった時代には,それでもよかったのですが,だれの目にもふれるようになると,多くの教師は「自分に正直」ではいられなくなってしまいました

 でも,正直は,いいことです。

 賞狙いで指導をする。

 悪くないですね。

 どういう「感性」の持ち主か,すぐにわかる。

 でも,それは「教育」ではない。「子どもへの迎合」に過ぎなかったりする。

 「教育」ではないことが「学校現場」で行われていることを正直に書ける人は,貴重な存在です。

 将来は,組織では生きられず,ただの物書きになってしまうかもしれませんが。

 恐縮ですが,大切な資料としての情報を,後でこちらのブログでも紹介させてください。

 ・・・・なお,私自身の希望としては,「実践やノウハウを本にする」という発想を教育者は捨て去って,どんどんネット上に公開し,あらゆる人が即座に参考にできるような環境が整っていくことです。

 そうやって公開した内容が,「本の形で手に取りたい」という人が集まって,出版というかたちになるのならわかるのですが。

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アナロジー思考のできない人の仕事術

 自分が批判したり非難したり否定したりしている相手と,自分自身が「相似形」であることが理解できない人がいるようです。

 いつの間にか,自分自身のことを批判しているので,私が名付けたのが「ミラー現象」です。

 自分で自分のことをけなしている。

 教育の世界では,「ある団体」の教師たちが,自分と「相似形」の無責任な子どもたちを大量に生み出してきました。

 学力が高い子どもを育てない方が,自分たちにとって都合がよい「社会」に変わっていくので,授業では平気で自習にすることができるような教師が,本気になって「学力調査」に反対する意味は,別に勘がそれほどいい子どもでなくても気づくでしょう。「学力調査」の結果で非難されるのは,子どもではなく,学力をつけさせていない教師であることは,子どもでもわかることです。

 こういう教師の仕事術は,子どもに「大人のいやらしさ」を実感させる効果くらいしかありません。
 
 dolceさんは,なぜ受験のための詰め込み学習をする子どもたちと,コンクールで代表に選ばれようと努力する子どもたちの「相似形」に気づかないのでしょう。

 同じような「仲間」ですね。目標の立て方が非常に似通っています。

 それは,以下のような言葉を引っ張ってきているので,意識下では気づいているはずなのに。
 
>アメリカではずいぶん古くから、吹奏楽のもたらす教育的効果が大きいということで、小学校から正課の授業に取り入れられています。
>正課の授業の中で個人レッスンも行われています。
>映画で、子どもが一人一人呼ばれて、レッスン室に入っていくシーンがあったりします。
>日本人で、アメリカで先生をやっている人に
>「正課の授業というと、子どもが家で練習していて、音がうるさいと言われませんか」
>と聞いたら、成績のつくことなので、親は我慢していると話されました。

 
 個人がしっかりと基礎を習得するからこそ,集団での活動がうまくいくのです。

 学力もしっかり基礎を習得するからこそ,組織での仕事が成り立つのです。

 入学試験は一人の責任で受けるものですが,その先は一人ではない。dolceさんは,「その先」のことが想定にないのです。

 高学力が,組織としての高いパフォーマンスにつながらなくてもかまわないのは,学級王国に君臨できる小学校教師くらいのものでしょうか。

>個人ではどんなにうまい奏者でも、協調性のない人は採用されません。

 小学校では,個人の能力は高ければ,協調性はなくても学級担任は務まってしまうのでしょうね。

 協調性はあっても,個人の能力が低ければ,採用されることはないというのも明らかなことです。

 楽譜が読めない人がコンクールの代表に選ばれることはない。

 dolceさんの場合は,塾で学習する子どもは非難しても,楽器の個人レッスンに通う子どもを非難することはないでしょうね。

 自分自身はそもそも塾の子どものような生徒を相手にしているのに気づかないのでしょうか。

 「勝ちたい」「選ばれたい」と願って活動している子どもの力を引き出そうとしている。

 塾の講師と同じでしょう。

 子どもを代表にした自分が,子どもを志望校に合格させた人間と「相似」である発想がもてない。

 アナロジー思考が全くはたらいていないのです。

 類推という観念自体がないせいか,書かれたことがすべて「事実」であるかのように認識してしまう。

 なぜか仮説=捏造になってしまう。

 コンピュータにはできない,人間らしい思考を大切にすべき,という認識は正しく持っていらっしゃるのに,大切にすべき思考がはたらかないのは非常に残念なことです。

 「違い」にもふれておきましょう。

 塾で学んでいる子どもは,「一人の力」で勝つことがゴールである。

 コンクールは,勝つために,メンバーと「音を合わせる」(これを協調性というのは無理があるでしょうね)。

 これが大違いだ,と考えることももちろんできます。

 しかし,塾の子どもが問題を解くためには,「問題作成者」「教材」に「合わせる」(もちろんこれを協調性というのも無理があるでしょうが)=「個性」「自分の考え」はなるべく消す・・・ことに専念させられます。

 問題作成者の意図を読むことによって,「正解」に結びつくことは,楽器の演奏をしている子どもと同じようなものだとも考えられます。

 そして個人の力を高めた後は,集団,組織での高いパフォーマンスを生むために,協調性がよい効果を発揮する。

 そこまでアナロジーにこだわらなくてもいいかもしれませんが,人間の創造力を伸ばすには打ってつけの思考法であることは間違いないでしょう。

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蚊帳の外にいた人に「学力観」は語れない

 総合的な学習の時間の指導は,移行期間を含めると4月には13年目に入ります。

 中学校の場合,選択がなくなる分,より充実した総合的な学習の時間の指導が可能になります(これまで,選択教科の指導やその準備等が通常の教科の授業に加わっていて,時間的に大きな労力がかかっていました)。

 そして充実した指導になるかどうかは,校内で議論を尽くした「学力観」と「指導観」にかかっています。

 どのような手抜きが行われているかは,教育課程調査で一目瞭然なのですが,「調査で成果が問われない」分野については行政もテコ入れをしないというのが現状です。

 「ゆとり教育」でただ「ゆとり」を満喫していたのは,今,学力観を語れない教師たちであり,そういう教師に不幸にも出会ってしまった子どもたちなのです。

 中学校社会科は,歴史はより「歴史的」分野らしくなった一方で,「地理的分野」はただの「地理」になってしまいました。大きな後退です。公民的分野は,スタートが後ろにずれることになりましたので,それも後退でしょう。学校によっては,これが総合的な学習の足を引っ張ることにつながるかもしれません。

 唯一,中学校3年間にわたって学習する「歴史的分野」では,今まで以上に「自分なりの言葉や図」で表現する活動を通して,思考力等を育成することができるようになりました。学習の中では,「公民的分野」の内容を先取りして盛り込んだ学習も行われるでしょう。

 地理的分野では,総合的な学習の時間のスタートとともに,「学び方を学ぶ」代表的な学習指導が行われてきたはずでした。

 そして,この指導の成果をもって,PISA型学力も何の問題もなく高い成果が得られるはずでした。

 しかし,最も肝腎なところで「十分とは言えない結果」になってしまった。

 学力を向上させよう,といったときに,A問題だけでなく,B問題の方にもきちんと目が向いているかどうか。

 平成24年度の総合的な学習の時間の指導計画案がそろそろどの学校でも出来上がる時期でしょう。

 今の義務教育で,「学力」をしっかり語れるのは,校内体制が整わなければ実施できない「総合的な学習の時間」の計画・立案・実践・評価等に深くかかわっている教師のみです。

 これを他人任せにしていたり,そもそもこの指導に(目標もろくに理解せずに)かかわっていない人には,「学力観」を語る資格はありません。

 困ったらすぐにどこかの映像を引っ張ってきてお茶を濁すような発想では,創造力が発揮できるような人間は育成できないのです。

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賞狙いで競わせる感性をもつ音楽教育者

 「感性」の大切さを訴えようとしている人がいるかと思ったら,「コンクールで代表になった」ことで態度が変わった,などというまるで「音楽性」とは無関係の,「指導の成果」を自慢したいだけでした。

 中学校音楽科の改善の具体的事項として,次のようなことが示されています。

 多様な音や音楽を感じ取り,創意工夫して表現したり味わって鑑賞したりする力の育成や,音楽文化についての理解を深め,豊かな情操を養うことを重視し,次のような改善を図る。

 (ア)~(エ)は省略

 (オ) 合唱や合奏など全員で一つの音楽をつくっていく体験を通して,表現したいイメージを伝え合ったり,協同する喜びを感じたりする指導を重視する。学習全体を通じて,音楽文化の多様性を理解する力の育成を図るとともに,音環境への関心を高めたり,音や音楽が生活に果たす役割を考えたりするなど,音楽と生活や社会との
かかわりを実感できるように指導するようにする。

 全員で一つの課題に取り組む体験のねらいは,コンクールで賞をとることではありません。

 ただ,目標としては,この方がわかりやすい。

 「試験でいい点をとる」「受験で勝ち抜く」ための学習と同じ図式です。

 ***どこかの音楽教師が,「コンクールで代表に選ばれて生徒の態度が一変した」ということを自慢げに披露してくれています。ものすごい「感性」の持ち主ですね。***

 しかし,こういうことに加担する教師がほとんどで,「コンクールの実施をやめる」ことが提案できる感性と信念をもった教師はどのくらいいるでしょうか。

 これは,自分のためではなく,子どもが

 「協同する喜びを感じる」

 「音楽文化の多様性を理解する」

 「音環境への関心を高める」

 ことができるようにするためなのです。

 今まで通りのことだから,当たり前のように続けている,という感性の持ち主は,「惰性の実践者」に過ぎず,真の教育者ではありません。

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「同じ」であることを強要する教育

 みんなで「同じ」教材を見て,考え,意見を発表する。

 集団での協同の学びが実現する条件に「同じ」教材がある。

 しかし,考えていく先には,「違う」目標なり,探索するものが存在する。

 それに対して,「同じ」教材=音符を見て,「同じ」パートの人同士は同じことをする。

 そして,どれくらい「楽譜通り」にできたかを競い,順位付けをする。

 両者の大きな違いは,最後に目指そうとしているものです。

 各団体の演奏を聴いて,「楽譜通り」かどうか,ということではなく,その「違い」に気づき,その「良さ」を分かち合う・・・そんな授業なり活動を展開しないで,おそらく個の力を伸ばす教育はできないでしょうね。

 あの団体の人たちは,「ひとりはみんなのために,みんなは(そういう態度をとる)ひとりのために」

 というスローガンのもと,「同じ」であることを強要する教育をして,個々の力が伸びない状況を

 放置している,という指摘があります。

 「違い」の良さは,ランク付けという形で打ち消されていく。

 批判的な人間などは,もってのほか,ということになります。

 「どうして勤務時間にその団体の仕事をしなければならないのですか」

 という質問すらできない状況。

 「ひとりはみんな(団体)のために,みんな(団体)は(団体のための行動をとる)ひとりのために」

 という風土がある学校で,どういう子どもたちが育っていくのでしょう。

 「同じ船に乗って,滅亡へと突き進んだ帝国海軍とその団体」の行動パターンは「同じ」。

 「教え子は二度と戦場に送らない」という発言は不変。

 「社会」という「戦場」にも送らない姿勢が,今の「働かないでも満足」の若者を作ってきたのでしょうか。 

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組織が阻む意識改革

 「意識改革」にふれた過去の記事を 件,再掲してみました。

 「人の意識を変えるほど難しいものはない」と言われます。

 意識と現実のズレが取り返しのつかないものになってすら,意識を変えられない,というか現実を認められない人間が多い。

 教師の場合は,「がん細胞」とよばれる「あの団体」によって,若い教師は「組織の一員」としてふるまうことを強要され,子どもそっちのけで「運動」に参加させられたりする。

 「組織的・計画的な学校運営」が大切だと行政は言っていますが,団体のための「組織的・計画的な行動」を強固に行っている教師たちにとっては馬耳東風。

 教師の意識改革を阻む「がん細胞」が「あの団体」だとすれば,最後の望みは「個人としての良心」しかない。

 「内心の自由」しかない。

 「内心の自由」を訴えている教師たちが,未来を支える教師たちの「内心の自由」を奪うことをやめれば,日本の教育にも未来が見えてくる。

 以上のような考え方があることを,若い教師たち,これから教師になる人たちには,心に刻んでおいてほしいと思います。

 まず,自分自身の「個人の尊厳」を重んじて下さい。

 そして,組織によって刷り込まれた,別の意味の「個人の尊厳」をふりかざす「集団」「団体」の醜悪さから,子どもたちを守って下さい。 

 学力向上のための自治体の取組も再掲しておきました。

* 1 ******************* 
 2007年8月17日「修正を重ねて成功に結びつくイメージ」
**********************

教育改革は、教師一人一人の意識改革から出発しないと成功しない。これは真理なのでしょうが、だから、「政府は何もいいません」「校長もみなさんに子どもはお任せします」「親のように子は育つ」とはいかない。
 では公の立場からはどう教育を変えられるのか。
 教師一人一人の意識を変えさせる方法は何か。
 職務目標やキャリアプランを検討させることを人事考課制度に組み込んだ東京都の政策は、もともと「自分が変わることが大切だ」という意識をもっている教師には有効的でしたが、自分のことはいっさい棚にあげて「行政が」「政府が」「管理職が」・・・と真犯人は他人だとかたく信じている人には効果が今ひとつでした。
 成功した人たちの多くは、願いを実現するまでに数え切れないほど修正に修正を重ねている、と言いますが、人事考課制度も改善を重ねていくことが重要です。教師が目標をもてる職場環境づくりが第一に必要で、「チームワークを向上させる」という最も大切なところからはじめるとか、「コミュニケーションを活性化する」とか、成功例は10年程度の経験がある教師ならわかるものがあると思います。これを一般化できないものか。
 教育の現場で「成功」のイメージがわきにくい(大会で優勝するなどの部分的な目標ではなく・・・)ので、コンピテンシーモデルというものをどう実用化するかが私の課題ですが、一応、成功方程式のラインに乗っている内容はおさえられているようです。
 理想を言えば、教師と管理職が現状を見つつ目標とそれを達成する手段を修正し続けた結果、成功が得られたという体験を積み重ねることが大切です。
 ただ、コンピテンシーディクショナリーとよべる事例数がまだ十分ではありません。
 「情熱」がある教師が求められるといいますが、情熱だけでは教育はできない。メリデメの理解も必要になる。部活動をしていた中学生が亡くなる事故がおこることもありますが、教師や子どもの情熱はこういう結果を招く恐れもあります。 
 具体的なリスク管理の方策をコンピテンシーモデルとセットにして考えなければなりません。

* 2 ******************* 
 2008年4月2日「藤原前校長が越えられなかった壁」
**********************

 藤原和博著「バカ親、バカ教師にもほどがある」(PHP新書)を読んで、長い間抱いていた違和感(経営者であっても教育者ではないなという感覚)の原因がわかりました。この本は、和田中の教師や親を非難する形にしないために、川端裕人が聞き手になって、藤原前校長がこたえるという体裁になっています。本のタイトルにある「バカ教師」の記述は少なく、全体としては教師・学校擁護の内容になっています。
 違和感の具体的な内容は示しませんが、結局藤原前校長は、優秀な教師やよい授業というものにあまり出会ったことがなかったのだということです。
 現役の教師にそれを期待してなかったから、自身で授業づくりをし、ゲストティーチャーを招き、カメラを入れて教壇に立ったのでしょう。
 ダメ教師に対しても、「それが子どもの自立を促進する」という褒め殺し?のような表現をしていました。
 ご自分はそれで成功してきたのでしょう。 
 もしかしたら、「優秀な教師だ」というふれこみで異動してきた教員が、全くの期待はずれで、行政の人間の「人を見る目のなさ」に落胆し続けていたのかもしれません。
 教員への不信は、「六時間の授業にじっとたえて受け続ける子ども」への同情になり、教員以外の人とのかかわりを重視するようになっています。
 また、教員が対処すべきトラブルと対処不能なトラブルをまとめ、たとえばソーシャルワーカーを増やすべきという提言をしていますが、公立学校に求められている機能を放棄する宣言に見えました。
 以前からの著書で「校長」という立場の「力のなさ」はくどいほど強調していましたから「責任に見合わない待遇への不満」が強いことはわかっていましたが、結局「公立学校の校長の意識改革」は促せずに現場を去ることになってしまいました。
 心ある教員や校長は、藤原前校長があきらめた大きな壁を越えようと今も励んでいるのです。


* 3 ******************* 
 2008年5月4日「社会科教師の逆コンピテンシー その6 学習への意欲を高める「しかけ」」
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第6回のテーマは、「対人変革力(②対人のC創造力)」です。
 「対人変革力」不足は社会科の授業という観点から言えば、戦略力などの貧困が原因なのでしょうが、学習に対する意欲を高めることができない教師、学力を向上させたいという願いが生徒に伝わらない教師は、かなり高い割合を占めていると思います。
 単純に、「テストで高い点をとらせたい」という気持ちは伝えることができても(脅しという方法も含めて)、具体的にこういう力を今、身に付けてほしい、こういう力を今、発揮してほしいという願いが伝えにくい原因は、社会科という教科の特性にあるのかもしれません。このことについては、多くの側面からの分析が必要です。
 そもそも人の意識を変えさせることは、容易ではありません。
 社団法人公共広告機構が、公共のマナー環境問題などをテーマに視聴者に語りかけるCMを提供していますが、その効果のほどというのはどれだけでしょう。
 広告会社は、人の意識を変えさせ、購買意欲を高める広告をつくるのが仕事なのでしょうが、そこには数多くの「騙し」のテクニックがあることはよく知られています。
 手段を選ばずに、さまざまな「しかけ」を用いて、人の意識改革を目指す。企業でも、たいへんな苦労をしているようです。
 教育行政も、教師の意識改革を目指して、次々に施策を打って出ていますが、もらっているのは「反感」ばかり。方法が方法だからでしょうが。
 横道にそれますが、日本のテレビCMは、「一段落CM」よりも、「ヤマ場CM」の方が多いのだそうです(日本は40%、アメリカは14%、イギリスは6%、フランスはゼロ・・・竹内一正著「グーグルが日本を破壊する」PHP新書より)。
 ドラマやクイズ番組でも、大事な場面でCMが入り、見ている方は非常にイライラします。
 ただ、日本人は「弱気の遺伝子」が強いらしく、そういうCMを流す会社の商品を買わないとか、テレビ局に苦情の電話を入れるとか、リモコンを投げつけるとか、そういう行動はあまりおこさない。だまってCMが終わるのを待っている。そういう側面もあるのですね。
 社会科で身に付けさせようとしている知識・技能は、世の中にあふれている膨大な情報・ルールの中のごく一部です。しかし、それを知りたい、集めたい、解決したいと思わせるきっかけになるしかけは、教科書の中には十分にありません。
 たとえば、「フランスでは見られないヤマ場CMが日本で多い理由は何か?」という問いは、教師が問うわけではなく、聞き手が勝手にそういう疑問をもつように「しかける」のが社会科の授業です。
試験問題】 社会科という教科を好きにさせるために、あなたが指導できる、とっておきの教材とは何ですか。また、その教材が多くの生徒を魅了した理由は何でしょうか。

* 4 ******************* 
 2008年9月1日「大阪の快進撃は始まるのか?」
**********************

 報道されている橋下大阪府知事の発言について、現場の教師の多くは反発を強めていることでしょう。
 今後、行政主導の学力向上テコ入れ策がどんなものになるかはわかりませんが、現場のよりよい実践が広まる速度より、行政主導の流れの方が速いという問題には、他の県の先生方も早めに気付いた方がよいかもしれません。
 大阪府の先生方にとっては、今後取られる方策によって、もし学力向上の傾向が見えてしまうと、それまでの指導の質が問われてしまうことになるし、成果が出なければ出ないでさらなる「意識改革」が求められる。
 現場は常につらい立場です。

 とにかく小6と中3の学力だけを向上させるというのは無理なことで、小6にしろ中3にしろ、その結果は過去何年間かの積み重ねによって生み出されたものであり、地道な努力によってしか達成されないと一般的に考えられるのが学力の特徴です。

 ただ、全国的な学力調査問題の成績に限って言うと、短期間の「意識改革」で向上する可能性があることも否定できません。
 それは問題の質とそのレベルから言えることです。

 東京都の場合は、問題の形式・趣旨は同じではありませんが、全国的な学力調査の少し前に、小5、中2の段階で独自の学力調査を行っています(名称は「児童・生徒の学力向上を図るための調査」)。
 この調査が「学力向上」への意識付けに一定の効果があることは、都の報告を見てもよくわかります。
 
 全国的な学力調査の問題の難易度はやや難しめになったようですが、そうは言っても、問題が全国に公表され、テスト自体とか文部科学省=「お役所」の好き嫌いの問題ではなく、「このような問題はできてほしいなあ」という素直な願望が浸透していくことは、子どもや教師にとって「どうせ毎年あるものなら、今年はがんばってみるぞ」などという動機付けに結びつくかもしれません。

 都道府県規模の平均点というものの差は、学校間で競争するのとはわけが違いますから、簡単な「インチキ」で縮めることができるものではありません(県ぐるみで不正をはたらけば別ですが・・・)。

 平均点が高い低いでウダウダ言うこと自体、教師の多くは虫酸が走るように嫌なことかもしれませんが、県別上位でも学校ごとに結果を見て、「もっと得点が取れるはずだ」という「意識」を子どもも教師ももてるようになることが、ヘキサゴンを見て喜ぶより先にあるべきであるような気がしています。

* 5 ******************* 
 2008年10月8日「学力調査の結果を生かす工夫」
**********************

教育関係者でないとあまり知られていないかもしれない事業に、昨年度、文科省が実施した『学力調査の結果に基づく検証改善サイクルの確立に向けた実践研究』の委託研究事業があります。
 これは、都道府県・政令指定都市ごとに設置された検証改善委員会が実施する研究事業で、各自治体のHPでは公開されていると思います。
 文科省が評価した学校改善支援促進事業の内容が公開されているので、ここでいくつか紹介してみます。
 (「成果の普及」については省略します)

***福島県検証改善委員会***

①学力調査結果の詳細な分析と優れた実践をしている教師への聞き取り調査
・全国学力・学習状況調査の問題と結果の分析やこれまで実施してきた「福島県学力調査」結果との比較等により、より詳細な分析を行い課題を明確にする。
・優れた実践をしている教師の授業観について聞き取り調査を行い、本県の教師の「授業観」の振り返りの指針となるようにする。

②データ分析支援ソフトの開発
・各学校、各学級毎の実態や課題を把握できるようにするためにデータ分析支援ソフトを開発し、各小・中学校に配付する。

③県版「活用力向上のための指導資料」の作成
・「知識」と「活用」問題の関連を視野に入れた日々の授業改善に生かすことのできる具体的な指導資料を開発する。

④「知識」の習得と「活用」との学びの関連を図った「提案授業・授業研究会」の各学校への同時配信
・小・中学校の教師や大学教授等様々な立場の授業者が「提案授業・授業研究会」(5校予定)を行う。その映像を県内の小・中学校にWeb配信するとともに、DVDに収録して配付し、各学校の校内研修での具体的な授業改善の協議の活性化を促す。

⑤「授業改善サポートブック」の開発
・学力調査の分析及び開発した教材・資料等を「授業改善サポートブック」としてまとめ、県内の小中学校教師全員に配付し、校内研修での活用を促す。

***富山県検証改善委員会***

1.学力調査結果に基づく分析
①「学び合い」と学力との相関についての分析
・学校や学級の人間関係の満足度と学力の定着の状況等について分析し、具体的な改善支援策に生かす。

②「体験」と学力との相関についての分析
・体験の頻度と学力の定着の状況等について分析し、具体的な改善支援策に生かす。

③各学校、各地域の分析への支援
・検証改善委員会が独自に作成した学力調査結果の分析支援ソフトを各市町村教育委員会や各学校に配付し、詳細な課題の分析を行い、指導法等の改善を推進する。

2.「とやま型学力向上プログラム」の創造と発展
①課題別指導ヒント集「授業改善のためのかくし味」(学び合い編)による改善
・学び合う学習活動によって指導の成果が認められた実践事例を収集し、授業改善の手がかりを学力調査によって明らかになった課題について調査研究する。それをまとめ課題別ヒント集として全学級に配付し、児童生徒相互が教え合い、認め合い、支え合う学習活動の推進を図る。

②指導教材「美しいことばで伝え合おう」(話し合いDVD・音読CD)による改善
・意見発表の仕方の指導や友達の考えの聞き方の指導について、優れた成果がみられる学校を取材して、学び合う人間関係を醸成する学習指導の在り方を研究する。それをまとめて、コミュニケーション能力の向上を目指した指導教材として各学校に配付し、自分の考えを伝え合う学習活動の推進を図る。

③課題別指導ヒント集「授業改善のためのかくし味」(体験編)による改善
・体験を通して知識・技能等を活用する力を伸ばす実践事例についても調査研究する。それらをまとめて、課題別ヒント集として全学級に配付し、知識・技能等の習得と体験での活用の効果的な関連付けを目指す指導の推進を図る。

④指導教材「豊かな体験パワーアップシート」による改善
・学力・学習状況調査結果の分析から、体験と教科等での学習の関連を深めたり、体験の価値を高めたりする学習シートを指導教材として各学校に配付し、課題に応じて授業等での活用を推進し、知識・技能等を活用する力の育成を図る。

***香川県検証改善委員会***

1.調査結果を踏まえた指導方法の検証・改善を図る取組の促進
①市町教育委員会や学校の個々の実情に応じて具体的な指導方法の検証・改善を図るサイクルを構築し、教員の指導力の向上を図る。
・全国学力・学習状況調査等の結果を踏まえ、市町教育委員会や学校が行う、児童生徒の学力学習意欲・生活習慣の状況や課題等の把握・分析、明らかとなった課題に対する改善策についての検討、具体的な改善に向けた取組に対し、市町教育委員会の要請に応じて、大学教員や指導主事を市町教育委員会に派遣する。
必要に応じて学校訪問も行う。

②市町教育委員会及び学校における継続的な検証改善サイクルの確立に寄与する。
・各学校における児童生徒一人一人の改善につなげられるよう、派遣を通して得られた成果や効果的な取組を、県内全ての市町教育委員会及び学校に普及する。

2.「考える力」や「読む力」の育成を図るための指導方法の研究
 主として、「活用」に関する問題の分析を踏まえ、知識・技能を活用し考える過程を重視した指導法を研究する。
・観察・実験、調査など実生活と関連付けた指導の在り方、様々な文章や資料を読んで、自分の意見を述べたり書いたりする指導の在り方など、知識や技能を活用する力の育成を図る教材を、国語、算数・数学、理科、社会の各教科毎に、小中学校で各1教材作成する。
・指導法の改善に役立てる評価問題を、国調査や県調査の対象教科となっていない社会科の小学校第6学年と中学校第3学年用で作成する。

3.家庭学習の支援の在り方の研究
 児童生徒に家庭学習・基本的な生活習慣の改善を図るために、各学校の取組から効果をあげている児童生徒向け「学習の手引き」や保護者向け「学校だより」などの啓発資料を収集し提供する。

4.教育課程のPDCAサイクルの確立の支援
①市町教育委員会や各学校において、提供されたデータを効果的に活用できるよう、データの加工やグラフ作成等を支援するプログラムを開発する。
②プログラムの活用方法や、調査結果等の分析に基づく改善計画等の作成に関する研修会を開催する。

***福岡県検証改善委員会***

 福岡県学力向上パワーアップ事業実施内容
 学力向上を図る主体的な事業運営として、課題に応じた次の四つの事業を、学校が選択・実施できるようにする。

①小学校における専門的、組織的指導の充実を図るため、市町村教育委員会と協力し、小学校低・中学年の少人数指導、高学年の専科指導員の派遣する事業。

②国語科、算数・数学科における読解力、表現力、思考力に特化して、各学校の学習指導の充実を図るため、市町村教育委員会と協力し、各学校のリーダーとなるべき教員へ指導技術等を提供する研修会を開催する事業。

③学力に関して課題をもつ市町村教育委員会に対して、授業での補充的な学習や発展的な学習など、市町村教育委員会と協力し、きめ細かな指導のための支援を行うためのサポート指導員を派遣する事業。

④児童生徒の学ぶ意欲や学習習慣の定着、進路意識の向上、生活習慣の改善等を図るために、児童生徒を対象にし、大学生、保護者等を活用した土曜日セミナー等を開催する。

***仙台市検証改善委員会***

①教科指導のエキスパートを、課題のある学校へ長期的に派遣
・全国学力・学習状況調査と仙台市標準学力検査の結果とその分析により、教科指導に課題がある学校に教科指導のエキスパート(有識者:退職校長や大学退官者など)を長期的に派遣し、教員の指導改善のための支援と助言を行う。

②全国学力・学習状況調査と仙台市標準学力検査の分析結果に基づく教材開発
・これらの分析結果に基づき学習ドリル教材と学習ソフトを作成し、基礎基本の定着を目指すものだけでなく、思考力や判断力、表現力と知識活用能力の育成を図る教材を開発する。

③学校診断カルテ&処方箋〔仮称〕を学校に提供
・学習方略や学習環境、友人や教員との関係性などからる調査紙を作成し、学力調査との相関に基づき学習意欲等を因子分析などの分析手法により分析することで、学習方法や指導法の効果

***静岡市検証改善委員会***

 学力調査の結果を踏まえて、検証改善のモデルとなる学校の分析・改善の手法及び内容の収集
①静岡市教育委員会は、学力調査を活用した改善を推進するため、各学校に、検証改善のモデルとなる学校(改善支援対象校)を公募する。
・各学校は、静岡市検証改善委員会が提案する分析手法例(児童生徒による分析例、地域保護者による分析例、大学による分析例、校内における分析例)を参考に、必要に応じて応募する。これにより、各学校の組織を構築(校内検証改善委員会の設置)し、日常の教育活動とつなげた各校の分析・検証計画を整える。

②静岡市検証改善委員会は、分析・改善の調査研究を行うため、「校内検証改善委員会の独自の分析手法が明確であること、学力調査の結果等を踏まえた課題が明確であること、学校の地域的な特徴のバランスをとること」を基準に改善支援対象校を小学校・中学校併せて13校を選定する。これにより、分析手法例、改善対象校の課題を把握する。

③静岡市検証改善委員会は、事業を周知し人材を活用するともに具体的な支援を実施するため、市広報誌を利用し、「学力向上チームスタッフ」として専任指導員(原則として、教員免許を有する者)を登録公募し、40人程度を任用し研修を実施する。これにより指導の向上を図り、人的側面の支援を充実させる。

④静岡市検証改善委員会は、改善支援対象校の課題に応じた改善を充実させるため、専任指導員を派遣するとともに、指導主事による指導助言を実施する。専任指導員は、家庭学習支援(2校)、放課後学習支援(9校)、少人数指導支援(5校)、在宅学習支援(1校)、合宿支援(2校)、体力向上支援(1校)、読書力向上支援(1校)を実施する。これにより、効果の見られる改善事例の収集に努める。

***京都市検証改善委員会***

①学力向上フォローアップシステムの構築
・「教育指導計画」「学力向上プラン」の内容や「全国学力・学習状況調査」「学力定着調査」「学習確認プログラム」などの分析をもとにした「学校経営目標・支援シート」を学校毎に作成し,よりきめ細やかな分析と必要な支援内容を学校と教育委員会が共有・共通認識し,総体として取り組む「学力向上フォローアップシステム」を構築する。

②学校支援策の成果分析・フィードバック
・「学力向上フォローアップシステム」による学校現状評価・分析をもとに,課題別・グループ別の学校支援(カリキュラムマネジメント,教科指導の改善,学習指導ボランティアの活用等)を講じるとともに,その成果を分析し,次年度以降の効果的な支援策の再構築につなげる。

③新たな学習教材の開発
・「全国学力・学習状況調査」等の結果分析をもとに,新たな学習教材の開発も含めた義務教育9年間を繋ぐ基礎基本の定着に向けたシステムの構築を検討する。

***福岡市検証改善委員会***

 指定モデル校(8地域)において,「日々の授業改善」プログラム・家庭学習サポートプログラム・学校改善サポートプログラムの3つのプログラムからなる,福岡市「学び」総合プログラムによる,学校・地域(家庭)・行政との連携を一層強めた学力向上の取組についての実践研究を行い,その成果についての全市普及を図る。

 実施内容(モデル校での実践研究)

①「日々の授業改善プログラム(検証改善サイクルを位置付けた授業改善)
・「授業改善の手引き」等を作成(検証改善委員会)して,教材や指導法・指導体制の工夫についての実践研究に取り組む。
・採点等の授業に伴う事務処理を行う授業サポーターをモデル校に設置し,教員が授業改善に一層専念できるようにする。
・妥当性・信頼性のある定期テストや家庭学習とも連動した教材を導入して,検証改善サイクルを確立させる。

②家庭学習サポートプログラム(宿題及び自学等の学習習慣を育む地域の支援体制づくり)
・学校の空き教室や公民館・集会所等に家庭学習サポート教室を設置して,家庭での習慣作りが困難な児童生徒に対して,家庭学習サポーターによる2段階(宿題を必ず仕上げる習慣づくりから自学力育成サポート)の学習支援をする。

③学校改善サポートプログラム
・モデル校で使用する教材及びテスト等を検討・選定するとともに,授業サポーター,家庭学習サポーターへの研修を行う。
・学校改善アドバイザーによる学校訪問(各地域2回)を実施して,実践研究の進捗状況の確認と指導助言を行う。
・家庭学習教材の提供と,家庭学習サポーターの地域への設置,支援体制確立のための研修会を開催する。
実践研究の成果や課題を集約し,関係機関等を含め全市への啓発を図るための資料を作成する。

***福井県検証改善委員会***

①学力調査の結果をふまえた学校改善の支援
・全小・中学校において、学力調査の結果に基づき「学力向上プラン」を作成し、指導力を高めるための取組みを充実・強化していく。
・地域または学校を指定し、学力向上プランの作成や改善に向けての取組みにあたり、支援員を配置するとともに、大学教員や指導主事等の講師を派遣して、指導・助言をする。また、他校を視察する機会を設ける。
・各学校の作成した「学力向上プラン」を収集し、成果をあげている事例を紹介・普及する。

②基礎・基本を定着させるための教材の作成
・児童の漢字学習に対する興味・関心を高めたり、効果的に漢字を指導したりするための教材を作成する。
・各学校で取り組んでいる基礎・基本を定着させるための実践例を収集し、基礎・基本を充実させるステップアップ算数問題集を作成する。

***山梨県検証改善委員会***

①大学との連携による活用型学習ワークシートの開発
・活用型学習のワークシートを開発し,ホームページ(HP)上にアップする。各学校では,このワークシートをダウンロードし,授業での活用を図る。さらに各問題の趣旨やねらい,できない子への支援方法などを動画と音声によって有識者らが解説することで,活用型学習への理解を深める。

②基礎基本の定着を目的とした反復・習熟度プリントの配信
・インターネットを利用した学習システムを導入し,既習内容の確実な習得と主体的な学習習慣を身に付けられるようにする。

③「活用型」授業の創造に向けた「国語科授業改善の手引き」の作成
・活用型授業事例や教育効果などをリーフレットにまとめ,「活用型」授業の具体的なイメージを各教師がもてるようにする。

④リーフレット「地域・家庭からの学力」の作成
・「家庭での学力の理解」が学力向上の鍵である。このため,社会教育課との連絡・連携を図りながら「学力の正しい理解とその向上」を内容としたリーフレットを作成し,「確かな学力」の向上を目指していく。

⑤「授業カウンセラー」の導入
・教師同士の情報交換や刺激の少ない教師に具体的な授業提案や指導方法をアドバイスし,個々の教師の授業力を高める。これらの5つを短期の取組とするとともに,中長期の取組との連携を図り効果的に進めていく計画である。

***奈良県検証改善委員会***

①授業や家庭学習等で活用する学習資料集「わくわくワーク」の作成・配付
・全国学力・学習状況調査の結果からは、知識に関する問題は概ね満足できる状況であったと考えられるが、正答率70パーセントを下回る児童生徒も存在しており、より一層基礎・基本の確実な定着を図る取組が必要である。また、多くの児童生徒に知識や技能を「活用」することに課題があるということも分かった。そこで、基礎・基本にかかわる力をさらに定着させることを目的とした学校や家庭での繰り返し学習等に活用できるワークシート集(問題集)を作成する。

②教員の意識改革(授業改革)に向けての啓発資料(クリアフォルダ)の作成・配付
・知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や様々な課題解決のための構想を立て、実践し、評価・改善する力を身につけさせることの重要性等を解説した資料を作成し、全教員に配付する。なお、その資料が常に教員の目に触れるようクリアホルダーに印刷し、配付することで、より一層の浸透を図る。さらに、クリアホルダーの一部には、具体的な授業の組み立てがイメージできるような内容も加え、授業改善につなげる。

③「全国学力・学習状況調査の結果分析・活用の手引き」の作成、配付
・各学校において、調査結果をきちんと分析、活用して学校の指導方針や指導計画の作成に生かされるようにするため、データの解釈や分析、考察の過程や考え方の手引き書を作成し、各学校に配付する。

***島根県検証改善委員会***

①研修プログラムの立案
・調査結果等から、特に算数・数学に課題が多く見られたため、算数・数学の校内研修および研修講座等の充実に向けた調査研究を行い、研修プログラムの立案を行う。

②学習習慣の確立に向けた学校への支援
・島根県は、平成19年度から学習習慣の確立に向けた「学習環境構築事業」を実施し、「学習プリント配信システム」を構築し、各学校が活用できる環境を整えた。そのシステムのより効果的な活用のため、優れた実践を支援し、その成果の普及を図る。

③学力定着確認チャートプログラムの開発
・全国や県との比較により、各学校が自校及び児童生徒一人一人の強みや弱みを確認でき、課題解決のための資料を作成するプログラム等を開発し、学校や市町村教育委員会の学力向上策の改善を促す。(来年度も継続して使用できる仕様にする。)

④学力向上プラン作成への支援
・市町村教育委員会が学校支援の方針を定め、また、学校がそれぞれの課題解決に向けた学力向上プラン等を作成、実施するにあたり、助言を行うため、委員または作業部員の派遣を行う。

⑤啓発用パンフレットの作成
・本委員会が報告書にまとめた学校改善支援プランをわかりやすくパンフレットにまとめ、全教職員に配付し、学校における学力向上策の改善を促す。

***宮崎県検証改善委員会***

①小・中学校の国語、算数・数学における課題解決を図る授業研究会の実施

②授業力向上研修会の実施
・市町村教育委員会や学校の研修会に大学教員等の講師を派遣し、習熟度別の少人数指導の在り方や読解力指導などの授業力の向上を図る。

③各教科研究団体への支援の実施
・県内の研究団体に研究助成を行い、その成果を取りまとめ公開する。

④学力向上サポーターの配置
・改善計画書の内容に実効性が見られ、改善への見通しが十分にあるなど有効な手立てを有している学校に対して、学力向上サポーターによる人的支援を行い、学力向上体制を整備する。

⑤優れた実践校の取組の効果的な活用
・効果的な実践を行っている学校の取組を実践事例集としてまとめ、県内各小中学校へ配付し、普及啓発を図る。

⑥デジタル資料室(仮称)の開設
・「課題解決に向けた授業研究会」や「過去の学力調査の分析結果」等をデジタル資料としてまとめ、県内どこからでも活用できるよう環境整備を行う。

⑦「こんな子どもが学力が伸びている学力向上10のポイント」の配付
 学力との相関関係が大きい質問紙調査の結果を10項目選び出し全小中学校に配付する。

***神戸市検証改善委員会***

 検証改善委員会内に三つのワーキングチームを設置し、連携協力大学等の支援も得ながら、以下の内容について実施する。

①教員のさらなる授業力の強化のための算数・数学の「重点指導事項集」の作成
・今回の全国調査の結果において課題が明らかとなった領域や単元を含めて、教員対象の「重点指導事項集」を作成する。算数・数学科を対象とし、基礎的・基本的な知識・技能のいっそうの定着に資する内容とする。

②より効果的な定着を目指す自主学習用教材の作成
・児童生徒が学習した授業内容を、授業時間外でより効果的に反復・定着できるよう、国語科、算数・数学科における自主学習用教材を開発する。朝の学習、放課後の学習、家庭での学習等での自主学習用教材として位置づけ、活用を図る。内容的には、基礎的・基本的な知識・技能の習得を主眼としつつ、可能な限り、思考力・判断力・表現力の育成につながるような要素も盛り込んでいく。

③児童生徒、保護者を対象とする「学習・生活の手引き」の作成
・家庭での生活習慣や学習習慣づくりのポイント、予習や復習に取り組む際の注意点、教科毎の学習の進め方、等について具体的に記載したものとする。リーフレット形式にし、全保護者に配付する。

④学力調査の結果等の分析より作成した改善計画等に基づく取組のうち、成果をあげている事例を収集し、最終報告書で普及を図る。

* 6 ******************* 
 2009年1月3日「教師は「庭師」のプライドを保てるか?」
**********************

 「竹中式マトリクス勉強法」(幻冬舎)では、竹中平蔵自身が受けた批判が3つのパターンに分類されています。

 一つは、「コントラリアン型」批判。
 いつも反対のことを言うもの。
 改革を行えば拙速だ、と言い、改革しなければ「遅い」と言う。
 批判のための批判でしょう。
 
 こんなエピソードが紹介されています。
 小泉元首相が、総理在任中にある記者から「最高権力者になったと自覚するときはいつですか?」の質問に、「そうですね。あんまりないですが、強いて言えば、何をしても否定されることですかね」と答えたとのこと。

 二つ目は、「永遠の真理型」批判。
 これは「常識的」といわれる大人に多いもので、「長期的視点に立てば・・」「相手の立場になって考えろ」とか、「その通りです」と言わざるを得ないことを言うタイプ。
 「だから何?」と見られていることが、あまり自覚できていないので念仏のように同じことを繰り返すのです。

 三つ目は、「ラベルを貼る」型の批判。
 「決めつけ」の激しいタイプは、だれだれはこういう立場からしか見ていないとか言って、問答無用にしてしまう批判。

 そして、三つの型に共通しているのが、対案がなくて批判だけしているということ。
 
 教育改革を批判している人の中にも、このようなタイプが多い(特に二つ目が多い)のですが、マスコミ等に登場しているのは、庭師の仕事に注文をつけている植物学者の立場のような人ばかりです。

 というより、政策批判というのはだれにでもできることで、「市場主義原理の導入に反対」という批判は経済を知らなくてもできてしまうわけです。
  
 教師はとても厳しい立場におり、市場主義原理の導入に反対という側についてしまうということは、場合によっては自分たちの資質・能力に信頼性がないことを認めることになってしまう。
 大学にしろ公立学校にしろ、一度正教員になってしまえば、一生安泰(免許更新講習で職を失う人はいないでしょう・・・この制度のせいで職を失うことになったと批判する人はいるでしょうが・・・)

 だから教師の肩代わりとして元教師で大学に籍をおく人などが、教師のニーズを満たすために反対する。
 しかし、実は自分自身もその原理のもとでその立場にいるか、その場の立場が危うくなっている人間かもしれない。
 
 いただいたある年賀状に、「教師の能力に比例して学校全体も右肩下がりになっている」と書いている人がいました。

 教育改革への批判を私も全く理解していないわけではないですが、あえて言えば、まだ今まで行われてきたことはいずれも「改革」などというスケールの大きなものでは全くありません。
 財政支出の規模など金銭面のことを言っているわけではありません。
 
 総合的な学習の時間の導入などは、一部の研究校では何十年も前からやってきて、成果が上がっていました。
 
 学校選択自由化にしろ免許更新制にしろ、授業時数の増減にしろ、同じようなゴムが伸びたり縮んだりしているだけの改革であって、「本物の改革」はまだまだ先の話になりそうです。

 「本物の改革」とは何か。
 それは教師の意識改革に他なりません。
 教師の意識の何が問題であるかを、今後も問い続けていきたいと思います。
 教師が自身のプライドを保つ方法は一つしかありません。
 教師が変わり、子どもが変わることです。

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指導力のない教師の典型的な反応例

 dolceさんが分かりやすい例を出してくれました。

 ここでは,dolceさんが指導力がない教師であると言いたいわけではありません。

 指導力のない教師らしい反応をdolceさんがしてくれたので紹介するだけです。

>結果がどうであろうが「悪い」を決めておいて、あとからその悪いになんとかつじつまを合わせようと理由をつけるのである。

 あなたは,私を指導力のない教員だと決めつけている。

 そして,私が指導力の足りない部分をたくさん見つけて,つじつまを合わせようとしている。

 直接耳にした会話ですが,自分の力が足りないこと,学力向上の実践がないことは棚上げして,相手の「態度」を非難している。

>実際の授業はとても良い授業なのに、成績の悪い生徒が教師に反感を持っていて悪く言いたいのかも知れない。

 授業はちゃんとやっています。成績の悪い生徒が,私を恨んで,私に反感をもち,私の授業はひどいと言っている。

 こんな例も分かりやすいです。成績の悪い生徒に恨まれるような授業が「とても良い授業」であるはずがないのに,「自分の授業はよい」という「決めつけ」のもと,責任を「成績の悪い生徒」に転嫁しようとする。

 二つの例をとりましたが,指導力不足教員は,自己理解に欠け,「こういう実践でこういう効果が出せました」ということが,語れない。

 実践がないと話が「自分を守る」ためのものにしかならない

 批判に対して正対できる人は,実は指導力に欠ける面があっても,普通は「指導力不足教員」にはならないのです。改善のための努力に取り組んでくれますから。自分を知っている人は,強いのです。

 質問に答えない。これが,「自分を守る」ための最高の手段ですね。

 しかし,教師の重要な仕事術の一つに,「自分のことが直視できない子どもに自己を見つめさせること」にありますから,放っておくことはできません。

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若い教師に対して恥ずかしくない仕事術

 どんな教師が,若い教師を,どのように育てているのでしょうか。

 今の私があるのは,まずは,管理職のおかげという面が強いです。

 東京都にはかつて様々な研修のしくみがあったのですが,管理職は「これを受けろ」「ここに行け」と指示してくださいました。

 若いうちは,なかなか自発的に研修会に行く気になりません。

 それよりも部活動で子どもと格闘している方がいいに決まっているからです。

 もし管理職が声をかけてくれなかったら,今の私はいないでしょう。

 また,一つの研修でそれなりのはたらきをすると,あとはいろいろな教師が次のステップへの勉強会や研究会などに誘ってくれるようになります。

 それがなかったら,今の私はいないでしょう。

 そうこうしているうちに,指導主事試験を受けろと言われ,行政の世界に入り,3年たって最終的には東京都を去ったことだけが,私の決断でした。しかし,もとは今の学校に誘ってくれた人がいたわけで,その人がいなければ今の私はいなかったことになります。

 今の学校に移ったばかりのときも,私はまだ「若手」でした。

 ようやく今頃になって,自分は若い教師に対して恥ずかしくしていない仕事をしているか,という自問ができるようになりました。

 若い教師に対して恥ずかしくない仕事とは何か。

 それは,少なくとも「仕事術」などというものを教えず,授業づくりにどれだけこだわっているか,たった一つの教材選びにどれだけ神経を使っているか,発問一つをとってもよりよいものを探し出すのにどれだけ試行錯誤をしているか,を見てもらうことにあります。

 そして,効率よく,無難にすませようとする姿勢に対しては,徹底して批判を加えます。

 「それは,スタンスの違いでしょう」などという反発する気が起きないくらい,教育に情熱をかけている姿に共感させるような努力をするのです。

 小学校関係の教育書の中に,「いかにごまかすか」「いかに子どもの気をひくか」をテーマにしたものが散見されます。一人でいくつか同じタイプの本を書いている人がいます。

 こういうものを公にして,恥ずかしくない神経がどうして小学校という教育現場で身に付いてしまうのか。

 これがしっかり分析できない限り,教育の改革の本道を語っていくのは難しそうです。

 学校に「遊び場」という要素を求めることは決して悪いことではないのですが,「楽しい授業」の意味を取り違える人を増やすような本が多いことは,本当に残念でなりません。

 「気に入られようとする態度」が,いかに醜悪なものであるかを行動で語っていける仕事を示したいものです。

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若い教師の仕事術

 マニュアル人間が増えていることを助長しているのが,中途半端な経験をもった人間の「時間術」とか「仕事術」などのいかがわしい本です。

 「いいやり方があるよ」

 「時間をかけない方法だよ」

 「効果的な方法だよ」

 などという言葉につられてまねをするような人間に,本当に効果的な仕事ができるはずがありません。

 教育という仕事に効率とか簡略化とかいう概念をもってこようとする人間が,子どもをどう見ているか,容易に想像がつきます。

 「カンタンにうまくいく教え方」

 などの甘い言葉につられる人間は,そうやって子どもを育てていくのがよいと考えているのでしょうか?

 若いときしかできない,独身のときしかできない「時間のかけ方」があり,実際に本を書いている人間はそういう無駄な時間を過ごしたからこそ,自分で実践できるようになったことがあることも知っているはずです。

 とにかく若いうちは,ありとあらゆる方法を自分で考えて,試行錯誤することです。

 子どもの反応なり動きなりを,しっかり見つめることです。

 毎日の活動の中で,教師として「やりたいこと」がどんどん出てこないのであれば,それは教師には向いていないということです。

 知識が足りないことに気づいたのなら,ひらすら調べることです。

 そういう手間を省くような本を出す神経が,「教育者らしくない」ことになぜ気づかないのでしょうか?

 「どうしたらうまく授業ができるかわからないと相談された先生に,いい方法を教えられなかったのは残念だ」なんて,そもそも「学ぶ」ことの意味がわかっていない人間のせりふです。

 すぐ答えを知りたいと思う子どもとか,いい方法を人から聞いてまねしたいと思う子どもが増えているのは,そういうタイプの教師と,そういうタイプの教師を応援する教師がいるのが最大の原因でしょう。

 小学校の教師にその傾向が顕著です。

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«行政が荷担している教師の安易な仕事術

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より