ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

「何何の仕方」改革が失敗する理由

 「働き方改革」は,今後上手に進めることができるでしょうか。

 教育の世界では,「~の仕方」という言葉が出てくるとき,現場ではたいてい成果が出せずに終わっています。

 「生きる力」が登場したとき,「学び方を学べる」総合的な学習の時間が始まりましたが,今,どうなっていますか?

 今度は,「見方・考え方」を働かせる学習が始まろうとしていますが,小学生が教科ごとにそれらを働かせることは可能だと思いますか? 

 高校の教育や授業を改善させる目的で,小学校から続く串を用意したのでしょうが,小学校でそれが機能するでしょうか?

 内容を語る力がなくなったときに,人間は何かの「方法」に頼ろうとします。

 教養が失われたときに,人間は何かの「手段」に頼れば何とかなると考えます。

 お粗末な内容のオンパレードによって,「方法」や「手段」が「戦犯」になることがわかっている教育改革。

 学校現場は,「働き方」の問題ももちろんあるでしょうが,「仕事の質」を問わずして,「方法」で何かが解決すると思ってしまう人こそが,「改革されるべき存在」なのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

どうして「本」に書かないと気がすまないのだろう?

 自分の教育理念等を広めるために,「本を書く」ことを選択する人がいますが,

 「本」の宣伝を自分のHPやブログでする余裕があったら,どうして

 HPやブログに内容をそのまま載せないのでしょう?

 新書の半分も文字の分量がないような内容を,わざわざ「本」にする意味はどこにあるのか?

 ・・・それは,本が仕事の「業績」になるからなんですね。

 売りものをつくれば,「お仕事」をしたことになる。

 世間に広める気があるわけではなくて,金を出して買ってくれる人にだけ情報を提供する。

 これを公務員の立場でやっている人もいる。

 本当に人の役に立つ気があるの?と聞いてみたいものです。

 ある小学校の研究会の参加費は5000円です。

 5000円払って,平日に授業や協議会に参加する小学校のセンセイがいるのは奇特なことです。

 小学校内に,複数の出版社がずらっと売りものを並べて待っている風景を見て,何か感じる人はいないのでしょうか。

 「働き方改革」より前に,何かすることがあるのでは・・・?

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

出始めたら止まらない膿

 どこがどのように病んでいるかを説明できない組織では,「膿を出し切る」という能動的なことはできず,

 ただただ繰り返される問題に謝罪等でその都度対応せざるを得なくなる。

 また,膿を出しているそばから内部が腐っている場合,「垂れ流し」の状態が続くことになる。

 私は学校でそれを経験した。

 自分たちに課題があることを認められない組織では,何も解決できない。

 論文のインチキがバレるたびに,優秀な研究者が現場から退いてしまえば,何がそこに残されるのだろう。

 お相撲さん達が参加していた国技館での研修が報道されていたが,

 「ああいう形態」での研修に意味がないことは,学校教育が実証してきている。

 「立ち直る」方法を教えてくれるのは,案外,中学生だったりするかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

もしZ省に入省試験があったら・・・

 省として「正しい」答弁ができるように,漢字の意味を理解しているかどうかのテストを行います。

 次の文章を読んで,あとのア~エの中から正しい文を1つ選びなさい。

 2億円を1億円に値下げできませんか。

 1億円以下は無理です。1億500万円でどうでしょう。

 ア 1億500万円は,価格であって金額ではない。

 イ 1億500万円は,価格でも金額でもない。

 ウ 1億500万円は,金額であって価格ではない。

 エ 1億500万円は,金額であるが,価格ともいう。

 Z省の正解は,ウです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教員養成の質の向上と優秀な教員志望者の減少の因果関係

 行政は,自分たちにとって都合の悪い情報は開示しません。

 文科省の「口裏合わせ」や「想定問答集」に見られたように,嘘をつくのが前提で動く組織もあります。

 隠されたり嘘をつかれたりするので,データはあてになりません。

 政治家が「エビデンス」を連呼するようになったのは,自分が嘘をつきやすくするためと,部下たちがマニュアルに従って嘘をつきやすくするためであるように思います。

 ただ,「エビデンス」などなくても,実態を見るだけで,優れた資質能力を備えた教員志望者が減少していることがわかります。

 教育職員免許法の改正によって,優れた資質能力を備え,高い学力をもった学生が集まる大学で,教員志望者が減少していくことが危惧されています。大学によっては,教職課程を放棄せざるを得ないところも出てくるでしょう。

 自分の専門分野と,教職課程の履修が両立し得ないカリキュラムになっている非教員養成系国立大学もあります。

 これでは,そもそも教職課程を置いておく意味がありません。

 あまり学力が高くない学生が多い大学の教職課程を担当している先生に聞いたことがあるのは,「まず採用試験に合格できない」ということです。

 そうすると,こういう大学でも,教職課程を置いておく意味も感じられない。

 では,改正された法律に基づく新カリキュラムで履修した学生は,優秀な教員になれるのか?

 制度設計の前提から間違っていると考えざるを得ません。

 採用試験の倍率が低ければ,新カリキュラムで優秀な成績を取ったわけではない学生も大量に合格してしまう恐れがあるのです。

 採用試験の倍率が下がる可能性がある制度のあり方が,まず前提として大問題なのです。

 以上の考えは,「内外教育」1月16日号の巻末に掲載されていたコラムの趣旨とほぼ同じです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

子どもは弱者を襲う

 学校で「いじめ」の対象になるのは,子どもだけとは限りません。

 法律上では「児童生徒」が対象でも,学校現場ではセンセイに対する「いじめ」が発生しており,そのために病気休職や退職に追い込まれたりしています。

 「いじめ」の対象になるのは,多くの場合,弱い子どもです。ごくまれにそれまでグループを仕切ってきたリーダー的な存在の子どもになる場合もありますが。

 同じように,センセイを対象にする「いじめ」も,弱い人に集中します。

 非常勤講師で実験し,それが上手くいくと,常勤講師に「格上げ」していく。

 まさか教育を専門的な職務にしている立場の人間が,「私は子どもにいじめられて困っています」とは言えないから,どうしようもない状態になるまで,同僚にも管理職にも相談できず,他のクラスや子どもに迷惑がかかった段階で,表面化します。しかし,表面化したときにはどうようもない状態になっているので,手の打ちようがなく,公立学校の場合は,「異動」や「クラス替え」で「問題解決」を図ります。

 マスコミも含めて,もう少し早めに「センセイを対象にしたいじめ」の実態を明らかにする努力をすべきかもしれません。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

消された学校像~完コピをつくるなら,どこがモデル校に?

 時事通信社の「内外教育」とはどんなものか,管理職以外の先生方にはわからないかもしれない。

 私も,指導主事時代にしか読んだことがなかったものだった。

 たまたま,事務室の机の上にあったので,表紙のコラムを久しぶりに読んでみた。

 校種は別だが,私と同じ教科の指導主事の先輩で,文科省にも長くいらした先生の愚痴が書かれていた。

 平たく表現すれば,「学習指導要領」の質が変わったことを嘆いておられる。

 大学の先生の仕事は,文科省の主張の完コピをするだけになったから,存在意義もないことに気づかれたのだろう。

 全国学力調査の余波なのか,政権の性格が世の中全体にコピーされ始めているのか,理想の学校像というか,学校づくりの大原則,基本方針が変化してきている。

 かつては当たり前だった,学校づくりにかける大切な思いが,消されているのである。

 コラムには,私が「必ず失敗する新学習指導要領」と評価している根拠と同じような内容が書かれていた。

 主体性を求めているくせに,時間はもちろん,内容から方法まで,完全にがんじがらめにする新学習指導要領は,「お上に黙って従う=主体的な態度」という支離滅裂な精神構造を鉄筋コンクリートで固めるようなものである。

 思考停止を強いている人間に,「多面的・多角的な見方・考え方」など育てられるはずもない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

学校は教員のためではなく,子どものためにある

 当たり前のことなのですが,学校は子どものためにある場所です。

 しかし,占有時間の長さの違いから,学校は子どものためではなく,自分のためにあるものだと勘違いする教員が紛れています。

 コンビニを「お客様」のためではなく,「自分」の冷蔵庫がわりに使っている経営者もいるかもしれませんが,「お客様」が来店しない限り,経営は成り立ちません。

 病院も同じです。病院は医師のためにあるのではなく,患者のためにあるのです。

 学校は,子どものための場所でなければなりません。

 だから,学校で抱え込んであげるべきは,苦しい立場にある子どもたちです。

 学校で守ってあげるべきなのは子どもであって,指導力不足教員ではないのです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

なぜ新しい学習指導要領が失敗に終わることがわかっているか

 新しい情報は,やはり自分の足で稼がないと,なかなか入手できないものです。

 今回の指導要領改訂にかかわった人物が表舞台に出てくるようになったようなのですが,そのおかげで,人物の表に出にくい経歴を知る立場の人が現れ,情報を得ることができました。

 私の予想が当たっていたようです。

 教育の話題というのは,なかなかニュースとして扱う価値がないようで,すでに公開されている情報の中に,さまざまな矛盾があるのに,だれもそれを追及しようとはしていないようです。

 大学の先生などは,それだけ官庁の力を恐れる環境に置かれ始めたということなのかもしれません。

 批判できない大学人の存在価値はないような気もしますが,時代は国家総動員体制に移行しているようです。

 なぜ新しい学習指導要領が失敗に終わることがわかっているのか。

 今までの失敗とは,また質の異なる失敗が起こることが目に見えています。

 教育の理念というか理論の骨格に当たる部分を語れる大学の先生がおらず,

 教育方法とか教育評価という,本筋とは別の,内容についての専門性がないセンセイの声しか拾えない環境にあることも,失敗に終わることに気づけない原因かもしれません。

 成功体験のない人たちなのですが,なぜか失敗感覚というものもない。

 「資質・能力」=「学力」という図式の意味をきちんと説明できるセンセイはいるでしょうか?

 小学生と高校生が同じような「見方・考え方」に閉じ込められる「教科」に存在意義はあるでしょうか?

 「教科」を解体することが,新しい学習指導要領の隠された本当のねらいである,というのなら,よく理解できます。
 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教員が他の公務員と少し異なるところ

 私は3年間行政の立場にいたので,教員の特殊性を客観的にながめることができました。

 教員は,普段,「上司」の気配をそれほど感じずに仕事ができます。

 行政では,「上司」がいなければ仕事が先に進めないようにできています。

 数々の文書は,「法令通りに職務を遂行してきた記録」なのです。

 そういう文書は現場ではほとんど皆無です。

 その代わりに,子どもたちのために,記録をしっかりと残すこともできます。

 私が作っていた学級だより,学年だよりは,今でも大切な財産です。

 行政にいるときは,「すぐにすべきことが何もない」時間があります。

 教員は,勤務時間のほとんどを常に「子ども」と一緒にいるので,いつも必ず「すべきこと」があります。

 目の前にいる「子ども」は教育という仕事の対象であり,様々に掲げられた目標を達成させるために,多くの働きかけをしなければなりません。

 消防士さんで言えば,火事が常に起こっている状況です。

 警察官で言えば,犯罪が常に起こっている状況です。

 たとえは悪いですが,たとえに近いことが本当に起こることもしばしばです。

 裁判官は,常に複数の案件を抱えて,頭をフル回転していないといけないように,教員も,同じような状況にいます。

 ですから,生半可な使命感では続かない職業です。

 その「半端のなさ」を理解してもらえる機会が,大学にはあまりないのでしょう。

 「動機付け」も非常に大切なのに,それを得るきっかけもない。

 覚悟が決まっていない人が現場にいることが,どれだけ教員たちと子どもたち両方の負担になるか,分かってほしい人は分からないもので,それほど気にする必要がない人が気にしてしまう。

 世の中,難しいものです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

人間の醜さを露呈させる教育方法

 人間には,多様な種類ごとにレベルの異なる醜さが備わっています。

 たとえば,「自分にとって得だと思えることだからやる」という利己主義。

 私がその文化を知らない地方には,利己的な子どもばかりをどうしたら動かせるようになるか,悩みもしないで,その利己主義を利用する安易な教育方法に走る人間がいるようですね。

 教師にとって,これほど醜悪な判断の仕方はありません。

 それが醜悪に思えない地方の人がいるのは意外です。

 また,どんな人にでも分け隔てなく接することができることが善だという,平等主義を平気で放棄できる地方もあるようです。こっちは何となくわかります。近い奴ほど憎い,という感覚は,閉鎖的な地方独特の文化ですね。

 嫌な奴とは付き合うな,という「教え」を,利己主義に固まった子どもにすれば,どんなことになるのか。

 醜いという言葉では表現しきれないほどの腐臭を発する教育を語る人間がいるんですね。

 「身近な地域」との交流がなく,遠く隔てた地方に存立の意義を見いだそうとする人たちにとって,「郷土」とはどんな意味をもっているのでしょう。

 どれだけ「地域」の子どもをバカにしようが,「こういう風にだけは育ってほしくない」と思える大人はいないのでしょうか。

 大丈夫ですかね。

 まだ風邪とかインフルエンザくらいに軽く思っている管理職が哀れです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

価値を落とすことで慰めとする「負け組」の行動を許さない

 あることに失敗したとき,あるいはうまくいかなかったとき,それを自分の実力不足のせいにすると,心が痛む。

 心が痛まないようにするために,「悪いのは自分ではなくて,『あること』自体,あるいは他人がおかしいのだ」と責任転嫁,責任回避してしまうと,その人は完全な「負け組」になってしまう。

 好きになるときは長所ばかりを見て,ふられたら,短所ばかりを探す。そういう自分だけが傷つく話に,「重み」はない。

 しかし,『あること』が教育に関するもので,「負け組」が教師の場合,教師だけが「負け組」になるだけではすまないという問題がある。

 子どもたちが「負け組」に巻き込まれてしまうのである。

 「一斉授業は問題が多い」と批判する人は,

○教師ばかりが話したりまとめを黒板に書いたりしているだけで,子どもたちはただ聞いて黒板をノートに写しているだけである。

○教師はだれが何をどの程度理解しているか評価しようともせず,評価するつもりがないから,発言しようとしない子ども,考えようとしない子ども,寝ている子ども,塾の宿題をしている子どもがいる。

 などを「問題」として例示するのだろうが,これは100人くらいを対象とする大学の講義の話だろう。

 40人規模の授業では,そもそも「一斉授業」とは言っても,ペアワークやグループでの話し合い,発表,ワークシートなどをもとにした作業,自己評価,他者の主張の記録と評価などを行うことがある。

 だから「大学のような講義形式の一斉指導」をしているわけではない教師たちにとって,そもそも「アクティブ・ラーニング」の重要性や必要性が訴えられたのは大学においてのことであり,大学で一斉指導をしている人たちの多くは,「教員免許=教育や学習指導についての専門性を持っているという肩書き」がない人たちで,大学教員向けの「講義の仕方」の本まであることを知ると,「なるほどね」と大いに納得できるのだ。

 もちろんある一定の割合で,大学の講義形式の一斉指導を好む教師がいることも,間違いはなく,小→中→高校と校種が上がっていくにつれて,その割合は高くなっていく。

 講義一辺倒の授業をしてしまうのは,「先生らしさ」を勘違いしている教師の自己満足・自己陶酔を促す効果があるからであり,「手抜き」をしているように見せない効果もあるからである。

 ただ,大学の教員と同じように,講義一辺倒の授業から抜けだそうとするときに,一定の困難が教師たちに立ちはだかっている。たかだか3週間の教育実習で,教師もどきの授業をしただけで,教育効果が高い学習指導ができるわけではない。そもそも子どもたちの個性を知らない人間が子どもの前に立たされているのである。教材内容に関する知識や理解の欠如もすぐにばれてしまうし,思考を軸とする授業を受けたことがない教師たちにとっては,「何をどう考えさせたらよいのかわからない」という壁にぶち当たる(本当は,教育実習でこの壁と向き合わせる必要があるのだが・・・)。

 本当に手抜きで未熟な授業を展開していて,子どもがついてこれないとき,自分の問題を棚上げしてしまう「負け組」が,「一斉授業が悪い」という思考経路にはまる可能性を私は危惧している。

 「一斉指導」「一斉授業」というスタイルの価値を貶めることで,それができない「負け組」の教師たちが救われる環境が,一部の学校でできつつある。「負け組」による誤った選択から生まれる教育環境ほど,子どもたちにとって不幸なものはない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

アメリカと日本で同時に起こっていること

 トップが露骨な差別感情をむき出しにするからと言って,その国の国民全部が品位のない人たちばかりだとは限らない。ただ,人間が抱く嫌悪の感情というのは,特定の個人から,なぜだか同じ属性をもつ多数の人間に拡大していってしまう。人種差別と縁が切れないのに不思議と圧倒的パワーをもっていたアメリカという国の瓦解へのカウントダウンが始まっている気がする。

 「寛容」という言葉が辞書にないかのように思える自国第一主義の国の「同盟国」「友好国」「属国」である日本の未来も決して明るくない。

 アメリカで起こっていることが,しばらくしてから日本でも起こり出すという現象が,政治の世界でも見られるだろうか。

 モノ真似国家と揶揄された近代のはじめだが,「モノ真似以外」の部分が非常に分厚かったことは,なかなか実感しにくい。ただのモノ真似しかなかったら,根付くことがないのが「文化」というものである。

 さて,今,アメリカと日本で同時に起こっていることとは何だろう?

 少し先のことを考える必要性に気づかせてくれる人物は,意外と優秀な政治家なのかもしれない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

私は立派な非常勤講師と特別支援学級の子どもたちを見てきた

 学校の教師にとって,自分が週に十数時間程度担当している授業が,子どもの成長の役に立っている実感を得られるだけでなく,実際にすべての子どもがしっかりと実力をつけるという業績を残せることは,とても幸せなことですよね。しかし,残念ながら,成果をなかなか出せない教師や子どもがたくさんいます。

 勉強ができるのに,コミュニケーションが上手にとれない生徒がいるとします。

 こういう子どもを授業中に見ていて,教師として,どんな働きかけをしたいと願うでしょうか。

 勉強ができるのに,いじめを繰り返したり,いじめを見ても笑って見ないふりをしたりする生徒がいます。

 教師として,何が足りないと自覚すべきでしょうか?

 教材研究はたくさんできているのに,生徒との人間関係を築くことに失敗している教師が抱えている課題とは何でしょうか?
 
 授業の中で子どもを生き生きと動かせない教師は,行事を担当させても,部活動をもたせても,うまくいかないのです。

 それはなぜでしょうか?

 非常勤講師の先生方は,授業が「主たる業務」というより,ほとんど授業だけが業務です。非常勤講師として60歳まで学校でつとめる気力のある人はどれだけいるでしょうか。

 私が赴任した2校目の中学校には,放課後の部活動の指導にあたる教師がほとんどいませんでした。

 荒れがひどい子どもたちは,時間をもてあまして,次々に非行に走ります。

 校庭では,陸上部だけが活動していました。

 その指導にあたっていたのは,非常勤講師の方でした。

 当然,無給ですね。放課後すぐに開始しても,勤務時間には含まれませんから,完全なボランティアです。

 この部活動に参加していたのは,荒れた学校の中では真面目で成績のよい生徒ばかりでした。

 非常勤講師の方は,練習中,とてもよく生徒とコミュニケーションをとっていました。

 悩みごとの相談にも乗っていたようです。

 「この人が,本当の崩壊を崖っぷちで救っていたのだ」と思いました。

 陸上部に参加している特別支援学級の子どもたちの元気な姿にも励まされました。

 常勤の先生たちは,どんな毎日を送っていたのか。

 かなり早い時間から,職員室はがらんとして,すみの方にあったソファーでたむろしている中学生の人数の方が多い,という状態もありました。

 授業が成立せず,鬼ごっこで時間が過ぎて,大幅に進度が遅れていた前年度の借金を中3で取り返すのは大変なことでした。

 ソファーの撤去や自習の廃止(=時間割の入れ替え)など,2ヶ月くらい,教師はもちろん子どもの抵抗にもあいましたが,「正常化」がもたらす効果を信じることができたおかげで,学校も立ち直り,部活動もさかんになってきました。

 子どもが自らの意思に基づいて困難を乗り越えようとする活動の場面が与えられることで,学校の空気が一変します。

 学習の成績は,「あとからついてくるもの」でした。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「負け組」の逆襲~「学校は勉強するところであるべき」

 教育現場の現状を知るにつれて,わかってきたことがある。

 昔なら,「働き方改革」とか,「部活動の外部委託」の話など,鼻にもかけない教師たちが多かった。

 今では,声を上げられる教師が増えている。

 なぜだか,こうした現象は「負け組」の逆襲に見えてくる。

 「学校は,勉強するところであるべきだ」という,一見すると正しそうだが,多くの人が「それが何の役に立ったのか?」と反感も持っている言葉を,堂々と口に出せる環境になってきたことは,何を意味するのか?

 「学校は,勉強するところだ」という言葉を真に受けて,勉強ばかりしていた子どもたちは,

 成長して,教育公務員になれて,自分を「勝ち組」だと思っているのだろうか。

 実は,「学校生活を楽しんだ人たち」のことが,恨めしいのではないか・・・つまり,大人の言うことを聞いていた自分たちが,「負け組」だったことに気づいてしまったのではないかと思われる。

 教師になっても,自分が子どもたちのために役に立っているという気がしない。

 それこそが,自分がかつて「負け組」だったことの証明になってしまっているわけである。

 しかし,もう手遅れかも知れないが,「逆襲」する方法がある。

 それは,学校を本当に「勉強だけをするところ」にしてしまうという方法である。

 時代は,学校よりも塾の方を本当に自分に合った「勉強をするところ」にしてしまっているから,「負け組」の逆襲は,「完全敗北」への近道にしかならないのだが・・・。

 学校教育の息の根を止めるのが,不幸な学校生活を送った経験のある教師たちであった,という「史実」ができあがるのは,時間の問題かもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ 

小5の受験生の社会科勉強法

 中学受験用のカリキュラムだと,小5の1月で,歴史の学習が終わる。

 公立小学校のカリキュラムでは,小6で学習する範囲である。

 SAPIXの1月のテストの平均点を聞いて驚いた。

 社会科は,100点満点で30点程度。

 上位の子どもにたちに差をつけるためのテストを受けさせる塾である。

 こういう問題を解かされた子どもたちと,

 まだ全く歴史の学習をしていない子どもたちとの間に,どんな「格差」が生まれているのだろう?

 そもそも,中学校で学ぶレベルの歴史学習に,どんな意味があるのだろうか?

 SAPIXに通って授業を受けている子どもでも,大部分の子どもが理解できていない問題を出す意味は,どこにあるのだろうか?

 授業ノートも見せてもらったが,内容は「つまらない」の一言に尽きる。

 女子の平均点は20点代らしいが,それは無理もないだろう。

 まだ中学校の教科書を読んだ方が,「予習」にもなってよいかもしれない。

 さすがに「受験に出やすい内容」がしっかりと出ているプリントであるが,

 もし「教育的配慮」を進学先の中学校が考えるならば,もう少し出題する内容を検討するか,

 学習指導要領に示されていない内容を出題することをやめるとか,

 やるべきことがあるのではないか。

 「歯止め」は学習指導要領ではなく,「入試問題」にかけるべきだと思われる。

 勉強嫌いになってしまった「受験上がり」の子を「勉強好き」にする醍醐味も味わえるのであるが。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

税金が正しく納められない原因

 ネットニュースでは,今年の確定申告では,一定の混乱が見られるだろうという予想が書かれている。

 原因は,国税庁長官にあるという。

 野党の代表が「おかしな説明をしていた人」と呼び,「確定申告前にけじめをつけるべき」と主張している。

 もし本当に確定申告で混乱が発生するとしたら,原因はどこにあると説明するべきなのか。

 担任の先生がある生徒に「死ね」と発言したとする。

 クラスの生徒が,別の弱い生徒に「死ね」と発言し,他の生徒や教師から注意を受けたとき,

 「先生も言ってるんだから,いいだろう」と発言の「正当性」を主張したとしたら,どうか。

 こういうときに,「道徳教育」の質を問う,ということも可能だろうが,

 今の時代のように教員が次々に犯罪行為をしたり,子どもにバカにされたりしているときに,

 「道徳教育」そのものが本当に成り立っているのか,という「前提」を問う必要もあるだろう。

 日本の教育の質がそこまで低下し,

 「許せない国税庁長官がいたら,税金などいくらでもごまかしてかまわない」何ていう価値観が広がるようだったら,いつどこでどのように立て直すことができるのだろう。

 今の学校教育を立て直しても,効果ができるのは・・・少なくとも確定申告を行う年齢まで待つとしたら,かなりの年数を経てからのことである。

 「あいつが悪いから,オレも悪いことをしてもいい」という子どもレベルの判断基準でも,

 害が広く他人に及ばない場合もあろうが,税金に関して言えば,影響力は甚大である。

 だからそもそもそういう事態を招かないように政治をコントロールすべきだ,という考え方もできるだろう。

 確定申告,どうなるだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

AとBなら,Bの方がまし,という判断で道を誤った人たち

 教室での学習のリーダーは,(教科)担任の教員です。

 このリーダーが選択を誤ると,被害を受けるのはもちろん教室の子どもたちです。

 じっくり課題に取り込ませるにしろ,多くの事実を語りながら,その関係性に気づかせるにしろ,だれかが調べたことを発表させ,討論させるにしろ,学習では一面的な見方・考え方にとらわれない思考に基づく理解が必要で,わかったことを表現させることによって各自の理解度や思考のあり方を評価することが可能となります。リーダーにとって必要最低限の仕事は,評価の材料=作品を作らせることです。

 その具体的な作品をもとにして,評価の練習をさせてくれる教員養成系大学はどれくらいあるでしょうか。 

 大学の教科教育という専門分野というか専門的な領域がなかなか現場の役に立っていないためか,その存在意義を深く感じられている教師はごくごく少数で,やる気のある人たちは,評判の高い教師に学ぼうとその現場に足を運びます。一部の学校で行われている研究発表のように,優れた大学の先生の話も聞ける場合は一石二鳥なのですが,話が難しすぎると,「やはり子ども相手に実践しているわけではない人は,ダメだね」という印象で終わってしまう。もったいないことです。

 大学の教育学部には,教科教育の専門ではない人もいて当然です。今,どちらかというとこっちの方が現場のニーズがあるらしいことが,さらに残念です。

 教科教育ではない別の分野から,AよりBの方がまし,という判断?から,一部の「できる」子どもを利用する授業のやり方を推奨している人が登場したのは何年前だったのでしょうか。

 子どもを利用する教師の姿は我慢できるとしても,「損得」という価値観で子どもを誘導したり,将来はこんなに悲惨なものだと恫喝したりする神経には,強烈な違和感を覚えます。

 学生のレベルに合わない欧米の理論を押しつけたり,自分が実践したわけでもない方法を押しつけたりする方がまだましのような気もします。

 利用された子どもたちの姿をネタにして稼ごうとする人たちは,何か大切なものを見失っていないでしょうか。

 歴史上では,AとBなら,Bの方がまし,という判断で道を誤った人たちが本当にたくさんいます。

 どれくらいたって「誤りでした」と認めてくれるのかわかりませんが,どうやったら被害を最小限に食い止めることができるかを考えています。

 教師は,失敗から多くのことを学ぶことができますが,失敗する意味もない失敗というものがあります。

 だれかいい加減な未来予測に惑わされないまともな人が1人でもいれば,子どもは救われるのですが。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

部活動の扱いの迷走~学習指導要領総則編から~

 まず,現行の学習指導要領総則編から,「部活動の意義と留意点等」を確認しておく。

第5節 教育課程実施上の配慮事項 13 部活動の意義と留意点等

 (13) 生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,地域や学校の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。

 実は,平成10年版では,クラブ活動との関連で言及がなされていた記述がなくなっていた「部活動」である。

 平成20年版では,上記にように示された。

 しかし,平成29年版=次期学習指導要領では,

 「教育課程外の学校教育活動と教育課程との関連」という項目の中でふれられることになった。

教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。特に,生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする。

 現行でも次期学習指導要領でも,部活動の「完全外部委託」があり得ないことは明らかである。

 実際に,地域のテニススクールに通っている小中学生は多いと思われるが,学習塾と同じで,子どもが勝手に通っているだけで,「学校との連携」があるわけではない。下手に商業スクールが学校に入ってくれば,「勧誘」が進められることが容易に予想できる。

 さて,解説の文章に目を向けると,部活動の意義(このタイトルは消えたが)が現行よりも詳しく示されている。

中学生の時期は,生徒自身の興味・関心に応じて,教育課程外の学校教育活動や地域の教育活動など,生徒による自主的・自発的な活動が多様化していく段階にある。少子化や核家族化が進む中にあって,中学生が学校外の様々な活動に参加することは,ともすれば学校生活にとどまりがちな生徒の生活の場を地域社会に広げ,幅広い視野に立って自らのキャリア形成を考える機会となることも期待される。このような教育課程外の様々な教育活動を教育課程と関連付けることは,生徒が多様な学びや経験をする場や自らの興味・関心を深く追究する機会などの充実につながる

 特に,学校教育の一環として行われる部活動は,異年齢との交流の中で,生徒同士や教員と生徒等の人間関係の構築を図ったり,生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなど,その教育的意義が高いことも指摘されている。

 そうした教育的意義が部活動の充実の中のみで図られるのではなく,例えば,運動部の活動において保健体育科の指導との関連を図り,競技を「すること」のみならず,「みる,支える,知る」といった視点からスポーツに関する科学的知見やスポーツとの多様な関わり方及びスポーツがもつ様々な良さを実感しながら,自己の適性等に応じて,生涯にわたるスポーツとの豊かな関わり方を学ぶなど,教育課程外で行われる部活動と教育課程内の活動との関連を図る中で,その教育効果が発揮されることが重要である。

 下線部に注目しながら,教育課程全体との関連で「部活動」の意義を簡単に述べるとすると,「主体的・対話的・多様な人間関係の中で・深い学びができる」場である。

 「部活動の指導ができない」と言っている教員がいたとしたら,人事考課に直接影響することになる。

 なお,次期学習指導要領解説編では,「部活動」の課題を棚上げしているわけではない。

③ 一定規模の地域単位で運営を支える体制を構築していくことが長期的には不可欠であることから,設置者等と連携しながら,学校や地域の実態に応じ,教員の勤務負担軽減の観点も考慮しつつ,部活動指導員等のスポーツや文化及び科学等にわたる指導者や地域の人々の協力,体育館や公民館などの社会教育施設や地域のスポーツクラブといった社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うこと,をそれぞれ規定している。

 各学校が部活動を実施するに当たっては,本項を踏まえ,生徒が参加しやすいように実施形態などを工夫するとともに,生徒の生活全体を見渡して休養日や活動時間を適切に設定するなど生徒のバランスのとれた生活や成長に配慮することが必要である。また,文部科学省が実施した教員の勤務実態調査の結果では,中学校教諭の部活動に係る土日の活動時間が長時間勤務の要因の一つとなっており,その適切な実施の在り方を検討していく必要がある。なお,先述の教員勤務実態調査の結果を踏まえ,平成 29 年6月 22 日に文部科学大臣が中央審議会に教員の働き方改革に向けた総合的な方策の検討について諮問した。

 さらに,スポーツ庁では運動部活動の在り方に関する総合的なガイドライン作成の検討を行っているところであり,こうした議論についても注視する必要がある。

 ガイドライン作成が困難を極めることが想像できるのは,「部活動」と一言で表現しても,スポーツの種類によって全く内実が異なるからである。それでも,「これ以上はやり過ぎ」というラインは引くべきだろう。

 先に述べたように,私は土日の練習試合をほとんど実施しなかった。自分が草野球をやっていたからである。

 子どもたちは,自主的に地域の体育館に集まって活動をしていたらしい。

 ただ,体育館で怪我をした場合,学校が責任をとれなかったのは気の毒のような気もする。

 まずは「実態把握」が欠かせない,ということだろうか。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

部活動の思い出語り

 部活動と一言で表現しても,その内実は千差万別。

 運動部で言えば,強いか弱いか(強くしようとしているか),

 吹奏楽部などのコンクールがある部活動なら,賞をねらっているかどうかでも,中身は全く異なったものかもしれない。

 指導者が名を知られている人がどうか,生徒のリーダーシップが発揮できる学校かどうか,

 保護者がどれくらい熱心か,などなど,同じ自治体にある学校を見渡しても,全く様相が異なっていたりする。

 私の初任校は,月曜日の1時間目の道徳の時間が,全校の朝礼が長引き,部活動の表彰で終わってしまうことがあるほどの「部活学校」だった。表彰状やカップの置き場に苦労するという有様で,区の優勝程度だと,教科の準備室に無造作に放置されていたりする。この学校のすごいところは,たとえばバスケットボール部は週に2回しか体育館が使えない(うち1回は半面のみ)のに,ブロック大会でも優勝ができるチームがつくれるところにあった。しかも,私は休日に練習試合を入れないため,もし強豪校並みに強いチームと練習試合を重ねていたら,東京都や関東の大会も狙えたかもしれない。・・・が,顧問の私が気むずかしかったために,ミニバスで技術だけあるような選手はレギュラーにはなれなかった。

 狭いグラウンドをシェアしてノック練習をしている野球部を横目で見ながら,バスケット部はひたすら走らされていた。「スタミナだけは,どんなチームにも負けない」というのがスローガンだったが,よく選手たちはやめずについてきたものである。数年おきに学年同窓会で集まるたびに,感謝される言葉は「あのときに鍛えられた精神力があるおかげで今がある」という,漫画のような世界にいるのである。

 私は大学で野球部に所属していたから,野球部を任されるのが当然,と思い上がっていたが,結局,1校目では野球部の顧問にはなれなかった。絶対に顧問を譲らない,頑固な先生がいたのである。

 私のような人間が語る「部活動」など,何の参考にもならないだろう。

 どこにでもあるような話でもあるし,どこにもない話でもある。

 「絶対に恨んでいる子どもたちがたくさんいる」という後悔しかないような指導をしてしまったが,それはもう取り返しがつかない。私に謝らせるために,毎回呼んでいるようなものだろう,と思っている。

 教え子たちには,卒業してからも教えられることが多い。

 私は,期待をかける生徒と,そうではない生徒がいた。

 しかしなぜか,期待をかけていなかった(と思われる)生徒たちが,よく私に感謝の言葉を述べてくれる。

 その後の意外な成長や活躍に,本当に意外だから驚かされる。

 教育というのは,狙い通りにはいかないものである。自分が決めゼリフを吐いた後に,しっかりとその言葉を受け止めてほしい生徒はすぐに忘れてしまい,あまり気にかけていなかった生徒が聞いていて覚えてくれるものだと思い知らされる。そのとき「本気を出している」ように見えなかった生徒の方が,実は成長しやすかった,なんていう「教訓」は,普通の教師生活にも役に立っている。

 教員7年目の2校目で初めて野球部を持ったときは,嬉しかったが,部活動に熱を入れる余裕がない荒れた中学校だった。幸いにも,2年目に部活動ができる学校に変えることができたが,そのために小学校6年生たちをグラウンドに呼んで一緒に野球をしたりした。ほぼ全員背が低くて,明らかに他校より体格が劣っているチームだったが,強豪校を苦しませることがあった。それでも,高校や大学の野球の世界と,中学校の部活動という教育の場には天と地ほどの違いがあることで,自分の方が苦しまされた。休日に練習試合を入れないという方針は同じだったが,ゲームで養うべき勘が野球には多すぎた(おそらくバスケットボールでも同じだったろうが,強いチームだと,大会の試合を消化している過程でその勘は磨かれていった)。練習ではしないミスが,試合で出てしまう。

 練習試合を休日に入れるべきかどうか。自分は入れなかったが,そのために「勝つ」という経験ができずにもったいない思いをする子どもたちがいたことは,ほぼ確かなことである。

 では,練習試合だけ,だれかに引率と指導を頼めたら,どうか。気になってしまって,結局,試合に行ってしまっただろう(休日は,自分が草野球をするために練習試合を入れなかった)。

 私からすれば,部活動の外部委託は論外であるのだが,たとえばいいチームを育てた顧問が異動し,次の持ち手がいないために廃部になったりする場合は,外部委託の制度があるのなら,利用させてあげたいと思う。

 ただ,顧問が交代したとたんに「チーム」が実質的に死滅してしまう事態も起こりうる。
 
 部活動というのは,それだけ「繊細」なものである。

 教育はもともと「繊細」なものなのだが,「お前たちが大変なら,金を使って助けてやるよ」と言ってくるような無神経さと同居できる教師とできない教師がいることは理解しておいてもらいたい。

*********************

 あるブログで,「毎年必ず3年生をレギュラーから外す」という指導法への疑念が語られていた。

 私は,これを読んで,「毎年必ず2年生をレギュラーに入れておく」という方針のことかと予想した。

 特に大きな大会への出場経験は,次のチームの柱となる資質を育ててくれる可能性がある。

 もちろん,3年生の代わりにレギュラーになる2年生の実力が確かなものである必要はある。

 下手な下級生を出して試合に負けては元も子もないのである。

 どうでもいい話だが,私も都大会の最終回で,3年生の代わりに2年生を代打に送った。

 センター前にヒットを打って,3年生のためにチャンスを作ってくれた。

 都大会での経験や活躍ができたことで,この2年生は次の代の中心選手となった。

 部活動の大会には,「次の代につなぐための采配」というものがあり得ることを記しておいた。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

«教師が全員の前では語れない言葉

2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より