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幼稚園児の喧嘩

 今,アメリカと北朝鮮のトップがしているのは,幼稚園児のような喧嘩であるという指摘がある。

 幼稚園児のような喧嘩ではあるが,喧嘩であることは間違いない。

 それも,国の威信をかけた喧嘩である。

 幼稚園児の実際の喧嘩が,「言い合い」「ののしり合い」で終わることはないだろう。

 物理的な力と力のぶつかり合いがあって,何らかの決着がついて終わる。

 延々と悪口の言い合いをしていてくれるだけなら,周囲に実害は及ばない。

 相手の挑発行為を「史上最悪」と読んだ側も,「史上初」の形式で見解を公開した。

 最終的な勝利がどちらに転ぶか,多くの人たちが同じ答えを信じているが,

 歴史をふり返れば,最初の勝利は後で滅んだ方にもたらされることが多い。

 昔とは違って,「最初の勝利」と「最後の勝利」の距離が縮まっている可能性が高いことを忘れずにいたい。

 喧嘩の仲裁ができるのは誰だろう。

 対岸の火事として眺めていられる国が仲裁役としてふさわしいのだろうか。

 安倍首相がアメリカとの関係について語っている「完全に」とか「100%」という言葉には,正直言って違和感がある。
 
 一枚岩であることを強調する関係が崩れ始めるときを,敵側は決して見逃さないだろう。

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道徳教育をまともにやると,教員の立場がなくなる

 道徳教育は,手を抜いてやった方がよい,というのは教員としての経験則である。

 もし私が道徳教育を真剣にやったら,いくつか好ましくない問題が発生する。

 子どもたちは,「大人(教員)こそが道徳的でない」ことをよく知っている。

 差別はいけない,と言っている大人(教員)は,平気で差別をしているではないか。

 「~のくせに」という言葉は,差別意識の表れである。

 「子どものくせに」「中学生のくせに」「成績が悪いくせに」「よく遅刻するくせに」「忘れ物をよくするくせに」「授業中,寝ているくせに」などといった感情を,子どもはとても敏感に教員から読み取っている。

 子どもたちができていないことの大部分は,大人(教員)自身もできていない。

 自分よりも道徳的な課題を抱えているのは,「~~先生」だな,というのがわかってしまう。

 最も効果的な道徳教育は,子どもが教師の立場になり,教師たちが子どもの座席に座って「餌食」になることだろう。

 「あなたにとっての崇高な理想とは何ですか?」

 大人(教員)として,どういう答えを先生(子ども)にお返しすることができるだろう。

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9月22日 犠牲にするものが変化した

 今年の横浜市のカーフリーデーは秋分の日とされているが,フランスでは毎年9月22日と決まっているらしい。

 中国の北京などのように,ナンバープレートの数字で車を利用できる曜日を制限するのも知恵の一つかもしれないが,環境問題に取り組む姿勢をどのような形で示すかは,それぞれの地域の工夫次第だろう。

 日本が「公害大国」と呼ばれたとき,いくつかの条件が重なって都市の生活環境は悪化してしまった。

 ○政府(行政)は生活環境よりも経済成長を優先させる政策をとっていた。

 ○環境への負荷が大きい重化学工業が急発展しており,しかも人口が多い臨海部の地域に工場が集中していった。

 ○企業は利益を最優先し,環境悪化を防ぐための取り組みをしなかった。

 ○高速道路などが整備され,鉄道に加えて自動車の利用が増えていった。

 ○大量消費・大量廃棄の時代になっていた。

 人々が「我慢するもの」が変化してしまった様子を,私は子ども時代に見てきたように思う。

 「便利」であることの方が,「不自由」であることより価値が高い。

 しかし,犠牲にするのは「欲」という精神的なものではなく,「健康な体」という実体を伴うものになった。

 そういう時期を過ごした人でも,平均寿命はのびているのだから,「豊かさ」信仰はなくなることはないだろう。

 環境への関心を,全世代が高められるような工夫はできないだろうか。

 肉体的な苦痛には耐えられるが,精神的な苦痛に耐えられなくなった人間が行き着き先はどんな世界だろう。

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9月21日 国際平和デーと国連総会での既視感

 国際連盟で演説を終えた松岡洋右が議場から去る様子を,授業では動画で生徒に見せていた。

 トランプ大統領の演説が始まる前(始まってから?)に,北朝鮮の国連大使が議場を出て行った様子が報道された。

 国際的な機関に背を向けた国に待っているものは何だろう。

 トランプ大統領の演説には,「おまけ」がついていた。

 北朝鮮の拉致問題にふれてくれたことを,日本側はとても歓迎しているようだ。

 「ロケットマン」と揶揄された側が,次に起こす行動は何だろう。
 
 私が読んだ新聞はどれも扱いが小さかった(1面ではふれていないものもあった)が,「完全な破壊」という言葉が見出しに使われていたのは日本経済新聞である。ヨーロッパの国々が対話に動き出すとの記事もあった。

 9月21日は国際平和デー。「世界の停戦と非暴力の日」に,当てつけのように行動を起こしてくるかもしれない。

 子どもたちにとっても,ニュースに関心が高まるきっかけとなった。

 不倫だの何だのというニュースより,大事な日本と世界の未来の話に耳を傾けられる大人が増えてほしい。

 子どもは大人の背中を見て育つ。

 北朝鮮の国連大使が置かれている立場に心を寄せる余裕もほしい。

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9月20日 「空の日」に「ご都合主義」を考える

 なぜ9月20日が「空の日」になったのかを調べてみると,12月19日でもよかったはず,という出来事が見つかる。

 しかし,風の強い冬よりも,彼岸前のよい時期が選ばれたようである。

 こういうのを「ご都合主義」と呼んでいいのかどうかわからないが,最初に飛行した人からすれば,「おいしいところを持って行かれた」というひがみを覚えるかもしれない。

 土日が寒くなったからかどうかわからないが,コンビニでは「おでん」ののぼりを掲げて集客に励もうとしている。

 ここ2日間は気温も高くなったから,たいして売れていないのではないかと心配になるが,

 彼岸も過ぎれば「待ち遠しさ」に負けて秋のおでんに消費者は飛びつくのだろうか。

 季節を先取りして,というより,季節感を失わせて,消費意欲を高めさせるというのは,古典的な広告手法である。

 消費者は,生産・販売側の都合に合わせてマインドを左右される。

 空に浮かぶ雲のように,ただぼんやり浮いているだけか,風で流されやすいのが消費者だということか。

 空を見上げて思い浮かぶものが,近くの国が飛ばすミサイルだなんて物騒な世の中である。

 性根の座った国が生き残るのか,指導者がころころ替わる「ご都合主義」の国が生き残るのか。

 答えを教えてくれるのは,「天」か,「地」か,「人」か。

 どこをとっても予断を許さない状況にある。

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9月19日 食育の日と給食大量食べ残し問題

 毎月19日は,食育基本法に基づく食育基本計画で定められた「食育の日」である。

 報道では,ある自治体での給食の大量食べ残し問題が取り上げられているが,「給食」制度には費用の問題も含めて検討すべきことがたくさんある。

 それよりも,そもそも「食育」なるものは,道徳教育と同じように,学校だけでどうにかなるようなものではない。

 朝ご飯だけでなく,晩ご飯も満足に食べられない子どもはたくさんいる。

 休日など,日本でも外食がもっと一般化すればよいのかもしれないが,

 栄養面から考えると何とも言えない。

 「食」にかける時間を十分にとれない学校と家庭。

 働き方改革よりも,もっと早く取り組むべき課題なのかもしれない。

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真っ赤な甲子園球場

 広島が2年連続でリーグ優勝を甲子園球場で決めた。

 練習量で他球団をしのぐとされる若手中心の広島には,3連覇,4連覇の可能性もあると考えられる。

 絶対的なエースが退団しても,強さに変わりはなかった。

 中心選手が怪我で離脱しても,むしろチームは強くなっていった。

 敵地での胴上げだからやや控えめな感じの選手たちを,3塁側からレフトスタンドを埋め尽くしたファンは大喜びで見つめていた。

 阪神ファンからは,ライトスタンドや1塁側に広島のユニフォームを着て座っている「勘違いファン」に憤りを感じている,とか,球場近くの電車では,敵のユニフォームを脱ぐのが礼儀だ,という指摘もあるようだが,観戦中は敵同士でも,勝負がついた後は相手への敬意を忘れない,というスポーツマンシップを大切にしていただきたい。

 多くのプロ野球選手にとって,甲子園球場は特別な場所である。

 本拠地とはまた別の嬉しさがあると思われる。

 クライマックスシリーズをまた楽しみに待っていたい。

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9月18日 複雑な関係を理解する意欲を高める教材

 9月18日というと,すぐに思い浮かべるのは柳条湖事件である。

 南満州鉄道の線路爆破を,関東軍は中国軍による犯行と発表した。

 関東軍の謀略だったこの爆破の規模は,ごくごく小さなものだったらしい。

 当初の実行予定は9月27日だったが,情報がもれ,上層部からの牽制も受けていたので,

 作戦遂行を早めたということである。 

 歴史の授業では,当時,中国と満州の貿易がさかんになっていた資料も提示する。

 歴史の学習では,早いうちから,だれがだれと戦おうとして,だれとだれが止めようとしていたのかを認識させるようにしておきたい。
 
 国と国が戦っているわけではない戦争もある,という概念が必要である。

 武力で得た権益は,武力で守らなければならないという当時の「常識」も知っておくべきだろう。

 事件後,すぐに国際連盟に提訴されたが,重要案件として扱われなかったらしい。

 蔣介石は,中国共産党と戦っていた。日本政府は不拡大方針を発表した。

 人と人との関係は,非常に複雑である。

 多様性が高ければ,それで争いが起こらなくなるわけではない。

 多様性を認める寛容な心が育まれていなければならない。

 ある人は,ある人を悪人だと主張している。その根拠はこうである。

 一方,悪人だと主張されている人は,ある人の方が悪いと主張している。その根拠はこうである。

 第三者から見ると,こっちの方が悪い。その根拠はこうである。

 学校では,日常生活の中で,最後に「寛容」を得るための壮絶な「対立」の繰り返しが経験できる。

 もちろん,そこで「体罰」や「暴力」が入ってくると,「悪さ」だけが増幅して,「寛容の精神」からどんどん離れていってしまう。

 複雑な人間社会の様々な関係性を理解するために,シリア問題などもよい教材になるだろう。


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リーダーシップの意味がわからない人たちに翻弄されるだけの校長たち

 自らリーダーになろうとする人が真のリーダーになれるわけではない,

 などと言われると,管理職試験を受けないと管理職にはなれない教員たちの中からは,

 いつまでたってもリーダーは現れない。

 学校のリーダーなどと言われても,予算をもらえるわけでも自分がいいと思う人材を選べるわけでもないから,そもそもリーダーシップなど必要ない,と考えることもできる。

 教育委員会の立場から学校を観察していると,各学校にはゴリラ型のリーダーやチンパンジー型のリーダーがいることがよくわかった。

 制度上,日本にはチンパンジー型の管理職しかいないことになる。

 ゴリラ研究の世界的権威である山極寿一先生によれば,ゴリラ社会のリーダーには,他者を惹きつける魅力と,他者を許容する魅力が必要で,自分からなる,というよりも,仲間から引き上げられてなるものだそうだ。

 だから,「立候補」ではなく「推薦」という形で選ばれるのがゴリラ型リーダーということになる。

 もちろん,「立候補」するからには,よきリーダーになろうとする主体性や積極性,意欲をもっており,しかも目指すリーダー像がゴリラ型であるという場合もあるだろう。

 ただ,「それまでどのような行動をとってきたか」「どのような実績を積み重ねてきたか」の方が,その場限りかもしれない,あるいは,なってしまった時点で失われる「やる気」よりも重要であることは,だれでもわかることだろう。

 リーダーは,人の評価が適切にできる人でないといけない。

 だれにどのような適性があり,どのような能力が優れていて,どういうタイプのメンバーと一緒にいると力が発揮できるのか。

 たとえば,学年という「運命共同体」を編成するときなどは,「人」がわかっていなければ,足し算の何倍にもなるはずのパワーがマイナスに転じてしまうかもしれないのだ。

 話しやすい人とばかり話すような人,人の好き嫌いが激しい人は,リーダーには不向きである。

 対話を通じて多様性を受け入れ,どんな事態にも適切に対応できる能力は,どこで育まれるのだろう。教員になってからの話で言えば,学年経営を経験するのがとてもよい機会だろう。

 事務仕事しかない役所の人間には,教務主任とか生活指導主任といった「分掌」の長が偉い人(=主幹教諭)で,学年主任は「係長」程度にしか感じられていないのだろうと思われる。

 組織を考える場合に,そこが最大のボタンのかけ違いなのだろう。

 わずか十数名しか教員がいない小規模校でも,数十名近く教員がいる学校でも,同じような組織で運営させていることに,だれも疑問を感じないとしたら,企業ならとっくの昔に潰れて終わっているはずである。

 校長に自分たちが想像もできない「リーダーシップ」を押しつけ,責任を押しつけているだけでヒト・モノ・カネを与えず,ろくでもない情報=命令だけを垂れ流している。

 教員仲間の声は聞くが,生徒の声は一切きかないという,企業でたとえれば,

 上司の声や「お友達」の声は聞くが,顧客の声は聞かないというタイプの社会人失格者がときどき教育現場にやってくる。

 こういう人を採用する教育委員会という組織が癌なんだと反発したい管理職も非常に多いのだが,ゴリラ型リーダーが存在しない役所に,人を見る目を期待することは無駄な話である。

 そもそもこうした致命的な環境化の学校におけるリーダーシップが育ちにくくなっている最大かつ改善困難な原因は,「小規模化」である。

 公立小中学校の「小規模化」が,リーダーの成長を阻害する最大かつ最悪の条件になっている。

 リーダーシップを身につける機会がなかった教員たちが,管理職になろうとしないのは自然のことである。

 「組織」や「リーダーシップ」を育てる能力は,学校や学年の行事運営でも培うことができる。

 しかし,特別活動の時間は週1時間しかないし,授業カットがしにくくなっているし,そもそも行事自体がカットされているから,子どもからも教師からもリーダーの資質を高める機会が奪われているのも痛い。

 自らリーダーシップの育成を放棄している学校に期待されるのは,常に上司の言いなりになって不満をもらさず働き続ける人間たちの大量生産である。

 それがわかっていながら校長職についている人たちで,元気そうな人がいないのは,気の毒だが当然のことだろう。

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大学の教員にとっての研究と中学校の教員にとっての教育

 私が勤務している学校でも,ついに「教育実習生を午後○時以降まで残してはならない」という指示がおりてきました。

 これでもはや学校の存在意義の一つが完全に否定されたことが実感できました。

 私は何も,「ブラックに耐えられる人間を教員にしたい」と言っているわけではありません。

 単純な事務仕事を延々とやっていて,子どもを放っておいて文句ばっかり言う人間と,

 単純な事務仕事をさっさと終わらせて,より子どものためになる時間を楽しく過ごしている人間を比べて,

 どちらが教員に向いているかは言うまでもないでしょう。

 大学の教員にとっての研究とは何でしょうか。

 読書編で紹介した本の中で,鷲田清一学長は以下のような研究者像を「理想」と考えているようですが,これが「時代おくれ」というか,「今,大学では求められていない人物像」であるのが残念でなりません。

>今すぐ役に立つようなことや日常生活とはおよそ関係のないことを必死になって研究している。それも私利私欲は一切抜きにしてです。傍から見れば何の役に立つのかさっぱりわからないような研究に,どうして正月も盆もないほど必死に取り組めるんだろう,そう思わせてこそ本物です。

 私が考えている「理想」の教師像は,これよりはるかに「日常生活」べったりの仕事をする人間ですが,「私利私欲は一切抜き」とか「正月も盆もない」という点が共通しています。

 いかに教員に楽をさせてあげられるかを一生懸命に研究している大学のセンセイがいます。

 よく考えてみたら,簡単な話でした。

 自分が育てた人間が通用するのは,自分が考えたイメージに沿った学校しかないのです。

 ただ,残念ながら,そんな学校は今の日本には存在しません。

 重ねて残念ながら,そういう学校ができる土台が固められてきています。
 
 「有識者会議」の参加者の「見識」の質を証明するものは何でしょう。

 「見識」ではなくて,どれくらい「自分の見識は置いておき,会議のゴールに向けての忖度ができるか」が参加者に求められている資質・能力であるとしか思えません。

 大学の教員にとっての研究と,中学校の教員にとっての教育の接点はどこにあるのでしょう。

 空間上,交わることのない,「ねじれ」の位置にある両者を結びつける方法はあるのでしょうか。

 この結びつきをブロックするための制度がある限り,いつまでたっても学習指導要領の失敗は繰り返されるのでしょう。

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9月17日 キュートな先生

 異なる言語を使う人間同士のコミュニケーションは難しい。

 日本語の「かわいい」という,意味の定義自体が非常に困難だが共感的理解を伝えやすい言葉は,そもそも翻訳が不可能であるから世界共通語となる。

 「一つの英単語」と「一つの日本語」が一対一対応にはならないことを,英語の習い始めにまずは徹底的に理解させてほしいのだが,「cute」って「かわいい」って意味でしょう,単純に決めつけてしまわれると,「キュートな先生」が「キュート」ではなくなってしまう。

 子どもに「お利口さん」がいて,「おばかさん」がいるのと同じように,教師たちでも同じような分類ができる。

 「おばかさん」は愛されて,「お利口さん」が愛されなかったりするのも同じである。

 言葉以外で伝わりやすいものがこの日本にはたくさんあることを知らないと,

 「いじめ」対応が難しいことがわからない。

 言葉以外で伝わりやすいものがたくさんあることを知っているからこそ,

 「表情」では伝わらないようにする能力を高めた日本の人々のことがわからないと,

 「こういう表情をすればこうなりますよ」なんて教えてはならないことがわからない。

 教育の世界で,このことがわかっているかどうかは,非常に重要なことである。

 日本ではなく,アメリカで社会科教育を実践した方がいい人が,大学にたいさん生息していないだろうか。

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9月16日 子どもがテレビを見なくなった

 9月16日は,ハイビジョンの日とされている。9:16という比率は,昔のテレビ世代の人にとっては「横長」の印象がまだ強いかもしれない。

 いずれ,テレビ局は総倒れになっていくだろう・・・という予想は,かなり以前からあったものの,「いつかはくる大地震」と同じように,「来ないことを祈る」ことばかりで「対応策」に欠けている気がする。

 我が家で起こっている変化が,特殊なものか,一般的なものかはわからないが,テレビがついているのは,目覚ましがわりと(「めざましテレビ」を見ているわけではない),通学・出勤前の時刻をみるとき(壁掛け時計もあるのだが・・・)くらいで,夜はテレビの電源をつけなかった,という日が増えてきているようである。

 その大きな理由は,子どもがテレビを見なくなったことによる。

 勉強をしてくれているのかと思えば,決してそうではなく,大学生も小学生もユーチューブを見ている。

 この記事を書いたのは,ネットニュースで「NHK植木等ドラマに抱く残念な違和感」という記事があり,昔のテレビマン活気が今はユーチューバーにある,という読みから,植木等役をヒカキンにして,テレビに「お客」を引き寄せる効果を狙うべきだった,という考え方ができることを知ったからである。

 ヒカキンはCMに登場し,三浦選手(カズ)から「敬意」を表明されている。

 電波で受信しなくても,つまり,「放送」ではなくても,ネットでつながっていれば好きなときに好きなコンテンツが手に入る時代に,「決められた時間の枠内で決められたことしかできない」業態はいかにも不利であるような気がする。

 そして,コンテンツの質があまり問われなくなったのは,視聴率を稼ぐテレビ番組の質が低下したことも大きな原因であるような気がする。

 ユーチューバーの躍進の土台をつくったのは,テレビである,という仮説を証明できる番組を思い浮かべることができる人は,まだテレビをよく見ている人かもしれない。


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9月15日 老人を働かせるための法律がある?

 「敬老の日」が設定された起源を知ることは,農業を知ることや,聖徳太子(厩戸王)の功績を知ることにもつながる。

 ハッピーマンデー制度の導入で,「敬老の日」が固定されなくなることへの反対意見もあったらしい。

 だから,9月15日が「老人の日」とされたのだが,「老人」というナマの言葉は,定義が65歳以上であるために感覚的に受け入れにくいなどの問題がある一方で,学校が休みにならない日が多くなるので,道徳教育のテーマとして授業で扱えるようになったという利点もある。

 ただ,「そんな歳なのに,現役で頑張っていることが素晴らしい」などといった,将来の年金政策の改定を視野に入れた「策略」も使いやすくなったという危惧もある。

 農閑期に疲れを癒し,労働に感謝するといった意味で,「勤労感謝の日」を増やすという構想をもつことは難しいだろうか。

 年に何回か,「勤労感謝の日」が来る。休日にするのではなくて,たとえば「パート労働者に関する日」は,特別ボーナスを支給する。

 パート労働者は,「休み」が増えてしまうと,単純に収入が減ってしまうわけだから,何でもかんでも「休日」にすればよい,というわけではない。

 勤め人が休みのときは,逆にパート労働者が休めない,という問題もある。

 祝日に仕事を休ませて,まとめてお金を使わせるという発想ではなく,普段からいつでも買い物ができるような政策の方が実利的ではないか。

 老人福祉法では,第3条に注目したい。

 老人が「働く機会」を得て,仕事をしながら収入をもらって感謝する,という時代が来るのだろうか・・・。

 ********************

第2条  
 老人は,多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として,かつ,豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに,生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする。

第3条  老人は,老齢に伴つて生ずる心身の変化を自覚して,常に心身の健康を保持し,又は,その知識と経験を活用して,社会的活動に参加するように努めるものとする。
 2  老人は,その希望と能力とに応じ,適当な仕事に従事する機会その他社会的活動に参加する機会を与えられるものとする。

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ダメな教育理念の「ダメ押し」

 ダメな教育はその理念を理解してもらおうと余計なたとえを使ってしまうから,その理念の「ダメさ」が露呈してしまう。

 教育を甘く見ている人間は,「病気」が薬や絆創膏で治ると信じている。

 病気を甘く見ている人間に,まともな教育ができるわけがない。

 健康な体は,薬や絆創膏でできるわけではない。

 ただ学力調査の結果がよくなるから,ある教育方法を取り入れる,というのも論外だが,

 「2割の健康体が8割の病人を助ける」的な発想は「8割」の側をバカにしすぎていることに気づいてほしい。

 「2割」の側を利用する,という発想よりも,「8割」の側に「2割」の側をたたきつぶさせる,という発想の方が「教育的」ではないだろうか。

 もちろん,教師にとって「2割」も「8割」も敵ではない。それに,どちらも「手下」でもない。 

 健康寿命が長い長野県に受け入れられるかどうかが,よい目印になるかもしれない。


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9月14日 食いしばる力をつける教育

 我慢させる,辛抱させる,耐えさせるなどという「教育」などあるのか?というのが今の世の中だろう。

 精神的な苦痛を子どもが感じることをすべてさけるような環境・・・つまり,家庭のような場所に学校をしてしまったら,どうなるのだろう。

 「パワハラだ」「ブラックだ」と騒ぐ新入社員が増えるのだろうか。

 すぐ離職する若者が今よりも増えるのだろうか。

 若い教師にそういう経験をさせたら,パワハラだ,と言われる学校になったら,教育はどうなるのだろう。

 演劇の世界の「常識」も,変わってきているようだ。

 国会議員の事務所も。

 踏ん張る価値のある場所,食いしばって粘る価値のある場所がたとえ学校だけになったとしても,そういう機会を子どもから奪うことは許されないのではないか。

 私自身の学校生活をふり返るとつらいことも多かったが,そこで歯を食いしばることができたから,今があるという実感が強い。

 社会に出た卒業生たちから聞くのも全く同じような話ばかりである。

 上手くいかないことが,世の中にはたくさんある。

 自分だけの力ではできないことが,世の中ではたくさんある。

 一方で,自分の力で何とかできることも,人に助けさせる方針を持つ教育もあるようだが,こういうお節介が人の邪魔をする世の中をつくって「生きる力」を奪っていこうとする教師が増えないことを望みたい。
 
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9月13日 世界法の日に考える「法の支配」

 「深い学びなど必要ない」と主張している大学のセンセイに習った人たちは,教員採用試験ではちゃんと「建前」を述べて,得点を稼ぐのだろうか。それとも,大学の「学び」を生かして,試験官に喧嘩を売るのだろうか。

 教育現場で「法の支配」という言葉を使うと,すぐに「よくないこと」というイメージを連想する教師が少なくないだろう。

 社会科の公民的分野や政治経済で学んだはずの「法の支配」という概念は,

 学校現場で惰性にまかせて教師を続けていると,いつの間にか生徒たちにとっての「校則による支配」などと同じようなレベルのものに変換されてしまうに違いない。

 採用試験のときはきちんと勉強したはずだった「教育法規」だが,管理職試験を受けようとして「学び直し」をしてみると,「こんな法律もあったのか!」などと驚くこともある。

 国際社会では,「法の支配」ではなく,「国益の支配」が主流になっているような印象があるのだが,

 学校現場でも,やはり「法の支配」ではなくて,「子どもや親の利益の実現」という目的に偏ってきている気がする。

 「未履修問題」に代表される「ルールを無視した受験重視・効率重視の学習・進路指導」を是正しようとしているのが,現在の教育改革のねらいの一つである。

 しかし,「子どもや親の利益のため」という部分を票のために議員までもが実現しようとしているので,

 学校現場の感覚ではどう考えても「それはない」というタイプの政策が浮上してきている。

 借金をして将来世代に負担を押しつけながら,「今の景気が良くなりすればそれでよい」という短期的利益誘導型の政策が,ありとあらゆる分野に一律に仕掛けられてきている。

 「法の支配」が実現しているのかどうか,チェックする機能を果たすべきなのは,どこのだれだろう。

 残念ながら,それを実行する主体が自分たちの利益ばかり考えてしまうというところが,悲しいところである。

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9月12日 悔いに悩める教師家業

 一日一日の教師生活をふり返ってみると,それはそれは「悔い」の連続である。

 「時間がない」ことを多くの人は言い訳にするが,

 「何をする時間はあったのか」は明らかにしない。

 私の場合は,いつも,何かが足りなかったような気がしてならない。

 それは,自分自身で気づけていなかった「何か」かもしれない。

 最近は,メモをしなかった4つの仕事や約束のうち,1つくらいは忘れてしまうことも増えた。

 そういう「何か」ではなく,教育の世界は「その都度生じる何か」が重要である。

 40人中,2人が同時に別々の目的のサインをこちらに送ってきたとして,気づけたのは1人だけであったりする。

 気づきやすいのは,いつも気にしている生徒で,逆に,最も気づきにくいのは

 「想定外」の生徒である。

 「後で聞いた話」を並べてみると,学校は「想定外」だらけのことが起きている。

 SNSで昨晩何が話題になって,だれが浮いていたなど,こちら側は知るよしもない。

 「気づけよ」と後から言われても,

 「そんな表情してなかったでしょ」と言いたくなる。

 「表情になんか出すわけない」のはその通りで,

 こちら側の勘が鈍ってきたのかと不安にもなる。

 9月は連休があるものの,行事や学校説明会,部活の新人大会で休みもとりにくくなるが,煩悩を捨て去るためにも彼岸には御墓参りに行っておきたい。

 9月12日は,宇宙の日,水路記念日,マラソンの日,鳥取県の県民の日であるらしい。

 毛利衛さんが宇宙に飛び立った日が,もし11日だったら,別の日に変えられていただろうか。 

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9月10日 教育は「苦闘」の日々

 「打てば響く」子どもたち。恵まれた環境にある教師と子どもは,決して少なくはないでしょう。

 雑誌が『学校が壊れる』という特集を組んでも,

 「先に壊れるのは政権の方でしょう」とツッコミを入れたくなる。

 もちろん,「どうして学校ではなく,教員というタイトルにしなかったの」と疑問を持つ教員もいるでしょう。

 「俺たちは被害者だ」と言わんばかりに。

 でも,一番大変なのは,子どもの方ではないですか?

 あの学習指導要領に示された目標を達成できる人を国は求めています。

 道徳の目標や内容をよく読んでみて下さい。

 社会科の目標や内容をご覧下さい。

 特別活動という時間にやるべきことはご存じですか。

 1年のうち,35時間を使ってできることって何でしょう。

 子どもは,与えられている時間以上の時間を費やして,様々な目標を達成しようと努力しています。

 「もうそんなに努力しなくてもいいよ」「頑張るな」と子どもに投げかけられるような職場をうらやましいと思う教師もいるでしょう。

 学校は,苦闘の連続です。

 教師はアクセルをふかすだけが仕事ではありません。

 ときにはブレーキ役にならないと,それこそ子どもは我を忘れて突っ走ります。

 なかには,坂道に投げ出して,あるいは崖から突き落として,教員はただ見ているだけ,という教育方法もあるようですが,子どもが苦闘した分だけ,あるいはそれ以上に教員の方も苦闘してこそ,お互いの信頼関係が築けるというものではないですか?

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妄想教育に教材研究は必要ない

 妄想教育への批判は,どこから始めればよいのか,悩んでいる人がいるようです。

 そういう人やそういう人が集まっている場所には近づかない,というのが正解だと思うのですが,

 本当に出口が見えなくて困っている人たちにとっては,胡散臭いものの方が逆に「本物」に見えてくる。

 「藁をもつかむ」気持ちでいるときに,人は正常な判断が下せないものです。

 教材研究がなくても,具体的な子ども理解はなくても,信じさえすれば,成果が出せる。

 こんな妄想をいつの間にか「本物」として信じ込んでしまった人を現実世界に「取り戻す」のは骨の折れることです。

 教育の世界で教材研究を「取るに足らないもの」と信じ込んでいる人が,大きな過ちを犯したことを,このブログで具体的に紹介しました。大学に身を置きながら,「教材理解の浅さ」を露呈したその人物は,自分の過ちを認めないところや攻撃が大好きなことが「定評」になってか,「この人にだけは授業の講評をしてもらいたくない」という有名人になっているそうです。

 やがて忘れ去られる運命にある他国第一主義の人間や妄想教育の指導者は,他人の努力に価値を見出せないことが,最も「教育」から遠い位置にいる大学の「ただのガクシャ」らしいところなのです。

 人の努力を自分は認めないくせに,自分の努力を認めてくれないとすねる。

 教師が劣化している原因はお前にある,という批判に正面から応えられない。

 本を読む動機を与えてくれるのがよい教師としての資質の一つでしょう。

 批判をする前に,俺の本を読め,と本を読んでいる人に言う人とコミュニケーションをとることは困難です。

 だって,あなたが大切だと思うことは書いてあるけど,多くの人が大切だと思っていることと,食い違っていますよね,とか,あなたが書いていることは,みんなもうわかっていますよ,という問いかけに,「お前がわかっていないだけだ」と返されてしまうと,もうその人のかかわった本は読む気がしなくなるし,そもそも書いてあることが全く信用できなくなる。

 教育現場にご自分の妄想を押しつけることだけはやめてほしいのですが,「講師」に面と向かって批判できる教師は,どこかの政権内部と同じように,きっといなくなってしまっているのでしょうね・・・。

 私は組合員ではありませんが,組合のときだけ元気になっていた教師たちを懐かしく思い返しています。

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あの子どもは自分が見捨てた? 思い上がりもいい加減にしたまえ

 学校の教員には,「友達」がいない・・・。

 どこかの学者に調査してもらいたいテーマである。

 基本的に,「一匹狼」的な生き方をしている。

 自らそれを選択している人もいるし,結果としてそうなってしまう人もいる。

 だれかに頼って生きようとしている教員は,やれ,仕事が多いとか,教材研究する時間がないとかブツブツ言っているが,実際には大事な仕事は何一つ任されず,自分勝手で見当外れの子ども理解が原因で,子どもたちともコミュニケーションがとれない。友達をつくろうにもできないタイプの人間である。

 思い込みが激しいと,「全部,俺のせいだった」と勝手に悩み,現場から逃走していく。

 「友達がつくれない」タイプの教師に,なぜ人のために尽くし続けることができる人と,尽くしきってもだめだったと勝手に判断し,辞めていく人間がいるのか。

 一人一人の子どもを信用できるかどうかの違いではないか。

 自分自身が親や教師から見捨てられた経験や実感がないくせに,教師の立場として「一人も見捨ててはならない」と誇大妄想するのは,怪しげな宗教やダメな道徳教育に嫌気がさしている人間の側からすると,胡散臭いものにしか見えないだろう。

 自分は群れていないくせに,子どもがダメなのは群れていないからだと勘違いして,

 群れていることで人はどうにか成長していくことができると誤解していることもおかしな話である。

 普通の教師から見て,「おいここ,すごい変な空気だな」と思える場があるとする。

 相手が「変な空気感」を抱いていることが読めない人間に,子どもや教師を育てることはできないだろう。

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«9月9日 壁を破る日

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より