ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

学校の評価・評定は,本当に適切なのか~中学校別評定割合一覧からわかること

 東京都教育委員会では,都立高校入試につかわれる調査書(内申書)の評定の一覧を公開している。

 ある区には中学校が2校しかないから,各年度の3年生の評定分布がわかってしまう仕組みになっているが,苦情などはないのだろうか。

 次のグラフは,平成30年度入試に使われたある2校の英語の評定割合を比較したものである。

Ws000046

 A校の英語で「5(十分満足のうち,特に優れた者)」の割合は全都的に見ても高く,31.6%である(全都の平均は15.0%)。

 A校の評定が「甘い」わけではなく,A校にはB校と比べて優秀な生徒が集まっている,という「前提」で入試を行わないと,「大変なこと」になる。もしもA校の評定が「甘い」=「適切ではない」ことが証明されると,A校出身で都立高校を受験した生徒の入試得点が誤っていたことになり,合否判定をやり直さなければならないからである。

 では,すべての学校が「適切な評価・評定を行っていること」は証明できるのか?

 東京都教育委員会では,中学校の評定割合で「特異な評定状況」を示している教科のある学校と,その教科を示している。

 たとえば「すべての教科で1の評定がついていない学校」が,港区に4校(8校中),文京区に6校(7校中),世田谷区に8校(28校中),八王子市に11校(35校中)ある。

 「5と4の評定の割合が80%以上の教科がある学校」が,千代田区に美術で1校(2校中),文京区に音楽で1校(7校中)ある。

 都は,「特異な評定状況」が「適切な評定状況」であるかどうかの調査はおそらく行っていない。

 「適切な評定であること」は,「成績一覧表」を提出した時点で,校長印によって確認している。

 それなのに,「特異な評定状況」を公開しているのはなぜか。

 「評定割合の一覧表」を見ると,「明らかに怪しい」ことがわかる学校(教科)がすぐに見つかる。

 冒頭のA校とB校は,どの教科でも英語のような分布を示しているから,A校には優秀な生徒の割合が特に高い,ということになるのだろうか。

 たとえば,美術の評定分布を比較してみると,次のようになる。

 英語の成績と美術の成績に相関関係があるかどうかは知らないが,この美術の成績はとても怪しい。

Ws000057

 中学校や高校,そして教育委員会は,このような怪しげな「評価」をもとにして,入試の「合否判定」をしているのである。その精神的な負担たるや,もはや「働き方改革」などといったレベルでは済ませられないものがある,という声を上げられるのはだれなのか。区議会議員の方の中には,実際に動いている人がいるが,エビデンスをもっていないのが痛みである。

 上記の2校の美術の評価・評定のもとになった資料だけ,取りあえず調査してみてはどうか。

 私はA校の美術教師の指導力の高さが証明されることを望んでいる。優れた指導法を,ぜひ全都に広めることに尽力してほしい。

 ただ,ある教員がやっていた過去の評価・評定がすべて誤っていたとしたら,評価・評定を判定材料に使う過去の「入試」すべてが誤った判定をしていたことになるから,恐ろしいことである。

 多くの関係者は,「誤っていた事実がわかってしまう」ことを避けたい。

 しかし,学校やそこでの評価・評定はだれのためにあるものなのか。

 学校は何のためにあるのか。

 よく考えてほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

コミュニケーション能力の乏しい人たちが考えるコミュニケーション能力向上策

 「ウソをついていることがばれないように振る舞う」というコミュニケーション能力を求められている人たちは,本当に気の毒である。

 隠蔽,捏造,虚偽,改竄と,自ら進んで,または上司からの命令でさせられる人たちは,人と人とのコミュニケーションをどう捉えているのだろうか。

 こういう人たちが提唱する「コミュニケーション能力の向上」とは,何を指しているか。

 これを子どもたちに身に付けさせよう,と真面目に思っているとしたら,本当に空恐ろしい。

かねてコミュニケーション研究においては,言葉で伝わる「言語的メッセージ」よりも,眼差しや表情,仕草や姿勢,雰囲気や空気を通じて伝わる「非言語的メッセージ」の方が,何倍も大きな比重を占めることが明らかにされている。しかし,残念ながら,最近のビジネスパーソンの多くは,「言葉をいかに使うか」「資料をどう工夫するか」という次元でのコミュニケーションしか考えない傾向がある。
 だが,そうしたことは,コミュニケーションの技法という意味では,初歩的な段階にすぎない。(田坂広志著『深く考える力』より)

 教員である私は,「非言語的メッセージ」のことを「オーラ」と表現して,新入部員が入ってきたときに,「一番すごいオーラをもった先輩についていけ」というメッセージを(上級生がいる前で)伝えている。

 「何を言ってくるか」ではなく,「どんな姿を見せてくれるか」が大事である,というメッセージである。

 それは教員自身にとっても問われてくる。

 私は3年間の行政経験があるが,そこで体験した忘れられないことの一つが,「脳の一部が壊死していく感覚」であった。

 子どもたちの「言葉」はもちろん,「オーラ」や「行動」から様々なことを読み取りながら生活をしていたのが,「オーラ」を押し殺す人たちの集団に入ってしまったために,感覚を研ぎ澄ます必要がなくなってしまったからである。

 「答申」「通知」「通達」「命令」などによって行動する原理をもった世界における「コミュニケーション能力」は,せいぜい正確な「ホウレンソウ」くらいしかない・・・とまで言い切ると言い過ぎだが。

 「忖度」という非言語能力の機能だけを体得した人たちが,退職後に生かす場がなくなるのは寂しそうだ。

 「相手の質問をいかにはぐらかすか」「いかに答えずに済ますか」という場面だけが報道でクローズアップされている人たちは,とても気の毒な気がするが,「それが仕事だ」という印象から,「官僚は国家や国民の未来を守る気概で動いているんだ」という理念は絶対に見えてこない。

 各省庁から,どんどん情報が外に出てきている。これを「官僚の反乱」などと表現する人もいるが,「自壊する国家のパターン」を示すことよりも,「政治家ではなく国民を守る官僚の力」の事例になるように頑張ってほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

成績(評価・評定)管理の不徹底問題

 入試をめぐっては,様々な問題が発生する。主なものは,次の3つである。

 1 入試問題の誤り・・・作問者のミス

 2 入試問題の採点の誤り・・・高校入試なら,高校の教員のミス

 3 入試に用いる調査書(内申書)の評定の誤り・・・高校入試なら,中学校の教員のミス

 やっかいなのは,入学選抜や進学が終わってから,これらの誤りが見つかるケースである。

 大阪では,府立高校入試に使われた市立中の調査書(内申書)データに誤りがあったことが見つかり,本来,合格になるべき生徒が不合格になっていたことがわかった。

 過去にも同じようなミスがあった可能性もあるだろうが,開示請求などがなければ見つからないという問題もある。

 再発防止策については,本来学校がやるべきチェックをすればよい,というだけの話で終わるのが2と3である。

 ただチェックする能力がない場合があるというのは,再発防止策の想定には入っていないだろう。 

 通知表のミスが発覚している中学校は,特に危ない。

 「エクセルの列や行をずらしてしまっただけです」などという言い訳で許されると思っている教員がいる学校は危ない。

 そもそも評価・評定自体が正しいのか,という問題は,「考えてはいけない問題」とされているらしいところが,学校現場としては一番つらいところだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

横浜市立学校の「教職員の働き方改革プラン」

 副題に,「先生のHappyが子どもの笑顔をつくる」とある。

 横浜市教育委員会が,この3月に策定したプランには,具体的な「工程表」が示されており,かなりの予算措置も必要そうだが,2022年までにすべてが実現すると,横浜市で働く魅力が高まり,教員の志望も増えていくだろう。

 「原発避難でのいじめ」でイメージが悪くなった横浜市だが,教育の未来は暗くはない。

 予算がない→子どもを育てる環境がよくない→子どもが減る→さらに予算が減る

 という負のスパイラルは,実は「予算を教育に重点的にふりわける」ことで抜けられる,ということに早めに気づいた自治体はまだ生き残れるかもしれない。

 重点戦略として「学校の業務改善支援」「学校業務の適正化,精査・精選」「チーム体制の構築と人員配置の工夫・充実」「教職員の人材育成・意識改革」の4つが挙げられている。

 「19時までに退勤する教職員の割合」を70%以上にする,などの数値目標も掲げられている。

 もちろん,前の記事で紹介したように,「5時台に出勤する」という人も出てくるから,「労働時間の短縮」にはならないかもしれないが,「太陽が昇って働き,沈むときには仕事を終える」生活には魅力を感じる。

 ○グループウェアの導入(今年度には250校の予定)
 
 ○学校ホームページのCMS化(今年度には445校の予定)

 ○職員室レイアウトの改善(私の2校目の勤務校で実施していたものと同じだった)

 すでに実施済みの自治体も多いかもしれないが,着実に前に向かう姿勢を教育委員会が示してくれるのは心強い。

 もし管理職の立場なら,各自の業務の進め方をグループウェアでチェックし,AIが人事考課をしてくれると「管理職の働き方改革」も実現できるかもしれない。

 過労死によって生かされる,というのも悲しいが,確実に大きな流れは起こっている。

 「ブラックな職場」の代表は官庁と学校であるが,保護者に「何でも要求するわけにはいかない」という自覚を芽生えさせている空気は,一部の教員たちにとっては「追い風」である。

 私のような「古い体質」の人間も,あと10年もすればいなくなるのだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

再任用校長の「何でも言える」境遇が素晴しい

 定年退職した後も,校長を続ける人がたくさんいる。

 その数は本当に驚くほどである。

 副校長をみんな昇任させてしまうと,副校長が足りなくなるからだろうか。

 私は,再任用制度に反対はしないが,給料が低いのに責任は同じという立場が気の毒でならない。

 一方,再任用校長の中には,自分の希望というより,教育委員会からの「お願い」で続けている人もいるらしい。

 そういう立場からかどうかは分からないが,とても「口が軽くなる」人がいる。

 私の妻が小学校の保護者会に出席し,聞いてきた話が興味深い。

 ほとんど「愚痴」である。

 その対象は,大きく分けて2つある。

 1つは,新学習指導要領への移行措置に対する不満。

 もう1つは,「働き方改革」の流れからか,長時間労働をなくす,という号令がかかっているようで,

 帰宅時間を午後5時台にする,という目標を掲げているらしいのだが,

 (そのおかけで)「先生方は朝,5時台に来て仕事を始めている」とのことだ。

 12時間近い職場での拘束時間というのは,学校の常識であることがよくわかる。

 小学校の「登校班」への教師の付き添いの廃止なども決まったそうだ。

 「いつ辞めてもいい校長」の今後の「広報活動」に注目しておきたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

救命より伝統を大切にする相撲の世界の先行き

 「女性によって神聖な土俵が穢されること」を忌避する相撲の世界にも,いつか変化が訪れるときが来ると願っている。

 日本では,宗教や政治に関する話題を学校で口にすることも忌避されている。

 一方で,「異文化理解教育」とか「主権者教育」が大切だなどと言われる。

 道徳の授業としては,非常に典型的な「ジレンマ」を考えさせる教材として扱えるのだが・・・。

 今や,相撲界に遠慮する空気などどこかに吹き飛んでしまっている。

 こういう「好機」に変われるか変われないかが,「相撲」の未来にかかわってくるような気がする。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

「学級牢獄」の生活が始まる子どもたちへ

 教育を子どもたちにとって,気づいてはいけないことは,

 「自分たちにとって当たり前のことが,他の国(地域,学校)ではそうではない」

 という現実である。

 家庭の場合は,「自分の家庭とみんな同じような生活だろう」とは思わない。

 ある友達はお父さんがいないとか,いるけど実の父ではないとか,もっと裕福だろうとか。

 それに比べて「学級」は,どこでも似たようなものだと思っている中学生が多いのではなかろうか。

 先生がちょっと怖いとか,甘いとか,だかしないとか,暗いとか,ハイな感じとか,その程度の違いであって,黒板はあるし,机と椅子はほぼ同じようなサイズだし,ペラペラの上履きだってみんな同じで・・・。
 
 スポーツな得意な子がいて,勉強ができる子がいて,それぞれそうでないタイプもいて,友達が多い子がいて,実はLINEでつながっているだけで友達はいない子がいて・・・。

 日本における「違い」とか「個性」などは,その程度の幅しかないということは,よくよく考えると実はとても気味が悪いものだとは思わないだろうか。

 授業中に無断で教室から出て行こうとすれば,必ず呼び止められる。

 遅れて教室に入ってくれば,事情を聴かれるか,聴かれずにただ怒られるか。

 「学級活動」のあり方を示してくれる「教科書」はない。

 しかし,教師は「指導書」=学習指導要領の解説を持っている。

 小学校における「特別活動」の「学級活動」には,

 (1) 学級や学校における生活づくりへの参画
 (2) 日常の生活や学習への適応と自己の成長及び健康安全
 (3) 一人一人のキャリア形成と自己実現

 という3つの「内容」がある。

 学級とはどのような能力を身に付ける場所なのか,ピンと来るだろうか。

 (3)の項目は3つあり,

  ア 現在や将来に希望や目標をもって生きる意欲や態度の形成
  イ 社会参画意識の醸成や働くことの意義の理解
  ウ 主体的な学習態度の形成と学校図書館等の活用

 を教師は意図的・計画的に指導してくる。

 それが「指導」に値するものなのかどうか。

 ただ言いつけやルールに従っているだけなのかどうか。

 「主体性」とは何か。

 学級が「自己実現の場」なのか,「牢獄」「監獄」に過ぎないかを判断する基準はそこにある。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

教員の「働き方改革」騒ぎでモチベーションを下げる罪

 たとえば中学校の教員には,45分の休憩時間を自由にとる余裕はない。

 給食指導から生活指導,ときには清掃が入ったり,授業の準備をしたり,提出物のチェックをしたり,プリントを印刷したり,行事の打ち合わせをしたり,分掌の小さい会議があったり,部活動関係で外部と連絡を取り合ったりしているうちに,午後の授業が始まる。

 いかにも「忙しい」雰囲気が出てしまう時間帯であるが,生徒が自由に相談したり質問したりできる時間も昼休みに限られるため,良き教師は「忙しそう」にしない。

 緊急の事故や厄介な生活指導が入らない限り,生徒の声に耳を傾けるのが教師の義務だろう。

 「働き方改革」を事務方の発想で行うと,必ず「他人をこき使えばよい」という話になる。

 こういう発想の「改革」は目障りでしかない。

 成果は,「学校にいる時間の短縮」に過ぎない結果になるのは,目に見えている。

 行き帰りの荷物が重くなって,疲労度の方が増えるばかりだろう。

 
 一度,教育学部の大学生などに,どんな業務をどのくらいの手際よさで教師が片付けているかを調査してもらえるとありがたい。30人教師がいる学校なら,30人の大学生が必要である。

 意外なデータが出てくるかもしれない。大学生にとって,

 「中学校教師の仕事は,たかが知れている」と思える結果になるかもしれないし,

 「こんな仕事は自分には無理だ」と驚く結果になるかもしれない。

 あとは教師は何を見ているか,というデータの集積である。

 授業中の教師の目の先にあるものを,細かく分析するような暇な仕事は,大学のセンセイにしかできないだろう。

 生徒と黒板と教科書と窓の外。難しいのは生徒の場合である。

 全体を見ているようで,個人の動きを見ている場合もあるし,

 個人の動きを見ながら,全体を把握しているかもしれない。

 ただ,できるだけ「どこ」を見ているかを調べてもらえると,自分では気づけない「無駄」や「無為」を探り出せるかもしれない。

 一時期,ビデオを撮影してそれを分析するという時間が有り余っている人の仕事を見たことがあるが,実は目の動きというのは非常に早く,メモでは追いつけないことがわかる。

 それでも「何を見ているか」を探ろうとする努力を,一度,してみてほしい。

 勤務の実態は,そういうところで把握すべきである。

 時間が長いとか短いではなく,「何をどのくらいの時間,見ているか」で。

 調査のときだけ真面目にやる人ですら,驚くべき結果が出てくると思われる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

言いたいことが言える教育を

 教員は,「おじいさんやおばあさんを敬う気持ちを育てる」という目標を持たされて,

 介護が必要な身内(家族)ではなく,高齢者一般を対象に道徳心を養わなければならない。

 ネットニュースで,小学校5年生の児童が,泣いている赤ん坊(その親?)を目の敵にする高齢者に残念な気持ちを抱いて新聞に投書し,それが取り上げられたことが紹介されていた。

 本当に小学生が投書したかどうかはともかく,

 「わがままな高齢者をどうするか」

 というのは,社会全体の許容力,包容力を高めるだけではすまない状況にあると思われる。

 寛容な心を欠いた高齢者に悩まされている人は少なくない。

 実際に,家庭でも同じような問題を抱えている児童はいるだろう。

 だから一方的に「おじいさんを敬う気持ち」を扱おうとすると,反発心しか子どもには芽生えない。

 和菓子屋さんだろうがパン屋さんだろうが,高齢者を働かせて当然と思っている人間のことはさておき,

 核家族の子どもたちにとって最も身近ではない血縁に抱く感情というのは,大家族時代のそれとは別物だろう。

 「特別な教科」になってしまった道徳が,キレる高齢者だけでなく,キレる児童たちを増やすのは目に見えている。

 「いじめ」の認定レベルは県によって完全にまちまちであり,その数が多いとか少ないとかいうことに全く統計的な価値はないのだが,「校内暴力」にしろ「いじめ」にしろ,覆い隠せないレベルの問題が今後どんどん増えていく。

 それを防ぐ方法は,もはや学校で学ぶのをやめるしかない,という結論にやがて行き着くだろう。

 「教科のように学ぶ」ことがいかにふさわしくないかということが,わからない人たちは,どういう育ち方をしたのか,聞いてみたい。

 「今日,とても情けない高齢者(先生でも,政治家でも,官僚でも,何でもよい)を見て,がっかりした」ということが新聞に対してでなく,学校で話題にできる方がよほど正常な世の中である。

 「昨日,校長先生が酔っ払って,ふらふらしながら歩いていた。部活動の指導にきたが,とてもお酒くさかった」

 こういう訴えを教員が聞いたときに,取るべき行動は何だろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

道徳の「評価」の原則自体が「ただの建前」「綺麗事」に過ぎない

 「特別の教科 道徳」が,小学校ではこの4月から,中学校では来年4月から全面実施となる。

 教科書については最後にコメントするとして,問題は「評価の充実」についてである。

 評価の基本的な方向性は,専門家会議が答申を受けて以下のように(一部のみ)示している。

●数値による評価ではなく,記述式であること。

●他の児童生徒との比較による相対評価ではなく,児童生徒がいかに成長したかを積極的に受け止め,励ます個人内評価として行うこと。

●他の児童生徒と比較して優劣を決めるような評価はなじまないことに留意する必要があること。

●個々の内容項目ごとではなく,大くくりなまとまりを踏まえた評価を行うこと。

 まさか道徳の授業の時間に,口先で述べたことや「正解」っぽく書いたものをもとにして評価する教師はいないだろう。子どもを見ていれば,「そうではない行動や態度」など,いくらでも見ることができるからである。

 道徳の授業のときだけ張り切る子どもがいたら,気持ち悪くないか?

 道徳の授業の最大の課題は,「そこでは偉そうに言っていたのに,授業で,行事で,部活動で,登下校中に,実行・実現できていない」か,「実行・実現する機会が実際にはない」ことにある。

 なぜ道徳教育が学校の教育活動全体の中に位置付けられていないといけないか,だれでもわかることだろう。

 「いかに成長したか」を受け止めるということは,「今までいかにできていなかったか」を前提としなければならない。

 そして,ある時点でできるようになったからと言って,今後の他の場面でもできるとは限らないことは,子どもの方がよく知っている。

 最近の子どもは,通知表をお互いに見せ合うことがある。

 だれかが特別な目で見られていないか,ひいきされていないか,軽い扱いを受けていないかを確認するためでもある。教師の側が「他の生徒と比較する」意図はなくても,子どもがお互いに評価を見せ合えば,そこに「優劣」が見えてきてしまう。

 道徳は,「比較して優劣を決めるような評価」がなじまないのはもちろんのこと,そもそも評価自体がなじまないことを忘れてはならない。

 綺麗事を言われるよりも,「できていないことはできていない」としっかりと指摘してもらって,改善への意欲を高めてもらうことを子どもたちはもちろん,保護者も求めている。

 もう一つ,道徳は,「目標・指導・評価の一体化」が必要ない時間だと公言されているのも気になる。

 道徳の授業は,内容項目ごとに教材が使われてきた。これからは内容項目ごとに教材が配列されている教科書が使われる。

 それなのに,評価は「大くくりなまとまり」を踏まえて行え,という。

 要は,教科書を使った毎週1時間の授業よりも,日頃の学習・生活全般のふり返りが必要なのであり,せっかく子どもが自律的に自らをふり返ろうとしても,「特別の教科 道徳」の授業では,教科書を用いた学習に拘束されて,特定の内容項目の面に限定して考えなければいけなくなる。

 「主体的・対話的で深い学び」をしようとするときに,教師の指導の自律性だけでなく,子どものふり返りの自律性も奪われてしまう恐れがある。

 教師がつくる年間計画に基づいて授業は実施されるから,子どもの側に取ってみれば,自主性や主体性,自律性などすべて剥奪されたもとでの時間になるのが「特別の教科 道徳」である。

 「教師の指導力向上」をもし本気で目指すのならば,教材を自分でつくったり探したりできる機会を与えるべきである。残念ながら,「教科」ではなかった道徳教育の世界に,「指導力」を語らせること自体が無理な相談なのだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

子どもの人間関係に対する不感症の影響力

 言語ではなく目線や表情,しぐさだけで相手にシグナルを送るコミュニケーションが発達している日本では,「言語化されたもの」の分析だけでは何も分かったことにはならない。頭の中で考えてはいたが,口に出していないことが山ほどあるのが人間の思考というものである。

 「指示があったか」と言われて,証拠に残る「文字による指示」や「言語による指示」を想定するかもしれないが,じっと見つめられただけで,相手の意図を察することができることを「信頼関係」という。

 実質的には指示されていても,「指示はなかった」と言えてしまうのが日本におけるコミュニケーションなのである。

 だから,「いじめ」の特定・認定も非常に難しい。証拠は何も出てこなかったりする。

 むしろ,「いじめられた」と主張している側の「被害妄想」だと思われてしまう。

 担任教師には,非常に高度な感覚が要求されている。

 「空気を読む」「目を読む」技量が重要である。

 それが,当たっている場合も,当たっていない場合もあるだろう。

 「いじめ」を防ぐためには,当たっていないのではないか,と思われる事例でも,当たっているという前提で動く必要がある。

 「推定無罪」ではなく,「推定有罪」である。

 大事なのは,「いじめている」側に,悪い思いをさせないように留意すべきことを伝え,

 言いたいことがあれば言葉で表現させることである。

 日本では「無言の圧力」ほど恐ろしいものはない。

 教師が「いじめ」を疑っている雰囲気を出すだけで効果がある「初歩的」な場合もあるが,

 「いじめ」はない前提で話を進めているかのように思わせる技量も必要である。

 何も話していなくても,とても神経を使うのが教職という仕事である。

 「鈍感の極み」と子どもに思わせることができる教師が最強なのだが,

 もし本物の「鈍感」「不感症」だったりすると,すべての人に悲劇が訪れる。

 全く神経質には見えないのに,神経を研ぎ澄ます状態が維持できる・・・

 武道を必修にするのは,子どもよりもむしろ教師が取り組んだ方が効果があるかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

労働時間の短縮より通勤時間の短縮を

 私は教員になったときから,「働く時間」よりも「通勤の時間」にこだわっていた。

 自営業を営む家庭で育ち,中学受験をさせられてひどいラッシュで通学しなければならない経験を6年間重ねたからか,

 「なぜ家から遠いところに勤めなければならないのか」という疑問を持っていた。

 自営業を継げば,通勤時間など1秒たりとも要しない。

 通勤時間など,人生の時間の浪費だと思っていた。

 大学は自宅から最も近いところを選び,アルバイトも自宅から自転車で15分以内で行ける範囲にある塾を選んだ。

 教員に採用されたとき,自宅から自転車で8分の中学校への赴任が決まったときは,とても嬉しかった。

 6年間勤めて,異動の希望は同じ自治体を選んだところ,入る希望がほとんどなく,出たい人ばかりだったからか,また5年間,今度は自転車で12分で通える中学校に着任した。

 この2校目の学校はとても荒れており,さらにこの中学校の場合は,教員は勤務時間が終わるとさっさといなくなっていった。部活動もさかんでなく,職員室を最後に出るのが非常勤講師の先生だったこともあるらしい。

 2校目の中学校が荒れていたのは,要するに子どもがエネルギーを発散する時間に飢えていたからで,授業で(教科だけでなく,道徳や特別活動でも)そのエネルギーが出せるように工夫していったところ,すぐに一定レベルの学力がつくようになり,子どもが生き生きし始めて,学校に楽しそうに通っていく姿を見た保護者の信頼を得て,他の地域から生徒が集まるような中学校に変貌していった。

 この中学校にいたことで困ったのは,区や都だけでなく,国の仕事も頼まれるようになり,学校で指導案づくりや報告書などを仕上げる時間が取られるようになったことで,自宅に帰れば塾のテキストや市販本の原稿を書いたりするアルバイトも増えており,寝る時間がほとんどなくなってしまったことである。

 しかし,たくさんの仕事を兼ねることができたのも,ひとえに通勤で余計な時間と体力を使わずにすんだおかげであった。

 さすがに学校以外の仕事が増えすぎて,出張が多くなってしまったときに,校長から教育管理職候補を選ぶ試験を受けるように言われ,「学校にこれ以上の迷惑をかける前に,指導主事になってしまおう」と思い,受験したら合格してしまった。

 赴任先は島だったが,驚いたことに,宿舎から歩いて何分もかからないところに役所があり,人生で最も短い通勤時間の生活を送ることができた・・・と思ったら,1週間に2回の出張が入ることがざらになり,片道2時間以上かかり,ほとんどの場合に宿泊を伴う生活になった。

 移動時間が長いと,ゆっくり本が読めることは魅力的だったが,1ヶ月に20万円近く出張費を立て替える生活を送りながら,やはり,「このお金は無駄ではないか」と思い始めた。

 私の自宅の前の公園の向こうに中学校がある。

 ここに勤めるのが今の夢であるが・・・。

 通勤費も税金で負担されている。もちろんご近所様の子どもの先生になりたくはない,という人もいるだろうが,電車で1~2駅過ぎれば全く別の地域になるはずである。できるだけ通勤費にかかる税金を節約してもらえないものだろうか。時間もお金も節約できる方法をぜひとも採用してほしい。

 もちろん,在宅での勤務が認められる流れも,今後拡大していくだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

企業や学校のブラック化を防ぐ意味で,「皆勤賞」の廃止は有効的か?

 私はかつて高校球児で,土日の練習試合などにも休んだことはなかった。

 月月火水木金金の生活を送っていたわけである。

 高校の学校生活でも皆勤賞をとったことが,もしかしたら現在のブラック生活に結びついているのかもしれない。

 15年前に指導主事として教育委員会に勤務していたとき,学校から出欠席のことで質問があったので経験年数の長い方に問い合わせたところ,「まだ皆勤賞を出している学校があるのか」と言われたことがあったが,「何をどこまで出席扱いとするかでもめる」原因の一つが,「皆勤賞狙い」であることはよく知られている。

 また,体調が悪いのを我慢して登校してしまった生徒が,実はインフルエンザにかかってしまっていて,感染拡大の原因になる場合もある。


 欠席の日数が少なければ少ないほど,勤勉で体が丈夫な生徒であることが想像できる。

 遅刻もなければ,規則正しい生活ができる,信頼できる生徒だと解釈される。

 その究極のかたち,完全無欠のゴールが「皆勤賞」である。


 この「皆勤賞」というのを完全に廃止させることを文科省が指導すれば,日本人の「ブラック体質」は払拭できるだろうか。

 私はそうは思わない。なぜなら,そういう「ブラック体質」というDNAは,学校が育むのではなく,社会全体がもっている「伝統」だからである。

 面積はそこそこ広いものの平地が少なく,資源も少なく,海に囲まれている日本が社会を成長させたり維持させたりするためにとった戦略が,「長時間働くこと」だったから。

 土地(資本)や資源を海外に求め,植民地を拡大していった国々の成長戦略を真似しようとしたときにも,伝統的な「長時間働く」方法で成果をあげていったが,戦争に負けたことで,「働く時間を短くする」生き方を選択できなくなった。

 「働く時間を短くする」には能力を向上させるしかないのだが,能力が高くなった人にはどんどん仕事が舞い込んできて,働く時間はさらに長く,しかし,成果も大きくなって成長していく,というのが日本型の資本主義の仕組みになった。

 労働時間の短縮を実現するためには,富士山のように裾野の広い能力向上を推し進めるか,目の前の手にすることができる利益を放棄して,働くのをやめるしかないのだろうか。

 
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

どのような都立高校が2次募集,3次募集をしているのか?(地方国立大の教員のウソ)

 地方の国立大学の教授がウソを書いているので一応,指摘しておく。

 「普通科の2番手校,3番手校が定員を割っている」

 などと書いているが,実際に大幅に定員を割っているのは,

 「下位校」だけである。

 学校数が多い東京都立高校の場合,模擬テストの業者が行っているランク分けは,全部で6つもある。

 都立トップ校(日比谷や西など)・・・偏差値72以上(偏差値は業者のもの)

 都立2番手校(戸山,青山,新宿など)・・・偏差値67以上

 都立3番手校(駒場,小山台,竹早,白鷗など)・・・偏差値62以上

 上位校(上野,江戸川,広尾など)・・・偏差値57以上

 中堅校(深川,雪が谷,飛鳥など)・・・偏差値46以上

 この下に,3次募集人数が36名と最多の八潮,

 34名の蒲田,31名の大森などの「下位校」がある。

 経営が苦しい私立の学校が授業料の実質無償化という政策で救われたことに間違いはないだろう。

 専門学科(今では「職業科」とは呼ばない)で定員割れした高校は普通科よりも多い。

 自身の著書の主張との整合性をとろうとして,虚偽の情報を流すのはやめてほしい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

また官僚が嘘をついたのか

 私も行政に3年間身を置いていたので,事務方がどういう動き方をするのかはよくわかっている。

 議員からの要請があると,そのとき取り組んでいた仕事をすべて放置してでも,すぐに要請に応えようとするのが事務方なのである。

 前川氏がどこでどんなことを話しているかを,事務方が自主的に調べようとすることなど,まずあり得ない。

 そもそも前川氏がこの期に及んで自らが違法行為を働くこともない(事務方トップだった人をそこまで疑う神経もおかしいだろう)。

 授業の内容を文科省が知ろうとする理由は,少なくともそれを伝えなければならない相手がいるからである。

 命令があるから動けるのが事務方なのである。

 毎日新聞の報道によれば,前川氏の授業内容については,文科省に対して,国会議員からの問い合わせがあったということである。時系列に沿って,その後,文科省から名古屋市教委に照会がなされている。

 しかも,照会のメールに使われた文章は,だれかに質問されたそのままの内容をコピペして使ったと思われる「事務方らしくないもの」であった。これも,行政にいたことがある人なら,だれでもわかることである。

 議員の指示に従って,名古屋に問い合わせた,というのが真実なのだろう。

 事務方への議員からの照会メールが公開されれば,事務方は「本当はだれが悪い」と開き直ることができる。

 政治の透明化とは,議員が役所に何をどのように利用しているかが国民にわかる仕組みを作ることであり,メールのやりとりも含めてすべてオープンにすることを希望する。

 文科省は「あくまでも私たちの判断で行った」「照会があった議員の名は言えない」としているようだが,省内からは「執拗な要請で対応に苦慮していた」という声が漏れてしまっているわけで,政権政党から事務方が引っかき回されている構図が見え見えになってしまったのである。

 「官僚の嘘のつき方」というマニュアルが,霞が関の人たちだけのものではなく,国民全体に知れ渡ってしまった。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

財務省からのアクセス

 このブログに,財務省からのアクセスがあった。

 あらゆる発信源を探らせられているのだろうか。

 もし財務省に協力して関わった教育の内容についてだとすると,

 生徒の評判は悪かった,と記しておく。

 データに基づいてダラダラ話すのは官僚の癖であるが,

 文書があり,原稿があってそれを読めばよいとする,

 AI時代の敗者的な立ち振る舞いは,教育現場では通用しない。

 「勉強して出直してこい」といっても,自分たちは
 
 「それで通用した人間たち」だから,よくわからないのかもしれない。

 子どもを徹底的な批判者とか,怒りに燃えた政権攻撃のリーダーと

 想定して授業を構想すれば,もう少しましになったのかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

国民不名誉賞の贈呈を

 国民名誉賞が政治の道具として使われているという批判がある。

 政治を批判したい人たちは,

 国民不名誉賞の贈呈式を企画したらどうだろう。

 不名誉賞をもらった人たちが選ぶ名誉賞の価値も地に堕ちてしまうが。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

東大現役合格者の情報から納得できたこと

 高校の卒業間近になって,中学校のときの教え子が会いに来てくれた。

 「節目節目できちんと挨拶に来ます」という律儀な青年は,東大に合格したという。

 十数名いるらしい中学校の同級生の東大合格者名を聞いて,今年はなるほど,と思った。

 考える基本がきちんとできているタイプのメンバーである。

 塾でちょちょっとやっていい成績をとる,というタイプの卒業生は落ちていた。

 表面的な知識だけでも,早慶なら合格できるが,東大はそうはいかない。

 東大の問題は,よく練られており,基本がわかっていればできる,という証明を卒業生たちがしてくれたことをうれしく思う。

 よく聞くと,早慶でも,落とすためのヘンな問題は少なくなり,東大に寄せてこようとしているらしい。

 万々歳である。教科書を隅から隅までなめ回すような下らない高校の授業を防止できる。

 最近の家は壁で重さを支えるタイプもあるようだが,せめて「壁」ができるような授業を受けている生徒たちに東大に受かってほしい。柱が立てられる方がよいのは言うまでもない。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

主権者激怒教育のモデル

 決裁文書書き換え問題のように,信用失墜によって法治国家としてのメンツを丸潰れにし,官僚が「はきちがえた忠誠心」をもっていることを白日の下にさらす事件は,主権者を激怒させるきっかけにはなるが,教育の面からすると,「そんな人間でも国家の中枢を担える」「国家の中枢に入れば,そういうことをさせられることになる」「バレないだけで,いくらでも同じようなインチキが行われているのだろう」という哀しい認識を醸成させていくことになる。

 学校でわずかな時間だけ,「主権者教育」をしている教師の中には,バカらしくてやってられない,と呆れかえる人も多いだろう。

 省庁のトップが責任を取ろうとしないその姿勢も,主権者を激怒させる原因の一つである。

 行政のトップも同様である。

 報道でもあるように,ことの発端は国会における首相の不用意な一言に尽きる。

 行政マンたちが,「関係があったのなら,職を辞する」というコメントの「関係」を拡大解釈して,安全策をとったつもりが,「やってはならないこと」「あってはならないこと」など,文書の世界にはない,という「常識」を大宣伝することになったのである。

 教育現場には,「これでもか」というレベルのインパクトの強い「道徳教材」がある。

 模擬選挙などやっている場合ではない。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

バレる嘘を平気でつくのは子どもだけではなかった

 すぐにバレる嘘や誤魔化しは,オトナの場合,「忠誠心」のなせる技なのか。

 最近,完全に嘘だとバレていても,堂々と主張できる子どもが増えてきていることが気になっていたが,親もそのレベルであり,国家の中枢にいる官僚までもが似たもの同士だったとは。

 先入観も多少あることは認めるが,国会中継を見ていて,「嘘をついているかどうか」が簡単に見破られてしまう人も増えている気がする。前長官もそうだった。

 ツジツマを合わせようとするための嘘が,どんどん自分のクビを締めていくのに,嘘をつくのが自分の使命であるかのような感覚で,誤魔化し続ける人たちが動かす国家とは何だろう。

 「国家を取り戻す」というスローガンができてもおかしくない状況である。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

«上司から有印公文書を改ざん(偽造)しろと指示されたら,どれだけの部下が断れるか?

2018年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より