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12月14日 武士の本懐と「働き方改革」

 「改革」と名前のつくものは,たいてい失敗するのが,日本という国の面白いところである。

 「働き方改革」という言葉が邪魔になって,業務に支障が出ている人などはいないだろうか。

 最近も,「働き方改革」のためのアンケート調査に協力した。

 私は「イライラする原因」として,「こんなアンケートがいっぱいやってくること」というコメントを書いておいた。

 アンケートに協力したところで,何かが変わる見込みが全くないか,むしろ状況が悪化することが予想できる人はたくさんいるだろう。

 「働き方改悪」にならないように,注意してほしい。


 四十七士たちは,本当に「本懐」を果たしたと言えるのだろうか,というのが私の直観的な疑問である。

 江戸時代の人たちは,武士に限らず,本当に不便な世の中に生きていたのだと同情してしまう。

 ただ,その不便さの中には,いくつもの「終わらないための仕組み」があったことにも気づく。

 今は,便利な世の中になったが,それは「終わるための仕組み」に組み込まれただけ,と考えることもできる。 

 命は終わった(失われた)が魂は受け継がれた,という言い方で賞賛するのも怖いものだが,

 今,至る場所で「魂の伝達が途絶えた」ことで苦悶している職場が増えているのではないだろうか。

 「不便さ」が多すぎる教育現場は,逆に,「魂の伝達」がしやすいと思いきや・・・。


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12月13日 双子の気持ち

 双子の漫才師やお笑い芸人をときどきテレビで見たことがあったが,

 「苦労も多いだろうな」という印象ばかり抱いてきた。

 そういう双子の兄弟・姉妹をたくさん見てきたからである。

 「比べる」という思考は,非常に小さい頃から可能になる能力であり,

 「比べられることの苦痛」を味わった期間がとても長いという人もいるだろう。

 冒頭で述べた漫才師やお笑い芸人の双子は,そういう苦痛を逆に

 笑いに変えてしまう特別な能力があったのかもしれない。

 ウケないときの痛さも尋常ではないものの,「家族」だから痛みも分かち合えるのだろうか。

 そういう子どもたちの面倒を長く見てこられた親御さんの苦労は想像しにくいが,

 教師をしていると,

 同時に複数の子どもに同じような愛情を注げる能力も大切だと感じた。

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12月12日 いい字一字は「北」?

 「漢字の日」に選ばれる「今年の漢字」は,「北」であった。

 北半球の人にとっては「高緯度で寒い方」のイメージ,

 南半球の人たちにとっては「低緯度で暑い方」のイメージなのだろうか。

 「北(  )」の(  )にあてはまる漢字1字は何だろう?

 と子どもに聞いたら,「風」とか「極」などと答えるかもしれない。

 清水寺の「北」が少し汚い字だという印象をもつのは素人だからだろうか。

 背中合わせで対話を拒むのはよくないと言いながら,

 自分たちもその片割れに過ぎないことに気づけない人がいる。

 子どもの方を向いていない教師にはほとほと困り果てる。


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12月11日 UNICEFがUNCFではない理由

 国連児童基金= United Nations Children's Fund だから,ユニセフにはならないはずである。

 ユニセフは,国連児童基金の前身の国連国際児童緊急基金=United Nations International Children's Emergency Fund のときの略称をそのまま使っている。

 UNCFだとどのように発音するのだろう。

 今,略称で困っているのはSDG'sである。言いにくい。ESDくらいなら,まだましだったのだが。

 さて,日本はかつて脱脂粉乳などの援助を受けている。

 今,日本はどのような恩返しができているのだろう。

 「憎む対象の国」を報道するとき,困っているその国の子どもたちを映し出すことはしない。

 指導者を困らせるための制裁措置だが,最も弱い人間から順番に犠牲になっていくことを想像できるようにしておきたい。

 「他国の子どもたちを殺す国」という悪評を広められることによるダメージも大きい。

 報道されないものに目を向けることの意味を考えられるようにしておきたい。


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忖度損のくたびれもうけ

 忖度することで地位が向上したり利益を得たり安定を維持することができる人たちが生まれるシステムは,大学の世界でも同じであることがよくわかった。

 ただ,大学では研究室を持つ教授レベルの人間が資金獲得のために不正を働き,それがバレて数々の実験の積み重ねがすべて水の泡になってしまう人たちが増えているようだ。

 忖度損のくたびれもうけをしたポスト待ちの研究者はどのくらいいるのだろうか。

 これも,「21世紀の日本」の典型的な姿だと未来の歴史書には記されるのだろう。

 アメリカの場合,競争原理が不正を招くことを防止するシステムに相当の資金を使うようになっているそうだ。

 その資金が本来の研究に使われることを,ほとんどの研究者は期待しているだろうに。


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12月10日 国連による国連のための人権

 学校現場を「大学教員による大学教員のための教育」から救うために,教師や子どもができることを考えなければならない。

 その教科は,その科目は,なぜ子どもにとって必要なのか。

 新しい学習指導要領では,教科独自の「見方・考え方」を働かせて学習できることに教科の意義を持たせる方針としたのだが,それらを総合させて働かせることが重要だと言っているのだから,そもそも教科別に一面的な「見方・考え方」を育てただけなら意味がないことを自分で言っていることにもなる。

 組織は良きリーダーが不在だと,組織の存続のために動いているとしか思えない状況が多く生まれてしまう。

 「大学教員による子どもたちの未来のための教育」がなされずに,「教員本人のための教育」が登場してしまうのは,自分自身や自分のポストの存在証明をする必要があるからである。

 さて,国連に対して,世界人権宣言がいかに「絵に描いた餅」に過ぎないか文句を言いたいわけではないのだが,理想と現実のギャップがあまりに大きくなり,「機能しない国連」という評価が定着してしまわないようにするため,また,「国連という組織を存在させるためだけの活動ばかりしている」という反発を生まないようにするために,もっと「国連らしさ」をPRするソフトパワーを伸ばしてほしいという願いがある。

 10個のスコップがあるときに,100人にこれを使って穴を掘れ,と言われたときは,10人1組で交代で使う,という方法がある。

 しかし,水をくみ出す手段としてそのままスコップを使わせたり,網をもってきたりするのは愚かなことである。

 水たまりの水を,道路の真ん中にうつすだけ,ということを平気で行っているのが教育現場である。

 効率を重視する世の中だから,ポンプと発電機を持ってくればすむのかもしれないが,そういうことをしているから,いろんな可能性をつぶされる人たちが出てきているのである。

 「人海戦術」という言葉を調べてみると,いろいろと恐ろしい歴史や背景が見えてくる(日本では,山の中で行方不明になった人を探すときなどに使っているが,背景を知っている人なら使うのを躊躇するような言葉である)。

 背景を無視して,「平和な社会を築くためにできる人海戦術とは何だろう」という問いを立てたらどんな答えが出てくるだろうか。

 「大勢でできること」「みんなでできること」・・・日本の地域社会の中では,かつてはいくらでもあったもの。

 人口は減少しても,それさえあれば何とかなったはず,という何かが,今は失われている。

 問題は人口減少ではなく,「みんなでできること」なのにそれをしなくなっている,という現状である,ということに気づけるかもしれない。

 政権は,「選挙に人海戦術で投票しに来られる」と,本当に困ることになるかもしれないが,民主主義国家を守るのは国民であって,政府ではないことに気づいてほしい。

 
**********************

【世界人権宣言 第1条】 
 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

【世界人権宣言 第19条】

 すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

【世界人権宣言 第26条2】 

 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。

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12月9日 弱い立場の人を利用する卑怯を許さない

 弱い立場の人たちが,強い立場の人に利用されることがある。

 強い立場の人たちが,弱い立場の人たちを助けたり救ったりするという名目で。

 表面上は,弱い立場の人たちのための行動に見えても,

 実際には自分の利益のための行動でしかないものもある。

 教育の世界では,弱い立場にいる子どもだけでなく,弱い立場にいる教師も全部ひっくるめて利用しようとしている人間がいる。困っている状況につけ込んで,「実証的なデータがある」ことを根拠に,罠にはめていく。どうしたら教師が騙されずにすむのか,弱い立場の教師たちは真剣に考えていかないといけない。

 これからの社会は,技術の進歩によって,障害をもっている人たちの不自由が少しずつ減っていくことになるだろうが,それが本当に必要な技術なのかどうか,障害をもっている人の側も考えていくべきだろう。

 「弱さ」はだれもが持っている。障害はないと自覚している子どもや高齢者,健康を維持している妊婦さん,非正規雇用の人たちに限らず,だれもがみんな「弱さ」を持っている。

 「弱さ」を無理矢理「強み」に変える解釈をする必要はない。

 種類は異なるが程度が同じ「弱さ」を持っている人間同士で助け合うことができているから,だれもが困らずにすむ社会が成立してきたはずである。

 社会の常識の中には,あまりに「当たり前」すぎて,いかに価値の高いものかを気づけずにいるものが多いかもしれない。

 「障害者の日」には,何が社会の常識なのかをふり返ってみるのもよいだろう。


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12月8日 リメンバー・パールハーバー

 国が戦争に向かうことを国民が賛成するか反対するかは,民主主義国家に限らず,国にとって重要な関心事だろう。戦争で死ぬのは国民なのだから。

 では,反対する国民が多い場合に,世論を賛成に向かわせるためには,どうしたらよいか。

 自分が死ぬことに賛成する人は少ないから,勝つためにできることを考えさせれば,相手の国の指導者を倒すことが一番よいということになる。しかし,指導者を守る国民がいるから,結局,相手の国の国民をたくさん殺すことになる。

 どうしたら相手の国の人たちを殺せるようになるか。

 殺したいほど憎ませればよい。

 どうしたら憎ませることができるか。

 憎むきっかけになりそうなことを,片っ端から宣伝するに限る。

 あまり知恵のまわりのよくない指導者は,そういう宣伝が結局相手の国から憎まれることになれば,自国だけではなく敵国の国民も「やる気」にさせることにつながる。

 ベスト?なのは,こちら側に何の落ち度もないのに,相手が一方的に悪いことをしている,という認識を国民に持たせることである。

 リメンバー・パールハーバーは,アメリカが日本への憎悪を向きだしにするための合い言葉となったが,今では,日本とアメリカの外交交渉や,日本がとった決断についての「記憶」も含めて人類が遺産とすべきである。

 「失敗から学ぶ」ことをスローガンにした教育をしてくれれば,過ちを繰り返さずにすむ国が増えるかもしれない。

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底辺での思い出が頂点になる

 私がかつて勤務していた中学校が,「底辺」に位置しているという理解は,正しくて誤っている。

 常識では起こりえない問題行動が頻発する。

 親も自分の子どもをどうしていいかわからないのだが,教師たちは文字通り路頭に迷っていた。

 校長や教頭はひたすら教員の悪口ばかりを言う。

 教員は校長や教頭の悪口ばかりを言う。

 親は教員の悪口ばかりを言う。

 教員は親の悪口ばかりを言う。

 子どもたちは・・・。

 こういう人間たちのせいで,すべてを台無しにされ続けてきたのである。

 学力は低い,問題行動(犯罪行為)は起こす,秩序は乱す,部活動はさかんでない・・・。

 「こういう中学校に自ら進んで異動しろ」「荒れた学校で働くことの意義は大きい」などと堂々と語れる指導主事は今,どのくらいいるだろうか。

 かつてそのような指導主事が多かったのは,自分たちがそこで多くを学んで指導的な立場になれたからである。今では・・・・消耗戦が続く現場からはため息しか漏れてこないのだろうか。

 荒れた学校でよくある光景を最初に紹介したが,これをなくすだけで学校はすぐによくなってしまう。

 他人の悪口を言う暇があったら,子どもが必死にもがいている姿を自分はしっかり「見ていた」という痕跡を残せばよい。いちいち褒める必要はない。「見ていてくれている」ということが,どれだけの安心感や満足感をもたらしてくれることか。
 
 私の勤務校では,たまたま,高度なネガティブ・ケイパビリティを持った教員が多かったせいか,荒れは次第に姿を消していった。

 教育の専門家を名乗る者の中には,「底辺」の思い出が「底辺」のままで終わっている人間がいる。

 そんな人間から学べることなど一欠片もないだろう。

 さっさと「底辺校」から逃げ出した人間の言うことに耳を貸す必要はない。

 その場に「居続ける」ことでしか得られないものが山ほどある。

 論文をいくら積み上げたところで,何の意味もないことは現場の教師なら痛いほどわかるだろう。

 地面をほじくって地中深くに沈んでいくような研究は意味がない。

 荒れた学校での1日1日は,山頂が視界に入らないタイプの登山に似ている。

 同僚や生徒たちと一緒に頂上で見た景色は生涯忘れることのできないものになる。

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12月7日 131年前のクリスマスツリー

 日本で初めて登場したツリーには,どんな飾り物がついていたのだろう。

 木を信仰の対象にしていたのは,もちろんキリスト教徒だけではない。

 なぜ飾りを必要とする文化になったのだろう。

 学校の文化祭となると,ハロウィンの時期と近いので,やたらと飾りをしたくなる生徒が多い。

 それは,たいてい内容の乏しい団体である。

 飾りなどは必要ない,という堂々とした自信に満ちた生徒がいるのは嬉しい。

 平家物語に登場する武士は,これでもか,というほどの装飾品を身にまとっている。

 源氏物語に登場する人物も,持ち物でレベルがわかる仕組みになっている。

 飾りものを否定する文化と,それを大事にする文化のせめぎ合いが,教育の場ではよく起こる。

 制服を一新する,というのは「飾りを変える」という発想だろう。

 制服を変えようとすると怒り出す人がいる,という伝統校と,

 何でもコロコロ変えたがる風見鶏校と,どちらを選ぶかはもちろん人の自由である。

 横浜の明治屋の磯野計(はかる)さんは,外国人を喜ばせるというサービス精神でクリスマスツリーを飾ったのだろう。

 学校がサービス業に変質してから,どのくらいの年月が経ったのだろう。

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情報による社会的制裁は「いじめ」とは別物か?

 大相撲の「横綱」という地位に対する理想像が異なる現役横綱と元横綱がいる。

 一方は常勝こそ横綱の地位の証とする人間,もう一方は「模範的存在」であることを重視する人間。

 負けた後に悔しがったり,審判に対して不平不満を態度で示したりするのは「大横綱」とは言えない,とする後者の人間にとって,勝ち続けてきた現役横綱が目の敵であることは想像できる。

 「膿の出し切れない組織」の代表例になってしまいそうな相撲界だが,

 国際化の波に押し流されて消え去りそうな「伝統文化」がまだかろうじて維持されているのも相撲界だろう。

 「勝ちにこだわる横綱」がいても面白い,という人もいるだろうし,

 「そういう横綱の弱く哀れになった晩年」を楽しみにしている意地悪な人もいるだろうし,

 「人間が小さい勝負師」の後に出てくる「本物の横綱」が際立つことを楽しみにしている人もいるだろう。

 相撲に興味はないが,揉め事を飯のタネにして生きている人たちもいる。

 「今が叩きどころ」と思うと,握っていたネタや,過去のネタを振りかざして儲けていく。

 問題を起こした人間というのは,警察や検察の取り調べ,裁判,罰金刑などよりも,とにかくマスコミなどによるバッシングが何よりもキツイ「制裁」になるのではないか。
 
 裁きどころを知っている人たちほど怖い存在はない。

 子どもがもしも,問題を起こした特定の人間に同じような「社会的制裁」を加えたら,学校は「いじめ」と認定しなくてはならなくなる。

 同じような行為を「いじめ」とは呼ばなくなる境界線とはどこにあるのだろう?

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12月6日 声の大きい人間は信用するな

 必要以上と思われる大きい声で話す人間がいると気づくと,たいていそれは教師である。

 「この人,耳が遠いのだろうか?」と誤解する方もいるだろう。

 教師は,時と場合によっては,かなり大きな声を出さなければならなくなる。

 重要な指示を出すときに,ざわついたままだと困るからである。

 静かにさせるコツが使える場面もあるが,使えない場面には仕方なく大きな声が必要になる。

 ただ,職業病のように,常に大きなボリュームで話す人がいて,こういう教師は絶対に信用するなと子どもにも自分にも言いきかせている。

 こういう人間とまともな話が続けられるほど教師という職業の人間は我慢強い人しかなれないものなのだが,そういう甘やかされた環境の中にあって,度を越した何かを持ち続けてしまう人間が教師にはいる。

 相手が嫌がっているとか,困っているという状況が理解できない教師に,進んでかかわりを持とうとする教師や子どもはいないから,ますますこういう人間は「裸の王様化」していく。

 私は聴覚が異常なほどに敏感で,以前にも書いたかもしれないが,オーケストラの演奏など絶対に聴いていられない。

 音の日には,子どもの寝息が聞こえる静かな夜を過ごしたい。

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12月5日 子どもと教師を「捨て石」にする人間

 ボランティアとして人間を「利用」できる組織がある。

 文字通りの「捨て石」なら,相手にわたるから,持ち主が代わるだけで「生かされている」状態は残る。

 しかし本当に捨てられてしまう石は,二度と同じ場所に浮かび上がってはこない。

 SNSでのやり取りを「高みの見物」ですませられる場所にいる人間には,現場での痛みは理解できないだろう。

 自分が勝手に痛い思いをすることができても,相手の痛さに気づけない人間というのがいる。

 本人がつらそうにしていれば,一見すると,まとな人間=感情のわかる人間に見えなくもないが,他人の痛みが理解できない人間に,教育を語る資格はない。

 自分の経験則を未知の集団に対して無責任にあてはめようとする人間を,教育現場に出て行けない人たちはどう思っているのだろう。社会人になったとき,「こういうのが使えない上司というのか」ということがよくわかるのだろう。

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ネガティブ・ケイパビリティ~解決困難な問題に正対し続けられる資質能力

 また小難しいカタカナ語が出てきたなと反発される向きもあろうが,

 「ネガティブ・ケイパビリティ」は日本語に訳しにくいことこの上ない。

 しかしこの「能力」を重視せずにはいられない人々がこれから増えていくはずなので,あえて訳さないというのも一つの方法である。どう解釈したらイメージがしやすいか。

 ネガティブはポジティブの反対語だから,「消極的」「否定的」が真っ先に思い浮かぶかもしれないが,

 「プラスとマイナスのマイナスの方」「正と負の負の方」というのがここでは一番ピッタリくる。

 ポジティブ・シンキングを「プラス思考」というのに対し,ネガティブ・シンキングを「マイナス思考」と呼んでいるように。 

 次に,ケイパビリティという言葉だが,

 経営学や防衛産業で使われている「手腕」「能力」「性能」という意味で,

 単語ではアビリティ(これも「能力」)の前に「cap」がついているものである。

 「able」と「capable」という単語の意味はほぼ同じようだが,

 「capable」の方には「受け入れる余地がある」という意味で使える。

 「capacity」(能力,最大限の収容能力,包容力,度量)という単語に

 やや近いイメージだろうか。

 つまり,「ネガティブ・ケイパビリティ」とは私なりに直訳すると

 「負の事象を受け入れる力」が一番イメージに合っている。

 だれがどのような意味で使い始めた言葉なのかというと,帚木蓬生さんの著書によれば,詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていた能力だと指摘していたこととして紹介されている。


>どうにも答えの出ない,どうにも対処しようのない事態に耐える能力

>性急に証明や理由を求めずに,不確実さや不思議さ,懐疑の中にいることができる能力

>(詩人がアイデンティティを必死に模索する中で,物事の本質に到達する前の)宙吊り状態を支える力

>不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ,不思議さや疑いの中にいる能力

>対象の本質に深く迫る方法であり,相手が人間なら,相手を本当に思いやる共感に至る手立て

>〈問題〉を性急に措定せず,生半可な意味づけや知識でもって,未解決の問題にせっかちに帳尻を合わせず,宙ぶらりんの状態を持ちこたえる(能力)

>(学校教育や職業教育では)問題が生じれば,的確かつ迅速に対処する能力が養成されるが,ネガティブ・ケイパビリティは,その裏返しの能力です。論理を離れた,どのようにも決められない,宙ぶらりんの状態を回避せず,耐え抜く能力です


 キーツが文学・芸術の領域でその有益さを示したネガティブ・ケイパビリティを精神療法の場においても必須の要素だと考えたのがビオンという精神科医,精神分析医であった。


>ネガティブ・ケイパビリティを保持しつつ,治療者と患者との出会いを支え続けることによって,人と人との素朴な,生身の交流が生じるのだとビオンは説きました

>(ビオンは同じく,精神分析医も,患者との間で起こる現象,言葉に対して,同じ能力が養成されると主張したのです。つまり,)不可思議さ,神秘,疑念をそのまま持ち続け,性急な事実や理由を求めないという態度


 ビオンが抱いていたとされる危惧は,そのまま教育者,企業の経営者などにもあてはまることと考えられる。


>精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があります。若い分析家たちはその学習と理論の応用ばかりにかまけて,目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちです。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく,精神分析学の知識で患者を診,理論をあてはめて患者を理解しようとするのです。これは本末転倒です。


 日本の文化の事例にあてはめてみると,「道」を究めた人が行き着く「無の境地」というイメージに近いものだろうか。

 物事の本質を見極める上で,山の頂を想像し,「頂点」から展望が周囲に開けた状態,「ものの見方」よりもっと広い視野が持てて,焦点もあちこちに浮遊できる状態から始めるという方法も参考になった。

 帚木さんの著書には,黒井千次氏の「知り過ぎた人」という随筆の一節も紹介されている。


>それにしても,とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには,簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は,それを抱く人の体温によって成長,成熟し,更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては,一段と深みを増した謎は,底の浅い答えよりも遙かに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。


 この文章が紹介されている第三章「分かりたがる脳」の最後を,帚木さんは次のように締めくくっている。


>全くそうです。ネガティブ・ケイパビリティは拙速な理解ではなく,謎を謎として興味を抱いたまま,宙ぶらりんの,どうしようもない状態を耐えぬく力です。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して,耐えていく持続力を生み出すのです。


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12月4日 データ分析で野球が変わった

 12月4日は日本の近代統計調査の先駆者である杉亨二さんが亡くなった日である。

 総務省統計局のHPにその一生が紹介されている。

 統計データは,持っているだけでは意味がない。

 それをどう活用するかが重要である。

 2015年にMLBで始まったデータ分析が,わずか2年で結実したらしい。

 ホームラン数が異常な増え方をした2017年は,

 いわゆる「飛ぶボール」のせいだろうと勝手に予想していたが,

 どうやら「フライボール革命」が起こっていたということである。

 来年の日本でも起こるかどうかはわからないが,

 打球の速度と角度によってホームランになるかならないかが明確に

 示されることで,数字を意識したバッティングに変わったそうである。

 データ革命によるMLBの進化が,日本にも影響を及ぼすかどうか。

 データ野球と言えば,かつては野村監督やその指導を直に受けていた古田捕手をすぐに連想するのだが・・・。

 数学者や統計学者が活躍する場が,野球を始めとしたスポーツの世界に広がっていくのだろうか。

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12月3日 今年のみかんの出来

 昨年,今年と,みかんの出来が今ひとつである。

 夏の天候不順が響いているのではないか。

 私は毎年みかんを30kgくらい買っているが,3分の2は人に差し上げている。

 今年は差し上げにくさを特に感じているところである。

 2年連続で夏らしい夏ではなかったせいか,体の方もどこか不調になっている人が多いのではないかと想像してしまう。

 実は教育の世界でも,「不調感」を抱いている教師は少なくないのではないだろうか。

 「いじめ」や「体罰」,「暴力」などを隠さないようになってから,学校のダメっぷりはもう当たり前すぎて逆に報道されないようになってきているが,それが何の劣化に基づいているものなのか,そろそろ子どもでも気づき始めているような気がする。

 これはもちろんたった2年の天候不順のせいではない。

 教師を教える立場の人が,大幅に入れ替わり始めていることが原因ではないだろうか。

 日照不足である。

 教育界では温暖化とは真逆で氷河期に入ろうとしているのかもしれない。

 だからこそ,今までにはあり得なかった教育が入り込むすきがある。

 学習指導要領に示された目標を無視した教育の蔓延は,理想に近づく一方で,逆の効果=法令遵守徹底指導を招く危険性がある。

 「台風の目」として大躍進を見せていた政党が,「温帯低気圧」と揶揄される事態に陥っているが,猫の目のように変わる政治の姿にも,日本の危機が写し出されている。

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マリオが総理大臣ならピカチュウを防衛大臣,ハローキティを外務大臣に

 河野外相の英語版ツイッターが日本語版のそれよりも注目されていることが話題になっている。

 日本では「政治の幼稚化」の象徴のように見えてしまうかもしれないが,

 政治よりも文化が社会をつくってきた国の人々にとっては,何の抵抗も感じられない出来事なのかもしれない。

 日下公人さんは,何年も前から「ピカチュウが世界を変える」ことを予言されていた。

 「こんな素晴しい国に生まれて良かった」と締めくくられているアメリカ人の子どもの作文を紹介して,そこに登場する電気製品やアニメなどがすべてメイドインジャパンであることを教えてくれている。

 幼児たちがもつ純粋さと残酷さを,そのまま大人に表現されてしまうのも考えものだが,日本が世界を動かすとしたら,それは文化の力によるものに違いないだろう。

 アニメの世界への熱狂的なファンがすでに大きく成長し,何か普遍的な価値を認めてくれてしまったようなタイミングである。チャンスを逃さない機動力を政治に行かせる人が登場したのだろうか。

 オリンピックの会場に総理大臣がマリオの姿で登場した国である。

 閣議も着ぐるみで実施してみたらどうか。

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12月2日 核分裂がつくった世界

 1945年以降の世界秩序をつくったものの一つが,核兵器である。

 12月2日は,アメリカのシカゴ大学が,ウランの核分裂の持続的な連鎖反応に世界で初めて成功した日で,「原子炉の日」とされている。この日から3年後に「実用品」となった原子爆弾が,日本で使用された。

 核分裂の力がつくった世界は,その力によってすべてが滅ぼされようとしている。

 「日本のために復讐を果たしてくれようとしている国がある」と勘違いしている人はいないだろうが,将来,日本人の多くが「原爆のおかげで被害者が少なくなってよかった」と本気で信じるような世の中になるのも恐ろしいことである。

 グローバルな競争に向かうための「思考力」の育成に力を注いでいるうちに,いつの間にか「日本人はいなくなった」ことに気づく日がやって来そうで心配である。

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12月1日 冬の省エネ総点検の日

 1980年に資源エネルギー庁が中心となって,「省エネ」への取り組みを国民全体に広げる活動が始まった。

 背景は言うまでもなく,1970年代にあった2度のオイルショックにある。

 毎月1日は「省エネの日」,

 毎年2月が「省エネ月間」となっている。

 夏の31度をエアコンで25度くらいに冷やすのと,

 冬の0度を18度くらいに温めるのと,どちらがエネルギーを多く消費するかは言うまでもない。

 計画停電が実施されたとき,「寒さをしのぐには服を重ね着すればよい」とまさに「鏡」としての言葉を残された方がいらっしゃった。

 夏に節約を意識しすぎて熱射病になるのもダメだし,

 冬でもやせ我慢はいけないと思うが,体を温めるための工夫はいくらでもある。

 資源エネルギー庁のHPに,「一般向け省エネ関連情報」というコーナーがあり,

 省エネのコツ,具体的な行動とその効果が

 エアコン,照明,キッチン,自動車など,使用機器ごとに示されている。

 こういう電気・電子機器に将来,省エネAIが組み込まれると,人間がいかに無駄な欲をたくさん抱えているかが実感できる生活を送れるようになるかもしれない。

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11月30日 いい鏡になれるかどうか

 小中学生よりも,一部の国会議員にとっての方が,「道徳教育」が必要である。

 じいさんばあさんへの「道徳教育」はだれが行ったらよいのか。

 もう,その担い手として考えられる人は,たった二人しかいない,という事態だけは避けたい。

 今は,「平和な国である日本」の象徴の立場だが,かつては異なる立場にあった。

 その頃と同じ状況を復活させたい人はいないはずだが,

 かつての立場と真逆であれば,期待をかけられる最後の希望となることは確かである。

 票を失うことをおそれずに,人を叱れる人がいなくなれば,だれを頼りにすればよいのか。

 最後の切り札を使うべきときを,「道徳教育」が必要な人間たちも考えているのかもしれない。

 「鏡」となりうる人に,もっともっと「鏡」としての発言をしてもらいたい。

 子どもたちの信頼を裏切り,信用をなくし,不信感を高める大人を懲らしめるのは,だれの役目なのか。


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«11月29日 服と肉

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より