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チェック段階でも間違える場合,どうしたら「正しい」結果が出せるのか

 サッカーでは「シミュレーション」という用語を使っているようだが,要するに「インチキ行為」に当たる動作で自分のチームを有利に導く「技」が認知されてしまっているスポーツでは,「ビデオ判定」を望むこともないだろう。

 広いフィールドなのに,わずかな数の審判で判定しなければならないのはつらい。

 サッカーの「シミュレーション」は,私から見れば,書店やスーパーでの万引きと同じようなものである。

 判定は判定として,試合後に「シミュレーション」や「陰でのファール」が見つかった場合は,容赦なく処分してもよいと思う。

 プロ野球では,「ビデオ判定」での「誤審」というまた変わった出来事が発生した。

 どういう対策がとれるだろう。

 ビデオの台数を増やし,たくさんの角度から検証するのか。

 フィールドの審判はすべてカメラマンにして,映像をコンピュータが判定し,その結果をフィールドのカメラマンが伝える,という仕組みができるのか。

 プロにとっては,「誤審」が明日のご飯代にかかわる重大案件になる可能性がある。

 教育の世界でも,入試における「誤り」は避けなければならない大きな課題になっているが,どんなにチェックしても,間違いは生まれてしまう。

 チェックを増やせば増やすほど,確実になる,という保証はない。

 時間や労力が余計にかかっているうちに,人気がなくなる,という危険性もある。

 「チャンスは1回しかない」という緊張感と実力は,選手だけではなく,専門家としての審判や教師たちにも求められるのは当然である。選手と同様,ご飯代をかけて守り抜くものが必要である。

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全国の「ブロック塀」問題

 尊い命がまた地震によって奪われた。

 「その命は奪われずにすんだはずだ」という声は,どんな災害でも,必ず上がってくる。

 あのブロック塀は,明らかに「高すぎ」だった。

 「目隠し」目的で継ぎ足したブロックの代わりに,もともとあった「金網」にシートをつければよかったはずだ,ということは後になって考えれば,だれでも思いつく。

 「業者の点検によれば,安全だった」のならば,「安全」の基準が間違っていたことになる。

 資格のない人間の点検など,「点検」とは呼べない。

 首都直下型地震が発生した場合,そもそも「安全」な場所などあるのだろうか。

 自分の身は,どうにかして自分で守らなければならない。

 ビルの下にいれば,ガラスが降ってくる,

 橋の上にいれば,崩落するかもしれない,

 といった「危険察知能力」は,どうやって高めることができるのか。

 「防災教育」の重要性がますます求められるようになるだろうが,カバーすべき範囲が非常に広い。

 「高い壁の近くはなるべく歩かないようにする」という判断力を,小学生にも求めるのか,どうか。

 全国には,倒壊の危険性のあるブロック塀が至る所にある。

 小学生の「町探検」のテーマにしてもよいのだろう。

 多くの自治体では,「ブロック塀調査」を進めているはずだが,学校も,「調査」を教育委員会任せにするのではなく,保護者を巻き込んで,「危険地帯探し」をすぐにでも始めた方がよい。子どもの「調査」能力を高めることで,将来の災害で救える命はたくさんあるはずである。

 「あいさつ運動」などが小学校になければ,犠牲にならずにすんだ,など,

 災害後に後悔してしまうことは,山のようにある。

 「危険」を声高に叫び続けると,何もできなくなるし,「いざというときは何とかなる」という「根拠のない自信」だけを頼りにしてはならない。できることから少しずつ,続けていくことが大切だろう。

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危機管理「術」の利用は「悪」のイメージを固定化する

 報道の仕事を小中学生が学ぶと,

 「大きな事件が小さな扱いになること」

 「小さな事件が大きな扱いになること」

 があるのがわかる。

 何をどの程度の重みで報道するかを決めるのは,各報道機関である。

 たいした事件がないときは,たいした問題でもないことを,延々とコメントでつないで時間を埋める。

 一方,大きな事件があるときは,同程度に重い事件が他にあっても,「世間の関心がより高い方」を選び,思いっきり時間を割いて報道する場合がある。ときどき,「なぜこの事件を扱う時間がこんなに短いんだ」という苦情が寄せられることがあるという。利害関係者が多い民放では,いろいろと気を遣う必要があるのだろう。日本の民放の特色は,「お金を払っている人」が視聴者ではなくスポンサー企業であること。だから「報道できない事件」もある。

 今,大事な会見を,「どさくさに紛れて実施した」と見られている人たちがいる。印象がとても悪い。

 「注目してほしくない理由があるのではないか」と勘ぐられてしまう。

 危機管理の専門家は,もし「注目してほしくない理由」がある場合,

 「どちらのダメージがより小さくてすむか」を考えて,対策を講じるのだろう。

 「あいつら,怪しいぞ」と疑われたくなければ,会見の時期をずらすかもしれない。

 しかし,すでに,「完全に怪しい」と思われてしまっている場合は,

 堂々と「どさくさに紛れる」道を選択してしまうかもしれない。

 危機管理「術」がまるでない大学も問題だが,

 危機管理「術」を「悪用」していると見られる大学も問題である。

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教育管理職や教師に求められる「火消し」の能力

 教育は,ナマの人間と人間のぶつかり合いである。

 綺麗事を垂らしていれば収入が得られる教育関係者もいれば,子どもと向き合ってお互いに心の血を流し合っている教師もいる。教育現場は,「戦場」である。

 ごく一部に,「自分は綺麗なままでいたい」と願う教師が出てくるが,すぐに辞めて,もっと「綺麗事ですむ」仕事についてもらった方がよい。

 教育現場の多忙感は,特に,「人間関係のトラブル」が発生しているとき,容易に臨界点を超えてくる。

 一番面倒臭いのが,子どもや保護者と揉める教師の存在である。

 「火消し」しなければならない周囲の教師や教育管理職の能力が問われる。

 もし本気で「揉め事が起きないようにする」のなら,その最高の危機管理法は「揉め事を起こしやすい人間を組織から外す」ことである。ただ,学校という狭い世界では,それも難しい。

 危機管理のポイントは,「大火事にならないようにすること」である。

 「火消し」の最大原則は,「相手の尊厳を傷つけないこと」に尽きる。

 ただ,そもそも「尊厳を傷つけること」で火がつくわけだから,鎮火するのは簡単ではない。

 どこかの大学のように,よくあるパターンは,「火を消すつもりがないのか?」と思えるような人間たちの言動である。

 「何がどうなっても,とにかく自分を守りたい」と思う人間がいるうちは,危機管理など不可能である。

 教育には,「犠牲」の精神が大事である。

 ほとんどの教師は,自分を「犠牲」にできる。

 それができない人間を現場に送り出すのは,だいたい決まって「同じ人間」である。

 自分の業績を書き立てて,「よく見せよう」とする努力を怠らない人間と,声の大きい人間の近くにはいない方がよい。人間は,美点よりも悪癖が伝染しやすい生き物である。

 教師は,自分の子どもとあまりかかわり過ぎない方が,子どものためである。

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「社会通念上のいじめ」と「法令上のいじめ」

 社会通念上,教室でぐずぐずしていて,次の授業に遅れそうな子どもに対して,友人が「早くしろよ」とせかすことは,「いじめ」とは呼ばないはずであるが,せかされた子どもが苦痛を感じたら,「法令上のいじめ」に該当することになる。

 「いじめ防止」とは,「相手の心に苦痛を感じさせる行為の防止」であり,将来は,法律にのっとって,次のような「いじめ」を主張してくる子どもが出てくるかもしれない。

 私は,他の人より成績が劣っていることが苦痛である。

 授業中に,私が答えられなかった問いに対して,他の生徒が答えるのを聞くのは苦痛である。

 私はこうして「いじめ」を受けている。

 すべての生徒が,私よりも成績が下にならなければ,「いじめ」はなくならない。

 子どもを「いじめ」から守るための法律が,子ども全体を「ダメ」にしてしまう,という危険性を感じずにはいられない。

 道徳教育を受ければ受けるほど,真面目に生きていくのがバカらしくなる,という最悪の結果にならないための「手立て」が必要である。

*****************

 W杯で日本がコロンビアに勝利したことが,ある国にとっては「恥辱」と受け止められているようだ。

 特定の国が勝つと「自尊心が傷つけられる」という精神構造は理解できなくはないが,もう少し「大人」になってほしい。

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教員の校長批判に乗れる人間の質

 昔から,「いい校長」には2つの意味がある。

 生徒のことを第一に考える校長と,教員のことを第一に考える校長である。

 後者の場合,多くは「教員にとって都合がいい校長」という意味である。

 以前にも記事にしたかもしれないが,あるサイトで,「指導力不足教員」が校長や教育委員会を敵視して,「自分をおとしめようとしている」として詳細な事情を公開している。読めば読むほど「典型的な指導力不足教員」である。昔なら,こういう人でも教員が続けられたのだが,親や子どもが「問題」を「問題」として指摘できる「民主主義」のこの時代,もはや「かばう」のは不可能である。

 指導力不足教員の多くは,「昔は自分のような(あるいは,自分よりもっとダメな)教員がたくさんいたはずだ」と思っているかもしれない。「昔」なら,その通りかもしれない。私の子ども時代は,毎日数人を殴る小学校教師が親から感謝されていたのだ。しかし,今は「子ども」の声を聞く時代である。

 校長は,教員に比べて多額の退職金を手にして現場を退けるから,「波風立てずに消えていく」ことを理想としている人がいるかもしれない(もちろん,一般の教員でもその退職金は決して少ない額ではないが)。

 ただ,今は,校長も「子ども」や「親」と同様に,「言いたいことを言う」時代である。

 「経営者の理念」を持っていない人間は,管理職試験に合格できないようになっている(はずである)。

 経営者が「言いたいことが言えない」「言いたいことを言わない」ことが長く続いたせいで,プラスに働いた面もなくはないが,公立学校は致命的な欠陥を抱えることになる。

 今,校長が教員に「言っていること」は,大昔から文科省や教育委員会がずっと「言ってきたこと」である。

 役所の通知文はPDFファイルでだれでも見られる時代だから,校長より早く教員が読むこともできる。

 しかし,そういうたぐいのものは,管理職を目指している教員以外は絶対に見ないし読まない。

 校長が変わって,あれこれうるさくなった,と感じている教員は,一度民間企業に出てから教育現場に戻ってくれば,やっと「まとも」になれる,と教育委員会は真面目に思っている。

 ある地方の大学のセイセイが,教員の愚痴に乗っかって,校長批判をしているが,

 自分の考えとは異なる主張をする人間を「排除」し,同じようなレベルの「仲間」(当人は「同志」と呼んでいる)を集めて時間を浪費するのは,昔の教職員組合と同じである。加入率が極端に下がり,存在理由がなくなってきた組合を見捨てて,新しい「居場所」を探している人間を,「排除原則」をもった人間が「居場所」を提供している。

 外部で校長批判をするような人間には,「真の協調性」をもつ人間は育成できない。

 異なる考えをもった人間を「排除」する人間に,「真の協調性」の大切さは教えられない。

 「一人も見捨てない」などと言いながら気に入らない子どもを「排除」し,自分の考えを子どもに押しつけ,校長と敵対し,自分を認めてくれるただの部外者とつながっているだけの人間に,目を覚まさせるにはどうしたらいいのだろうか。

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「カオナシ」の反抗と犯行

 健気に生きようとする子どもや人を助けるために勇敢な行動を起こした人が殺される。

 ニュースでは毎日のように痛ましい事件が報道されているが,新幹線殺傷事件については,それが20歳を過ぎた「少年」の犯行であることに「ひっかかり」を感じた人も多いのではないか。

 無表情,というよりは,何か「達成感」すら覚えているように見える犯人への「違和感」の原因がどこにあるかも,だいたい想像がついているだろう。

 TV画面を見ていて最初に「つながった」のが『千と千尋の神隠し』に登場する「カオナシ」である。

 「少年」の顔を見て,私は「中学生か?」と思った。まだ幼い。それは発達障害が原因ではない。

 「少年」が手にしたかったのは,何だったのか。

 「絶望」の先にあるものが,なぜ「無差別殺傷」だったのか。

 世の中には,まだ反抗できていない「少年」たちがたくさんいるはずである。

 亡くなった方を本当の意味で供養するためにも,その「声」に耳を傾けなければならない。

 「排除」傾向が強まる社会になれば,事件が増え,さらに「排除」が進み,やがては市民の「武装」すら必要になってしまう。

 くだらない教育改革や学校改革,授業改革よりも,教育分野で改革すべきことはいくらでもある。

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日本でアクティブ・ラーニングが知識注入型に陥る理由

 日本の「主体的・対話的な学び」と呼んでいるものが,結局は「知識注入型」に陥ってしまう理由は,学校における「同調圧力の強さ」にあります。

 地方のある大学附属の授業を参観しました。

 アクティブ・ラーニング風を装っていますが,ワークシートが導く先は画一的で,同じような答えが書かれるだけです。

 「こういう学習では確かな知識が身に付かない」「評価はどうするのか」という批判があることを想定した,「アリバイづくり」としてのワークシートやそもそもの指導計画があるのです。

 学校文化がそうだからかもしれませんが,「異質な答え」が出てくる余地がありません。

 そして,社会科教育をしている人間としては,絶対に素通りさせてはいけないはずの教材がそこにあるのに,放置されたままになっています。ワークシートで問われていないからです。

 「問い」「疑問」を子どもが発する空気がない場所では,同調性はますます高まるばかりで,「真の協調性」は身につかないのです。

 「真の協調性」とは,異なる意見や異質な考え方を持っている人ともうまくやっていく力のことです。

 「同調圧力」は「玉砕戦」を産み出し,「真の協調性」は対話による戦争回避を産み出すのです。

 日本の学校には,そもそも「真の協調性」が養える土台がないのと,つくろうとする意思もないのです。

 アメフトやレスリングで起こっている事態を,単に「監督」「指導者」の責任としてすますことはできないのです。

 研究授業で最も醜く見えたのは,「教師の想定している答えを忖度して答える子どもの態度」です。

 これを私は「逆コンピテンシー」と呼んでいます。

 教科書を使ってやるような,下手くそな道徳授業を思い浮かべてもらうとよくわかると思います。

 子どもから「自分と異なる考え」を引き出すわけでもなく,子ども間で「そこは違うだろう!」とツッコミを入れ合う環境を作るわけでもなく,ただひたすらワークシートに効率良く文字を埋めていく作業を見ているのはつらいのです。

 『学び合い』で,塾で知識や技能を身につけてしまっている子どもが,そうでない子どもに先生の代わりに知識を注入していく姿を見ても,本当に「この世の終わり」を感じます。

 アクティブ・ラーニングでは,「言葉」や「図」などを駆使して意見を交換しあいます。

 「死んだ言葉」と「生きた言葉」の違いにできるだけ早く気づいてほしいものです。

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高校のゴールが見えていないので中学校の移行措置もやりにくい

 今回の指導要領への移行は,いろんな意味ですでに「失敗」である。

 高校から小学校に向けての串を無理やり刺したのもそうだし,もし高校から刺していくのであれば,高校の改訂を先にすべきだった。

 手当が必要だったのは高校教育(もとはと言えば,大学教育)なのだから,高校を最初に改訂してしまえばよかった。

 しかし,新しい指導要領への移行は下から進んで,「古くてダメ」とされる指導要領で学ぶ子どもと新しい指導要領で学ぶ子どもが綺麗に区別できるように設計されていたから,今回も小学校から移行が始まっているのである。

 地理総合も歴史総合も「総合」なのだから,新科目というより,統合・再編されてできるもののはずである。

 ただ,指導要領の趣旨から言うと,どっちも「テーマ学習」(資料集で言えば,特設ページに当たるもの)しかできなくなるわけで,「学力低下」は最初からはっきりしている。また10年も経たないうちに「見直し」が始まって,「ゆとり」から「詰め込み」に揺り戻しが来るのだろう。

 中学校にしろ高校にしろ,「思考・判断・表現」の活動がまともにできるのは,3割から4割の生徒だと思ってよいだろう。グループ活動をさせれば,1班に1人はできる生徒がいるから,全体として成立しているように見えるかもしれない。

 小学校と同じで,「成立しているように見える」ことを重視するのが「アクティブ・ラーニング」だと考えれば,高校の小学校化が進んでいくだろう。動きの中心になっている人の前職を辿っていけば,納得できる話である。

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地方の大学附属の子どもたちのコンプレックス

 地方の大学附属の授業を参観する機会が増えたが,授業での発言から,子どもたちが強烈なコンプレックスを抱えていることに気づかされた。

 「こんなド田舎の・・・」

 地方とはいっても,大学附属はそれなりの場所に立地している。

 東京に比べれば,交通の便のところばかりではないだろうが。

 私が先日訪れた学校は,駅から歩いて1時間かかった(途中に城もあったので,観光しながら歩いた)。

 その地方の中では「エリート」の子どもが通っているのが附属学校である。

 授業では,「エリート」としての誇りをくすずる教師の発言も飛び出し,子どもがそれによって「意欲」を引き出される,という「構図」を垣間見ることもできた。

 しかし,その強烈な裏返しだろうか。「どうせここは田舎だ」という意識は,「いずれここを出て行くに決まっている」という子どもを量産することになるのだろう。

 地方の大学附属が抱えるこの問題を解決するにはどうしたらよいか。

 地方にとってはほぼ共通の問題意識だろう。

 あと一つ,教員の問題も耳にした。

 若い教員が増えているのは,一般の公立学校だけの話ではない。

 附属学校には,公立の採用試験に合格できない人が入ってきているところがある。

 また,1校くらいしか公立を経験していない人が,附属学校に入ってきて,数年すると現場に戻される。

 これで附属学校が成り立つ理由はただ一つ。生徒が優秀だからである。

 その生徒たちは,地元に残らず(残れず)に,去って行く。

 地方の附属学校の存在意義とは何だろう?

 東京に人材を送り込むための装置なのだろうか。

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中心選手を育成するために負け続ける勇気

 昔なら,巨人が最下位に落ちたことで文句を書きたくなったことだろうが,歳をとったせいか,少し違った感覚でいる。

 若い岡本選手を4番打者にすえて鍛えようとしている首脳に,今まで感じたことのない「期待感」を覚える。

 私が大学2年生で4番打者を任されたとき,他の大学のチームのキャプテンからかけてもらった言葉がはっきり記憶に残っている。

 「重たくないか」

 当時はまだ,実績が残せていなかったからか,4番でも甘い球をたくさん投げてきてくれて,打つことができたので,「そうでもありません」と答えてしまった。

 ただ,やがて,「本気で抑えにくるピッチャーの球」に苦労することとなった。

 プロ野球とは比較にならない大学野球の話だが,岡本選手が苦労しているのはよくわかる。

 4番でなければ打てた球がたくさんあるような気がする。

 「当てにいって凡打」を禁止されているのだろうか。

 大事な場面での見逃し三振が多い。

 ただ平然と見逃し三振ができるようにならないと,プロ野球の4番打者は務まらないのだろう。

 せめてAクラスに這い上がるための我慢だと割り切って観戦している。

 学校でも,若い教員に失敗の経験を積ませる「ゆとり」を管理職や先輩教師たちはもってほしいものである。

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子どもに信頼される教師になるための唯一の手段

 教師は子どもに自分の実像をさらすことができるか。

 週刊東洋経済で『非常時の組織論』を連載している伊藤祐靖さん(特殊戦指導者)の言葉が胸に焼きついた。

自らの実像をさらせない心が,猜疑心を生み,猜疑心の宿った心は盲信に依存する。その二つが色となり,まっさらに人を見る心を塗り潰し,相手の実際の能力を見誤ってしまう

>猜疑心と盲信のない人間同士の関係は強く,組織の場合,取り巻く環境が厳しくなっても揺るがない。

>意思疎通の根源は,仲間の真の能力を理解することだから

 自分が道徳の授業をする資格のある教師かどうか,その判断は容易なものではないはずである。

 教育は難しい。

 ダメな自分を子どもにさらして好きになられる教師もいれば,毛嫌いされる教師もいる。

 実像をさらさずに子どもに好かれる教師もいれば,見透かされて軽視される教師もいる。

 「オレはこんなに偉いんだぞ」「こんな賞をとったんだぞ」「こんな本を書いているんだぞ」

 と虚勢を張らなければ相手にされないと思って焦っているセンセイもいる。

 子どもに信頼されないのに,「子どもを救いたい」と願う人にできることは何なのだろう?

 偉そうに「子どもを見捨てない」などと粋がるのではなく,

 子どもを「透明な心」で見ることの方が大切なのではないか。

 「透明な心」で大人から見られることの方が,

 「こいつは将来,つく仕事がないだろう」「こいつの将来は暗い」「こいつの未来はない」

 などという目で「普通の授業」を受けているところを見られることよりもずっと有益だろう。

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創造性を奪うポートフォリオ評価

 評価をどうするかに教育界の注目が集まっていくようだが,そもそも指導が成立していなければ,まともな評価などできない。

 私が参観した2校(いずれも大学附属)の授業で,全く同じパターンのドツボにはまっていたのが印象的である。

 ワークシートで書く方向性が限定されてしまっているがために,「学びの本質」に迫る余地が残されていなかった。

 型にはまった評価の仕方は,子どもから創造性というか,「考える力」を奪うことをいずれ証明したい。

 子どもは教師がどう答えると喜ぶかを知っている。

 私が参観した授業では,内容とは全く関係のない「次の学習に生かしたいこと」を述べて褒められていた。

 生徒が発表した「次の学習に生かしたいこと」はあらゆる教科で「使い回し」ができる「決まり文句」であり,授業に参加していない生徒でも述べることができるものだった。

 評価の研究をする前に,指導の勉強をしてほしい。

 子どもたちは,「枠」を「文字」で埋めることに慣れている印象だった。

 しかし,だれが埋めても同じような内容になるプリントは,わざわざ教師が集めて見る必要もない。

 子どもたちは,決まり切ったルーチンワークを効率良くこなしているだけだった。

 地方の中学校では,これが当たり前なのだろうか。

 これ,1970年代とか80年代でも「時代遅れ」と言われたであろう学習と評価なのに。

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「上から目線」が「意欲を高める」学校

 「上意下達」が伝統的に文化として重視されているのが「地方の学校」だろう。

 大学の教育学部の附属ともなると,その存在意義を決めるのは大学である。

 大学よりも附属の方が高いブランドになってしまっているところもあるが,

 そもそも「附属」は「附属」なのだから,本体がしっかりしていないと意味がない。

 気の毒なのは,附属の先生方と子どもたちである。

 実は自由なところもたくさんあるはずの附属学校だが,

 私が参観した学校の痛いところは,子どもたちを教師たちが強いコントロール下に置き,

 「飼い慣らす」文化があるらしいところである。

 子どもがプライドを持っているのはかまわない。

 しかし教師がそこをくすぐって「意欲を高める」ことを狙うのは間違いである。

 子どもが「主体」ではなく,ブランドが「主体」となってしまう。

 ブランドが「主体」だと,危機管理の対応が子どもではなくブランドを守るという方法に向かってしまう。

 「社会参画」がテーマの社会科の授業であれば,「どのような立場で考えるか」が非常に重要だが,その設定が

 「上から目線」であった。

 子どもの「主体性」を生かす授業をしなければ,「組織」の方が大事,という価値観を植え付けることになりかねない。

 蛇足だが,授業見学に来ていた教育学部の大学生だろうか。学校の隣のコンビニに車を駐めて会場に入っていった。駐車場が満車にならない地方のコンビニだから,ご当地ルールでOKなんですか?と職員に聞いてみたが,学生は車で来てはいけないことになっていたそうだ。その学生が参観していたのが道徳の授業だった。

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公開授業で「いじめ」がバレた道徳授業

 ある中学校の公開授業の道徳の授業の導入部分で,「友達を助けた経験」を生徒が発表する場面があった。

 二人の生徒から,「いじめられていた子を助けた」という発表があった。

 そのときの言葉が気になった。

 二人とも,「いじめっていうのではないんですけど」という枕詞を使っていた。

 「いじめ」は「被害者」以外が「いじめ」かどうかを判断するものではない。

 被害者が「いじめを受けている」と言いにくい空気がある学校も多い。

 「セクハラ」などの「ハラスメント」も,同じようなものである。

 道徳の授業では,多くの生徒が「黙っていた方がよい」という空気を醸し出しているが,

 ときどき「空気が読めない」「空気を読まない」生徒の発言で「問題」が浮き上がる。

 こういう生徒の「勇気」が評価される学校がどれだけあるだろうか。

 「正直」が評価される社会がどこにあるだろうか。

 「ウソ」の方が評価される国に生まれた子どもたちは,今の道徳の授業に「ぴったり」なのだろうか。

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子どもたちに多大なストレスをかけている道徳

 ある中学校の公開授業に参加していた。

 廊下が広く,入り口の扉も広かったので,道徳と社会科,国語,英語,数学の授業を参観することができた。

 一番気になったのは道徳である。

 子どもたちの重苦しい雰囲気の原因は,そのテーマだった。

 「寛容」「相互理解」という道徳的価値がテーマだったのだが,子どもたちの表情は固まったままだった。

 道徳授業そのものへの「寛容」や教師との「相互理解」を拒絶したいとするメッセージが感じ取れた。

 おそらくだが,この教師は道徳の公開を「やらされた」のだと思われる。

 何の教科の先生かはわからないが,保健体育科のような雰囲気があった。

 なぜこんな「不幸」な時間を担わされるのか,と子どもも教師も口にできない「不幸」が哀れである。

 道徳の教材の場合,「考えろ」を言われても,その「前提」が明示されていないケースが多い。

 ダメな典型と呼ばれる国語の授業のように,物語の主人公になりきって,と言われても,
 
 日本のように「場の空気」によっていくらでも立場や考え方が変化しうる国では,

 「空気感」に違和感があるだけで,「考える」という脳の回路は停止してしまう。

 このまま毎週毎週,重苦しい時間や雰囲気を耐え続けることで,就職すると経験させられる

 「意味のない会議」に慣れさせる,というねらいがあるのならわからないでもないが,

 子どもは授業でストレスを抱えると,いじめや暴力などの問題行動への歯止めがききにくくなる。

 他の教科を見る限り,「教師によく飼い慣らされている子ども」という印象が強かったが,

 道徳については,「内に秘めた抵抗」が手に取るようにわかった。

 人間は,「不当な支配」に寛容であるべきではない。

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道徳教科書は「いじめ」を正当化する手段になる

 道徳教科書を書いているのは,「どういう人たち」なのだろう。

 これだけは,大学のセンセイや現場の教員に委ねるべきではない。

 学校や子どものことなど何も知らない実社会の大人が書いたものの方が,よほど学習になる。

 「道徳」と「教科書」の二つがいかに相性の良くないものであるかは,

 ネットで話題になっている小2の教材を読めば一目瞭然である。

 日直などの当番や清掃活動などの班活動に熱心でない子どもは,

 「仕事をする楽しさがわかっていない」となじられ,「いじめ」の対象になりかねない。

 道徳教科書は,「いじめ」を「正当化」する手段になり得る。

 道徳教科書の効果測定をぜひどこかの施設で試してほしい。

 学校での「効果」は,悪い予測しか立たない。

 虫酸が走る。

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『学び合い』とESBZ( the Evangelische Schule Berlin Zentrum )の違い

 私が読んだことがある『学び合い』の薄っぺらい本の中で,ESBZの解説がされているものはなかった。

 ESBZを知ったのは,『ティール組織~マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)を手にとったからだ。

 「ティール組織」を知って驚いたのは,私の職場が昔からそういう組織だったからということもあるが,私がそういう組織づくりを生徒にさせていたからでもある。

 ESBZのイメージは,創立理念の中で主張されている子ども観を読めば分かる。

子どもは一人一人が個性的な存在で,だれもがほかの人に貢献できる才能を持ち,全員が人として価値があり,評価され,必要とされている


 学校に入ると,創立理念が単なるお題目ではなく,子どもたち自身の体や姿勢,態度の中に現れているように見える,という。

子どもたちは自分の学習について全責任を負い,何事も自分で学ぶか,互いに教え合っている。大人はたいてい助言者兼コーチであって,従来の学校教育での教師としての役割は,必要なときだけ果たす。子どもたちを励まし,子どもたちの相談に乗り,ほめたたえ,意見や感想を述べ,異議を唱える。しかし,学びの最終責任は間違いなく生徒の側にある。

>教室では七年生から九年生までが一緒に学ぶ。子どもたちは「学習者」と「先生」の立場が常に切り替わる。特に学年が上の生徒は学年が下の子どもの面倒を見るようになる(こうすることで上級生は昔に習ったことを復習できるという利点がある)。

>どのクラスにも自閉症の子や,軽度か重度までの学習障害の子どもがいる。

>どの生徒も日誌を持っていて,日々の成果を記録している。しかも,完全に野放しということではない。学年度末の時点で生徒に求められている明確な期待水準がある。

 私の勤務している学校では・・・というより,日本の普通の公教育の場合,上記のような学習を教科で指導することには無理がある。無理を承知で「一斉授業よりまし」という理由で実施しようとしているのが『学び合い』である。「生徒は見捨ててもいい」と自分たちだけが願っており,自分たちだけがよい方法を知っているなどと傲慢な態度で現場に立つ人間がいるのは困りものである。

 組織を育てるには,学校の場合,学校行事や部活動が一番である。私の学校では「セルフマネジメント」の精神を「自治」をキーワードに徹底的に叩き込んでいるのだが,そういう「組織」づくりが今,注目を集めているというのはうれしいことである。

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「読み・書き」が十分でないから「話す・聞く」ができないだけ

 ある自治体の小学校英語で,「書く指導」を重視したら,英語が好きになる子どもが増えたという「実績」が上がっている。今後,「小学生の英語嫌い」を減らす上で,重要な鍵になる「実績」だろう。

 英語の「話す・聞く」ができないのは,「読み・書き」を十分に指導せずに,「話す・聞く」を重視する失敗を犯しているからではないか,という説得力の高い主張をしている人がいる。

 発音が異なれば,相手に伝わらない,という「緻密主義」の英語教育家たちには,ぜひ「伝える意思」「聞く努力」の大切さをバラエティ番組から学んでほしい。

 人間は,書かれたものを読んで理解できることを話し,正確な相手の意図をつかむために,話し方を「見る」ことも通して聞いて理解する生き物である。

 所謂「座学」「受け身の姿勢の授業」として「一斉授業」が批判されることがあるが,実はこの「一斉授業」こそ,「主体性を発揮できる重要な時間である」ことを認識し,行動している生徒が,どんどん優秀になっていくことに多くの教師は気づけないままである。

 もちろん,大学のセンセイが大きな講義室でやるような,下手くそな「一斉授業」ではダメである。

 センセイの話を「聞く」。

 板書を「写す」。

 その2つしかない授業なら,「本を読んで時間を過ごす方がまし」である。

 「一斉授業」では,「考える意味や価値があるどのような発問がなされるか」が鍵となる。

 その発問に答えるために必要な「教材」として教科書が主に使われるのだろうが,教科書は「答え」そのものが書かれてしまっている場合もあり,そういうときは「プリント」にして配布したり,映像をモニターなどに映す必要がある。

 「一斉授業」で生徒に伝えたいのは教師の「意図」である。

 わざわざ黒板に書かないとわからないような「意図」ではなく,聞いて理解してもらえるような「意図」はいくらでもある。それが伝わる「一斉授業」は,いくらでもアクティブなものになる。

 むしろ,「話し合い」をしているときの方が,アクティブにならない,という事例を突きつけないと,わからない人がいるかもしれないが,授業で失敗することが可能な教師には通じる話だろう。

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中1ギャップを考える前提としての小中ギャップ

 小学生の娘の運動会に出かけてきた。

 危険な組体操が排除され,娘は「幼稚園のお遊戯に似てきた」と酷評していたが,楽しそうに演技する小学校最後の姿を目に焼き付けることができた。

 小学校と中学校の違いは様々あるが,小学校には6,7歳児がいるというのが最大の違いといっていいだろう。

 小学生たちは,自分も含めて6年間も6,7歳児と一緒に生活していたのが,中学校に上がるとやたらと体が大きいお兄さん,お姉さんしかいない世界に身を置くこととなる。

 運動会も,迫力が違う。運動が苦手な娘は,体育会系の中学校には適応できないだろう。

 さて,「行事精選」「教員の働き方改革」「危険防止」という流れの中,運動会ですら,変化しようとしてきている。

 そもそも運動会の歴史をさかのぼれば,「戦争」との関係が密接であった。

 「平和」の時代の運動会でも,行進あり,組体操あり,騎馬戦や棒倒しあり,と何ら変わっていない学校もあるだろう。自衛隊や警察に人材を送り込むためには,これらをなくすわけにはいかない,などと声高に言う人はいないだろうが。しかし「銃剣道」が武道の一つとして学習指導要領に明記されるような時代である。「平和とは,たまたま戦争がない時期のことを指す」という歴史観によるものだろうか。

 さて,話は小中ギャップの問題である。

 つい先日も書いたが,小中連携校,小中一貫校の多くがうまく機能していない。

 小学校や中学校における「慣習」をそのまま両者が維持しようとしているからだろうが,まず何を差し置いても,小学校と中学校の先生では「免許が異なる」ことを忘れてはならない。

 たとえが適切かどうかわからないが,バイクの免許があるからといって,自動車を運転してもよいとはならない。

 小中の最大の違いとは何か。教科指導の専門性のことか?そうではない。

 小学生と中学生はそもそも年齢が違うのである。今は死語になったようだが,「発達段階」が異なるのだ。

 学習指導要領を読むと,小学生を対象にして作られた小学校向けの文章が,そのまま中学校にも当てはめられているものが多い。こういうつくりだから,小中連携を大事にする背景はわかるが,小中連携を進めていくには,まずは中学校学習指導要領をしっかりと作り直さなければならない。小学校の延長では通用しない部分がどこで,通用する部分はどこか。通用する部分から連携はできるのだが,通用しない部分では新しく中学校用をつくるのが先だろう。

 小学生は,基本的に先生の言うことをよく聞いてくれるのがよくわかった。

 全体指導は小学校1年生のときに受けたものを,そのまま6年生でも受けて懐かしく思いながらよく従っている。

 しかし,その全体指導は中学生には通じない。

 なぜなのか?

 子どもに「実力」がついてきているからである。

 中1に入ってすぐに,「実力」がつき,それを発揮している上級生を見ているからである。

 小中一貫校では,まず何を先に進めるべきか,「今まであるものをつかう」のはやめて,「今,必要なものをつくる」ことから始めるべきだろう。

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«「強いチーム」の勝因

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より