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11月20日 少子化が進む日本だが,日本には1600万人もの子どもがいる!

 地理の学習をしていると,「多い」とか「少ない」,「大きい」「小さい」などと統計データをもとに表現することがありますが,それが何を指しているのか,はっきりと示されていない場合が実際にはとても多いことに気づきます。

 たとえば日本は「大きい国か,小さい国か」と問われたら,どのように答えることが可能でしょう。

 ロシアやアメリカ合衆国よりは面積がかなり小さい国ですが,ヨーロッパ諸国と比べると,大きい国に入ります。

 日本は少子化が進んでいますが,子どもの数は本当に少ないのかというと・・・・

 統計局のHPで紹介されている記事(データの出典は平成27年国勢調査)によれば,

 アメリカ合衆国,フランス,イギリス,カナダ,イタリア,ドイツと日本を比べると,

 15歳未満の子どもの割合(%)は,順に,

 19.0,18.5,17.8,16.0,13.7,12.9,12.5ですから,

 これらの7か国中,日本は最低です。

 しかし,15歳未満の子どもの人数(単位:千人)を順に並べると,

 60,977  11,901  11,502  5,741  8,198  10,397  15,887

 となり,日本はアメリカに次いで2番目に多い国になります。

 人口がそこそこ多い日本という国は,

 将来的には急速な人口減少が見込まれているわけですが,

 まだまだ実際には,とても多くの子どもがいる国と言ってよいのです。

 約1600万人いる15歳未満の子どもたちが,ただ「少子化」という言葉だけで

 「日本は子どもの割合が少ない国だ」ではなく,

 「日本は子どもが少ない国だ」と解釈されてしまっているのではないでしょうか。

 このことが,教育への投資を鈍らせている原因ではないかと思ってしまいます。

 世界の半分以上の国が,人口1000万人以下です。

 カンボジアやキューバ,ベルギー,ギリシャ,ポルトガルなどは,

 1000万人以上の人口がいますが,

 総人口が日本の子どもの人口よりも少ないのです。

 子どもたちの将来を考えてあげるためにも,ぜひとも知っておいてほしい数字です。

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11月19日 世界のトイレ事情

 世界ではいまだに約(  )人に1人がトイレを使用できない。
 
 約(  )億人が屋外で排泄している。

 1人に(  )人以上の子どもが下痢性疾患で亡くなっている。

 アフリカの女の子の(  )人に1人は,トイレがないという理由から学校を休んだり退学したりしている。

 これらはユニセフの「世界トイレの日プロジェクト」というサイトに掲載されているデータです。

 (  )にあてはまる数字は,順に,3,9,800,10です。

 SDGsでは目標7として,

 「2030年までに,すべての人が安全な水とトイレを利用できる状況を実現し,その持続可能な管理を確立する」ことを掲げています。

 外で用を足す子どもたちの写真を見て,「どうしてこんな状況にあるのだろうか」と疑問に思ってくれるのは,何歳くらいからでしょうか。

 「汚い」と思うことは低年齢でも可能でしょうが,「どうにかしなければならない」と思えるようになるには,どんな教育をしていったらよいのでしょう。

 こういった観点から,小学校のカリキュラムに興味を持ち始めています。

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LINEのメッセージ「送信取消」機能は「いじめ」の証拠隠しを可能にするか

 小さな「村」の中のたわいもない諍いが,

 つながっている外の世界に容易に拡散され,

 面白がられる時代になっている。

 仲間であって仲間でない子,仲間でないのに仲間になる子,

 そのときそのときの雰囲気に同調したり反発したりする子,

 カメレオンのように立場を変える子どもたち。

 一瞬だけ,悪口や誹謗中傷を送信し,すぐに取り消して,

 気づかれるか気づかれずにすむかのスリルを楽しむ子どもたちの姿が

 目に浮かぶ。

 学校では一言も会話をかわさない生徒同士だと,教師としては

 「全くつながりがない」と勘違いしてしまう。その子どもたちが,

 一緒になって別の子どもを「効率的に」いじめている場合,

 気づくことが遅れ,対応も後手にまわりやすい。

 もともと悪用がいくらでも可能な道具に,

 善意のための機能が加えられることで,さらに悪用しやすくなる,

 世の中こんなことばかりの繰り返しである。

 いじめられる子どもはよりいじめられやすく,

 いじめる子はよりいじめやすくなる世の中にあって,

 教師の仕事は困難を極めている。

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歴史用語半減による「ゆとり」が生むもの

 高校の日本史や世界史を「用語を覚える科目」としてきた高校や大学の教員たちが,教科書の用語を減らすための案を作成したという。2つの点でナンセンスである。

 1つは,結局用語を減らしたところで,「少なくなった用語を覚える科目」に変わることはなく,試験も「暗記問題」を出すことが前提になっている。なぜ義務教育の「ゆとり教育」という名の「ゆるみ教育」を繰り返そうとしているのか。

 もう1つは,そもそも教科書の内容をすべて教えなければ,受験のときに生徒が困るという強迫観念が捨て去れない限り,授業や試験の改善などあり得ない,ということである。

 歴史の人物名や事件名などは,それらを覚えたり,それらの事実を知るためだけにあるのではない。

 歴史学習は,さまざまな事象の関係,関連を考えるためにある。

 取り上げられる事柄が限定されることによって,さまざまな「気づき」のチャンスが失われていく。

 「多ければ多いほどよい」とは言わないが,実際に資料集を活用している高校なら,教科書ではなく資料集を実質上「主たる教材」として授業をする教員も出てくる可能性があるだろう。20年前と同じワークシートで授業をしている教員にとっては,関係のない話かもしれないが。

 そもそも「用語削減策」は,「受験生がテストでいい点をとるために不利な科目を敬遠することを避けるため」に出されたようなものだろう。

 客を増やすために当たりの確率を高める娯楽産業のような対応である。

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教師の成長力を奪う力

 教育の世界では昔から,「大学における教員養成の限界」が問題になっている。

 「教育学部の学生の資質能力に課題がある」のは企業だけでなく教育現場も同じことで,

 教育実習に挨拶に来るとき,「教育学部でごめんなさい」とお詫びから入ってくるのが通例になっていることが印象的である。

 私は「教育学部」というところで学生の能力が潰されているのではないかと危惧している教員の1人だが,その根の深さは昔からなので,すぐに改善することは難しいだろう。人間を育てるのは人間なのである。

 
 少子化による学校の小規模化に伴って,適正規模に満たない学校が増え,

 「職場における教員の能力開発の限界」も問題になっており,それだけ余計に

 「現場で使えない若い教師が多くなっている」ことが学校の重荷になっている。


 こういう学校の窮状につけ込んで,教師の成長力を奪う実践が広がっていくことへの懸念もある。

 私は組合には入らなかったが,仮に入ったとしても,組合の体質には絶対に染まらなかっただろうし,

 すぐに抜けていたと思われる。

 今,学校を侵食しているのは,新しいタイプの組合体質を浸透させようとする「革命家」たちである。

 間違いなく,教師の成長力は奪われる。

 教員研修はお遊戯会レベルとなり,「仲良しこよし」が増えるだけだが,

 表向きは,「同僚性が高まった」などと宣伝される。

 浸食率は0.1%にも満たないレベルだろうが,1000校に1校でも子どもたちが犠牲になるのは心が痛む。 

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成長をとめないために

 先日,大学の学生さんたちに私の授業を参観していただいた。

 私が免許講習講習などでお世話になった先生のご依頼を受けて,今年度2度目の参観だった。

 「よい授業とは何か」を考えるのがテーマだったそうで,そんな依頼をよく受けたなと呆れられるかもしれないが,文科省とくだらない本を出している出版社以外からのお願いには全力で応えたいと思っている。今年は経済産業省と厚生労働省の方とのつながりもできて,「違法天下り大量発生官庁」が存在しなくても,教育が成立することが証明できるように頑張りたい。

 授業50分,質疑応答40分だけのかかわりであったが,自分にとって,子どもにとって,学生さんたちにとっての課題を改めて考えることができるので,とても充実した時間になった。以下は,先生からいただいたお言葉への私の返信の内容である。都合により,一部改変してある。

******************

いつも過分なお褒めの言葉をいただきまして,恐縮至極に存じます。

○○大学のプロジェクトでも「○○の教員の卓越した指導力を生かした・・・」
などという研究がありましたが,自分たちのことを「卓越した」などと
思い上がるのもいい加減にしろと感じますし,
「よい授業」を自分の実践を通して語ろうとすることも,
教育者の態度としていかがなものかと思ったりもしています。

私が長年問題に思っていることは,授業をしていて,いつも自分の感覚で
「あっという間に50分が過ぎてしまう」ということです。
生徒とのやりとりに集中しているからそうなるのかもしれませんが,
生徒自身が自分の時間を授業内でしっかり使うことができていない証拠に
なっているのが現状です。
 
「よい授業」として必要な要素を自分なりに整理し,その優先順位を考えて,
その順位に沿った発問,作業時間の確保も含めた時間配分,まとめなどが
できているかを検証していく必要が私自身にもかなりあるかと思います。

40人それぞれが伸ばすべき能力にも違いがあり,1人に対する声かけや
突発的な対話に時間が割かれる傾向が強いのも私の授業の課題に
なっています。

学生の皆さんからの質問に対しては,その学生さん独自の関心や課題意識に
沿った形でお答えする努力をしたつもりですが,お一人お一人の特性や能力に
ついての理解もほとんどない状態ですから,質問から類推するしかなく,
見当違いの方向の答えになってしまったかもしれません。もしそういう方が
いらっしゃいましたら,再度返答の機会を頂戴できればありがたいです。
生徒理解が授業の基本になっていることと同じですね。
 
エネルギーミックスと同じで,「最適解」は必ず何かの犠牲を伴っています。
最も優れた発電方法があれば,100%それにすればいいだけの話です。
 
授業もそれと同じで,何かを重視すれば,必ず何かが犠牲になる。
犠牲を少なくすれば,何も重視していないように見えることもあるし,
重点を絞れば犠牲が大きくなっていく。
「見方・考え方」を働かせる授業に重点をおけば,おそらく学力下位の
子どもたちは犠牲者になります。そうさせないための方法がたとえば
今回お渡ししたワークシートなのですが,まだまだ開発途上です。
 
「時間」という尺度において教育の骨格をなしている授業については,
そういう悩ましい問題があり,「よい授業」にも,「正解」は存在しない。
それでも少しでも「よりよい授業」に取り組もうとする態度を教員が
もっていれば,必ずそういう態度は子どもたちによい影響を与えていく,
と信じて研鑽を積んでいく必要がある,とまとめようとしても・・・・
今の時代,こういう言葉も「逃げ」と受け止められる可能性もあり,
教員養成は難しい時代だとつくづく感じます。

「よい授業とは何か」という種類の問いに真剣に向き合い,
考え抜こうとすればするほど,どんどん「何が正解かがわからなくなっていく」
おそれがありますが,それでもあきらめずに問い続けていける力を授業では
育てたいと考えています。

今回,しっかり自分自身の課題に向き合う機会を与えて下さった
○○先生と学生の皆さんには心から感謝しています。

******************

 わいわい子どもたちが楽しそうに学んでいるように見える「授業」がいかに子どもたちの可能性をつぶしてしまっているかについては,中学校の教育実践がないとわからないかもしれません。

 「エビデンス」を求められて,だれでもできるようなテストの点数を挙げているような人間に,教育を語る資格はないのです。

 大学の先生もおっしゃっていましたが,今回の学生さんたちは,皆さん教育実習を終えた方々だったので,私が言いたいことがとてもよく伝わっていたようでした。 

 自著の営業マンに騙されないよう,注意しましょう。

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11月18日 十一+十八=

 「土木」という言葉を聞くと,私が行政にいたときのことを思い出す。
 
 もっている予算の大小で力関係が決まるから,教育が三流だと言われたり,

 中央では違法天下りが大量発生してしまったりする理由がよくわかった。 

 私の赴いた土地でも,災害復興の取り組みがあって,多額の予算が計上されていた。

 「土木」は,おおざっぱに言うと,建築以外の建設の仕事全般を指している。

 「土」+「木」というイメージから「道路」や「港湾」はイメージしにくいが,「ダム」だと何となくしっくりくる。

 最近,各省庁のHPが気になっている。

 資源エネルギー庁や国土交通省のHPの内容を授業で活用する機会が増えていきそうだ。

 よい情報の発信が国民に知らされないのはもったいない。

 省庁発信のニュースを統合して知らせてくれるサイトがほしい。

 スマホやタブレット端末を持っていれば,だれでも「記者」になれる時代になった。

 記者が取材しなくても,「事件現場」の迫力ある映像が入手できる。

 中高生が記者になって,国や地方,企業の仕事の内容やその問題を発信する,

 という学習を総合的な学習の時間を使って実践してみることにした。

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11月17日 「流れの速さ」を何で感じるか

 ある政党の人気の凋落ぶりが,話題になっている。

 時代の流れの速さを物語るよい事例になるだろう。

 敵がいなくなってしまった生物の末路はどんなものか。

 肺がん撲滅デーを迎える1日前に知ったニュースは,タバコが嫌いな大多数の人にとってはがっかりするような内容である。献金がものを言う政治を,何と名付けたらよいのだろう。

  

 世界は日本の長寿企業の歴史や人物たちに注目するようになっているらしいが,

 その背景には企業の寿命がどんどん短くなっていることがある。

 「新しい」という言葉がとても使いにくい時代になった。

 こういう時代でも,数十年先の未来の予測ができると信じている人がいる。

 寿命の短い理念を大切にしている人ほど,語る話は大袈裟だ。

 田舎の小中連携の背後にあるドロドロとした人間模様は,「お客さん」には絶対に見せないようにするものである。

 数十年前にも普通にあった光景に大学のセンセイが感動する時代になったようだ。

 管理職とした話を完全に伏せておいて,自分の手柄だけを披露するような姿を自分の子どもに見せられるのだろうか?

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11月16日 お店にとって都合のいい色

 ある飲食店に入ると,赤や暖色系の色が目に飛び込んでくる。

 食欲が刺激され,おいしく食べられるのが利点である。

 ただ,店側は,もっと奥深いことを考えているらしい。

 人間は闘牛ではないが,赤や暖色系は「落ち着きをなくす色」である。

 ゆっくりのんびり落ち着かせてしまうと,客の回転が鈍って,

 売上が下がってしまう。

 落ち着いた雰囲気の喫茶店では,「長居が許されるための料金」が飲み物に含まれていると考えればよいのだろう。

 一度,暖色系で溢れた部屋と,寒色系でまとめた部屋と,どちらで計算問題をした方が,ミスが少ないのか,

 実験してみたい。

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11月15日 離職率の七・五・三

 学歴別の就職3年以内の離職率が,中卒7割,高卒5割,大卒の3割であることを,七五三現象というらしい。

 実際には,1990~95年ころの数字がこれに最も近く,2010年は六四三の割合となっている。

 小中高の学習の理解度を指す場合もある。

 そもそもお目出度い日を暗い現象の例えに使うことが,

 少子化の進行に拍車をかけている,と主張する人はいないだろうか・・・。

 離職後,たとえば1年以内に転職等に成功して,復職した人の割合なども調べてほしい。

 離職した理由として,資質や能力の不足が原因のケースも調べてみてほしい。

 「石の上にも三年」というから,「3年以内の離職率」という示し方にも意義はあるのだろう。

 人が一定の能力を獲得するためには,それなりの苦労を経験することが大切である。

 そして,苦労は嘆く対象でもなければ,自慢する対象でもない。

 読書編でも紹介した『論語』子罕篇に,「なぜ多芸・多才なのか」という問いに対して,孔子が次のように答えたとされる話が載っている。

吾少也賤,故多能鄙事

 身分が低いので,つまらないことが必然的に得意になった,という話を,どのようにして子どもたちに捉えさせるか。

 もし道徳の学習でこの内容を取り上げるとすると,出すタイミングと出し方が難しい。

 「腑に落ちる」という実感を持たせる指導は,小手先の技術では身に付かない。

 だから道徳の授業テーマは,その日にならないと決まらない,というのが当然のことである。

 研究授業で恥をかいている場合ではない。

 毎日毎日,子どもたちとの生活に正面から向き合う中で,どんな道徳性を子どもがどんなタイミングで身にしみて味わうことができるかが見えてくる。

 最も「低い」位置から,どんなにささいなことでも,子どもたちの声や行動や書いたものをよく観察することから,道徳の指導の構想を練ることができる。


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大学生に教師のコンピテンシーを育成できるか?

 私がある学会で教師のコンピテンシーについて発表したとき,ある大学の先生から「どうやってこういう能力を育成できるのか」と質問された記憶がある。

 人の能力というのは,大学の先生などという立場では簡単に育成できるものではない,とは当時は言わなかったが,同じようなニュアンスが伝わったせいか,不機嫌そうな表情をしていた。

 コンピテンシーとは,そもそも,仕事で優秀な成績を継続的に残している人がもっている,普段の行動特性のことを指している。

 だから,全員が同じレベルに達することは不可能だが,目指すべきはっきりとした「できる人」のイメージがあるという特徴がある。

 「学生にあなたのコンピテンシーを評価してもらうところから始めてみてはどうか?」という答えも頭をよぎったが,

 「私には教員免許がない」「学校で教えた経験がない」と言われると,たしかに能力の確かめようもない。

 教師というのは,教育現場で自分の仕事をこなしていく中で,少しずつ目標を達成していき,「自分もできる」と実感が得られ,「あなたはできる」と他者評価を受け,「子どもが伸びている」という教育成果が得られた段階で,「身に付けることができた」と言えるものである。

 資質能力というものは,そもそも個人差が大きい。

 大学時代に,授業も大切にしながら,体育会でチームをまとめるのに苦労してきた経験がある人と,

 大学の教室とバイト先を行ったり来たりしていただけの人に同じ期待をかけてはいけない。

 バイト体験があるだけまだましかもしれない。

 本で読んだり講義で耳にした先生の話,他人の話しか知らない人には,想像上の成功イメージしか存在しない。

 バイトの場合は,労働の結果,お金という報酬をもらうためだけに従事するものも多いだろう。

 大学院にまで進んで,意味もよくわからない文章の翻訳を手伝わされ,日本語らしいものにしても,実践的指導力など一切身に付かない。自己保身のための理屈だけは立派なことが言えるようになるかもしれないが。

 大学の体育会では,お金にならないのに先輩にやれと言われたことは何でもして,言われなくてもやるべき努力は自分でして,最後には勝敗というシビアな「結果」が待っている。

 学校現場に入ると,仕事を自ら進んで取り組み,一定の出来映えが見込める若い人には,どんどん新たな仕事が入ってくる。仕事が多くなれば,自然と効率的な仕事の進め方を考えることになる。そして生活指導の案件など,難しいが教師らしい仕事が増えてきて,生徒理解も進む。

 改めて「では大学では何をしたらいいのか」と問われたら,「学生に考えさせろ」と答えたい。あなたにはそれがわからないのだから。

 一番先生っぽいオーラを持っているのは誰なのか。そのオーラとは,何なのか。

 一番受けてみたい授業ができるのは誰なのか。なぜ受けてみたいと思えるのか。

 一番悩みを相談したい,相談できそうな人は誰なのか。それはなぜなのか。実際に相談してみたらどう思ったのか。

 400人を整然と並ばせ,安全な場所に誘導する指示が出せるのは誰なのか。だれもいなければ,その指示とはどうやってすればいいのか。

 数え切れないほどの「確かめてみたいこと」が挙げられるはずである。 

 そして,多くの学生は気づく。

 「それは,教育現場に行かないとわからない。」


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11月14日 いいとしのとり方

 これからの日本は,「いい年」をした人たちにも頑張ってもらわなければならない。

 「いい年」のとり方とは,どういうものだろう。

 アンチエイジングと表現すると,「若さを保ちたい」「加齢は敵だ」というニュアンスが入ってくるような気もする。

 「グッドエイジング」という表現はどうかと思ったら,商標登録されてしまっているようだ。

 ここでは,幸福感のある生活を送りながら「いい年」をとっていくというイメージを,今の小中学生がもつことは可能か,という課題を考えてみたい。

 私と同年代の人は,まだ祖父母と同じ家で暮らしていた人がそれなりにいると思われるが,

 核家族化が進んでしまった世代では,身近で「いい年」のとり方をした人になかなか出会えない。

 祖父母にとってのいい生活とは,家でのんびりとしながら,子どもや孫の成長を楽しんだり,助けたりするものだと祖父母を見ていた私などは考えてしまう。

 また,学校の先生方にも,「偉い立場」にはなっていないが,「いい年」のとり方ができているなとうらやましくなる人たちがたくさんいた。

 実際に「いい年」の人が近くにいることが,まずは大事だと思う。

 しかし,もう少したつと,家庭だけでなく,学校現場にも,「いい年」の人がいなくなる。

 「高齢化」の実感をほとんど抱くチャンスのないまま,学校で「高齢化の恐怖」を教えられていく。

 「いい年」をした人たちの犯罪行為が途切れなくニュースで報道されているが,

 「いい年」という概念が飛んで消え去っていく日が近づいているような気にもなってくる。

 特別の教科・道徳の時間については,教科書を読んで議論するような時間をいくら確保しても,大切な力はほとんどつかないのだ,という実践的な研究は世の中には出にくいのかもしれないが,これからの社会を考えると,

 教科の再編も行いつつ,教科外の時間を統合しながら,社会とのつながりをより強く,密接にしていける柔軟性を認めることが,カリキュラム編成の大原則として必要だと思われる。

 教科や道徳,特別活動,総合的な学習の時間の「他との違い」「特殊性」ばかりに目を向けるのは,時代遅れではないか。

 既得権益を守るために,自己の存続を維持するために,一生懸命になってそれぞれの時間の重要性を述べてくれているが,子どもたちにとってもっと重要なのは,「社会体験」「自然体験」「主体的な行動の経験」の時間なのである。

 「いい年」をとっている人たちが受けてきた教育の意義を,もう一度ふり返ってみてほしい。


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11月13日 うるしとJapan

 漆のことを英語でJapanというのは,江戸時代に日本の漆器がヨーロッパに輸出されていたため,と言われている。Chinaと呼ばれるのは,陶磁器である。

 11月13日は,漆関係者の間で,親方が職人に酒や菓子などを配って労をねぎらう日とされているらしい。

 そんな日は,漆業界以外にも広まっていいのではないか。

 ただ,尊敬もされていない上司が菓子を配り始めるのは逆効果になるかもしれない。もらった方は,圧力しか感じないかもしれない。菓子を配っ初めて尊敬されるのも,哀しいものだろう。 

 私の学校では,勤務時間外では茶やお菓子を楽しみながら会議をしたり,

 地方に出張した人が必ずお菓子の土産を配ってくれたりしているが,

 こういうことを禁止してしまう学校もあると思われる。

 サンタクロースには,毎月やってきてほしい気もする。

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11月12日 日本では洋服,アメリカでは和服

 「欧米のモノ真似をする」ことを国家の方針としていた明治初期,「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出された。

 服装について,興味深いポリシーを持っていたのが岡倉天心である。

 日本国内では洋服を着用していたが,アメリカでは羽織袴だったという。

 来年は明治元年から満150年になり,「明治の精神に学ぶ」取り組みが学校現場でも行われるだろう。

 「能力本位の人材登用」「チャレンジ精神の涵養」に光があてられ,産業界では競争力強化がさらに求められると同時に,格差拡大が助長される結果にもなるだろう。

 「和魂洋才」をテーマとした「魂の教育」が,道徳などでもてはやされることが目に浮かぶ。

 「洋魂和才」だって立派な追究テーマになりうることを,子どもたちには伝えておきたい。

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11月11日 おそろいの日と黒髪指導

 11月11日も記念日の「特異日」である。

 漢字も含めて,文字の形状をもとに決まった日が圧倒的に多い。

 「十一」で「電池」,「磁石」,「鮭」,「1111」で「鏡日」,「もやし」,「煙突」,「チンアナゴ」,「箸」,「きりたんぽ」など。

 「始まり記念日」としては「チーズの日」「西陣の日」,「終わり記念日」としては「第一次世界大戦停戦記念日」=「平和記念日」がある。

 私が「いい日」として記憶にとどめておきたいのは,「おそろいの日」である。

 「同じもの(色違いも含む)を使う」ことによる「仲間意識」「連帯意識」「友情感覚」の向上について,日本は前向きである。

 「個性を重視する」といいながら,全員に制服を身にまとうことを強制する仕組みに問題があるものの,「制服を廃止すべき」という声が勝てない理由の一つだろう。

 「おそろい」という表現には,強制されているというニュアンスは含まれていない。

 また,40人という規模で「おそろい」である,という表現はしない。

 少人数か,一般的にはペアで「そろえる」ことが基本だろう。

 もし,生徒だけでなく,先生方も「おそろい」の服を着ていたら,どんな印象をもたれるだろう。

 せっかく好かれていた先生も,嫌われる対象になってしまうような気がする。

 嫌われている先生にとっては,逆にとてもありがたいことかもしれないが。

 教師は,生徒が「そろって黒髪である」「黒髪にそろえる」ことを願っているが,子どもたちの多くもそれを支持し,受け入れるようになっているのかもしれない。

 何かでそろえられることに抵抗感がない人間が増えることは,

 国として危険であることにも気づいてほしい。

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大切な人だから殴る

 昭和時代には,まだ通用した親や教師の「指導観」かもしれない。

 先生に叱られ,殴られたことを家で離せば,父親からそれを上回る勢いで叱られ,激しく殴られる。

 そういう時代がかつて存在したことは確かだろう。

 インターネットが普及する以前の話である。

 「父親の威厳」とは何か,ということを,人々はそれぞれの勝手な想像の中で形作っていた。

 「子どもを殴るのは,憎いからじゃない。愛しているからこそ殴れるのだ」という論理は,

 「私はあのとき,本気で殴られたからこそ,これじゃいけない,ということに気づき,更正できた」

 「先生に強く叱られたからこそ,今のような芯のある人間に成長できた」

 「私は親や教師に鍛えられた」

 という「殴られた側」「叱られた側」からの擁護の声によって,「真理」であるかのような印象ができていた。

 しかし,当然のことだが,愛情がないから殴れる,という人もたくさんいる(というかほとんどがそうだったのかもしれない)。

 ただ自分の怒りを相手にぶつけるためだけに強く叱る指導をしていた,という教師もたくさんいた(いる)はずである。

 平成に入って30年近くが経過しようとしている。

 私が教師として現場に立ったのは平成以後だが,この間には,不況をはじめとした数え切れない要因から,

 「殴られる」「叱られる」ことに全く耐えることができない子どもが増えてきたことを実感している。

 耐える必要はない,なぜなら,自分たちには人権が保障されているのだから,という当たり前のことが当たり前になってきたからなのかしれないが,
 
 そういう子どもたちはすでに社会人になっている。

 いじめだけでなく,アカハラ,パワハラも,昔からあったはずだが,かつては「耐えてくれる」のが常識だった。

 今は,耐える必要がないのだから,耐えない,という時代になっている。

 大切に思っていない人なら殴らない,叱らない,という論理も,

 大切な人だから殴る,という論理も,通用しない時代である。

 こういう時代には,自分自身の課題を自分自身でしっかり解決できる資質や能力が欠かせないのだが,

 そういう資質や能力はそう簡単には身に付かない,という立ち位置の人がいれば,

 大切だと思うから殴ったんだ,という言い訳がなくなることはないかもしれない。


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かえってくるブーメランが見えない人たち

 面白い本を読んでいる。

 翻訳の本なのだが,訳者のコラムがたくさん入っている。

 この訳者は,ブーメランを投げるのが好きな人である。

 もしかしたらこの訳者の場合には,自分がブーメランを投げている自覚を持っているかもしれない。

 ただ,かえってきたブーメランはたたき落とす習性をもっているようだ。

 自分が投げたものとは別のものになっていると判断している。

 主張を読んでいると,それは自分が批判していることと同じような内容であり,

 鏡に向かって文章を書いているようなのだが,

 その鏡に映った相手を熱心に攻撃している。

 自分の脳にダメージを与え続けている状況である。

 報復に対する情熱の強さが,自滅に向かうエンジンになっているようだ。

 若いのに気の毒なことである。

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11月10日 いいトイレを維持する力

 荒れた学校のすさまじいトイレを直接目にしたことがある人は,どのくらいいるだろう。

 ある学校では,トイレの修理費だけで大事な予算を使い切る,なんて事態に陥り,だれも「大」ができなくなった,という話まである。

 使って気分のよいトイレを維持するために,どのような教育をするべきだろうか。

 荒んだ家庭生活を送っている生徒の割合が多い学校では,「理想の家族との家庭生活」を模擬体験できる空間を作るために,生活環境に最大限の配慮をしていく。

 授業規律はもちろん,掃除指導にも力が入る。

 教職は,「家庭がダメで」などと嘆いてすませられる仕事ではない。

 「家庭生活を変えさせる」というくらいの指導の信念がほしい。

 ちょっと前が嘘のように落ち着いた中学校では,トイレの落書きが瞬時に報告され,写真を撮った後,一瞬のうちに消される。

 これから荒れ始める中学校では,落書きが広がって始めて「いついつにはこれだけの落書きだった」という寝ぼけた話が後から出てくる。

 生徒の下駄箱,トイレ,職員室の机の上。

 この3つを見れば,学校がよくわかる。

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普遍性,汎用性があると誤解する「研究者」たち

 「ある場面」で身に付けた能力が,別の場面でも生かされた,と気づくとき,「ある場面」で能力を身に付けておいてよかったと思う・・・こういう経験ができるのは,ごく狭い世界で生きている人たち・・・わかりやすく言えば,研究だけしていれば,実践をしなくても給料がもらえる人たちに限ったことかもしれません。

 小中学校のレベルだと,子どもたちは,授業で勉強したことが,そのまま試験に出されて「できた」と言える,そんな世界に過ぎません。ただ,研究者たちにとっては,それではつまらない。

 ある人の本や主張を読んで,とても強く感じることになりました。

 昔の研究者には,そういうタイプの人はいなかった。

 おそらく,「そんなことを言えば,みんなにバカにされる」ことがわかっていたからです。

 最近は,「バカにする」人が少なくなってしまったためか,

 あるいは「バカにする」人が大事な会議に呼ばれなくなってしまったためか,

 研究者というより事務方が「バカな主張」を平気で通せる世の中になってしまいました。

 その集大成が新しい学習指導要領です。

 研究させられている学校の授業を見て,一定数の人は悟ることができたはずです。

 「これでは間違いなく失敗するな」と。
 
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11月9日 救急車の思い出

 大学時代,野球の公式戦に出場し,1回裏の攻撃で,打席に立っていた私は,3ボール2ストライクからファールで何球か粘っていた。相手の投手はブルペンから制球が定まらない様子だったのだが,私は四球ねらいはせず,打つ気満々で,ボール気味の球もカットしながらチャンスを待っていた。

 「インコース高めからのカーブが来た」と私は判断しようとしたのだが,「インコ」くらいのタイミングで,速球がそのまま私の左のこめかみを直撃した。

 ヘルメットの縁にあたり,それが左目の上から側頭部にかけてめり込んだためか,大きく裂けて血が流れ出した。

 頭部からの出血の量はおそろしいもので,「バッターボックスは血の海になっていた」と後で言われた。

 しばらく脳しんとうでぐったり倒れていたので,「死んだか?」と思った選手もいたかもしれない。

 担架ではなく,後輩におんぶされて,球場の外に運ばれた私が初めて乗車した救急車は,

 「こんなに揺れたら重病人は死んでしまうのではないか」と思うような乗り心地だった。
 
 そのときから30年近くがたち,体重が20kg以上も増えた昨年,私は再び救急車で病院に運ばれた。

 今度は息子が一緒に乗ってくれたが,意識は救急隊員が駆けつけてくれたときには回復していたので,それほど家族にも心配をかけないですんだ。30年前より,揺れも少なく,機材も整っていたように思う。

 どちらのケースでも,冷静な救急隊員の対応のおかげで,こちらの不安もかなり和らいだ記憶がある。

 
 これから日本もある程度の覚悟をしておかなければならないのは,地下鉄サリン事件のようなテロ行為である。

 負傷者を消防隊員だけでは助けきれないケースが出てくるかもしれない。

 こういうときに役に立てる人材を育成できるのはやはり学校である。

 避難訓練だけではなく,負傷者を運んだり,傷の応急手当をしたり,AEDを操作したりするような訓練も必要だろう。

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«11月8日 いい歯,いい肌,いい刃物

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より