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子どもそっちのけで学校説明会に集う親たち

 小学生の親なら,仕方ないか。

 これが,中学生の親になると,ガクンと割合が減る。

 まだ親の言うことを聞く小学生。

 親との会話がほとんどなくなる中学生。

 こういう関係を知ってか知らずか,先進的な学校は,

 高校での募集をやめている。

 賢い選択かもしれない。

 学習指導要領などは守らない。

 これも,賢い選択かもしれない。

 自由度が高いことよりも,きちんと時間を費やしたかどうかだけに関心のある管理者。

 こういう管理者のもとで学習して,成果が得られると思う親はいないだろう。

 優れた経営理念があり,その理念の実現に向けて着実に努力する教員と,

 お題目の経営理念しかなく,ノルマをこなすことだけに汲々としている教員ばかりの学校と,

 どちらを選ぶのが得策か。

 どちらを選ぶのが得策かがわかっていても,選択することができない家庭を救いたい。

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「正しさ」とは別の「作法」の原理はどこにあるか?

 読書編でもふれた内容だが,挨拶などの「作法」の原理を「正しさ」「ルール」として教えようとする人がいるが,それは誤りである。

 「作法」には様々なものがある。たとえば社会人として身に付けるべき「作法」を「形」として教えている人がいるが,それは「批判されない」「恨まれない」「憎まれない」ことが目的であって,「常識」として教えてしまう「作法」は,ただの「ルール」として伝達されていくだけのものになってしまう。

 残念ながら,強制された「作法」による行為で満足する人が少なくない。学校現場でこういう教師が増えると,子どもの心は荒んでいく。

 その道を究めた人は,単純なルーティーンとしての「作法」にはこだわらない。

 というか,自分から進んでは「作法」は語らない。

 「作法」を語りたいと,編集者を説得するような作家はいないだろう。

 教育分野には,そういう「作家」がいて困る。

 「押しつけ感」が半端ない環境に子どもを慣れさせることで,得られるものは何だろう。

 近くにある国を軽蔑する資格が日本にあるだろうか。

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心にないことは相手に伝わらない

 指導がうまくいかない,授業がうまくいかないと悩む教員は少なくない。

 どんなにベテランでも,「悩む」人の方がより有望である。

 子どもへの愛情がある一方で,現状と限界がわかっているということだから。

 学校には,「悩まない」タイプの教員が存在する。

 「うまくいっていない」という現状認識すらできないタイプの人もいる。

 先日,ある会合が開かれて,様々な年齢層の方々が集まった。

 会合の主催者側は,集めた人々に感謝をしなければならない立場にある。

 しかし,「感謝の念」が伝わっている空気はなかった。

 人間の心にないことは,相手に伝わることはない。

 「ただのお世辞」をそれと気づいて受け取ったことがある人ならわかるだろう。

 子どもの成長への期待というか,責任感のようなものをもっていない教員から,

 子どもたちはどのような影響を受けているのだろう。

 「自分の仕事が問題なくすめばよい」

 「もめなければいい」

 「できれば仕事が減るのが望ましい」

 そんな教員を増やす環境ができあがるのはなぜだろうか。

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「カエル症候群」の悲哀

 現状に不満がある人は,よりよい方向に「変わる」ことを期待し,

 何かに手をつけて「変える」ことを望みます。

 しかし,手をつけるべき問題がたくさんありすぎて,結局は簡単にできる(しかしどうでもいい)ことだけを変えて,改善しないので元に戻す・・・同じ場所に「帰る」・・・こんな「改革」を繰り返しています。

 こういう「病気」を私は「カエル症候群」と名付けています。

 ちなみに,何か本を読んで,その通りに実行すれば上手くいく,と思う人たちも,

 成功は金で「買える」と誤解している「病気」だと判断します。

 これも「カエル症候群」の一種です。

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「改革」の先導者は「変わりのようのない人間」

 今までの教育改革の最大の問題は,

 「変わりようのない人間」たちが先導してきたからである。

 これは,決して悪いことではない。

 そもそも「変える必要がない」ものが教育にはたくさんあるからである。

 同じ内容に対して,「看板の掛け替え」だけで商売が成り立つ業種だからである。

 今後,「本当の教育改革」が必要になるときが来る。

 そのときの「先導者」はだれであるべきか?

 「変わりようにない人間」たちから主導権は奪えるか?

 小学校教育と,中学受験産業との格差が今後,改革への大きなヒントになるかもしれない。

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不正の温床

 企業における「不正の温床」は,厳しいノルマにあると言われる。

 官僚の「不正の温床」は,「金」で人間を操れる権能にある。

 そして,「忖度文化」も「不正」を「守る」武器となる。

 学校教育で「自己主張」を徹底的に封じ込めてきた「成果」でもあるだろう。

 人々は何と引き替えに「自由」を奪われていくのだろう。

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夏休みは31日以内で

 日本列島は細長く,南北にのびていることで,地域によって気候は多様である。

 だから1学期の終わりと2学期の始まり(3学期制の場合)の時期は,地域によって自由に変えてよいはずである。

 ただ,教室等のエアコンが完備されると,全国一律の休業日の設定も可能になる。

 アメリカとの戦争が始まった翌年の1942年の『少国民新聞』に,「大戦下の夏休み 三十一日以内の事」と文部省が定めたという記事が掲載されている(「戦時中の夏休み」と検索すると,紹介してくれているサイトが出てくる)。

 戦時下の子どもたちの夏休みは,実質的に「強制労働」の時間だったようで,これを「勤労奉仕」などと呼んで「利用」する政府の精神があるから,「公共」などという科目の胡散臭さが拭いきれない。

 「奉仕の精神」を評価する仕組みを教育機関が持っていることの意味を考えてもらいたい。

 2020年は,学校がオリンピックに振り回される1年になるかもしれない。

 来年から「戦時体制」に入る自治体も増えてくることだろう。

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なぜ東大を選ぶのか?

 3年前に中学校を卒業させた私のクラスの生徒3人にたまたま会って,東大の入試問題の話になった。

 意見が一致したところは,やはり東大の問題は良問が多いということである。

 良問の定義は様々であろうが,「基礎的な知識と技能,それなりの思考力と表現力があれば解くことができる問題」と呼べるだろうか。

 知識問題=「知らなければ解けない」という印象を持っている人が多いと思うが,いくつかの知識を組み合わせれば,出題者の意図が見えてきて,答えにたどり着ける問題も良問である。

 私は高校まで理系だったので,文系科目は教科書と参考書,問題集で勉強するしかなかったが,一番ためになったのは東大の過去問だった。

 「これならできるかもしれない」と思わせてくれるような入試問題を出題できる大学が増えてほしい。

 収入目当てで大量の受験生をさばくような「金儲け用入試」に頼ることを「違法」とする法律でもつくってほしい。

 「ただ覚えるだけ」の作業をひたすら繰り返している中学,高校,大学の受験生たちは本当に気の毒である。
 
 教え子たちと「要領よく生きる力」が生かせる数少ない大学の話をしながら,「やはりアタマのいい先生がいる大学で,もっとアタマをよくしたい」と思わせる大学教育であってほしいと思った。

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【特別警報】 小中学生にもできること

 毎年のように「記録的大雨」が続くようになると,「平均雨量」にも変化が見えるようになってくるでしょう。

 今年は,広範囲にかけての警戒が必要ですが,被害を避けるための情報はピンポイントで必要です。

 テレビの情報待ちではなく,気象庁が発表している内容をスマホで見ることができる小中学生は多いでしょう。

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                    (気象庁HPより)

 広島県の中部から東部にかけての河川が心配です。

 すでに避難している方も多いでしょうが,避難先が遠くにしかない方々,避難行動が困難な方々への援助が必要です。

 小中学校で学んだ防災の知識と技能を生かしましょう。

 ↓土砂災害にも警戒を!

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子どもの心が読めない大人の悲劇

 教師の中にも,ごく稀に子ども心が全く読み取れない人がいる。

 子どもにはそれがわかるから,ある人はからかいの対象となり,別の人は「利用する」対象となる。完全にコミュニケーションが取れなくなる場合もある。

 会話をしながら相手の心がつかみ取れる人は,道徳の授業などバカらしくてやってられなくなるかもしれない。

 授業で建前を言い合ったところで,実生活には何の役にも立たないことが「お互い」にわかっているからである。

 公務員や会社員の場合はどうだろう。

 相手の心を読もうとしない大人もいるかもしれない。

 私は指導主事だった3年間で,いろいろなタイプの事務方や管理職と出会うことができたが,こういう人たちからは,あまり「心を読もう」とする意思は感じられなかった。私の方では必死にやっていたのだが。

 一部の管理職は,私の意図を読み間違ったのか,過去に出会った指導主事がそうだったのか,必死に教員の悪口を並べ立ててきた。基本的に授業は成立しているので,そこまでひどいことを言わなくても・・・と聞いていて思ったが,そういう気持ちがちゃんと伝わったのは,2年間くらいおつきあいが続いた後の話だった。

 なぜ口先の言葉だけのコミュニケーションに頼ろうとするのだろう,と不思議だった。

 今回の文科省の件は,「なるほど」と納得せざるを得ない。

 「だからか」と思ってしまう。

 「バレない自信」を育んできた組織の実態を知りたい。

 権力の側にいる人間が,その職権を利用して,自分の子どもの得点に下駄を履かせるなどという行為をチェックできない機関が,大学の評価をまともに行うことができるのだろうか?

 天下りしている先輩と,権力の側にいる後輩が,何をしでかすかをだれが監督できるのか?

 教育行政の上の方にいる人間が,日本の将来を担う子どもたちの信用を裏切る罪は重いぞ。

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「根腐れ組織」を「根絶やし」にする狙いか

 特ダネは,ただ早ければよい,というものではない。

 「出すタイミング」も大事。

 「こんな組織に入るなんて,恥ずかしい」と思わせる狙いを感じる。

 将来の「人材」を根絶やしにして,思い通りに操れるようにすることが狙いなのだろうか。

 一方で,「どうして今回はバレたのだろう?」「バラされるはずがない話なのに」と呑気に考えている人がいるかもしれない。

 海外に向けて,「恥ずかしいニュース」が流れ続けている。

 いい加減にしてほしい,という国民の声を大切にしてほしい。

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「だれにも止められない子ども」をどうするか?

 親にも止められない,学校の教師にも止められない,事故を起こすまで,警察にも止められない,そういう子どもをどうしたらいいのか。

 私の父親は保護司をしていたので,「そういう子ども」たちを私もよく見てきた。

 「どうしてこの子が?」という印象の方が,「なるほどこの子がね」という感じよりも強い。

 大きな問題があって,周囲が騒いだ後は,しばらくの静寂が訪れるが,油断した途端に再び噴火が起こる。この繰り返しのパターンが多い。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 親は,「教育の専門家」である教師にとりあえずは期待をかける。

 ある担任がダメなら,また次の年に期待をかける。

 今いる教師がダメなら,年度がかわって異動してくる教師に期待をかける。

 やがて,学校そのものを信用しなくなる。

 このループを断ち切れるのはだれなのか?

 学年が違っていたが,無免許運転による事故でよく知っている中学生が亡くなるという経験を私もしている。

 運転していた子は生き残った。今,どういう人生を送っているのだろう。

 報道によって,世の中には,我が子を全くコントロールできない親と,真逆に殺してしまう親ばかりだと誤解してしまう人が少なくないのではないか。これが少子化の原因になっていると言いたいわけではないが。ほとんどの親と子は,多少の喧嘩を乗り越えながら,子は人間として,親は親として,成長していく。その関係を成立させないものは何なのか。

 知り合いの岡山県の先生の嘆きが脳裏にこだまするが,やはり最後の希望は教師しかいないのではないか。

 しかしそういう教師を子どもから引き剥がそうとしているのが世の中の流れである。

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不道徳の見本としての日本サッカー

 こんなタイトルで記事を書くと,サポーターから何をされるかわからない怖さもありますが,ゲームでは必死にブーイングされていた方もいらっしゃいますし,朝日新聞デジタルでも紹介されていましたから,「決勝トーナメント進出」という目的のために「規範破り」を実行した日本代表とそれを指示した代表監督への批判があることについて,ふれておきたいと思います。

 「道徳」的に言えば,アウトでしょう。

 フェアプレー・ポイントで上回っていたから勝てた日本ですが,やっていたのはフェアプレイとは言えない「ボール回し」でした。

 目的(決勝トーナメント進出)のためなら,手段を選ばない(勝利ではなく,0-1で負けること,反則を犯さないことを優先し,パスを回す)という行為です。

 JFAサッカー行動規範やFIFA(国際サッカー連盟)のフットボール行動規範に立派に?背いています。

 ・・・が,サッカーには,柔道やレスリングにあるような,「消極的なプレー」に対する罰則がありません。

 ですから,「ボール回しはルールに違反しているわけではない」という反論が予想されます。

 しかし,負けているチームが相手チームにボールを奪われないように,チンタラとディフェンスがパス回しをしている姿ほど,見苦しいものはありません。

 「パス回しだって,簡単じゃないんだぞ」という反論も予想できます。

 「お客さんを退屈させるプレーが,どうしてサッカーでは通用するのでしょうか?」と聞きたくなります。

 蹴られてもいないのに倒れて痛がるインチキプレーなど,「サッカー嫌い」になる理由にはいろいろなタイプがあるのでしょうが,私は,相手にボールを渡さないという「卑怯なプレー」を日本人は最も嫌う民族の1つだと思っていました。

 野球にも,首位打者が取れそうな仲間のために,敵チームの競争相手を全打席敬遠してしまうとか,許しがたいプレーがあります。しかし,敬遠という作戦は,相手に得点のチャンスを与えるプレーでもあり,サッカーの「ボール廻し」とは違います。

 私はサッカーのことはあまり好きではなくても,日本のチームが負けて「ざまあみろ」と言われるのは嫌です。

 プレーを見ていて,ベンチの指示への「抵抗感」をパスで示していた選手がいたことは救いです。

 でも,こういう人というのは,二度と「使われなくなる」運命にあることも知っています。
 
 私の次の試合への興味には,その選手が使われるかどうか,という点があります。

 「監督の指示に反発する」姿の方が,私にとってかなり「道徳的」なのですが。

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「キレる親」をどうするか

 「キレる人間」を容赦なく攻撃できる時代になった。

 しかし,現実の社会では,直接的な行動は取りにくい。

 目の前で,親が異常な勢いで子どもを叱っている場面を見たとき,人はどう思うだろうか。

 親に注意できる人間がいるだろうか。

 子どもに優しい言葉をかけることができる人はたくさんいるかもしれないが,

 「異常な怒り」に震えている大人にかける言葉を持っている人は多くはないだろう。

 隣の家で,激しい子どもの泣き声と,親の怒鳴り声が聞こえてきたら,どうすればいいのだろう。

 
 一昔前は,「すぐにキレる教師をどうしたらいいか」と悩む管理職,同僚,子ども,保護者が多かったが,

 今は,すべての教育関係者が「非難される」ことを避けるために,「おとなしく」なっている。
 
 その逆の作用なのだろうか,教師のかわりに「親」がキレ出している。

 今の「親」は,「キレている教師」を見て育っている世代であるから,

 「キレる親」の「産みの親」は,その親と教師なのかもしれない。
 
 私が「キレる教師」になったのは,親と教師と部活のコーチのせいだ,と言い訳したいわけではないが。


 「キレる親」と「つぶされる子ども」というエピソードを学校側が流せるようになるには,

 「あんたはキレないんだな」という恫喝に屈しない覚悟が必要である。

 
 「キレる親」とは,正面から「対立」する必要がある。

 (「キレる子ども」とも同様であるが)

 「対立」から「協調」に転換できる材料がいくらでもあるのが「教育現場」というところである。

 「教育現場」は,人間の「信用」を,人間と人間との「信頼」関係によって生み出せる場である。

 「自由と制限」「不易と流行(維持と変化・発展)」という尺度をもって,「二項対立」ではなく,

 「よいよい生き方」ができる「よりよい社会」の実現に向けて,「自由も制限も大事」などといった

 共通の価値観を獲得していく場である。

 
 「対立」から逃げない教師の覚悟が親に伝わり,家庭の教育力も向上することを願いたい。

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子育てが上手くいかないのは当たり前

 子育てが満足にできない「親」が増えていると嘆く,自分も子育てが上手くいっていない教師がいる。

 「お互い様」である。

 誤解を招くかもしれないが,私のそれほど広くなく長くない教員生活で,「子育てが上手くいっている」ように見える教師の子どもはとても少なかった。「問題児」もいたし,「不登校」もいた。

 教師という職業が,いかに「過酷」なものかがわかる話かもしれない。

 教師だけでなく,医者も特に子育てに苦労しているように見える。

 「背負っているもの」の重さが違うからだろうか?

 私のある友達の親は弁護士だったが,友達の日常的な行動から,明らかに「失敗」の域に達していたし,裁判官の親は,子どもの言うことしか聞かなくて,教師の話に耳を傾けようとはしなかった。

 芸能人の子どもは頑張っていたが,子育てに苦労するというより,親自身が自分のことに精一杯で,そのおかげで自立できたのでは,という「成功例」もある。

 親の思い通りに子どもは育たないもの。

 自分もそうだった。私の父親は,教師になることに反対していた。

 母親は,自分の親(私の祖母)と姉が教師だったせいもあるかもしれないが,別に反対はしなかった。

 毎日のように,犯罪者の容姿が映像で晒される。ときどき,「肉親の声」として,親がインタビューにこたえている場面も報道される。「子育てに失敗した人間」を晒し者にする「演出」によって,社会全体を覆う不満を抑えようとしているのだろうか。

 ときどき,「家庭を大事にしている」ことを宣伝する恥知らずの教師もいるが,私の職場にはそんな人間がいないので助かる。

 教育は基本的に「失敗するもの」という前提から出発することが大切である。

 ただし,「失敗作」を自らの手で葬り去ったり,ネグレクトしたりするのはやめてほしい。

 人間が背負うのは「責任」であり,「他人の人生」そのものではない。

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集団による「いじめ」と個人による「いじめ」の区別がつかない人がいる

 長く教員をやっている人の中にも,集団による「いじめ」と個人による「いじめ」の区別がつなかい人がいます。

 子ども社会と同じように,職場にも教員社会にも,子どもの「いじめ」に当たるような現状は起こります。

 大人の場合,「いじめ」加害者になる側に,「罪の意識」などはありません。

 だれが悪い,何が悪い,これが原因だ,と言い切るタイプの人間には,「いじめ」が起こるメカニズムは絶対にわからないでしょう。こういうタイプの人は,たとえ自分が「いじめ」にあっても,それを「いじめ」とは捉えず,「対立」と捉えて終わりでしょう。

 「わかったつもり」でいる人間ほど,「教育」するのは難しいのです。

 学校によっては,「いじめ」は絶対に許さない,という強い決意を教師が持っていれば,それで「いじめ」が防げる,と真面目に考えている人がいます。「日本は絶対に戦争に負けない」と強く願っていれば,戦争に勝てると思っていた人たちと似ています。

 「自分はいじめを許さない態度をとっていて,それでいじめが起こってしまったのだから,自分には責任がない」という,どういう思考経路をたどっているのかわからない主張をしている人もいれば,

 「いじめはこういう原因が起こるのだから,その原因となる環境をなくしてしまえばいじめはなくなる」などという,「無人島作戦」を展開しようとしている人もいます。

 教員の世界の大きな問題は,「自分はいじめに向き合っている」などと息巻いていながら,「いじめ」に全く気づけなかったり,「いじめはないよな」などと生徒を恫喝して「いじめがないことにする」のが得意だったりする人がいることです。

 全く役に立たないような勉強を矯正したり,言いたくもない本心を道徳の授業で言わせたりすることも,相手がもし教師ではなく子どもだったら,立派な「いじめ」なのです。

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自分で自分を誠実だと言える力は必要か?

 日本の道徳教育には,欧米の常識とバッティングする部分があります。

 「誠実であろう」とする態度や気持ちが大切であることは教えますが,

 「自分は誠実である」と宣言するような姿勢は重視しません。

 そんな態度の子どもを見たら,「言葉を慎みなさい」とか,「態度で示していれば,言葉にしなくてもよい」などという声かけをします。そんなことなら,道徳なんてやる必要はない,という意見も全くその通りなのですが,「不遜な態度」というのを「大人」たちは忌避します。

 「誠実な人間なんて,いない」という前提からスタートするから,道徳教育が存在するのです。

 では,「大人」なら,そういう「不遜」な態度をとってもよいのでしょうか。

 多くの子どもが気づいていると思いますが,「道徳」でナントカしてほしいと願うのは,

 「子ども」ではなく「大人ども」なのです。

 教員の犯罪行為が報道されるたび,「先生たちは何をしているんだ」と憤慨し続けているのは子どもの方なのです。

 自分で自分を誠実だと言う必要があるのは,そんなことを信じてくれない人たちの中で仕事をしている,孤独で哀れな年寄りだけなのです。

 「あなたは誠実ではない」と言われることに耐えられない年寄りには,近くにいる人がしっかりわからせてあげないといけないのです。

 未来がこうなる,とかああなるとか,自分はわかっているんだ,なんてことを偉そうにまき散らす人間は,決して「誠実」な人間とは言えないということを。

 「オレが書いている本を読めばわかる」なんていう人間の,どこが誠実なのか,ということを。

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日本サッカーの「壁を越える力」

 セネガル戦には,大勢の日本人サポーターが駆けつけたということである。

 今大会の最大のツボは,初戦の開始早々,日本が得点を決めたことにある。

 しかし,ただラッキーなだけではなかったことが,セネガル戦で示されたと指摘する人が多い。

 2度リードされたが,どちらも追いついた日本チーム。

 試合内容としては,むしろ日本が勝っていたとセネガルのメディア関係者が語っていた。

 日本サッカーが本当に「壁を越えた」のかどうかは,ポーランド戦でわかるのだろう。

 得点がとれるパターンをしぼり,そのためのプレーをずっと狙っていたことが勝因にあるようだが,

 個人技よりもチームプレーに徹する,というスタイルが,あまり浸透しなかったのがサッカーというスポーツなのだろうか。

 私はスポーツとしてのサッカーにはほとんど興味がないから,どうしても試合後にゴミを拾う「日本人サポーターの美徳」なんていう記事に目が行ってしまう。別会場だったセネガルのサポーターも,同じようにゴミ拾いをしている姿が紹介されていた。

 ゴミを拾うために雇われている人の金も,俺たちが払ってるんだ,と言って片付けずに帰ってしまう人を責める気持ちはない。

 ただ,自分が汚した場所を自分で元通りにする,それが当たり前だ,という価値観が,学校の教員にはほしい。

 自分で乱し,崩した子ども集団を放り出して帰ってしまうような教員は,本当にいらない。

 働き方改革の意味を,もう一度考えてほしい。

 一部の教員には,自分のゴミを平気で他人に拾わせるような非道が見られる。

 残念ながら,今の教育現場の働き方改革には,「他人にゴミを拾わせる」ことへの異常な情熱を感じる。

 逆である。気づいたときにはもう遅いだろうが。

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部活動で人間性を高めた人が,教員になっていないということですか?

 そういうことかもしれませんね。

 残念ながら。

 昔は,大学で部活動に精を出していた人でも合格できたのが教員採用試験でした。

 授業に出てなくても,単位がとれたんですから。

 今は,大学で教職に必要な単位をとるのがやっとの,バイト経験もない人しか,教員になれないのでしょうか。

 いいえ,大学で真面目に授業に出て,知識や技能も指導力も高い人しか,教員になれないのです。

 ただ,部活動は,やる気がないんです。経験がないんだから,教えようもないし。

 競技経験もない顧問にしごかれて育った人たちは,不幸だった,ということでしょうか。

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チェック段階でも間違える場合,どうしたら「正しい」結果が出せるのか

 サッカーでは「シミュレーション」という用語を使っているようだが,要するに「インチキ行為」に当たる動作で自分のチームを有利に導く「技」が認知されてしまっているスポーツでは,「ビデオ判定」を望むこともないだろう。

 広いフィールドなのに,わずかな数の審判で判定しなければならないのはつらい。

 サッカーの「シミュレーション」は,私から見れば,書店やスーパーでの万引きと同じようなものである。

 判定は判定として,試合後に「シミュレーション」や「陰でのファール」が見つかった場合は,容赦なく処分してもよいと思う。

 プロ野球では,「ビデオ判定」での「誤審」というまた変わった出来事が発生した。

 どういう対策がとれるだろう。

 ビデオの台数を増やし,たくさんの角度から検証するのか。

 フィールドの審判はすべてカメラマンにして,映像をコンピュータが判定し,その結果をフィールドのカメラマンが伝える,という仕組みができるのか。

 プロにとっては,「誤審」が明日のご飯代にかかわる重大案件になる可能性がある。

 教育の世界でも,入試における「誤り」は避けなければならない大きな課題になっているが,どんなにチェックしても,間違いは生まれてしまう。

 チェックを増やせば増やすほど,確実になる,という保証はない。

 時間や労力が余計にかかっているうちに,人気がなくなる,という危険性もある。

 「チャンスは1回しかない」という緊張感と実力は,選手だけではなく,専門家としての審判や教師たちにも求められるのは当然である。選手と同様,ご飯代をかけて守り抜くものが必要である。

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«全国の「ブロック塀」問題

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
  • 人はおのれのままで在りたい。それは願望とはいえぬほどそこはかとないものでありながら、じつは最大の欲望である。人の世は、自分が自分であることをゆるさない。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より